🎺47:─3─日本人銀行家がスイスでOSSダレス機関を通じて極秘降伏工作を始めた。1945年5月。~No.225 ㉚ 

  ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 1945年3月頃にスイスの国際決済銀行理事で横浜正金銀行職員だった北村孝治郎とOSS工作員を自らの仲介で引き合わせたことが、ダレスがアメリカに送ったレポートに記録されている。
   ・   ・   ・   
 アメリカとイギリスは、開戦前から日本側の暗号電報を傍受し、外務省と海軍の暗号を解読し、陸軍の暗号は解読できていなかった。
 日本側の暗号解読から昭和天皇と日本が降伏を望んでいる事を知っていたが、降伏を受け入れる気はなかった。
   ・   ・   ・   
 ソ連は、日本政府から正式にアメリカとのが降伏交渉の仲介を要請されていたので日本が終戦を切望していたが、北海道・北方領土4島などを略奪する侵略準備が整うまで期待を持たせながら適当にあしらっていた。
 日本の政府や軍部は、戦争終結ソ連に期待し、スイス在中の外務・陸軍・海軍そして銀行家等が非公式で極秘に行っているOSSダレス機関との対米終戦工作を潰した。
 徹底抗戦派は、ソ連に期待しながら本土決戦・一億総玉砕を主張していた。
   ・   ・   ・   
 バチカンは、日本国内の情報網から日本の敗北を知っていし、日本が終戦工作を行っている事を薄々知っていた。
   ・   ・   ・   
 日本がこだわったのは国體護持、つまり昭和天皇の命と安全、天皇制度の維持、皇室の存続などであった。
 政府も軍部も、国體護持を認めてくれば即降伏する事もやぶさかではなかったが、それを認められなかった為に絶望的な戦争を続けていた。
 唯一の望みが、日ソ中立条約のソ連であった。
   ・   ・   ・
 ウィキペディア
 アレン・ウェルシュ・ダレス(英語:Allen Welsh Dulles、1893年4月7日 - 1969年1月29日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、弁護士。ドワイト・D・アイゼンハワージョン・F・ケネディ政権にて第5代アメリカ中央情報局長官を務めた。兄は第52代アメリカ合衆国国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレス。

 1940年、OSS(Office of Strategic Services, 戦略事務局 CIAの前身)に入局。1942年から1945年まで、スイスベルン支局長であった。1945年4月には、北イタリアのドイツ軍との停戦・降伏交渉を「サンライズ作戦」として実施し、降伏を実現させた(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)#イタリアの終戦を参照)。続いて当時、亡命ドイツ人でOSS工作員でもあったフリードリヒ・ハックを介した在スイス日本公使館付海軍顧問輔佐官を務めていた藤村義朗・日本海軍中佐とのルート、およびスイスの国際決済銀行理事のペール・ヤコブソンから同じく国際決済銀行に出向していた横浜正金銀行の北村孝治郎、吉村侃を介した岡本清福スイス日本公使館付陸軍武官と加瀬俊一公使のルートを用いた降伏条件交渉を行った。
  ・  ・  
 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハック(Friedrich Wilhelm Hack, 1887年10月7日 - 1949年6月4日)は、ドイツのブローカー・政治工作者。1920年代から1930年代にかけて大日本帝国海軍にドイツ航空機の売り込みを行い、その関係を利用して日独防共協定のきっかけを作った。また、1941年の真珠湾攻撃の直後から日米間の終戦工作を行った。国家学の学位を持っていたため、「ドクター・ハック」と通称された。
 経歴
 1887年にフライブルクで生まれる。1912年にフライブルク大学の経済学部を卒業すると、オットー・ヴィートフェルト (Otto Wiedfeldt) の秘書として極東に赴く。1912年より南満州鉄道東京支社の調査部に勤務した。

 1941年12月、太平洋戦争が始まると、戦争の終結を目指し活動を再開する。そして、米戦略局(Office of Strategic Services、略称OSS)のアレン・ダレス(後のCIA長官)と接触、以降、ベルリン海軍武官室の酒井直衛や藤村義朗中佐らとダレス機関との交渉の準備・仲介を行う。本国の日本海軍側が「アメリカによる陸海軍の離間策」を疑ったため、交渉は成立しなかったが、終戦直前まで工作を行った。また、1945年3月頃にスイスの国際決済銀行理事で横浜正金銀行職員だった北村孝治郎とOSS工作員を自らの仲介で引き合わせたことが、ダレスがアメリカに送ったレポートに記録されている。北村は後にスイス駐在陸軍武官の岡本清福中将からの依頼で、同僚の吉村侃とともに(日本公使館の加瀬俊一公使の内諾も得て)、国際決済銀行顧問のペール・ヤコブソンを介してダレスと和平のための接触を持つことになるが、その動きにもハックは関係していたことになる。
  ・  ・  
 藤村 義朗(1907年(明治40年)2月24日 - 1992年(平成4年)3月18日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中佐。旧名・義一(よしかず)。
 経歴
 1940年5月、ドイツ駐在(マクデブルク大学)となり、同年11月、ドイツ大使館付武官補佐官に就任。藤村が補佐官に着任した当時の駐在武官は横井忠雄で、任期中に小島秀雄に交代している。1943年(昭和18年)11月、海軍中佐に進級。1944年(昭和19年)6月、フランス大使館付武官補佐官に転じ、同年10月、ドイツ大使館付武官補佐官を兼務。1945年(昭和20年)3月、連合国軍侵攻によるベルリンの戦いを前にしてスイスへ移駐。このときの藤村の肩書きはスイス公使館の海軍顧問だった西原市郎大佐の輔佐官という立場であった。このスイスへの異動につき、小島秀雄は戦後の回想で、ドイツ人フリードリヒ・ハックを介したアメリカ合衆国との接触をスイスでおこなうために自らが赴こうとしたが、スイス側から査証が発給されず、代わりに藤村を派遣したと述べている。
 太平洋戦争末期の5月頃より、前記のフリードリヒ・ハックを介して、アメリカの情報機関Office of Strategic Services(OSS。中央情報局の前身)のスイス支局長だったアレン・ウェルシュ・ダレスを相手とした対米和平・終戦工作に奔走したとされる(詳細は後述)。
 和平工作とその実状
 藤村の主張
 藤村が太平洋戦争末期に和平工作に携わったことは、戦後の1951年に雑誌『文藝春秋』5月号に藤村自身が発表した「痛恨!ダレス第一電」と題する手記によって広く知られることとなった。この中で藤村は、
 ・1945年4月23日に和平工作を開始することを決め、ハックからダレスの秘書フォン・ゲベルニッツ(藤村は「ゲバーニッツ」と記載)に連絡を取り、先方からは交渉を開始して差し支えないという回答を得た
 ・5月8日に、東京の海軍省に対して、ダレスとの工作についての最初の電報を打った。これに対して海軍省からは「敵による陸海軍離間策ではないか」との回答が来た
 ・驚いてそのような意図はないことを述べて、説得する返電を送った。さらに自らが東京に行って話す方法はないかという電報を送り、一方ダレス側からは、アメリカが責任を持ってスイスまで運ぶので、大臣か大将クラスの代表者を呼べないかという提案を受けた
 ・しかし、6月下旬に海軍省から「趣旨はよくわかったから、この件は現地の公使などと連携して善処されたい」という回答が来た。これを見て「東京に人なし」と痛憤した
といった内容を記している。
 これにより、藤村は「幻の和平工作に携わった人物」として一躍脚光を浴び、その後も和平工作について書いたり話す機会を持った。その中で、当初なかった内容が加わっていった。たとえば、
 OSSとの接触は自分自身でもおこない、ダレスとも直接会見した
 藤村は実に35本もの電報を打ったが全て外務省に握り潰された
 現地の8月14日午後(日本時間8月15日早朝)、つまり玉音放送送出が決まる12時間前、運よく繋がった国際電話で海軍大臣副官が「藤村、あの話(和平の件)、何とかならんかね」と言ってきた。電話を受けた藤村は「ダレスとの交渉の事ですか」と問い返し、傍でこれを聞いたハックは思わず「バカヤロー! 百日遅い! 今頃何を言ってんだ」と怒鳴った
 といったものである(最後のものは1975年刊行の大森実『戦後秘史』で初めて出た)。
 これに沿った内容はテレビ番組で、藤村の没後も取り上げられている。
 電報記録による検証
 しかし、1970年代以降、アメリカが傍受・解読していた日本の外交電報(パープル暗号)・海軍電報(オレンジ暗号・コーラル暗号)やOSS関連の資料が公開されるようになると、それらとの比較照合により信憑性に疑いが持たれる点が出てきた。まず、藤村は最初の和平工作の電報送信を「5月8日」(ドイツ降伏の日)としているが、アメリカ側の解読記録である「マジック・サマリー」に残る電報は6月5日付であり、藤村は事実より1ヶ月話を前倒ししたのではないかとみられている。前倒しした理由について有馬哲夫は、ダレスが5月28日付でOSSスイス支局長を辞して諜報・工作と関係しない「占領地高等弁務官」に就任してベルンを去っていた点に着目し、「ダレス機関」を相手に和平交渉をしていたという藤村のストーリーと辻褄を合わせるために前倒しをしたのではないかと推論している。さらに、藤村は当時の電報で「ダレスの側から自らに接触してきた」と記したが、戦後のインタビューでその点について「せっぱつまってウソをついた」と証言している。
 なお、藤村が送信したとされる電報の発信者を、アメリカ側の解読記録「マジック・サマリー」はすべて西原市郎大佐としている。この点について、竹内修司は暗号電報上は「スイス海軍アタッシェから東京海軍大臣軍令部総長宛」となっていたことから、公使館での役職からの推察で西原としていたのではないか、とし、実際の発信は藤村が西原の了承を得たか、もしくは独断で嘱託の津山重美(大阪商船社員)に依頼して打たせたとしている。有馬哲夫は「(藤村が)西原が、あるいは西原の名を借りた自分(引用者中:藤村)が、電報を打っていた」とし、西原も発信に関与していたとしている。なお、西原自身の和平工作に関する回想は、出身である海軍機関学校OBの回顧録に発表したことが知られる程度である。以下、本記事では藤村の発信として記述する。
 藤村が最初に海軍大臣軍令部総長に送った電報は概ね以下のような内容であった。
 トルーマン大統領は人気・才覚・能力の面で劣っており、表面上の無条件降伏を求める主張とは別に、人気や評価を高めるためひそかに戦争の早期終結を望んでいる。
 ソ連が対日参戦することをアメリカは望んでいない。
 5月23日と25日にダレスが信頼すべき第三者(ハックを指すと見られる)を通じて、ソ連の干渉も受けないスイスは日米が交渉・会談する場所として適していること、ダレスがワシントンと直接接触し、トルーマン大統領やステティニアス国務大臣、ジョセフ・グルー代理に近いこと、日本が対話を希望するならそれをワシントンに伝え、日本側が海軍の提督級将官をスイスに派遣するのに賛成すればスイスまでの飛行機などのあらゆる便宜を責任を持って準備し、その人物は二、三週間以内に到着するのが望ましいことを極秘裏に提案した。ダレスは同趣旨の電報をワシントンにも送っている。
 なお、藤村はこの電報の中で、ソ連ヤルタ会談で対日参戦することを提案し、ルーズヴェルトが協調政策上同意したとし(実際は逆)、その時期は8月下旬であろうと記している。これ以外にもベルンの「海軍武官電報」としてソ連ヤルタ会談で対日参戦を約束したという電報が5月24日に、「フランス共産党にコネを有する情報源」をソースとして「ヤルタ会談で、7月末までに日本の降伏がなければソ連は参戦することに同意した」という電報が6月11日にそれぞれ東京に当てて打たれていたことが、イギリスに保存されていた傍受解読記録(ウルトラ)より判明しているが、藤村自身はこのソ連対日参戦密約情報の入手や東京への打電については明確な証言を残していない。
 6月5日付の電報が日本側で受け取られたことは、当時海軍で密かに終戦工作に当たっていた高木惣吉少将のメモにほぼ同じ内容が記されていることで確認できる。高木はこの電報を海軍大臣の米内光政に見せたが、米内は「敵による陸海軍の離間策の謀略である」と疑い、この提案を採用することはなかった。高木自身は、電報内容が真実なら自身を派遣すれば本土上陸は阻止できると申し入れたが、受け入れられなかったと述べている。
 藤村は上記電報に続き、6月7日には「小官の見解」と題してダレスの立場や、対イタリアでの和平工作の実績を訴え、「決して謀略ではない」とする第二報を送っている。
  ・  ・  
 ペール・ヤコブソン(Per Jacobsson、1894年2月5日 – 1963年5月5日)は、スウェーデンの経済学者、1956年11月21日から国際通貨基金 (IMF) 第3代専務理事に就任し、1963年に死去するまでその任にあった。

 国際決済銀行経済顧問としてスイスに駐在していた1945年、同じく国際決済銀行に出向していた横浜正金銀行の北村孝治郎・吉村侃の両名(そのバックには、スイス公使の加瀬俊一とスイス駐在武官だった岡本清福がいた)と、アメリカの諜報機関OSSのアレン・ウェルシュ・ダレスとの間で、日本の終戦工作の仲介をおこなった。
  ・  ・  
 岡本 清福(おかもと きよとみ、1894年(明治27年)1月19日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は日本の陸軍軍人。最終階級は中将。1936年(昭和11年)の帝国国防方針改定の主務者(参謀本部作戦班長)。
 和平工作への関与
 1945年6月頃、岡本はスイスの国際決済銀行理事で横浜正金銀行員だった北村孝治郎を呼び、アメリカに和平の希望があるのならそれに応じる用意があるという前提で、北村および同じく国際決済銀行為替部長の吉村侃の二人で和平工作に当たってほしいと依頼する。北村はスイス公使の加瀬俊一の内諾を得た上で、7月に入ってから国際決済銀行顧問だったペール・ヤコブソンを介して、アメリカの情報機関Office of Strategic Services(略称OSS。現在のCIA)でスイス支局長(ヨーロッパの責任者はロンドンにあるヨーロッパ総局のデイヴィッド・ブルース)だったアレン・ウェルシュ・ダレスと接触する(接触ヤコブソンが別個に両者と会う形でおこなわれた)。ダレスからは、日本のしかるべき筋から降伏受諾についての公式な表明があれば、直接交渉の接触に必要な準備を取るという反応を得る。これを受けて、岡本は7月18日に陸軍参謀総長梅津美治郎宛に意見具申の電報を送ったとされる。加瀬公使もこれを受けて(岡本の電報が東郷茂徳外務大臣にも渡っていることを前提に)、スイスにおけるダレスとの和平工作を説明する電報を外務省宛に送った。しかし、岡本の電報は梅津の目に触れていなかった可能性が高く、外務省はソ連を介した和平交渉を最優先としていたため、この情報が生かされることはなかった。一方、アメリカ側ではポツダム会議前後の7月13、16、18日、8月2日付で、ダレスから統合参謀長会議や国務長官に宛てて、ヤコブソンからの情報が伝えられた。とりわけ8月2日付の報告では、岡本や加瀬が日本に和平を促す電報を打ったこと、「在スイス日本人グループ」(北村・吉村・加瀬らを指す)はポツダム宣言を戦争終結への道筋を示した文書と評価した電報を日本に打ったことが記されている。彼らは日本政府が何らかの決断を下すことを期待していること、日本のラジオが伝える内容は士気を維持するための宣伝なので真に受けぬよう求めていること、公式回答はラジオでなければ何らかのチャネルで伝えられると見ていることが述べられている。最後の報告に関しては、これをトルーマン大統領やバーンズ国務長官が読んだという証拠はない。仮に彼らがその存在を知っていたとしても、トルーマンは日本が無条件降伏を拒否することを予期し、当初から交渉に応じる考えはなかったという見解も唱えられている。
 8月12日に「スイス公使館付武官」名で「天皇の御位置に関する各国の反響」という電報が陸軍省に届けられた。この中にはアメリカ政府は民主的政府樹立のために天皇が障害とならないとみなしていることや、イギリスの元駐日大使であるロバート・クレイギーが「アメリカが日本国内の混乱を避けようとするなら、皇室の維持は絶対に必要」と語ったことなどが記されていた。長谷川毅はこの情報は「武官から宮中に伝えられたと想定できる」としている。
 岡本は自決に当たり、和平工作の資料を遺すよう手続を取ったとされるが、それを引き取った補佐官が戦後焼却処分としたため、現存していない。
  ・  ・  
 加瀬 俊一(1897年10月23日 - 1956年9月9日)は、日本の外交官。太平洋戦争終戦当時の駐スイス公使で、戦後西ドイツ大使を務める。外務大臣秘書官や国連大使を務めた加瀬俊一とは同姓同名の別人である。外務省内では彼と区別するため「大加瀬」と俗称されていた。
 和平工作終戦への関わり
 アメリカの情報機関であるアメリカ戦略情報局(Office of Strategic Services(OSS)・CIAの前身)の文書(統合参謀長会議に12日付で提出された)によれば、スイス公使だった加瀬はドイツ敗戦後の1945年5月11日、当時スイス在住だったフリードリヒ・ハック(日本海軍にドイツの武器を売っていた)を通じて、
 日本と連合軍の敵対関係を停止するための活動についての希望
 ソ連を介した交渉は、ソ連の威信を高めて東アジア全域が共産化することになるため、米英と直接対話することが望ましい
 日本の望む条件の一つが天皇制の維持で、これは共産化を防ぐ唯一の手段である。国務次官グルーもおそらく同じ意見だろう
 といった内容を戦略情報局スイス支局に伝えた。14日には、日本を取り巻く情勢を分析した電報を本省に送る。この中で加瀬は日本が置かれた立場は容易ではないと指摘し、戦争を継続して「最後の最後まで戦う」ことはドイツの轍を踏むこととなり、重大な危機に直面しているとした上で、軍事的に不利な状況では外交手段によって状況を変えるべきだと提案した。外交手段の具体的内容として、米英との直接交渉とソ連を通じた交渉を挙げ、米英との交渉は直接の和平を申し出るしかないが、ソ連を疎外することで参戦の口実を与える可能性があるとし、ソ連経由の交渉については「米英とソ連を疎隔すること」は問題外だとした上で、仮にソ連がこれ以上戦わずに目的を達成することを望むなら、彼らに提供できるものと引き替えに和平の仲介を取ることができるかもしれず、この交渉が失敗しても米英との直接交渉に失敗するよりはまだましだという見解を述べている。戦争を終わらせるために和平交渉に乗り出すべきだという提言であった。このうち「ソ連経由の交渉」の観点は、ほぼ同時期にソ連を経由した和平交渉を開始した東郷茂徳外務大臣ら外務省中央の見解に近く、ハックに対して語った「ソ連を利するので、米英との直接対話が望ましい」という意見とは異なっている。
 同じ頃、スイス駐在の横浜正金銀行員で国際決済銀行にも所属していた北村孝治郎・吉村侃の両名から、アメリカとの直接交渉による連合国との和平工作を進める相談(スイス駐在陸軍武官の岡本清福中将の依頼による)を持ちかけられた際、加瀬はこれに内諾を与えた。北村と吉村は、国際決済銀行経済顧問だったスウェーデン人のペール・ヤコブソンの仲介により、7月になってスイス支局長であったアレン・ウェルシュ・ダレス(後のCIA長官)とコンタクト(ヤコブソンが両者と別々に会う形で実施された)をとり、ダレスからは東京から公式な表明があれば接触のための手続きに入ることを示唆される。これに基づき、岡本中将は7月18日に陸軍参謀総長梅津美治郎宛に意見具申の電報を送ったとされるが、竹内修司はこの電報は結局梅津の目には触れなかったのではないかと推測している。加瀬は7月21日に(岡本の電報が東郷外相にも届いていることを前提に)2通の電報を外務省宛に発信した。この中で加瀬は、北村と吉村が「中立国を通じ米国側の意向を探る」活動をおこなっていることを紹介した上で、「単刀直入にアメリカと話し合うのが上策」と述べ、北村がヤコブソンを通じて得た情報を伝えた。しかし、外務省はソ連を仲介とした和平交渉を最優先としていた。この時期(7月20日頃)の東郷について長谷川毅は、和平の道筋として第一に「モスクワ路線」(ソ連への譲歩による、無条件以外の条件での終戦)、第二に「モスクワの斡旋を米英との直接交渉の第一歩」という二つの路線で進める考えであったとしている。
 ポツダム宣言が連合国から示されると、加瀬は7月30日に外務省に対して、(4ヶ国に分割占領された)ドイツの場合とは要求内容が異なる(国体に触れていない、日本の主権を認めている、「無条件降伏」の対象が軍隊のみで政府ではない、一般平和産業の保持や通商を容認している等)が完全敗北した場合にはその保証はなくなること、「無条件降伏」の内容が緩和されていること、日本側の反応によってはソ連が日本に何らかの勧告を出す可能性があることを考察として送った。この電報の内容は、駐ソ連大使の佐藤尚武にも送られ、佐藤は加瀬の考察を「きわめて妥当な観察」と評価してポツダム宣言の早期受諾を促す電報を8月4日に東郷に送っている。和平工作ポツダム宣言について加瀬が外務省に送った電報を東郷がどう見ていたかという点についての評価は、論者により異なる。竹内修司は東郷が戦後の回想で、加瀬(および北村・吉村・岡本)による和平工作と後述の藤村義一の工作を混同している点を指摘し、加瀬らの動きについて東郷は無関心であったとしている。長谷川毅は、東郷と外務省は「ポツダム宣言受諾を基礎にした降伏の条件」の研究に着手はしていたが、天皇の地位が明言されていなかったためポツダム宣言受諾を提言できず、(ソ連対日宣戦布告まで)ソ連への斡旋依頼で政府をまとめざるを得なかったとしている。長谷川は、広島市への原子爆弾投下2日後の時点でも東郷はポツダム宣言受諾を強く主張しておらず、ソ連への斡旋に望みをかけていたとしている。これに対して有馬哲夫は、前記の7月21日の加瀬の電報と合わせて、これらを目にした東郷が「連合国側が天皇制存置を黙認する」という感触を得て、ポツダム宣言の早期受諾に向けて動くようになったとしている。
 この年の6月から7月にかけて、公使館の海軍顧問輔佐官だった藤村義一中佐が単独でハックを介してダレスに向けておこなっていた和平工作について、この話を謀略と見た海軍中央から扱いを一任された外務省から、7月23日に「詳細を現地の海軍武官から聴取されたい」という電報が加瀬宛に届く。加瀬は藤村とその上司の西原市郎大佐に聴取した上で、7月31日に外務省に返電を送ったが、この中で加瀬は「藤村輔佐官は当人の性格上、並びに西原武官が技術官である関係から種々問題を惹き起こしている」と記した上で、「イニシァチブが米国側から出たものとは認め難いので黙殺することにすべきだと思う」と記している。藤村の側は、戦後の1948年に元海軍少将の高木惣吉から和平工作の聴取を受けた際、加瀬を「無能の人物。責任の分散を恐れる事甚だしかった。本土決戦を主張する大本営の意向に反する仕事をすることは、表面的には問題が深刻重大であるため、他の人に話させたかった」と評した。藤村は当時、加瀬らが行っていた和平工作についてまったく知らなかったとされている。
   ・   ・   ・