🎺43:─5・D─生還不能の新兵器で多くの部下を死に追いやったエリート司令部。沖縄戦。~No.203 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本は、「金太郎飴」的な超エリート層と言われる超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達によって支配されている。
 戦前の日本は、前例踏襲・横並びのエリートによって滅びた。
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 40年5月 ノモンハン事件ソ連軍を指揮したジューコフ将軍は、スターリンに接見して日本軍の評価を尋ねられ、「兵士は真剣で頑強。特に防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは、狂信的な頑強さで戦います。しかし、高級将校は訓練が弱く、紋切り型の行動しかできない」と答えている。(「ジューコフ元帥回想録」)
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 太平洋戦争時の日本軍は、東京の安全地帯に閉じ籠もって国を動かしていたエリート官僚や軍令と軍政を壟断していたエリート軍人らの無能さ故に負けるべくして負けた。
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 現代日本でも、安全な霞が関の奥で安住していたグローバル・エリート集団が白日の下に引きずり出されたのが、バブル経済破綻後の無策故の失われた30年であり、阪神淡路大震災東日本大震災のお粗末な対応であった。
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 日本人の政治家、官僚、経営者・企業家、学者には、欧米では有り得ないような人格を疑うくだらない理由における不祥事が絶えない。
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 日本人エリートは、成功した事ではなく失敗しなかった事で出世し重要な地位に就くと大半が無能になる。
 秀才エリートにとって、国民・兵士は命を持った人間ではなく科学的な統計上の数字・記号に過ぎない。
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 日本の組織では、個人の才能や実績ではなく、上司にゴマスリが上手いイエスマンで、前任者を否定せず、前任者が定めた範囲内で行動する者だけが出世する。
 継続的リノベーションは採用されるが、破壊的イノベーションも改変的リノベーションは排除される。
 カリスマ的な元経営者や業績を上げた者は、「老害」として院政をひいて組織を私物化する。
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 2022年6月22日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「生還不能の新兵器」で多くの部下を死に追いやった「司令部の無能ぶり」
一度は却下されたはずが…
 神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家
 75年前の今日、1944年10月25日、最初の特攻隊である「敷島隊」が米海軍機動部隊に突入した。
 この爆弾を抱いた航空機で敵艦に体当たりする「搭乗員必死」の戦法は、戦局が圧倒的に不利になってから採用された作戦である。だが、実はこの2年前、日本艦隊が最後に米艦隊と互角に渡り合った「南太平洋海戦」では、生還不能としか思われない戦場へ搭乗員たちが死を決して出撃していくという状況になっていたという。
 この海戦で艦上爆撃機搭乗員だった兄を失い、自らも戦闘機隊の飛行隊長として特攻機の護衛に出撃した岩下邦雄さんは、特攻という作戦に非があるとすれば、作戦を運用した司令部のあまりの無策ぶりにあるという。
 <【前編】特攻機の盾となった戦闘機乗りが、目の当たりにした「司令部の無策」>に引き続き、その経過を語ります。
 たった一度の攻撃で戦力の8割を失う
このときの日高隊には、さらに追い打ちをかけるような、隠れた出撃時の不手際があった。
 通常、空母から発進するさいには、艦の現在位置と予定針路をプロットしたチャート(航空図)を、航海士が指揮官に渡すものだが、急な出撃にチャートが間に合わず、日高はチャートが受け取れないまま発艦していたのである。「瑞鳳」の艦橋は飛行甲板の下にあり、飛行甲板上との連携がとりづらい欠点があった。
 空戦には勝利したが、戻るべき母艦の位置がわからない。クルシー(無線帰投装置)のスイッチを入れてみたが、空戦時にかかった荷重のせいか、故障していて何も聞こえない。無線も通じず、進退きわまった日高は、列機を小隊ごとに解散させ、おのおのの小隊長の航法にまかせて母艦に帰投を試みることにしたが、2機が機位を失して行方不明になった。
 日高隊の空戦で、味方空母に向かう敵攻撃隊を蹴散らし、それによる損害を未然に防ぐことができたが、このために、ただでさえ少ない攻撃隊掩護の零戦が12機とほぼ半減し、敵空母上空に待ち構えていた38機のグラマンF4Fとの交戦で苦戦を強いられた。
 艦攻、艦爆隊はグラマンからの攻撃と敵艦隊の撃ち上げる対空砲火をかいくぐって、空母「ホーネット」に魚雷と爆弾を命中させたが、艦攻16機、艦爆17機、零戦4機を失った。生還した艦攻、艦爆はそれぞれ4機のみである。8割を超える艦爆、艦攻を、たった一度の攻撃で、搭乗員とともに失ったのだ。
 昭和17年10月26日、南太平洋海戦で、日本機の攻撃を受ける米空母「ホーネット」
「瑞鶴」九九艦爆隊を率いた岩下邦雄の兄・石丸豊大尉が、偵察員(2人乗りの後席)・東藤一飛曹長とともに戦死したのは、このときのことだった。
 ――日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が命令どおり、攻撃隊の護衛についていれば味方攻撃隊の犠牲を少なくできたかもしれない。しかし、そうするとみすみす敵機による味方機動部隊への攻撃を許すことになり、ミッドウェー海戦の二の舞になった可能性もゼロではない。
 こんにちの目で日高の判断の是非を論じるのはむずかしい。だが、現場指揮官が遭遇し、瞬時の判断を求められた究極の局面として、戦後、航空自衛隊でも、「自分が日高大尉の立場ならどのように行動するか」を考えさせる、幹部教育の教材に使われたほどの教訓を、この戦いは残した。
 「サクラサクラ」
 機動部隊は第一次攻撃隊を発進させた後、ただちに第二次攻撃隊の準備にかかり、「翔鶴」から零戦5機、九九艦爆19機、「瑞鶴」から零戦4機、九七艦攻16機を発進させた。
 第二次攻撃隊もグラマンF4F 10数機の邀撃を受け、さらに対空砲火を浴びて、艦爆12機、艦攻10機、零戦2機を失った。米空母「エンタープライズ」と戦艦「サウスダコタ」に新たに装備された新型のエリコン20ミリ、ボフォース40ミリ対空機銃の威力にはすさまじいものがあった。
 そんななか、第二次攻撃隊に参加した「翔鶴」零戦隊の佐々木原正夫二飛曹(のち少尉/1921-2005。戦後、森永製菓勤務)は、被弾し、気息奄々としている敵空母「ホーネット」を上空から見て、機上でバンザイを叫んだという。佐々木原は、日記に次のように記している。
 〈クルシーを入れてみると、味方の母艦群より連続信号を発信してくるのが受信された。然し未だ母艦は見えず、又その位置も判らなければ測定も出来ぬ。クルシーが破壊されてゐるのだ。諦めて電話に切り換えたが感度なく、電信にダイヤルを切り換えると間もなく感度あり、総戦闘機(サクラ)及び制空隊(ツバメ)に呼びかけているのが聞こえた。シメタ!と受信に掛る。右手の操縦桿を左手に持ち、レシーバーを完全に装着して、ダイヤルを調節して聞こえるのを右膝の上の記録板に書きとめる。
 『サクラサクラ我の位置、出発点よりの方位二十八度 九十五浬 速力三十ノット、針路三十三度。一三三五(注:午後1時35分)』
 次いでサクラサクラと連送して来る。直ちに母艦の位置を計算、会合点時間を計測する〉
 空母「翔鶴」零戦隊・佐々木原正夫二飛曹(右写真撮影/神立尚紀
「翔鶴」より索敵に発進していた吉野治男一飛曹(のち少尉/1920-2011。戦後、東京電力勤務)は、途中、敵艦上機と遭遇したほかは敵影を見ず、午前9時頃、母艦上空に帰ってきた。吉野は語る。
 「着艦セヨの信号で着艦コースに入り、艦尾近くに達してまさに着艦寸前、母艦の着艦用誘導灯が消え、飛行甲板が大きく左に傾きました」
 上空では、敵急降下爆撃機が、まさに攻撃態勢に入っていた。「翔鶴」はそれを回避するために右に転舵したのである。吉野の目前で、「翔鶴」はたちまち、おびただしい水柱と煙に覆われた。
 「翔鶴」には爆弾3発が命中、幸い、攻撃隊を出した後でミッドウェーのときのような誘爆は起さずにすんだが、「瑞鳳」に続いて発着艦が不可能になった。吉野機をはじめ、攻撃や上空直衛から生還した飛行機は、すべて「瑞鶴」に着艦せざるを得なくなる。同じ頃、艦隊前衛の重巡「筑摩」も、敵の爆弾4発を受けた。
 空母「翔鶴」艦攻隊・吉野治男一飛曹(右写真撮影/神立尚紀
 魚雷の命中はサッカーと同じチームプレー
 いっぽう、機動部隊本隊の西方にいた前進部隊の空母「隼鷹」は、敵との距離280浬(約520キロ)の位置から、志賀淑雄大尉(のち少佐/1914-2005。戦後、会社経営)が指揮する零戦12機、九九艦爆17機の第一次攻撃隊を発進させている。志賀の回想――。
 「断雲の間から、いきなり1隻の空母が現われ、飛行甲板からグラマンが2機、発艦するのが見えました。『あ、いいぞ、あれに行くんだな』と、艦爆が単縦陣になって降下していく上を、戦闘機のほうがスピードが速いのでつんのめらないようにエンジンを絞って蛇行運動しながら、ついて行きました。とにかく、艦爆はどっちに行く?敵戦闘機は?と考えながら、対空砲火なんか全然目に入りませんでしたね。
 そして、いくつかの断雲をぬけて、あっと思ったら戦艦の真上に出てしまったんです。『あれ、戦艦だ』と思う間もなく高度70メートルぐらいにまで下がったと思います。大きな煙突が目の前に現われて、てっぺんに金網が張ってあるのがはっきりと見えましたよ。艦爆の三浦尚彦大尉機について行ったはずだったんですが、雲の中ではぐれたんでしょう、三浦機がいつ火を噴いたのかもわかりませんでした」
 空母「隼鷹」飛行隊長として零戦隊を率いた志賀淑雄大尉(右写真撮影/神立尚紀
 志賀は意識しなかったが敵の防御砲火はここでも衰えを見せず、艦爆隊17機のうち9機が撃墜されている。
 「隼鷹」ではさらに、第二次攻撃隊として、九七艦攻7機に魚雷を積んで、零戦8機とともに発進させる。雷撃隊は、敵空母に魚雷3本、巡洋艦に1本を命中させたと報告したが、2機が撃墜され、艦攻隊の全機が被弾した。空母「飛龍」雷撃隊の一員として真珠湾攻撃で戦艦「オクラホマ」、ミッドウェー海戦で空母「ヨークタウン」に魚雷を命中させた「隼鷹」艦攻隊の丸山泰輔一飛曹(のち少尉/1922-2010。戦後、木材会社勤務)は、この攻撃でも「ホーネット」に魚雷を命中させている。
 「雷撃というのは、サッカーと同じで、チームプレーです。あっちから攻め、こっちから攻めして初めてゴールできる。私の魚雷が命中したといっても、単機で攻撃したのではうまくいくはずがありません。これは、敵戦闘機や対空砲火を引き付けてくれて戦死したみんなの力なんですよ」
 と、丸山は回想している。
 空母「隼鷹」艦攻隊・丸山泰輔一飛曹(右写真撮影/神立尚紀
 戦死者数が日米逆転した海戦
 「瑞鳳」と「翔鶴」が被弾し、空母が「瑞鶴」だけになった第一航空戦隊は残存機をかき集め、零戦5機、九九艦爆2機、九七艦攻6機の第三次攻撃隊を発進させる。ここまでくると、もはや敵の反撃もまばらになっていた。
 「隼鷹」も、帰ってきたばかりの第一次攻撃隊の生き残りのなかから使用可能な飛行機を集め、零戦6機、九九艦爆4機からなる第三次攻撃隊を編成した。零戦隊指揮官は志賀大尉、艦爆隊は、第一次攻撃で分隊長クラスが戦死したので、初陣の加藤瞬孝中尉が指揮をとることになった。
 初めての戦闘で、すさまじい防御砲火をくぐりぬけてやっと生還した加藤中尉は、報告の声もしどろもどろで、まだショックから立ち直っていなかった。搭乗員待機室で参謀・奥宮正武中佐から、
 「加藤中尉、もう一度願います。こんどは君が指揮官をやってもらいたい」
 と伝えられた加藤中尉は、
 「えっ! また行くんですか」
 と、驚いた顔をして立ち上がった。志賀は語る。
 「加藤中尉はトンちゃんの愛称で親しまれている、かわいい男でした。蒼ざめている彼に、『トンちゃん、戦争だぞ。敵を最後までやっつけないと勝ったとは言えないぞ。俺がついてるから、攻撃がすんだら、戦闘機を誘導せずにまっすぐに帰ればいいから』と励まして出撃したんです」
 「隼鷹」第三次攻撃隊は「ホーネット」に全弾を命中させ、艦爆隊は志賀に言われた通り、一目散に母艦へ帰っていった。すでに夕闇が迫っていた。志賀は列機をとりまとめ、クルシーのスイッチを入れた。すると、母艦からの電波が入り、クルシーの航路計の針がピクンと動いた。発艦前、志賀は海軍兵学校で一期先輩の「隼鷹」通信長・佐伯洋大尉に、
 「もし、無線封止だなんて言って電波を出さなかったら、帰ってきたらぶっ飛ばすぞ」
 と言い置いて出てきたが、通信長の律儀さがありがたかった。故障しやすいクルシーが生きていたのも幸運だった。
 翼端の編隊灯をつけ、はぐれないようガッチリと編隊は組んだまま、針が指し示す方向に飛ぶこと1時間あまり、周囲はすでに暗闇に包まれている。突然、針がパタッと倒れた。志賀が下を見ると、真暗な海面に、パッと母艦の中心線のランプが、縦一線に灯った。「隼鷹」であった。
 この海戦で、日本側は米空母「ホーネット」と駆逐艦1隻を撃沈、「エンタープライズ」に損傷を与え、飛行機74機を失わせたが、空母「翔鶴」と「瑞鳳」ほか2隻が被弾。空母の喪失はなかったものの、飛行機92機と搭乗員148名、艦船乗組員約300名を失った。
 これは結果的に、日本海軍機動部隊が米機動部隊に対し、互角以上に戦った最後の機会となったが、搭乗員の戦死者数で見ると、空母4隻を失い大敗したミッドウェー海戦(同年6月5日~6日)の121名をも上回る。特に、真珠湾攻撃以来、実戦の経験を積んできた艦上爆撃機、艦上攻撃機の主要指揮官の大部分と練達の搭乗員を失ったことは、以後の作戦にも大きく影響する、取り返しのつかない痛手だった。
 米軍パイロットの戦死者は、ミッドウェー海戦では日本側の倍近い210名だったのに対し、南太平洋海戦でははるかに少ない26名(別に艦船乗組員約240名)だったとされている。
 艦船の得失では日本側の勝利ともとれるが、人的損失と、それによって受けたダメージは、日本側の方がはるかに大きかったのだ。
 岩下邦雄は、この海戦で兄・石丸豊大尉が戦死したのは、日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が、進撃途中で編隊を離れ、味方の攻撃に向かう敵機と戦ったために、艦爆、艦攻隊の護衛が手薄になった一面は否定できないが、自身の経験と照らせば責められないと言う。
 「自分がのちにフィリピンや沖縄で、艦爆隊や特攻機の護衛をした経験からいえば、どうやったら効果的な掩護ができたのか、どうすればベストだったのか、最後まで答えが出ないままでした。いまもときどき自問自答しますが、ほんとうにわからない。攻撃隊を護衛したことのある戦闘機乗りならみんなそうだったと思います。だから、兄貴が戦死したことで、日高さんの判断をとやかく言う気は全くない。兄貴と日高さんは海兵同期なんですよ。クラスメートを護衛できなかった日高さんも、かなり辛い思いをされたんじゃないでしょうか」
 岩下邦雄(左)と日高盛康(右)。平成14年9月、靖国神社にて(撮影/神立尚紀
 1度は却下された「生還不能の新兵器」
 南太平洋での日本軍の敗勢が明らかになった昭和18(1943)年6月末頃から、海軍部内では飛行機に爆弾を搭載したまま敵艦に突入するという、捨て身の作戦が議論に上っている。
 昭和18年6月29日、侍従武官・城英一郎大佐は、艦攻、艦爆に爆弾を積み、志願した操縦員1名のみを乗せて体当り攻撃をさせる特殊部隊を編成し、自身をその指揮官とするよう、当時、航空本部総務部長だった大西瀧治郎中将に意見具申した。大西は、
 「搭乗員が100パーセント死亡するような攻撃方法はいまだ採用すべき時期ではない」
 としてこの意見を却下した。同年10月には、黒木博司大尉、仁科関夫中尉が共同研究した「人間魚雷」の設計図と意見書を軍令部に提出したが、これも却下された。
 だが、昭和19(1944)年2月17日、中部太平洋における日本海軍の一大拠点・トラック島が大空襲を受け、壊滅的な打撃を受けたことで潮目が変わった。2月26日、先の「人間魚雷」の着想が見直されることになり、呉海軍工廠魚雷実験部で極秘裏に試作が始められる。これはのちに「回天」と名づけられる水中特攻兵器で、魚雷に操縦装置をつけ、人間の操縦で敵艦に体当りするものだった。
 昭和19年4月4日、軍令部第二部長(軍備)・黒島亀人少将は、第一部長(作戦)・中澤佑少将に、「体当り戦闘機」「装甲爆破艇」をはじめとする新兵器を開発することを提案し、その案を元に軍令部は、9種類の特殊兵器の緊急実験を行なうよう、海軍省に要望した。
 昭和19年5月には、一〇八一空の大田正一少尉が、大型爆弾に翼と操縦席を取りつけ、操縦可能にした「人間爆弾」を着想、同隊司令・菅原英雄中佐を通じて空技廠長和田操中将に進言、航空本部と軍令部で研究を重ねることになった。
 6月19日には第三四一海軍航空隊司令・岡村基春大佐が、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に、「体当り機300機をもって特殊部隊を編成し、その指揮官として私を任命されたい」と意見具申。岡村はさらに、軍需省航空兵器総務局長になっていた大西瀧治郎中将のもとへも赴き、体当り戦法に適した航空機の開発を要望している。昭和19年8月に入ると、航空本部は大田少尉の「人間爆弾」案をもとに、空技廠に試作を命じた。のちの「桜花」である。
 特攻兵器の試作が決まったのを受け、昭和19年8月上旬から下旬にかけ、第一線部隊をのぞく日本全国の航空隊で、「生還不能の新兵器」の搭乗員希望者を募集した。ただし、その「新兵器」がどんなものであるか、その時点では明らかにされていない。
 「ダバオ水鳥事件」
 昭和19年9月13日付で、海軍省に「海軍特攻部」が新設され、大森仙太郎中将が特攻部長に就任した。「特攻」は、すでに海軍の既定路線だった。
 体当たり攻撃隊の編成開始と並行して、海軍軍令部は、来るべき日米決戦で敵機動部隊を撃滅するための新たな作戦を練っていた。全海軍から選抜した精鋭部隊と、臨時に海軍の指揮下に入る陸軍重爆撃機隊で編成された「T攻撃部隊」による航空総攻撃である。
 「T」はTyphoonの頭文字をとったもので、敵戦闘機の発着艦が困難な悪天候を利用して、敵機動部隊を攻撃するというものである。ただ、精鋭部隊といっても、南太平洋海戦の頃とは状況が違う。飛行機の性能、機数が敵より劣り、実戦経験のない搭乗員が多くを占める現状から、まともに考えれば敵機が飛べないほどの荒天下で有効な攻撃ができるはずがない。こちらの都合のみをよいように考えたこの作戦を発案したのは、軍令部第一部第一課の部員・源田實中佐、採択したのは軍令部第一部長・中澤佑少将である。
 案の定、というべきか、台湾沖に出現した敵機動部隊を攻撃に向かった日本の航空部隊は、昭和19年10月12日から16日にかけて戦われた「台湾沖航空戦」で、敵空母を一隻も沈めることができずに約400機を失い、惨敗した。
 敵機動部隊は、ほぼ無傷のままフィリピンに向かい、10月17日には米上陸部隊が、レイテ湾沖に浮かぶスルアン島への上陸を開始している。ところが、フィリピンに展開する日本海軍の基地航空部隊(第一航空艦隊)の戦力は約40機しかない。
 フィリピンにおける日本海軍の航空兵力がこれほど弱体だったのは、台湾沖航空戦での損失とともに、前月に起きた二度の不祥事が原因だった。
 9月9日から10日にかけ、第一航空艦隊(一航艦)が司令部を置いていたダバオが、米機動部隊艦上機による大空襲を受けた。10日早朝、見張所から「敵水陸両用戦車200隻陸岸に向かう」との報告が入り、浮き足立った根拠地隊司令部が、「ダバオに敵上陸」を報じ、玉砕戦に備えて通信設備を破壊、重要書類を焼却し、自ら司令部機能を失ってしまう。飛行機は空襲被害を避けるため、フィリピン各地に分散していて、ダバオには飛べる飛行機が1機もなく、報告の真偽を確かめられなかったのだ。
 夕方になって、美濃部正少佐が、修理した零戦で現地上空を偵察飛行してみたところ、敵上陸は全くの誤報であることがわかった。見張員が、暁闇の海面の白波を、敵の水陸両用戦車と見間違えたのだ。これは、昔、平氏の軍勢が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて壊走した「富士川の合戦」を思わせることから、「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。
 敵機動部隊は9月12日、こんどはセブ基地を急襲する。ダバオに敵上陸の誤報を受け、敵攻略部隊に備えてセブ基地に集められたままになっていた第二〇一海軍航空隊(二〇一空)の零戦隊は、この空襲で壊滅的な損害を被った。基地指揮官・中島正少佐の発進命令が遅れ、離陸直後の不利な態勢で敵戦闘機に襲われたのだ。フィリピンでの決戦に向けて用意されていた虎の子の零戦は、こうして失われた。「セブ事件」と呼ばれる。
 この一連の不祥事で、一航艦司令長官・寺岡謹平中将は在任わずか2ヵ月で更迭され、後任の長官には大西瀧治郎中将が親補された。この司令長官交代劇は、周到に準備されていたものではなく、あくまで寺岡長官が責任をとらされた偶発的なものである。
 大西中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(のち主計少佐/1917-2008。戦後、丸三証券社長)によると、米軍のスルアン島上陸を受け、大西は門司を伴って10月17日午後、第一航空艦隊司令部のあるマニラに到着する。その日のうちに、前任の寺岡中将と大西との間で、実質的な引継ぎが行われた。辞令上は、大西の長官就任は20日付だが、この時点で指揮権は大西に移ったと考えて差し支えない。
 大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(右写真撮影/神立尚紀
 「惰性で人の命を奪ってはいけない」
 聯合艦隊司令部は、敵のスルアン島上陸を米軍による本格的なフィリピン侵攻の前ぶれととらえて、それを迎え撃つべく、10月18日夕刻、「捷一号作戦」を発動する。これは、栗田健男中将率いる戦艦「大和」以下の大口径砲による砲撃で敵上陸部隊を殲滅することを柱とし、それを成功させるため、敵機動部隊を引きつける陽動の空母部隊や、レイテ湾を南北から挟み撃ちにする別働隊などを配する、日本海軍の総力を注ぎ込んだ大作戦だった。
 新たに着任した大西中将は、配下にあるたった40機の飛行機で、主力艦隊のレイテ湾突入を支援しなければならなかった。門司は、
 「海軍では『特攻』は既定路線だったんでしょうが、大西中将がフィリピンで、ほんとうに特攻隊を出す決心をしたのは18日の夕刻、すなわち『捷一号作戦』発動のときだったと思います」
 と語っている。
 大西は、翌10月19日朝、現地航空隊の司令、飛行長に、マニラの司令部への参集を命じた。ところが、戦闘機隊の二〇一空本部のあるマバラカット基地はこの日、間断のない空襲を受け、司令・山本栄大佐と飛行長・中島正少佐は午後になっても到着しなかった。業を煮やした大西は、門司副官を伴い、車でマバラカットへ向かった。
 その道中、右前方にアラヤット山を望むあたりで、門司は、
 「決死隊を作りに行くのだ」
 という、大西のつぶやきを聞いている。
 門司親徳(左)と大西瀧治郎中将。昭和20年5月、台湾にて
 二〇一空に特攻隊の編成を指示したのは、その夜のことだった。少数の航空兵力で、栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させるためにできることは、たとえ沈めないまでも、敵空母の飛行甲板を一時的に使えなくすることしかない。それとともに、大西が特攻隊編成を決意したのは、
 「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」
 という思いがあったからだった(このことは、昭和天皇の弟宮として大きな影響力を持つ海軍大佐・高松宮宣仁親王、米内光政海軍大臣の内諾を得ていたという。つまりこれは、表に出さざる「海軍の総意」だったとみて差し支えない)。
 大西の要請を受けて、二〇一空副長・玉井浅一中佐が人選し、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名づけられた最初の特攻隊が編成されたのは10月20日、第1回の出撃は21日のことである。22日に若桜隊、23日に菊水隊が新たに編成される。
 昭和19年10月21日、マバラカット西飛行場で出撃直前の敷島隊、朝日隊の隊員たち。飛行服姿左端が関行男大尉。落下傘バンドをつけた直掩隊搭乗員をはさんで、左の列が敷島隊、右の列が朝日隊
 特攻隊は、味方索敵機が報告する敵情にしたがって出撃するが、予定海面に達したときにはすでに敵艦隊が移動していて見当たらず、帰投することを繰り返した。その間、突入が確認されないまま未帰還になった隊員もいる。10月25日、関大尉が突入したのは、4度めの出撃のときだった。
 昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊最後の発進
 だが、特攻隊の、文字通り命を爆弾に代えた犠牲もむなしく、栗田中将はレイテ湾突入を断念、「決戦」はまたも日本側の大敗に終わる。それでも、米軍のさらなる侵攻を食い止めようと、特攻隊は次々と編成され、飛び立っていった。栗田艦隊の失敗で敵の勢いを止められなくなったいま、「敵空母の飛行甲板を一時的に使用不能にする」という当初の限定的な目的が、変容せざるを得なくなったのだ。
 南太平洋海戦で兄を失った岩下邦雄大尉は、局地戦闘機紫電」で編成された第三四一海軍航空隊戦闘第四〇一飛行隊長として、フィリピンで、連日のように出撃を重ねていた。
 「12月16日、ミンドロ島の米攻略部隊攻撃に、艦爆隊を護衛して出撃したときのことです。ぼつぼつ予定地点かな、と思ったとき、断雲の下に敵攻略部隊を発見しました。驚いたのは上陸用舟艇の数です。まるでバケツ一杯の羽根をまき散らしたように無数の船が航行していて、私は、これは味方が全弾命中させてもかすり傷にもなるまいと、力が抜けるような気がしました」
 岩下はその後、主戦場が沖縄に移ってからは横須賀海軍航空隊笠之原派遣隊指揮官として、九州から沖縄方面への出撃を繰り返すことになるが、その間、戦場で感じた「特攻」の意味の変化について、次のように語っている。
 「フィリピンでの最初の特攻は、それまで通常攻撃でさえ、出撃した飛行機のほとんどが未帰還になり、しかも戦果を挙げられないような場面が多かったから、搭乗員の側にも仕方がない、という空気はありました。われわれみんな、遅かれ早かれこの戦争で死ぬものだと思ってましたからね。関君たちが、たった10機で栗田艦隊を上回る戦果を挙げたことも大きかった。
 しかし、フィリピンを取られ、沖縄も占領され、もうどうにもならなくなっても続けたことについては、大いに疑問に感じています。死を覚悟した軍人であっても、惰性で人の命を奪ってはいけない。海軍の身内を悪く言いたくはありませんが、司令部の怠慢ととられても仕方がないように思います
 特攻隊については、これまでさまざまな論考がなされているが、まず否定ありきの偏った考察によるものが少なくない。それらに対する反証は、2018年4月15日に寄稿した拙稿「日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55270で述べた。
 なかでも、「海軍兵学校出身者が温存され、予備士官や下士官兵ばかりが特攻に出された」とか、結果論で「特攻は、1隻沈めるのに〇人の命が失われた非効率な作戦」といった、俗耳に入りやすい言説には、そうではない具体的な根拠を挙げたつもりである。敵艦1隻を沈めるのに失われた搭乗員の数は、「南太平洋海戦」も「特攻」も大差ない。
 失われた人命に比しての戦果という見方をすれば、3948名の犠牲で8064名の敵の命を奪い、10000名以上に傷を負わせた「特攻」は、大戦中期、ガダルカナル戦以降のどの航空作戦よりも効果的に戦果を挙げた。――だから特攻は優れた戦法だった、と肯定する気はない。問題はそこではないのだ。
 かつて、特攻戦没者を愚弄するようなオブジェが「芸術作品」と称して展示され、話題を呼んだ。特攻隊員をはじめ戦没者の死を「無駄死に」であったとする声も、一定の割合で必ず聞こえてくる。だが、歴史は大きな流れのなかで段階を踏んで進んでいる。好むと好まざるとにかかわらず、現在は、あの忌まわしい戦争をも含めた歴史の上に成り立っている。どんな時代であれ、自分の生きた世界を懸命に生き、そして死んだ人たちのことを、嘲る資格など誰にもないはずだ。とりわけ、戦没者を侮辱することは、世界のどこでも許されることではない。
 いまの時代が、たとえば70数年後、どのように評価されることになるのかはわからないが、先のオブジェが優れた美術作品と評価されるとは考えにくい。現代を生きるわれわれは、過去を嘲るのではなく、そこから何ごとかを虚心に学ぶべきだろう。特攻についても、今後、さらに事実が解明され、幅広い考察がなされることを期待したい。ただ一点、危惧するとすれば、これからの世代は当事者の声を生で聞けなくなることだ。
 本稿執筆中、特攻隊員として4度の出撃を重ねて生還し、戦後は神奈川県警刑事となった長田利平氏(「4度の特攻から生還した男が『刑事』として生きた激動の戦後」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56662参照)が、93歳で亡くなったとの知らせが届いた。砂時計の砂は、無情に落ち続けている。
 戦争の記憶をたどる…貴重写真の数々をまとめた
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