🎹32:─3─ノモンハン事件は戦傷病死者が少なかった日本軍の敗北であった。~No.211No.212  ㉙ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
ノモンハン事件は戦傷病死者が、少なかった日本軍の敗北であり、多かったソ連軍・中国共産党・国際共産主義勢力の勝利であった。 
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 戦争の勝利とは、兵士と国民を敵より大量に犠牲にしようとも戦争目的を達成する事であって、犠牲者を少なくして戦争を早期に終結させる事ではない。
 32年テーゼ。
 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 日本民族は「数万年前・数千年前の祖先から受け継いだ民族中心神話所縁の正統な血筋・血統による世襲の男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す」という積極的自衛戦争で、一カ国だけで、孤独に、孤立して、国際的な反宗教無神論・反天皇反民族反日本勢力から甚大なる犠牲者を出しながらも死守した事で、個々の戦闘という戦術には負けたが、戦略では勝利してた。
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 2023年7月13日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「ノモンハン事件ウクライナ戦争、80年を隔てた旧ソ連軍の共通点とは?
 匍匐前進する日本兵
 昭和14(1939)年、モンゴルの草原地帯で日本軍とソ連軍が激突したのが、ノモンハン事件だ。謎の多かったこの戦闘の実態を、歴史家・秦郁彦氏が旧ソ連側の資料を精査して明らかにした大著『明と暗のノモンハン戦史』が、講談社学術文庫で再刊された。毎日出版文化賞を受賞した決定版である。
 【写真】草原の激戦・ノモンハン事件
 80年前のノモンハンと、現在のウクライナに見られる旧ソ連軍(ロシア軍)の共通点とは。局地的な戦闘にとどまらない、この事件の重い意味とは何か。著者の秦郁彦氏に聞いた。
 4ヵ月にわたる「奇妙で残酷な戦い」
 ――ノモンハン事件とは、どのような事件なのでしょうか。
 秦 戦前期の日本では、大陸各地で大中小さまざまな規模の国境紛争が頻発していましたが、その大部分は日本が防衛責任を負っていた満洲国とソビエト連邦、あるいは満洲国とソ連の衛星国だったモンゴル人民共和国の国境地帯で起きています。なかでも昭和14年に起きた「ノモンハン事件」は、実質的には日本の関東軍ソ連軍との4ヵ月にわたる激戦となり、双方とも2万人前後の死傷者を出しました。規模から言えば、小型の戦争並みです。
 ――日本とソ連の、どちらが勝ったのですか。
 秦 そこはずっと議論が絶えないところです。戦前期は「日本軍の犠牲も少なくなかったが、日本兵は速射砲や火炎瓶でソ連の戦車をやっつけて引き分けた」というのが平均的イメージでした。
 しかし戦後はイデオロギーが介在して、左翼歴史家たちの見解は「日本軍惨敗」で統一されてきました。「日本軍の人的損害はソ蒙軍の2倍以上」というのが定説のようになり、その目で見ていくと悲惨な場面が次々にでてくる、それをみて「兵たちはこんなひどい戦(いくさ)をやらされた」「悪いのは日本の軍国主義だ」というぐあいでしたが、今やイデオロギーで割り切る時代ではなくなったと思います。
 半藤一利さんはかつて「(関東軍の)勇み足と火遊びのような冒険主義」「それは奇妙で残酷な戦いだった。どちらも勝たなかったし、どちらも負けなかった」と論評しており、実にうまく言い当てていると思うのですが、まあ、これは文学的な総括です。軍事学的にはこれでは済まないので、物理的な要素もいれて検討する必要があります。冷静に議論をするための材料をきちんと揃えておきたいと考えて書いたのが、この『明と暗のノモンハン戦史』です。
 死傷者はソ連のほうが多かった
 モンゴルの草原を進軍する日本兵
 ――事件から80年以上が経ちました。実態を知るには長い時間が必要だったのでしょうか。
 秦 特に、1990年代以降、旧ソ連側の資料が公開されるようになって、それまではほとんど知ることのできなかったソ連軍の動きや装備がわかるようになったのは収穫でした。戦闘の実態を知るには、戦った双方の資料を突き合わせることが不可欠ですから。
 そうして日ソ双方のデータを検証すると、結局、双方に事前の作戦計画があったわけではなく、偶発的に起こった戦闘が拡大したということがはっきりしてきました。
 また、人的損害では、戦死者は日ソとも約1万人。ただし死傷者の総計では日本軍の約2万人に対してソ連軍は2万5000人と、ソ連軍が日本軍を上回ったのは確実です。そこに着目して「ノモンハン戦は引き分けないし日本の勝利に近い」という論調や、極端なところでは「日本軍の大勝利」と唱える論者も現れました。
 しかし、戦闘の勝敗は被害統計だけではなく、目的達成度や政治的影響など総合的な見地から論じる必要があります。戦争目的を達成したか否かで見ていけば、この戦闘の主目標はノモンハン地区における係争地域の争奪ですから、それを失った日本軍の敗北と評するほかない、といえましょう。
 ――ソ連軍は、目的達成のためには人的損害をいとわなかったのですか。
 秦 そうですね。ノモンハンでも現在のウクライナ戦争でも、ロシアは政治的目的のためには人命損失をいとわないんです。ただ、それはロシア人やロシア帝国に特有の伝統なのか、というと……、簡単には言えません。
 共通しているのは、トップが強くて「上から言われたとおりに戦え」というトップダウンのやり方、そのかわり下士官層の発言力が弱いという共通点はあります。下士官層がしっかりしていると上手に戦えるというか、そんなに無茶をしないんでしょうが……。でもそれは、旧日本軍も今のロシアと同じじゃないか、と言われると「違う」とも言えない。
 人的損害は、一般に攻めるほうの損害が大きく、守る方は損害が小さいのです。ノモンハンでは、日本はどちらかと言えば守勢側で、ソ連が攻める側です。現在のウクライナ戦争は、ウクライナが守る方でしょう。攻めるのはもっぱらロシア軍で、特に囚人兵を集めた民間軍事会社のワグネルは、最初から「捨て駒」の扱いですよね。ですから死傷者数はロシアのほうが多いという数字が出ている。
 でも、人口比などから考えてどちらのダメージが大きいのか、とか、軍事拠点の物的損害など、戦争が終わり双方のデータが揃わないと、戦争の勝敗というのは、なかなかはっきりとは決められないものなのです。
 ――ノモンハン事件の当事者たちは、どのような認識だったのでしょうか。
 秦 ノモンハン戦は、日清・日露戦争いらい「連戦連勝」だった日本陸軍にとって、最初の「敗北体験」でした。そこでは、無断退却や戦意の不足、抗命、捕虜の大量発生など、それまで陸軍が想定していなかった現象が多発したのですが、こうしたことが、当時の日本軍の指導者には教訓になっていないようです。
 そもそも、作戦の中心的役割を担った関東軍参謀の辻政信少佐や服部卓四郎中佐は「負けた」とは思っていません。ノモンハン戦を振り返って「戦争は敗けたと感じたものが、敗けたのである」と語った辻の言葉にも、それが感じられますね。
 ノモンハンでの敗戦が「日本軍を南方に向かわせた」と言われることもありますが、2年後の昭和16年にはドイツの対ソ開戦に呼応してシベリアへ進攻しようと、「関特演」(関東軍の特別な演習)の名目で日本は満洲に50万を超える大兵力を集中したりしています。この時は冬が来る前に作戦終了の見込みが立たずに断念していますが、軍の指導者層は「対 ソ戦」に全然懲りてないんですよ。
 天皇大権を干犯、将校に自決強要
 ――その後の歴史にも影響は大きいですね。
 秦 昭和14年7月3日には、関東軍1万人の大軍が、日本側が国境と定めていたハルハ河の仮橋を渡って進攻します。これは関東軍の辻たちが立てた作戦を大本営も抑えられなかったのですが、天皇にそれを上奏したのは前日の2日だという。しかしこの日は日曜日で、2014年に公開された「昭和天皇実録」によれば天皇は一家団欒の状態で、上奏の記録はない。状況証拠からみれば事後報告で、これは天皇の大権を犯す死罪にあたる大罪なわけです。しかし、関係者はこのあたりの詳細については、今も黙秘を決め込んでいる。
 この時、大権干犯した関係者を処分できていれば、日米戦争についてもっと冷静な判断ができたのではないかと思います。辻、服部、田中新一作戦部長、この3人が大東亜戦争を始めたんだという見方がありますけれど、ノモンハン「敗北」の責任者をそろって大本営の作戦課長(服部)、兵站班長(辻)に起用したのは理解に苦しみます。
 そのあたりが、日本軍の組織というのは一種のモンスターですね。皇軍だと言いながら、天皇の意思などは全く無視していたわけですよ。
 ――結局、だれも責任をとらなかったのでしょうか。
 秦 潰滅した第23師団の師団長・小松原道太郎をはじめ、多くが予備役編入や左遷気味の転補など、ぬるま湯的な行政処分ですませてしまい、免官、停職のような例は少数でした。
 もっとも過酷な運命を強いられたのは捕虜交換で帰ってきた将兵でした。将校たちは自決を強いられ、下士官兵は軍法会議にかけられて懲役や禁固刑を科せられたのです。しかもこれらは内輪で処理され、国民に知らされることもありませんでした。
 こうしたノモンハン人事の先例は、より無責任さと過酷さを増して、大東亜戦争期に引き継がれていくのです。
 秦 郁彦(歴史家)
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日本軍とファシスト中国軍・ドイツ軍事顧問団連合軍との戦争。 
ドイツ軍事顧問団は敗退して撤退した。 
2018-08-07
🎹28:─1─ソ連の極秘命令を受けた中国共産党日本共産党。第二次上海事変。中ソ不可侵条約調印。日本軍部の軍医部。1937年8月〜No.150No.151No.152・ 
2018-08-09
🎹28:─2─国際世論は、ファシスト中国の対日批判を支持し、宣戦布告に匹敵する対日経済制裁宣言を要請した。1937年9月 ~No.153No.154No.155・ @  
2018-08-10
🎹28:─3─ルーズベルトの隔離演説。ドイツ軍事顧問団は、アメリカを日中戦争に引き込む為に長期戦を蒋介石に提言した。1937年10月~No.156No.157No.158・ @ 
2018-08-11
🎹28:─4─ドイツ軍事顧問団は、中国人民に日本人を根絶やしにしたいほどの憎悪を植え付ける反日教育を指導した。1937年11月~No.159No.160No.161・ @
2018-08-12
🎹28:─5─第二回南京事件。パネー号事件。日本軍は南京を占領してドイツ軍事顧問団が育成した中国軍を撃破した。1937年12月~No.162No.163No.164・ @ 
2018-08-15
🎹28:─6─ニューヨーク・タイムズ紙など反日的報道機関は、ドイツ軍人が創作した南京虐殺を報道して国際世論を反日に誘導した。1937年12月17日~No.165No.166No.167・ @ 
2018-08-18
🎹28:─7─ドイツの保守層、国防軍軍需産業は、ヒトラーの許可を受け、抗日軍に軍需支援を続けた。1937年12月21日~No.168No.169No.170・ @ 
2018-11-16
🎹28:─8─アメリカの宣教師史観と第二回南京事件。布教の為には手段を選ばない宣教師達。~No.171No.172No.173・ @ ㉕ 
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創作された第二回南京事件
2019-04-23
🎹29:─1─西洋の潜在意識には反天皇反日敵日感情が蠢いている。~No.174No.175No.176No.177・ 
2019-04-20
🎹29:─2─南京陥落前のファシスト中国による漢奸(かんかん、ハンジェン)狩りと親日派知日派大虐殺。〜No.178No.179No.180・ * 
2019-04-21
🎹29:─3─第2回南京事件を事実と証明する一次史料。〜No.181No.182No.183・ * 
2019-04-22
🎹29:─4─中国共産党の「南京大虐殺関連資料」。世界記憶遺産認定と天皇に対する謝罪要求。~No.184No.185No.186・ *
2018-08-20
🎹29:─5─戦後50周年の終戦記念日村山富市内閣総理大臣談話全文。(平成7年8月15日)~No.187No.188No.189・ @  
2018-08-21
🎹29:─6─各国に広がる「南京大虐殺記念日」制定動議可決と日本批判。カナダ。~No.190No.191No.192・ @  ㉖ 
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中立国ソ連ファシスト中国に正規兵や武器弾薬を提供していた。
2018-08-22
🎹30:─1─日中戦争がドロ沼化し長期戦したのはソ連が原因であった。~No.193No.194No.195No.196・ @ 
2018-08-23
🎹30:─2─スターリンは、極秘で、ソ連軍正規兵と国際義勇部隊に武器弾薬を与えて抗日戦争に参戦させた。東京万博開催中止。1938~No.197No.198No.199年・ @  
2019-04-24
🎹30:─3─中国共産党日本共産党は、日本人兵士捕虜で洗脳できる者は助け、できない者は惨殺した。1938年~No.200No.201No.202・ * ㉗ 
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国際世論は反天皇反日であった。
2018-08-25
🎹31:─1─アメリカ政府は、ファシスト中国を自由・民主主義陣営の一員として歓迎した。反日ユダヤ人による抗日宣伝工作。1938年7月〜No.203No.204No.205No.206・ @ ㉘ 
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日本軍とソ連軍の戦争。
2018-08-28
🎹32:─1─スターリンの大粛清。ノモンハン事件アメリカ陸軍航空部隊は、民間ボランティア部隊を派遣して日中戦争に参戦した。1939年~No.207No.208No.209・  @ 
2019-09-25
🎹32:─2─ノモンハン事件ソ連軍の攻勢に惨敗した日本軍・関東軍。~No.210No.211No.212 ・ * ㉙ 
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