🎺23:─1─日本軍はソ連の大祖国戦争(独ソ戦)勝利を手助けした。ウラジオストック・ルート。〜No.119No.120 ⑭

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 アメリカのソ連支援ウラジオストック・ルート。
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 日本民族日本人は、天皇・皇族・皇室と天皇制度(国體)を守る為に共産主義者マルクス主義者)と一人孤独に死闘を繰り返していた。
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 1936年11月25日  ヒトラーが日独防共協定を締結した目的は、ポーランドなど東に生活圏を広げるに当たってソ連や欧米列強の関心を日本に向かわせる為であった。
 ヒトラーは、反日派として、日本軍と戦うファシスト中国を勝たせる為にドイツ軍事顧問団を派遣した。
 ドイツの保守派や軍需産業は、日本軍に勝利する為にファシスト中国に資金や武器弾薬を提供していた。
 日本の意図は、ファシスト中国へのナチス・ドイツの軍事支援を遮断する為であった。
 ソ連は、ヒトラーを嫌うアメリカとイギリスに接近していった。
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 1937年8月 日中戦争は、第2次上海戦争で始まった。
 日本軍は、ドイツ軍事顧問団が鍛えた中国軍を上海と南京との攻防戦で、甚大な戦死者を出しながら撃破した。
 蒋介石は、ドイツ軍事顧問団を解雇し、ソ連から軍事顧問団、ソ連軍正規部隊・国際人民義勇部隊とアメリカからアメリカ軍退役部隊=ボランティア部隊を受け入れ、イギリスから大量の軍需物資を購入した。
 ドイツ情報部は、敵軍が残虐行為を行っているという情報戦の仕方をファシスト中国に伝授した。
 12月 南京攻略。ナチ党員ラーベ。
 国際報道機関は、第2回南京事件を報じた。
 ドイツ軍事顧問団は、ヒトラーの命令で帰国した。 
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 1939年7月 ノモンハン事件ソ連軍の指揮官は、ジューコフ将軍。
 蒋介石は、スターリンに、中ソ不可侵条約に従いソ連軍による満州侵攻を依頼した。
 日本軍は、多数の犠牲者を出しながら、勝てないまでもソ連軍の進撃を止め撤退させた。
 スターリンソ連軍は、日本軍・関東軍との戦闘を極力避ける事にした。
 日本軍の被害、戦死:8,440人、戦傷:8,864人、装甲車両:約100輛、戦車:約30輛、航空機:約180機。
 ソ連軍の被害、戦死:7,974人、戦傷:1万5,251人、装甲車両:約1,000輛、戦車:約350輛、航空機:約250機。
 8月23日 スターリンヒトラー独ソ不可侵条約と秘密協定を結び、ソ連ナチス・ドイツは味方となった。
 9月1日 ドイツ軍は、ポーランドに侵攻。
 9月16日 ソ連軍は、ポーランドに侵攻。
 第二次世界大戦の勃発。
 10月6日 ソ連軍とドイツ軍は、ポーランドを占領した。
 ソ連ナチス・ドイツは、秘密協定に従ってポーランドを分割して領土化した。
 戦後。スターリンは、戦勝国の権利として、略奪したポーランドの国土を返還せず、ロシア国民にしたポーランド国民を解放し自由にしなかった。
 ロシア人共産主義者は、ポーランド反革命分子の虐殺をおこなった。
 11月30日 ソ連軍は、フィンランドを侵略した。
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 軍国日本は、八紘一宇の皇道精神に従い幾つもの人道貢献をしていた。
 東条英機A級戦犯達と日本軍部は、親ユダヤ派の昭和天皇に忖度し、ヒトラーから逃げて来たポーランドユダヤ人難民数万人を保護し、安全な国や地域に逃がした。
 反ユダヤ主義が広がるアメリカとイギリスは、ユダヤ人難民が日本経由で入国するのを阻止する為に日本ルートを遮断するべく動きはじめた。
 アメリカ・ユダヤ人は、反日派として行動していた。
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 1940年5月 ドイツ軍は、アルデンヌの森を突破し、中立国ベルギーとルクセンブルクを経由してフランスに侵攻した。
 7月 ドイツ空軍はイギリス本土航空船を始めた。
 中立国は、平和中立を宣言して無意味で戦争に巻き込まれる。
 8月 ソ連は、バルト三国を併合し、反共産主義者を虐殺した。
 9月 ヒトラー三国同盟を締結した目的は、日本軍に東からソ連に侵攻させる事であった。
 日本軍部は、ソ連への侵攻要請を断った。
 ドイツ軍は、ヒトラーの命令に従いファシスト中国への支援を中止した。
 ドイツ軍需産業は、細々ながらファシスト中国への支援を続けた。
 スターリンは、ソ連のスパイである尾崎秀実らに日本とアメリカを戦争させるよう命じた。
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 1941年4月 日ソ中立条約。軍部は、ソ連軍の日中戦争介入を遮断する事を松岡洋右外相に求めた。
 スターリンは、ドイツとの戦争の為に兵力を欧州戦線に集中させた。
 6月22日 独ソ開戦。
 ドイツ南方軍集団は、スターリングラードカスピ海に向かって進撃を開始した。
 松岡洋右外相は、独ソ戦開始を知っていた。
 9月 ドイツ中央軍集団は、首都・モスクワ攻略戦を開始した。
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 中立国アメリカは、ドイツ軍の猛攻で窮地に追い込まれているソ連を救うべく、日本軍の監視の前を通過し、大量の軍需物資をウラジオストックに陸揚げして、シベリア鉄道でヨーロッパ前線に急送していた。
 エジプトやイスラエルなど中東地方への軍需物資は、地中海がUボートとイタリア海軍に支配されて不可能な為、南アフリカ喜望峰を回って東アフリカとマダガスカル島の間モザンビーク海峡、紅海を通過しエジプトに運ばれていた。
 アメリカの軍需産業は、ユダヤ系国際金融資本から巨額の融資を得て大量の武器弾薬を生産し、アメリカ、イギリス、中国、ソ連などの連合軍に供給していた。
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 12月5日 ドイツのリッベントロップ外相は、日本軍部に「ウラジオストックに陸揚げされているアメリカの援ソ物資を阻止するよう」要請した。
 日本軍部は、アメリカが対ソ支援をウラジオストック経由で行っている事をすでに知っていた。
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 12月6日 日本政府は、対ソ静謐の基本方針であるとして、ナチス・ドイツからの阻止要請を拒否する事を決めた。
 日本軍部は、「日本の作戦の見地上、ソ連との戦争に入る事を絶対に避けなければならぬ時期の間は、充分にこれを実行できぬ事を諒承せられたい」と返答した。
 日本政府と日本軍は、太平洋戦争中も、ウラジオストックに向かうアメリカ輸送船団を黙認していた。
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 マレー沖で、日本軍戦闘機はイギリス軍機を撃墜した。
 太平洋戦争は、真珠湾攻撃ではなくこの時から始まった。
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 12月5日 モスクワ方面のドイツ軍は、ウラジオストック経由で行われた大量の軍需物資を得て反撃を開始した。
 12月6日 ソ連西部軍の反撃が始まる。
 ドイツ軍の劣勢が明らかになり始めた。
 12月8日 真珠湾攻撃。 
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 1942年1月1日 アメリカ、イギリス、ソ連ファシスト中国(中華民国)の4大国は連合国共同宣言を発表し、単独不講和、不休戦を誓った。
 1月5日 スターリンは、クレムリンの会議で春の全面攻勢を発表した。 
 5月 ヒトラーは、スターリンの名が付けられたスターリングラードの攻略を命じた。
 6月5日 日本海軍は、ミッドウェー海戦に敗れてインド洋から撤退した。
 連合軍は、インド洋の制海権を回復し、エジプト、中東、インドへの軍需物資輸送を本格化した。
 8月 ドイツ南方軍集団のB軍は、スターリングラードを包囲した。
 11月3日 アフリカのロンメル軍団は、エル・アラメインの戦いで敗北して後退した。
 11月19日 ソ連軍は、スターリングラードで反撃を開始した。
 アメリカは、コーカサススターリングラードソ連軍への軍事物資輸送をインド洋からイラク・イラン経由で行っていた。
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 1943年1月 ドイツ軍第6軍は、スターリングラード攻略に敗北して降伏した。
 ドイツ軍の敗走が始まった。
 11月 ルーズベルトは、日本とナチス・ドイツに無条件降伏しか認めないと公言し、ヒトラー昭和天皇戦争犯罪者として差し出す事を命じた。
 戦争犯罪者の最高刑は、死罪であった。
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 1945年9月 ソ連は、北方領土を日本の圧政から解放したと宣言していた。
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 ロシア人共産主義者は、日本人女性を強姦し殺し、逃げ惑う日本人の子供を戦車で轢き殺す事に快感を覚えていた。
 逃げ惑っていた数十万人の日本人の女性や子供そして老人達が、ロシア人共産主義者によって虐殺された。
 それは歴史的事実であり、世界史的な非人道的虐殺事件である。
 国際社会は、ロシア人共産主義者による日本人女性・子供・老人虐殺を非人道的犯罪とは認めていない。
 何故なら、ロシア人共産主義者は戦争勝利者であり、日本人は敗北者であるからである。
 人類史、世界史、大陸史において、勝者・勝利者には生殺与奪の権を含む全ての権利が認められ、弱者・敗北者には如何なる権利も剥奪されている。
 弱者・敗北者は、強姦されようが、殺されようが、理不尽に耐え、諦めて受け入れ、一切の抗議ををする事なく、泣き寝入りするしかない。
 それが、国連が廃棄しない敵国条項であり、日本を縛る日本国憲法である。
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 幾ら、ロシア人に配慮・忖度・気を遣ったところで、ロシア人は恩義を感じないし感謝もしない。
 それが、大陸的生き方である。
 ただ、中国人や朝鮮人よりは真面な所がある。
 真面な証拠は、ロシアの文学、演劇、クラッシック音楽、クラッシックバレエなどを見れば明らかである。
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 ロシア人は、日本人を助けた事がない。
 対して、日本人は幾度もロシア人を助けている。
 日本人に助けられたロシア人は、日本人を情け容赦なく虐殺している。
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 日本が真の敵として戦ったのは、ソ連コミンテルン中国共産党などの共産主義勢力であった。
 民主主義国家のアメリカ・イギリスと資本主義のユダヤ系国際金融資本家・国際軍需産業は、日本を滅ぼし、天皇・皇室を消滅させる為に共産主義勢力を助けていた。
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 共産主義は、反宗教無神論で命や道徳・良心を軽視し、人の権利や自由を認めない、最も恐ろしく、信用できない敵であった。
 共産主義者は、血を好み、虐殺を繰り返し、死体の山を築き、血の池を造っていた。
 共産主義体制とは、徹底した監視で暴力と死による恐怖体制であった。
 共産主義者は、ロシア革命のように、天皇とその家族や一族を根絶やしにして皇室を消滅させ、天皇制度を廃絶しようとしていた。
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 現代の日本人は、江戸時代の人間とは違い、口先で北方領土奪還を騒ぎ立てるか本心はその気はない。
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 日本人は、遭難者・避難者・被災者などの弱者を自己犠牲で助け、ロシア人は自己欲望貫徹の為に襲って殺した。
 何故なら、日本人は海洋民性島国民族として「死を見詰めて生き」、ロシア人は草原民性大陸民族として「生を見詰めて生き」たからである。
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 日本人は、何度も、何度もロシア人を助けたが、ロシア人に一度も助けられた事はない。
 むしろ、ロシア人に裏切られ被害や損害を被っている。
 日本人は、助けたロシア人から感謝された事がない。
 ロシア人を助けてもくたびれるだけであった。
 日本人にとってロシア人とは、利害抜きの友人、苦楽を共にできる親友にはなれない。
 戦前の日本は、生きるか死ぬかの窮地で困っているロシア人を、子供を含めて数多く助けたが報われる事が1度もなかった。
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 ウィキペディア
 大祖国戦争(だいそこくせんそう、ロシア語: Великая Отечественная война、ウクライナ語: Велика Вітчизняна війна)は、ロシアをはじめとする旧ソビエト連邦諸国のいくつかで使われる用語。第二次世界大戦のうち、ソビエト連邦ナチス・ドイツおよびその同盟国と戦った1941年6月22日から1945年5月9日までの戦いを指す。旧ソ連諸国の外では、この用語は一般的に使われることはなく、東部戦線(Eastern Front)、独ソ戦などの用語が使われている。この戦闘の詳細については「独ソ戦」を参照のこと。
 「大祖国戦争」と「第二次世界大戦」とでは指す範囲が異なっている。「大祖国戦争」は、ドイツをはじめとするヨーロッパの枢軸国諸国軍とソビエト連邦との間の戦いであり、ソビエト連邦と日本との戦い(満洲侵攻)や、ドイツと西欧・英米諸国との戦い(西部戦線)は含まれない。
 「大祖国戦争」という用語は、1941年6月22日のドイツの対ソ攻撃(バルバロッサ作戦)開始の直後に登場した。1812年ロシア帝国へ侵攻したフランス帝国ナポレオン1世をロシアが打ち破った戦いは、ロシアでは「祖国戦争」と称される。ソ連当局はこれをなぞらえた呼称でナチス・ドイツとの戦争を呼ぶことで、戦いにあたってロシア・ナショナリズムによって国民を鼓舞しようとした。ドイツ軍の侵攻直後の「プラウダ」紙には、「ソビエト人民の大祖国戦争」(Velikaya Otechestvennaya voyna sovetskogo naroda)と題された長い記事が掲載されている。1942年5月20日には、大祖国戦争において英雄的な行為を見せた兵士やパルチザンらに対して贈られる「祖国戦争勲章」(Орден Отечественной войны, Order of the Patriotic War)が制定された。
 ソ連時代の辞書学においては、「大祖国戦争」とはソビエト共産主義とドイツのナチズム(ファシズム)という二つのイデオロギーの間の闘争であり、最終的にソビエト共産主義システムがファシズムに打ち勝ってその優位性を示したとされる。
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 ソビエト連邦による戦争犯罪ソビエトれんぽうによるせんそうはんざい)では、1919年から1991年までに行われたとされるソビエト連邦の軍隊による戦争犯罪について述べる。これには常備軍赤軍および後のソ連軍、内務人民委員部のNKVD軍)によるものが含まれる。いくつかの事案では明確な命令の下、すなわち初期ソ連政府の赤色テロの一部として犯罪行為が行われた可能性があり、その他に、ソ連による侵略や紛争に関与した国の将兵や民間人、あるいは民族解放運動に関わった者に対しソ連常備軍が報復もしくは懲罰として行ったものがある。
 これらの出来事の多くは第二次世界大戦の以前および継続中に中央・東ヨーロッパ・満洲で発生したもので、ソ連占領地における捕虜の簡略処刑と集団処刑、および民間人の虐待が含まれている。資料として記録された事案はあるものの、国際刑事裁判所および、ソ連、ロシアの法廷がソ連将兵に対して戦争犯罪の責を課した例はない。

 ソビエト連邦による戦争犯罪
 ソ連ロシア帝国が批准したハーグ陸戦条約の継承を認めず、1955年まで批准しなかった]。このことはソ連軍による戦争犯罪行為が合理化され得る状況を作り出していた。このソビエト連邦によるハーグ条約調印の拒否は、ナチス・ドイツによるソビエト将兵の非人道的な処遇に正当性を与えることにもなった。

 ソビエト赤軍ポグロム
 初期のソ連指導者により反ユダヤ主義は軽蔑され、ソ連当局は偏狭な反ユダヤ主義の牽制に多くの労力を傾注したが[2]、1919年から1920年ポーランドソ連戦争とロシア内戦の間に虐殺が行われ、バラーナヴィチではこれが顕著であった。しかし、虐殺の大部分は反共主義民族主義部隊らによって行われており、赤軍によるものとされる虐殺行為は少数であった。虐殺行為はソビエト赤軍最高司令部により厳しく非難され、罪を犯した部隊は武装解除され、集団虐殺を行った者は犯罪者とされた。

 ソビエト赤軍とNKVD
 「カティンの森事件」も参照
 「内務人民委員部による捕虜虐殺」も参照
 赤軍は、政治的抑圧を実施していた内務人民委員部(NKVD)の支援を頻繁に行った。NKVDの主たる機能はソ連各州の安全を保護することであり、これは「階級の敵」に対する大規模な政治的抑圧によって達成されていた。ソビエト連邦の歴史を通じ、NKVD軍は、治安部隊とグラグの看守として、交戦期間中の戦争犯罪と同様に政治的抑圧においても役割を果たしていた。特に彼らはグラグの統制維持に責任を有し、ソビエト連邦が政策に敵対的で敵と協力する可能性があると見なした複数の民族集団の集団追放と強制移住を行った(チェチェン人、クリミア・タタール人朝鮮民族(高麗人)等)。
 第二次世界大戦中、NKVDによるヨーロッパ東部、主にポーランド、バルト諸国、ルーマニアウクライナ等における囚人の大量処刑が行われている。これは1941年、ドイツ軍がバルバロッサ作戦を発動してソ連領内に侵入後、赤軍が撤退する際に行ったものである。犠牲者は全体で約100,000名と推測されている。ソ連軍による戦争犯罪の指摘は多く、とりわけ戦争初期および戦闘中に漸次捕虜となったドイツ空軍パイロットを対象としたものが指摘されることが多い。これはドイツ空軍の無差別爆撃によって民間人の大規模な犠牲が生じていたという要因がある[11]。NKVD治安部隊はソビエト赤軍部隊ととも戦闘に参加し、督戦隊を含めて後方地域保全に用いられた。ソビエト赤軍に解放、もしくは占領された地域においてNKVDは大量の検挙、追放、および処刑を行った。対象者は対独協力者や非共産主義レジスタンスであり、ウクライナにおけるUPA、リトアニアの「森の兄弟」、ポーランド国内軍などであった。またNKVDは1939年から1941年の間、ポーランド軍将校捕虜の即座処刑を行っている(カティンの森事件)。
 ドイツ軍をソ連領域から排斥した後の1944年後半、ソビエト赤軍はドイツ、ルーマニアハンガリーに侵入した。ソビエト赤軍将兵ナチス・ドイツ戦争犯罪を認識していたため、報復として降伏もしくは拘束されたドイツ将兵の処刑を頻繁に行った。略奪、民間人の殺害、強姦といったソビエト赤軍による戦争犯罪について多数の報告が存在しているが、「大祖国戦争」についてのソ連、ロシアの歴史書でこれらの戦争犯罪が言及されることは稀である。
 1939年から1941年の間のソ連占領地域(ルーマニアベッサラビア、バルト諸国、およびウクライナ西部)での民間人および捕虜に対する戦争犯罪、そして1944年から1945年の間の戦争犯罪は、それ以来、これらの地域において忘れられることはなかった。ソ連崩壊以後にはこれらの出来事に関してより体系的かつ地域主導の議論が行われており、これはソ連が1945年8月に日ソ中立条約の継続を拒否した後に占領した満州、千島列島についても同様である。

 戦争捕虜への処遇
 ソ連ロシア帝国が調印していたハーグ陸戦条約の継続を拒否、1955年まで調印国になることを拒否していた。これは1919年-1921年ポーランドソビエト戦争において、ポーランドソ連双方において捕虜の野蛮な扱いが考慮されていた。さらにソ連は1929年-1955年の間、ジュネーブ条約に調印していなかった。従い、国際的圧力があったとしても赤軍は捕虜を虐げることができた。
 1920年の尼港事件の際には投降した日本兵及び婦女子を一人残らず処刑した。
 1941年、緊急着陸を行ったドイツ空軍のパイロットは捕獲された後、しばしば処刑され、拷問、四肢切断、および殺人はドイツ軍パイロットに対して頻繁に行われていた。1941年-1942年にかけての冬、ソビエト赤軍は毎月、約10,000名のドイツ将兵を捕虜としたが、死亡率が高く、捕虜の減少率(もしくは事務的に減らされた可能性もある)は高かった。ドイツ軍捕虜は戦後も解放されず、グラーグにおける劣悪な状況の下、1956年にいたるまで大多数が拘留された。ソ連軍の捕虜となったドイツ軍兵士の死亡率は35%と言われている[誰によって?]。
 ソ連の情報によれば、戦争で連行されたドイツ軍捕虜2,652,672名の内、474,967名の死亡をリスト化している[66]。しかしロディガー・オバーマン博士はこれらは証明できないが、ソ連の拘留下で実際にはさらにドイツ軍将兵100万名が死亡したと考えている。

 トロイエンブリーツェンの虐殺
 トロイエンブリーツェンの虐殺は赤軍が激しい戦いを行った後、トロイエンブリーツェンを占領した1945年4月末から5月最初の日の間に発生した。ソビエト赤軍は民間人約1,000名(大部分が男性)を集め、近くの森で処刑したが、この処刑は村に影響を及ぼし、ソビエト赤軍高級将校の殺害という報復が行われた。
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 独ソ戦
 損害
 ドイツ軍 犠牲者 1075万8000人(諸説あり)
 ソ連軍 犠牲者 1470万人(諸説あり)
 独ソ戦(どくソせん、英語: German-Soviet War)、または東部戦線(ドイツ語: die Ostfront)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。
 大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソビエト連邦であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍ソ連に侵入し、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(ロシア語: Великая Отечественная война)と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線と表現される。
 アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の戦争であると認識していた。
 1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。ヨーロッパにおけるドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。
 開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、過酷な共産党の政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。また反共主義者はロシア国民解放軍やロシア解放軍として共産主義者と戦った。しかし、スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。親衛隊や東部占領地域省(ドイツ語版)はドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された。
 この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1470万人、ドイツ兵が1075万人である。民間人の死者をいれるとソ連は2000〜3000万人が死亡し、ドイツは約600〜1000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上した。両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している(第二次世界大戦におけるドイツによる外国人強制労働(英語版))。またドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した(ソビエト連邦におけるドイツ人強制労働)。
 開戦から1943年7月のクルスクの戦いまでは主にドイツ軍の攻勢とソビエト軍の防御という展開であったが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転し、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となり、1945年5月8日にドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行ったことにより、戦争は終結した。

 1941年
 その頃、ソ連側はリヒャルト・ゾルゲなど日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、日本軍が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入されたが、この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。国際面から言えば、アメリカのルーズベルト大統領がソ連に対する武器・物資援助(レンドリース法適用)に踏み切ったのは1941年11月7日、モスクワ市が陥落の危機を脱したと確認された時点である。このことは「モスクワを後回し」にしたことの誤りの一つとされる。

 戦場としてのソビエト・東部戦線
 赤軍はその膨大な予備兵力によって、圧倒的な敗北から敗北を理解し、攻勢の失敗から攻勢のなんたるかを理解した。そして、予備兵力にかげりが見られるかと思われる段階において、もはや予備兵力のないナチス・ドイツに対して最大の大攻勢を行うのである。

 連合国における東部戦線の位置
 独ソ戦が始まると、それまでたびたびソ連を非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定したレンドリース法(武器貸与法)をソ連にも適用することにした。ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。援助の効果は1942年に目立ちはじめ、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。大半の援助物資はペルシア回廊を経由して供給された。大ざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったと言える。
 航空機、戦車などの正面装備、トラック、ジープ、機関車、無線機、野戦電話、電話線などの後方支援のための物資、さらに缶詰、靴、ブーツのような一般工業製品から銅、アルミニウムといった原材料まで、さまざまな援助物資が届けられた。供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。しかし、援助物資が兵站と経済、生活に与えた寄与は大きかった。主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたことで、ソ連では後方支援と生活のための物資が著しく不足していたためである。また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。 スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とそ の影響を評価してこう記した。「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはでき ない」と。ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年にノルマンディー上陸作戦が実施されるまでほぼ、満たされなかったといってよい。このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。
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 1941年6月から12月にかけての戦線
6月22日、バルバロッサ作戦の発動によりドイツ・ソ連国境で一斉にドイツ軍の侵攻が開始された。当初は5月の侵攻を予定していたが、ユーゴスラビアで発生した政変により作戦の開始が一ヶ月以上延ばされることになった。開戦直前、ヒトラー赤軍に配属された政治委員の即時処刑を命令し(コミッサール指令)、「イデオロギー戦」としての性格を認識するよう軍指導部に伝えている。
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