🎺43:─4─本土防空戦。世界最強の日本軍航空部隊はB29爆撃機を485機撃墜した。~No.202 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
2023-12-11
🎺43:─5─世界戦史に残るカミカゼ特攻の予想以上の戦果。~No.203 
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 本土空襲墜落機調査
 "中国─ビルマ─インドとマリアナ基地からの作戦全般を通じて第20空軍は、あらゆる原因によるものを含め、超重爆485機、戦闘機212機を失った。この間、戦死または行方不明となった戦闘搭乗員は合計3041名に達し、攻撃行動中の戦傷者は332名であった。
 延べ33047機のB29と6276機の戦闘機が超遠距離を飛行して日本上空に出撃した事実を考えると、受けた損害は極めて微々たるものであった。B29で出撃して戦死または負傷した人員は戦闘搭乗員の1パーセントにも達しなかったからである。  
 アメリ戦略爆撃調査団報告第66号”B29部隊の対日戦略爆撃作戦(第20空軍)” 
 1944年6月16日の本土初空襲以来、B29は日本の大都市はいうに及ばず中小の都市をも焼き尽くし、空襲犠牲者50万以上、罹災者1000万以上の被害を与え、物心両面から日本の戦争継続能力を奪った。その一方、日本防空部隊は質、量とも圧倒的に劣る装備で、そして最終的には体当たり攻撃をもってこれに立ち向かった。それはまさに「空の本土決戦」ともいうべきものであった。その結果、多くのB29が本土に撃墜され、その20代前半が大部を占めた生存搭乗員達も軍に、或いは住民により厳しい措置を加えられた。以下はもう一つの本土空襲の姿である。 
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 経験の浅い若手パイロットは、飛び立って空中戦が生き残れない為に特攻隊要員として航空基地に配属された。
 歴戦パイロットは、空中戦を戦って生き残ってきただけに、本土決戦要員として本土の航空基地に配属された。
 エース級パイロットは、B29迎撃の特命を帯びた特殊航空部隊に配属され迎撃用最新鋭機を与えられた。
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 撃墜されたB29で生き残った搭乗員は、非人道的無差別爆撃で生き残った住民らの復讐で虐殺されるか、警察や憲兵隊に逮捕され軍法会議で有罪となって処刑されるか、医学大学で人体実験として惨殺された。
 戦後、搭乗員を殺した日本人は、B級C級戦犯として処刑された。
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 戦争に勝つ為に英知と持てる科学技術を結集し、海軍はゼロ戦を超える、陸軍は隼を超える、アメリカ軍機を撃墜する優秀な最新戦闘機を開発・製造して実戦に投入していた。
 日本軍航空部隊は、ドイツ空軍でも撃墜できなかったB17やB29を撃墜していた。
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 戦前の日本は、アメリカに負けない航空機大国であった。
 日本を航空機大国にしたのは、海軍では山本五十六であり、陸軍では東条英機であった。
 東条英機は、原爆開発に関わっていた。
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 日本陸軍は、日中戦争ノモンハン事件の経験から主力兵器を戦車ではなく航空機に選択していた。
 日本海軍は、伝統的大艦巨砲主義を捨て航空機主義を採用し、主力艦を戦艦から航空母艦に切り替え、建造計画では戦艦は大和と武蔵までとし以降は航空母艦に力を入れた。
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 戦前の日本は、アメリカに負けない航空機大国であった。
 日本を航空機大国にしたのは、海軍では山本五十六であり、陸軍では東条英機であった。
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 戦前の航空機は、最高難度の最先端科学技術の塊で、日本、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、ソ連など数カ国しか最新鋭機を生産できなかった。
 その中でも、軍国日本の航空機技術は飛び抜けて優れていた。
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 現代日本の歴史は、「軍国日本は科学技術を軽視した為に敗北した」と教えているが、それはウソである。
 エセ保守やリベラル左派らが言う「人間を軽視したが故に負けた」もウソである。
 つまり、日本で流布され信じられている戦史の多くはウソである。
 焦土と化した日本が、奇蹟の復興を成し遂げ、高度経済成長でモノ造り国家・世界第二位の経済大国に成れたのは戦前の軍事技術を民間技術に転用したからである。
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 zakzak「【世界最強だった日本軍航空部隊】B29爆撃機を485機も撃墜した本土防空部隊
 1942年4月に新たに編成された日本陸軍「飛行第244戦隊」は、東京・調布基地を拠点に帝都防空戦に大活躍した精鋭部隊である。保有機は40機の三式戦闘機「飛燕(ひえん)」だった。
 この部隊に44年11月、24歳の小林照彦大尉が戦隊長として着任した。小林氏は後に、B29爆撃機10機を含む、敵機12機を撃墜した「本土防空戦のエース」となる。同隊は翌12月、B29の大編隊を迎え撃ち、6機撃墜・2機撃破の大戦果を上げた。
 このとき、四宮徹中尉は、B29への体当たり攻撃で片翼をもぎ取られながらも無事帰還した。中野松美伍長は、B29の真上に張り付く“馬乗り”の姿勢で、B29の胴体をプロペラで切り裂いて撃墜し、生還した。板垣政雄伍長も、最後尾を飛んでいたB29に体当たりして帰還した。
 この日の武勲により、空対空特別攻撃隊は「震天制空隊」と命名された。その名の通り、B29の乗員を恐怖に陥れる一方、日本国民の戦意を高揚させた。
 B29は11人の搭乗員を乗せている。従って、1人乗りの「飛燕」が体当たりして撃墜すれば、11倍の敵と刺し違うことになる。当時言われていた「一人十殺」は単なる掛け声ではなかった。
 先の戦争におけるB29の被害機数はあまり知られていない。本土空襲にきた約3万機のうち、何と、陸海軍の本土防空部隊によって485機が撃墜され、2707機が撃破されていたのだ。
 戦争末期の日本は、7000~9000メートルの高高度を大挙して押し寄せるB29に手も足も出せなかった-という話が横行しているが、そうではなかったのだ。帝都上空では、飛行第244戦隊が立ちはだかった。
 戦後、前出の小林氏や、専任飛行隊長の竹田五郎大尉、B29を5機撃墜・7機撃破した撃墜王、生野文介大尉など、本土防空戦に活躍した面々は、航空自衛隊でも本土防空を担った。
 ちなみに、竹田氏は1976年9月、ソ連ベレンコ中尉が亡命を求めてミグ25で函館空港に飛来したときの北部航空方面隊司令官だった。このとき的確に対処できたのは、かつての本土防空戦の経験からだろう。
 竹田氏はその後 第14代航空幕僚長となり、さらに自衛隊制服組のトップとなる第12代統合幕僚会議議長を務めている。
 戦後の日本の空も、飛行第244戦隊の精鋭によって守られていたのであった。
 ■井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターやコメンテーターを務める。航空自衛隊幹部学校講師、東北大学大学院・非常勤講師。著書に『撃墜王は生きている!』(小学館)、『ありがとう日本軍』(PHP研究所)、『日本が戦ってくれて感謝しています2-あの戦争で日本人が尊敬された理由』(産経新聞出版)など。
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 2022年10月26日 YAHOO!JAPANニュース「B-29撃墜の達人「樫出勇」と二式複座戦闘機「屠龍」(川崎キ45改)
 祖国の栄光を担った「蒼空の武人」とその乗機 第1回
 白石 光
 太平洋戦争で活躍した日本軍パイロットたちの実像に迫る! 第一弾は複座戦闘機「屠龍」(とりゅう)を駆使しB-29撃墜の達人と称された陸軍航空隊・樫出勇(かしいでいさむ)大尉。
 飛行装備に身をかためた樫出勇。最終階級は大尉であった。2004年に亡くなられた。
 敵の戦闘機と戦ったり、敵の爆撃機を迎撃したりする戦闘機には、高速と敏捷な運動性が求められる。そのため戦闘機の基本的な形態として、単発単座というのが1930年代後半には確立されていた。
 これに対して同時期に、若干の運動性能を犠牲にしても単発戦闘機より大火力を備え、運動性能に劣る弱点をより速い速度で補い、さらに機体を大型化して燃料搭載量を多くすることで、爆撃機と同程度の長距離飛行が可能な戦闘機が、世界の空軍で模索されるようになった。
 そしてこの要求への回答が、大馬力エンジンを2基搭載した軽量の双発戦闘機となったのは、やはり世界の空軍において同様であった。
 双発戦闘機は、確かに運動性能では単発戦闘機に劣る。しかし当時、従来の格闘戦(ドッグファイト)に代わる新しい空戦術として一撃離脱(ヒット・アンド・アウェー)という戦い方が発案され、エンジン馬力が大きい双発の高速機なら、この空戦術で単発戦闘機と伍して戦えるのではないかと考えられた。
 このような理由から、双発戦闘機はアメリカのロッキードP-38ライトニング、イギリスのブリストル・ボーファイター、ドイツのメッサーシュミットBf110などが造られており、日本陸軍もそれを求めていた。
 そこで川崎航空機へ開発を発注したが、エンジンの出力不足や設計上の問題などから、開発は進まなかった。だが試行錯誤の末に設計を改め、信頼できるエンジンを搭載したキ
 45改が完成。太平洋戦争勃発後の1942年2月、二式複座戦闘機として制式化された。
 しかし、二式複戦と略称された本機は、やはり単発戦闘機の敵ではなかった。それでも戦闘機として戦えるよう設計された軽快な機体だったので、対地攻撃には優秀な成績を示し、地上襲撃機として好評を得た。
 ところが、アメリカが開発した当時としては「時代を超えた」最新式の重爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレスが日本本土を空襲するようになると、二式複戦は単発戦闘機よりも重武装でより高空まで上昇できたため、B-29の迎撃に有効な機体だと判明。そして、フィリピンでの戦功で送られた感状に記された文言にちなんで、「屠龍」の愛称を与えられた。
 優秀なB-29は「屠龍」よりも高高度まで上昇可能で速度も速かった。そのため、「屠龍」は追撃はできなかった。そこで、B-29が通過すると思われる空域で先に上昇しておき、B-29が現れたら一撃をしかけて離脱する戦法が主流となった。
 この一撃でB-29を撃墜できればよいが、もし撃墜できなかった場合は、再び上昇して別のB-29の出現を待ち、改めて一撃を加えることになる。
 飛行第4戦隊に所属して「屠龍」を飛ばしていた樫出勇は、この対B-29迎撃戦のエキスパートで、終戦までに九州方面に飛来した同機26機を撃墜し、「B-29撃墜の達人」と評されていた。もっともこの撃墜機数は日本側の記録であり、撃墜確認用のガンカメラを個機に搭載していなかった日本軍の場合、撃墜機数が過大になる傾向があるため、実際にはもう少し少なかったかも知れない。しかしそれにしても、かなりの撃墜数といえる。
 樫出は1915年に新潟で生まれ、1934年に陸軍少年飛行兵の第1期生となる。そして1939年9月、ソ連軍との間で生じたノモンハン航空戦に参加。1940年になると飛行第4戦隊に転属し、双発の「屠龍」を乗機とするようになった。
 ところが、硫黄島が陥落して1945年4月7日から同島を発進したノースアメリカンP-51マスタング戦闘機がB-29の護衛に付くようになると、単発戦闘機との空戦を苦手とする双発の「屠龍」は苦戦を強いられることとなり、やがて終戦を迎えた。
 しかし樫出は、撃墜記録を増やしながら熾烈な本土防空戦を生き延びたのだった。
 飛行第53戦隊の震天制空隊に所属する「屠龍」。震天制空隊とはB-29に空対空体当たり攻撃を加えるための特別攻撃隊だったが、パイロットは可能な限り生還を求められた。
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 2023年12月8日 MicrosoftStartニュース zakzak井上和彦 歪められた真実 日本軍は手も足も出なかったのか…「B29」を485機撃墜、米軍に手痛い代償 〝体当たり攻撃〟生還を果たす兵も
 日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」
 © zakzak 提供
 高度1万メートル上空を飛んでくる、当時の世界最強、米軍の大型戦略爆撃機「B29」に、日本軍は手も足も出なかったなどといわれている。だが、そうではなかったのだ。日本軍は、飛来してきたB29爆撃機に甚大な損害を与えていたのである。
 米国戦略爆撃調査団の統計によれば、B29は日本軍戦闘機と高射砲などによって485機が撃墜された。作戦中に撃破されるなど破損した機体は2707機を数えていた。出撃回数は延べ3万3401機、これに対する損失率は1・45%で、戦死者は3044人に上っていたのである。
 B29爆撃機による日本本土爆撃は、1944(昭和19)年6月16日の75機による九州・八幡への空襲が初めてだった。
 このとき日本軍は、24機の戦闘機と高射砲が迎え撃って、6機(不確実2機)のB29を撃墜し、7機を撃破するという戦果を挙げた。しかも、「味方の損害はゼロ」という日本軍の〝パーフェクトゲーム〟だったのである。この完全試合をやってのけたのが山口県小月(おづき)にあった陸軍飛行第4戦隊だった。
 この部隊は、その後もB29を撃墜し続け、多くのエース・パイロットを輩出している。中でも樫出勇(かしいで・いさむ)大尉は二式複座戦闘機「屠龍」で、終戦までにB29を26機も撃墜したスーパーエースだった。
 もう一人のB29撃墜王は木村定光(さだみつ)中尉だ。彼は先の6月16日の迎撃戦で、B29を2機撃墜・3機撃破の大戦果を挙げた後も大活躍し、7月14日に戦死するまでに22機のB29を撃墜したのである。
 そして、B29迎撃で忘れてはならないのが、帝都を守った陸軍飛行第244戦隊だ。この飛行戦隊は三式戦闘機「飛燕(ひえん)」で編成されており、指揮官は、10機のB29を含む敵機12機撃墜記録を持つ撃墜王・小林照彦大尉だった。
 小林大尉の指揮の下、腕利きのパイロットたちは正攻法で次々とB29を墜としていったが、この部隊には、「はがくれ隊(のちに『震天制空隊』)」なるB29への〝体当たり攻撃〟を行う決死隊があった。なかでも、中野松美伍長と板垣政雄伍長は、驚くべきことに、それぞれ2度の体当たり攻撃を敢行しながら、見事に生還を果たしているのだ。
 45(同20)年12月3日、86機のB29の大梯団を迎え撃ち、6機のB29を撃墜する戦果を挙げたが、うち3機は体当たり攻撃によるものだった。こうして第244戦隊は、終戦までに約100機ものB29爆撃機を撃墜した。
 このほかにも、陸軍飛行70戦隊や、海軍343航空隊などもB29迎撃戦に大活躍している。「B29撃墜485機」。日本軍は米軍に手痛い代償を支払わせていたのである。
井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターやコメンテーターを務める。産経新聞「正論」執筆メンバー。フジサンケイグループ第17回「正論新風賞」、第6回「アパ日本再興大賞」を受賞。著書に『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『封印された「日本軍戦勝史」』(産経NF文庫)、『歪められた真実~昭和の大戦(大東亜戦争)』(ワック)など多数。
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 12月16日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「「最後には司令も特攻に行ってくださいますね?」と迫った飛行長の「悲壮な覚悟」 戦場の言葉
 私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。今回はページ数の都合で本編に収載できなかったエピソードを紹介する。
 おてんば娘「紫電改
 戦後78年のいま、太平洋戦争中の海軍航空隊でもっとも知名度が高いのは、大戦末期、局地戦闘機紫電改を主力に戦った第三四三海軍航空隊(三四三空)だろう。近年、荒唐無稽なマンガの題材になり、隊員をキャラクター化した虚像が広まってしまった感はあるが、三四三空は、軍令部参謀だった源田実大佐の、「精強な戦闘機隊をもって敵機を片っ端から撃ち墜とし、制空権を奪回して戦勢回復の突破口に」との構想から生まれた、日本海軍の最後の切り札的航空隊だった。
 昭和20年春、松山基地にて。志賀(右)と源田司令(左)
 © 現代ビジネス
 本拠地は愛媛県の松山基地(現・松山空港)。司令・源田実大佐、副長・中島正中佐(のち相生高秀少佐)、飛行長が志賀淑雄少佐で、主力機は新鋭の局地戦闘機紫電改」である。
 戦闘機隊の主力は、戦闘第七〇一飛行隊(飛行隊長・鴛淵孝大尉)、戦闘第四〇七飛行隊(飛行隊長・林喜重大尉)、戦闘第三〇一飛行隊(飛行隊長・菅野直大尉)の3個飛行隊で、それに偵察機「彩雲」で編成された偵察第四飛行隊、錬成部隊として戦闘第四〇一飛行隊が加わった。
 志賀淑雄氏(1998年。撮影/神立尚紀
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 3人の飛行隊長は、いずれも源田司令みずから調査、指名した個性豊かなつわもの揃いだ。鴛淵大尉、林大尉はラバウルソロモン諸島の激戦をくぐり抜け、菅野大尉はパラオ、ヤップ、フィリピンで戦ってきている。
 もとは水上機専門だった川西航空機が開発した紫電改を、航空技術廠飛行実験部部員(テストパイロット)として、実用化の域まで育て上げたのは、志賀淑雄少佐である。志賀は支那事変で敵機6機を撃墜、太平洋戦争では空母「加賀」分隊長として、真珠湾攻撃に空母「加賀」零戦隊を率いて参加したのをはじめ、アリューシャン作戦や南太平洋海戦にも参加した実戦経験の豊富な戦闘機隊指揮官だった。
 志賀少佐。昭和20年はじめ、松山基地にて。バックの小山は飛行機の掩体壕
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 紫電改(N1K2-J。紫電二一型)は、水上戦闘機強風をベースに陸上機とした紫電(N1K1-J)を改良した局地戦闘機(迎撃機)である。紫電が中翼のため脚が長く、引込脚の構造が、いったん縮めてから引込むという複雑な仕組みで故障が多かったのを、低翼にすることで改善、ほかの部分にも改良を重ねた。エンジンは中島製の「誉」で、零戦に採用された「栄」エンジンと同等の外寸ながら、出力は2倍近い2000馬力を狙った意欲作である。ただ、オイル漏れなどの故障が多く、その解決が急務だった。
 三四三空戦闘第三〇一飛行隊。前列右から2人め松村正二大尉、続いて志賀少佐、源田司令、下川有恒少佐、飛行隊長・菅野直大尉
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 志賀の回想――。
 「紫電改に最初に乗った印象は、零戦が深窓の令嬢とするなら、紫電改は下町のおてんば娘。洗練された飛行機ではないが、20ミリ機銃4挺は有効だし、降着装置さえ良くなれば、あとはエンジンのトラブルだけだ。これは実戦に使える、と思いました。
 アメリカのグラマンF6Fでもなんでも、牙をむいたイノシシみたいな飛行機でしょう。それに対抗するには令嬢じゃ駄目だ、おてんば娘でないと。実戦にほんとうに欲しかったのは、格闘戦の性能より高高度性能とスピードなんですが、そういう意味で期待のもてる飛行機でしたね」
 若い暴れん坊たち
 志賀は紫電改のテストを終えてほどなく肺浸潤を患い、横須賀海軍病院に入院。昭和19(1944)年11月15日付で戦艦「大和」型三番艦を建造途中で設計変更した超大型空母「信濃」の飛行長に発令されるが、一度、工事中の艦を見学に行っただけで、「信濃」は11月29日、呉への回航中、米潜水艦の魚雷を受けあえなく撃沈される。
 そして、退院直後の12月25日、改めて第三四三海軍航空隊飛行長に発令され、翌昭和20(1945)年1月8日、着任した。志賀の回想――。
 三四三空戦闘第四〇七飛行隊。2列め右から飛行隊長・林喜重大尉、志賀少佐、源田司令、中島正中佐
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 「士気はきわめて旺盛でした。松山に着任したとき、若い3人の隊長――鴛淵25歳、林24歳、菅野23歳――に、紫電改や空戦についての注意事項を教えようとしたら、みんな馬耳東風、全然相手にしてくれない。私は当時30歳、まだまだ飛ぶつもりでいたんですが、これは俺の出番はないな、と。それで司令に、私はこれから甲板士官(隊内の軍紀風紀を取り締まる)に徹します、と宣言して、主計科や整備との連携に力を入れることにしたんですが、それが結果的にはよかったと思っています」
 3人の飛行隊長の個性や、搭乗員たちの気風について、志賀は次のように語っている。
 令、相生高秀少佐、飛行隊長・鴛淵孝大尉、1人おいて坂井三郎少尉
 三四三空戦闘第七〇一飛行隊。前列右から4人め山田良市大尉、続いて志賀少佐、源田司令、相生高秀少佐、飛行隊長・鴛淵孝大尉、1人おいて坂井三郎少尉
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 「ひと言で言えば、鴛淵は知将、林は仁将、菅野は勇将、その異なった個性が、じつにみごとなチームワークを生んでいました。
 搭乗員も、南方から帰ってきた連中、とくに戦闘四〇七なんか、暴れん坊が揃っていましたね。整列すると、野獣が飛行服を着たようなのが並んでるんですから。
 局地戦闘機紫電川西航空機が開発した水上戦闘機強風をベースに陸上機にしたもの。脚故障が多かった
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 案の定、いろいろと問題を起こしてくれました。長崎県大村基地に進出したあとのことですが、酔っぱらって、大村駅から次の竹松駅まで機関車を運転して警察につかまったのもいるし、よその部隊との喧嘩はしょっちゅうです。そのたびに私が出ていくんですが、隊員たちには、喧嘩したら絶対に負けるな、ただし絶対にやるな、と言っていました」
 三四三空の戦い
 三四三空の初陣は、昭和20年3月19日のことだった。
 「古来、これで十分という状態で戦を始めた例はない。目標は敵戦闘機」
 源田司令の訓示である。
 この日、敵機動部隊艦上機来襲の報に、満を持して発進した紫電改54機、紫電7機は、圧倒的多数の敵艦上機群と空戦、52機の撃墜戦果を報告した。三四三空の損害は16機(敵発見を報じたのちに撃墜された偵察機1機をふくむ)、地上での大破5機だった。出撃した米軍機は350機以上、うち三四三空と戦ったのが約120機という。
 紫電改紫電を改良、低翼にし、別物といえるほどに進化した。写真の機体は戦闘三〇一飛行隊長・菅野大尉の乗機といわれる
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 「この日の空戦は、地上からもよく見えました。敵が来たときには、こちらはすでに発進を終え、ちょうどよい間合いで待ちかまえている。司令と並んで、始まりますよ、と見ていると、一撃するごとに敵機が調子よく墜ちてゆく。『これは開戦時の再現ですよ』と司令に言った記憶がありますが、結局、そのあとが続かなかった」
 と、志賀。だが、空戦に戦果誤認はつきもので、じっさいには敵味方の損失はほぼ同じであったという戦後の検証もある。1機撃墜も数機で攻撃すれば重複してカウントされることがあるし、被弾して煙を噴いたり、急降下で逃げたりした敵機を撃墜したと誤認する例もあって、報告された戦果はどうしても過大になるのだ。
 三四三空の飛行隊長たち。左から戦闘四〇七・林喜重大尉、その後任の林啓次郎大尉、戦闘七〇一・鴛淵孝大尉、戦闘三〇一・菅野直大尉
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 米側の記録によれば、この日の損失は31機で、うち三四三空との交戦によるものは、帰還後、被弾のため廃棄された機体もふくめ14機にすぎなかったという。ただ、米軍も50機の撃墜戦果を報じているから、誤認の度合いは似たようなものである。圧倒的な機数の差を考慮すれば、3月19日の三四三空は、かなり善戦したとはいえるだろう。
 ――だが、これはあくまで、三四三空の視点に立っての話である。
 この日の米軍艦上機による空襲は、2016年公開の映画「この世界の片隅に」(片渕須直監督)にも描かれているが、米軍の目的は呉軍港と停泊する艦艇、そして阪神地区、九州北部の航空基地を攻撃することで、主な目標は呉軍港だった。呉では火薬庫が爆破されたのをはじめ、海軍工廠にかなりの被害を出し、在泊艦艇も、沈没艦こそ出なかったものの、少なからぬ被害を受けている。米軍としては完全に目的を達したわけで、三四三空との戦いは、いわばおまけのようなものである。
 特攻しか手段がない
 「目標は敵戦闘機」
 という源田司令の簡潔な訓示は、一見、勇壮でカッコよく感じられるけれど、敵機による攻撃を阻止する「防空戦闘」の任務は、はなから放棄していた。航空作戦の勝敗は、撃墜機数や喪失機数の比較で決まるものではなく、いかに強力な戦闘機隊を編成しても、敵に目的を達成させてしまえば意味がない。源田実はこの点で失敗したとも言えるし、敵にやりたい放題やらせた上で、目標を絞ったこんな戦い方しか選べなかったのが、当時の日本海軍航空隊の戦力の限界だったとも言える。
 三四三空が対戦した米軍機(1)上からグラマンF6Fヘルキャット、リパブリックP-47サンダーボルト、チャンスヴォートF4Uコルセア
 © 現代ビジネス
 4月に沖縄戦がはじまり、「菊水作戦」と称して大規模な特攻作戦が実施されるようになると、三四三空もその一環として沖縄方面の制空戦に駆り出され、それと並行して、本土上空に来襲する米陸軍の大型爆撃機ボーイングB-29の邀撃、海上に不時着水した敵のパイロットを救助するため飛来する飛行艇狩りなど、本来の任務を超えて酷使されるようになった。そして、戦局の変化にともない、三四三空の主力は鹿児島県の鹿屋、国分、長崎県の大村へと移動を重ねた。ふたたび志賀少佐の回想。
 「大村基地に移動してしばらく経った頃、司令が何か考えごとをしている様子なので、さてはうちにも特攻の話がきたかと、
 『司令、何かあったんじゃないですか。特攻言ってきたんでしょう』
 と訊きました。司令は、
 『うん』
 と答えたきり、私が
 『どうするんですか』
 重ねて訊いても返事がない。
 次々に仲間が戦死
 私は、特攻にははじめから反対でした。指揮官として絶対にやっちゃいけない。自分が行かずにお前ら死んでこい、というのは命令じゃないですよ。行くのなら、長官や司令がみずから行け、と。だから私は司令に、
 『わかりました。もしそれしか戦う方法がないのなら、まず私が、隊長、分隊長、兵学校出の士官をつれて行って必ず敵空母にぶち当たってみせます。最後には司令も行ってくださいますね。予備士官や予科練の若い下士官兵搭乗員は絶対に出しちゃいけませんよ』
 と申し上げたんです。ほんとうは私も行きたくないけど、どうしてもというなら仕方がない。司令は、
 『よし、わかった』
 と。その後、この話は立ち消えになったようで、それきり何も言ってきませんでした」
 三四三空が対戦した米軍機(2)上からノースアメリカンP-51マスタングコンソリデーテッドB-24リベレーター、ボーイングB-29スーパーフォートレス
 © 現代ビジネス
 特攻出撃こそなかったが、三四三空の戦いは熾烈で、隊員たちは次々と斃れていった。
 「4月21日に戦闘四〇七の林喜重、6月22日にその後任の林啓次郎、7月24日に戦闘七〇一の鴛淵、8月1日に戦闘三〇一の菅野と、飛行隊長の戦死が続き、6月頃になると飛行機や部品、搭乗員の補充もままならなくなった。そのうえ燃料も不足して、あってもオクタン価の低い質の悪いもので、そのせいで、同じ紫電改であっても実質的にかなり性能が低下して、実力を発揮できなくなってきました。
 機銃弾も、戦前にスイス・エリコン社から輸入したもののなかには膅内(とうない)爆発(銃身内爆発)するおそれのあるものがあり、危険なので使用厳禁、となっていましたが、それが大村の第二十一航空廠の倉庫から間違って出てしまった。菅野が戦死したのはそのためでした……」
 菅野大尉は8月1日、屋久島北方で、米陸軍の大型爆撃機コンソリデーテッドB-24の編隊を攻撃中、20ミリ機銃の膅内爆発で主翼に大穴が開き、空戦場から離脱して単機になったところを、ノースアメリカンP-51戦闘機に撃墜されたと推定されている。この日、P-51が単機で低空を飛ぶ紫電改を捉えたガンカメラ(機銃発射に連動して動画が撮影される、戦果確認用のカメラ)の映像が残されている。
 8月に入ると、三四三空では燃料不足と機材不足のため、飛行作業を1日おきに休むこととし、たまたま「敵機が来ても邀撃しない」と決めた8月9日、大村基地と目と鼻の先の長崎に原爆が投下される。たとえ数機でも上空哨戒に飛ばせていれば事態は違っていたかもしれない。これも源田司令の判断ミス、とまで言うのは酷だろうか。
 8月15日、天皇の玉音で終戦が告げられたとき、司令・源田実大佐は40歳(8月16日で41歳)、飛行長・志賀淑雄少佐は31歳だった。編成以来約8ヵ月間で、三四三空の搭乗員の戦死者は、戦闘機88名、偵察機3名にのぼる。さらに、訓練や要務飛行での殉職者が21名。錬成部隊の戦闘四〇一飛行隊の8名、本部や整備などの地上員58名もあわせると、計178名もの隊員が三四三空で戦没した。
 苦難の中で
 戦後、警察装備を扱う会社を経営した志賀は、戦中を回想するときはつねに
 「戦果はすべて部下の手柄、失敗はすべて自分の責任」
 と言い、この姿勢は最後までブレることはなかった。
 終戦後、米軍に引き渡すため日の丸を星のマークに塗り替えられた紫電改。搭乗するのは志賀少佐
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 平成17(2005)年11月25日、死去。享年91。
 東京・練馬区の江古田斎場で営まれた葬儀には、速水経康大尉、山田良市大尉、関西から駆けつけた宮崎勇少尉、笠井智一上飛曹ら、三四三空時代の部下たちの姿も多く見られた。そしてこれが、結果的に、全国から三四三空の隊員たちが集う最後の機会になった。
 源田実という、著名だが実績を顧みればけっして名指揮官とはいえない司令を、志賀淑雄という紫電改「育ての親」とも呼べる名パイロットが飛行長として支えたこと、じっさいに戦った飛行隊長に、部下たちを惹きつける個性豊かな人材が揃ったことで、部隊の結束が戦後にいたるまで保たれた。
 三四三空の歴史はけっして華々しいものではなく、トータルで見れば敵に与えた損害よりも犠牲のほうがはるかに多い、苦難に満ちた血みどろの戦いだった。そこで命を散らしたのは漫画の「キャラ」などではなく、血も涙もあり、悩みもあれば家族もいる、実在した若者たちであることだけは忘れたくないものである。
 『太平洋戦争の真実』
 『カミカゼの幽霊』
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 ボーイング B-29 スーパーフォートレス(Boeing B-29 Superfortress)は、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機
 特徴
 B-29は、中型爆撃機から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定した設計である。B-29による日本本土空襲は、日本の継戦能力を喪失させる大きな要因となった。
 愛称は「スーパーフォートレス」。戦時中の文献ではスーパーフォートレスという愛称を「超てう空の要塞」と説明したものがあり、当時のニュース映像では「超空の要塞(ちょうそらのようさい)」と呼んでもいる。朝日新聞が選定した名称は「ビイ公」(1945年5月12日)。
 B-29は専門の航空機関士を置く初めての機体にもなった。B-17までの従来の軍用機は、操縦席の計器盤に飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器が取付けられており、パイロットは飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器類を監視しなければならなかったが、B-29ではそれらが全て航空機関士の前に置かれ、パイロットは飛行に専念することができるようになり、飛行機操縦の分業化が図られている。
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 第二次世界大戦におけるB-29の損失
 B-29損失数の各種統計
 日本軍の高射砲が直撃し墜落するB-29
 B-29の損失数は資料によって異なり、日本の戦後の統計では損失合計714機(延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という読売の資料がある。
 アメリカ軍による第二次世界大戦でのB-29損失の統計も資料によって異なるので列挙する。
 米国戦略爆撃調査団(USSBS)による統計
 日本本土を爆撃したB-29
延べ出撃機数        33,401機
作戦中の総損失機数      485機
延べ出撃機数に対する損失率  1.45%
作戦中の破損機数      2,707機
投下爆弾          147,576トン
搭乗員戦死         3,044名
 B-29所属部隊の戦績と損失(アメリカ空軍 第9爆撃航空団統計)
 第20空軍
 1944年6月5日以降
 作戦数      380
戦闘出撃機数    31,387
その他出撃数    1,617
出撃機数合計    33,004
投下爆弾・機雷トン 171,060
戦闘損失数     494
アメリカ本土での訓練損失 260
損失合計         754
搭乗員戦死        576
搭乗員行方不明     2,406
搭乗員戦傷        433
搭乗員死傷者合計    3,415
第20空軍の航空機種類、損失原因別の戦闘任務での損失(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計-Table 165)
 損失機数合計 敵戦闘機による損失 対空火器による損失 戦闘機と対空火器共同 その他・損失原因未確認を含む
 第20爆撃機集団   80  21  7 51
 第21爆撃機集団   334  53 47 19 216
 合計         414 74 54 19 267
B-29迎撃に活躍した三式戦闘機「飛燕」通常の攻撃のほか体当たりでもB-29撃墜を記録している。写真は1945年6月にアメリカ国内でテストされている鹵獲機
アメリカ陸軍航空軍統計管理室統計をもって日本軍に撃墜されたB-29の総数は147機とされることがある[269]。この統計の損失原因のその他(other causes)については故障や事故を含むが、もっとも多いのは未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)であり、その中にも相当数の日本軍による撃墜数も含まれている。例えば、東京大空襲と呼ばれる任務番号40号、1945年3月9日(爆撃は翌10日未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が325機出撃し損失が14機、内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認とされている。原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機であるが、この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空で7機のB-29がおそらく撃墜されたという報告があり、さらに行方不明の1機については銚子岬の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにもかかわらず、原因未確認の損失とされ[271]、この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器による損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに止まった。当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよっぽどの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった。
B-29が最大の損失を被った任務番号第183号、1945年5月25日(爆撃は翌26日の未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が498機出撃に対して26機を失っているが、日本軍に撃墜されたと記録されているのは対空火器で撃墜された3機のみで、対空砲と戦闘機の攻撃で大破し硫黄島近辺で放棄された2機と原因未確認で損失した20機は、アメリカ軍の記録上は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失には含まれていない[273]。しかし、日本軍側によれば、第302海軍航空隊だけで、月光7機、彗星(斜銃装備の夜間戦闘機型)4機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告し、陸軍の高射砲も5月25日の1日だけで、八八式7cm野戦高射砲7,316発、九九式8cm高射砲6,119発、三式12cm高射砲1,041発、合計14,476発の高射砲弾を消費するなど激しい対空砲火を浴びせて、海軍の戦果も合わせてB-29合計47機撃墜を記録しており、日本軍側の戦果記録は過大とは言え、未知の原因未確認の損失の中に相当数の日本軍の撃墜によるものが含まれているものと推定される。この日に出撃した航空機関士チェスター・マーシャルによれば、今までの25回の出撃の中で対空砲火がもっとも激しく探照灯との連携も巧みであったとのことで、帰還後に26機が撃墜されたと聞かされたB-29の搭乗員らが恐れをなしたと著書に記述している。
原因未確認の損失が確実に日本軍側の攻撃による撃墜であったケースとしては、任務番号第43号、1945年3月16日の神戸市街地に対する夜間無差別爆撃(いわゆる神戸大空襲)では、B-29が331機出撃して3機が失われたがすべてが未知の原因とされている。しかし、このうちの1機ボブ・フィッツジェラルド少佐が機長のB-29「Z-8」号は、神戸の北方3kmで緒方醇一大尉の三式戦闘機の体当たりにより撃墜されている[277]。体当たりの様子は多くの国民に目撃され、体当たりされた「Z-8」号はバラバラに砕けて落下し、そのうち山中で発見された胴体部分に、緒方の三式戦の主脚と発動機の冷却器が食い込んでいるのが発見され、別の部分の残骸から緒方の飛行長靴が見つかり、その後遺体も機体付近で発見された。これらを根拠としてB-29撃墜は緒方の功績とされ、緒方は2階級特進で中佐となっている[279]。戦後、「Z-8」号の墜落した場所に、緒方の戦友らが、緒方と戦死した11名[注 4]の「Z-8」号搭乗員の名前を刻銘した慰霊碑を建立した。また、2015年には緒方の遺族と、「Z-8」号搭乗員のひとりロバート・クックソン2等軍曹の遺族が神戸で対面している。
 アメリカ陸軍航空軍統計管理室の上記統計によれば、1945年3月は日本軍の戦闘機により(確実に)撃墜されたB-29は1機もなかったとされている。しかし、緒方の体当たりによって撃墜された「Z-8」号に加えて、任務番号第42号、1945年3月13日の大阪市街地への夜間無差別爆撃(いわゆる第1回大阪大空襲)で失われた2機のB29のうち(出撃したB-29は295機)、原因未確認の損失とされている機体番号42-24754(操縦士ジョン・k・エリントン少尉、機体愛称はなし)も、飛行第56戦隊鷲見忠夫曹長の三式戦闘機に撃墜されている。この戦闘の一部始終を見ていた第11飛行師団師団長北島熊男中将の推薦で、鷲見は第15方面軍司令部より個人感状が贈られている[283]。42-24754の残骸は、大阪の下町堺筋に落下し、写真撮影され[284]、残骸の一部は戦後にアメリカ軍に回収調査されて、Ki-61(三式戦のこと)による撃墜と認定されている。
 アメリカ陸軍航空軍の統計によれば、B-29の太平洋戦争における延べ出撃数に対する損失率(Combat LossesとBomb Sorties比較)は1.32%程度とされているが、東京に対する空襲においては損失率が跳ね上がり3.3%となった。しかし、ドイツの首都ベルリン空襲のアメリカ軍とイギリス軍爆撃機の損失率は6.6%と東京空襲の2倍の損失率であった。B-29の太平洋戦争における戦闘行動中の損失485機は全生産機中(第二次世界大戦後の生産分も含む)の12%に上った。
アメリカ軍爆撃機の機種別損失率(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計)
爆撃機種 総出撃機数 投下爆弾トン数 戦闘損失機数 損失比率
B-25 63,177 31,856  380   0.60%
B-26 129,943 169,382  911   0.50%
B-17 291,508 640,036  4,688  1.61%
B-24 226,775 452,508  3,626  1.60%
B-29 31,387 159,862  414   1.32%
 上表の通りアメリカ軍の他の爆撃機と比較してB-29の損失率は決して低くはなかった。B-17は18万ドル、B-24は21万ドル、B-25が12万ドルであったのに対し、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であった。このため損失数の増加に業を煮やした陸軍航空軍司令官アーノルドは、「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という手紙を出し司令官のハンセルを叱咤している。
 日本軍によるB-29迎撃
 早期警戒レーダー
 ドイツより日本に技術供与されたウルツブルグレーダーD型
 昭和天皇の観閲を受ける陸軍の九〇式大聴音機、B-29の探知にも使用された
 日本軍のレーダー開発は、第二次世界大戦初期はアメリカやイギリスなどの連合国のみならず、枢軸国のドイツと比較すると大きく出遅れていた。それでも陸軍が「超短波警戒機甲」と「超短波警戒機乙」の開発に成功すると、1942年から「超短波警戒機甲」、1943年には「超短波警戒機乙」が優先的に日本本土の主に海岸線や離島に設置されて早期警戒網を構築した。一方で海軍のレーダー「電波探信儀」の配置は前線のラバウルウェーク島が優先されて、日本本土への配備はその後にされたが、設置された箇所は海軍基地や軍港周辺に限られた。
 レーダーの設置個所についても、陸海軍の連携はなく、隣接した箇所に陸海軍がレーダーを設置するなど無駄が多かった。それでも、B-29による日本本土空襲が開始される1944年後半には、関東、中京、阪神の太平洋側及び九州は全周囲に渡ってレーダー網を構築できた。日本海側にはほぼ設置されず、東北方面も手薄ではあったが、それでも大都市や工業地帯といった主要地域については十分カバーができていた。中でも八丈島に設置された「超短波警戒機乙」はマリアナから出撃するB-29を真っ先に捉えることができたが、乙型レーダーの探知距離は最大で250kmであり、八丈島から東京までの距離が300kmで合計550kmの距離しかなく、巡航速度が約400km/hのB-29であれば一時間ほどで到達してしまう距離で、八丈島から報告を受けて日本軍が迎撃の準備を行う時間的余裕はあまりなかった。日本軍の警戒用レーダーの周波数がドイツ軍のレーダーとは異なっていたので、ヨーロッパ戦線で使用していたチャフの効果がなく、アメリカ軍は幅2.5cm、長さ30mから100mといった長細いアルミフォイルでつくったチャフを新たに作成している。このチャフは形状から「ロープ」と呼ばれていた。
 しかし日本軍のレーダーは、いずれも接近してくる航空機の高度や編隊の性格(直掩戦闘機の有無など)まで探知することはできず、また方向もおおまかにわかるといった原始的なものであった。そのため、レーダーを補うために哨戒艇や目視監視哨戒といった人の目のよる旧来の手段に頼らざるを得ず、しばしば、これら人の目による第一報がレーダーよりも正確な情報となった。
日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めていた。大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー(英)をデッドコピーしたり、ドイツからウルツブルグレーダーの技術供与を受けたりして、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの電波標定機を開発して本土防空戦に投入している[295]。B-29が夜間爆撃を多用し始めると、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり、6基~12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは聴音機が設置されて、レーダーや聴音機に制御された探照灯B-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した。
 アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29にジャミング装置を装備した。そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン」(ワタリガラス)と呼んだ。東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別のジャミングでは対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機をECM機に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆる方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれることとなった。ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により電波妨害をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど、爆撃を援護し最後まで目標に留まった。
 戦闘機と高射砲
 B-29の出撃総数と第21爆撃集団のB-29出撃1回に対する日本軍戦闘機の攻撃回数推移
 年・月 B-29総出撃機数 日本軍戦闘機攻撃回数 日本軍本土防衛用戦闘機数
1944年11月 611 4.4 375機
1944年12月 920 5.4 370機
1945年1月 1,009 7.9 375機
1945年2月 1,331 2.2 385機
1945年3月 3,013 0.2 370機
1945年4月 3,487 0.8 450機
1945年5月 4,562 0.3 480機
1945年6月 5,581 0.3 485機
1945年7月 6,464 0.02 500機
1945年8月 3,331 0.01 535機
 上表のとおり1945年1月までの日本軍戦闘機によるB-29への迎撃は執拗であり、特に京浜地区の防衛を担う立川陸軍飛行場や調布陸軍飛行場に配備されていた二式戦「鍾馗」・三式戦「飛燕」、海軍厚木基地横須賀基地に配備されていた雷電B-29撃墜にとって有効な存在で、爆撃後背後から襲い、一度に十数機を被撃墜・不時着の憂き目に合わせたこともしばしばであった。日本軍戦闘機の装備の中で、B-29搭乗員に恐れられたのが三号爆弾であり、B-29搭乗員は炸裂後の爆煙の形状から白リン弾と誤認し、三号爆弾を「いやな白リン爆雷」と呼んで、空中で爆発すると凄まじい効果があったと回想している。第三三二海軍航空隊に所属し零戦52型でB-29を迎撃した中島又雄中尉によれば、三号爆弾は命中させるのは非常に困難であったが、なかには7機のB-29を撃墜した搭乗員もいたという。撃墜できなくとも、B-29の編隊を乱して、損傷したり落伍したB-29を集中して攻撃できるという効果もあった。
 しかし、空冷エンジンの機体が圧倒的に多く、高高度性能が劣る日本軍戦闘機は、当初高高度精密爆撃を主戦術としていたB-29の迎撃に大変苦労をしていた。本土防空戦で主力の一翼を担った二式戦闘機「鍾馗」は、武装や防弾鋼板から燃料タンクの防弾ゴムに至るまで不要な部品を取り除いても、B-29の通常の来襲高度と同水準の10,500mまでしか上昇できなかった。一瞬のうちに接敵するため照準が困難で、一度攻撃に失敗すると上昇姿勢となるため急速に失速し、B-29の銃座から恰好の目標となってしまうこと、またうまく離脱できても、高高度でのB-29鍾馗の速度差から再度の攻撃が困難であったという。B-29を苦しめたジェット気流が迎撃側の日本軍戦闘機にも障害となり、東京に来襲するB-29を迎撃する場合、B-29伊豆半島あたりから北上してそののちに東に針路を変えてジェット気流に乗って加速してきたが、迎え撃つ日本軍戦闘機は高度8,000mまで上昇するとジェット気流に逆行する形となり、フルスロットルでも気流に押し流されて対地速度が殆どゼロの凧のように浮いているだけの状態になった。このような状況下ではいくら熟練搭乗員でも、八王子ぐらいでB-29を捕捉して1撃を加え、反復して東京上空で2撃目、そして爆撃を終えて帰投しているところを銚子上空で3撃目を加えるのがやっとであった。
 九州が幾度も空襲され、マリアナ諸島アメリカ軍に攻略されると、1944年11月1日、東京にB-29偵察機型F-13が高度10,000mの高高度で初来襲したが、F-13を捉えることができた日本軍戦闘機は皆無であった[309]。九州では陸海軍の数機がB-29に体当たりを成功させており、高高度性能に劣る日本軍戦闘機では、確実にB-29を撃墜できるのは体当たり以外にはないと考えられて、陸軍の震天制空隊など空対空特攻部隊が編成され、通常の戦闘機による迎撃に併せてB-29の迎撃に投入された。海軍では高高度迎撃のため局地戦闘機震電」の開発を進めていたが、空襲による工場の壊滅と技術的な問題により開発が遅延し、飛行試験の段階で終戦となった。
 B-29の来襲機数が劇的に増加する1945年3月以降は、逆に日本軍は沖縄での航空作戦に戦力の過半を投入しており、本土防空戦への戦闘機投入数はB-29の増加数には見合わないものであった。また、ルメイによる作戦変更で夜間の市街地無差別焼夷弾攻撃が開始されたのも1945年3月であるが、夜間は、センチメートル波小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃ができず、斜め銃・上向き砲装備、双発の月光、二式複戦「屠龍」の夜間戦闘機が爆撃火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態で、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあったという。
 ルメイは戦後に「日本軍の夜間戦闘機に撃墜されたB-29は1機も無い」と誤った認識を持っていたほど、徹底して日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していた。1945年4月以降に攻略した硫黄島からP-51が日本本土に向けて飛来すると、本土決戦に向けて戦力温存をはかっていた日本軍は、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになって、さらに迎撃回数は減少していった。
 戦闘任務におけるB-29の原因別損傷数
 日本軍の五式十五糎高射砲、最大射高が20,000mもありどんな高空飛行のB-29も捉えられたが、わずか2門しか生産されなかった。 
 年・月 損傷機数合計 敵戦闘機による損傷 対空火器による損傷 戦闘機と対空火器 事故による損傷
1944年11月 11 3 3 2 3
1944年12月 83 22 41 14 6
1945年1月 120 68 20 21 11
1945年2月 134 46 69 12 7
1945年3月 210 12 188 9 1
1945年4月 518 76 353 80 10
1945年5月 600 53 495 43 10
1945年6月 624 48 513 51 12
1945年7月 234 13 218 2 1
1945年8月 173 8 164 0 1
合計 2,707 348 2,063 234 62
 戦闘機による迎撃回数の減少に伴い、1945年の5月頃から対B-29戦の主力は高射砲となった。主力高射砲であった八八式七糎野戦高射砲に加えて、新型の九九式八糎高射砲も1942年から量産が開始され、1943年に入ると、八八式7.5cm野戦高射砲が1942年度の総生産数600門から1943年度1,053門、九九式八糎高射砲は40門から400門へと増産が図られた。さらに1943年5月には最大射高14,000mの三式十二糎高射砲も生産開始され、この3種の高射砲が主力となってB-29を迎え撃つことになった。さらに、三式12cm高射砲でも10,000mを飛ぶB-29に対しては射高不足が懸念されたため、射高が20,000mもある五式十五糎高射砲が開発されることになった。
 高射砲は日本劇場や両国国技館の屋上などにも設置されたが、当初の高高度精密爆撃の際は、数的には日本の高射砲戦力の主力を担っていた最大射高9,100mの八八式7.5cm野戦高射砲と、10,000mの九九式八糎高射砲は射高不足であり、B-29をなかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。
 しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29の爆撃高度が下がると、日本軍の高射砲はB-29を捉えることができてB-29の損害は増大した。首都防空担当の高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。代々木公園にあった高射砲陣地から撃たれた高射砲はよく命中していたという市民の証言もある。高射砲弾が命中したB-29は赤々と燃えながら、その巨体が青山の上空ぐらいで爆発して四散していた。高射砲弾で墜落していくB-29を見ると拍手が起こったが、なかには「落としたって(敗戦時の)賠償金が増えるだけだ」と冷めた冗談を言うものもいたという。日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していたルメイも高射砲に対してはかなり警戒していた。
 日本軍の対B-29エースパイロット
 陸軍航空隊のB-29撃墜王(26機撃墜)樫出勇中尉
 対B-29の本土防空戦は陸軍航空隊が中心となって戦ったので、陸軍航空隊に多数の対B-29エース・パイロットが誕生した。特に九州にて双発戦闘機「屠龍」で戦った飛行第4戦隊と、首都圏にて「飛燕」(のちに五式戦闘機)で戦った飛行第244戦隊の所属搭乗員がトップを占めた。しかし、撃墜数の申告は、一般的に敵側の損害記録と突き合わせると過大であることが多く、B-29撃墜戦果報告の合計も実際の損失の合計よりは大きかった。
 5機以上のB-29を撃墜した日本陸軍航空隊搭乗員
 氏名・階級 所属 B-29撃墜数 備考
樫出勇中尉 第4戦隊 26機 B-29撃墜数トップ、ノモンハン事件でも7機撃墜
木村定光少尉 † 第4戦隊 22機 1945年7月14日戦死
伊藤藤太郎大尉 第5戦隊 17機 B-29、20機撃破
白井長雄大尉 第244戦隊 11機 F6Fヘルキャット2機撃墜
市川忠一大尉 第244戦隊 9機 F6Fヘルキャット1機撃墜
河野涓水大尉 † 第70戦隊 9機 1945年2月16日戦死
小川誠少尉 第70戦隊 7機 P-51ムスタング2機撃墜
小原伝大尉 第244戦隊 6機 F6Fヘルキャット2機撃墜
吉田好雄大尉 第70戦隊 6機
根岸延次軍曹 第53戦隊 6機
佐々木勇准尉 航空審査部 6機 総撃墜数38機
鳥塚守良伍長 第53戦隊 6機
西尾半之進准尉 第4戦隊 5機
鷲見忠夫准尉 第56戦隊 5機 P-51ムスタング1機撃墜
川北明准尉 † 第9戦隊 5機 1944年戦死
海軍航空隊のB-29撃墜王(16機撃墜破)遠藤幸男大尉(前列左)
 海軍航空隊についても、夜間戦闘機「月光」に搭乗した第三〇二海軍航空隊所属の遠藤幸男大尉がB-29撃墜破数16機、うち撃墜は8機を記録して「B-29撃墜王」などと呼ばれた。横須賀航空隊所属の黒鳥四朗少尉も一晩で5機を撃墜するなど、合計で6機を撃墜している。
 日本陸軍航空隊のB-29への体当たり成功機数
 地区 所属 体当たり機数
関東地区 第10飛行師団 33機
九州地区 第12飛行師団 8機
名古屋地区 第11飛行師団 8機
満州 第5航空軍 5機
合計 54機
 この中には2回もB-29への体当たりを成功させて撃墜し生還した板垣政雄軍曹や中野松美伍長、三式戦闘機「飛燕」の主翼B-29に尾翼に当てて破壊撃墜しながら、自らは片翼で生還した四宮徹中尉など、B-29を体当たり撃墜しながら生還したケースも含まれている。朝日新聞は1944年12月8日の朝刊でB-29に対する体当たり攻撃を紹介し、中野伍長のインタビューを掲載している。
 日本海軍でも、震天制空隊の初出撃に先駆けること3日前の1944年11月21日、第三五二海軍空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、長崎県大村市上空でB-29「アシッド・テスト」に体当たりして撃墜、戦死している。その後には組織的な対空特攻がおこなわれたが、日本陸軍と比べると小規模で、第二二一海軍航空隊が1944年12月にルソン島でB-24爆撃機迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった天雷特別攻撃隊にとどまった。
 日本軍のB-29迎撃に対するアメリカ軍の評価
 戦後に日本とドイツに対する戦略爆撃の効果を調査したUSSBSが出した結論は、日本本土空襲における第20空軍のB-29が日本軍戦闘機から被った損失は、第8空軍がドイツ本土爆撃でドイツ軍戦闘機から被った損失の1/3に過ぎず、警戒システムも迎撃地上管制システムもともに“poor”(貧弱)だったとしている。
 日本の防空システムが“poor”だった要因としては下記を指摘している。
 日本の戦争指導者たちが、連合軍による空襲の危険性を十分に認識せず、防空システムの整備を優先しなかった
 フィリピン作戦中は、日本軍航空部隊は連合軍の北上を止めるために使用され、それ以降は本土上陸に対する防衛が優先された
対上陸部隊として使用するため、航空機と搭乗員は温存されて、日本空軍は常に作戦可能な戦闘機の30%未満しか本土防空に使用しなかった
 USSBSはさらに、日本に対する戦略爆撃はドイツに対する戦略爆撃よりもその期間や投下した爆弾の総量は少なかったが、その効果はほぼ同じであったと評価した。日本に対する高い戦略爆撃の効果の要因として下記を指摘している。
 日本への爆撃は時間的、地域的に集約して行われた
 目標の構造物などがドイツに比べて脆弱であり、疎開や分散能力にも劣っていた
 被害地域の復旧に時間がかかった
 B-29の本格空襲が始まる前に、日本の航空戦力は既に大きな打撃を受けており、防空能力が小さかった
 第20航空軍が努力を重ねて高性能超重爆撃機B-29を使いこなした
 B-29搭乗員の取り扱い
 新潟で高射砲により撃墜され捕虜となったB-29のクルー、住民にリンチされていたところを軍に助けられている
日本国内で捕らわれた連合軍搭乗員
 総数 545名
うち遺体で発見 29名
爆撃・事故による死亡 94名
軍事裁判などによる処刑 132名
終戦時に解放 290名
 B-29の搭乗員に対しては、救出前に日本人に見つかったとしても「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の市民の捕虜に対する扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」と説明して不安を和らげようとしていた。しかし、ブリーフィングなどで非公式には「日本上空でパラシュート脱出する場合、軍隊に拾われるように祈るしかない。民間人では、殴り殺される可能性がある」とうわさされていた。1945年3月10日の東京大空襲以後、非戦闘員への無差別爆撃が激化すると、B-29搭乗員は日本の一般市民の憎しみを一身に受けることとなり、まずは、発見した一般市民から私刑で暴虐な扱いを受けることが多かった。なかには能崎事件のように、一般市民によるリンチの末にB-29搭乗員が死亡してしまうこともあった。このため憲兵隊や警察は第一にB-29搭乗員の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。
日本側はドーリットル空襲ののち、1942年7月28日に陸軍大臣補佐官名で、国際交戦規約に違反した者は戦争犯罪人として扱われるという通達を出している。実際にドーリットル空襲における軍事裁判では、捕虜となった8名全員に「人道に反する行為を犯した罪」で死刑判決が出ている(処刑されたのは3名、あと5名は減刑)。その後、B-29による日本本土空襲が始まった1944年9月8日には、無差別爆撃は戦争犯罪であるので死刑に処せられるべきとの通達が出ている。無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員は戦時国際法上の捕虜の扱いを受けず、人道に対する戦争犯罪者とされて略式裁判にかけられ戦時重要犯として処刑されたが、裁判を行うこともなく処刑されることも多かった。B-29搭乗員の取り扱いは、各軍管区に判断を委ねており、中部軍管区や西部軍管区といった日本の中西部の軍管区のほうが、東部軍管区よりもB-29搭乗員に厳しく、多数の搭乗員が裁判内外で処刑されている[335]。処刑されずとも、戦争犯罪人として通常の捕虜とは異なる「特別な扱い」を受けていたB-29搭乗員は、日常的な尋問や暴行に加えて、食事も1日におにぎり3個とコップ1杯の水しか支給されないものもいた。なかには1945年1月27日に東京上空で日本軍によって撃墜されて捕らわれたレイ・F・ハローラン少尉のように、上野動物園の猿の檻に裸で猿の代わりに入れられて見世物にされるといった屈辱的な扱いを受けた搭乗員もいた。一方で、機雷散布任務中に対空砲火で撃墜され福岡県直方市遠賀川河川敷にパラシュート降下したが、殺気立った市民に囲まれたところを警官2名に救助されて、そののち民間の医師にケガの治療を受けて東京の捕虜収容所に送られ、そのまま終戦を迎えたフィスク・ハンレイのように日本側に手厚い対応をされたことを感謝している捕虜もいる。
 945年5月、福岡県太刀洗陸軍飛行場を爆撃するために飛来したB-29が第三四三海軍航空隊戦闘四〇七飛行隊の紫電改による攻撃によって撃墜された。その時の搭乗員11人中7人が捕らわれ、うち6人は死刑とされ、同年5月17日~6月2日にかけ九州帝国大学医学部において、彼らに対する生体解剖実験が行われた。(九州大学生体解剖事件(相川事件))
 5月26日のB-29による東京への夜間無差別爆撃で収容されていた東京陸軍刑務所で焼死した62名や(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)、8月6日の広島への原爆投下により拘留されていた中国憲兵隊本部で死亡した11名など、B-29空爆アメリカ軍艦隊による艦砲射撃など友軍の攻撃で死亡した捕虜も多数にのぼった。
 終戦後、B-29搭乗員を含む連合軍捕虜を殺害や虐待した関係者は、横浜に開廷された連合軍裁判所でB・C級戦犯として裁かれた。なかでも、第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった岡田資中将は、1945年5月14日の名古屋大空襲とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員38人を処刑した責任を問われ、B級戦犯として裁かれた。岡田はB-29による無差別爆撃を「米軍による民間人を狙った無差別爆撃は国際法違反である」「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と自分の判断の正当性を主張し、裁判を「法戦」と呼んで戦ったが、絞首刑の判決を受けて翌1949年9月17日に処刑された。
 脚注
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 B-29 (航空機)」の続きの解説一覧
 1 B-29 (航空機)とは
 2 B-29 (航空機)の概要
 3 第二次世界大戦におけるB-29の損失
 4 Tu-4との関係
 5 各型
 6 諸元
 7 現存する機体
 8 B-29のノーズアート
 9 墜落事故
 10 参考文献
 11 関連項目
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