🎶09:─1─アメリカは日本征服の「オレンジ計画」を策定した。ハワイ事変。大正8(1919)年。~No.14No.15 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 東郷平八郎とハワイ事変。
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 ハワイは、戦争に縁のない平和な国、南海の楽園であった。
 ハワイ王国は、親日知日であり、親皇室でもあった。
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 歴史的事実として、日米戦争は太平洋の覇権をめぐる避けられない戦争であり、太平洋戦争の前哨戦はアメリカのハワイ侵略であった。
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 日本は、有色人種・非キリスト教で唯一の独立国であり、植民地先住民にとっての希望の星であった。
 軍旗である旭日旗は、アジア太平洋の希望の光であった。
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 親日知日はハワイ王国、台湾、ポーランド、インドで、敵日反日アメリカ、中国、ロシア、朝鮮、ドイツであった。
 その時、その時代の国益・経済・貿易・軍事(対ロシア戦略)で親日知日と敵日反日とコロコロ変わったのが、イギリス、フランス、オーストラリア、カナダであった。
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 愛知千年企業 大正時代編
 「大恐慌の次は震災」の時代を生き抜いた
 名古屋商人群像
 著者 北見昌朗

 大正8年(1919)
 アメリカが対日戦を想定した
 オレンジ計画を立案
 「オレンジ計画」という言葉を聞くと、美味なオレンジを想像するかもしれないが、事実は全く違う。アメリカが日本を仮想敵国とし、その戦争計画を練り上げた。それを「オレンジ計画」というのだ。
 アメリカは、各国と戦争に陥った場合を想定して戦争計画を立てていた。それは「カラーコード戦争計画」と国防省内で呼ばれていて、対日本の場合は「オレンジ計画」と名付けられていた。
 このオレンジ計画は大正8年(1919)に非公式に立案され、13年初頭に陸海軍合同会議で採用された。
 第一次世界大戦の結果、日本は大戦以後、大国として位置付けられるようになったが、存在感が大きくなるにつれ、アメリカから警戒心をもたれるようになった。大統領ウィルソンは、対中国への二十一カ条の要求が明らかになると、強硬に抗議してきた。ウィルソンは人種差別意識が強かったと言われている。そして、アメリカにおいて排日法の制定につながっていった。
 このオレンジ計画では、次のように戦争を想定していた。
 「日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する」
 つまり日本は、アメリカの思惑どおりに挑発されて真珠湾攻撃を行い、計画どおりに敗戦に追い込まれたわけである。
その頃、日本は…秋山真之が死去。「米国と事を構えるな」と遺言
 秋山真之国立国会図書館蔵)
 このオレンジ計画が立案され始めた大正8年(1919)の前年である7年に亡くなったのは、日露戦争日本海海戦の立役者・秋山真之だ。
 真之は、大正6年5月に虫垂炎を患って箱根にて療養に努めたが、大正7年に再発。悪化して腹膜炎を併発し、2月4日、小田原の対潮閣で死去した。享年49歳であった。
 真之は、明治41年(1908)に海軍大佐となり、大正2年には海軍少将に昇進するなど活躍の舞台を広げた。
 そして晩年になると霊研究や宗教研究に没頭した。軍人の信仰者が多かった日蓮宗に帰依するとともに、神道研究を行い、皇典研究会を設立した。亡くなる直前にも教育勅語や般若心経を唱えていたという。
 真之の臨終の地は、小田原にある友人「山下亀三郎」の別荘だった。大正7年2月4日、真之の腹は異様に膨れ上がり、黒い血を幾度となく吐き、いよいよ危篤に陥った。午前3時頃、邸内に待機していた見舞客を病室に招き入れて、最期の挨拶を行った。「皆さん、いろいろお世話になりました。これから独りでいきますから」と語り、このあと、真之の遺言が始まった。苦しそうに息を継ぎながら、それでも激しい口調であった。
 「今日の状態のままに推移したならば、我が国の前途は実に深憂すべき事態に陥るであろう。総ての点において行き詰まりを生じる恐るべき国難に遭遇せねばならないであろう。俺はもう死ぬるが、俺に代わって誰が今後の日本を救うか」
 「これからの戦争は飛行機と潜水艦の時代になる。だから諸君は、飛行機と潜水艦の研究をされたい。それからアメリカと事を構えると日本は苦境に追い込まれる」
 この真之が長生きしてくれたら、その後の日本はどうなっただろうか? アメリカを相手に戦うことを主張した若手将校を一喝したに相違ない。そうなれば太平洋戦争に突入することはなかったかもしれない。そう思うと残念でならない。
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 発刊に寄せて
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2022-01-02
🗽目次」─2─フランス革命アメリカ合衆国の建国と南北戦争ハワイ王国滅亡。重武装中立国スイス。〜No.1  * 
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 東郷平八郎ら海軍首脳部が、アメリカを主敵としての主力艦隊同士による艦隊決戦計画を策定して建艦を進めた、それが八八艦隊計画であった。
 東郷平八郎らは、アメリカによるハワイ王国侵略・ハワイを併合・ハワイ王家消滅を恐怖していた。
 アメリカは、北太平洋航路を独占する為に、ハワイに宣教師と白人移民を送り込み、ハワイ王国の経済を独占し、政治に影響力を強めていった。
 明治14(1881)年 カラカウア国王は、日本に来日し、日本を盟主とする太平洋アジア連邦の為に、明治天皇と会談した際、姪のカイウラニ山階宮定麿王との縁談を申し込んだ。ハワイを日本と合邦させて日本の一部とし、女系継承から日本人皇族の子供をハワイ国王に即させようとした。
 明治天皇と明治政府は、対ロシア戦に備えてアメリカとの対立を避けるべくハワイ王家との国際結婚を断った。
 ハワイ民族の不幸は、アメリカの宗教・経済・軍事による侵略から王家と王国を守るだけの強力な軍隊を持っていなかった。
 明治26(1893)年 宣教師の子弟やアメリカ人を中心とした白人移民はクーデターを起こし、アメリカ海軍の海兵隊の協力をえてハワイ王国を崩壊させ、翌年には先住民のハワイ人や日本人移民を排除したハワイ共和国の樹立を宣言した。
 明治31(1898)年 ハワイ共和国は、憲法に従い、アメリカ軍の支援を受けてハワイ王家信奉者・ハワイ民族主義者・反米派らの王政復古蜂起を武力鎮圧した。
 アメリカは、ハワイ市民の選挙に従いハワイを併合した。
 アメリカは、日本をアジア・中国市場から排除する為に「オレンジ計画」を策定した。
 明治43(1910)年 韓国併合に関する条約。日韓併合
 大正8(1919)年。 オレンジ計画の為に、日本海軍を弱体化するべくワシントン海軍軍縮会議(大正10年・1921年)、ロンドン海軍軍縮会議(昭和5年・1930年)、ジュネーヴ海軍軍縮会議(昭和7~8年・1932~33年)が開催され、東郷平八郎艦隊派は猛反対した。
 東郷平八郎軍国主義者は、ハワイ王国の終焉は天皇制度国家日本の未来と怖れた。
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 日本人は、中世キリスト教会・イエズス会伝道所群や白人キリスト教徒商人によって奴隷にされていた。

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 通説の日本史、最大の落とし穴「オレンジ計画」
 日本征服を狙ったアメリカの 「オレンジ計画」と大正天皇
 著者:鈴木荘一 (計517ページ)
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 あなたは太平洋戦争の認識で
 こんな間違いをしていませんか?
 「日本が行なった卑怯な真珠湾攻撃が、太平洋戦争のすべての元凶だ」
 「太平洋戦争の終盤、アメリカは日本を追い詰めるために、
 いきなり計画を立てて東京大空襲を行なった」
 「太平洋戦争を終戦させるために、原爆の投下はやむを得なかった…」
 実は教科書でも教えられるこれら3つは、ぜんぶ間違っています。
 なぜ間違いと言えるのでしょうか...?
 その証拠は、戦後50年という長い間、
 アメリカがひた隠しにしてきた「オレンジ計画」にありました。
 1897年にアメリカが作った「オレンジ計画」の存在を知れば、
 本当の日本史がいかにアメリカにとって不都合であるかわかってもらえると思います。
 今回は特別に、30年以上も「オレンジ計画」について研究をしている
 鈴木荘一先生の史料に基づいて、「オレンジ計画」の内容を公開します。
 この内容を知ってしまうことで、あなたが今まで学んできた戦後史の認識が180度変わってしまかもしれません…
 なので、真実を知る勇気がある方のみ、続きをお読みください…
 日本を滅ぼすための指針?
 1897年に完成していた「オレンジ計画」
 「オレンジ計画」。
 これを一言でいうと、アメリカが日本を侵略するために作った戦争計画書。
 まだ日露戦争が始まる7年前の1897年…
 当時のアメリカの大統領であったセオドア・ルーズベルトが、極秘に完成させたのです…
 そして、この「オレンジ計画」は40年の時を経て、大統領から大統領へ密かに受け継がれていきます。
 ではいったい、この計画書にはどんなことが書かれていたのでしょうか?
 驚くべきことに、そこに書かれた内容は、実際に太平洋戦争で起こされた数々の作戦に、ピッタリ一致しています…
 その内容はというと・・・
 セオドア・ルーズベルト
 全てはアメリカの計画通りだった太平洋戦争
 「真珠湾攻撃
 一般的に、太平洋戦争の始まりと言われる日本が仕掛けた「真珠湾攻撃」。
 実は、この真珠湾攻撃から始まる一連の大戦(ミッドウェー海戦ガダルカナル島の戦いなど)は、1907年にはアメリカが構想していたものでした。
 実際に、セオドア・ルーズベルト大統領は当時、米軍の艦隊に世界1周航海という名の予定戦場調査を指示。
 その行く先々や海路が実際の戦場と一致していたのです。つまり、30年以上も前に、ルーズベルト大統領によって、密かに対日戦争の戦場は決められていたのでした。
 「東京大空襲
 1942年、東京の都市部を狙ったアメリカによる無差別爆撃…
 この大空襲では、約8万人以上の国民が犠牲になったと言われています…
 もちろんこの大空襲も、アメリカがいきなり計画したものではありません。
 これは、空襲を計画したウィリアム・ミッチェル准将が、1923年の段階で構想に織り交ぜていました。
 その証拠に、同年、日本で起きた関東大震災の際、アメリカは救助隊という名目で調査団を派遣し、彼らが調査した被害レポートから東京大空襲が提案されたという記録が残っているのです…
 つまり、アメリカは、あろうことか震災から着想を得た作戦も計画していたのでした…
 「原爆」
 1945年8月6日と8月9日、日本に起きた最大の悲劇。
 これは、「日本に徹底的なダメージを与えて屈服させる」というオレンジ計画の大方針に則り、戦争の勝敗に影響がないのにも拘らず実行されました。
 実際に、ハリー・トルーマン大統領の大統領記録には、「原爆が使用されていなかったとしても、8月に終戦予定だった」と記されています…
 オレンジ計画研究家の鈴木荘一氏は、「原爆は1906年版オレンジ計画を実行に移したものである」とオレンジ計画の記録からその犯行を読み解いています…
 今回あなたにお伝えしたことは、「オレンジ計画」のほんの一部に過ぎません。
 他にも、日本を苦しめた経済制裁である「ABCD包囲網」や、日本とイギリスを分断することになってしまった「日英同盟破棄」なども、オレンジ計画の一部だったのです…!
 そして軍事関係者の間では、「オレンジ計画は、あらゆる軍事計画の中で最も秀抜である」と高く評価されています。
 40年以上、アメリカの大統領から大統領へ受け継がれてきたこの計画は、その間に研究を重ね、何度か改訂も挟んでいます。
 つまり、あの大国アメリカが何十年も研究を重ね、試行錯誤を続けた「オレンジ計画」は、まさに完璧といえる戦争計画書だったのです…
 アメリカが日本人には知られたくない
 太平洋戦争の真実
 あなたはどう思いましたか?
 まだ日露戦争の7年前...
 日米の対立も起きていない1897年から、真珠湾攻撃...東京大空襲...原爆投下などの信じられない計画は始まっていたのです。
 つまり、アメリカは元から日本と戦争をする気満々だったことがお分かりいただけたのではないでしょうか。
 通説では太平洋戦争について、日本の真珠湾攻撃から始まったこととされています。
 しかし、それすら何十年も前から計画されていたシナリオの1つに過ぎませんでした。
 ですが、このような重大な事実は一般的にはほとんど知られていません…
 オレンジ計画について、近代史研究家の鈴木荘一先生はこう言います。
 「太平洋戦争は日本が一方的に悪かったわけではない」という事実を知っている人は多くなってきていると思いますが、「オレンジ計画」の存在、ましてやその内容を詳しく知っている人はそう多くはないと思います…
 なぜなら、アメリカが「オレンジ計画」の内容を公にしたのは、戦後から50年も経った平成6年(1994)だからです。
 また、その後に「オレンジ計画」に関する書籍も日本に3冊だけ流通していましたが、短い期間で絶版になっており、世に浸透するには至りませんでした。
 だから、今の日本人は正しい過去を知ることができず、知らず知らずのうちに、アメリカが作り上げた「ウソの歴史」に洗脳されてしまっているのです…
 「アメリカが戦前の日本の悪いところを正してくれた」と思いこみ、現在でも、そんなアメリカにいつまでも従属するような関係を続けていることにも疑問を持てなくなくなっているののが現状です...。
 今の政治や歴史に関心がある人は、「同じ過ちを繰り返さないためにも過去から学ぶ」とよく言いますが、学ぶ過去が間違っていたとしたら、、、当然「今」も「未来」も間違った方向に進んでいってしまうのではないでしょうか?
 そこで今回、多くの日本人にアメリカが隠した歴史の真実を知っていただきたいという想いから、近代史研究家の鈴木荘一先生と共同で1冊の本を復刻しました。
 復刻した書籍名は、『日本征服を狙ったアメリカの「オレンジ計画」と大正天皇』です。
 この書籍は、平成7年(1995)にいち早く「オレンジ計画」の存在に気づき、30年以上研究を続けている、近代史研究家の鈴木荘一先生の集大成とも言える書籍です。
 『日本征服を狙ったアメリカの「オレンジ計画」と大正天皇
目次
第一章 太平洋の遠雷ー15
 日露戦争の傷跡/廃兵の困窮/日露戦争後の日米の阻隔=日系ハワイ移民排斥論の登場/ハワイ王国アメリカ人と日本人/ハワイ王国の人口減少/ハワイ王国と日本の親善/ハワイ併合/日米相克の構図=日本人移民排斥論の背景/アメリカという難問/アメリカの原罪/諜報国家ドイツの暗躍/二重人格の国ドイツ/ドイツの都合/ドイツの野望
第二章 オレンジ計画ー73
 オレンジ計画策定の背景/日露開戦七年前の一八九七年にセオドア・ルーズベルト海軍次官が「オレンジ計画」を策定/セオドア・ルーズベルトの実像/マハンの実像/セオドア・ルーズベルトとマハンがアメリカ海軍強化を推進/「一九〇六年版オレンジ計画」-日露戦争直後/サンフランシスコ日本人学童隔離問題/「一九〇七年版オレンジ計画」とアメリカ艦隊の太平洋巡航/「一九一一年版オレンジ計画」-第一次世界大戦の三年前/「一九一四年版オレンジ計画」-日本人移民排斥運動と連結/フランクリン・ルーズベルトが「一九一四年版オレンジ計画」を実戦的軍事計画へバージョンアップ/「オレンジ計画」は第一次世界大戦で最大矛盾に直面/日本は第一次世界大戦日英同盟に基づき英米陣営に参加/マハンが黄禍論を梃子に日英同盟を破棄を働きかけていた/「一九二三年版オレンジ計画」-オレンジ計画はほぼ完成/「オレンジ計画」の休眠-一九二四年〜一九三三年/フランクリン・ルーズベルト大統領が「一九三六年版オレンジ計画」を策定/「オレンジ計画」への懐疑-一九三七〜一九四〇年/合衆国艦隊司令官リチャードソン大将は太平洋戦争を回避しようとした/フランクリン・ルーズベルト大統領が「オレンジ計画」を断行-一九四一年(昭和十六年)
第三章 帝国国防方針ー207
 帝政ロシアの重圧/野津第四軍参謀長上原勇作少将の憂鬱/対ロシア戦備(カーキ色軍服と師団増設計画)/アメリカ艦隊(グレート・ホワイト・フリート)の来航/日本海軍の宿命(幕府海軍の創設)/アメリカ海軍の増強/日本海軍の「八・八艦隊」整備計画/「帝国国防方針」の策定/「帝国国防方針」による日本陸軍の意思統一
第四章 政党政治の開幕ー235
 日露戦争後の財政窮乏/明治政権の租税構造/第一次桂内閣と日露戦争/西園寺公望の登場(第一次西園寺内閣)/桂園時代とは何だったのか?/第二次桂内閣の財政再建努力/第二次西園寺内閣と二個師団増設問題/二個師団増設問題をどう考えるか?/第三次桂内閣がようやく成立/第一次護憲運動による大正政変で第三次桂内閣が倒れる/山本権兵衛内閣が政友会と組んで海軍を増強/大隈重信の再登場/(第二次大隈内閣)/第二次大隈内閣が総選挙に勝利して二個師団増設案を可決/第二大隈内閣は「統帥権」を内閣へ取り込んだ/日本海軍の完成/第二次大隈内閣は日英同盟に基づき第一次世界大戦に参戦/第二次大隈内閣が「オレンジ計画」を封じ込める/第二次大隈内閣が日本陸海軍のトラウマを軽減させる/第二次大隈内閣が経済財政問題を一挙に解決
第五章 伊藤博文遭難と韓国併合ー319
 韓国初代統監伊藤博文の遭難/半島の地政学=ランドパワーとシーパワー/東学党の乱/日清戦争による朝鮮独立/独立からの逃走(三国干渉)/臥薪嘗胆/ロシア陸海軍の韓国進出/山県有朋伊藤博文のロシア観の相違/日露開戦と第一次日韓協約/日露戦争終結と韓国の保護国化/伊藤博文満州撤兵論/韓国併合
第六章 老害としての山県有朋ー359
 山県有朋の老残/山県有朋原敬の愛憎/山県有朋の心象風景の原点/下関戦争という日英間の誤解/下関戦争に関する日本側の二つの見解/山県有朋の軍事外交思考/山県有朋の第二次大隈内閣に対する不満/山県有朋加藤高明の「外交基本方針」の対立/第二次大隈内閣に対する山県有朋の理念なき反発/第二次大隈内閣に対する山県有朋の倒閣運動/寺内正毅内閣の対中国外交の失敗/山県有朋寺内正毅内閣の対中国外交を批判/寺内正毅内閣のシベリア出兵/石井・ランシング協定/陸軍大将寺内正毅の実像/補給戦専門家としての寺内正毅/寺内正毅内閣は米騒動により退陣/山県有朋は耄碌(もうろく)しているのではないか?/原敬内閣が山県外交を継続/原敬内閣・高橋是清内閣は「シベリア出兵」から撤兵せず/高橋是清内閣がワシントン会議日英同盟を廃棄/外務大臣内田康哉
第七章 大正天皇山県有朋の暗闘ー439
 明治天皇山県有朋/大正天皇は皇太子の頃から山県有朋を嫌い大隈重信を頼した/嘉仁皇太子の実像/大正天皇の即位/大正天皇大隈重信英米協調外交を支持/大正天皇山県有朋に辞任を勧告/遠眼鏡事件/「宮中某重大事件」による山県有朋の失脚/大正天皇の無念
補論 大正陸海軍の軍縮ー477
 大正海軍の良識/山梨軍縮/宇垣軍縮による装備近代化/配属将校の苦渋/解散部隊将校の不満/青年将校と連隊の紐帯/ドイツ式士官教育と昭和軍国主義/昭和初期の青年将校運動とは何だったのか?/日本陸軍は太平洋戦争を「日露戦争の戦術」で戦ったか?/「それでも日本人は戦争を選んだ」のか?/東京裁判史観の呪縛
 日本征服を狙ったアメリカの「オレンジ計画」と大正天皇
 著者 鈴木 荘一
 近代史研究家/
 幕末史を見直す会代表
 著者プロフィール
 昭和23年生まれ。
 昭和46年、東京大学経済学部を卒業。
 同年、日本興業銀行へ入行。特に企業審査、経済・産業調査に詳しく、的確な分析力に定評がある。
 平成13年、日本興業銀行を退職。計30年間勤務する。
 現在は、近代史研究家・作家としての活動に力を入れている。
計24冊以上の著書を執筆
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 オレンジ計画(オレンジプラン、英: War Plan Orange)とは、戦間期1920年代から1930年代において立案された、将来起こり得る日本との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である。 カラーコード戦争計画のひとつであり、交戦可能性のある当時の五大国を色分けし計画されたものである。
 計画は1906年の非公式調査から始まり、当時は様々な想定がなされていた。最終的な案は1911年にレイモンド・P・ロジャーズによって考案された。1924年初頭に陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)において採用された。

 概要
 カラーコード戦争計画は連合国対枢軸国を仮定したレインボー・プランに先行した計画であり、その中でオレンジ計画はアメリカ合衆国が日本のみと戦う場合に基づいて研究され続けていた。
 1898年(明治31年)の米西戦争によりフィリピン、グアムを獲得したアメリカが西太平洋をそのまま西進して行き着く方向には、日本が1894年(明治27年)の日清戦争により朝鮮半島を含め大陸へと進出し始めていた。
 わずか半世紀前にマシュー・ペリー率いる自国の東インド艦隊が訪問して開国させた日本が、富国強兵策を取って中国へ進出してきたことは、米西戦争を終えたアメリカにとって潜在的な、しかし警戒すべき問題となっていた。この頃からアメリカは対日本戦争計画の研究作業を開始する。
 1905年(明治38年)に日露戦争終結すると中国問題が日米間で重要問題と化し、両国間の緊張が高まる。アメリカは日本を仮想敵国とした戦争計画の策定に本腰を入れ始め、一連のカラーコード戦争計画の一つであるオレンジ計画が誕生する。これらカラーコード戦争計画は、後のレインボー・プランとは異なり基本的に一国対一国の戦争を想定しており、外交関係や集団安全保障に関して考慮されていなかったのだが、オレンジ計画では初期の頃より『日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する』という日米戦争のシナリオを描いてシミュレーションされ、実際の太平洋戦争もこれに近い経緯を辿っていく。日露戦争の最中、第一次世界大戦といった日本と協調関係にあった時期でも、対日本戦争計画、オレンジ計画は研究され続けていた。

 日本側の想定
 日本でもアメリカの第2案での日本側想定と同様な戦争計画を構想していた。第一次世界大戦後の1923年(大正12年)に改定された帝国国防方針では仮想敵の第一にアメリカが挙げられ、総力戦を戦うための物資の供給地(後方支援基地)として中国を確保し、アメリカ軍とは「漸減邀撃作戦」、つまり諸外国に比べて異例の大きさと航続力を持つ一等潜水艦や、太平洋の島嶼基地に展開した長大な航続力が特徴の(そのため爆弾搭載量や防御力を犠牲にした)陸上攻撃機によって、優勢なアメリカ艦隊が太平洋を西進してくる間に徐々にその戦力を低下せしめ、日本近海に至って戦力的に互角となってから主力艦隊同士での「艦隊決戦」に持ち込んで、最後には大和型戦艦など兵器の質的優位により勝利するというのが対米戦の方針であった。
 ロンドン海軍軍縮会議において日本が求めた海軍比率70 %(米10:英10:日7)の根拠も、太平洋を横断するアメリカ艦隊を漸減邀撃で削るために必要な補助艦の戦力であり、この比率が「決戦海域」における日本艦隊の優越性をもたらすものと日本側は考えていた。アメリカも、日本側にとって70 %の優位性は攻撃の成功にあたり必須であるだろうと考え、日本側に対し60 %の比率を主張している。
 誤算
 アメリカの戦争立案者たちは潜水艦と航空活動の技術進歩がマハンの学説を時代遅れにしていることを正しく評価することができなかった。特にアメリカの立案者たちは航行中に回避行動が取れる戦艦を航空機で撃沈できる可能性や、日本の空母機動部隊がアメリカ艦隊の戦力を削るどころか真珠湾攻撃でなされたように遠路、戦列である艦隊を一挙に活動不能に陥らせるほどの打撃力を持つことについて、理解しなかった。
 アメリカの計画は、真珠湾攻撃を受けて変更された。しかし緒戦のアメリカをはじめとする連合国軍の敗北とミッドウェー海戦での日本の敗北、そしてその後も続いたアメリカをはじめとする連合国軍の敗北の中でさえ、米艦隊は秩序立った「島から島へ」の前進を好み、陸上基地からの航空支援という範囲を大きく越えることは全くなかった。
 一方、日本海軍も日本海海戦さながらの「艦隊決戦」に執着し、対潜水艦戦の必要性と通商路確保の持つ死活的な役割を無視した。対潜水艦戦の必要性は、ドイツの連合国船団に対する、およびアメリカの日本護送船団に対する、潜水艦による通商破壊作戦でまざまざと示されることになった。1943年半ば以降に体勢を立て直したアメリカやイギリスの作戦により、その後日本の船団は壊滅的な打撃を受け、最終的に日本の工業生産は阻害された。日本は反通商破壊作戦を用意することにも明らかに失敗した。
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ハワイ王国滅亡。
2018-08-05
🗽22」─1─太平洋赤道以北のポリネシア人は渡り鳥に導かれて北上してハワイを発見しカナカ人となる。人・鳥・イルカにおける睡眠の違い。~No.85No.86No.87・ @ 
  ・  ・  
2018-08-06
🗽23」─1─宣教師の子弟は、ハワイを白人キリスト教徒の島にするべく、ハワイ王家を改宗させ、ハワイ民族の宗教と文化と伝統を破壊した。1819年~No.88・ @ 
2021-06-27
🗽23」─2─独仏戦争(普仏戦争)と日本の中立宣言。1870年~1871年。~No.89No.90 
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2018-08-09
🗽23」─3─カラカウア国王は、ハワイ王国アメリカの侵略から守る為に日本皇室との姻戚関係と日本国家との同盟を希望した。1871年~No.91No.92No.93・ @ 
2018-08-11
🗽23」─4─カラカウア国王は、誠意と信義を重んじ死んでも約束を守る日本人移民とハワイ人を融合させて祖国を守ろうとした。1882年年~No.94・ @ 
2021-12-23
🗽23」─5─知られざるハワイ移民 広島人の開拓精神。1885年~No.95No.96 
  ・  ・  
2018-08-12
🗽24」─1─即位したリリウオカーニ女王は、表向き親米路線を取りながら、裏でイギリスに救援を要請し、そして日本人移民に期待した。1891年~No.97No.98No.99・ @ 
2018-08-15
🗽24」─2─巡洋艦「浪速」艦長東郷平八郎大佐は、ハワイ王家を支援するべくアメリカ系宣教師の子弟ら王制廃止派に抗議した。1893年~No.100No.101No.102・ @ 
2018-08-20
🗽24」─3─日本海軍は、ハワイを日本防衛の要と認識し、明治天皇の裁可を得て抗議目的で軍艦を急派した。1895年~No.103No.104No.105・ @ 
2018-08-21
🗽25」─1─米西戦争アメリカは、外交交渉でハワイ共和国を併合し、軍事力でフィリピンを植民地として40万人を大虐殺した。1898年~No.106No.107No.108・ @ 
2018-08-24
🗽26」─1─アメリカ合衆国は、ハワイ人の王家と民族を消滅させる為に、白人やフィリピン人を移民としてハワイへ送り込んだ。1899年~No.109No.110No.111・ @ 
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2020-04-22
🗽27」─1─1899年12月のハワイ黒死病事件と南アフリカアパルトヘイト。~No.112No.113No.114・ ⑪ 
   ・   ・   ・   
2018-08-25
🗽28」─1─対日黄禍論。義和団事件で、虐殺を行ったドイツ軍と救済した日本軍。西海岸諸州の日本人移民排斥運動。南部諸州の人種差別。1900年~No.115No.116 @ 
   ・   ・   ・   
2023-05-03
🗽29」─1─アメリカに侵略され滅んだハワイ王朝100年の歴史を紐解く。~No.117  ⑫  
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