🎺43:─5・B─陸軍の空挺特攻。義烈空挺部隊。昭和20年5月24日。~No.203 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本軍は、本土決戦・一億総玉砕・民族総自決を実行する「捨て石」にする為に、沖縄を見捨てず、数千人の日本人青年を特攻隊員として沖縄戦の投入して犠牲にしていた。
 エセ保守とリベラル左派が言うとおり、靖国神社の祭神となった特攻隊員は犬死だったのか。
 日本人は、沖縄を差別したが、同時に同じ国民として、琉球人を友人・親友と認め、生死を共にする戦友として、絶望的戦争を天皇と国、家族と故郷を守る為に一緒に命を賭けて戦っていた。
 同じように、親日派台湾人は戦友であったが、反日朝鮮人は戦友ではなかった。
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 同じ日本人と言っても、現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人である。
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 昭和天皇と政府・軍部・外務省は、戦争を終わらせるためにソ連スターリンを通じて極秘で降伏交渉を行っていた。
 スイスでは、現地の日本人達がアメリカの諜報機関と停戦交渉を行っていた。
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 陸軍の空挺特攻。
 海軍の戦艦大和潜水艇回天水上特攻。
 陸海軍航空部隊のカミカゼ特攻。
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 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会
 特攻勇士に感謝と敬意を
 第一編 特別攻撃隊の戦闘  第4章 地上戦闘における特攻
 1. 空挺特攻
 総論
 体当たり攻撃は、決して空や海だけのものではなかった。序章で述べられている玉砕の島々においても、その他の激戦地においても壮絶な体当たり攻撃が行われたであろう。例えば沖縄戦においても、比島戦においても、対戦車地雷を抱いた兵が敵戦車に体当たりし、ビルマ戦線では壕にひそんだ兵が爆弾と共に炸裂し、頭上の戦車を破壊した。その一身を犠牲にして友軍の危急を救う忠烈は、まさに特攻である。しかしその詳細と氏名を明らかに出来ないのが残念である。
 ここでは、組織的かつ大規模に決行された空挺特攻と戦車特攻を、地上戦闘における特攻の代表としてかかげる。
 ……
一. 空挺特攻
 空挺部隊は、極めて危険度の高い部隊と目されていた。それは、落下傘やグライダーを使って空から降りるという技術的な問題だけでなく、地上進攻部隊と合流できないときは、やがて全滅してしまうというおそれがあるからである。
 危険度が高いからというだけでは、特攻隊と称することはできないが、初めから地上の友軍と合流できないことを承知の上で出撃する場合は、爆薬をつけて敵に体当たりをしなくても、これを特攻隊と称して、いささかも不都合はなかろう。
 ……
 沖縄特攻作戦
 沖縄に敵が侵攻したならば、我が陸海軍航空部隊は、総力を挙げて敵を洋上に撃滅する方策を立てていた。これがため陸軍の第6航空軍は聯合艦隊司令長官の指揮を受け、陸海軍ともに特攻を主体とし、陸軍は敵輸送船に、海軍は空母を主とする艦艇に体当たり必殺の攻撃を行う考えだった。
 沖縄を守る第32軍は、たとえ敵の上陸を許しても、陸上の飛行機だけは飽くまで敵に使わせないようにして、我が航空決戦を容易にすることを、航空側は地上軍に期待していた。
 ところが、第32軍は初め本島に三個師団と一個混成旅団を持っていたが、前年の秋一個師団を台湾に引き抜かれたので、主陣地を宜野湾東西の線まで下げ、北(読谷)、中(嘉手納)の両飛行場を、陣前に取り残すという配備に変更してしまった。蟹は体に似合った穴を掘るというが、第32軍としては止むを得ない配備変更で、大本営の空陸の統合された指導のないまま、4月1日敵の上陸を迎えた。
 敵は嘉手納海岸12キロの正面に、先ず四個師団をもって上陸して来た。第32軍はかねて計画してあった通り、嘉手納付近では警戒部隊をもって軽戦を交えた後、首里を中核とする主陣地に立て籠り、敵は上陸第一日に北、中両飛行場を手に入れた。
 我が陸海軍航空部隊は、集中の遅延によって立ち上がりに若干の後れはあったものの、特攻を主軸として敵艦船に対し反覆猛攻を加え、相当の成果を収めた。今までの例では敵空母艦隊は十日間位作戦すると一旦整備補給に退るので、その時期を捉えれば戦勢挽回の望みがあると踏んでいた。ところが、敵は4日には奪取した飛行場に戦闘機部隊を推進し活動を始めた。こうなると、我が特攻機は目標上空に到達する以前に敵戦闘機の要撃に遭い損害のみ多く成果が挙らなくなった。第32軍は聯合艦隊司令長官の要請や大本営の指導を受けて、二回ばかり攻勢に出たが、司令部内の意見を不一致なども禍して、敵の飛行場使用を覆すには程遠いものだった。
 4月15日、陸海軍航空部隊は選抜した戦闘部隊二一機をもって、薄暮敵飛行場を制圧し、その機に乗じ晩から翌日にかけて特攻攻撃を行ったところ、多大の戦果があったと判断された。そこで地上部隊が飛行場を制圧することをしないならば、航空が自らの手でたとえ一時的にでも飛行場を抑え込んでしまうことを企図し、義烈空挺隊の起用を思いついた。
 義烈空挺隊は第6航空軍に所属していたが、その使用については大本営の認可を要するとされていた。第6航空軍では熱心に使用の認可を求めたが、大本営ではなかなか認可せず、5月2日になって、一応準備をすることだけは認められた。奥山隊は第6航空軍の命令によって、5月8日唐瀬原を発って熊本健軍飛行場の傍にある三角兵舎に入った。唐瀬原を発つことこれで三回目である。その都度私物品を纏め送り先を書いて、留守担当の第1挺進団司令部に托している。
 健軍に到着して、また訓練を重ねた。今度は飛行機は小型機で破壊は容易とみて、燃料集積所、指揮所、宿営地などの襲撃を目指した。5月17日、愈々実施について大本営の認可がおり、19日には飛行隊が浜松から健軍に到着し、攻撃計画も決定した。
 敵が使用している飛行場は二つあって、北(読谷)の方が大きく、中(嘉手納)の方が小さかった。そこで、奥山隊長が率いる主力が八機に搭乗して読谷に、先任小隊長で副隊長格の渡部利夫大尉の率いる一部が、四機に搭乗して嘉手納に着陸することになった。奥山隊の総人員はサイパンを狙った当時の一三六名で、あの当時から一名の脱落者もない。3独飛の方は、途中で一部人員の入替えがあったが、諏訪部忠一大尉以下三二名である。重爆は一二機で、正操縦、副操縦、航法係、通信係の四名搭乗のものが四機、あとの八機は正副操縦二名という編成だった。
 18:40健軍を離陸し、22:00に両目標に突入することとし、第6航空軍と第5航空艦隊は、義烈空挺隊が両飛行場を制圧している間に、総力を挙げて特攻攻撃を行うという手筈を整え、5月23日に決行ということになった。航空軍司令官の激励の辞も済み、乾盃も終わり愈々搭乗という段になって、海軍側から沖縄方面天候不良につき延期という連絡が入り、またもや挫折の悲運を味った。
 翌24日、今度は天候もよく予定通り出撃した。22:00洋上に於て変針し、残波岬上空に第60戦隊の杉森機が照明弾を投下するので、それを標定して目標に進入することになっていたが、杉森機は照明弾投下という報告を発して消息を絶った。各編隊長機は変針、本島到着、只今突入という三回だけ電波を出す約束になっていたが、22:00になって只今突入という最初にして最後の報告を、知覧と健軍でキャッチした。戦果確認のため同行した第110戦隊長搭乗の草刈機は、22:25諏訪部隊着陸成功と報告した。
 それから暫くたった23:45から、敵の緊急を告げる生文が次々と入ってきた。
 「北飛行場異変あり」
 「在空機は着陸するな」
 「本島外の飛行場を利用せよ」
 「母艦に着陸せよ」
 「母艦の位置知らせ」
 「残波岬の90度50浬に着艦せよ」
 蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
 着陸さえ成功すれば、奥山隊の戦闘には絶対の信頼をおいていた。要はこの機を逸さず、如何に艦船攻撃の成果を挙げるかにあった。ところが、海軍側は24日昼に敵機動部隊の北上を知り、義烈の成果を待つことなく特攻機を出撃させ、25日には余力がなかった。25日第6航空群は一二〇機の特攻機を準備したが、天候不良で、離陸できたものは七〇機、突入と報告されたのは二四機に過ぎなかった。敵側の記録によると十三機の「カミカゼ」が十二隻の艦船に命中したとあるが、義烈の奮闘に対しては、余りにも少ない戦果だった。26日も天候は回復しなかった。
 27日14:10、敵側の無線が
 「強行着陸した日本軍全滅、本日10:00以降北飛行場使用支障なし」
と放送するのが傍受できた。結局24日夜半から27日朝まで北飛行場を封殺したのであるが、それを利用する成果の僅少だったことは、陸海軍の不一致とか天候の不良もあったが、戦力隔絶し、既に打つ手なしというのが実態であった。
 なお、健軍を十二機離陸したが、四機は故障は航法未熟で引き返し南九州の各地に不時着した。草刈機の報告によれば、北飛行場に四機、中飛行場に二機着陸コースに入ったというが、米軍の記録によれば、着陸に成功して活躍したのは北飛行場一機だけで、数機が撃墜されたり、地上に激突して搭乗者は死んだとある。(田中賢一)
 搭乗前に奥山、諏訪部の両隊長が握手したが、カメラマンが 撮り損なったので、もう一度と頼んだ。奥山が “ 千両役者は忙 しいナー ” と呵々大笑したので、付近にいた者がつり込まれて 笑ったという。
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 ウィキペディア
 義号作戦(ぎごうさくせん)とは
 太平洋戦争(大東亜戦争)中の1945年5月24日に沖縄戦で、日本陸軍が「義烈空挺隊」を用いて行った作戦のこと。1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄・読谷~北谷に至る西海岸から上陸し、付近の飛行場を占領。3日にはそれらの使用を開始した。この飛行場に対し空挺部隊を乗せた爆撃機が強行着陸して破壊活動を行い、飛行場が使用不能となった間に沖縄周辺のアメリカ艦艇に攻撃を行うという作戦であった。一般的に知られるのはこちらである。
 太平洋戦争(大東亜戦争)中の1944年11月26日にレイテ島の戦いで、日本軍が「薫空挺隊」を用いて行なった作戦のこと。フィリピンレイテ島のアメリカ軍占領下の飛行場に、高砂義勇隊が輸送機で強行着陸して破壊活動を行なおうとした。味方輸送船の航行の安全を図る目的であった。義号作戦の名称を用いたのはこの戦いが最初である。
 関連項目
 剣号作戦 - マリアナ諸島の飛行場に対して計画された類似の強行着陸作戦。
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 「義烈空挺隊」と「玉砕之地の顕彰碑」
  ~英霊を二度死なせてはいけない~
 奥本康大(「空の神兵」顕彰会)
 1 はじめに
 「神風特攻隊」と言えば日本人なら大概の人が知っているが、残念ながら同じ特攻隊であった「義烈空挺隊」の存在を知る人はほとんどいない。自分がこの「義烈空挺隊」を初めて知ったのは、今から約 60 年前の小学校四年生の夏に遡る。
 その年の夏休みに、父に連れられ和歌山県高野山での陸軍落下傘部隊の慰霊祭に参列した(高野山には昭和三十一年に落下傘将兵の慰霊碑が建立され、毎年慰霊祭が催されていた。この年からは、自衛隊殉職者も合祀することになった節目の年でもあった)。
 父はこの年の慰霊祭で祭典委員長をしたようで、「祭文」の下書きや手記・資料が我が家に遺っている。また、この年の慰霊祭には、「空の神兵」と呼ばれた陸軍落下傘部隊にパレンバン奇襲攻撃を下命した当時の第二飛行集団長、菅原道大元中将が来賓として参列された。
 菅原元中将は、前日にわが家に宿泊され、私も父たちと一緒に高野山に向かったので、そのときの様子は今でも鮮明に憶えている。
 慰霊祭での来賓挨拶で、菅原元中将が呼びかけられた「奥山、諏訪部の両君」の言葉が今でも私の脳裏に鮮明に残っている。
 このお二人の名前が英霊であることは子供でも理解できたが、当時は小学生であり、「義烈空挺隊」が何たるか、また、奥山、諏訪部のお二人がどのように散華されたのかも知る由もなかった。また、詳しく知ろうともせず、長い年月が過ぎた。
 恥ずかしい限りであるが、父の遺した手記から詳細を知ったのは数年ほど前である。奥山大尉、諏訪部大尉と父との繋がりがあまりにも深く、私が父の遺志を継いで慰霊と顕彰をしなければと感ずるようになった。これは十年前に旅立った父からの遺言だったのかもしれない。もしかしたら、今ではほとんど語られない義烈空挺隊の英霊が嘆き悲しみ、縁者でもある私を頼ってこられたとも思えるのである。
 ……
 六、恒久的な慰霊碑の建立について
 大東亜戦争の史実が風化しつつある現在、正しい史実を後世に伝えなければと考えている。父の遺した手記を基にして、書籍(『なぜ大束亜戦争は起きたのか?―空の神兵と呼ばれた男たち』)を出版したことを契機に時間の許す限り、英霊の慰霊と顕彰活動をするようになった。
 また、依頼があれば「空の神兵」の偉業についての講演だけでなく、大東亜戦争の歴史的背景や資源を持たない日本のエネルギー問題についての講師を務めるようになった。
 目的は、あまりにも自虐的になっている世の中に対して警鐘を促すためである。
 先人の正しさを伝え、日本人が自信と誇りを取り戻すことができればと微力ではあるが声をあげている。
 沖縄の慰霊の旅で知った義烈空挺隊玉砕之地の碑を撤去させられることは、絶対に回避させたい。また、現在の木製の簡単に撤去可能な碑ではなく、碑文も備えた恒久的に朽ちることのない慰霊建立こそが国のために命を賭して散華された英霊に対し感謝の誠を捧げる方法ではなかろうか?
 なぜこのような状態になっているかを推察すると、読谷村が土地を提供してくれないことにも原因があるように思えてならない。しかし、読谷村役場の広大な敷地の中には、義烈空挺隊の慰霊碑を建立できる場所はいくらでもある(あえて付け加えるが、読谷村役場は地方都市の市役所以上の立派な建物である)。
 沖縄県は、千島、樺太と同じく、日本で戦場となったことで、戦争に対する嫌悪感があるのは判らなくないが、国の英霊を正しく慰霊・顕彰出来ずに、恒久平和が得られるはずがない。
 沖縄を守るために日本各地の若者が沖縄に出撃して散華された。このことを沖縄県民や読谷村民はどう捉えているのであろうか?義烈空挺隊の隊員にも二名の沖縄出身者がいたのである。山城准尉と比嘉伍長である。
 正しい歴史認識のもと義烈空挺隊玉砕之地の碑が、堂々と殉難の地に建立されることを願って止まない。
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 沖縄戦の戦争遺跡一覧
 〜VOL6〜 読谷村座喜味の戦争遺跡 強行着陸した義烈空挺隊「義烈空挺隊玉砕の碑」
更新日
 2023年1月25日
 カテゴリー 戦争遺跡
 「十死零生」
 まさしく、特攻作戦と同じように生きては帰れない作戦が沖縄戦では行われていました。
 作戦の内容はアメリカ軍に占領された飛行場に、たった12機で強行着陸をし、飛行場を破壊することです。
 四面楚歌の中、まさしく「十死零生」の作戦でした。
 作戦を行なった部隊名は「義烈空挺隊」
 目次
 四面楚歌の中、滑走路に強行着陸した「義烈空挺隊」
 「義烈空挺隊玉砕之地の碑」 のすぐ隣には「掩体壕」がある。

 四面楚歌の中、滑走路に強行着陸した「義烈空挺隊」
 先日紹介した掩体壕の横には「義烈空挺隊玉砕之地の碑」が立っています。
 「義烈空挺隊(ぎれつくうていたい)」とは敵に占領された飛行場に強行着陸をして、飛行機や飛行機の破壊を目的とした部隊です。
 義烈空挺隊は、沖縄戦で初めて実戦となりました。
 アメリカ軍が日本軍の司令部の首里に迫った5月24日、熊本の飛行場から飛びたった12機は沖縄を目指します。途中4機が機材不調で引き返しましたが、8機が沖縄上空まで飛来しました。
 そのうち5機が北飛行場(読谷飛行場)まで接近。しかしアメリカ軍の対空砲火で撃墜され、1機だけがアメリカ軍に占領された北飛行場に胴体着陸しました。
 アメリカ軍の中にたった1機。
 それでも着陸と同時に乗員兵は飛行場に乱入し、手榴弾や拳銃で飛行機や空港設備を破壊しました。
 一時、滑走路が使えなくなる戦果をあげるものの、この作戦で強行着陸をした乗員兵全員が亡くなりました。
 生きて帰れない作戦としては、特攻隊の任務が思い浮かびますが、義烈空挺の任務も生きて帰れぬ壮絶な作戦でした。このような特攻作戦は沖縄では常時行われていくのです。
 尚、戦時中のニュースに義烈空挺団が出発する時の映像が残っています。
 1945年5月米軍飛行場に強行着陸NHKアーカイブ(外部リンク)
 「義烈空挺隊玉砕之地の碑」 のすぐ隣には「掩体壕」がある。
 現在、北飛行場の遺構らしきものはありませんが、このあたり周辺は高台ですが、起伏がなく平坦な地形になっているため、滑走路の跡だったというのはイメージがつきます。
 「義烈空挺隊玉砕之地の碑」は滑走の跡地(といっても現在はサトウキビ畑ですが、)に立っています。先日紹介した掩体壕のすぐ横にありますので、すぐに見つかると思います。
 掩体壕を見に行く際は、是非「義烈空挺隊玉砕之地の碑」にも目を向けて下さい。
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 DIAMOND online
 日本陸軍の精鋭「義烈空挺隊」が戦艦大和と同じく温存され続けた理由
 空の神兵、日本陸軍、黒い空気(1)
 菊澤研宗:慶應義塾大学商学部教授
 2023.1.1 4:42
 零戦
 写真はイメージです Photo:PIXTA
 失敗する組織内には、指導者たちの合理的な判断によって、「やましき沈黙」が生じる。そして、どこかに潜んでいた「黒い空気」が、いつのまにか組織全体を覆ってしまう――。慶應義塾大学商学部教授・菊澤研宗氏は、「不条理」研究の先駆者として多くの著作があるが、その集大成として、組織を失敗に至らせる病を「黒い空気」と表現する。この概念は、戦史の事例研究に端を発するものだ。一例として、「義烈空挺隊の沖縄攻撃とその指揮官たち」についての論考を紹介する。
 ※本稿は、菊澤研宗『指導者(リーダー)の不条理』(PHP新書)より抜粋し再編集したものです。
 義烈空挺隊の沖縄攻撃と「黒い空気」
 太平洋戦争の初頭、日本陸軍空挺部隊は、石油を確保するために、蘭印(インドネシア)のパレンバンに降下し、大成功を収めた。空から舞い降りる華麗なる空挺部隊は「空の神兵」と呼ばれ、華やかなデビューを飾った。当時、その部隊に憧れた若き日本兵は多かった。
 その空挺部隊の歴史をたどると、開戦の前年、1940年12月に、浜松陸軍飛行学校練習部が創設され、落下傘部隊つまり空挺部隊に関する実験および検証が開始された。そして、1年後の1941年12月1日に、陸軍初の空挺部隊第一挺進団が編成され、ここに日本軍の空挺部隊が誕生したのである。
 そして、1942年2月14日に蘭印(インドネシア)の大油田地帯であるスマトラ島パレンバンを挺進第二連隊が奇襲し、地上部隊と連携して見事に奇襲作戦に成功した。このとき、空挺部隊はまず飛行場を占領し、その後パレンバン市を占領し、そして敵による油田地帯の爆破を阻止して石油を確保した。こうして、ジャワ攻略作戦は成功した。当時の空挺団の活躍が、軍歌「空の神兵」として歌われたのである。
 その後、陸軍挺進部隊は拡充されて「挺進集団」となり、四個の挺進連隊と二個の滑空歩兵連隊の大部隊となった。しかし、米軍の反攻が激しくなりはじめると、日本軍は徐々に形成不利となり、空挺作戦の実施自体が厳しくなった。そのため、わずかに比島(フィリピン)作戦で少数兵力の空挺降下を行なっただけだった。
 その後も出番はさらに少なくなり、空挺部隊は翻弄され続けた。空挺部隊の中でも、最高の精鋭部隊といわれていた部隊が、悲運の「義烈空挺隊」であった。この空挺隊は、海軍の戦艦大和と同じように出番がなく、陸軍の中で温存され続けた。この遅れてきた悲運の部隊をめぐって発生した「黒い空気」について説明してみたい。
 「黒い空気」とは何か
 【定義その1】
 たとえ変化・変革した方が効率的であっても、あえて非効率的な現状を維持する方が合理的だと指導者が判断して組織を指導するとき、組織は不条理な「黒い空気」に支配され、合理的に失敗する。
 【定義その2】
 たとえ変化・変革した方が倫理的に正しくても、あえて不正な現状を維持隠ぺいした方が合理的だと指導者が判断して組織を指導するとき、組織は不条理な「黒い空気」に支配され、合理的に失敗する。
 第一回出撃命令と第二回攻撃命令
 1944年4月に、サイパンが米軍に占領されると、サイパン島から出撃する米国の戦略爆撃機B29によって、大阪や東京への空襲が直接可能になった。
 これに対抗するために、日本軍は同年11月2日にサイパン島を空から執拗に攻撃して、爆撃機B29と飛行場を破壊しようとした。しかし、日本陸海軍の航空爆撃による米軍飛行場への攻撃はある程度成功したものの、本来、航空機による爆撃は的に命中させることが非常に難しく、飛行場の爆撃機B29を十分破壊できなかった。
 そこで、日本陸軍サイパン島空挺部隊で編成した特殊部隊を送り込み、地上から爆撃機B29を直接爆破する計画を立てた。このとき、奥山道郎大尉を空挺隊の指揮官とする特殊部隊が編成され、その部隊は「神兵皇隊」と名づけられた。
 日本軍は、当時、陸軍中野学校で諜報や防諜などの教育を受けた諜報員を南方の島々に配置していた。米軍の侵攻によって島々が占領された後も諜報員を同地に留まらせ、敵情などの情報収集をさせていた。彼らは、「残置諜報員」と呼ばれていた。
 当時、サイパン島にも残置諜報員が配置されていた。ところが、サイパン守備隊が玉砕してからは、その消息が途絶えていた。大本営は、爆撃機B29の出撃状況や日本軍の空襲による効果など、サイパン島からの情報を必要としており、それゆえ空挺隊の突入の際に、陸軍中野学校卒の諜報員もサイパン島に潜り込ませることを計画していた。
 玉砕覚悟の空挺隊員やパイロットとは違い、中野学校卒の諜報員は着陸後離脱してサイパン島内に潜伏し、残置諜報員として遊撃戦を展開することを任務としていた。つまり、「生き残ること」が彼らの目的であった。それゆえ、彼等は「死ぬこと」を目的とする空挺隊員に悟られぬように、苦労して作戦計画を立てていたのである。
 「義烈空挺隊」を「愚劣食放題」と自虐
 『指導者(リーダー)の不条理』
 菊澤研宗 著
 定価1155円
 1945年1月に入ると、奥山指揮官率いる神兵皇隊は、サイパン島への出撃基地となる浜松飛行場へと移動した。そして、ここで部隊名称は「義烈空挺隊」に変更された。
 しかし、作戦決行日が未定のまま、浜松飛行場で義烈空挺隊は待ち続けることになる。「特攻せよ」と死ぬことを命令されながらも、年が明けても出撃命令は下されなかった。というのも、その間、サイパン島に至る途中の給油地であった硫黄島の戦況が悪化したからである。
 このような戦局で、大本営陸軍部は義烈空挺隊168名を犠牲にする作戦の決行に躊躇していた。しかし、死を覚悟している隊員にとって、待たされること自体が残酷な仕打ちであった。「まだ死なせてくれないのか、もう死なせてくれ」と言う兵士も出はじめていたのである。
 同年1月22日まで、義烈空挺隊は浜松に待機していたが、結局、出撃命令は出なかった。作戦の延期が決定され、義烈空挺隊は再び訓練を開始した。しかし、出撃の見通しが立たないために、兵士の士気は上がらず、いつしか隊員らは、出撃もせず毎日美食している自分たちの「義烈空挺隊」の部隊名を、「愚劣食放題」と自虐的に自称するようになっていた。そして、1月27日に義烈空挺隊は古巣の宮崎県川南町に帰っていった。
 1月30日、米軍による硫黄島侵攻の可能性が高まったことから、義烈空挺隊によるサイパン攻撃は正式に中止となった。その代わりに伝えられたのは、硫黄島の千鳥飛行場への突入命令であった。硫黄島の米軍の爆撃機は少数であり、大部分は戦闘機であった。それゆえ、奥山隊長率いる義烈空挺隊の訓練内容も大型機B29から小型機の破壊作戦へと切り替えられた。
 同年2月16日、硫黄島に米軍が上陸を開始し、硫黄島で日米の戦いが始まった。硫黄島の千鳥飛行場に突入するため、義烈空挺隊は宮崎県川南町から茨城県つくば市の西筑波飛行場に移動し、出撃準備を整えた。しかし、硫黄島の戦況が悪化し、硫黄島への出撃も中止となってしまった。
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 義烈空挺隊・沖縄特攻の裏に「何重もの不条理」、指揮官たちを歪めた“黒い空気”
 空の神兵、日本陸軍、黒い空気(2)
 菊澤研宗:慶應義塾大学商学部教授
 2023.1.2 4:27
 沖縄の空撮
 失敗する組織内には、指導者たちの合理的な判断によって、「やましき沈黙」が生じる。そして、どこかに潜んでいた「黒い空気」が、いつのまにか組織全体を覆ってしまう――。慶應義塾大学商学部教授・菊澤研宗氏は、「不条理」研究の先駆者として多くの著作があるが、その集大成として、組織を失敗に至らせる病を「黒い空気」と表現する。この概念は、戦史の事例研究に端を発するものだ。一例として、「義烈空挺隊の沖縄攻撃とその指揮官たち」についての論考を紹介する。
 ※本稿は、菊澤研宗『指導者(リーダー)の不条理』(PHP新書)より抜粋し再編集したものです。
 第三回の突撃命令と「空気」
 1945年4月、米軍が沖縄に侵攻し、これに対して、日本軍は空からの特攻と戦艦大和を中心とする海上特攻も展開した。しかし、日本軍の攻撃の効果はうすく、米軍は上陸に成功し、次々と飛行場を占領していった。そして、5月になると、米軍に奪取された沖縄の各飛行場に米軍の陸軍航空隊や海兵隊の航空機が多数進出した。
 それでも、日本軍は陸軍の重砲による砲撃や、陸軍重爆撃機、そして海軍の夜間戦闘部隊である芙蓉部隊などの空襲によって執拗に沖縄の米軍飛行場を攻撃し続けた。しかし、米軍の飛行場を無機能化するほどの損害を与えることはできなかった。逆に、米軍の航空戦力は強化されていった。
 こうした状況下で、大本営陸軍部は陸軍第三二軍を首里城から沖縄南部の摩文仁(まぶに)の壕へ撤退させた。そして、特攻作戦の援護のため、残された航空戦力を集中して沖縄の米軍飛行場を攻撃することを計画した。5月下旬に開始される予定の菊水七号作戦で、ついに義烈空挺隊による沖縄本島の飛行場への空挺特攻作戦すなわち義号作戦を決行することになった。
 大本営陸軍部は、義烈空挺隊の輸送機として九七式重爆撃機12機、飛行場夜間爆撃機として四式重爆撃機12機、九九式双発軽爆撃機10機の投入を命じた。他方、沖縄を失って何の本土決戦かと息巻く海軍の第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、義号作戦を援護するために、一式陸上攻撃機17機、銀河13機、それに護衛として夜間戦闘機12機を投入することを決定した。海軍は沖縄戦にかけていたのである。
意思決定プロセスは、実は非常に錯綜していた
 こうして、義号作戦とそれに伴う夜間爆撃は、過去最大規模の米軍飛行場への夜間攻撃となった。しかし、この義号作戦遂行に至る命令系統および意思決定プロセスは、実は非常に錯綜していた。義烈空挺隊は、第六航空軍の指揮下にあった。しかし、その使用に関しては、大本営の許可が必要だったのである。
 第六航空軍は、戦術的にこれまで義烈空挺隊の投入のための最適な機会を絶えずうかがってきた。4月中旬になり、沖縄の米軍飛行場が強化されたため、投入の好機と考え、第六航空軍司令官の菅原道大中将は高級参謀の井戸田勇大佐を大本営に派遣し、強くその作戦実行の許可を求めた。
 ところが、井戸田の陳情に対し、参謀本部の第一部長宮崎周一中将は、近日中に現地に出向くからそのときに検討したいと言い、返事をしなかった。その後も、菅原は何度も空挺隊の投入を催促した。そして、ついに5月2日に「義号作戦」の準備命令が下った。しかし、作戦実行命令はなかなかでなかった。
 大本営が義烈空挺隊の投入を逡巡していたのは、5月3日に開始された陸軍第三二軍による総攻撃が失敗し、勝つ見込みの薄い沖縄戦日本陸軍最精鋭の義烈空挺隊を投入するのは戦略的に無駄だと考えはじめたからである。つまり、大本営陸軍部は海軍と異なり、すでに沖縄戦をあきらめていたのであり、何よりもきたるべき本土決戦のために義烈空挺隊を温存したいと思っていたのである。
 その後、約束通り、宮崎が福岡に訪れた。待ちかまえていた菅原は、宮崎に対して、「特攻隊に指定されてすでに半年間、計画しては取りやめになること再三に及び、兵士の心情を考えると、忍び難い」と決断を迫った。このとき、宮崎は現場の「黒い空気」を読み取ったのか、その場での即答を避けたが、東京に帰るとすぐに義烈空挺隊投入を決定し、「義号作戦認可せらる」という許可の電文を打電させた。
 ところが、大本営の許可はとったものの、沖縄戦の大勢も決し、戦略的にも戦術的にも時期を逸した戦況となって、今度は菅原自身が作戦の決行に迷いはじめた。
 しかし、これまで何度も出撃中止とされた奥山道郎隊長が、「空挺部隊として、もし未使用に終わるようなことがあるならば、国民に対して顔向けできない」と心境を吐露した。このとき、菅原は部隊の「黒い空気」を理解した。菅原も、この「黒い空気」に支配され、部下に死に場所を与えるために出撃命令を下した。
 沖縄戦をあきらめていた大本営陸軍部も、これまでなかなか義烈空挺隊の使用許可を出さなかったが、いったん作戦実行が決まると、沖縄戦最大規模の米軍飛行場への夜間攻撃となる本作戦に大きな期待を寄せはじめたのである。
 ついに義烈空挺隊の作戦実行
 『指導者(リーダー)の不条理』
 菊澤研宗 著
 定価1155円
 5月19日に、菅原中将は奥山と諏訪部両隊長を軍司令部に招いて作戦の詳細な打ち合わせをした。同月20日には、義号作戦の全貌を全幕僚に伝達し、義烈空挺隊の出撃が決定した。
 作戦は、第一波攻撃として読谷の北飛行場と中飛行場に胴体着陸し、同基地の米軍機を破壊するとともに、敵の司令部・物資集積所を攻撃する。第二波攻撃は、沖縄の友軍と連絡し、さらなる遊撃戦を敢行するといった作戦であった。
 こうして、作戦は遂行された。今日、その戦果は必ずしも明確ではない。しかし、当時、義烈空挺隊が突撃し、嘉手納、そして読谷飛行場方面で火の手が上がるのを目撃していた陸軍第三二軍の高級参謀であった八原博通大佐の次の言葉が参考になるだろう。
 「軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ、奥山大尉以下120名の勇士は、北、中飛行場でなく、小禄飛行場に降下し、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである」(八原博通著『沖縄決戦 ―高級参謀の手記』読売新聞社、1972年)
 理性的な八原参謀のこの言葉から、その効果はそれほど大きくなかったのではないかと思われる。なぜもっと効率的に彼らを投入できなかったのか。そこに、日本陸軍が不条理な「黒い空気」に支配されていた可能性が見てとれるのである。
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 義烈空挺隊玉砕之地碑 [マップ]
 読谷村役場新庁舎前の道路(旧誘導路)を隔てて写真で示すような碑が立っています。元は単なる四寸角ぐらいの木柱でしたが、現在ではご覧の通り、白ペンキ塗りの大きな柱に墨痕(ぼっこん)あざやかに「義烈空挺隊玉砕之地(ぎれつくうていたいぎょくさいのち)」と大書されています。
 空挺隊とは、航空機で敵中に進入し、パラシュートやグライダー、または航空機自体で強行着陸して敵陣を撹乱(かくらん)する特別攻撃隊(特攻隊)です。
 「義烈空挺隊」は、「義号作戦」にのっとって行なわれた作戦で、その目的は、飛行場爆破、後方撹乱であり、の目的達成のため、陸軍中野学校出身者が指揮官となり、それに沖縄出身者が2名搭乗していたといわれます。
 『沖縄方面陸軍作戦』によりますと、
 「(1945年)5月24日18:50、奥山隊長以下120人が搭乗した12機が熊本健軍飛行場を離陸。22:11飛行場突入の無電。北飛行場に6機、中飛行場に2機着陸(4機は引き返す)」となっています。
 一方、『アメリカ軍戦史』では、
 「北飛行場に5機侵入、4機は撃墜され1機が胴体着陸した。アメリカ軍の損害は9機炎上・29機損傷、7万ガロンのガソリン炎上。死者20名。日本兵の死体は69。(中飛行場の記録なし)」とあるようです。
 この作戦で2名の沖縄出身者(山城金栄准尉と比嘉春弘伍長)が搭乗していますが、山城准尉は中飛行場で戦死したようです。
 特攻隊は海上の艦船への体当たり攻撃だけではなく、このように陸上の敵陣への攻撃もあったわけです。
 碑柱の建立者は不明ですが、水や酒、それに線香なども供えられたあとがありますので、関係者は時々訪れているようです。
 ここでは碑柱に書かれている通り、「義烈空挺隊玉砕之地」という標題にしましたが、今日では「玉砕」というかつての武士道精神や旧軍隊語からきたこの言葉に異を唱える向きもあります。
 碑柱向かいに建つのは読谷村役場
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 沖縄翼友会
 先の大戦で沖縄並びに航空戦に散華された先輩、同僚、また運命を共にした航空機材の冥福を祈ります。
 航空関係戦没慰霊塔
 空華(くげ)の塔
 義烈空挺隊
 義烈空挺隊と第三独立飛行隊をもって、読谷、嘉手納飛行場に強行着陸、所在する戦闘機群、指揮所、兵站施設等を爆砕すること・・・「義号作戦」
Photo:唐瀬原 ―陸軍落下傘部隊史―
 「5月24日18:50、諏訪部忠一大尉率いる第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本健軍飛行場を出撃した。同日22:11頃、諏訪部機より突入を知らせる最後の無電「オクオクオクツイタツタツイタ」があり、先導した重爆隊により熊本を発った12機のうち6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされた。残りの4機は発動機の不調などにより目的地に辿り着けず途中で帰還した。」(wikipedia義烈空挺隊より)
 沖縄戦において、米軍上陸以降、制圧された北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場から飛び立つ米軍機により、多数の特攻機が撃墜されていきました。第32軍も持久戦により何とか持ちこたえようとしていました。しかし戦況は徐々に劣勢にたたされていきます。そのころ軍上層部から「米軍に制圧された飛行場を奪回してほしい」との要請が始まります。そして、義烈空挺隊が北・中飛行場へ強行着陸、制圧している間に陸海軍の特攻機が沖縄周辺の米艦艇群に突入するという「義号作戦」が立案されたのです。
 義号作戦
 最初にこの作戦の名で行ったのは、フィリピンレイテ島(1944年11月26日にレイテ島の戦い)において米軍占領下の飛行場を破壊するため、高砂族義勇隊を含む(薫空挺隊)を輸送機で強行着陸させ攻撃破壊するためであった。
 ……
 義号部隊
 以下(唐瀬原 ―陸軍落下傘部隊史―より)
 軍部は、フィリピンに続いてサイパンへの空挺作戦も実行に移します。薫空挺隊がブラウエンへ突入した翌日、11月27日。教導航空軍司令部から第1挺進集団に対し、「1個中隊をサイパン攻撃部隊として差し出せ」との命令が下されます。第2挺進団がフィリピン出撃中のため、サイパン攻撃隊は第1挺進団から選ばれる事となりました。
 ……
 沖縄特攻「義号作戦」
5月17日、沖縄特攻「義号作戦」が正式発令されます。 同月19日、菅原中将は奥山・諏訪部両隊長と直協部隊の渥美飛行第60戦隊長(誘導)、草刈飛行第110戦隊長(戦果確認)を軍司令部に招いて作戦の詳細な打ち合わせをおこないます。20日には義号作戦の全貌を全幕僚に伝達し、義烈空挺隊の出撃は決定されました。あの薫空挺隊によるブラウエン奇襲攻撃と同じ作戦名ですが、2つの「義号作戦」に関連はありません。
……
 マスコミ報道
 QAB琉球朝日放送「語り継ぐ沖縄戦2011 (3) 義烈空挺隊 ある県出身隊員の思い」2011年6月22日摩文仁戦跡公園内にある「義烈」の石碑
 摩文仁戦跡公園内にある「義烈」の石碑。
 沖縄戦の後半、敵の手に落ちた二つの飛行場を制圧するという陸軍の作戦史上、類を見ない過酷な任務を背負った精鋭部隊が沖縄に飛来しました。「義烈空挺隊」その壮絶な戦闘は神話化されていますが、沖縄出身の隊員がいたことや、第二期計画があったことはあまり知られていません。知られざる集団特攻の実態に迫ります。1945年5月24日。熊本の健軍飛行場では奥山大尉以下、150人の隊員が最後の別れを惜しんでいました。彼らの任務は、アメリカ軍に占領された読谷と嘉手納、二つの飛行場に爆撃機ごと胴体着陸し、使用不能にする作戦です。
 さらに義烈空挺隊は、米軍の主力爆撃機、B29を一発で破壊するための訓練として、模型の背中に帯状の爆雷を乗せたり、爆弾を仕込んだ棒を吸盤で吸着させる技も習得していました。そんな武器を体中に巻き付け、4人乗りの爆撃機に14人ずつ乗りこみ、夕方6時、沖縄の空に向かいます。人生最後の時間となる、沖縄までの4時間の飛行。そして夜10時11分、「只今突入」の無線が入ります。しかしほとんどが打ち落とされ、実際に滑走路に胴体着陸したのはたったの1機でした。走り出た11人の隊員は次々に米軍機を襲い、7機が爆発。7万ガロンのガソリンを炎上させました。
 これはアメリカ軍が撮影した、翌朝の北飛行場の様子です。およそ30機の飛行機が破壊され、20人のアメリカ兵が死傷。一方、義烈空挺隊員の遺体の数は69体でした。首里の司令部にいた八原高級参謀は後日こう述べています。「我が空挺隊が敵飛行場に降下し、獅子奮迅の働きをしている様を想像して感動を久しくした。しかし義烈空挺隊は、むしろ小禄飛行場に降下して軍の戦闘に参加してもらったほうが数倍うれしかった」実は翌日の昼、最後の空挺隊員が残波岬で米軍に射殺されています。あの修羅場を抜け、彼はなぜ、海に向かっていたのか。
 その答えは、極秘だった「義烈空挺隊攻撃計画」に書かれています。
 「X日Y時を期し主力8機をもって中飛行場に強行着陸し」「爾後、海岸方向に戦果を拡張し揚陸地点付近の物資集積所を攻撃」飛行場を破壊したあと、海岸の物資を攻撃するまでが「第一期攻撃計画」でした。計画はそれだけではありません。「目的達成せば、一斉に戦場を離脱し北飛行場東方220.3地点に集結第二期攻撃・遊撃戦等を準ビス」つまり、読谷山岳(ゆんたんざだけ)に再度集結して、ゲリラ戦に移行するのが第二期攻撃だったのです。
 隣の山には、すでにゲリラ戦を展開中の第二護郷隊がいました。護郷隊を率いるのは特殊なスパイ教育を受けた陸軍中野学校の人たちそして義烈空挺隊員のうち10人が中野学校の諜報員でした。名護市史編さん係・川満彰さん「義烈空挺隊の中に陸軍中野学校のひとたちが10人も入っていた理由って言うのは」「第32軍が壊滅したあとも彼らがそこで遊撃隊となって第3遊撃隊第4遊撃隊。その人たちと一緒になって、また32軍が壊滅したあとも遊撃隊となって後方かく乱をしていこうと」
 陸軍中野学校沖縄戦の関連を研究している川満さんは、32軍玉砕のあとこそ、彼らの出番だったと指摘します。
 川満さん「彼らは生き残る計画だったと思うんですよ。一般の僕たちから見ていたら無謀な計画ではあるんだけれど、とてもじゃないけどそんなことできるんかって言うのがあるんですけれど、彼らは生き残るつもりだった。遊撃戦を展開して、大本営、関東地区の爆撃をどうにかここで少しずつでもいいから食い止めるというそういったことが計画されていたんでしょうね」
 隊員の遺体から回収した地図には、アメリカ軍機の配置やどのテントにパイロットが寝ているかまで書かれていて、驚いたアメリカ軍は翌朝、スパイ対策を命じています。住民のふりをした少年兵に諜報活動をさせるのは、護郷隊の得意技。中野学校の仲間によって知り尽くした場所で、義烈は第二期攻撃に入る計画だったのです。小野田少尉のように、たとえ占領されても国を奪還するまで潜伏して活動を続けるのが中野学校の基本でした。重すぎる任務を背負った精鋭部隊。この中に、沖縄出身兵士が二人含まれていました。
 義烈空挺隊最年長の山城准尉は、享年31歳。突撃の日、新聞記者にこう語っています。
 「私は沖縄生まれというので特別に関心を持たれているようですが別に悲壮な気持ちはありません。かえって自分の生まれ故郷で戦えるので気易い思いでいます。沖縄県民を救うことができれば本望です」数年前、山城准尉の遺族の所在が判明しました。大宜味村喜如嘉。山城准尉はここで生まれ育ち、妹に当たる前田美恵子さんは、今も兄の写真を大事にしています。美恵子さん「申し分ない兄でした。何かにつけてね。うん。(Q.優しかったですか?)優しかったです。力はあるし。三味線は弾くし、いろんな事しました。万能。(Q.特攻隊のような仕事だったというのは知ってましたか?)そういうことはきいてないです」
 山城さんの甥・前田貞夫さん「兵隊に行って落下傘部隊に所属してなくなったという、それ以上のことは全然わからないです」特攻の任務も、ゲリラ戦計画も、日本軍の最高機密。家族に告げることはかなわなかった山城金栄さんはこんな言葉を遺しています。「殉国、忠誠の真心、闘魂は火の玉となって敵を焼く」勇ましい言葉を胸に窮地にある沖縄の空を目指した山城さんは今何を思うのか。義烈空挺隊は、その秘匿性から県民にはあまり知られることのないまま、人々の記憶から消えようとしています。
 QAB琉球朝日放送「語り継ぐ沖縄戦2011 (3) 義烈空挺隊 ある県出身隊員の思い」2011年6月22日
 【沖縄リポート】沖縄を守るため「大和」に代わり米軍にダメージ 12機168人の「義烈空挺隊」2016.05.11 ZAKZAK
世界各地でテロや紛争が続くなか、「日本は平和だ」と感じる人も多いだろう。実は、毎日のように他国に領海や領空を侵犯されているのだが、一般の人々の耳目にはあまり入らない。先の大戦では、沖縄を守るため、日本を守るために、多くの先人が命をささげた。
 沖縄戦の最中、熊本市の健軍飛行場を飛び立った12機168人の「義烈空挺隊」も、その1つだ。
 1945年3月26日に始まった米軍の沖縄上陸後、4月7日には支援物資を満載した「戦艦大和」が撃沈された。大和が沖縄にたどり着けなかったため、「沖縄は本土に見捨てられた、捨て石になった」と嘆く県民もいるが、事実は違う。沖縄を救援するため、米軍制圧下の読谷(よみたん)飛行場に強行着陸し、米軍に大きなダメージを与えて玉砕したのが、義烈空挺隊だ。
 毎年、同隊の慰霊祭を行っている全日本空挺同志会沖縄支部の濱田種夫氏は次のように語った。
 「当時、米軍に制空権・制海権を握られ、本土からは手も足も出ない状況だった。だが、義烈空挺隊の一部は沖縄にたどり着き、本土からの増援部隊として戦って亡くなった。それだけは知っていてほしい」熊本を飛び立った12機のうち、米軍の激しい対空砲火などで多くが撃墜された。読谷飛行場に降り立った隊員11人は敵機を次々と破壊し、大量の航空燃料を焼失させて散華した。そこに、本土と沖縄の隔てはなかった。濱田氏は続けた。
 義烈空挺隊に、山城金榮准尉という沖縄出身の隊員がいる。写真では屈強で不敵な笑みを浮かべ、不気味なほどに潔く、悲壮感は欠片もない。隊員らを犠牲者とみる人もいるが、愛する祖国と家族を守るために戦った方々を、『かわいそうな犠牲者』と表現するのはどうかと思う」 資料によると、山城准尉は結婚していて、2歳のまな娘がいたという。戦ったすべての人に、失いたくないものがあり、輝ける人生があった。
 濱田氏は「慰霊はあくまで御霊安かれと祈り、慰めることです。私は彼らを心から尊敬していますし、意思を受け継いでいきたい。同時に、後世にも語り継いでいきたい」と語った。
 沖縄戦では、軍民合わせて20万人もの戦没者を出した。こうした悲劇を二度と繰り返してはならない。義烈空挺隊や特攻隊、鉄血勤皇隊ひめゆり学徒隊、白梅学徒隊などの歴史を振り返りながら、彼らの魂は「国防の危機」から目を閉ざしているような、日本の現状をどう見るだろうかと思った。
 戦艦大和は「沖縄を守るため」に出撃し、撃沈された(三菱重工提供)
■兼次映利加(かねし・えりか) 1985年、那覇市生まれ。高校卒業後、進学のため上京。会社勤務の傍ら、拉致被害者奪還のための街頭署名活動や、主に沖縄に関する問題についての執筆活動を続ける。共著に『国防女子が行く』(ビジネス社)。
 【沖縄リポート】沖縄を守るため「大和」に代わり米軍にダメージ 12機168人の「義烈空挺隊」2016.05.11 ZAKZAK
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