🎹28:─4─ドイツ軍事顧問団は、中国人民に日本人を根絶やしにしたいほどの憎悪を植え付ける反日教育を指導した。1937年11月~No.159No.160No.161 @

松井石根と南京事件の真実 (文春新書)

松井石根と南京事件の真実 (文春新書)

  • 作者:早坂 隆
  • 発売日: 2011/07/20
  • メディア: 単行本
   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 ナチス・ドイツは、ファシスト中国に第一次世界大戦時の宣伝戦・情報戦・謀略戦を教えた。
   ・   ・   ・    
 中国は、欧米列強とユダヤ系国際金融資本や国際軍需産業の支援を受け、世界平和と世界新秩序の為に侵略国日本と戦った。
 軍国日本は、自国中心主義で、日本のみの平和と日本人の生存の為のみで戦い、国際社会から戦犯国とされた。
 日本には、逃げ場はなかった。 
   ・   ・   ・   
 ユダヤ系国際金融資本は、日本を含むアジア市場を支配するべく日本金融を傘下に組み込もうとした。
 天皇が支配する神国日本は、ユダヤ人の敵であった。
 ユダヤ人は、天皇制度国家日本を支配しようとしていた。
   ・   ・   ・   
 日本軍は軍律厳しい皇軍ではなく、日本人は心優しい善人ではなかった。
 日本人は、昔も、今も、アジア人から憎まれていた。
 さらに、世界中の人間からも嫌われていた。
 世界中で、日本に好感を持つ人間もいなかった。
 日本人は、世界で孤立していた。
 日本は、絶望するしかなかった。
   ・   ・   ・   
 ドイツ駐在海軍武官の小島秀雄は、日中戦争にドイツ軍が関与している事を東京に報告した。
 軍部は、遙か以前から中国軍の背後にドイツ軍がいる事を知っていた。
 そして、ソ連軍も中国軍に協力しているとの情報も得ていた。
 蒋介石の身近にいる日本留学組の隠れ親日派中国人から、中国国内の情報を得ていた。
 日本軍人も生きるか死ぬかの戦場に立つ以上は、情報に無頓着な現代日本人とは違ってい敵情報の重要性を知っていた。
   ・   ・   ・   
 中国人は、人間不信であるだけに陰謀と謀略の情報戦に長けていた。
 日本人は、人を直ぐ信用するだけに諜報戦は劣っていた。
   ・   ・   ・   
 中国人に日本人への殺したいほどの憎悪を植え付けたのは、ヒトラーの命で中国に派遣されたドイツ軍事顧問団であった。
 日本人に対するおぞましい怨念を中国人に植え付けたのは、ナチス・ドイツであった。
   ・   ・   ・
 11月 松井司令官(A級戦犯)は、第10軍(約8万人)が指揮下に入るや、後方から中国人の襲撃を受けない為にも、武器を持たない中国人住民への略奪や強姦を禁ずる命令を再度全軍に出した。
 だが、軍司令部が民間人を保護し罪なき者を慈しみ負傷者の手当てを厳命しても、その命令をせせら笑う中国人蔑視の心無き日本兵は後を絶たず、戦場で好き勝手な行為を行なった。
 陸軍随一の中国通で日中提携派の松井石根は、精神主義として天皇の名誉と国家の信義と軍の体面を守る為に軍紀厳正を命じて、不祥事を取り締まり起きれば軍律軍法に照らして犯行を行なった不良兵士を罰した。
 日本軍は、中国軍とは違って近代的軍隊として秩序を頑なに維持しようとしていた。
 昭和研究会は、設立趣意書を発表した。
「非常時局を円滑に収拾し、わが国力の充実発展を期するため、外交、国防、経済、社会、教育、行政等の各分野にわたり、刷新の方策を調査研究する」。
 軍国主義国粋主義民族主義などの右派からマルクス主義や隠れ共産主義などの左派まで思想信条に関係なく、軍人、政治家、官僚、学者などあらゆる職種の人材が参加した。
   ・   ・   ・   
 国際社会は、中国の主張を正当と認定し、日本バッシングを過激化させた。
 国際世論は、日本の説明を一切受け入れず、日本を突き放していた。
   ・   ・   ・   
 蒋介石は、国民党中央宣伝部に対日謀略の為の国際宣伝処を設置し、国際世論を味方に付けるべく外国公使館職員や外国人特派員を集めて記者会見を行った。
   ・   ・   ・   
 アメリカのキリスト教会は、キリスト教徒の蒋介石宋美齢夫妻を支援する為に、昭和天皇を批判して国民世論を反日に誘導し、異教国日本を打倒する為に寄附金を集めて軍資金として送金した。
   ・   ・   ・   
 11月 アメリカの反戦・反ファシストアメリカ連盟は、全米大会を開催し、名称をアメリカ平和民主主義連盟と改め、反日組織の中国支援評議会を設立した。
 中国支援評議会の名誉会長に、ルーズベルト大統領の実母が就任した。常任理事にマーシャル陸軍参謀総長夫人やジャフェが、事務局長にソ連のスパイであるミルドレッド・プライス女史がそれぞれ就任した。会員数は、300万人とも400万人とも言われた。
 在ニューヨーク日本総領事館は、東京の本省に、反日組織である中国支援評議会についての極秘報告を行った。
 国民党は、中央宣伝部に国際宣伝処を設置し、親中派アメリカ人の支援を得て対日宣伝を行った。
 中国支援評議会は、日本軍の非人道的虐殺行為を現地で目撃したという欧米の新聞記者や宣教師らの証言をもとに、議会に対して日本への経済制裁を求める意見書を提出した。
 連邦議会員で、日本への経済制裁に反対する者はいなかった。
 11月3日 ブリュッセル特別国際会議。参加国は、中国国内での中国軍や中国人暴徒の猟奇的犯罪行為を正当行為と理解していた。
 その上で一部の代表者は、日中戦争ソ連を引き込む為に、ソ連軍航空機数百機を東京に飛ばして威圧するように要請した。(アナトリー・コーシキン『大国の攻防 ─世界大戦における日ソ戦─』P.23) 
 ソ連の暴力的ロシア革命から反共産主義勢力との内戦そして党内抗争で数千万人の同胞を虐殺し、共産主義政策に従わない人民数千万人を虐殺し、強硬な共産主義政策で2,000万人以上を飢餓に追い込み500万人以上を餓死させた。
 共産主義者による犠牲者の数は、不明である。
 こうした大虐殺を命じたのは、トロッキースターリンカーメネフジノビエフ無宗教反神論のユダや人共産主義者であった。
 レーニンも、母方はユダや人であった。
 ロシア・東欧における過激分子の大半が、絶対的宗教権威による社会体制に不満を持つユダヤ共産主義者であった。
 彼らは、病的人間不信から他人を信用せず、人を主義主張の為の単なる道具とみなして使い捨てにした。
 従わない者は、有罪しかない人民裁判で弁護士抜きの暗黒裁判を行い、そして惨殺した。
 共産主義体制とは、人のあやふやな心を否定した、合理的論理的な科学至上主義のシステムであった。
 レーニン「銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい」
 ロシアの教科書「レーニンは、大いなる不当な伝統破壊者だった。共産主義の勝利の為には、いかなる犠牲も厭わず、犯罪行為に及び、神や皇帝、国家、規律、法、習慣をおとしめた」
 トロッキーは、レーニンの正統な後継者として、スターリンと主導権をめぐって闘ったが敗れ、亡命したメキシコでモスクワから来た刺客によって暗殺された。
 共産主義者は、主義(〜イズム)を守る為には敵対者を絶対許さなかった。
 トロッキー派で、ソ連領に留まった者はかっての同士の手で粛清された。
 国外に逃亡したトロッキー派は、アメリカに亡命し、ロックフェラーやアメリカ系ユダヤ人組織の援助を受け、アメリカの情報機関に協力して世界中で要人暗殺や破壊活動や情報収集などの秘密工作を行った。
 彼らは、ナチス・ドイツ以上の共産党情報部の高度なプロパガンダ技術を駆使して、情報操作を行い世論を誘導して大衆を騙した。
 エドワード・バーネイズ「まとまった世論と大衆の慣行を意図的に、かつ巧みに操作する事は、民主主義社会における重要な要素である」
 ドリス・E・フライシュマン/ハワード・ウォルデン・カトラー「自己保存、野心、自尊心、飢え、家族と子供に対する愛情、愛国心、模倣、他人の上に立ちたいと言う願望、遊興心 ー 指導者が身らの視点に大衆を同調させる際には、基本的な心理要因としてこれらをはじめとする動因を考慮に入れる必要がある。……殆どの人間は、自分が信じている事が真実だと確信できないと心の安定を維持する事ができない」
 11月5日 日本の第10軍約8万人は、杭州湾金山衛城付近に敵前上陸し、敵の後方にある崑山を目指して進撃を開始した。
 ヒトラーは、ドイツの生活圏を広げる為に東方進出声明を発した。
 嫌日親中国派のトラウトマン大使は、日本を嫌っていたヒトラーの許可を受けて和平工作トラウトマン工作)を始めた。
 ナチス・ドイツは、人種差別から、友好国中国を日本の侵略から救おうとした。
 ドイツ人は、日本人を裏切り者と憎んでいた。
 中国中央軍(60万〜80万人)は、ドイツ式の軍事教練を受け、ドイツ型の重層で堅固な野戦陣地に籠り、ドイツ製の最新最強の武器で戦っていたが、前近代的装備で白兵特攻精神のみの日本軍(約20万人)の猛攻により南京に向けて敗走した。
 中国軍陣地を見た各国の戦略家、戦史家らは、異口同音にドイツ軍人とソ連兵が協力する中国軍の勝利と答えた。
 中国軍の敗走は、軍事支援するドイツ軍の名誉を傷付けドイツ製武器の威力に疑問を投げ掛けた。
 11月6日 日本軍は、上海の空に「日軍百万上陸杭州北岸」と言うアドバルーンを上げた。
 日独伊三国防共協定締結。
 親日派のリッベントロップやカナリス大佐らは、日中武力紛争を放置する事はソ連を利するのみである以上、両国の武力紛争を仲裁するか、中国軍を硬化させているドイツ軍事顧問団を引き揚げるべきであると訴えた。
 ヒトラーは、日本より中国への思い入れが強いだけに判断がつかず苦慮していた。
 11月9日 日本軍の猛攻を食い止めていた中国軍兵士に動揺が走り、死を恐れず悪鬼の如く突撃してくる日本軍に恐怖して、全ての前線で足の鎖をはずして逃走し始めた。
 督戦隊は、逃走する中国兵を前線に押し返し従わなければ容赦なく射殺していたが、全ての前線が崩壊し、全ての中国兵が敗走し始めた為に、食い止める事なく一緒に逃走した。
 上海の日本人居住区を攻撃していた中国軍も退却して、日本人居留民は救われた。
 上海派遣軍は、日本人居留民を救出するという目的を果たした。
 約3ヶ月に及ぶ上海攻防戦で、日本軍は約20万人を投入して4万1,942人の戦死傷者を出した。中国軍は、最精鋭部隊85万人以上を配置して33万人以上の戦死傷者を出した。
 中国軍40万人以上は、最大最強の防衛陣地であるヒンデンブルク・ラインに止まらず南京を目指し、陣地内に配備してあったドイツ製武器や弾薬を放棄して潰走した。
 第10軍は、戦勝の勢いから敵主力を追撃殲滅するべく首都南京を目指すべく、東京に意見具申した。
 軍部は、中国軍主力を殲滅すれば、第一次上海事変や盧溝橋事件のように現地交渉により停戦できると、これまでの経験から楽観的希望を抱いていた。
 陸軍中央は、中国軍に一撃を加えて停戦してソ連の侵攻に備えるべきであると考え、これ以上の拡大は泥沼化するとして南京攻略を渋った。
 李宗仁「各軍は大慌てで撤退した。敵機の日夜を問わぬ爆撃が加えられ、人馬は錯綜し秩序は大いに乱れた。数十万の大軍は、鉄筋コンクリートで作られた蘇嘉の国防陣地にたどり着いた。しかし、退却の足を止められなかった。陣地には堅固なトーチカがあったが、退却する兵士達は鍵を見付けられず中に入らなかった。その結果、トーチカは全て放棄された。破滅的退却の悲惨さは、一言では尽くしがたい」
 ドイツの保守派は、これ以上の戦闘が長引くと貿易に悪影響を及ぼし、中国に共産主義が蔓延する危険があるとして、東京のディルクセン大使に両国に和平交渉を促すように示唆した。
 ドイツ陸軍としても、これ以上の敗北はドイツ軍の軍事力の脆弱を証明する事になるとして憂慮した。
 ファルケンハウゼン将軍は、上海戦線が崩壊し最強部隊が消滅した現実を踏まえてなお日本と戦う意思があるか探るべく、蒋介石孔祥熙らに日本との和平を持ちかけた。
 だが、蒋介石らは、中国人民の抗日意識に圧されて徹底抗戦を譲らなかった。
 ドイツ軍事顧問団は、鍛え上げた中国軍精鋭部隊を失った為に、補充された部隊に不退転の闘争心を植え付けるべく日本軍への八つ裂きにしても治まらない憎悪を叩き込んだ。
 中国人による、日本人への敵意は増した。
 そして。第一次世界大戦で経験した事から、アメリカを味方に付ける為の謀略工作を本格化した。
 日本軍が如何に悪逆非道な非人道的残虐行為を行っているかを、ヤラセで写真やニュース映画を撮影し、嘘八百を並べ立て捏造や歪曲や改竄の記事をユダヤ系国際報道機関に流した。
 一部の偏執的反天皇反日キリスト教宣教師らは、日本をキリスト教化できない腹いせから、世界各地のキリスト教会で「正義の中国・悪魔の軍国日本」という説教を行い、国際世論に中国支援を訴えた。
 日本軍は、情報戦の重要さが理解できなかった為に、中国とドイツ軍事顧問団とのプロパガンダ戦に負けた。
 日本は世界から袋叩きにあい、許される事のない戦争犯罪国の烙印をおされた。
 多くの者がA級戦犯として処刑され、靖国神社の祭神として祀られた。
 靖国神社は、侵略礼賛施設として廃絶を求められている。
 11月11日 上海の英字新聞は、日本軍に対し治安が急速に回復し始めた事に対して感謝する論評を記載した。
 11月15日 駐日アメリカ大使グルーは、軍国日本からの和平斡旋依頼を拒否した。
 ルーズベルト大統領は、蒋介石ウォール街の国際金融資本や軍需産業の強い要望に従って、軍国日本の和平斡旋依頼を拒絶する事を決定した。 
   ・   ・   ・   
 日本軍は、中国人捕虜を収容し、負傷者に治療を与え、病人には治療を施して、戦闘が終了したら武器を没収して帰郷させた。
 敵軍捕虜を手厚く人道的に収容するというのが、明治から国際赤十字に貢献してきた皇室の大方針であった。
 敵軍捕虜を虐待する事は、大元帥天皇の命令に逆らう不忠であり叛逆行為であった。
 それは、皇軍天皇の軍隊の恥じであった。
   ・   ・   ・   
 11月中旬 南京で。蒋介石は、今後の対日戦についての戦略会議を開き、ドイツ軍事顧問団のファルケンハウゼン将軍にも出席させた。
 首都南京の防衛について、徹底抗戦派は断固死守を主張し、ファルケンハウゼン将軍は放棄を進言した。
 ファルケンハウゼン「中国は今後もかなり長期にわたって抗戦できる、南京の陥落は軍事面よりむしろ政治上の意味を持つものである。上手くいけば、半年間、抗戦が継続できる」
 蒋介石は、ファルケンハウゼンの抗日長期戦計画を採用し、日本との停戦交渉を拒否して、政府機能と主力部隊を漢口に移す事を命じた。
 ドイツ軍事顧問団は、持てる力を尽くして軍事支援継続を誓った。
 事実上の南京放棄が決定されたが、将兵への動揺を避ける為に極秘で行われた。
 南京守備隊司令官の唐生智は、与えられた南京防衛軍30万人以上を城内外に配置して徹底抗戦を命じた。
 南京の防衛陣地も、ドイツ軍事顧問団の指図で建設された堅固なトーチカ群であった。
 ヒトラーは、ノイラート外相、ブロンベルク防相、フリッチェ陸軍司令官、ゲーリング空軍司令官、レーダー海軍司令官らに、オーストリアチェコスロバキアの併合と東方への進出計画を打ち明けた。
 ノイラート外相、ブロンベルク防相、フリッチェ陸軍司令官は、反対した。
 シャハト経済相兼帝国銀行総裁ら保守層も、国際社会との関係が悪化して経済活動に支障が来す恐れがあると懸念して消極的であった。
   ・   ・   ・   
 国民党は、反日プロパガンダを仕掛ける為に、中央宣伝部の第5部を国際宣伝処に改組し、アメリカ大学留学組を幹部に採用し、親中国派の新聞記者や反天皇の宣教師らを使って反日宣伝を行った。
 ニューヨーク・タイムズ紙やシカゴ・デェリー・ニュース紙などは、抗日中国の捏造情報であろうとも事実として掲載し、反日世論を誘導した。
 国際宣伝処は、翌38年に偽情報の謀略本だる『戦争とは何か』(著者ティンパーリ)を出版した。
   ・   ・   ・   
 11月18日 上海の第10軍約10万人は、停戦交渉が成立しなければ、南京周辺に駐屯している中国軍50万人以上がいつ上海に進撃してくるわからないとして、南京への進撃を求めた。
 陸軍内の不拡大派と一激論は、南京攻略について激論をかわし分裂した。
 第10軍司令官柳川中将は、独断で、全軍に「南京に敵を追撃せよ」と命じた。
 ドイツ軍事顧問団の、日本軍を奥地に引き込むという長期戦戦略は成功した。
 スターリンは、中国を訪問している中国代表団に対して、日本との戦争に勝利する為には、ソ連だけではなくナチス・ドイツアメリカ、イギリス等からも武器を調達して抗日戦に巻き込むべきであると力説し、
 「ソ連は、現時点では日本との戦争を始めることはできない。中国が日本の猛攻を首尾良く撃退すれば、ソ連は開戦しないだろう。日本が中国を打ち負かしそうになったら、その時、ソ連は戦争に突入する」
 ソ連は、ファシスト中国と軍国日本の戦争が長期化し泥沼化して、両国が回復不能なまでに疲弊する事を望んでいた。
 スターリンの意図は、中国と日本を含む全アジアを共産主義化する為に中国共産党を育成し、ファシスト中国と軍国日本を殲滅して最後の勝利者になる事であった。
 アメリカ国内のソ連スパイは、スターリンの意向に従ってワシントンを反日に誘導し、軍国日本との戦争を続けさせる為にヒト・モノ・カネによるファシスト中国への軍事支援を増加させた。
 軍国日本は、ソ連中国共産党を軸にしたファシスト中国、ナチス・ドイツアメリカ、イギリス、オランダの連合軍による攻撃に晒される事となった。
 共産主義者ほど、戦争や暴力的革命を好みそして虐殺を実行したイデオロギー集団はいなかった。その残虐性は、反宗教無神論として良心や道徳心や常識を持たないだけに、カルトとして恐れられる狂信的宗教テロリスト集団を遙かに超えていた。
 20世紀の戦争の大半が、ソ連中国共産党共産主義勢力による、共産主義者が起こした戦争である。
 11月19日 閣議。軍部による大本営への首相参加拒否で、大本営政府連絡会議設置を決定した。
 11月20日 日本は、「日本人居留民を中国人暴徒や中国軍の攻撃から守りたい」それだけの単純な目的で、基本戦略もないままに大本営を設置し、中国への侵略戦争を本格化した。
 国民党政府は、ドイツ軍事顧問団の助言に従って首都を南京から重慶に移転させた。
 蒋介石は、「長期戦」「持久戦」に持ち込み国際世論を味方にするという基本戦略から徹底抗戦を全国民に呼び掛けた。
 各国の報道機関は、中国側の発表を無条件で受け入れ、トップニュースで非戦闘員である民間人まで容赦なく虐殺する日本軍の残虐行為を報じた。
 11月21日 軍部は、支那事変で犠牲となった馬や犬など軍用動物の慰霊祭を挙行した。
   ・   ・   ・   
 日本人の宗教観は、人間と動物や植物の「命」「霊魂」は対等であるとして分け隔てなく平等に弔う。
   ・   ・   ・   
 11月25日 日本軍は、松井司令官の意向に従って、上海の激戦地であった地域に敵味方に関係なく戦没した者の「無名戦士の碑」を立て慰霊した。
 11月28日 駐華ソ連大使館付武官ミハイル・イワノウィッチ・ドラトウィンは、蒋介石を訪ね、ソ連本国が要請された航空機、戦車、大砲などの武器弾薬を送った事を伝えた。
 11月30日 蒋介石の日記「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の掠奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ……撤兵時の掠奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」
 中国人の言動や日記などが、必ずしも真実を伝えているとは限らない。
 中国の正史に記載されている半数以上が捏造で、大半が意図的に改竄された偽史である。



   ・   ・   ・