🎺13:─3─ルーズベルトは、日本側の譲歩2案を拒否する事を決断した。米英は開戦を誘導した。1941年11月15日~No.75No,76No.77 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ルーズベルトの側近やワシントンの高官には、スターリンの指示で日米戦争を起こそうと為ている共産主義者が多数いた。
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 アメリカ軍とイギリス軍は、対日戦の準備を完了した。
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 11月15日 大本営は、日米交渉の進展に考慮して、作戦開始時期を保留した南方作戦を発令した。
 大本営政府連絡会議は、大東亜戦争を集結させる基本方針として、ソ連との戦争を避け、インド及びイラン方面への進出を認め、日独伊三ヶ国にソ連を加えて有利な条件で講和に持ち込むとした。
 ジョージ・C・マーシャル参謀総長は、ニューヨーク・トリビューン誌、ニューヨーク・タイムズ誌、タイム誌、ニューズウィーク誌、AP通信社、UP通信社などの報道機関に対して、秘密厳守のもとでオフレコの記者会見を行った。12月10日までにフィリピンの陸軍航空基地にBー17などの重爆撃機を配備して、早い時期(宣戦布告以前)にその大編隊で日本本土を爆撃し、主要な都市を火の海とする計画を準備中であると言明した。
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 11月中旬 外務省南洋局は、外務省はもとより南洋局の決定ではない、局内の一当事者意見として「南方戦ノ性格、戦争目的ニ関スル1意見」という文書を作成し。
 戦争の基本的性格を必要物資獲得と述べ、
 宣言すべき戦争目的を優先順位に従って、
 1,生存の擁護──自存自衛。
 2,援蒋行為の抜本塞源的排除。
 3,大東亜の興隆。
 の三つをあげた。
 日本は、アジアの解放を重視してはいなかった。
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 11月16日 来栖三郎特命大使は、野村大使に協力し膠着した日米交渉を打開する為にワシントンに到着し、記者会見で日本は平和を望んでいると発表した。
 アメリカ政府の某高官は、日本の来栖特使に、「(アメリカは)太平洋で米英両国の艦隊を事実上、連合させようというイギリスとの海軍同盟」を結んだともらし、日本側に譲歩を迫る圧力をかけたといわれている。(ニューヨーク・タイムズ記者アーサー・クロック)
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 11月17日 東條首相と東郷外相は、日米交渉に関する国会答弁で、米英両国は日本を包囲し経済及び軍事であらゆる強硬な圧力をかけていて交渉成立は予断が許せないと発言した。
 重慶政府の郭泰祺外相は、日本を包囲する国際的ABC同盟が成立したとの声明を出した。
 AP通信やUP通信など国際報道機関は、日本を包囲する国際的連帯協議が行われていると報道していた。
 ニューヨーク・タイムズなどアメリカの報道機関も、同様の協調行動が進められ、日本は追い詰められつつあると新聞に掲載していた。
 日本に対する好意的記事を載せる報道機関は、枢軸国諸国の報道機関以外では存在しなかった。
 ユダヤ系国際報道機関は、あからさまな反日天皇の批判記事を載せ、敵対関係を鮮明にしていた。
 野村大使と来栖特使は、和平交渉を迅速に進めるべくルーズベルトと会談した。
 来栖三郎「日本はもとより対米交渉の成功を強く望んでいる、それには時間的な要素が或る。日本は事態を遷延するほど、自己を防衛するのに当たりって、経済的、軍事的条件が悪化する事になる。日本としては、今後、無為に過ごして結局は全面的な屈服となる事は、どうしても耐えられない。日本としては妥協に対する熱意は十分にあるから、急いで交渉を妥結させる必要がある」
 ルーズベルト「友人の間には、最後の言葉はない。日米間に何らかの一般的な諒解を作る事によって、事態を救う事が出来ると思う」
 昭和天皇と軍国日本は和平を望み、中立国アメリカは戦争を望んでいた。
 4月から続けられて来た素人外交交渉は、和平への道を築くどころか、戦争へと事態を悪化させるだけで終了した。
 国家の運命を決定する重要な外交交渉に於いて、国益を無視した善意だけの民間外交は有害であった。
 満州首都憲兵隊は、在満日本共産党組織を壊滅する為に、満州国農事合作社主事の佐藤大四郎を逮捕し、同時に日本内地から移り住んだ転向組を含んだ16名を治安維持法違反で逮捕した。
 コミンテルンは、6月に独ソ戦が始まるや「日本軍が北進してシベリアに侵攻しないようにせよ」と、ゾルゲと日本人協力者に指示した。
 尾崎秀実は、満鉄調査部を通じて佐藤大四郎ら転向組に、シベリアの農作物と畜産事情の調査を依頼した。
 佐藤大四郎は、「過去3年間、シベリアの農業は不作で家畜の成育も悪い」との偽報告書を提出した。
 満鉄調査部は、「北進しても食糧はない」という偽報告書を参謀本部に送った。
 政府と軍部は、南進はアメリカとの戦争になるとして猛反対する松岡外相の意見を退けて、東南アジアに進攻してもアメリカは干渉しないという偽情報を信じて南進を決定した。
 転向組が、本心からマルクス主義を捨てたとは限らなかった。
 共産主義革命は、結果として革命が成功するのであれば手段を選ばなかった。
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 11月17日 東条英機首相は、臨時議会施政方針演説で、外交の三原則を発表した。
 1,第三国が日本の企図する支那事変完遂を妨害しない事。
 2,日本を囲む諸国家が直接軍事行動はもちろん、経済封鎖という敵性行為を解除し経済の正常関係を回復する。
 3,欧州戦争が拡大して戦禍が東亜に及ぶ事を極力防止する。
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 11月18日 ニューヨーク・タイムズ誌は、フィリピンの航空基地を発進した爆撃機は日本を爆撃した後にウラジオストックに着陸し、ウラジオストクで燃料を補給し爆弾を積んでその帰路で日本を再空爆してフィリピンに帰着すると言う記事を載せた。
 ロンドン。イギリス内閣合同情報小委員会は、日米交渉が佳境に入り日本の意図についての報告書をまとめた。
 「日本政府は英米と戦火を交えるリスクを冒す決断に至っていないが、交渉が決裂すれば、英、米、オランダと戦端を開く侵攻作戦を行なう判断を迫れる」
 「(日本軍の侵攻先として)日本は対英、対米開戦の予備的作戦として最初にタイに進駐する。タイ占領後、マレーさらに日本が最も不足している石油を求めて蘭印に侵攻する。日本の石油備蓄量は9ヶ月から12ヶ月だからだ」
 「ロシアへの侵攻は、極東ロシア軍が弱体化するまで据え置かれる」
 「マレー進攻ははおそらく北の陸上から実施され、半島最南端のシンガポール強襲も海上から行われない」
 チャ−チルとイギリス軍は、日本軍のマレー半島を南下してシンガポールを攻略する作戦情報を得ていたが日本軍の実力を過小評価した為に、短期間でシンガポール陥落を招く失敗を犯した。
 内閣安全保障委員会は、4月の会議で、日本軍の戦略では「シンガポール攻撃の可能性は低い」と断言していた。
 チャーチルは、対ドイツ戦を主とし対日戦を従と考え、日本軍の攻撃を予想していたが「日本軍にはイギリスを攻撃する力はない」と信じていた。
 イギリスは「安全スパイラル」に陥った為に、シンガポール陥落という大惨事を招いた。
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 11月19日 日本外務省は、在外公館に対して風情報を流した。在外公館は、暗号書や機密文書の焼却に取り掛かった。アメリカやイギリスは、東京からの天気予報のニュースをラジオ放送などで傍受し、事態の逼迫している事を理解した。当然、両国の情報機関は日本の在外公館が一斉に大量の書類を焼却している事実を知っていた。
  東の風、雨    日米関係の危機
  北の風、雲    日ソ関係の危機
  西の風、晴れ   日英関係の危機
 アメリカとイギリスの諜報部は、東京ラジオの「風メッセージ」を傍受し、日本は日米交渉に絶望して軍事行動に出る公算が大であると分析した。
 日本を戦争に追い込むに、ありとあらゆる日本軍の残虐行為を捏造してプロパガンダ放送を行った。
 ワシントンは、さらに日本を戦争に追い込み為に強硬な態度を見せ、日本を絶望させた。
 ニューヨーク・タイムズ紙は、国務省内部の情報として、アメリカは同盟国イギリスと友好国ソ連と協力して日本との戦争準備を整えたと報道した。記事を書いたアーサー・クロックは、些細な戦争計画書は陸軍省海軍省の金庫の中に保管されていると付け加えた。
 国務省極東部は、日本との戦争を回避する為に具体的な行動をとる様に、ハル国務長官に勧告した。
 サフォード大佐は、東京からワシントンの日本大使館への重要な暗号電報を傍受し、特別班を組織して日本の短波放送を24時間態勢で傍受する様に命じた。
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 11月20日 野村大使と来栖特使は、東京からの新たな提案によって和解を求めよという指示に従って、ハル国務長官と会談して暫定協定案である乙案を提出した。
 国務省は、乙案を一顧の価値もないとの判断し、黙殺する事にした。
 ハル国務長官は、日本との最悪の事態(戦争)を想定して、イギリス、中国、オーストラリア、オランダの大使と協議を行った。
 アメリカ政府は、日本軍の侵略行為がアメリカに危機をもたらしうとしているもと発表した。
 ハル「我々は、日本の行動と発言から11月20日の日本側の提案が彼等の最終提案である事を知っていた。そこで、対話が継続した期間を通じてアメリカ政府がとった立場を一点の曇りもなく明らかにしておく事は当然ながら望ましい事であった。……11月22日以降、日本はすでに平和的解決を見据えた真剣な対話を放棄したというのが、私の個人的な見解だった」
 ヘンリー・モーゲンソー財務長官は、二正面作戦を回避する為に、暫定協定案の作成に取りかかった。
 隠れ共産主義者のハリー・ホワイトは、ソ連工作員であるパブロフの指示で行動していた。
 国務省極東部の幹部は、大統領の「不参戦公約」を信じ、「参戦決意」の本心を知らなかった為に、戦争を回避する暫定協定案に賛同した。
 ハリー・ホワイトは、3ヶ月の暫定期限を設けた穏和案と10項目の強硬案(ハル・ノートの原案)を起草して提出した。
 ルーズベルトは、日本軍がアメリカを素通りしてシンガポールや蘭印を攻撃する事を恐れていた。
 最大の懸念は。アメリカ世論は、軍国日本がアメリカを避けてイギリスとオランダを攻撃した時、参戦を許さない可能性があった。
 さらに。仮に、太平洋の彼方にあるフィリピンやグアムなどの植民地を攻撃したとして、アメリカ国民が日本との戦争を許すか分からなかった。
 当のルーズベルトも、グルー大使も、対日戦は不可能であろうと考えていた。
 アメリカ国民を参戦に向かわせる為には、日本軍にハワイなどのアメリカ領土を攻撃させ、間違いなく参戦を訴えるだけの被害を出す必要があった。
 スチムソン陸軍長官「問題は我々が多大な被害を蒙らずに、如何にして日本の第一撃を引き出すか、その方法だった。これは難問だった」
 ルーズベルトは、アメリカが参戦する前にイギリスとナチス・ドイツが戦争を止めて講和する事を恐れていた。
 事実。退位したウィンザーエドワード8世は、祖国の荒廃を防ぐ為に徹底抗戦を主張するチャーチルを批判し、夫人のシンプソン女史を通じてナチス・ドイツ接触の糸口を探っていた。
 前首相のチェンバレンらも、戦火で回復不能な状態になる前に一刻も早く戦争を終結させるべく秘密裏に動き始めていた。
 イギリス国民も、二年近く続いている戦争に厭戦気分を持ち始めていた。
 副総統ヘスは、和平目的で、イギリスに単独飛行して親独派のケント公の牧草地に降り立っていた。
 アメリカ金融界は、ドルを戦後世界経済の基軸通貨として国際金融市場を支配する為に、武器貸与法を使ってイギリスが世界中に持っている全権益と国内の5,000万ポンド相当に金塊を奪った。
 ドル一極支配体制の為に、イギリスとナチス・ドイツを回復不能になるまで徹底的に戦わせ、疲弊させ、荒廃させようとした。
 ゆえに。アメリカは、イギリスとナチス・ドイツの和平を阻止する必要があり、時期に来たら是が非でも参戦しなければならなかった。
 アメリカ陸軍は、日本軍のフィリピン侵略に備えて戦車部隊をバターン半島に配置し、万全の防衛体制を完成させた。
 イギリス軍は、日本軍の侵略に備えて、8月から9月の間にマレーシアの要塞地帯ジットラ・ラインや香港の九龍の防衛を完成させた。
 アメリカ陸軍は、海軍に対抗する対日勝利計画として、欧州戦線で撃墜された事のない「空の要塞」と恐れられた40機のB−17をフィリピンなど太平洋戦域への配備を急いだ。
 対日戦開戦と同時にB−17で東京を無差別爆撃すれば、日本軍用機ではB−17を撃墜できない為に2、3ヶ月で軍国日本を降伏させられる確信していた。
 ならば、マニラとウラジオストックを往復飛行して示威運動すれば戦争防止になると一部の軍人は考えたが、対日戦を臨みルーズベルトによって却下された。
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 11月21日 来栖大使は、ハルに単独会見し、三国同盟は即刻一片の死文と化す申し入れを行った。アメリカは、日本側の三国同盟死文化申し入れに興味を示さなかった。
 ハル国務長官は、国務省の極東問題ブレーン・トラストと今後の交渉を協議した。
 国務省筋は、記者会見で、日本に対して如何なる譲歩もするつもりはなく、依然として事務的予備交渉であり具体的提案を基にした本交渉ではないと発表した。
 アメリカの陸軍参謀本部戦極秘報告によると。マーシャル参謀総長は、日本との開戦を12月1日に設定し、日本への宣戦布告前の先制攻撃準備状況を聞いた。
 部下の参謀は、台湾の日本海軍基地と日本本土の工業地帯を含む約6,000ヶ所の爆撃目標を印した地図を、フィリピンのマッカーサーに送った事を報告した。
 だが、日本本土爆撃計画は、大型爆撃機の配備が遅れている為に決行日を翌年42年3月に繰り下げた。
 軍当局は、国務省に対して、それまで日米交渉の決裂を引き延ばす事を要望した。
 戦争を求めたのは、日本ではなく、アメリカであった。
 昭和天皇は戦争を回避する事を希望したが、ルーズベルトは戦争を希望した。
 ルーズベルトに参戦を求めたのは、スターリンであり、蒋介石であり、チャーチルであった。
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 ニューヨーカー誌に、真珠湾攻撃を思わせる様な日時と北緯を表す様な奇妙な暗号広告が掲載された。
 後日。FBIは,アメリカ国内に潜伏して活動している日本スパイへの攻撃を知らせる暗号ではないかと調査するが、掲載契約書の住所と電話番号がデタラメで、会社自体が実在せず、捜査を行き詰まって謎のまま終わった。
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 11月22日 東郷外相は、野村・来栖両大使に対して、交渉終了期日が25日から29日までに4日間延長された事を伝え、経済制裁としての対日禁輸令を解除する様に全力で交渉に当たるよう訓令した。
 真珠湾奇襲機動部隊は、択捉島の単冠湾に集結した。
 ルーズベルトは、ネルソン・ロックフェラーを米州問題調整官として経済防衛会議の新たなメンバーに任命した。アメリカは、経済戦争の範囲を地球規模に拡大し、敵性国家に対する輸出統制法、友好国に対する武器貸与法、国内産業に対する戦略物資法を持って戦い抜こうとしていた。
 日本本土爆撃を主目的とした爆撃機パイロットを中心としたアメリカ第二義勇兵部隊が、サンフランシスコを出発した。宣戦布告前日本爆撃に使用される爆撃機や戦闘機の各部品の船積みも、大統領命令で急ピッチで進められていた。
 野村大使と来栖特使は、日本側は南部仏印から引き上げを含む提案を、ハル国務長官に手渡した。
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 11月24日 ホワイト・ハウスで。ルーズベルトは、イギリス、中国、オランダの代表団と個別に会談して意見交換を行った。
 ワシントンで、アメリカ・イギリス・中国・オーストラリア・オランダの5カ国が対日連合戦線を結成した。
 中国側は、日本に理解を示す様な如何なる譲歩にも反対し、相変わらず戦争を求める様な強硬発言を繰り返していた。
 真珠湾。キンメル司令長官は、スターク海軍作戦部長の許可を得て、空母レキシントンによる実戦さながらの航空機による模擬攻撃演習を行った。
 日本人には遺伝的欠陥があって優秀なパイロットは養成できない、と言うのが世界の軍事専門家の共通認識であった。
 そして、日本の航空機は欧米の航空機に比べて劣るというのが常識となっている。
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 11月25日 東南アジアには、植民地支配からの独立を目指す少数派の親日派勢力と、植民地支配を維持しようとする多数派の反日勢力と、人民政府樹立を望む共産主義者のどが存在していた。
 タイ王国も、親日派、親英派、中立派、反王制派、華僑勢力と幾つもの勢力が存在していた。
 タイのピブーン首相は、イギリスのクロスビー公使に対して、軍国日本に対してタイを侵略をすれば米英が対日宣戦を布告するという、英米共同の声明を出す様に要請した。
 アメリカは、ハルノートに、日本軍の仏印への増兵とタイへ進駐を禁止する項目を加えた。
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 ロンドン時間午後1陣20分 イギリス外務省は、ルーズベルトチャーチル宛電報を受信した。
 「(日本側からの20日提案)南部仏印から兵を北部仏印に引き揚げる代わりに米国側は通商関係を資産凍結前に戻し石油の供給を約束する」
 アメリカの暫定協定案「日本が南部仏印から撤兵し、北部仏印の駐留兵を7月26日時点の2万5,000人以下にすれば、米国は在米日本資産の凍結を解除する」
 
 ハル国務長官は、日本の全権代表と会談を繰り返したが、今だ予備会談の域を超えず、本交渉に入るには時期尚早であると発表した。
 報道各社は、これ以上の不毛な交渉は続かずそう遠くない将来に破局を迎えるという、外交専門家筋の情報を報じた。
 中国からワシントンに、日本軍が大軍を南方に移送しつっあるとの極秘情報がもたらされた。
 ルーズベルトは、ホワイト・ハウスで戦争内閣が開き、日本の攻撃は「次の月曜日(12月1日)あたりが、最も危険であると思う」と発言した。
 会議は、「アメリカに最大の危険を招かぬ様に配慮しつつ、日本の方から攻撃せざるを得ない様に仕向ける」事で合意した。
 ハル国務長官「日本は攻撃を仕掛ける準備をしており、いつでも攻撃態勢に入る用意ができている」
 ルーズベルト「日本は警告なくして攻撃するので有名で、たとえば次の月曜日に攻撃されるかも知れない。我々を大変悩ましている問題がある。それは、もし敵が一撃を加えようとしているとすると、その一撃を待っているのは得策ではない。リスクがあったとしても、日本が先に一撃を加えるようにさせる場合、アメリカ国民から全面的な支持を受ける為には、誰の目にも侵略者が誰であるかを確実にしておく必要がある」
 スチムソン陸軍長官「日本に最初の発砲するのを許す事にリスクがあるとはいえ、アメリカ国民の全面的な支持を得るには、誰の目にもどちらが侵略者なのか疑いの余地を残さずはっきりとさせる為に、それをするのが間違いなく日本である様にするのが望ましいことに我々は気が付いた」
 アメリカ軍当局は、対日戦争準備が完了するのは来年春頃になるとの見通しを報告し、対日戦準備が完了するまで対日交渉の延長を要請した。  
 ルーズベルトは、日米交渉をあと3ヶ月ほど引き延ばす為の寛大なる条件を含んだ暫定案を作成した。
 戦争参戦は決定事項であった為に、暫定案は戦争を回避する為ではなく、あくまでも軍当局の要請による時間が稼ぎでしかなかった。
 蒋介石は、90日以上もアメリカの参戦を先送りしては中国は日本軍に完全征服されるとして猛反対した。
 政治・外交顧問として中国に滞在しているオーエン・ラティモアは、暫定案拒否という中国側の強い意向を大統領補佐官ロークリン・カリーに伝えた。
 ハル国務長官は、日本に有利な暫定案をチャーチル蒋介石に伝えた。
 東郷外相は、アメリカの外交電文を傍受して暫定案の内容を知るや、暫定案が提案されれば和平交渉が好転すると期待した。蒋介石が悲鳴を上げる様に拒否しても、チャーチルが暫定案に理解を示した事に一縷の望みを託した。
 親中国派高官の大半がマルクス主義者かその支援者で、中国を共産主義化するというソ連の指示で動いていた。
 ルーズベルト「問題は、どうやって我々が日本に先制攻撃をさせるからである。日本に先制攻撃を仕掛けさせ、どちらが侵略者かを明確にさせる事が理想だ」
 東京の外務省は、ワシントンの日本大使館に対して「交渉の決裂は不可避だが、政府としては交渉決裂の気配を感じさせる事は避けてもらいたいと希望する」
 中国側は、日本とアメリカが戦争する様に、アメリカとイギリスで強力なロビー活動を展開した。
 アメリカとイギリスの政府高官等は、中国人特有の他人の迷惑を一切考慮しないヒステリックな言動に辟易とした。そのヒステリックから逃れる為に日本との妥協的暫定案を断念し、日本との戦争へと踏み出して行った。
 中国人は、世界的に謀略・陰謀がうまい民族である。
 こうして。昭和天皇や東條首相等が一縷の望みを託した和平交渉は完全に断たれ、後は絶望的戦争しか選択肢が残されていなかった。
 アメリカ陸軍参謀本部参謀第二課(Gー2,諜報担当)は、日本軍5箇師団が山東省と山西省から上海に南下し、そこから輸送船に乗って南下したとの情報を、スチムソン長官に伝えた。
 ルーズベルトは、スティムソン長官から知らせを受け、日本は交渉を行いつつも軍艦を南下させていると受け取り、暫定協定案を放棄してハル・ノートを提示する事を指示した。
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 ワシントン時間11月25日夕 アメリカ海軍当局は、アメリカと反枢軸国の全ての船舶に対し、北太平洋横断航路の使用を禁止する事を伝え、当時アメリカ西岸から北太平洋を航行して本国に向かっていたソ連船2隻の内1隻は西海岸の港での停泊を命じ、1隻は太平洋を南へ大きく迂回する航路をとるように指定した。
 これ以降、ハワイ北方の北太平洋には一隻も船舶がいなくなった。
 真珠湾の太平洋艦隊のハズバンド・キンメルは、真珠湾軍港は北方海域からの航空機による弱い事から、日本機動部隊を迎え撃つ大演習を実施したが、ワシントンの海軍中枢の命令によって演習を中止した。
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 2017年12月8日 産経ニュース「米英、日本の軍事行動を予測、開戦誘導か ルーズベルトチャーチル往復電報 
 ルーズベルト米大統領からチャーチル英首相に宛てた電報。末尾に「われわれ(英米)はすぐに起こるであろう本当の困難のためにあらゆる準備をしなければならない」と記してある(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)
 日本によるハワイの真珠湾攻撃から8日で76年。英国立公文書館が所蔵するウィンストン・チャーチル英首相とフランクリン・ルーズベルト米大統領の往復電報によれば、ルーズベルトが開戦13日前に日本の「軍事行動」を予測していたことがうかがえる。チャーチルも返電で対日譲歩に反対し、ルーズベルトが日本に最後通告の「ハル・ノート」を提示した後の開戦直前に米英合同で事実上の“宣戦布告”を呼び掛けていた。米英指導者は戦争回避より先制攻撃するように日本を追い詰め、開戦へと誘導したとの見方が専門家から改めて示されている。
 日米が戦争回避に向けて交渉を続けていた1941年11月25日午後1時20分に英外務省が受信したチャーチルあての電報でルーズベルトは、日本側から20日、「南部仏印(仏領インドシナ)から兵を北部仏印に引き揚げる代わりに米国側は通商関係を資産凍結前に戻し石油の供給を約束する」暫定協定案が提出されたと伝えた。その上で、米政府が「日本が南部仏印から撤兵し、北部仏印の駐留兵を7月26日時点の2万5千人以下にすれば、米国は在米日本資産の凍結を解除する」などの提案を作成したと報告。これは後のハル・ノートの原案の一つで、幻の「暫定協定案」(日本が受け入れ可能な3カ月休戦案)と呼ばれる。
 しかし、ルーズベルトは追記して「これは日本人に対し適正な提案と思えるが、諾否は実のところ国内の政治状況による。あまり希望を持てない」と悲観的な見通しを示し、「われわれ(英米)はすぐに起こるであろう本当の困難のためにあらゆる準備をしなければならない」と警告した。
 日本を挑発、追い詰めた
 英国立公文書館が所蔵するチャーチル英首相とルーズベルト米大統領の往復電報で明らかになったルーズベルトの追記について、大戦中の米英関係に詳しいウォーレン・キンボール米ラトガース大教授は、編著「チャーチルルーズベルト−完全な交信」で、「ルーズベルトは戦争回避よりも戦端を開こうとしていたと解釈される。また日本との開戦危機を欧州戦線への入り口に利用していたとの議論がある」と分析している。
 ■より厳しい協定案
 中西輝政京都大名誉教授は産経新聞に、「暫定協定案を伝えて、日本が受け入れないだろうというのは矛盾している。日本の軍事行動が差し迫っていることを予測していたことは明らかで、チャーチルから最後通告のハル・ノートを出すことへの了解を取ることが目的だったのではないか」と指摘する。
 米エール大図書館所蔵のスチムソン米陸軍長官日記には、1941年11月25日(米国時間)、ルーズベルトが軍事会議で「米国は来週月曜日(12月1日)にも攻撃を受ける可能性がある」と注意を促し、問題は「われわれ自身が過大な危険にさらされることなしに、日本に最初の1発を撃たせるような立場にいかに誘導していくかだ」と発言したと記されていた。
 ハル回顧録などによると、暫定協定案には中国が猛反対した。ルーズベルトはこれを放棄して翌26日、日本に、より厳しい協定案、いわゆるハル・ノートを提示。中国、仏印からの軍撤退など、日露戦争以降に日本がアジアで築いた権益の放棄を求めた。日本は「眼も暗むばかり失望に撃たれた」(東郷茂徳『時代の一面』)ことで米国との交渉打ち切りを決め、戦争を決意した。
 ■チャーチルも呼びかけ
 ロンドン大学経済政治学院(LSE)のアントニー・ベスト准教授は「ルーズベルトは日本がタイなどへ何らかの攻撃準備をしていることを把握していた」とした上で「チャーチルにも戦争回避の意思はなかった。それより米国からアジア、欧州情勢での英国支持の確約を得るという外交目標が大きかった」と分析する。
 マレー作戦など日本の軍事行動を察知していたチャーチルは30日の電報でルーズベルトに、「日本のこれ以上の攻撃(軍事作戦)は、ただちに最も深刻な結末に至ると(米英合同で)日本に宣告すること」が残された手段であると提案しており、中西氏は、「チャーチルは対日戦に米国を巻き込もうと事実上の宣戦布告を呼び掛けた」と読み解いた。
 日米の開戦責任について、東京裁判の判決は、「米国の譲歩にもかかわらず、日本は戦争計画を推進し、真珠湾の奇襲をはたし、強引に戦争に持ち込んだ」と一方的に日本に非があったとしている。しかし、往復電報は、「日本が和平交渉の最中に奇襲攻撃した」卑怯なだまし打ちではなく、「米英指導者が戦争ありきで日本を挑発して開戦へと追い詰めたことがうかがえる」(中西氏)との解釈を裏付けている。(ロンドン 岡部伸)」
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