🎺43:─5・C─若い命をカミカゼ特攻として捨て駒にして逃げた高級指揮官たち。~No.203 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
2022-10-15
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2023-12-24
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2024-01-24
🍘47〗ー2ーなぜ日本人は「出る杭を打つ」のか。優秀な社員が出世すると無能になる構造。~No.144 
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 今も昔も、日本人の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達ほど出世すると無能になる。
 政治家や高級官僚や上級将校にとって、国民や兵士の命は名前を持たない科学的統計上の数字でしかない。
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 天皇にとって国民・民族は「国の宝」であった。
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 2024年1月23日 YAHOO!JAPANニュース ひとシネマ「<ネタバレ注意>元特攻兵を取材した記者が見た「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」前編 若い命を捨て駒にした指揮官たち
 福原遥
 水上恒司
 元特攻兵を取材した記者が見た「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」 特攻は〝作戦の外道〟 彰が身を投じた無謀な体当たり
誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
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 第二次世界大戦末期の1944年、大日本帝国特別攻撃隊=特攻が始まった。そこから80年の今、特攻をテーマにした「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」がヒットしている。私は実際に特攻に出撃し、生還した元兵士たちに直接会って話を聞いてきた。作品を見る前、「特攻隊員=大切な人、大切な国を守るために自らの意志で犠牲になった若者たち」という「英霊史観」に基づいた、特攻礼賛一辺倒の物語と予想していた。だが、予想は外れた。映画が描いた特攻とは何か、理解を助けるべく振り返りたい。
 敗戦2カ月前にタイムスリップした女子高生
 主人公・加納百合(福原遥)は現代の高校女子3年生。45年6月、つまり大日本帝国敗戦まで2カ月前にタイムスリップする。慌てふためく百合を偶然通りかかった佐久間彰(水上恒司)が助けたことから交流が始まる。彰は陸軍の特攻隊員だ。隊員仲間とともに、百合が勤め始めた食堂に通い詰める。「未来」を知っている百合は、「日本は負ける」と言って憲兵ににらまれ、戦争を生き延びることを「生き恥」と表現した相手に「生きていることが恥なんておかしい」と反論する。彰を説得して引き留めようとするが、仲間とともに笑顔で飛び立っていく――。
 「十死零生」の非情な「作戦」
 大日本帝国の時代の特攻と言えば、多くの人が思い浮かべるのが爆弾を搭載した航空機が搭乗員もろとも敵艦に体当たりする「航空特攻」だろう。「あの花」もこれである。成功すれば、兵士は必ず死ぬ。「九死に一生」でさえなく、「十死零生」である。「戦争なんだから当然でしょう」と思う人がいるだろうか。だが通常、航空機による攻撃は、爆弾もしくは魚雷を敵艦に当てて帰ってくることが前提だ。いかに戦時中といえども「死んでこい」という命令はあってはならない。兵士の士気が下がるのは当然であり、戦力が低下するのは必然である。
 さらに言えば、人材面でも特攻は戦略的に見合わない。兵士が搭乗員として独り立ちするまでには、膨大な時間が必要だった。300飛行時間では何とか飛ぶことができる程度で、「人間で言えばヨチヨチ歩きの段階」(小沢郁郎著「つらい真実・虚構の特攻隊神話」)であった。毎日3時間飛んで、100日もかけて、何とか赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きができるようになる。その間、当時「血の一滴」と言われた航空燃料も相当に費やす。長い時間と貴重な燃料を費やして育てた搭乗員が、一瞬で死ぬ。貴重な機体も失う(当時は深刻な航空機不足だった)。しかも戦果も、特攻を推進した軍幹部が期待したほど上がらず、敵艦に体当たりするどころか近付くことさえ困難になっていった。
 ©️2023「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」製作委員会
 圧倒的な物量差 連合国軍に太刀打ちできず
 なぜ、そんな「作戦」を始めたのか。どうして継続したのか。端的に言えば、前述の通常作戦では米軍をはじめとする連合国軍に太刀打ちできなくなったからだ。たとえば零戦。開戦後しばらくは米軍機を圧倒した。しかし、米軍は新鋭の戦闘機を投入して零戦の弱点である防御力の弱さを突き、形勢は逆転していった。日本側は戦闘機をモデルチェンジする国力がなく、最後まで零戦頼みだった。さらに戦闘が長期化すると搭乗員不足が深刻になった。戦局が悪化し制空権、制海権を失うと南方から石油などの戦略物資を確保することが難しくなった。
 そうした中で44年6月、日本の連合艦隊航空母艦9隻を中心とする機動部隊で、米軍の機動部隊に挑んだ(マリアナ沖海戦)。マリアナ諸島サイパンに上陸した米軍を撃退するためだった。同諸島を占領されると米戦略爆撃機B29による、日本本土爆撃が可能になる。日本としては失ってはならない場所だった。
 大日本帝国の命運を握っていた機動部隊は、開戦以来最多となる500機近くで正攻法の攻撃をしかけた。だが米空母1隻すら沈めることができなかった。しかも最新鋭空母にして旗艦だった「大鳳」と真珠湾以来歴戦の「翔鶴」など空母3隻とほとんどの航空機を失った。圧倒的な物量の差(同海戦で米軍が展開した空母は15隻)と、レーダーなど科学・技術力の差からも日本軍の敗色は濃厚だった。そして同年10月。米軍は日本が占領していたフィリピンに襲いかかった。
 5機の零戦で米空母撃沈の「大戦果」
 特攻はこのフィリピン戦線で始まった。最初の特攻隊を送り出したのは大西滝治郎・海軍中将だ。最初の特攻機零戦5機。軽量で身軽さが武器の零戦に250キロの爆弾を抱かせ(爆装)、米護衛空母1隻を撃沈し、1隻を大破させる戦果を上げた。通常の作戦では、空母を撃沈するどころか近付くことさえ困難になっていた。そんな戦況の中でたった5機の零戦が、小型とはいえ敵空母を沈めたことは「大戦果」だった。大西は特攻隊を「統率の外道」、すなわち本来はしてはいけない「作戦」と認識していたのだが、特攻の「効果」が証明されたことで「外道」が「通常の作戦」となっていった。彰たちが所属していた陸軍も、フィリピンで航空特攻を始めた。
 しかし、米軍はフィリピン制圧を進め、主戦場は沖縄方面に移った。特攻は主に南九州の基地を拠点として展開していった。映画の舞台も、そうとは明示されていないが、私の見る限り鹿児島県・知覧にあった特攻基地がモデルとなっているようだ。
 死ににいくのに「おめでとう」って
 百合のいる食堂や松坂慶子演じるおかみにも、モデルがあると思われる。鳥浜トメさんが営んでいた「富屋食堂」だ。知覧飛行場の少年飛行兵が通い、鳥浜さんは家財を売って食材を集め、隊員にごちそうを振る舞ったという。鳥浜さんは「特攻の母」と呼ばれ、高倉健主演の映画「ホタル」にも登場する。
 彰たち5人の隊員は、ここで最期の宴で杯を交わし、「同期の桜」を歌う。「出撃命令が出ました」という隊員に、食堂のおかみは声を震わせながら「おめでとうございます」と返す。当時の状況からすれば、こうした場面が実際にあったことは想像に難くない。しかし現代の感覚からすれば、百合の「『おめでとう』『ありがとうございます』。死ににいくんだよ。使い方まちがってるじゃん」というつぶやきの方がまっとうだろう。
 映画では、1人が出撃前に逃亡を図り、見つけた彰に懇願する。「どうか見逃してください」。死ぬ覚悟はしていたが、16歳の婚約者が空襲に遭い、「一生歩けない体」になってしまったことで気持ちが変わったのだ。彰は「俺たちは自分たちで志願してきたんじゃないか」と「説得」する。「志願」した特攻隊員は確かにいた。しかし「志願」しなかった特攻隊員もたくさんいた。そうした事情は、稿を改めて見ていきたい。
 あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。
 TikTokで〝泣ける〟と、10代を中心に人気を博し、シリーズ累計発行部数50万...
 2023年 /日本
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 ライター
 栗原俊雄
 くりはら・としお 1967年生まれ、毎日新聞専門記者。2003年から学芸部。専門は戦後補償史、日本近現代史。07年からシベリア抑留体験者や遺族に取材を続けている。08年にはシベリアでの墓参に参加。著書に「シベリア抑留 未完の悲劇」(岩波新書)、「シベリア抑留 最後の帰還者 家族をつないだ52通のハガキ」(角川新書)など。
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 1月27日 YAHOO!JAPANニュース ひとシネマ「<ネタバレ注意>元特攻兵を取材した記者が見た「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」後編 若い命を捨て駒にした指揮官たち
 富永恭次中将(右端)から、別れの杯を受ける陸軍特攻隊進襲隊の隊員たち=フィリピンで1945年2月
 ヒット中の映画「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」で、特攻隊員の佐久間彰(水上恒司)らは、自らの意志で特攻に行く。2023年からタイムスリップして来た高校生の主人公、加納百合(福原遥)は、佐久間を止めようとするものの「志願した」と言われて言葉を失う。特攻は「十死零生」、作戦とも言えない無謀な作戦だった。「国や家族を守るため、自ら犠牲になった英霊」という評価もあるものの、百合ならずとも「信じられない」と思う人は多いのではないか。
 【写真】フィリピンのミンダナオ島・ダバオから出撃し、米護衛空母に突入する特攻機
 飛び立ったのは自らの意志だったのか
 私は実際に特攻に出撃し、生還した多数の元兵士たちに直接会って取材してきた。その取材から言えるのは「自らの意志で征(い)った兵士はいた。しかし、そうではない兵士も確かにいた」ということだ。「愛する人のため、国のために命をささげた」。特攻にそういう一面があるのは事実だが、すべてではない。特攻隊員を「英霊」とひとくくりにしてしまうと、無責任で恥知らずな指揮官や、勝てるはずのない戦争を始めた為政者たちの責任が見えなくなってしまう。
 拙稿「元特攻兵を取材した記者が見た「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」 特攻は〝作戦の外道〟 彰が身を投じた無謀な体当たり」では、特攻が立案された背景と、その非道さを報告した。今回は、特攻の内情について見てみよう。その実態を知れば、映画をより深く味わうことができると思う。
 爆弾をつけた初めて、そして最後の飛行
 私の見るところ、映画の舞台は陸軍の特攻基地があった鹿児島県・知覧と思われる。また、映画はその知覧の特攻をルポした高木俊朗の名著「特攻基地 知覧」(角川文庫)を参考にしているようだ。高木は早稲田大卒業後、松竹に入社して1939年に陸軍報道班員となり、マレーシアなどを経て知覧に渡った。当時の状況をこう伝える。
 <陸軍の特別攻撃隊の飛行機は、この飛行場から沖縄に向って出撃した。(中略)特攻機の機種はさまざまであったが、どの飛行機も、機体に二百五十キロの爆弾をつけていた。操縦者の大部分は飛行経験がすくなく、爆弾をつけて飛ぶのは、その時が最初であった。そして、それが、ほとんどの最後の飛行となった>
 米軍は作戦の成功=兵士の死となる「死んでこい作戦」を想定していなかった。だが日本軍の意図を知り対応を進めた。レーダー網を活用して迎撃態勢を整備した。特攻機の目標である航空母艦のはるか前に、戦闘機や護衛艦を配備した。特攻機は目標に体当たりするどころか、近付くことさえ困難になった。
 また特攻隊員の技量不足も、戦果が上がらない要因だったと思われる。航空燃料の不足などで訓練が不十分なまま特攻に出撃した兵士にとって、目印の少ない海上を飛び続けて敵にたどり着くこと自体が容易ではなかった。彰は果たして、目標の敵艦を目にできたのだろうか?
 「後に続く」鼓舞した指揮官の取った行動
 映画では、百合が勤め始めた食堂に通う彰たち5人の特攻隊員うち、1人が出撃前に逃亡を図る。婚約者が空襲で「一生歩けない体」になり、そばにいてやらねばと思ったのだ。彰は「俺たちは自分たちで志願してきたんじゃないか」と「説得」するが、その決意が固いことを知って見逃すことになる。
 実際の特攻隊員の中には、飛び立った後にも、「機体の故障」を理由に何度も帰って来る兵士もいた。特攻に動員された機体の中には使い古された旧式機も多く、エンジントラブルが続出したことも事実だ。だがそうではなく、後に残る人を思い死にきれない兵士もいた。実例は前掲の「特攻基地 知覧」を参照してほしい。
 また映画の中で別の隊員、加藤は、軍人である父親が敵前逃亡し、自分が特攻に加わることでその汚名をそそごうと躍起になっているという設定だ。加藤の父親のモデルかどうかは不明だが、実際に「戦場から逃げた」とされる特攻隊指揮官がいた。富永恭次陸軍中将だ。フィリピンで特攻を指揮した富永は、隊員たちを鼓舞するためか日本刀を持って飛行場に立ち、「自分も必ず後に続く」と約束して送り出した=トップ画像参照。
 しかしその富永は、44年12月、上層部に自らの更迭を申し出た。それは却下されたが翌45年1月、許可がないまま台湾に渡ってしまった。4カ月後の5月、予備役に編入。事実上の「クビ」であった。戦争を始めた大日本帝国の為政者たちは、自身は戦場の最前線には行かなかった。そして最前線で特攻隊員を送り出した指揮官たちの多くも、自身は特攻しなかった。組織的地位の高い者ほど戦場から遠くにいて生き延びる。地位の低い者たちが命を落とす。それが大日本帝国の戦争であり、特攻はその典型だった。
 航空特攻より戦死者が多かった水上特攻
 さて映画では、「全特攻戦死者3948人」とされる。戦史研究によればおおむね妥当な数字ではある。ただ、これは航空特攻に限った話だ。「特攻」は他にもあった。たとえば戦艦「大和」特攻艦隊だ。
 45年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した。同6日、沖縄の日本軍守備隊と連携して米軍を撃破すべく、「大和」以下10隻の特攻艦隊が連合艦隊から「海上特攻隊」の命令を受け、沖縄に向けて山口県・徳山沖を出撃した。連合艦隊の命令は、「片道燃料」であった。実際は現場の判断で往復可能な分が積まれたのだが、まさに「死んでこい」という「特攻」であった。
 制空権も制海権も米軍が握っている状況で、沖縄にたどり着くことさえ奇跡に近かった。たどり着いたとしても、沖縄近海の膨大な米艦船群をたった10隻の艦隊が撃破するなど、奇跡そのものだ。
 戦果は二の次「さきがけになってくれ」
 だから特攻艦隊の司令長官だった伊藤整一中将は納得しなかった。それでも連合艦隊側から「要するに1億総特攻のさきがけになってもらいたい」と説得され、「それなら分かった」と同意した。つまり戦果は二の次、特攻自体が目的になっていたのだ。
 出航の翌7日、米軍機の波状攻撃により、沖縄のはるか手前で「大和」以下6隻が撃沈された。大和の乗員3332人のうち、生き残ったのは1割に満たなかった。艦隊全体では計4000人以上が戦死した。つまり44年10月から45年8月まで半年間続いた航空特攻の戦死者に匹敵する人数が、たった1日で戦死してしまったのだ。
 私は「大和」艦隊から生還した兵士22人に直接会って話を聞いた。上官から「特攻するかどうか」と聞かれた人は、ただの1人もいなかった。特攻は兵士の意志など関係ない、通常の「作戦」だったのだ。
 本当の特攻、戦争を知るきっかけに
 百合の父親は、溺れている他人の子どもを助けて命を落とした。経済的苦境を知る百合は「大学に行かない」とかたくなだ。母親は父親を「正義感の強い人だった」とほめたたえるものの、割り切れない。「家族をこんな目にあわせて人のために死んでる場合? 英雄気取りかよ。父親失格じゃん!」
 タイムスリップした百合は、教師になるという目標、そして百合への思いを告白できないまま飛び立つ彰を見送ることになる。「百合。生きてくれ。人と人が傷つけあわず、一緒に笑って暮らせる未来を、平和で笑顔の絶えない未来を、一生懸命生きてくれ」という遺書が残される。現代に帰った百合は、とある場所で彰の戦死を知る。そしてふっきれたように、「大学に行かせてください」と母に告げる。教師になるべく――。
 戦死した彰たち特攻隊員の分まで、懸命に生きよう。そういう意志が伝わってくる。この映画が特攻の全容、戦争の本質を知るきっかけになればと願う。
 【参考文献】「特攻 戦争と日本人」(栗原俊雄著・中公新書
 毎日新聞専門記者 栗原俊雄
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