🎻30:─1─第2次坂下門乱入事件。ベトコンは、日本陸軍のゲリラ戦法でアメリカ軍を撃退した。田中角栄とロッキード事件。1975年~No.96No.97No.98 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 軽装備のベトコンは、日本陸軍のゲリラ戦法で重装備のアメリカ軍を撃退した。
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 共産主義者は、世界各地で大虐殺を行っていた。
 マルクス主義者は、その事を知っていたが沈黙した。
 日本人過激派は、共産主義者の行動を讃美し、天皇制度を廃止するべく日本でも同じ事を行おうとしていた。
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 アメリカ軍は、10年以上にわたって少なくとも4,200万リットルの枯れ葉剤を散布し、戦争に関係なく生まれてくる子供達に悲惨な負の遺産を負わせた。
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 1970年代後半。ソ連・共産圏は、国際石油価格が高騰しても影響されず、独自の社会主義計画経済を続けていた。
 左翼・左派のマルクス主義者は、「ソ連経済は20年以内にアメリカに追いつき追い越す」と言いふらしてアメリカ・資本主義の崩壊を予言し、日本もソ連中国共産党政府を手本として社会改革を行うべきであると力説した。
 後に。彼らが日本で実現しようとした、共産主義体制や社会主義国家が幻想で破滅的である事が証明された。
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 1975年から82年にかけて、琉球新報、沖縄タイムズ、琉球放送沖縄ラジオの沖縄メディア4社は、それぞれの社の労働組合自衛隊及び自衛官に関する労使間協定を結んだ。
 沖縄タイムズと琉球新報の県2紙は、反戦平和の理念から反日米安保・反米軍基地・反自衛隊を掲げて、自衛隊自衛官に対する差別報道を続けている。
 彼らは、自衛隊自衛官に好意的な報道は一切せず、反日活動を過激化させ日本の安全を脅かしている中国や北朝鮮の事も報道しない。
 尖閣諸島を含む東シナ海における中国の威嚇行動への警戒報道より、県内のアメリカ軍基地の県外移転要求運動と自衛隊配備阻止運動を優先課題としている。
 非武装で無防備にすれば戦争に巻き込まれる事はないと、子供達に教えている。
 一部の沖縄の子供が、自衛官の子供を「人殺しの子供」と言い募って苛めていると言われている。
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 保守派知識人「グループ1984年は、日本がこのまま進む内部から崩壊するという危機感から、文藝春秋の2月号に「日本の自殺」という一文を掲載した。だが、内部崩壊の予言が2011年3月11日に現実のものとなった。
 「国民が利己的な欲求の追求に没頭し、難局を自らの力で解決する事を放棄するようになり、しかも指導者達が大衆迎合主義に走った時、国家が自殺する」
 だが。戦後の日本教育は、現日本国憲法における「生存する為の武力行使という自衛権を放棄する」の平和精神に則り、日本を崩壊させる目的で子供達に教育を行っていた。
 「個の権利」を無制限に拡大する為に国権を最小限までに縮小させ、国益・公益よりも私益・民益を優先させる。
 憲法とは、国家・政府を縛り、国民の権利を守り解放するものであると。
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 1975年 韓国は、戦前の日本とは違って、白人による植民地支配を正義とし、植民地支配を守る為に軍隊を派遣して、植民地支配に抵抗するアジア人を極悪人として虐殺した。
 カリフォルニア州裁判所は、「女性が扇情的な下着を着けていた場合、それが外から見えなくても男を誘ったと解釈される。よって強姦罪は成立しない」との判決を下した。
 アメリカの司法は、先例至上主義を採用していた。
 白人男性による非白人女性へ強姦は、殺人や廃人に至るほどの暴行がない限り成立しずらくなった。
 4月 ベトナム戦争終結(64年〜)北ベトナム軍とベトコンの攻勢でサイゴンが陥落した。翌年に、南北ベトナムが統一された。 
 マクナマラ「あれは、北の侵攻とかではなく民族統一戦争だった」
 明郷華人流入華僑は、北ベトナムで25万人、南ベトナムで150万人が生活していた。
 新生ベトナムは、2年かけて、国内の明郷(ミンフォン)と呼ばれる華人辛亥革命後に流入した華僑を弾圧し10万人以上を虐殺した。
 特に。南ベトナムの西ショロンに生活していた明郷華人流入華僑は、フランス植民地やアメリカ支配に協力していた敵として迫害された。
 流入華僑は、ベトナム人の弾圧を逃れ、ボートピープルとして国外に脱出した。
 ベトナム華人は、ベトナム人に比べて権利を制限されてもベトナムで生きる為に国家に忠誠を誓った。
 ベトナム戦争の被害は、約300万人。
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 中国共産党政府は、尖閣諸島略奪と東シナ海支配の布石として、日本の警戒心を解くように日中漁業協定を結んだ。
 同協定は、東シナ海の操業で中国側漁船に有利なように2000年に改正された。
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 韓国は、アメリカからの出兵費用を得るや国連に関係なくベトナムに数十万人の大軍を派兵した。
 韓国軍は、アメリカ軍に協力してベトナム人150万人以上を虐殺した。
 韓国軍兵士は、占領軍の権利とし、支配地のベトナム人女性を強姦して5,000人〜3万人の混血児を捨てた。
 日本軍の占領地では起きなかった現象である。
 韓国は、ベトナム戦争によって特需が生まれて経済発展を遂げた。「漢河の奇跡」は、夥しいベトナム人犠牲者の上に華開いた。
 ベトナム戦争の恩恵は、日本ではなく韓国に恵みを与えた。
 正統派儒教的人種差別主義者の彼らは、東南アジアを下等な未開地域と軽蔑して自分の非を認めないし、劣等人への罪の意志を持たないだけに心底から謝罪はしない。
 中国や韓国・北朝鮮は、気が強いだけに、決して罪を認めないし、謝罪しない。
 正統派儒教とは、中国を世界の中心とした中華思想の根幹をなす、反宗教の差別的教養学である。
 韓国政府は、韓国軍が行ったベトナムでの虐殺行為を認めない。
 よって。反省・謝罪・賠償好きな罪深い日本人とは違って、韓国人は謝罪はしないし、反省もしなければ、賠償はなおさらしない。
 韓国は、死んでも、一切、罪を認めない。
 正統派儒教は、上下関係での差別を正当化する階級思想である。
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 アメリカ議会は、ベトナム戦争を戦争と認めない立場から宣戦布告をせず、派兵を顧問と言いくるめていた。
 アメリカ軍がベトナムから撤退するや、共産軍は南ベトナムを解放した。
 左派過激武装集団赤色クメールのポル・ポトは、カンプチア統一戦線と共に、プノンペンを親米右派政権から解放して民主カンプチアを樹立した。
 ラオスでは、左派ラオス愛国戦線が右派勢力を駆逐してラオス民共和国を樹立した。
 アメリカ軍は、タイを含むインドシナ半島全域から全部隊をフィリピンに撤退させた。
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 カンボジアの内戦は、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュが首都プノンペンを軍事占領し、ロン・ノル政権を打倒して終わった。
 人民は、ポル・ポトを腐敗政権を倒し圧政から救ってくれた解放者として熱烈に歓迎した。
 ポル・ポト政権は、「自分の食べ物は自分で作って食べる」という自給自足生活こそがあるべき姿であるという原始共産主義を唱え、都市部の住民を強制的に農村に移住させた。
 女子供や老人や病人までも徒歩で歩かされ、その強行軍で多くの者が倒れ、休憩を許されず数万人以上が死亡した。
 ポル・ポトは、ソ連中国共産党にならって、農村部の子供を集めて少年兵士として大人を憎むような洗脳教育を行った。少年兵として2万人以上の都市住民を虐殺した。
 総人口の3分の1にあたる200万人を、各地のリング・フィールドに押し込んみ、少年兵士に虐殺させた。
 殺害されたのは上流階級のベトナムカンボジア人であり、拷問し虐殺した少年兵は下層階級のクメール人であった。
 カンボジアに於ける虐殺は、貧富の格差による殺戮であると同時に、数百年以上にわたるベトナムカンボジア人とクメール人ら反ベトナム人の民族闘争であった。
 共産主義陣営は、各地で虐殺を行った。
 日本の左翼・左派のマルクス主義者は、共産主義による虐殺を正当行為と黙認し、韓国軍が行った事を全て知っていながら知らないと嘘を押し通している。
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 4月 沖縄県知事屋良朝苗(やらちょうびょう)は、7月に開催する沖縄国際海洋博覧会の打ち合わせの為に上京した。
 4月16日 宮内庁長官宇佐美毅は、屋良知事に会い、沖縄への行幸したいという昭和天皇の内意を伝えた。
 「天皇陛下から『私はどうするのだ。アメリカへ行く前に行けないか』との御下問がって困った」
 屋良知事は、昭和天皇の沖縄訪問は是が非でも行いたいが、72年5月にアメリカの統治下から日本に返還されて日がまだ浅い為に、初訪米される前に沖縄に御巡幸される事は、沖縄県内のアメリカ軍を刺激するのではないかとして、即答を避けた。
 昭和天皇は、日本国家をアメリカ軍の占領下から解放する見返りとして、沖縄をアメリカ軍政下に置き、アメリカ軍基地として使用する事を認めるという、47年メッセージを出した事に忸怩たる思いと、沖縄攻防戦で死亡した軍民への慰霊の為に、沖縄への旅を希望していた。
 4月19日 朝日新聞は、カンボジアポル・ポトの革命を「アジア的な優しさを持った革命である」とい特派員の記事を掲載した。
 その頃。フランスなどのメディアは、タイなどの国境でカンボジアから逃げてきた難民達を取材し、凄まじい虐殺が行われている事を明らかにしていた。
 朝日新聞は、北京寄りの報道として、虐殺の事実はなく、粛清の危険がないとポル・ポトを擁護していた。
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 5月19日 ザ・タイムズ紙「100匹のハスキー犬、経済的措置する  100匹のハスキー犬が経済上の理由で、英国南極調査隊員の手で殺された事が昨日発表された。大部分の犬はストニントン島の基地が閉鎖される時に射殺された。……
 エリック・サモン氏は『犬を殺すのが一番経済的だ。犬を他の場所に移す事は現実的ではない』と語った」
 日本の動物愛護団体は、射殺された犬に同情して涙を流した。
 国際的動物愛護団体は、助ける事で経済的負担が多いのであれば殺処分はやむを得ない事であったと承認した。
 日本人は、人も動物も同じ命であり、家畜といえどの家族同様に大事にした。
 国際社会では、人間と動物は同類ではなく、人には家畜の生殺与奪の権利があり、人間に不利益をもたらす家畜は容赦なく殺した。
 家畜である牛や豚や鶏や犬は幾ら殺しても構わないが、自然に生きる鯨やイルカを殺す事は罪悪である。
 日本人と世界との生命観、人間観は、正反対に近い程に異なる。
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 7月12日 第2次坂下門乱入事件。日本の新左翼は、翌76年1月18日に沖縄国際海洋博覧会が開催される事に対し、復帰後の沖縄経済の混乱や皇室の戦争責任問題を絡めてテロ攻撃を行った。
 他に、ひめゆりの塔事件やエスメラルダ号火炎瓶投擲事件などのテロ事件が発生した。
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 昭和天皇・皇后両陛下はアメリカ合衆国を訪問した。
 「私は多年、貴国訪問を念願にしておりましたが、もしそのことがかなえられた時には、次のことをぜひ貴国民にお伝えしたいと思っておりました。と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国がわが国の再建のために、温かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。しかし、たとえ今後、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意とは、日本国民の間に、永く語り継がれていくものと信じます」
 昭和天皇は、訪米のおり、ディビッド・ロックフェラー邸を訪れた。
 日本を代表して世界の上流階級と対等に付き合えるのは、日本天皇と皇室しか存在しない。
 諸外国の上流階級は、天皇を最上級の敬意を持って持て成している。
 日本天皇が持っているのは、才覚で稼げば手に入る莫大なる資産や広大な領地ではなく、如何なる人智を尽くしても人では得る事ができない悠久の歴史的な重みである。
 世界の指導者から日本天皇が崇敬を以て迎えられるのは、政治的権力でも宗教的権威でもなく、人間的俗っぽさを持たず金儲けに狂奔せず利益にこだわらいない落ち着き、これ見よがしに煌びやかに飾り立てられたモノ一切を取り除いた自然体としての一人の人間としてである。
 「利」という俗世の価値観を超越した、気高く誇りのある高レベルの品位と品格が、良識ある人々の心を動かしていた。
 人は平等であるべきと言っても、日本天皇に代われる日本人はいない。
 皇族でない日本人で自分は日本天皇の代わりになると宣言しても、世界の指導者は政治的意図を持って認めても、地球上の全ての上流階級は品位と品格を持った教養人と認めず相手にしないどころか嘲笑い軽蔑し門前払いをする。
 さらには。一般的な外国人の多くも、同様の感想を持って成り上がりで軽薄なバカと冷たい視線を送るのみである。
 9月8日 アメリカ・NBC放送のテレビインタビュー「1945年の戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか」
 昭和天皇「もともと、こういう事は内閣がすべきです。結果は聞いたが、最後の御前会議でまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。……戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした」
 9月20日 アメリカ・ニューズウィークのインタビュー「日本を開戦に踏み切らせた政策決定過程にも陛下が加わっていたと主張する人々に対して、どうお答えになりますか?」
 昭和天皇「開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆せなかった。これは帝国憲法の条項に合致すると信じています」
 9月22日 外国人特派団への記者会見「真珠湾攻撃のどのくらい前に、陛下は攻撃計画をお知りになりましたか。そしてその計画を承認なさいましたか」
 昭和天皇「私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし、私はそれらの報告を、軍司令部首脳達が細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています。
 10月31日 訪米から帰国直後の記者会見におけるザ・タイムズ記者「陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、『私が深く悲しみとするあの戦争』というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?」
 昭和天皇「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
 中国放送記者「戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか?」
 昭和天皇原子爆弾が投下された事に対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中である事ですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ない事と私は思っております」
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 1976年 河北省の唐山で大地震が起き、30万人以上が犠牲となった。
 フォード大統領は、日系アメリカ人を強制収容所に隔離するという大統領行政命令を正式に無効とする大統領令に署名した。
 この大統領令の署名によって、日系アメリカ人の地位回復が公式文書として認められた。
 戦時中。日系アメリカ人は、アメリカ市民としての義務から国家に忠誠を誓い、アメリカ市民としての責任から日本と戦う為に軍隊に志願した。
 442日系部隊は、アメリカ軍内の人種差別とアメリカ社会の人種的偏見に耐え忍び、アメリカへの愛国心と日本人としての自尊心と日本民族の血が流れるという誇りから、大和魂で夥しい犠牲を出しながら戦った。
 日系部隊は、数々の武勲によって、アメリカ国民最高の「議会名誉勲章」を授与された。
 アメリカ政府は、困難に耐えてアメリカ市民として勇猛果敢に戦った事に感謝して、多くの日系アメリカ兵士に数多くの勲章を授与した。
 日系アメリカ人は、アメリカ市民としての責任と義務を果たしただけであるとして、控えめに誇りとして微笑むが、風を切る様に傲慢に主張して闊歩する事はしなかった。
 加瀬英明アメリカ国民が戦後、日本に敬意を払う様になったのは、日本の力では決してなく、日系アメリカ人の血が滲む様な努力によるものだ」
 日本精神の美徳は、如何なる貢献をしたとしても、いらざる自己主張はしない、サイレント・スマイルであった。
 だが。その内向き的島国の美徳は、意思疎通を重視する多言語が飛び交う国際社会では通用しなかった。
 日本人は、中国人や朝鮮人に比べて、稚拙な語学会話能力で自己表現能力が乏しだけに、何を考えているか判らない閉鎖的民族とされている。
 江養然事件。日本で活動する中国人貿易商は、中国軍情報機関の指示に従って産業技術情報を収集していたが、逮捕された。
 日本は、スパイ天国と言われている。
 ハミルトン・フィッシュ「あの戦争は必要のない戦いだった。駐日大使グルーの報告にもある様に、日本政府も国民も戦争を望んではいなかった。わがアメリカ国民も望んではいなかった。FDRの『屈辱の日』演説は、偽善と嘘にまみれていた事が明らかになった。あの戦争は何だったのか。言わずもがなだ。我が国の損害は甚大だった。我が兵士は勇敢に、自由と民主主義の為に戦った。しかし、それはヤルタ会談で意味のないものになった。世界の半分がスターリン共産主義者支配下に入ったのだ」(『FDR その裏側に潜むもの』)
 文化大革命は1月の周恩来首相の死と9月の毛沢東国家主席の死で終了し、文革を指導した4人組が反革命容疑で逮捕された。
 朝日新聞は、文化大革命の陰惨な実態が明らかになるや、文革礼賛から文革批判に一転させて4人組を非難する記事を掲載した。
 それは、中国との友好関係を維持する為の、新しい中国共産党体制への擦り寄りであった。
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 2月 ロッキード事件発覚。
 2月4日 アメリカ上院外交委員会の多国籍企業小委員会(フランク・チャーチ委員長、通称チャーチ委員会)は、航空機メーカーのロッキード社が日本への売り込みで30億円以上の秘密工作費を使ったと暴露した。
 チャーチは、戦争を挟んでアメリカ陸軍情報部員として中国に赴き、日本との戦争や内戦で苦しむ悲惨な中国人民に同情し、アジアの植民地で暴利を貪る欧米の大企業に疑問を抱いていた。
 中曽根康弘自民党幹事長は、児玉ルートが日本の国防を危うくさせる危険があるとして、アメリカ政府に対して「この問題をもみ消す事を希望する」と要請した。
 疑惑の核心は、児玉誉士夫ルートであった。
 7月 田中角栄元首相逮捕。
 ロッキード事件における最初の疑惑は、三木内閣に於けるロッキード社の対潜哨戒機「Pー3C」(一機100億円)100機購入疑惑であったが、途中から田中内閣当時の旅客機「トライスター」(一機60億円)9機購入疑惑に変わった。、
 8月 田中角栄は、保釈されるや、田中派をはじめ反主流派6派閥を糾合して「三木おろし」を始め、アメリカに気に入られる大平正芳を次期総裁に推した。
 アメリカも、対中政策を転換して田中角栄への懲罰を中止し、ロッキード社救済を優先して三木武夫首相を切り捨てた。 
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 7月 南北ベトナムが統一されて、ベトナム社会主義共和国が樹立した。
 ベトナム政府は、戦争に協力した元日本軍兵士に感謝した。
 ベトナムは、アヘン密売で暴利を稼いでいた華僑を追放する為に、ソ連に接近しして支援を受けていた。
 共産軍は、ベトナムの平和の為に大量の反共産主義者を各地で大虐殺(1,000万人以上)し、人民の自由と民主主義を否定して伝統的民族信仰を破壊した。
 フランスの植民地支配に協力していた華僑達は、虐待してきたベトナム人の復讐を恐れ、全財産を持って脱出した。ポートピープルである。
 虐殺されたのも国外脱出したのも、中国系ベトナム人と言われている。
 東南アジアの経済を支配する華僑は、地元民の反華僑感情の盛り上がりを警戒し、強い中国の再興に期待した。 
 中国は、対ソ戦略から、ベトナムに対抗するべくカンボジアポル・ポト派を支援した。
 ポル・ポト政権は、中国共産党にならって子供の革命同志を利用して200万人以上の反共産主義分子を虐殺した。
 カンボジア国内の反ポル・ポト派は、ベトナムに軍事介入を要請した。
 かって。フランスは植民地支配を円滑に行う為に、ベトナム人カンボジア人が殺し合いを行うほどの敵対心を植え付けていた。
 共産主義が虐殺を拡大させ、罪のない大量の人々が「〜イズム」の犠牲となった。
 「〜イズム」の闘争は、人の命に尊厳を持たず軽視する為に流血事件が絶えなかった。
 特に、共産主義ほど大量の血を好む「〜イズム」はなかった。
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 アメリカは、海外の自国民を救出するにあたって助ける優先順位を決めた。
 1,アメリカ国籍。
 2,永住権所有者。
 3,イギリスやカナダなどの国民。
 4,日本国民などその他の人間。
 アメリカ軍は、日本人を助けはしない。
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 1977年 訒小平は、訪中した三岡健次郎元陸将に「日本は中国を助けた事になっている。日本が蒋介石重慶まで押し上げてくれたので、我々は日本軍の占領地域を後方に広げる事ができた。皇軍のおかげで蒋介石の力を弱め、台湾に追い払う事が出来たのです」
 韓国政府は、淪落行為等防止法で売春行為を禁止していたが、アメリカ軍兵士を相手とする売春目的の基地村を全土に62ヶ所設置し、売春婦9,935人を専用アパートで生活させているという報告書を作成した。
 国家主導でアメリカ軍相手に組織的売春をさせている文書に、朴正煕大統領が署名した。
 アメリカ軍が基地村での性病検査などの衛生管理や環境改善を求めた事や、朴正熙大統領が、「基地村浄化委員会」を設立させて性病の徹底検査に乗り出した事などが、綴られていた。

 12月 広岡知男社長兼主筆は、社長職を副社長の渡辺誠毅に譲り、会長に就任した。
 親ソ連派の秦正流は、専務取締役編集担当に就任した。
 渡辺・秦新体制は、マルクス経済学者の都留重人一橋大学教授が論説顧問に迎え、親ソ反米報道としてソ連脅威論の払拭に尽くした。
 カーター大統領は、平和路線で軍事的なアジア離れ政策を採用した。
 福田赳夫首相は、マニラで福田ドクトリンを発表して、日本はアメリカに代わって東南アジアの平和と安定に貢献する事を表明した。
 日本は、自主外交として、対共産主義勢力と対峙する為にASAN加盟国との連帯強化し、経済外交として官民挙げて経済発展に寄与した。
 発展途上国で財政難のASAN諸国は、日本からの多額のODAに期待した。





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