🎺72:─1─忘れられた日本人BC級戦犯。ランソン事件秘録。~No.329No.330No.331 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人には、他人を助ける数少ない善人がいれば、他人を殺す数多い悪人もいる。
 因果応報として悪因悪果は当然であるが、日本の自然では善因善果はウソで善因悪果が本当である。
   ・   ・   ・   
 戦争犯罪を行った日本人BC級戦犯は、国際軍事裁判所で有罪判決を受けて処刑され、仏として故郷に葬られ、神として靖国神社に祀られた。
   ・   ・   ・   
 2023年8月12日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「【戦後78年発掘秘話】日本軍によるベトナムの悲劇「ランソン事件」秘録
 玉居子 精宏
 1945年夏の敗戦から今年で78年。多くの人が戦争は8月15日に終わったと思っているはずだ。しかし、それは事実ではない。その後のBC級戦犯裁判を戦った若者、そして家族の物語を知ると、戦争はそれからも長く続いたことがわかる。
 ランソン事件と遺構
 2005年撮影のランソン。このあたりがフランス植民地の要塞だった。
 © 現代ビジネス
 私はBC級戦犯裁判の中でも、知られることの少ないフランス領インドシナ仏印。現ベトナムラオスカンボジア)、サイゴン(現ホーチミン市)で裁かれたある事件に取材し、『忘れられたBC級戦犯 ランソン事件秘録』(中央公論新社)を6月に上梓した。
1945年3月、日本軍は仏印北部、中国との国境に近いランソンという町で、降伏した300人の捕虜を銃剣や鶴嘴(ツルハシ)などを使って殺害した。事件は地名をとって「ランソン事件」と呼ばれ、1950年、4人の将校が死刑判決を受けた。執行は翌年のことだった。敗戦から6年近くが経っていた。
 戦時中、日本はフランスと同盟関係にあり、植民地でも同様に友邦の関係を持っていた。ところが戦争末期になると、対日非協力の姿勢が露骨になる。戦局も行き詰まった日本は、南方の拠点としてインドシナを安定させるべく「明号作戦」を発起、植民地解体を行う(仏印武力処理)。
 作戦は順調に進捗したが、北部ではフランス植民地軍による頑強な抵抗を受け、多数の犠牲者を出した。ランソンはそのひとつだった。捕虜殺害はこの過程で起こった。
 上掲書で、筆者は裁きを受けた4人の将校、弁護にあたった弁護士2人の姿を描いた。
 関係者の遺族や実際に裁きを受けた元戦犯に取材したほか、裁判記録をはじめ膨大な資料に目を通した。銃殺刑となった人の遺稿の現物も手にとった。
 小さく丁寧な鉛筆書きの字で、余白もないほどに思いが綴られていた。名利を実行したに過ぎないのに罪に問われたことへの疑念は尽きず、しかし現実を受け入れ、自らが戦後になって、戦争のために死ぬことをいかに捉えるか、狂おしいほどに考え抜いたことがありありと感じられた。
 戦争の終わりは8月15日ではない
 刑死した将校の遺稿。死の前年のことを丹念に振り返っている。
 © 現代ビジネス
 刊行後、筆者は周囲の人から、「そもそもなぜBC級戦犯のことを書こうと思ったのか」「この事件のことはまったく知らなかった」といった言葉をかけられた。
 「私が無知だったから」と言うほかない。私の無知は戦後=平和の時代と錯誤してきたことに由来する。無知は克服したい。それが人間である。
 戦後民主主義の教育を受け、8月15日に向けて毎年騒がしくなる「8月15日ジャーナリズム」の中で育ってきた。大東亜戦争(当時の呼称を本稿では用いる)はその日で終わったという認識しかなかった。
 BC級戦犯は本来、B級とC級に分かれている。B級が「固有の戦争犯罪」、あるいは「通例の戦争犯罪」、すなわち戦時における「戦争法規違反」を指すのに対し、C級は「人道に対する罪」、すなわち殺戮その他の非人道行為を行ったとされる。両者は起訴内容や犯罪の事実において重なるところが多く、日本では合わせてBC級戦犯とまとめて呼ぶ。
 戦犯(戦争犯罪人)と聞けば、禿頭の東条英機(開戦時の首相)がイヤホンをして判決を聞く姿を思い浮かべる人は、少なくないだろう。
 東京国際軍事法廷で裁かれた彼らA級戦犯は、国家運営と軍事の指導的立場にあった人びとだ。「平和に対する罪」を犯したとされ、侵略戦争の責任を問われた。死刑は7人。同じ戦犯でもBC級戦犯として死刑になった者は4000人を超すという。その多くが末端の将校、下士官、兵だった。市井の人間の視点で考えれば、BC級戦犯こそ身近な存在だと言える。
 軍人=非人間的かつ嗜虐的だから、蛮行に及んだというのは戦後の価値観による臆断である。BC級戦犯は軍務に忠実だったに過ぎない。組織にあって持ち場を離れず、ただ職務に忠実であろうとしたのである。
 選択肢のない環境
 2017年撮影。BC級戦犯サイゴン裁判はここで行われた。
 © 現代ビジネス
 資料で読んだランソン事件の捕虜殺害の現場の描写には戦慄させられた。
 「日本兵達は血の沼の中を右往左往しながらも冷静に掃除をしていた。新しく来た者達は其のベトベトする地面に跪坐させられ、鶴嘴や銃剣で殺された。殺戮が済むと下手人達は死体を壕に引摺り込んだ。壕には死体が山積していた」
 「銃剣で……」という記述で思い出すことがあった。かつて日本軍では、「刺突」と称して銃剣(歩兵銃の先端に着けた短剣)で刺し殺すことを、「新兵に度胸をつけさせるため」と行っていたという。
 私はある人から刺突の記憶を聞いたことがある。その人は戦後、地方にある国立大学で学究として過ごした。実に穏やかな人柄だった。そういう人でも、命令とあらば捕虜を殺す。命令を拒むことをは、軍隊においてはできない。それは組織の根幹を揺るがすからである。しかしその命令によって行ったことが、もし降伏後に露見すれば、命令を受ける側の人がたいてい裁かれる。
 人道に反する命令なら拒むべきだというのは、戦後の価値観での臆断に過ぎない。当時の日本軍で命令を拒むという選択肢はなかった。そもそも命令は天皇の命令であると教育されていた。実際に命令を拒めば「抗命罪」という犯罪になる。戦場にあって、適法なのは命令を実行することだった。
 消えない遺族の悲しみ
 © 現代ビジネス
 私は取材の過程で、戦後70余年が過ぎても消えない遺族の悲しみを知った。
 「時代が移りいかに豊かに平和になろうとも、戦争の昭和は私どもに深い傷を残しました。すべてを黙って受け入れて行かねばならないことは、なかなかにしんどいことです」
 こう書かれた手紙を読んで、私は天を仰いだ。享受してきた平和は平等なものではなかった。戦場を生き抜いた末に、犯罪者の汚名を着せられる。それは本人だけでなく、遺族にも堪え難い苦しみだったはずだ。
 平和の時代を横目に「なかなかにしんどいこと」を背負い続けた人がいる。その事実に目を向けないでいるのは、平和を享受するに無知――私自身を含め――と言わざるを得ないだろう。
 捕虜の殺害命令は、ランソンでの戦闘に従った歩兵第225連隊の連隊長から、各大隊、中隊を指揮する将校に伝えられた。国立公文書館所蔵の裁判資料にはそのように書かれている。事件により20人超が抑留されていたが、その中から訴追された連隊長(大佐)以下、3人の中隊長(大尉)の合計4人にとどまり、全員が死刑判決を受けた。
 300人という殺害の規模からすれば、訴追された人数は少なかったという見方もある。しかし、こうした捕虜殺害は、通例から言うと、現場の連隊長の独断では行われない。上級の指揮官から適当に処置せよと言われる、あるいは現場から彼らに上申しておくものだとされる。あるいは参謀に意向で――彼らに本来、指揮権はないが――行われるとも言われる。
 ランソン事件はどうだったのか? サイゴンで弁護に関わった日本人弁護士の手記を読むと、参謀の関与を暗示する記述がある。参謀の専横は大東亜戦争を通して見られた。彼らは自分より階級が上の現場の指揮官の頭越しに命令をするなどしたのである。
 弁護士はそうした事実を持ち出して、ランソン事件を論じている。しかし、裁判で裁かれたのは現場の将校のみだった。
 78年経っても変わらない構図
 © 現代ビジネス
 一部の将校は、殺害命令に対して実行がむずかしと述べてこれを拒もうとしたが、最終的に実行に移された。インドシナには、やがて太平洋から米軍が、ビルマ方面から英軍が襲来することが想定されていた時期のことである。捕虜殺害は、日本軍の行動を制約しかねない存在を取り除こうとする作戦の延長線上にあった――それが戦場の論理だった。
 命令を受け、裁きに遭った将校のひとり、坂本順次大尉の場合、捕虜殺害に使用する兵力の不足を受け、他の中隊に対し、自分の中隊の部下(兵)を「貸した」ことで罪に問われている。
 ほとんど殺害の責任はないに等しく思える。それでも死刑判決が下った。一方、より上級の人びと、仏印に展開していた日本軍を束ねていた第38軍の司令官、あるいは歩兵第225連隊を隷下に持つ第37師団の参謀も、裁きには遭わなかった。
 最近の中古車販売のビッグモーターにおける不正に関わる報道に接すると、既視感を覚える。
 時代も状況も異なる中で、同列に論じることはできないが、組織の不正が明らかになったとき、現場の責任者やその下で何かを実行した人びとが罪に問われる。上級者は「部下が勝手にやったこと」「聞いていなかった」「知らなかった」と言う――この構図に似たものが、BC級戦犯裁判においてもある。
 「私はランソン事件についてはまったく関わりがない」と、サイゴンから内地に帰還するときの船で言った高級将官がいた。その発言を聞き届けた弁護士の手記を読んで、私は愕然とした。
 責任を負わされる末端の個人
 © 現代ビジネス
 前述の坂本大尉は「社会における人間の罪の連帯性は動かされざる事実であろう」と手記している。
 そこで続けてこう述べている。
 「おそらく一般社会において、罪人となった者につき検討したならば、その人個人の罪は不可抗(力)的なもので社会の罪(世潮世俗、道徳等々)あるいは他人の罪を負わなければならなかったもの等の場合が発見されはしないだろうか」
 さらに言う。
 「罪に問われる個人は犠牲であり、その背後にあるものこそ社会の安寧のため、処理しなくてはならないことが多いのではなかろうか」
 この言葉は、戦争犯罪を個人に問うことの大きな矛盾を静かに告発しているように思う。戦犯は、一人一人が罪に問われたものである。しかし彼らだけが犯罪者だったのだろうか。
 戦争は国家と国家の間で行われる。その現場、すなわち戦場にあった人は、個人であることができるのだろうか。罪を負わされる個人であることが、そもそもできるのだろうか。
 戦後、戦犯裁判の資料収集にあたった元軍人がこんなことを述べている。
 「BC級戦犯こそ、日本の戦争最前線の責をなにものかに代って背負わされ、なにものかにかわってその償いまでした」
 坂本大尉が綴った罪の考察は、今日の私たちの社会に通じるものである。敗戦から78年目の8月もやがて終わる。しかし戦争は8月で終わらなかったことを、私は知った。知った以上、忘れたくない。忘れないことが、平和と安寧の中で生きる人に課せられたことだと思う。
 
   ・   ・   ・