⛅5:─3─琉球国王尚泰王は日本から祖国を守る為に清国への援軍要請はしなかった。~No.13 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 琉球王朝内では、親日派知日派は多数派で、親清国(中国)派は少数派であった。
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 軍事力を持たない弱小国の琉球王国ハワイ王国は、大国の軍事侵略とキリスト教の宗教侵略いう国家存亡の危機意識は一緒であった。
 両国が頼ったのが、近代的天皇制度軍国主義国家の日本であった。
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 2023年8月10日 YAHOO!JAPANニュース 八重山日報尚泰王の援軍要請「なかった」 石井氏、中国の宣伝戦に反論
 記者会見する石井氏=9日午後、県庁(提供写真)
 長崎純心大の石井望准教授が9日、県庁で記者会見し、琉球国最後の国王、尚泰琉球国存続のため、当時の清国に密書を送って援軍の派遣を要請したとする説について「尚泰王は援軍要請はしていない。(尚泰が書いたとされる)3通の密書は、すべて偽造の痕跡がある」と指摘した。
 石井氏によると、中国メディアによって「尚泰が清国に密使を派遣し、援軍派遣を要請した」とするイメージが流布されている。
 また、玉城デニー知事は訪中の際、琉球国への支援を求めて清国に脱出した琉球人の墓地を訪れた。このため「尚泰の密書」の件も含め、中国が今後「琉球は日本に弾圧された」という宣伝戦を活発化させる可能性が危ぐされている。
 石井氏はこの日の記者会見で、中国側のプロパガンダに反論した形だ。
 「密書」は尚泰の名義で、明治9(1976)~12(79)年にかけて作成されたとされる。
 石井氏は①尚泰は明治5年に天皇から琉球藩王に任命され、明治7年に盛大な祝宴を開くなどして喜んでいるが「密書」には強制的に藩王にされたと記され、矛盾している②「密書」にも具体的な援軍要請は記されていない③尚泰の孫が「密書」は偽造と書き残している―と説明。
 「密書」は尚泰とは無関係に、琉球の不平士族が勝手に作成したものと結論づけた。
 琉球国がしばしば「日清両属だった」と言われることについても、清国が「属国」と位置付ける国はいずれも制度上で実際の統治が及ばないことが基準となっていると強調。琉球国が清国に服属した歴史的事実はないとした。
 玉城知事が中国にある琉球人の墓地を訪れたことに対しては、琉球国の存続のため清国に援軍を要請することは現代の外患誘致罪に相当するとして「外患誘致に正当性があるようなイメージが知事の周辺に垣間見える。これが知事の本意であってはならない」とくぎを刺した。
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 戦後民主主義教育の優等生であるグローバル派の現代日本人は、民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、起きた事実を基にした現実の歴史が理解できない歴史無知である。
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 琉球を自国領として狙っていたのは、日本・清国(中国)・アメリカの3カ国であった。
 清国(中国)は、朝鮮王国を領土化しようとして日本と戦争を始めた。
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 琉球の伝統・文化・宗教・言語・その他での共通する点は、日本に数多く中国とは共通点は少ない。
 そもそも、琉球民族アイヌ民族同様に日本民族の祖先である縄文人(日本土人)の子孫である。
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 日本の琉球処分に反対して清国に援軍を求めたのは中国系琉球人と親清国(中国)派琉球人で、彼等は個人として中国大陸との間の既得権益(私益)を守る為に日本との合同=日本領ではなく中国への吸収=中国領を切望した。
 その構造は、現代にも通用する。
 当時、清国が、琉球国内の中国系琉球人や親清国(中国)派琉球人を侵略者日本から現地保護する事を大義名分として琉球王国に派兵し侵攻する事は、大国の権利として合法とされていた。
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 当時の国際情勢から、琉球王国ハワイ王国同様に自主独立国として存続は不可能であった。それは、蝦夷地のアイヌ民族でも同じ運命にあった。
 国際社会は弱肉強食の非情・冷酷・残酷で、外交には正義も信義もない。
 イギリスは、香港を見捨てたように、助けを求めてきたチベット仏教国とハワイ王国を友好国であったにもかかわず見捨てた。
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 琉球王国琉球民族が自らの未来を、日本・清国(中国)・アメリカの三カ国の何れを保護国として選択するかによって死滅か生存かの何れかに分かれ、主権を持った自主独立国として存続するという選択肢はありえなかった。
 時代は、弱肉強食の帝国主義の時代であった。
 清国(中国)を選べば、琉球民族の待っている未来はチベット仏教国、内モンゴル自治区新疆ウイグル自治区少数民族と同じく死者累々の凄惨な地獄と化していた。
 何故なら、歴史的事実として、中国共産党は顔色一つかえる事なく自国民を数千万人虐殺できる殺人集団だからである。
 アメリカを選べばハワイ王国であり、イギリスを選べばインド・ムガル帝国ビルマ王国であり、フランスを選べばインドシナ半島であった。
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 当時の日本は、前近代的弱兵の小国であったが、個人益・私益の為に日本を清国やロシア・アメリカ・イギリス・フランスなどの西洋列強に売ろうとした反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人は誰もいなかった。
 それが、日本の単一性であった。
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 2022年9月26日 朝日新聞 沖縄タイムス「沖縄はいま
 首里城を追い出された最後の琉球国王
 尚泰の息子、尚典の葬列。ひつぎを安置したみこしや、カンカン帽をかぶった県民の姿が確認できる。尚泰の葬列もほぼ同じ様式だったとみられるという=1920年9月26日、現那覇市首里の玉陵付近(那覇市歴史博物館提供)
 安倍晋三元首相の国葬が27日に迫った。121年前に最後の琉球国王尚泰(享年59)が死去した際には商店や芝居が休業したという。琉球処分首里城を追い出され、東京での生活を命じられた尚泰。貸し切り列車と船を乗り継いだ「無言の帰県」を、当時の沖縄県民はどう迎えたのか。
 尚泰の葬儀は、当初は都内で営む案もあったが、親族や元臣下の強い希望で沖縄開催が決まった。
 琉球王国時代は国王の死去で「士族は50日、平民は25日」喪に服する慣習があった。だが、時代は王国ではなく沖縄県。当時の奈良原繁知事は「なにぶん指図致しがたく候に付き、各自謹慎を旨とするよう」指示し、商店や芝居が休業した。
 王府の歴史に詳しい故真栄平房敬氏は「首里では送葬当日まで一般の人も自主的にほとんど喪に服していた」と記している。
 尚泰の亡きがらは1901年8月29日、尚家邸(旧中城御殿跡、現那覇市首里)を出発し、歴代国王が眠る玉(たま)陵(うどぅん)まで運ばれた。葬列は警部巡査を先頭に、警護を挟みながら馬、僧侶、士族、親族、ノロなどが続いた。沿道には一般県民が詰めかけた。制服を着た沖縄師範学校生も並んだ。
 葬儀は尚家主催だったが、多くの職人が「無料奉仕」したとされる。ひつぎを安置するみこしを新調する大工や漆塗り師、玉陵の墓室を開閉する石工や左官などだ。
 真栄平氏の調査によると、無料奉仕は尚泰の息子の代まで。那覇市歴史博物館の主任学芸員、伊集守道さんは「王国時代から時がたち、民心が薄れていったのだろう」と話している。(沖縄タイムス
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 一般社団法人 琉球歴史文化継承振興会 /
 わたしたちの歴史 その四
 琉球王国最後の尚泰王琉球処分
 1853年、5月26日にアメリカのペリー提督率いる4隻の軍艦が那覇港沖に停泊しました。尚泰王は、この時まだ若かった為に代理の摩文仁按司が交渉にあたりました。
ペリーは沖縄を占領し人民を解放すれば、日本の開国を迫る足場になると考えていたようです。
 しかし、首里城に来て会談を重ねていくうち友好関係が結べると判断した彼は、7月半ばには琉球を後にして江戸に向かう事になります。
 これが日本国中を大騒動に巻き込んだ浦賀沖の黒船来航です。  
 翌年日米和親条約が結ばれ、一行は又那覇に帰ってきました。 そして、米琉修好条約が締結されます。
 1871年、日本で廃藩置県が行われ、それに伴い琉球は鹿児島県の管轄下に置かれるようになります。
 その後、続いていた琉球の王朝制度が問題になり始め、1872年、琉球国から琉球藩に。尚泰王華族になり、琉球藩王という地位になって外国との交渉を禁止されました。
清国への朝貢は差し止められ、王は東京移住を言い渡されます。
そして首里城を開け渡し王府は解体する事を通達されました。
 1879年、大日本帝国政府は500名弱の部隊で首里城に乗り込み沖縄県設置を宣言し、3月31日には尚泰王首里城を明渡し東京に連行され、沖縄を離れる事になり、長い間続いた琉球王国独自の歴史は、ここで強制的に幕を閉ざされました。
この一連の事件を琉球処分と呼びます。
 この時最後まで、按司や親方職に就いてた者の中で琉球処分に反対し、抵抗した人達もいました。
 当時の清国に助けを求め亡命した者もおり、また国際社会に働きかけました。清国も一度は大日本帝国政府に抗議がありましたが、それからの救援は無く、琉球王国が再興される事は無く処分を迎えました。
 日本の県、沖縄県としての新しい立場
 琉球処分後は、琉球沖縄県となりましたが、沖縄県民が他の県の県民と同じ国民としての権利を得るまでには、時間がかなりかかりました。
 沖縄県各地で旧制度廃止や他県との不平等などの制度改善を求めて県庁職員だった謝花昇を中心に運動が盛り上がり、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、本土から遅れて施行されました。
 その後、大日本帝国政府による沖縄県皇民化計画は進められ、1890年には皇国史観を養うことを目的に沖縄各所にあった御獄は神社として整理され、拝殿や鳥居をつくり神道の布教が行われました。
 1898年には徴兵令も施行されました。
 1920年南洋諸島が日本の委任統治になると、多くの沖縄県民が移住し、ハワイやブラジルなどへの移民が盛んになりました。
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 日本大百科全書(ニッポニカ) 「尚泰」の意味・わかりやすい解説
 尚泰 しょうたい (1843―1901)
 琉球(りゅうきゅう)王国最後の国王。天保(てんぽう)14年7月8日、尚育(しょういく)の次男として生まれたが、長子早世のため1847年(弘化4)弱冠4歳で王位に上り、1866年(慶応2)中国皇帝の派遣した趙新(ちょうしん)らの手で冊封(さくほう)を受けた。農村の疲弊や王府財政の逼迫(ひっぱく)、異国船来航など、その治世は内憂外患に明け暮れ、やがて琉球所属問題の難局に直面した。1872年(明治5)「琉球藩」設置に伴い「琉球藩王」の称を明治政府より与えられ、1879年には、軍隊、警察を投入して王宮首里城の明け渡しを命ずる政府の要求に屈し、臣下とともに城を出て長い王国の歴史に終止符を打った(琉球処分)。その後、侯爵となり、東京に屋敷を与えられて住んだ。明治34年8月19日死去。歴代国王の眠る玉御殿(たまうどぅん)に安葬された。
 [高良倉吉]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
 百科事典マイペディア 「尚泰」の意味・わかりやすい解説
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