☂05:─1─昭和天皇の側近と陸軍親ソ派は天皇制共産主義国家建設を目指した。〜No.22 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 カンボジアシハヌーク国王は、王国を維持する為に毛沢東共産主義勢力の支援を求めたが、右派のクーデターで失脚し、北京に亡命した。
 毛沢東主義ポル・ポトは、200万人以上を虐殺した。
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 昭和天皇の側近・華族・陸軍中枢部の親ソ派やマルクス主義者は、ソ連・国際共産主義勢力の力を借りて反米の天皇共産主義国家構想を極秘で進めていた。
 日本海軍中枢部にもマルクス主義者や親ソ派が存在していた。
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 高学歴な知的エリートの革新官僚や進歩的インテリの大学教授やメディア関係者は、マルクス主義者や転向組(隠れ共産主義者)であった。
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 日本共産党は、反宗教無神論と反天皇反民族反日本で天皇制度廃絶を絶対党是としていた。
 共産主義キリスト教会や仏教寺院に浸透し、キリスト教では赤い神父・赤い牧師、仏教では赤い僧侶を生みだし反天皇反民族反日本の宗教革新運動を始めた。
 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺するべく付け狙っていた。
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 2021年12月13日 YAHOO!JAPANニュース PHPオンライン衆知(Voice)「昭和天皇の側近まで...陸軍親ソ派による「共産主義国家の建設」という野望
 敗戦間近、日本政府はこともあろうに、すでに参戦を決意していたソ連に対して戦争終結の和平仲介を依頼することに決した。その裏には陸軍内部で暗躍する親ソ派、共産主義者の存在があった。
 敗戦間近、日本政府はこともあろうに、すでに参戦を決意していたソ連に対して、戦争終結の和平仲介を依頼することに決した。その裏には、陸軍に巣くう親ソ派、共産主義者たちの暗躍があった。
 ※本稿は、岡部伸著『第二次大戦、諜報戦秘史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
 なぜソ連参戦情報が活用されなかったのか
 ヤルタ会談直後にストックホルムから小野寺信少将が参謀本部に打電したソ連参戦情報は、大戦末期の日本の政策に活かされることはなかった。大本営の「奥の院」によって、握り潰されたのはこの「小野寺電」だけではない。
 3月に入り、ドイツのリッベントロップ外相からソ連参戦の情報を聞いた大島浩駐ドイツ特命全権大使は、これを外務省に伝えたと、戦後に防衛庁(現防衛省)の聴取に答えたことが、「防諜ニ関スル回想聴取録」(防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室所蔵)に書かれている。
 つまり、ドイツが降伏した5月以降、欧州の前線から外務省、海軍軍令部、陸軍参謀本部ソ連が参戦するという情報が伝わっていたのだ。
 では、なぜこれらのソ連参戦情報が活用されなかったのか。ソ連仲介による終戦工作が先にあったからだ。1944年半ばから、ソ連を通じて連合国と和平交渉を進めようとしていたグループにとって、これらの情報は不都合だった。
 日本政府の重要メンバーが共産主義者たちに降伏
 大戦末期の日本が不毛なソ連仲介に国運を賭けた理由は何だろうか。この謎を解く鍵が英国立公文書館所蔵の「ウルトラ」のなかにあった。スイスのベルンに駐在する中国国民政府の陸軍武官が6月22日付で重慶に打った「アメリカからの最高機密情報」と題された電報があり、次のように記されていた。
 国家を救うため、現在の日本政府の重要メンバーの多くが完全に日本の共産主義者たちに降伏している。あらゆる分野部門で行動することを認められている彼ら(共産主義者たち)は、すべての他国の共産党と連携しながら、モスクワ(ソ連)に助けを求めようとしている。日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に共産主義者たちに取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと(和平仲介を)提案している
 すなわち中国の国民政府の武官は、皇室の維持を条件に、ソ連に和平仲介を委ねようとしている日本の重要メンバーが、共産主義者たちに操られていると分析していたのである。ソ連参戦情報は最初から抹殺される運命にあったのだ。
 「HW12」のレファレンス番号に分類されている「ウルトラ」文書をヤルタ会談が行なわれた45年2月まで遡り、さらに終戦までチェックした。判明したのは、この中国武官は日本の終戦工作のすべてを把握し、ソ連の対日参戦の動きを逐一、捉えていたことである。
 これらの電報を重慶に打っていた中国の武官とは、いかなる人物であろうか。一連の電報のなかには、Robert Chitsuin という名前が記されているものがあった。
 国民政府の資料では、大戦末期のベルンにはチツンという武官が駐在しており、「ウルトラ」に登場するChitsuin と同一人物だろう。
 親ソは時代の「空気」だった
 このチツンが打ったと見られる電報には、「日本政府の重要メンバーの多くが完全に日本の共産主義者たちに降伏している」とあるが、重要メンバーとはどの勢力を指すのか。
 大戦時は陸軍とりわけ統制派が主導権を握っており、陸軍統制派と考えるのが妥当だろう。
 もっとも、軍部だけがソ連に傾斜していたわけではない。戦前の国家総動員体制を推し進めたのは、「革新官僚」と呼ばれる左翼から転向した者たちだったことはよく知られている。親ソはいわば時代の「空気」だった。
 昭和天皇の側近だった木戸幸一内相も、ソ連に対する見方はきわめて甘かった。1945年3月3日、木戸は日本銀行の調査局長などを務めた友人の宗像久敬に「ソ連仲介工作を進めれば、ソ連共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不真面目でさえなければ、受け入れてもよい」という話をしている(「宗像久敬日記」)。
 さらに木戸は続けた。「共産主義と云うが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り。残りは米国位のものではないか」。
 近衛上奏文
 このようにソ連に傾く政府、軍部に対して警告を発したのが、近衛文麿元首相である。
 1937年7月の盧溝橋事件以来、泥沼の日中戦争から日米開戦に突入したことに、「何者か眼に見えない力にあやつられていたような気がする」(三田村武夫『戦争と共産主義』)と述懐した近衛は、1945年2月14日、早期終戦を唱える上奏文を昭和天皇に提出した。いわゆる近衛上奏文である。
 「最悪なる事態に立至ることは我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の與論は今日迄の所未だ国体の変更と迄は進み居らず(勿論一部には過激論あり。又、将来如何に変化するやは測断し難し)随って最悪なる事態丈なれば国体上はさまで憂ふる要なしと存ず。国体護持の立場より最も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴うて起ることあるべき共産革命なり」
 米英は国体変革までは考えていないとし、それよりも「共産革命達成」のほうが危険と見なす近衛の情勢分析は正鵠を射ていた。この近衛上奏から1カ月半余りのちの同年4月5日、ソ連は日ソ中立条約不延長の通告という離縁状を日本に突きつけてきた。小磯國昭内閣は総辞職し、7日に鈴木貫太郎内閣が成立すると、陸軍は本格的にソ連の仲介による和平工作に動き出した。
 しばらくして参謀本部から、東郷外相に参謀本部第20班(戦争指導班)班長、種村佐孝(さこう)が4月29日付で作成した「今後の対ソ施策に対する意見」と「対ソ外交交渉要綱」がもたらされた。
 「今後の対ソ施策に対する意見」は「ソ連と結ぶことによって中国本土から米英を駆逐して大戦を終結させるべきだ」という主張に貫かれていた。全面的にソ連に依存して「日ソ中(延安の共産党政府)が連合せよ」というのである。驚くべきは「ソ連の言いなり放題になって眼をつぶる」前提で、「満洲遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて、日清戦争前の態勢に立ち返り、対米戦争を完遂せよ」としていることだ。
 もしこのとおりに日本の南北の領土を差し出していれば、日本は戦後に東欧が辿ったように、ソ連の衛星国になっていたであろう。琉球(沖縄)までソ連に献上せよというのは、ヤルタ密約にすらなかった条件であり、ソ連への傾斜ぶりの深刻さがうかがえる。
 同じころ(同年4月)、種村の前任の戦争指導班長鈴木貫太郎首相の秘書官だった松谷誠(せい)は有識者を集め、国家再建策として「終戦処理案」を作成。やはり驚くようなソ連への傾斜ぶりで貫かれていた。松谷の回顧録大東亜戦争収拾の真相』によると、「ソ連が7,8月に(米英との)和平勧告の機会をつくってくれる」と、ソ連が和平仲介に乗り出すことを前提に「終戦構想」を記している。
 こうした記述からは、事前にソ連側から何らかの感触を得ていたことがうかがえる。すでに対日参戦の腹を固めていたソ連は、最初から和平を仲介する意図はなかった。にもかかわらず、日本政府がそれを可能であると判断したのは、ソ連の工作が巧妙だったからだろう。
 外交クーリエとしてモスクワを訪問した過去
 なぜ、松谷はこのような「終戦処理案」を作成したのだろうか。『大東亜戦争収拾の真相』によれば、松谷は、参謀本部第20班および杉山陸軍大臣秘書官時代の協力者だった企画院勅任調査官の毛里英於(もうりひでおと)、慶應義塾大学教授の武村忠雄はじめ、各方面の識者数人を極秘裏に集め、終戦後の国策を討議し、また、外務省欧米局米国課の都留重人、太平洋問題調査会の平野義太郎とは個別に懇談したという。
 毛里、平野はいわゆる革新官僚だった。とくに平野はフランクフルト大学に留学してマルクス主義を研究した講座派のマルクス主義法学者で、治安維持法で検挙されると転向し、右翼の論客となったが、戦後は再び日ソ友好などで活動した。
 また都留重人(経済学者・第6代一橋大学学長)は、治安維持法で検挙され、第八高等学校を除名後、ハーバード大学に留学、同大大学院で博士号を取得したが、戦後、米国留学時代に共産主義者であったことを告白している。
 都留は1945年3月から5月まで外交クーリエ(連絡係)としてモスクワを訪問しており、松谷が「終戦処理案」を作成した4月には日本にはいなかった。しかし、松谷とは1943年ごろから面会しており、「終戦処理案」でも何らかの示唆を与えた可能性もある。ソ連仲介和平工作が本格化する時期に都留がモスクワを訪問していたことも謎である。ソ連幹部と面会して何らかの交渉を行なっていたのではないかと推測される。
 種村も都留同様に、クーリエとしてモスクワを訪問した過去があった。1939年12月から参謀本部戦争指導班に所属し、1944年7月から戦争指導班長を務めた種村がモスクワに出張していたのは、同年2月5日から3月30日までであった。
 帰国した種村は同年4月4日、木戸内相を訪ね、ソ連情勢を説いている。この日の『木戸日記』には、「種村佐孝大佐来庁、武官長と共に最近のソ連の実情を聴く。大いに獲る所ありたり」と記されている。前述したように、木戸は共産主義への甘い幻想を語っているが、それは種村による影響だったのだろう。種村はポツダム宣言が出されたあと、第17方面軍参謀として朝鮮に渡って終戦を迎えたが、1950年までシベリアに抑留された。
敗戦後、共産主義国家を建設するという構想
 種村の「素性」が判明するのは、帰国後のことである。1954年、在日ソ連大使館二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフ中佐がアメリカに亡命するという事件が起きる(ラストヴォロフ事件)。
 亡命先のアメリカでラストヴォロフは、「(シベリア抑留中に)11名の厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した」と証言したが、志位正二、朝枝繁春(以上、2人はソ連のエージェントだったことを認め、警視庁に自首した)、瀬島龍三などのほかに、種村の名前を挙げている。
 種村をはじめ、松谷ら陸軍の親ソ派が練った終戦構想とは、国内では一億玉砕、本土決戦を唱えて国民統制を強化しながら、ソ連に仲介和平交渉を通じて接近し、敗戦後、日本に共産主義国家を建設するというものだった。
 そのうえで、日本、ソ連、中国(共産政権)で共産主義同盟を結び、アジアを帝国主義から解放するという革命工作だった可能性が高いのである。当時の日本は、帝国主義国同士を戦わせ、敗戦の混乱を利用して共産主義国家に転換させるというレーニンが唱えた、まさしく「敗戦革命」の瀬戸際に立たされていたといえる。
 本稿で挙げたベルン発の中国武官の電報は、コミンテルンの工作が日本の中枢にまで浸透していたことを裏づけているといえよう。
 岡部伸(産経新聞論説委員、前ロンドン支局長)」
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 皇制廃止論は、天皇制を廃止すべきとする主張や議論。「天皇制」の解釈により、狭義には大日本帝国憲法下の君主としての天皇の廃止論(君主制廃止論)、広義には日本国憲法下のいわゆる象徴天皇制の廃止論を含む。なお皇室自体を廃止する主張の他、国家の制度として廃止するが文化伝統としては皇室を存続させる主張も存在する。他国での共和主義に相当する。
 共産主義社会主義
 日本共産党天皇制に対する立場は時代により変遷がある。
 1922年に結成された非合法組織である第一次共産党は明確な綱領が無く、コミンテルンから提示された22年テーゼは「君主制廃止」が議論となり審議未了となった。1926年に再建された第二次共産党では、コミンテルンから提示された27年テーゼで「君主制廃止」が規定された。1932年の32年テーゼでは「絶対主義的天皇制」の打倒が規定された(二段階革命論)。なお「天皇制」との用語は32年テーゼで初めて登場した。
 第二次世界大戦敗戦後、1946年に日本人民共和国憲法草案を発表、日本は「人民共和国」とし、皇族・華族廃止を記載した。
 上述の通り、日本国憲法象徴天皇制に対しては、日本共産党は「一個人・特定一家が国民統合の象徴となる現制度は民主主義及び人間の平等と両立し得ない」とする立場だが、2004年の綱領では「その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」として、当面目指すとする「民主主義革命」(民主連合政府)では天皇制を事実上容認した。
 これに対して日本の新左翼の多数は「天皇制打倒」を掲げている。
 なお戦前の無産政党や戦後の日本社会党などは、左派の一部が社会主義を掲げたが、天皇制の扱いは明確ではない。労農派は「天皇制はブルジョワ君主制」と規定し、それを打倒する社会主義革命が必要と考え(一段階革命論)、後の社会党左派に影響を与えた。社会民主党日本国憲法に対して護憲を主張している。
 部落解放運動
 京都部落問題研究資料センター所長であった灘本昌久が公表した「部落解放に反天皇制は無用」論に対し、前身の京都部落史研究所所長であった師岡佑行は「徹頭徹尾間違っており日本共産党が綱領から『君主制の廃止』をはずすのと同じく時流におもねるものである。貴族あれば賤族あり[13]である。また天皇制の裏構造としての『救済幻想構造』があり、日本帝国主義のメカニズムの中では、辺境にあったり、疎外されていた人ほど、いったん信じると、天皇にたいする忠誠心や、天皇の下で我々も平等に扱われたいという、一体化願望を強くもつようになる。底辺にいるたとえば被差別部落民の中にも、熱狂的な天皇主義者が多かった」と批判した。
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 天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者とは、日本民族であり、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少ない。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
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 1847(弘化4)年 マルクスエンゲルスは、プロレタリア革命を広める為に共産主義者同盟の綱領を起草して、共産党宣言を行った。
 マルクス主義社会主義共産主義は歴史の浅い、反宗教無神論の新しいイデオロギーである。
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2017-09-26
☭18」─1・A─レーニンが起こしたウクライナ飢饉。餓死者800万人~1,450万人。ホロドモール。1921年。~No.53・ @ 
2021-09-02
☭18」─1・B─ロシア革命の成功で歴史から抹消されたボルガ川流域での餓死者約500万人。1921年。~No.53 
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 レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党日本共産党ディレクションした。
 スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪しようとした。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を殺すべく活動を本格化させた。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 日本共産党の永遠に不変な不磨の党是とは、マルクス・レーニン主義にける人民の権利と共産主義の正義及び大義の実現である。
 反天皇天皇制打倒、反日本民族。反日本文明。反日本文化。
 戦争反対と軍備反対の護憲で、交戦権の放棄、自衛隊解体。
 反米・日米安保破棄・在日米軍追放、集団的自衛権反対と同盟拒否で日米安全保障条約廃棄。
 対外的には、平和的な対話による外交安全保障。
 科学万能による、自然改造による自然破壊と自然宗教否定。
 神話宗教・血統世襲による正統性・男系父系の天皇制否定と皇室廃絶、非宗教非血筋非世襲の正当性女系母系天皇制ヘの変更、その他である。
 マルクス主義共産主義は、反宗教無神論と反天皇反民族反日本で、天皇と神話に関連する民族の歴史・文化・伝統・宗教の全面否定する。
 共産主義者は人民暴力革命を成功させる為に、護憲・反戦平和・無抵抗非暴力を隠れ蓑として使っている。
 事実、日本人共産主義者テロリストはキリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺するべく付け狙っていた。
 マルクス主義者は、日本民族神話を消滅させる為に神殺しを行い、死後の世界を否定し消し去る為に仏殺しを行い、今の命が大事というヒューマニズムで死を無価値とし死者への尊厳を踏み躙り霊魂を屑籠に捨てた。
 それは、戦後民主主義教育の勝利である。
 彼らによって、ジャパニーズ・ジャポンである天皇家・皇室は消滅される定めにある。
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