- 作者:マイケル・ゴーディン
- 発売日: 2013/08/09
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ルーズベルは、日本人を真っ当な人間とは認めず、野蛮性を消滅させ無能化する為に東南アジア人との強制交配を考えていた。
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正論(2000年5月号)『リンドバーグの衝撃証言』「金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえ者もいる。……どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにはまだ真新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ」
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ライフ紙は、1944年5月号で、ブロンドの女性が戦場の婚約者に手紙を書く為に、横に置いた日本兵の頭蓋骨を見詰める写真を表紙に載せた。
戦場の兵士が、日本兵の死体を煮込んで取り出した骨からペーパーナイフを作り、ルーズベルトに贈った。
連合軍兵士は、戦果の証しとして、死体や瀕死の日本兵の頬を切り開き金歯をえぐり出し、その逃避を切り取って車両に飾った。かって、インディアンの悪しき習慣とされた頭のカワハギは、白人がインディアンに強要した事であった。
さらに、日本人の骨が高く売れるとわかるや、死亡した日本人兵士の遺体から骨を切り取って売りさばいた。
前線将校は、捕虜をとる煩わしさから、兵士に日本兵は皆殺しにするように厳命した。アメリカ軍は、日本人捕虜をジュネーヴ条約で保護するつもり、戦争の勝利のみを最優先とした。
孤立した少数の日本軍守備隊は、圧倒的な物量を持った連合軍の大部隊の猛攻を受けて玉砕した。生存者は、極一部であった。
重傷を負っていたが治療すれば助かる見込みのある日本兵士は、貴重な医薬品を節約する為に、治療をせずそのまま残飯や汚物と共に埋めた。
連合軍は、機密情報を話した日本人兵士捕虜のみが収容所に送られ優遇された。現代日本は、生き残る為ならば同胞を裏切る事も「やむなし」と教えている。
白人のキリスト教徒は、異教徒の非白人である日本人には人としての尊厳を認めなかった。
アメリカ軍による日本人兵士捕虜に対する待遇が良くなったのは、日本占領が見えてきたフィリピン上陸からである。
それ以前の戦闘では、日本軍兵士と日本人非戦闘員は玉砕したと報告して、捕虜を取る事なくほぼ皆殺しにした。
連合軍では、情報収集以外で日本人を捕虜にしない事が暗黙の了解事項となっていた。
日本人兵士捕虜の虐待は、人種差別の強いイギリス軍やオーストラリア軍でも日常的に行われていた。
日本軍の連合国軍兵士捕虜の虐待は、敗走し追い詰められ、補給が途絶え食うや喰わずの中で起きていた。
連合国の日本人兵士捕虜の虐待は、連戦連勝の占領地で、物資の有り余っている中で起きていた。
白人から見れば、日本人を含むすべての有色人種は人間以下の、サルであり、家畜であり、奴隷あった。
よって、日本人兵士捕虜は人間以下の動物として扱われていた。
アメリカの軍産複合体は、日本を原爆の実験場と決め、日本人を実験体とした。
世界の常識は、宗教的科学的人種差別であった。
トマス・ブレーミー将軍「日本人を根絶しなければならない!」
アルジャー・ヒス「日本国民の心全体を根本的に修正しなければならない。それゆえ日本を完全敗北に落とすのだ」(国務省高官・ソ連のスパイ)
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5月 アメリカ陸軍航空部隊は、4月に完成したB29を原爆投下用に改造すると共に、特別部隊509部隊の編成を行った。イギリスのランカスター機の使用を考慮に入れなかったのは、原爆投下はヨーロッパではなく太平洋とされていたからである。
原爆と同サイズの模擬爆弾・パンプキンを、訓練として日本に投下する事も決定した。
知日派のグルーが、国務省極東局長に就任し、対日強硬派のホーンベックは辞任した。
アメリカは、口先だけで本気で戦おうとしない蒋介石の背信行為に苛立ち、中国政府高官や国民党幹部が私腹を肥やす為に支援物資を横領するのを目の当たりにして、対中政策の変更を行った。
ワシントンは、蒋介石の国民党を盗賊らの無法集団と決めつけ、毛沢東の中国共産党を農民を中心とした人民集団と分析した。
アメリカの軍事物資の多くが、抗日中国軍から中国共産党軍に流れ始めた。
グルーは国務省極東局長に就任するや、徐々に局内を親中国派から知日派に入れ替えた。
国務省の戦後計画委員会は、日本に厳しい「対日戦後目的」という文書を決定した。
日本の基本方針を非軍事化と民主化に置き、占領期を3段階に分けた。
海外領土の剥奪と武器解除。
民主主義思想の奨励と超国家主義団体の根絶。
日本を平和国家に改造して国際社会に復帰させる。
天皇制度と統治方法は、意見が分かれ激論となった為に別の文書でまとめられた。
統治方式を直接統治としたが、日本語を自由に使える50万人の軍政要員が必要とした。
だが、それだけの軍政要員を確保する事は不可能であった。
占領軍は日本支配の為に、政府の行政と議会の立法と裁判の司法と軍部を解消し、下部行政機関を軍政に利用とする。
天皇制度は、激論を重ねてもまとまらなかった為に3案を併記して結論を先送りした。
「全面廃止」
「全面存続」
「天皇の実権を奪う改革を行い、天皇制度を存続、利用する」
アメリカは、敗戦国日本から重工業及び金融・貨幣発行権を奪い農業と軽工業の弱小国家に改造する為には、20年以上の軍事占領が必要であると考えていた。
日本精神の修身・道徳と日本中心の歴史及び地理の教科を停止し、日本文化と日本神道を排除して西洋文化とキリスト教を浸透させる為に漢字・ひらがな・カタカナを廃止してローマ字を定着させるべきであると。
そして、英語を公用語と定め日本語を日常語とし、将来、国語を英語で統一して日本を英語圏国家の一員にする。
金融支配としては、日本円貨を米ドル貨に切り替えてドル経済圏に組み込む事。
アメリカの意図は、日本を日本人の為に改善するのではなく、西洋人が理解できない日本を消滅させ、西洋人が分かりやすい日本に改造する事であった。
つまり、日本のフィリピン化である。
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5月25日 重光外相は、東條首相の承諾を得て、モスクワの佐藤大使に極秘電報を打った。
「1,東亜方面の国際関係については、将来ソ連の発言参加は止むを得ず。又帝国に取りて必ずしも不利益ならざるべく、特に現下の世界形勢においてソ連を協力的地位に置く事は有意義と思考せらる。
2,最近の米英に於ける反重慶世論はもとよりソ連の利用する所にして、支那に於ける国民党及共産軍の妥協はその重圧の下に実現せられんとしつつあり。彼等の共同の目的は、もとより抗日即ち日本に鋒先を向くるものなり、……日ソの間に於いては既に最近の交渉により衝突無きを得る素地を得たる。今日これを延長して支那問題について何等話し合いを行い、妥協の途を発見すること能(あた)わざるや。
3,国共(国民党・共産軍)妥協より進んで日ソ支の間に於いて支那に於ける戦争を終結に導くの方策考えられざるや」
東條首相と重光外相は、ソ連を仲介として日中戦争を終結さ大陸の日本軍主力を本土防衛に回せれば、米英に圧力を加え太平洋戦争を有利に終わらせられるのではないかと考えた。
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6月 縁故疎開が困難な初等科3〜6年の学童に対しては、集団疎開を奨励する事を決めた。
集団疎開費は、保護者が4分の1程度を出し、残りを国や疎開を行う自治体が負担する事とされた。
近衛文麿は、天皇に対して、東條英機首相を排除して真崎甚三郎を陸軍大臣に推す上奏を行った。翌45年に、同計画が露見して、吉田茂らが逮捕投獄された。 陸軍内部で、独裁者の様に振る舞う東條英機陸相の暗殺計画が進行していた。
アメリカ海軍は、太平洋戦争開戦当初から民間船への無差別・無警告攻撃を行う無制限潜水艦作戦を実施していた。
連合軍は、戦闘員でも非戦闘員でも日本人は発見しだい殺していた。
サイパンからの帰国船「亜米利加丸」は、3月にアメリカ海軍潜水艦の攻撃で撃沈され、500人の民間人が死亡した。アメリカ海軍潜水艦は、漂流している民間人を救助せず、女子供でも日本人とあれば見殺しにした。
これ以降、疎開は進捗しなかった。
マッカーサーは、OSS嫌いから独自の心理戦略(PWB)を太平洋陸軍内に新設し、局長にボナー・フェラーズ准将を任命した。
PWBは、心理戦としてラジオ放送や宣伝ビラ空中配布などで、フィリピン人達には日本軍へのゲリラを、日本軍には降伏を、それぞれ呼び掛けた。
更にもう一つ、ケン・ダイク大佐が率いる情報教育局(I&E)があった。
I&Eは、日本軍の情報を得る為に、アメリカ軍兵士に対して降伏してくる日本人兵士を殺さないように教育を行っていた。
アメリカの各種情報機関は、縄張り意識が強く横の連携が良くなかったが、心理戦を有利に導く為に得た情報は共有し、ノウハウを蓄積していった。
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6月3日 佐藤大使は、日中戦争を終結させるのにソ連を仲介として利用する事は不可能であり、ソ連の支那進出を許すと米英と連合して日本に乗り込んでくる危険性があるとの電報を重光葵外相に送った。
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6月4日 帰国船「白山丸」も撃沈され、多数の民間人が犠牲者となった。
サイパン島の在留邦人約2万人は、逃げ出せず閉じ込められた。
連合軍は、日本軍の捕虜虐待以上の虐待を行い、人とは扱わず動物あるいは動物以下の下等生物と見なしていた。
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6月6日 ノルマンディー上陸作戦。
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6月15日 アメリカ軍は、サイパン島に上陸を開始した。政府は、天皇の示唆に従って、好戦的軍部に知られない様に和平交渉を極秘に開始した。
日本側は、天皇の命の安全と皇室の地位の保証が得られるならば、連合国側の要求を受け入れて明日にでも停戦の為の和平交渉に応ずる用意があった。
アメリカは、暗号解読で日本が苦境に追い込まれつつある事を知り、無条件降伏の原則を崩さず如何なる協議にも応じないと拒絶した。
やむなく、日中戦争だけでも終結するべく国民党政府に呼びかけるが、極秘情報が中国共産党側に全て洩れて潰された。
日本の極秘情報は、アメリカ側はもちろん、ソ連や中国共産党にも知られていた。
中国共産党と日本共産党は、戦後の日本改造計画を相談して、ソ連に報告した。戦後。アメリカの共産主義信奉者ユダヤ人は、日本を共産主義化する為に、ソ連から同報告書を入手して日本の諸改革を断行した。
アメリカ軍は、日本陸軍に軍通信の一部が傍受されている事が判明するや、ネイティブ・アメリカンの言語を指示伝達に使用した。
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6月16日 アメリカ陸軍戦略爆撃部隊は、中国四川省成都の飛行場からB29爆撃部隊を出撃させ、九州北部を空爆した。
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6月19日・20日 マリアナ沖海戦。
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6月22日 昭和天皇は、東條首相に戦争終結工作を指示した。
陸軍省と革新官僚グループは、外務省とは別ルートとしてソ連に接近する為に、支那派遣軍に対して延安の中国共産党に亡命している野坂参三と接触するように命じた。
軍部は、戦後世界として、ソ連の共産主義と米英の自由主義の対立は避けられないと分析していた。今、米英に敗北して屈辱を甘受しても、将来、ソ連と組んで復讐戦をすればよいと考えていた。
木戸幸一「今の日本の状況からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかという気運があるのである。結局、皇軍はロシアの共産主義と手を握る事となるのではないか」
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6月25日 佐藤大使は、モロトフ外相は支那問題に介入する事を否定したとの電報を重光葵外相に送った。
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6月〜7月 大本営参謀津野田知重少佐と柔道家・牛島辰熊は、東条英機暗殺計画を立て、山形県鶴岡市に赴き石原莞爾に会い暗殺計画を打ち明けた。
石原莞爾は、積極的に賛成しなかったが反対もしなかった。
津野田少佐は、東京に戻り小畑敏四郎に計画を打ち明け、三笠宮に会い東条英機を更迭すべきだと意見具申した。
三笠宮は、秩父宮や高松宮に、東条英機では戦争指導は無理であり、早く戦争を収めなければ大変な事にあると説いた。
高松宮は、海軍内部でも嶋田繁太郎海相の評判が悪く何らかの改革が必要であると打ち明けた。
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夏 近衛文麿の長男・文隆は、東條英機首相兼陸相兼参謀総長の命令で関東軍勤務となり、終戦時にソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された。
昭和31年12月にモスクワ郊外の強制収容所で急性腎臓炎で病死したとされているが、死因に不審な点があるといわれている。
イズベスチャ副編集長アルハンゲリスキーは、薬物注射による心臓麻痺と『プリンス近衛殺人事件』に書いている。
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7月 ドノヴァンは、ローマを訪れて第260代ローマ教皇ピオ12世に拝謁し、主に共産主義そしてドイツ、ロシアという三つの課題で会談を行った。
バチカンは、反共産主義の立場から、戦後世界で共産主義が蔓延する事に懸念を表明し、戦争の早期解決を希望した。
モスクワに帰国していた駐日大使マリクは、日本の敗戦は時間の問題であると報告し、1,英米が日本を解体する前にソ連は立ち上がり、2,満州、対馬、千島列島を支配下に置き、太平洋への出口を確保するべき、と提案した。
アメリカ軍統合参謀本部は、対日戦で海軍と陸軍が担当戦域を分けて個別に行っていた軍事行動を一本化する為に、初めて長期的な戦略の立案に着手した。
日本を無条件降伏させる為に、ソ連軍の参戦を前提として、海上封鎖と集中的空爆を継続し、九州と関東平野に上陸作戦を行う事が承認された。
アメリカ陸軍とOSSは、中国共産党との関係を深める為にディキシー・ミッションを派遣し、アメリカ軍との共同作戦が取れる様に最新の無線機を大量に延安に送った。
毛沢東は、アメリカから提供された通信機器を利用して、日本軍と戦い、国民党軍と戦い、全てに勝利して中華人民共和国国家を建国した。
OSSは、延安で活動していた日本共産党の野坂参三と接触し、日本占領後の統治についての助言を得た。
野坂参三は、将来的に天皇制度を廃絶すべきであるが、占領初期に於いては昭和天皇を戦犯として弾劾せず利用すべきであると説明した。
そして、対日占領政策に貢献する見返りとして、日本共産党の再建と40万ドル相当の工作費を要求した。
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7月3月 大本営政府連絡会議は、単なる暴力集団と決め付けていた中国共産党の延安政権を反重慶地方政権と認める、対支作戦に伴う宣伝要綱を決定した。
南京政府の汪兆銘は、日本の裏切り行為として激しく抗議した。
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7月6日 中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将、第43師団長斉藤義次中将、第31軍参謀長井桁敬治少将の3名は自決した。
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7月7日 日本軍守備隊は、東京に、最後の突撃を決行する事を打電した。
大本営は、突撃ではなく持久戦を命じた。
残っている幕僚による作戦会議が開かれたが、バンザイ突撃を主張する師団参謀長の鈴木大佐と後退して最後の抵抗を主張する海軍側で意見が分かれて対立した。
海軍側とすれば、残っている最上級士官が陸軍大佐しかいなければ仕方が無いが、島内には航空廠長官・佐藤中将や第五根拠地隊司令官・辻村少将が現在である。
階級上位の佐藤中将の指揮に入り指示に従うべきとの建て割る組織と、上官のいる海軍は陸軍の一大佐の命令には従えないとの縄張りで、バンザイ突撃参加を拒否した。
陸軍将兵はバンザイ突撃を行って玉砕し、海軍将兵は徹底抗戦の後に捕虜となった。
大西龍治郎「日本海軍は全力を挙げて日本陸軍と戦い、余力でもってアメリカ軍と戦っている」
サイパン島玉砕。在留市民約1万2,000人が犠牲となった。
その6割が沖縄出身者と言われている。
本土人と言われる日本人は、差別意識が強く、沖縄人(琉球人)、アイヌ人、朝鮮人を差別していた。
軍部は、サイパン島守備隊が全滅したのはサイパン島にいた「一般市民が足手まといになった」からと責任を転嫁した。
日本軍は、多くの戦場で一般市民の保護や救援より戦争の勝利を優先して作戦を立て実行した為に、夥しい数の一般市民が犠牲となった。
時には一般市民を安全な後方に避難させたが、最初に避難させたのは本土人で、次に沖縄人、台湾人、朝鮮人の順であった。
日本人は人種差別に反対であったというのは嘘で、日本人も御多分に漏れず自然に人種差別を行っていた。
軍人は、戦争に勝つ為ならば、数十万人や数百万人の一般市民を平然と犠牲にしても気にはしない。
2010年11月23日 朝日新聞『天声人語』「差別といえば、沖縄で平和運動を続けてきた中村文子さんは、以前にこんな話を聞いた。戦争中は川崎市に住んでいた。沖縄からの移住が多かったサイパン島が陥落したとき、近所の奥さんが何げなく言ったそうだ。『玉砕したのはほとんど沖縄の人ですって。内地人の犠牲が少なかったのが救いだったんですって』。その人は中村さんが沖縄の人とは知らなかった。口をきけば涙がこぼれるから、黙っていたという」
人種差別主義のアメリカ軍兵士は、投降してきた日本人女性達を玉砕に見せかけて強姦し、そして殺害した。(『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著)
日本人民間人に対する同様の事件は、太平洋戦線各地で頻発していた。
差別主義者アメリカ人にとって、敵国人日本人は、人ではなく踏み殺してもかまわない害虫であった。
日本軍の「玉砕」や「万歳突撃」とは、戦勝国にとって便利な言葉であった。
サイパン島陥落。井上成美海軍次官は、高木惣吉海軍少将に、米内光政海相内意として終戦への極秘工作を命じた。
本土の日本人は、朝鮮人や台湾人同様に沖縄人をも日本人とは見ていなかった。
よって、戦火で被害に遭った自分の身の不運を嘆いても、沖縄人・朝鮮人・台湾人が日本の戦争によってどれ程の犠牲者を出そうとも気にはしなかった。
沖縄は、日本から見捨てられる運命にあった。
全ての国家・政府で、遠くにいる自国民を犠牲にしてまで目の前にいる他国民を助ける事はあり得ない。
東條首相は、沖縄県知事に対して、戦争に邪魔になる市民10万人を7月中に本土か台湾に退去させる事を命じた。
軍部は、沖縄を本土決戦までの時間稼ぎの捨て石にするべく守備隊を上陸させていた。
沖縄守備隊は、日本軍兵士への食料を確保するべく、沖縄県庁に対して口減らしとして島外疎開を命じた。
連戦連敗の日本海軍には、日本から沖縄・台湾・東南アジアへの海上輸送網の制海権・制空権はすでになく、船舶の航行を守る戦力はすになかった。
日本を出港した輸送船が目的地に無事に辿り着けるかは、幸運に頼るしかなかった。
沖縄人は、軍の命令と言われても、本土への疎開を渋っていた。
沖縄県庁は、軍の絶対命令に逆らえず、集団移動させやすい国民学校の学童の本土疎開を優先させた。
親達は、反対であったが、海軍が護衛艦を出して航行の安全を保障した為に渋々、同意した。
日本政府と軍部は、沖縄人とその子供を助ける為に島外疎開を命じたわけではなく、単に其処にいられては邪魔であるから強制的に移動させただけである。
国家は、必ずしも国民を守るとは限らない。
沖縄に対する差別的認識は、現代の日本人にも存在する。
それが、沖縄県内の在日アメリカ軍基地問題である。
無責任で、何も考えていないのが、本土の反基地運動の日本人活動家である。
沖縄県知事泉守紀は、東京から『本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ』との命令を受け取り、一般島民の被害を避ける為に疎開を開始した。
ジョン・W・ダワー「二人の女性とのインタビューを収めた。─ひとりはサイパンの住人、もうひとりは海外の軍隊を巡回慰問していた舞踏家で、両者はそれぞれ乗っていた船をアメリカ潜水艦に撃沈された経験があった。前者は、潜水艦が生存者の間を旋回して、乗員が笑いながら彼らを撃った様子を語った。その女性は唯一の生存者であるが、潜水艦が不気味に近づいてきた際、幼い妹が母親に呼びかけると、母親は『あれは怖い鬼が乗っている船だから、死んだふりをしなさい』と答えたと回想していた。その直後に妹は、姉の中で死んだ。……あらゆる野外便所のドアにジャップの皮を釘づけにするという……日本兵の耳を切りおとし、アメリカの親に『みやげもの』として送り、親はよろこんで扉に釘でとめて、近所の人に見せた……日本兵の頭皮を米軍車両の飾りに使った。……病院船を攻撃して沈める……病院の入院患者が皆殺しにされた」
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7月 OWIは、ホワイト・プロパガンダとして、サイパンから日本向けのラジオ放送を開始した。
同年末 OSSは、サイパンからブラック・プロパガンダのラジオ放送を始めた。
アメリカの陸軍、海軍、戦時情報局(OWI)、戦略情報局は、心理戦を担当する部局を個別に設立し、心理学や社会科学などの専門家やマスコミ関係者を全米から動員した。
アメリカは、戦争勝利の為には心理戦が重要であるとの考えから、大統領直属の情報機関であった情報調整局(COI)をOWIとOSSに分割した。
OWIは、アメリカ軍のラジオ放送「アメリカの声」などのホワイト・プロパガンダを行い。
OSSは、ブラック・プロパガンダと非公然の情報工作を担当した。
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東條内閣総辞職。
東條首相は、敗色が濃厚な中でも、戦争を始めた責任から米英に勝つべくあらゆる手段を講じていた。
陸軍省と参謀本部の好戦派は、聖戦完遂を貫く為には東条英機首相を辞任に追い込み、反東条の重臣らの身柄を拘束するという、クーデター計画を進めていた。
首相、陸相秘書官の赤松貞雄大佐の証言。
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7月14日 重光葵外相は、佐藤大使に国際情勢に対する政府の現状認識を知らせ、広田弘毅元首相を特使としてソ連に派遣する意向を再度伝えた。
「ソ連が同盟関係にある米英と世界全局の問題に付き話し合いをなす立場にあるは理解せらるるところにして、これと共に中立関係にある日ソ間において……は単に中立関係の現状にとどまらず、戦争の将来等に関し意見の交換をなす下地を見出し得る訳なり。
政府に於いては……満ソ間の国境問題解決等についても積極的な態度を持しおる事ご承知の通りなるが、大局上両国の利益の合する一切に従い今後も種々の施策を進めしるべしと認めらる」
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7月18日 津野田少佐は、東条英機を坂下門で暗殺するべく皇居警察署に赴いたが、内閣総辞職で未遂に終わった。
憲兵隊は、9月2日に津野田少佐を、翌3日に牛島辰熊を逮捕した。
岡田啓介や近衛文麿ら重臣と木戸幸一内大臣の宮廷が、戦争の早期解決を図る為に東條英機首相を退陣に追い込み、陸軍の小磯国昭予備役大将を新たな首相に据えた。
東條首相は、停戦交渉に専念するべく参謀総長職を梅津美治郎大将に譲った。
近衛文麿・吉田茂・広田弘毅等は、ソ連を仲介者に立てると、戦後に暴力的共産主義革命が起きて国體が破壊されるとの危機感から東條首相に反旗を翻した。貞明皇后の賛同を得て、米英に直接降伏すべく、宇垣一成元陸相や陸軍内反東條派等の協力を得て、東條首相を辞職に追い込んだ。
南京政府の汪兆銘も、反共産主義の立場から、日本が中国共産党に接近する事に猛反対した。
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7月19日 神明丸事件。
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7月22日 小磯国昭内閣の成立。小磯国昭予備役陸軍大将(A級戦犯)は、東條首相退陣を受けて組閣し、終戦工作に海軍の協力を得る為に米内光政を海相に迎えた。
小磯首相は、停戦工作を米英直接交渉に一本化するべく、現役復帰と陸相兼務を申し込んだ。
陸軍部は、停戦工作が親英米派主導で行われる事に反発して、小磯首相の希望を拒絶した。
小磯首相は、陸軍主導のソ連仲介案に同調し、外務省にモロトフ外相への斡旋を指示した。
昭和天皇は、戦争の早期終結を希望したが、外交として「ソ連を仲介とするか、米英に直接降伏するか」は政府の専権事項である為に、共産主義革命に危機感を抱きながら固唾を呑んで見詰めるしかなかった。
対ソ融和策として、ソ連のスパイとして尾崎秀実とゾルゲを利用しようとした。重光葵外相は、対ソ外交の総指揮を広田弘毅元首相(石屋の倅)に一任した。
尾崎秀実は、政権近くにいる情報提供者からの情報として釈放の望みが出るや、ソ連の対中支援ルートである支那西北への大侵攻を意見具申した。この当時、如何なる戦闘にも参加していない部隊は関東軍と朝鮮軍であった。
スターリンは、西安や重慶にはアメリカから大量の戦略物資が送られている為に、新疆から陝西への西北ルートの再開は念頭になかった。むしろ、アジアで最大の工業地帯となっている満州を無傷で手中に納める事であり、その為に進撃を妨害する関東軍を後方へ後退させる事を望んでいた。
陸軍次官の富永恭次は、ソ連の外交官であるポーランド系ユダヤ人のトレッパー(本当の素顔は、コミンテルンの工作員)にゾルゲらの釈放を持ちかけた。ソ連大使館は、スターリンの指示に従って、ソ連に貢献したゾルゲはソ連とは無関係なドイツ人であるとして引き取りを拒否した。
スパイの末路とは、そうしたものである。
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7月26日 中国戦線の現地軍は、南京の汪兆銘政権を捨て、延安の中国共産党政権に歩み寄る事は「容共」であり、之までの「防共」基本戦略の放棄であるとして反対の意見具申を行った。
陸軍中央は、「世界政策てき見地から決定されたもので、あくまで中央の見解を貫徹する必要がある」として、現地軍の意見具申を却下した。
夏頃から 陸軍中央の政策エリート集団は、敗走が続く戦局を好転させる為に、ソ連と中国共産党との提携に関する協議を始めた。
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夏。スターリンは、極東地区に新たな領土を獲得する為に、白ロシア戦線からワシレフスキー元帥を召還し、対日戦の総司令官に任命した。
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8月 ブッシュ軍事政策委員会委員長は、原爆は45年3〜4月に完成すると報告した。そして、ナチス・ドイツの原爆開発の進展はなく脅威は去ったと伝えた。
つまり、ナチス・ドイツの原爆開発に対抗する為という名目は消滅した。
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8月1日 台湾の日本軍参謀長は、東京の陸軍中央に、敵軍が上陸した際、収容している連合軍捕虜の処遇について問い合わせた。陸軍次官は、戦時に付き「適切に処置せよ」との返答を送った。つまり、食料などの物資不足にある日本軍には敵軍兵士捕虜に構っている余裕はなく、激戦の中で捕虜が暴動でも起こされては防衛戦に支障をきたす恐れがある為、「殺せ!」と命じた。
後になって、中央のエリート集団が捕虜虐殺で責任を追求される事を避ける為に、全責任を現地部隊に押し付けるべく「処置」という曖昧な言葉で誤魔化した。
フィリピンなどの激戦地で、敗走する日本軍は連合国軍兵士捕虜を色々な手段で「処置」した。
2011年11月現在においても、日本の指導的立場にある政治家や経営者やエリート官僚などの多くは、姑息な手段として、責任を回避する為に玉虫色的曖昧な言葉を多用している。そして、現場や下の事を無視して、上から目線で物を言い全てを決断した。言葉では尤もらしく責任を取るというが、いざとなれば見苦しく言い訳し、多額の退職金を貰って逃げる様に辞職した。
彼等は、等しく言う「昭和天皇も戦争責任を取って退位しなかったではないか!」と。
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8月8日 参謀本部戦争指導班と陸軍省軍務局軍務課は、中国共産党との提携を前提で、今後採るべき戦争指導の大綱に基づく対外戦略指導要領を協議した。
「本秋頃を其の結実の目途としソをして帝国と重慶(延安を含む)との終戦を、已む得ざるも延安政権との停戦妥協を斡旋せしめかつ独ソに対し独ソ間の国交恢復を勧奨す」
「重慶地区は全面的にソの勢力圏としそ爾他の支那に於ける我が占領地域(現国民政府治下の地域)は日ソ勢力の混沌地帯とす」
「汪、蒋、共合作促進に努め蒋応ぜざる場合に於いては中共を支援して重慶に代位せしむることを認む」
ソ連への見返りとして、防共協定の破棄と南樺太の譲渡を約束するとした。
「日本人は、女・子供・老人に至るまで全て戦闘員であり攻撃対象である。戦時国際法で禁じている、民間人など日本には存在しない」
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8月14日 情報局総裁緒方竹は、小磯国昭首相の内命を受けて対中和平工作を開始した。
日本は、建前で主戦を主張していたが、本音は和平であった。
蒋介石は、日本との和平交渉に応じる素振りを見せて期待を持たせたが其の気はなく、日本を嘲笑う如く翻弄した。、
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8月19日 御前会議で、重光案を土台にした戦争指導大綱が承認された。
「ソ連とは中立関係を維持し国交の好転を図る。支那問題の解決のため極力、ソ連を利用する」
主戦派は、「あくまでも戦争の完遂を期する」とした文言を戦争指導大綱にねじ込んだ。
小磯首相と陸軍主流は、連合軍に一度大きな打撃を与えた後、有利な条件で終戦交渉に臨むという「一撃講和」を主張した。
敗色が濃くなっているナチス・ドイツが内部崩壊を起こすか、或は単独不講和条約を破って単独和平するかもしれない為に、日本は万一の場合を考慮しておく必要があるとの意見で一致した。
A級戦犯の重光葵外相は、ソ連を利用として戦争を終結させるべく、独ソ間の和平を日本が斡旋するとい名目でモスクワに特使派遣を申し込んでいた。
スターリンは、対日戦参戦を決めた。
ソ連は、「休戦や講和の可能性は全くない」と断った。
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8月22日 対馬丸撃沈事件。「対馬丸」「和浦丸」「暁空丸」の3隻の疎開船と護衛の駆逐艦「蓮」砲艦「宇治」からなるナモ103船団は、長崎に向かって那覇港を出港した。
日本郵船の疎開輸送船対馬丸は、沖縄から長崎に向かう途中の奄美大島と屋久島の中間地点の悪石島沖で、アメリカ海軍潜水艦ボーフィン号の攻撃を受けて沈没した。
「蓮」と「宇治」は、「暁空丸」、「和浦丸」を護衛して全速力で危険海域から脱出した。
「対馬丸」船長西沢武雄を含む乗組員24名は、と運命をともにした。
学童・一般疎開者・船員約1,660人中生還者177人で、学童は59人のみであった。
学童738人を含む1,476人が犠牲となり、靖国神社に祀られた。
日本海軍の駆逐艦等に救助された学童は、834人中59人であった。
多くの人々が、沈没する対馬丸から海に脱出し、波間に浮かぶ漂流物に掴まりながら救助を待った。
船団は、敵潜水艦の攻撃を避ける為に救助活動を行わず全速力で立ち去った。
漂流者達は、台風の高波やサメの襲撃を受けながら2日から一週間以上を地獄の海を漂い、体力があり幸運な者だけが助けられた。
奄美大島には、夥しい数の遺体が流れ着いた。
憲兵隊は、救助された一般疎開者・学童等に対して、「船が沈められた事は絶対に話してはならない。漏らせば罰する」と脅し、監視下に於いた。
連合軍は、総力戦として、人種差別的に、兵士であれ非戦闘員であれ全ての生きている日本人を殺す対象とし、女子供であっても容赦しなかった。
つまり、日本人とし生まれたこと自体が罪であり、日本人である事が不運の元であると。
日本海軍水兵は、甲板に引き上げた救助者が既に死んでいたら、その遺体を足で海に蹴り落としたと言われている。
沖縄の日本軍は、A級戦犯・東條英機首相の命令に従って、非戦闘員である60万人の島民を戦火から救う為に20万人を台湾や本国に疎開させた。
A級戦犯・東條英機は、サイパンの悲劇を避ける為に軍部に民間人を逃がすように命じたのである。
中国や韓国・北朝鮮そしてアメリカが否定する靖国神社には、対馬丸で犠牲となった子供達が祀られている。
40万人の島民は、疎開船がアメリカ軍の攻撃を受けた事を知って衝撃を受け、沖縄に残って防衛強化に協力した。
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日本人は、朝鮮人とは違って、男はもちろん女性も老人も子供さえも昭和天皇と日本国家を守る為に、最後の一人となっても戦い抜く覚悟であった。
朝鮮人とは違って仲間意識の強い日本人は、民族という「絆」で団結し、見捨てる事なく助け合いながら共に踏みとどまった。
日本人と朝鮮人は、「覚悟」が違うのである。
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8月25日 連合国は、パリを無血解放する。
ヒトラーはパリの破壊を命じたが、ドイツ軍は破壊せずに退却した。
フランスは、連合国の一員となり、日本の敵となった。
ハノイを中心とした北部仏印で洪水と旱魃が発生して、多くの犠牲者が出た。
仏印植民地政府は、フランス人を救済したが、ベトナム人被災民を見捨てて被害を拡大した。
人種差別の華僑も、ベトナム人を人間以下の野蛮人として死ぬに任せて放置した。
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8月末 米内光政海相は、終戦工作を始める為に、海軍省教育局長高木惣吉少将に密命を与えて降格とした。
高木少将は、極秘に陸軍省の松谷誠大佐、宮中の松平康昌、重光外相の秘書官加瀬俊一らと戦争終結の活動を開始した。
米内光政は、親米派ではなく親ソ派であった。
日本は中立を保っているソ連を利用する為に、ソ連が要求するであろう領土要求で譲歩すべきである事。
最終的には、昭和天皇の勅許を持って全軍に戦争を終結させる命令を発する。
の二点を決めた。
帝国領土の解体はやむを得ず、その領土を何処までと定めるかを協議した。
重光外相は、終戦交渉が目的である事を隠して特使を派遣する事を、モスクワの佐藤尚武大使を通じて申し込んだ。
モロトフは、日本が戦争終結を望んでいる事を感づいていたが、理由のハッキリしない特使を受け入れる事は出来ないとして、要請を拒否した。
スターリンは、安全保障の観点から日本領からどれだけの領土が獲得できるかで、アメリカと日本の要請を見比べていた。
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「米内光政陰謀説」
米内光政は、第一世界大戦からロシア革命にかけて、ポーランドとロシアの日本大使館に駐在武官として勤務し、ロシア語が堪能で、ロシア贔屓としてロシア文学だけではなくロシア革命についての論文を書いた事があった。
日本海軍は、米内光政がロシア・ソ連に好意的である事が外部に漏れないように箝口令を引いていた。
一説に。米内光政海相が三国同盟締結に反対したのは、アメリカとの関係悪化を恐れたからではなく、ソ連に不利になる事を嫌ったからと言われている。
更に。第二次上海事変で、上海出兵を積極的に主張したのは、満州への増派を妨害する為とも言われている。
阿南惟幾陸相は、8月15日に自決する直前に「米内光政を斬れ」と叫んだと言われている。
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2016年12月11日 サンデー毎日「倉重篤郎のサンデー時評
……
戦争末期、東條英機内閣から小磯國昭内閣に代わってからのことである。(石橋)湛山は時の石渡壮太郎蔵相に働きかけ、戦後経済の再建を研究する会合を大蔵省内に設置してもらった。もちろん敗戦前提の議論が大っぴらにできる環境ではなかった。憲兵隊が黙っていない。そこで会合の名称を『戦時経済特別調査会』とカムフラージュ、湛山が取りまとめ役になった。
後に東京商科大(一橋大)学長になる中山伊知郎、東京大学総長になる大河内一男ら当代きっての経済学者、官僚を集め二十数回議論、満州・台湾・澎湖(ほうこ)諸島の中国への返還、朝鮮の独立に言及したカイロ宣言(1943年11月)を受け、どう日本経済を再興するかが論じられた。
無資源国日本が、植民地という既得権益を失い、北海道、本州、九州、四国4島に制限されどう生きていくのか。悲観論一色の中、一人湛山のみが楽観論を吐いた。
『4島でもそれで食っていけるよう工夫すべきだし、やり方によってそれはできる。できるどころか、やがて世界の経済国として堂々とやっていけるのではないか』
むしろ、その方が領土拡大や植民地主義のコストから解放され、その費用を貿易、国内開発に使えるという湛山一流の小日本主義を展開した、という。戦後、中山がそれを回想し『カイロ宣言を動かぬものとして受け取り、4つの島での生き方を徹底的に考えていた石橋さんには歯が立たなかった。その後の事実の進行では一層はっきり負けた』と述べている。
……
我々は既得権を失うことには極めて臆病である。失うという事実そのものを恐れる。失うことに対する責任追及に恐れおののく。一時しのぎのための権益維持、自己正当化を図ろうとし、その選択がより深く重いリスクをもたらす可能性については目をつぶる。
満州で始まった戦争が大陸奥地に波及、西太平洋全域にまでわたり、ついには壮絶なる敗戦に帰納したのもその性癖の表れに見える」
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