🎹10:─3─艦隊派東郷平八郎はロンドン海軍軍縮条約に反対した。統帥権干犯問題。昭和5年〜No.40  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 東郷平八郎は、アメリカによるハワイ侵略・ハワイ王国征服・ハワイ王家廃絶・ハワイ併呑を目撃し、アメリカは日本の脅威と警戒して、日本海軍の主敵をアメリカに定め、アメリカ海軍に対抗するべく、名声と権威を利用して巨額な海軍予算を獲得して八八艦隊構想など大艦隊建設を進めた。
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 日本海軍における対米艦隊決戦用の大艦隊は、出撃してアメリカを攻撃する為ではなく、出撃してきたアメリカ艦隊を日本近海で迎え撃つ為の専守防衛としての艦隊であった。
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 東郷平八郎(1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉 - 1934年〈昭和9年〉5月30日)は、日本の海軍軍人。

 明治26年1893年)、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。この時、日本は邦人保護を理由に東郷率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。 女王を支持するハワイ先住民らは涙を流して歓喜したといわれる。また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。しかしアメリカによるハワイ併合は明治31年(1898年)に実現される。
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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、現実の合理的論理的科学的数理的な戦略と戦術による戦争史・軍事史そして平和史が理解できない。
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 2019年1月6日 産経新聞「条約めぐり天皇と軋轢 東郷平八郎は晩節を汚したのか
 第86回 金解禁と軍縮(2)
 東郷元帥が晩節を汚さないよう注意を要する-。
 1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮会議で全権を務め、交渉成立に苦労した海相、財部彪(たけし)が日記につづった内容だ。
 当時、元帥海軍大将の東郷平八郎は82歳。第一線から退いて久しいが、しばしば海軍現役のすることに口を出し、周囲を困惑させていた(※1)。
 戦前の海軍は重要事項を決める際、元帥にお伺いをたてるのが慣例だった。といっても半ば儀礼的で、東郷より年長の元帥、井上良馨(よしか)は何事にも「よろしいように」と答えてきた。一方、万事に実直な東郷は、どこまでも生真面目に答えようとした。
 軍縮会議が始まる前、海軍省がお伺いをたててきたとき、東郷はきっぱりと言った。
 「(対米7割の補助艦保有比率を確保する)協定成らざれば、断々乎破棄の外なきものとす」
 財部をはじめ海軍省の主流派は、頭を抱えたことだろう。その一方、軍令部長加藤寛治ら一部将官は欣喜雀躍した。のちに艦隊派と呼ばれる彼らは、東郷を御輿(みこし)に乗せて軍縮条約反対の運動を起こし、昭和天皇の頭痛の種になる。
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 昭和天皇は、条約成立を目指す政府方針を支持していた。対米7割にはわずかに届かなかったものの、69・75%で妥協点に達したことを喜び、昭和5年4月には駐日米国大使夫妻を皇居に招いて《条約成立の上は各国、殊に日英米三国は条約の精神によりますます提携して世界平和を増進したきこと》を述べたと、昭和天皇実録に記されている(17巻52頁)。
 軍縮条約を機に昭和天皇は、悪化しつつあった日米関係を修復したかったのだ。
 だが、軍縮条約は枢密院で批准されなければ成立しない。その前に東郷を筆頭とする艦隊派は、対米7割を貫徹できなかった政府を激しく責め立て、軍令部長の加藤が突如辞表を提出するなど混乱を極めた。
 後任には良識派の呉鎮守府司令長官、谷口尚真(なおみ)が起用されることになったが、東郷が首を縦に振らなければまたもめるに違いない。昭和天皇は侍従武官長の奈良武次を呼んで言った。
 「東郷元帥のもとへ行って谷口起用の適否をはかり、仮に不同意の場合には極力元帥を説得し、同意せしめるように」
 東郷は、人事案には同意したものの政府批判を繰り返して奈良を困惑させたという。その様子を聞いて、昭和天皇はどんな気持ちだっただろう(※2)。
 かつて東宮御学問所の総裁を務めた東郷は、昭和天皇にとって恩師といえる。陸海軍の演習授業ではいつも傍らにいて、直接指導を受けた。雨の降りしきる軍艦の艦橋で、東郷の説明に直立不動で耳を傾けたこともある。
 そんな恩師との意見の対立-。東郷に人事案への同意を求めた日、侍従の一人は日誌に書いた。
 「本日は殊に御心労在らせられたる御模様に拝したり」--
 (社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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 (※1) 財部のほかにも海軍軍人の中には、東郷の晩年の言動を憂慮する声が少なくなかったとされる
 (※2) 昭和天皇学習院長だった乃木希典については、後年もしばしば「尊敬している」と述懐したが、東郷について語ることはあまりなかった。軍縮条約をめぐる意見の食い違いが尾を引いたとも考えられる
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 【参考・引用文献】
○波多野勝著「浜口雄幸」(中央公論社
田中宏巳著「東郷平八郎」(筑摩書房
宮内庁編「昭和天皇実録」17巻
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 世界史の窓
 ロンドン会議/ロンドン軍縮会議/ロンドン海軍軍縮会議
 1930年、ワシントン会議に続く海軍軍縮のための国際会議。米英日三国間の補助艦の比率をほぼ10:10:7と定めた。1936年に日本は会議を脱退し、会議は期限切れとなって消滅した。
 1930年1月~4月、ワシントン海軍軍備制限条約の期限が切れたためその更新と、補助艦の制限問題について開催された会議。補助艦とは巡洋艦駆逐艦、潜水艦のこと。その制限については、1927年にジュネーヴ海軍軍縮会議を開催したが、仏・伊は参加を拒否し、英・米の意見が対立したため、失敗していたので、イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの5ヶ国が参加した改めて話し合うこととなった。会議はイギリスのマクドナルドが提唱し、日本は若槻礼次郎首席全権、海軍大臣財部彪らが参加した。ロンドンのイギリス議会議事堂で開催された会議は難航したが、4月22日、補助艦と主力艦を切り離した次の合意が成立した。
 ロンドン海軍軍縮条約
 補助艦制限について英と仏・伊が対立、仏・伊は途中で脱落したため、米・英・日の三国で協定が成立し、米・英10に対して日本は約7(6.97)の比率とすることが定められた。有効期限は1936年までとされた。
主力艦については5ヵ国が建造停止を5年間(1936年まで)延長することで合意し、さらに米・英・日は主力艦を15隻・15隻・9隻に削減することで合意した。
 当時すでに前年に世界恐慌が始まり、三国とも軍事費削減が迫られていたので話し合いがまとまったのであるが、イギリスと日本では対アメリカの比率で不満が大きかった。
 日本の統帥権干犯問題
 ロンドン海軍軍縮条約が難航の末、合意されたことは、日本政府の良識ある妥協として国際社会では高く評価された。また、軍備拡張が財政を圧迫していた日本では、財界や国民一般にも支持する意見が多かった。しかし、軍部(特に海軍)・右翼は浜口雄幸首相と若槻礼次郎外相の国際協調外交を「軟弱外交」であるとして強く非難した。彼らが持ちだしたのが、いわゆる統帥権干犯問題であった。統帥権とは天皇のもつ軍事統制権であり、それを執行するのが軍であるから、政府が軍備について外国と協定を結ぶことはそれを犯すものであるという主張である。文民統制シビリアンコントロールを全面否定するこの論理に、政府・国民も反撃できないでいるうちに、調印を強行した浜口首相が1930(昭和5)年11月14日、右翼によって狙撃される事件が起きた。
 このような情勢を背景に、日本軍は政府の統制を離れて独自の行動を強め、翌1931年9月の柳条湖事件を契機として満州事変をおこし、一気に日中戦争へと向かっていくこととなった。
 海軍休日の終わり
 1922年に成立したワシントン海軍軍備制限条約によって、第一次世界大戦前の建艦競争が終わり、軍縮の時代に向かったことは、「海軍休日(または建艦休日)」といわれ、国際協調の理念の証ともされた。1930年のロンドン海軍軍備制限条約は、世界恐慌で苦しむ各国の経済安定を回復するものとして評価された。
 しかし、1930年代にドイツにファシズム、日本にも国家主義軍国主義が急速に台頭した。日本は1934年12月3日、単独でワシントン海軍軍縮条約を破棄し、さらに1935年にロンドン軍縮会議からの離脱を決定、1936年12月にはワシントン・ロンドン両条約とも満期となり、軍縮時代は終わりを告げ、1937年からの日中戦争、39年の第二次世界大戦、41年の日米開戦へと突き進んでいく。軍縮という国際協調、集団安全保障の努力は報われることはなかった。このようなことが再び起こらないようにするには、軍縮を嫌がり抵抗する軍人を国民の立場からおさえて実行するという、平和維持に向けての「文民統制」が絶対に必要だ、ということであろう。戦争は軍人に任せておけない、というクレマンソーの名言を忘れないようにしよう。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)
 ロンドン条約 ろんどんじょうやく
 イギリスのロンドンにおいて締結された諸条約。近代の外交史のうえで、ロンドンで締結された条約はかなり多い。これは、イギリスが19世紀から20世紀の前半にかけて、国際政治上の比重が高く、ロンドンが多くの国際会議の議場となったことを反映している。ここでは、ロンドンで締結された条約のうち、歴史的に重要なものをあげる。
(1)1827年7月6日、イギリス、フランス、ロシアの間に結ばれたギリシア独立戦争に関する条約。3国は共同して、ギリシア問題の調停をトルコに申し出るが、トルコがこの調停を拒否した場合は、武力によってギリシア、トルコ両交戦国に休戦を強制することを約した。トルコはこれを拒否したため、3国は10月、ナバリノの海戦でトルコ・エジプト連合艦隊を全滅させた。(2)1830年、ベルギーの独立問題に関して、イギリス、フランス、オーストリアプロイセン、ロシア5か国がロンドンに国際会議を開いて、12月20日、議定書を作成してベルギーの独立を認め、ついで翌31年1月20日および同月27日の議定書によって、ベルギーを永世中立国とし、オランダとベルギーの境界について定めた。31年10月24日、境界を改定した「二十四か条」をロンドン会議が決議し、同年11月15日ベルギーとの間にロンドン条約を結んだ。39年4月19日に至ってオランダはこのロンドン条約を認めた。(3)1834年4月22日、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルの間に結ばれたもの。スペインのカルリスタ戦争について、ドン・カルロスの王位要求に反対し、ポルトガルについてはドン・ミゲルの王位要求に反対した。(4)1840年7月15日、イギリス、ロシア、オーストリアプロイセンの間に結ばれたもの。エジプトの太守メフメット・アリーに対して、北部シリア、クレタ島、メッカ、メジナをトルコに返還することを求めた。(5)1841年7月13日、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、フランス、トルコの間に結ばれたもの。ダーダネルス、ボスポラス両海峡において、平時の外国軍艦の通過を禁止した。海峡条約ともいう。(6)1852年5月8日、イギリス、オーストリア、フランス、プロイセン、ロシア、スウェーデンおよびデンマークの間に署名されたシュレスウィヒ・ホルシュタインに関する議定書。シュレスウィヒ、ホルシュタイン両公国の不可分と独立などを承認した。(7)1867年5月11日、イギリス、フランス、イタリア、プロイセンオーストリア、ロシア、ベルギーの間に結ばれたもの。ルクセンブルクの独立と永世中立を規定した。(8)1913年5月30日、バルカン同盟諸国とトルコとの間に結ばれたもの。第一次バルカン戦争に終結を与えた講和条約で、これによって、トルコはエーゲ海のエノスから黒海のミディアを結ぶ線以西のバルカン半島の領土およびクレタ島を放棄し、コンスタンティノープル周辺の小地域のほかは、ヨーロッパにおける領土を失った。(9)第一次世界大戦中の1915年4月26日、イギリス、フランス、ロシア、イタリアの間に結ばれた秘密条約(正式の署名は5月9日)。これによって、イタリアは戦勝の場合にダルマチアトレンティーノ地方などの領土獲得を約され、翌月イギリス、フランス側にたって参戦した。(10)1930年(昭和5)4月22日、アメリカ合衆国、イギリス、日本、フランス、イタリアの間に成立した海軍の軍備制限に関する条約。(11)1936年3月25日、アメリカ合衆国、イギリス、フランス間に成立した海軍軍備制限に関するもの。これは、1930年のロンドン条約が5年間の暫定的なものとして成立したのを受けて、改めて軍備制限を問題としたものであるが、艦船の定義など実効のないものであった。
 [斉藤 孝]
 [参照項目] | ロンドン海軍軍縮会議
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 艦隊派とは、大日本帝国海軍内の派閥。
 第一は明治期の山本権兵衛を中心とする本省派に対抗するものであり、第二は昭和期の軍縮条約に賛成する条約派に対抗するものである。
 反条約派
 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする条約派海軍省側)とこれに反対する艦隊派(軍令部側)という対立構造が生まれ、後に統帥権干犯問題に発展した。中心人物は、伏見宮博恭王加藤寛治、山本英輔、末次信正、高橋三吉など。ロンドン条約時には東郷平八郎の威光を利用した。
 政治的には関与していないが、漸減邀撃作戦研究を強力に推進した中村良三、政治的には艦隊派ではないが、混乱を恐れて艦隊派条約派一掃などの要求を拒絶せず丸呑みした大角岑生を艦隊派に含めることもある。また、政治的には僅かな権限しか持たなかったが、海軍省との交渉時に脅迫めいた姿勢で臨んだ南雲忠一のような若手を含めることもある。定義によっては日独伊三国同盟推進派や対米開戦強硬派など、軍縮会議以降の対立で生じた派閥のメンバー(石川信吾・神重徳など)を含めることもある。他に艦隊派とされる者に小林省三郎、真崎勝次、山下知彦、加来止男、小笠原長生、千坂智次郎、南郷次郎がおり、秦郁彦は有馬良橘、戸塚道太郎も艦隊派としている。
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 Quora
 ロンドン海軍軍縮会議1930 を日本はなぜのんだのでしょうか?
 Toshiki M
 回答日時: 2年前
 とても面白い質問だと思いました。今まで深く考えたことがなかったテーマなので、少ない資料から考えた一考察でしかありませんが、以下仮説を述べたいと思います。
 ロンドン軍縮条約は1930年にロンドンにおいて、英国、米国、日本、仏国、伊国との間において行われた海軍兵力の削減に関する条約。補助艦に関する交渉を目的としたジュネーブ交渉の決裂を受け、その交渉再開を目的として開催された国際条約交渉でもある。
 日本が対米比約7割という条件にも関わらず条約を批准した事実は疑問であり、その理由として、当時の時代背景を考慮しつつ、以下の仮説を検討したい。
(1)世界不況
 1929年に米国で始まった世界規模にわたる不況は各国の経済状況を困難な状況に追い込むこととなった。したがって、右状況においては、経済状況の向上が最重要課題の一つであったことが想像されること。
(2)軍拡競争
 1922年に締結されたワシントン条約により、当時、その抜け穴として、巡洋艦の開発および増産が進められ、国家財政圧迫の原因になっていた。これは、当然に(1)で述べた点について、国民負担の軽減、また、国内経済の安定という観点からは矛盾する流れであったと理解できること。
(3)国際派の躍進
 条約締結時の外務大臣は、国際協調主義を掲げたことで有名は幣原喜重郎、首相は同じく国際派の濱口雄幸であった。特に、外交官出身の幣原にとり、軍拡競争を可能な限り制限しつつ最低限の防衛兵力を残した国際的合意の基、各国の物理的な交戦能力を低下させつつ、その交戦意思をも低下させ得る国際条約の締結は国際交渉上の理想形であったと言える。
(4)潜在的
 当時の状況として、英米を実存の潜在敵と強烈に認識していた可能性は低いと考えられること。
 以上、(1)(2)(3)(4)の仮説を検証する資料として、「日本外交文書」に収録されている主要文書を以下を基に引用したい。
 「日本外交文書デジタルコレクション 一九三〇年ロンドン海軍会議 上巻 二」https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/London1930_1_03.pdf
 P106 海軍軍縮に関する一般方針通達について
・主力艦、航空母艦以外の各艦種にの比率にいて融通する
軍縮事業の縮小を目指すべきこと
国益に関する国際的なサプライチェーンを維持確保するため、補助艦については、世界の最大海軍に対して7割程度の兵力を必要とすること。
・軍拡を縮小し、国民の負担を軽減し、世界平和の維持に寄与することは国益に一致すること。
 「日本外交文書デジタルコレクション 一九三〇年ロンドン海軍会議 上巻 三」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/London1930_1_04.pdf
 P304 ロンドン海軍軍縮会議全権委員に対する訓令について
・海軍軍備の制限は、国内においては国民負担を軽減し、国外においては列国間の平和親交の増進を実現すること。
・自衛上必要な兵力の確保が必要であること。
・補助艦に関する交渉が成功せずとも、主力艦についてはそれを追求すべきであること。
・米国に対して、補助艦兵力を7割とすること。
 「日本外交文書デジタルコレクション 一九三〇年ロンドン海軍会議 下巻 四」https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/London1930_2_02.pdf
 P279 ロンドン海軍条約調印に際しての幣原外務大臣談話
・軍事費を拡大をし国際競争を激化することは戦争を誘発し、最終的には国家の安全を危険ならしめ、国益を害すること。
・戦艦の建設競争を阻止し、国民負担を軽減することは、世界各国の国民に共通した崇高な目的であること。
以上、引用文献により上にあげた仮説は概ね立証できると考えられ、当時、日本が条約を締結した理由として、以下のような結論をまとめることができると考える。
(ア)国民負担軽減の観点から、軍拡競争を阻止することは急務であったこと。
(イ)当時の主流派は、国家防衛の観点からは主力艦の維持は必要としつつも、補助艦については対英米7割で実現可能という共通意識を持っていた。つまり、交渉自体は極めて合理的・現実主義的な観点に基づいて実行されており、その目的は各国において財政および経済の安定を目指したものに集中していたと言えること。(※ 特に、第一の交渉方針である「海軍軍縮に関する一般方針通達について」が通達された際の首相および外務大臣は陸軍出身の田中義一であり、幣原喜重郎ではなかったことに注視する必要がある。積極的な国際協調主義が要職を占める以前から、「補助艦7割」という基本的交渉方針は明確にされていた。)
(ウ)英米を実存的な潜在敵とはみなしておらず、むしろ条約締結により国際協調を実現することが、最終的には国益につながると考えていたと言えること。
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 ニュース ライフ 裏ワザで他国より有利に? ロンドン海軍軍縮条約での日本空母の台所事情
 裏ワザで他国より有利に? ロンドン海軍軍縮条約での日本空母の台所事情
 2022/01/13 06:22乗りものニュース
 裏ワザで他国より有利に? ロンドン海軍軍縮条約での日本空母の台所事情
 旧日本海軍の空母「隼鷹」(画像:アメリカ海軍)。
 (乗りものニュース)
 1923年に発効したワシントン海軍軍縮条約は、主力艦と航空母艦保有を制限しましたが、1万トン以下の航空母艦には制限がありませんでした。1930年のロンドン海軍軍縮条約で制限されるのですが、日本は抜け道を用意していました。
 小型空母「龍驤」が1万トンを超えたワケ
 ワシントン条約海軍軍縮は、日本が戦艦および巡洋戦艦からなる主力艦といわれるものや航空母艦(以下空母)で、アメリカならびにイギリスと比べて6割の規模を保有するという内容で、1923(大正12)年に発効しました。この条約は、日本海軍に大きな影響を及ぼすことになりますが、一方で日本は、したたかさも見せながら軍備を増強していきます。
 この条約で日本が獲得した空母の保有枠は排水量で計8万1000トン。そのうち主力艦を改装する形で建造された「赤城」「加賀」の2隻の大型空母で5万3800トンを使用したため、空母の新造枠としては残り2万7200トン分でした。
 当初、旧日本海軍は、この残りの保有枠をフルに使って2万7000トン級の大型空母を新造するつもりでした。加えて、条約の制限外となる1万トン以下の小型空母を3隻新造し、すでに保有している空母「鳳翔」と合わせ小型空母4隻をそろえることで、大型空母3隻を補佐する計画を立てていたのです。
 こうして、日本は当初建造する予定であった水上機母艦を、小型空母に変更。同艦(のちの空母「龍驤」)は、1929(昭和4)年に起工されますが、建造中にロンドン海軍軍縮条約(以下ロンドン条約)が成立し、1万トン以下の空母も保有枠にカウントされることになりました。
 このロンドン条約の成立で、建造中の小型空母をあえて排水量1万トン以下に収める必要がなくなったことから、建造中に1段格納庫を2段と改め、搭載機を24機から36機に増やすよう設計を改めます。こうして建造された小型空母は「龍驤」と命名され、1933(昭和8)年5月に竣工します。なお「龍驤」は、前述した設計変更で、排水量が1万600トンに増えたものの、公称は7100トンで通しました。
 ロンドン条約で日本だけが制限
 ロンドン条約で制限された排水量1万トン以下の空母ですが、実は日本だけが割りを喰っています。当時のアメリカやイギリスと比較すると、その不利な状況が見えてきます。
 当時アメリカで最少の空母は1万1500トンの「ラングレー」でしたが、試作艦的な扱いで、最初から保有枠にカウントされていませんでした。なお、「ラングレー」は米英のみで結んだ第二次ロンドン条約保有枠に含まれたのを受け、水上機母艦に改造され、転籍しています。
 イギリス最少の空母は、1万850トンの「ハーミズ」で、元から空母保有枠に含まれていました。なお同国にはそれよりも小さな空母として常備排水量9750トンの「ヴィンディクティヴ」がありましたが、こちらはワシントン条約成立後の1924(大正13)年に重巡に改装されたため、ロンドン条約保有枠には含まれませんでした。
 結果、日本だけが7470トンの「鳳翔」と、公称7100トンの「龍驤」を保有枠にカウントされたのです。これにより、日本は蒼龍型空母を建造するさいに、「鳳翔」を廃棄する前提で空母保有枠を空けることになります。
 このように3か国を比較してみると、日本だけ不利な条約内容のように思えますが、実は、ロンドン条約の交渉で自ら「1万トン以下の航空母艦の制限」を提案したのです。一体なぜなのでしょうか。
 空母予備艦という抜け道
 当時、日本は敵国空母による、本土空襲を恐れていました。各国の制限外空母を出現させたくなかったがために、保有制限を強めることを主張したのです。
 また、日本が排水量1万トン以下の空母制限を提案した大きな理由のひとつには、空母予備艦の構想もありました。ロンドン条約では、基準排水量1万トン、速力20ノット(約37km/h)以下の特務艦艇であれば保有制限外、という規定が成立しています。この制限外艦艇を有事に空母へ改装すれば、空母戦力を大幅に増強できると考えていたからでした。
 実際に、潜水母艦「大鯨」、高速給油艦「高崎」「剣崎」が空母予備艦として計画され、後に空母「龍鳳」「祥鳳」「瑞鳳」へ姿を変えています。また、水上機母艦「千歳」「千代田」も「必要に応じ航空母艦に改造し得ること」という要求がなされ、のちに空母へ改装されています。
 もし、ロンドン条約で1万トン以下の空母が制限されていなかったら、アメリカは太平洋戦争開戦前にインディペンデンス級のような、小型空母を多数保有していたかもしれません。そう考えると、日本の空母制限に関する提案は、一定の外交的成果を上げたといえるでしょう。
 客船も空母に改造することも考えていた
 さらに、日本は優秀な客船を戦時に空母へと改装することも、折り込み済みでした。1929(昭和4)年に就航した、大型客船の浅間丸型3隻を空母に改装する予定だったのです。浅間丸型は、戦時には排水量1万6800トン、搭載機数38機、速力20ノット(約37km/h)の空母になるはずでした。
 結局、浅間丸型は空母に改装されることはありませんでしたが、日本は、その後も空母改装に適した優秀客船に助成金を出し続け、橿原丸型は隼鷹型空母へ、新田丸型は大鷹型空母へ、あるぜんちな丸型は海鷹型空母へとそれぞれ改装されることになります。
 優秀客船の空母改装は、イギリスなど各国でも研究されていたものの、計画的かつ大規模に戦力化したのは日本だけでした。
 なお、イタリアでは客船「ローマ」が空母「アクィラ」に改造されたなど、他国でも空母改装事例が全くないわけではありませんでしたが、設計段階から空母化を織り込んでいたわけではありませんでした。
 もし、空母予備艦や商船改装空母が存在しなかったなら、日本はミッドウェー海戦で敗北した後で、翔鶴型2隻と「鳳翔」「龍驤」しか空母がなくなっていたでしょう。そうしたことを考えてみると、日本の空母整備は効果的だったともいえるのです。
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