🎺15:─1・B─原爆投下とは、日本人をモルモットとした爆破実験であった。ハイドパーク覚書。~No.87 

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 日本に原爆を投下し、日本人を原爆で焼き殺す事は、避けられなかった。
 その為に、昭和天皇や軍国日本が極秘で求めてきた早期降伏要望を拒絶していた。
 つまり、世界が認めれば日本は原爆投下実験前に降伏する事ができた。
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 2023年8月6日9:38 YAHOO!JAPANニュース「「手が血で最も汚れていたのは昭和天皇トルーマンオッペンハイマーはピースメーカー」米紙 終戦78年
 飯塚真紀子在米ジャーナリスト
 (提供:The National Archives/ロイター/アフロ)
 広島に原爆が投下されてから78年。
 アメリカでは、原爆を開発し、“原爆の父”と呼ばれているロバート・オッペンハイマーの伝記的映画『オッペンハイマー』が公開され、話題を呼んでいる。
 SNSの投稿を見ると、「過去10年でベストの映画」「オスカーを取るのは間違いない」など総じて絶賛する声が多く、原爆投下そのものの是非を問う声はあまり見られない。本土決戦となって日米で多数の死傷者が出る前に、戦争を終結に導いたと言われている原爆投下については、今もアメリカでは、正当化する声の方が若干ではあるが多いからだろうか。
 1945年にギャラップが行った世論調査では、回答したアメリカ人の85%が原爆投下を容認したが、原爆投下から70年経った2015年にピュー・リサーチ・センターが行った世論調査では、回答したアメリカ人の56%が原爆投下は正当な判断だったと回答。原爆投下を肯定的に捉える見方が激減する結果とはなったものの、それでも正当化する見方が過半数を超えている。
 先日、ツイッターでバービーの主人公とキノコ雲を合成したパロディー画像が拡散される“バーベンハイマー騒動”が起きたが、そのことも、アメリカでは原爆投下を正当化する見方がまだスタンダードとなっている状況を反映しているのかもしれない。
 ちなみに、同じピュー・リサーチ・センターの調査で、原爆投下は正当な判断だったと答えた日本人は15%。2016年にNHKが行った調査では、調査を受けた日本人の40%が原爆投下は不可避だったと回答し、49%が今も原爆投下を許すことができないと回答している。
 手が血で最もひどく汚れていたのは昭和天皇
 ところで、アメリカでは保守系タブロイド紙ニューヨーク・ポストが、映画『オッペンハイマー』の公開に合わせて、原爆投下を全面的に肯定するどころか、昭和天皇を批判する意見記事「“オッペンハイマー”は原爆に関する論争を再燃させるが、トルーマンの決断が正しかったことに疑いの余地はない」を掲載している。
 前述した世論調査が示すように、原爆投下を容認したり正当化したりする見方はアメリカでは時と共に減少に転じている。保守系の同紙は、映画『オッペンハイマー』が、原爆投下を正当化しなくなりつつある世論に拍車をかけるのではないかと懸念を感じたのかもしれない。
 実際、原爆を開発したオッペンハイマー自身、原爆投下による惨状を知った後、トルーマン大統領(当時)に対し「私は手が血で汚れているように感じます」と後悔の念を示す発言をしたことで知られている。そんなオッペンハイマーの発言を同紙は引用しつつ、「当時、血で汚れている手はたくさんあった。それらの手の中で、最もひどく汚れていたのは迪宮裕仁の手だった」と昭和天皇を断罪している。
 さらには、旧日本軍についても「1945年1月、裕仁の海軍歩兵はマニラでの戦いで10万人の非戦闘員を殺害した。恐ろしい出来事だが、その8年前に始まった、市民を巻き込んだ戦争と比べれば、この数は比較的控えめな数だ」とし、「1937年の南京大虐殺(30万人以上の死者)や、1942年の東京へのドゥリトル空襲後、中国に飛んだアメリカ人パイロットを援助したことに対する報復として25万人の市民が殺害された劇的な事件がある」とこれらの事件で多数の中国の人々が亡くなったと訴えている。
 東アジアでは良心の呵責はなかった
 また、戦争が長期化すれば、多くの中国人非戦闘員が殺されていた可能性があるとの試算までしている。
 「アジア太平洋戦争の専門家である歴史家リチャード・B・フランク氏は1,900万人の中国市民が死亡したと推定している。同氏は“単純計算すると、1937年から1945年までの8年間、毎日約4,000人の中国人の非戦闘員が犠牲になった”と書いている。この基準で行くなら、原爆投下後から日本が降伏するまでの間、3万6,000人(の中国人の非戦闘員)が殺されていたことになり、戦争がさらに6ヶ月続いた場合は72万人(の中国人の非戦闘員)が殺されていたかもしれない」
 もっとも、同氏はこの数について「異世界的に見えるかもしれないが」と前置きしてはいるものの、「一つ議論の余地がないのは、広島と長崎に原爆が投下された時、東アジアでは道徳的な良心の呵責が見られなかったことだ」と東アジアの国々も原爆投下を肯定的に受け止めていたと指摘している。
 加えて、「韓国人女性を組織的に性的奴隷にしたこと、市民や戦争捕虜に対する強制的な医学実験、捕虜に対して一般的に行われていた殺人的な扱いという、より小さな戦争犯罪も行われていた」と述べている。
 トルーマンオッペンハイマーはピースメーカー
 また、ヒトラームッソリーニの亡くなり方と比較し、「裕仁の同盟者であるアドルフ・ヒトラーベニート・ムッソリーニは自らが生み出した瓦礫の中で亡くなった。もし戦争が従来のやり方で終わっていたなら、裕仁も同様に瓦礫の中で亡くなっていただろう」と述べ、「しかし、原爆は落とされた。1つでは、裕仁に行動を起こさせるには十分ではなかったので2つ落とされた。そして、彼が行動を起こした時、戦争は終わった」と2つの原爆投下が終戦につながったとし、「裕仁が行動していたら、最初から戦争を防ぐことができたかもしれない」と昭和天皇の行動は遅きに失したという見方を示している。
 同紙は最後に“歴史の皮肉”について言及し、こう結んでいる。
 「歴史の皮肉の一つは、自国の人々に尊敬された裕仁が1989年に安らかに亡くなった一方、殺戮を終結させた英雄ハリー・トルーマンには今もなお道徳的な汚点がついていることだ。ロバート・オッペンハイマーにもクレジットが与えられるべきだ。ピースメーカー(平和をもたらす人)に祝福あれ」
 この意見記事の内容については、事実ではない、戦勝国アメリカの見方だと不快に感じる人も少なくないだろう。しかし、これが、今も、アメリカにおける一つの見方であることは間違いない。そして、アメリカの見方は世界の見方に通じるところもある。
 今、ウクライナ戦争が長期化する中、世界はプーチン大統領が核使用に訴えることを危惧している。太平洋戦争が長期化する中、原爆投下が当時アメリカで圧倒的に正当化されたことを考えると、長期化しているウクライナ戦争についても、ロシアは核使用を正当化する可能性があるのではないか。
 人類は2度と同じ過ちを犯してはならない。 
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 飯塚真紀子
 在米ジャーナリスト
 大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキーロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンドエズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。
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 8月11日 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「原爆は「日本人」に投下せよ…資料館に残る衝撃の「ハイドパーク覚書」 「降伏するまで繰り返し」非人道性の最たる一文も
 ハイドパーク覚書によると、ルーズベルト米大統領と、チャーチル英首相は「日本人」への原爆投下を話し合った
 【発掘・考察 大東亜戦争
 広島G7(先進7カ国)サミットで、各国首脳が訪れた広島市原爆資料館には、多くの日本人が知らない「ハイドパーク覚書」が展示されている。なぜ、広島・長崎の人々の頭上への原爆投下に至ったのか。
 その答えが記された〝一次史料〟であるハイドパーク覚書は、1944=昭和19=年9月18日、米ニューヨーク州ハイドパークで、フランクリン・ルーズベルト米大統領と、ウィンストン・チャーチル英首相の会談の内容が記されたものだ。原本は、ハイドパーク郊外にあるルーズベルト大統領図書館に保管されている。
 原爆資料館の展示はコピーだが、この覚書の中盤に重要な一文が記されている。
 《When a ”bomb” is finally available, It might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.》
(爆弾が最終的に使用可能になった時には、熟慮の後にだが、多分日本人に対して使用していいだろう。なお、日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない)
 原文は、英米首脳の合意・了解事項として、原爆投下目標は(市街地で暮らす)〝人間であり、日本人〟と明言し、〝降伏しなければ、「繰り返し」投下し〟ほぼ全滅させる趣旨を警告するとしている。〝非人道性〟の最たるものだ。
 43年5月、米国軍事政策委員会は「トラック島(=西太平洋、カロリン諸島内に位置する島々)に集結する日本艦隊に原爆を投下することが望ましい」と大半の意見としてまとめた。当初から投下目標は、原爆開発の競争相手と見なしていたドイツではなかった。
 しかし、44年2月に対象としていた日本艦隊が壊滅し、投下目標がなくなってしまった。そして9月、ハイドパーク会談で対象を人間、しかも「日本人」(「市街地・労働者・住民」)にした。彼らには、黄色人種への根深い差別意識がある。そのような意識がなければ、科学者や軍人そして政治家が、人々の頭上に直接原爆を投下するという発想にはならないはずだ。
 原爆資料館の意義深いさまざまな展示を総合すると、米国による広島・長崎への「原爆投下の目的」は、次の3つとなる。
 第1は、日本人に対して使用すること。
 第2は、原爆の開発に膨大な経費(20億ドル)を投入したため、米国内に向けて費用対効果を正当化する必要があったこと。
 第3に、原爆投下での戦争終結で、ソ連の勢力拡大を抑止すること。つまりは、戦後秩序を統制し、支配権、覇権を握ること。原爆を投下しその大量殺戮(さつりく)の威力・破壊力を見せつければ世界に恐怖を植え付け、支配できるということだ。これが現在に至るまで世界の核秩序につながっている。
 さらに、重要な点は、原爆資料館の展示では、終戦や本土上陸作戦による米軍の犠牲の回避が原爆投下の理由とされていないことだ。
 「日本人」への原爆投下を了解事項として確認したハイドパーク覚書の方針は、45年4月12日、ルーズベルト大統領が亡くなった後も変更がなく、疑問の余地のない明確化された想定だった。
■林千勝(はやし ちかつ) 近現代史研究家・ノンフィクション作家。1961年、東京都出身。東京大学経済学部卒、大手金融機関等を経て、近現代史の探究に取り組む。著書に『日米開戦 陸軍の勝算』(祥伝社)、『日米戦争を策謀したのは誰だ! ロックフェラー、ルーズベルト近衛文麿 そしてフーバーは』(ワック)、『近衛文麿 野望と挫折』(ワック)、『ザ・ロスチャイルド大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語』(経営科学出版)など。ネット番組「これが本当の近現代史」「月刊インサイダーヒストリー」などで情報発信中。
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 8月12日8:12 YAHOO!JAPANニュース「日本への原爆投下は実験だったのか?「米政府はそれを“核実験”として分類していた」米識者 終戦78年
 飯塚真紀子
 (提供:MeijiShowa/アフロ)
 広島と長崎への原爆投下は実験だったのではないか? よく耳にする疑問だ。
 原爆については、本土決戦となって日米で多数の死傷者が出る前に、戦争を早期に終結させるべく投下されたものであると言われている。しかし、そこにはまた、実験という目的も付随していたのだろうか? 
 終戦から78年。
 アメリカでも原爆に関する様々な記事や投稿が出ているが、そんな疑問に答える記事「(原爆投下から)数十年後、アメリカ政府は広島と長崎への原爆投下を「核実験」と呼んでいた」に行き当たった。著者は、メディアや政治、外交政策に関する多数の著書を執筆してきたジャーナリストで、政策研究者のための団体「インスティチュート・フォー・パブリック・アキュラシー」を設立し、米下院議員選にも出馬経験があるノーマン・ソロモン氏。同氏は自身のブログで原爆投下は実験だったとの見解を示している。
 なぜ、ソロモン氏は原爆投下は実験だったというのか?
 その答えは、「アメリカ合衆国による発表済み核実験、1945年7月から1979年12月まで」と題された冊子の中にあった。それは、1980年、ソロモン氏が、米エネルギー省の広報部に核爆弾の実験リストを送ってほしいとリクエストし、送られてきた公式の冊子だ。
 ソロモン氏はその冊子に掲載されていた核実験リストについて、記事の中でこう記している。
 「予想通り、ニューメキシコ州で行われたトリニティー実験がリストの1番目に記載されていました。リストの2番目には広島、3番目には長崎が記載されていました。広島と長崎への原爆投下から35年後、核兵器を担当している米エネルギー省は、それらを“実験”として分類していたのです」
 しかし、その後、ある時点で雲行きが変わったようだ。広島と長崎への原爆投下は、実験として分類されなくなったと、ソロモン氏は以下のように述べている。
 「その後、分類は変更されました。明らかに、広報上、起こりうる問題を回避しようとしていたものと思われます。1994年、同じ冊子の新版では、広島と長崎への爆撃は“設計通りに兵器が作動することを証明したり、兵器の設計を進めたり、兵器の影響を確認したり、兵器の安全性を検証したりするために行われた実験ではない“と説明されていました」
 以下は、広島と長崎への爆撃が実験に分類されていないことを示す1994年の新版の画像。「アメリカが日本上空で爆発させ、第2次世界大戦を終結させた2つの核兵器は、リストに含まれていない。広島と長崎への爆撃は、兵器が設計通りに作動することを証明するために行われたり、兵器の設計を進め、兵器の影響を確認し、兵器の安全性を検証するために行われたりした意味での実験ではなかった。1946年6月30日以降行われた1,000回以上の実験と同じようなものではなかった。2つの爆発は、できるだけ早期に第2次世界大戦を終結させることを目的としていた」と通常の核実験ではなく、戦争を終結させる目的のものであったことが説明されている。
 リストでは、1のトリニティー実験の後に、原爆が核実験に含まれないことが説明されている。出典:https://apps.dtic.mil/sti/pdfs/ADA291620.pdf
 つまり、少なくとも、ソロモン氏が米エネルギー省から公式の冊子を入手した1980年までは、広島と長崎への原爆投下は“核実験”として分類され、その後、1994年までのある時点で、“核実験”としては分類されなくなったと思われる。
 しかしそれでも、ソロモン氏は、やはり、原爆投下は実験だったとの見解を示している。その理由として、マンハッタン計画の最高責任者を務めたレズリー・グローブス将軍がした以下の発言を紹介している。
 「爆弾の効果を正確に評価するためには、ターゲットは事前に空襲によるダメージを受けていてはならなかった。また、最初のターゲットは被害がそのターゲット内で収まるほどの大きさであることが望ましかった。そうすれば、爆弾の威力をより確実に測定できるからだ」
 また、マンハッタン計画に関与した物理学者のデビッド・フリッシュによると、アメリカの軍事戦略家たちは、政治的効果があり、また、技術的にも測定可能な場所で最初に爆弾が使用されることを熱望していたという。
 実際、長崎に投下された2つ目の原爆は、当初は小倉に投下することを予定していたものだったが、当日、小倉の天候が不良で爆弾の威力を測定できないことから、長崎に投下されたと言われている。
 いつからか、“核実験”として分類されなくなったという原爆。
 それは、ソロモン氏が指摘しているように、広報上、起こりうる問題を回避するためだったのか? 原爆が軍事目的という理由からだけではなく、実験目的も付随されて投下されたことを米政府が公式に明確化すると、アメリカは世界的にはもちろん、国内的にも大きな批判を浴びることになるだろう。原爆投下を正当化する声が、時とともに弱まっているアメリカではなおさらだ。当然のことながら、戦後構築した強固な日米関係にもヒビを入れることになる。アメリカ政府は、米エネルギー省の冊子で、日本への原爆投下を“核実験”というカテゴリーから外さざるを得なかったのではないか。
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 飯塚真紀子 在米ジャーナリスト
 大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキーロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンドエズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。
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 8月12日18:48 YAHOO!JAPANニュース テレビ宮崎「戦争の悲惨さ伝える ヒロシマナガサキ原爆パネル展 宮崎県
 広島、長崎に原爆が投下されて78年。
 多くの命を奪った原爆の悲惨さを伝えるパネル展が、宮崎市イオンモール宮崎で開かれています。
 パネル展は、戦争の悲惨さや平和の大切さを若い世代に伝えようと県が開催しているものです。
 原子爆弾は1945年8月に広島市長崎市に投下され、約21万人が犠牲となりました。
 会場には被爆直後の市街地の写真や被爆者が当時の様子を描いた絵などが約30点のパネルで紹介されています。
 会場では2歳の時に長崎市被爆した郡司正明さんが、被爆者としての78年間の苦しみを伝えると共に平和の尊さを訴えました。
 (郡司正明さん)
 「とにかく私たちと同じ運命を今の人たちに辿らせたくないというのが本音です。世界平和のために誰かが先頭に立ってやらないと、いつまでたっても戦争は消えないので、消えるように努力しながら活動したい。」
 このパネル展は、宮崎市イオンモール宮崎で8月15日まで開かれています。
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 昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
 天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
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 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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