🎺43:─5・A─世界戦史に残るカミカゼ特攻の予想以上の戦果。~No.203 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
2023-08-23
🎺43:─4─本土防空戦。世界最強の日本軍航空部隊はB29爆撃機を485機撃墜した。~No.202 
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 靖国神社問題とは、数万人のユダヤ人難民を助けたA級戦犯合祀ではなく戦果を挙げたカミカゼ特攻の評価にある。  
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 神風特攻隊――現代の若者たちはどうみているのか - BBC
 https://www.bbc.com>features-and-analysis-41883845 
 特攻隊が成功する確率は?
 成功率はわずか10%と考えられているが、連合軍の船50隻ほどを沈めた。 戦争から何十年もたった今も、神風特攻隊に対する意見は割れたままだ。 割れている理由のひとつには、その歴史が政治手段として繰り返し使われてきたことがある。2017/12/04
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 特攻戦死1036人、知覧で追悼 4年ぶりコロナ対策制限なし - 静岡新聞 
 https://www.at-s.com>news>article>national
 特攻隊で亡くなった人数は何人ですか?
太平洋戦争末期の沖縄戦で亡くなった旧日本陸軍特攻隊員の慰霊祭が3日、鹿児島県南九州市の知覧特攻平和観音堂前で営まれ、参列した遺族ら約500人が、戦死した隊員1036人を追悼し平和への祈りをささげた。2023/05/03
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 [シリーズ戦跡]少年飛行兵17歳の戦死|戦争|NHKアーカイブス
 https://www2.nhk.or.jp>archives>movies
 特攻隊の最年少は何歳でしたか?
 井花敏男さんは、昭和20年(1945年)4月16日、沖縄での特攻作戦で命を落としました。 陸軍の沖縄特攻作戦1000人余りの戦死者の中で最年少でした。
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 2023年12月11日 MicrosoftStartニュース zakzak井上和彦 歪められた真実 特攻隊、戦果と意義の客観的見直しを 軍事作戦の邪道ではあるが…3倍の敵と刺し違え、戦後の〝抑止力〟にも
 楢本神社・神風特攻記念館には、関大尉(中央、没後中佐に)など「敷島隊」の遺影などが展示されている=愛媛県西条市
 © zakzak 提供
 戦後の日本社会では、「特攻隊」は悲劇の象徴でしかなく、軍部を批判する絶好の材料となってきた。だから特攻作戦の意義や戦果を再評価し、特攻隊の顕彰を口にしようものなら、たちまち「戦争を美化している」などと、お門違いの批判を浴びるはめになる。戦後の日本は特攻隊への評価は、完全な言論統制下にあるといってよかろう。
 しかし、事実として、特攻隊は大きな戦果を挙げ、米軍将兵の心胆を寒からしめていたのである。こうした史実を歪(ゆが)め、特攻隊員に対して偽善的な哀れみの情を込めて無駄死だとか犬死などというのは、英霊に対する冒瀆(ぼうとく)なのだ。
 1944(昭和19)年10月25日、フィリピン・マバラカット基地から出撃した関行男大尉率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」による最初の攻撃から終戦までの約10カ月間に、海軍の特攻機2367機が敵艦隊に突入して2524人が散華した。そして、陸軍は 一方、連合軍は甚大な被害を受けていたのである。
 筆者の調べによれば、特攻隊によって撃沈または撃破された連合軍艦艇は278隻に上り、資料によっては300隻を超えるとしたものもある。
 人的被害もまた驚くほど大きかった。
 米海軍だけでも、特攻機の体当たりによる被害は、戦死者が約1万2300人、重傷者は約3万6000人に上り、さらに、あまりの恐怖から戦闘神経症患者が続出している。つまり日米両軍の戦死傷者の数だけを単純比較すれば、特攻隊は、実に3倍の敵と刺し違えていたことになる。
 《日本の奴らに、神風特攻隊がこのように多くの人々を殺し、多くの艦艇を撃破していることを寸時も考えさせてはならない。》(安延多計夫著『あゝ神風特攻隊』光人社NF文庫)
 これは米海軍ベイツ中佐の言葉である。
 戦後の日本は、こうしたことを軍事的見地から客観的に検証し、実戦を経験した軍人の証言に真摯(しんし)に耳を傾けてこなかった。特攻隊員は、その意志に反して強制的に志願させられたかのごとく言われ、あろうことか〝かわいそうな若者〟に仕立てられてきた。だが、特攻隊員の肉声はそのようなものではなかった。
 彼らは至純の愛国心を胸に戦い、命を祖国のために捧げたのである。
 もちろん特攻は軍事作戦の邪道である。だが、その戦果と意義を客観的に見直し、まずは散華された特攻隊員を顕彰すべきではないか。
 特攻隊は、世界の人々の日本人観に多大な影響を与え、戦後も「日本に手を出すと痛い目に遭う」と思わせる〝抑止力〟となって日本を守り続けてきた。つまり、かつての特攻隊の武勇は、戦後日本の抑止力ともなってきたことを忘れてはならない。
 (軍事ジャーナリスト) =おわり
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 戦後民主主義教育を受けてきた現代日本人には、本当の歴史を知らないだけにカミカゼ特攻の真実は理解できない。
 カミカゼ特攻の起源を辿ると、鎌倉時代の虐殺をおこなった元(中国)・高麗(朝鮮)連合軍を撃退した蒙古襲来ではなく戦国時代の中世キリスト教会・イエズス会諸修道会による宗教侵略と江戸時代後期のロシアによる軍事侵略に行き着く。
 つまり、神の裔・天皇と神国日本を夷狄・外敵から「誰(他人・他国)にも頼る事なく一人で、孤独に」守ろうとした尊王攘夷派・勤皇の志士らによる一殺必中の「天誅」であった。
 譬えるなら、「窮鼠猫を噛む」である。
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 精神主義と言っても、昔の精神主義と現代の精神主義は別物である。
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 日本民族が戦った敵とは、宗教とイデオロギーであった。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 ソ連コミンテルン共産主義者による「三二年テーゼ」
 広辞苑 1932年(昭和7)にコミンテルンが決定した「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」の通称。天皇制打倒、寄生地主制の廃止などを主要任務とするブルジョア民主主義革命を主張。
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 カミカゼ特攻とは、本土焦土決戦・一億総玉砕(自滅)作戦の時間稼ぎの捨て石として見捨てられた沖縄攻防戦への手向けとして決行された非情な作戦であった。
 つまり、カルト宗教における聖戦と偽った非人道的自爆テロではなかった。
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 神風特攻は、第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年3月から7月まで、沖縄戦に投入された
 特攻隊員は、17歳から32歳、 平均年齢21.66歳だった。
 日本側の特攻戦死者は、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍2,531名、陸軍1,417名、計3,948名である。
 連合軍側の死傷者数にも諸説あるが、米軍の公式記録などから、航空特攻によるとおぼしき戦果を拾い上げると、撃沈55隻、撃破(廃艦になった23隻をふくむ)198隻、死者8,064名、負傷者1万708名にのぼる。
 カミカゼ特攻は、沖縄を救い、沖縄戦を勝利する為に行われた無意味で無謀な「犬死に」ではなかった。
 日本軍は本土決戦の為に沖縄を捨て石にしたが、見捨て、見殺しにした分けではなかった。
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 沖縄海域に対する戦艦大和艦隊の水上特攻。
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 国土戦争は、南の沖縄と北の千島列島・北方領土4島・南樺太の二カ所で行われたがゆえに、、沖縄が唯一の地上戦ではなかった。
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 YAHOO!JAPANニュース
 未来に残す戦争の記憶
 特攻とは何だったのか 若者を死に向かわせた作戦
 生きては帰れない「特攻」
 特攻とは、搭乗員が乗った軍用機や小型艇、潜水艇で連合軍の艦船に体当たりする攻撃です。太平洋戦争末期に日本軍が組織的に行いました。決して生きて帰ることのないこの戦い方は、多くの若者の命を奪い、攻撃を受けた連合軍の将兵たちに圧倒的な恐怖を与えました。特に航空特攻は、戦後77年たった今も「KAMIKAZE(カミカゼ)」として世界で語り継がれています。
 1945年3月に始まった沖縄戦では大規模な特攻を繰り広げ、その出撃基地は鹿児島県、宮崎県、熊本県といった南九州に集中しました。
 南九州の主な特攻出撃基地(図解:EJIMA DESIGN)南九州の主な特攻出撃基地(図解:EJIMA DESIGN)
 なぜ日本は特攻に踏み切ったのか
 太平洋戦争は1941年12月8日、日本軍がイギリス領マレー半島とハワイ・真珠湾を奇襲攻撃して始まりました。しかし翌1942年ミッドウェー海戦ソロモン諸島を巡る消耗戦では、熟練搭乗員と航空機を数多く失い、工業生産力に勝るアメリカに軍事力で逆転されます。1944年6月のマリアナ沖海戦では400機もの空母艦載機と空母3隻を失い、日本軍は機動力をなくします。
 軍上層部は、太平洋で優位に立った連合軍には通常の攻撃では対抗できないと判断。特攻による体当たり攻撃をするしかないと考えるようになりました。そして1944年10月、第一航空艦隊司令長官に着任した大西瀧治郎中将が、神風特別攻撃隊と名付けた部隊を編成しました。
 レイテでの特攻に向かう隊員と大西中将(ニュース映画「日本ニュース」より)レイテでの特攻に向かう隊員と大西中将(ニュース映画「日本ニュース」より)
1 0月下旬、マッカーサー率いる大上陸部隊がフィリピンのレイテ島に侵攻。同時に起きたレイテ沖海戦でフィリピンから出撃した神風特別攻撃隊は、護衛空母を撃沈するなど戦果を挙げました。その結果、軍上層部は、特攻をその後の攻撃の柱と位置付けるようになりました。
 苛烈だった沖縄での特攻
 1945年3月、沖縄に50万を越す連合軍部隊が押し寄せました。日本で唯一の地上戦となった「沖縄戦」の始まりです。
 南九州を中心に奄美群島石垣島、台湾の基地から沖縄本島周辺の連合軍艦艇に向けて、数多くの特攻隊が出撃しました。特に4月6日には、陸海軍合わせて300機もの戦闘機、爆撃機が体当たり攻撃を行ったのです。
 沖縄本島に向かう米軍上陸用舟艇沖縄本島に向かう米軍上陸用舟艇
 沖縄戦で被害を受けた連合軍の艦船は200隻以上にのぼります。そのうち40隻以上の駆逐艦が撃沈されるか、終戦まで戦線復帰できないほどの被害を受けました。
 軍艦は、通常の爆撃や雷撃なら戦闘機や対空射撃、操船によってある程度は防御できました。しかし搭乗員が最後まで操縦し続ける特攻は、容易に避けられませんでした。1隻の駆逐艦に、同時に5機の特攻機が体当たりしたこともありました。
 2回にわたって特攻を受けた英空母 フォーミダブル 1945年5月2回にわたって特攻を受けた英空母 フォーミダブル 1945年5月
 出撃した若き特攻隊員の思い
 出撃した特攻隊員の多くが20歳前後の若者でした。陸軍少年飛行兵学校や予科練習生を経た少年、学徒出陣で動員された大学生もいました。戦争の時代と言える昭和初期に育ち、"お国のために"戦争におもむくのは当然、戦場で命を散らすのは名誉なことだという価値観の中で生きてきました。
 特攻隊員になることは志願制とされましたが、そこには命令や指名もあり、拒否することはできませんでした。そのなかで、万に一つも生き残る可能性のない特攻を前に、苦悩したり疑問を感じたりした若者も少なくありません。
 慶應義塾大学から学徒出陣した上原良司さんは、当時の日本という国家に対する疑問を呈しながら出撃しました。
 「自由の勝利は明白なことだと思います」
 「権力主義、全体主義の国家は一時的には隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」
 「一器械である吾人何も云う権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」
 上原良司さん。1945年5月11日戦死上原良司さん。1945年5月11日戦死
 戦場になった南九州 空襲で小学生も犠牲に
 多くの特攻基地があった南九州は、繰り返し空襲を受けます。特攻機が出撃する飛行場などの施設や工場が標的になり、大勢の市民が犠牲になりました。
 鹿児島県は奄美群島から種子島、本土の各地に数十回に及ぶ空襲があり、3300人を超す犠牲者が出ています。宮崎市では、5月11日にB29の爆撃を受けて集団下校の小学生16人が犠牲になりました。熊本県は、7月1日にサイパンから来たB29による大規模な空襲で焼け野原になった後にも、米軍が占領した沖縄の基地から飛来した戦闘機と爆撃機の空襲を何度も受けました。連合軍は、11月に予定していた鹿児島・宮崎への上陸作戦の前に、徹底的に南九州の軍事施設とインフラを破壊しようとしたのです。
 B29の爆撃で亡くなった山下陽さん(当時宮崎師範付属国民学校4年生)B29の爆撃で亡くなった山下陽さん(当時宮崎師範付属国民学校4年生)
 沖縄戦での特攻犠牲者は日本軍3000人、連合軍5000人
 沖縄戦の特攻での日本軍の死者は3000人余り。一方、攻撃を受けた連合軍側は5000人にのぼりました。いずれも20歳前後の若者です。
 4月6日、米掃海駆逐艦エモンズは、特攻機5機に体当たりされました。エモンズに乗っていたアンソニーエスポジトさんは2021年、NHKの取材に対してこう語っています。
 「私は直撃を免れましたが、海面に死体がいくつも浮かびあたり一体は火の海と化しました。特攻機のエンジンとパイロットの死体を見ました。人生がこれからだという若者がカミカゼパイロットになるなんて。恐ろしさに、私は海軍を去りました」
 海軍時代のアンソニーエスポジトさん(写真:ご家族からの提供)海軍時代のアンソニーエスポジトさん(写真:ご家族からの提供)
 命を奪われたアメリカ人女性たち
 4月28日の20時45分、沖縄本島沖で負傷した将兵の治療にあたっていた米軍の病院船コンフォートに、特攻機が突入しました。手術室を直撃し18人が即死、その中に6人の女性看護師がいました。
 特攻で犠牲になったフランシス・チェスリー看護隊中尉特攻で犠牲になったフランシス・チェスリー看護隊中尉
 米陸軍看護隊(the US Army Nurse Corps)の看護師だったドリス・ハワードさん(当時25歳)は、外科治療室にいました。爆発で飛ばされたドリスさんは、背中と頭を強く打ち聴力を一時失いました。船内は機関が停止し大混乱に陥り、スピーカーからは船を捨てろという叫び声が流れました。
 「ペニシリンの注射を打とうとした時に、経験したことのない激しい衝撃に襲われました。私も負傷していましたが、患者がいたので見捨てるわけにはいきませんでした。負傷兵と一緒に沈むつもりでいました」(ドリスさんの手記より)
 特攻機の残骸を見つめる米陸軍看護隊の人々 右から二人目がドリスさん特攻機の残骸を見つめる米陸軍看護隊の人々 右から二人目がドリスさん
その後、火災が収まったコンフォートはグアムに向かいました。死者・行方不明者31人、負傷者は48人に上りました。ドリスさんは背骨と内耳に後遺症を負いましたが、100歳を超えても戦争の体験を語り継いでいます。
 "War is hell. I've seen the worst of it. War is never the answer."
 戦争は地獄です。私はその最悪なものを見てきました。戦争は決して解決策にならないのです。
 沖縄戦と特攻、その後
 1945年6月23日、沖縄戦の組織的戦闘が終わりました。その後、広島、長崎への原爆投下、ソ連参戦もあり、日本はポツダム宣言を受諾。太平洋戦争、そして第二次世界大戦終結しました。
 連合軍は日本が降伏しないことを想定して、宮崎・鹿児島両県への上陸作戦、続いて関東への上陸作戦を計画していました。特攻と玉砕という自らの命をあえて投げ出す日本軍の戦い方に対抗するため、原爆や化学兵器の使用も視野に入れていたのです。
 もし日本が降伏しないまま、本土上陸作戦が行われれば、まさに一億玉砕の事態になったかもしれません。
 熊本から沖縄の米軍飛行場に出撃した義烈空挺(くうてい)隊。全員が戦死した(「日本ニュース」より)熊本から沖縄の米軍飛行場に出撃した義烈空挺(くうてい)隊。全員が戦死した(「日本ニュース」より)
 特攻は、命を落とした若者たちだけでなく、家族や友人、特攻機の製造のために動員された人々など、多くの人の心を深く傷つけ、今もその非情な出来事は語り継がれています。なぜ戦争をするのか、その中でなぜ命がこうも軽く扱われるのか、こうした事態が起きる世界の、社会の仕組みはどういうことなのか。そうした問いには、今も解が与えられていません。
 制作:Yahoo!ニュース
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 ピクシブ百科事典
 神風特攻隊 かみかぜまたはしんぷうとっこうたい
 太平洋戦争末期、日本海軍が編成した特攻隊の一つ。

 評価
 アメリカ軍の評価
 戦時中において、特攻による損害の多さに士気の低下を懸念したアメリカ軍は、太平洋戦争では最も強力な報道管制を行い、特攻の戦果は上がってないと公表していた。
 アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督の談話では「日本のカミカゼ特攻は完全にその使命に失敗した」と話し、高速空母機動部隊の指揮官マーク・ミッチャー中将は「体当たり攻撃は1%しか効果的ではなかった」と公表していた。実際にこの時のニミッツは「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」と今後の苦戦を予感し、ミッチャーは慌てて真珠湾に帰還し、特攻対策のための艦載戦闘機の増強を海軍上層部に訴えている。
 しかし、銃後の一般市民は騙せても、実際に戦場で「カミカゼ」と対峙している将兵を騙すことは当然に不可能であるため、将兵たちの恐怖を和らげるために、通常ではあり得ない、戦闘行動中の飲酒を解禁した。また、特攻対策に専用のビデオ教材を作成しており、現在でも探せばYouTube等で閲覧することが可能である。
 ミッチャーは特攻により、旗艦の空母が次々と大破し、数日で何度も旗艦を変更した折も、自分のハゲ頭を自虐ネタに使って、「奴ら、俺の頭に髪を生やしたいようだな」と冗談を言って部下をハゲましている。しかし、その後に心労で傍から見ても、酷いやつれ様で、沖縄戦途中で艦隊司令官を更迭され、戦後数年して、現役時に亡くなっている。
 特効対策が確立しつつあった沖縄戦においても「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である」と評され、沖縄戦において慎重に進軍する陸軍と、特攻を受け続ける海軍で不和が起きた原因ともなっている。
一方で標的のミスに関しては早期から指摘されており、かのマッカーサーは「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と発言している。
 もっとも、これは標的さえ的確であれば進軍不可能になるという裏返しでもあり、米軍にとって特攻が如何に危険な存在であったかが窺える。
 日本軍の評価
 特攻が戦果を挙げるようになると、それまでの苦戦によって鬱憤がたまっていた日本の軍民は、大手を振って特攻を礼賛するようになり、マスコミの過熱報道がそれに拍車をかけた。
 そして、精神主義や自己犠牲賛美と結びつき特攻を褒め称える風潮が軍民問わずの拡大方針に反対する慎重派の軍幹部の意見を次第に封殺するようになった。
 しかし、日本軍に特攻のほかに有効な戦術がないのも確かであり、八木・宇田アンテナの開発者である八木秀次博士は、技術院総裁として誘導兵器の開発を指揮していたが、遅々としてはかどらず、また専門であったはずのレーダー開発でも大きく立ち遅れ、「『必死でない必中兵器』を技術当局は作り出す責任があるが、その完成前に『必死必中の特攻』に頼らざるを得ない今の戦局は残念である」という趣旨の答弁を衆議院予算委員会で行って、特攻に頼らないといけない状況を嘆いている。
 昭和天皇は「まことに遺憾であるが、しかしながら、よくやった」と称賛したが、皇太子明仁親王は「人的資源を消耗する一方」と疑問を抱いていた。
 軍事史学の評価
 今日における日本の軍事史学は、特攻を高く評価をしてはいない。
 例:軍事史学会の研究論文
 特攻は「不条理な死」の一種に分類されている。
 (「第二次世界大戦の日本人戦没者像――餓死・海没死をめぐって」、『軍事史学』166号、2006年)
 軍事史学会には、かつて特攻作戦参加を命じられたが生還できた、池田武邦も寄稿している。そこで池田は特攻を、「行動美学の実践」と評している(すなわち非感情的・論理的な行動の実践ではなかった)。
 その上で、
 >日本が戦争に突入してしまった歴史的真実の究明と、そこから真の世界平和への道を学びとる叡智こそ重要な課題である
と池田は評している。
 (「戦史史話 沖縄海上特攻 (特集 日本のシー・パワー)」、『軍事史学』44巻4号、2006年)
 例:行政学者の村上弘の意見
 自殺攻撃の発生した背景には伝統的・集団主義的・権威主義的・感性的な文化があることが、複数の先行研究で指摘されている。こうした文化は、「「市民」の理念を構成する自律性、合理性とは逆の特性」であり、過度な忠誠や「過労死」にも関連していると考えられている。
 (村上弘「強くない日本の市民社会:市民の政治参加の「3層構造」モデル」)
 特攻隊員について
 桜花
 多くの特攻隊員は、天皇、祖国、国体、家族、恋人などを護るためと考えて特攻隊員に志願した。
 そもそも基本的には自発的な志願が原則だったと言われているが、これが徹底されていたか否かについては諸説あり、一部同調圧力により仕方がなく志願した例や一時の感情で志願し後に後悔した例、あるいは多くの航空機を失った自部隊への、懲罰的な措置であると認識していた例もあったとされている。
 大多数は自発的な志願であったとする説もある一方、実質的に上官の命令であり、拒否権は無かったとする説や、『一応聞いた』という建前に過ぎず、志願を募られた際に白紙を投じても無視されて「諸君らは全員熱望であり白紙は無かった」と伝えられたとの証言もある。
 差し当たって、戦時中は「搭乗員は薬を盛られているか、強制されて座席に縛り付けられているのではないか」とする説すらあった米軍による戦後の調査では「大多数は志願であり、強制された例はあったとしても例外であっただろう」と結論付けられている。ただ、同時に熱心な志願者は終戦時点でほぼ消費し尽くされており、志願者を徴集する段階にあったとも分析している。
 また、長男や妻子のある者、一人っ子は除外するとの取り決めもあったようだが、これについては初期の時点から妻子のある者が志願とはいえ出撃しており、実質的に形骸化していたことがわかっている。
 ただ、陸海軍とも戦闘機隊を中心に上述のように最後まで特攻への部隊員供出を拒絶し、通常出撃を続けた部隊がある他、一部の搭乗員が特攻機として出撃していながら通常攻撃が可能と判断したため通常爆撃を行い、帰還する流れを何度も繰り返した例もある。これらに対し諭す流れはあったが明確に制裁や処分が行われた形跡はなく、現場レベルでは志願制が建前となり形骸化していた例はあっても、全体としては本人の意思が尊重されていたことが窺える。
 例:
 床尾勝彦(海軍兵学校72期 神風特攻忠誠隊として南西諸島海域で戦死)
 >我等の征く処、日本魂の在る処、皇国の安泰、期して俟つべし。
 林憲正(慶応義塾大学から学徒出陣、神風特攻第7御盾隊として沖縄で戦死)
 >私は郷土を護るためには死ぬことができるであろう。私にとって郷土は愛すべき土地、愛すべき人であるからである。
 森茂士(予科練乙飛第19期 神雷第7建武隊として沖縄で戦死)
 >吾等には唯国家の二字あるのみ、必ずや日本男子の本分を完遂する覚悟でございます。
 原田幸男(予科練 出撃隊名不明 沖縄海域で戦死)
 >片思ひだったか知れないけど、男らしく書きます。田島さんはすきだったと!左様なら。
 上記のように目的をもって志願した隊員もいれば、特攻による死を目的化している特攻隊員も居た。そのような特攻隊員は同盟国ナチスドイツのドイツ社会主義やドイツロマン主義から多大に影響されて、自分たちの死や日本の崩壊によって、資本主義を超克した、新しい平等な日本が誕生するという思想・信念を持っていたという。
 例:
 佐々木八郎(東京大学から学徒出陣、神風特別攻撃隊第1昭和隊として鬼界ヶ島東方海上で戦死)
 >なお旧資本主義態制の遺物の所々に残存するのを見逃すことはできない。急には払拭できぬほど根強いその力が戦敗を通じて叩きつぶされることでもあれば、かえって或いは禍を転じて福とするものであるかも知れない。フェニックスのように灰の中から立ち上がる新しいもの、我々は今それを求めている。
 と記した。この「フェニックス」という表現や、「復活の前提としての暴力的な死」というテーゼもドイツから輸入された概念であり、日本ロマン派(日本浪漫派)やロマン主義的知識人が多用している。
 これらの背景となった文化や思想は「死の崇拝」と呼ばれる。大日本帝国では、「死の崇拝」に伴って徳富蘇峰などが「勝利の死」というプロパガンダによって、戦争や自殺攻撃を推進していた。
 佐々木は、理系の技術者・専門家を羨望し、特攻任務を資本家による「搾取」と同一視してもいた。佐々木はゲーテの『ファウスト』に由来する有名なドイツ語を引用した上で、次のように記している。
 >Zwei Seelen wohnen Ach〔auch〕 in Mein Herz!!(ああ、我が心に宿る二つの魂!!) … 主計や軍令部付になるのは優秀な成績の者だと言われたり、才能もない輩が技術、医務課の用のために安全な所に残って、しかもチヤホヤされるのを見たりすると、我々の如きは彼等の以て名目とする“国家”のために最も危険な所に置かれるのであると思い、かつて労働者が資本家に搾取されるとして労働を厭うた如き気分に陥ることもあるのである。そして自分に航空適性があるといって張り切る如きは全く馬鹿の骨頂だ、うまく二乙、三乙に逃れ、主計、技術、医務等に残って身を全うする者こそ本当に利口なんだ、そう思うこともあるのである。
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 ウィキペディア
 神風特別攻撃隊(しんぷうとくべつこうげきたい、かみかぜとくべつこうげきたい、旧字体: 神󠄀風特別攻擊隊󠄁)は、第二次大戦で大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊。攻撃目標は艦船。略称は「神風」「神風特攻隊」。隊名の発案者・猪口力平によれば、「神風」の読みは音読みの「しんぷう」であるが、当時のニュース映画で訓読みの「かみかぜ」と読み上映したことでその読みが定着した他、アメリカ軍が神風を読み間違えて「カミガゼ」と呼んでいたので、戦後、カミガゼと連合国軍最高司令官総司令部GHQ)が統制したという。
 本土決戦に備えて白兵戦を想定した民間有志による「神風特攻後続隊」が昭和20年(1945年)に組織されたほか 、特攻全般を「神風」と呼称することもあるが、ここでは制度上の神風特別攻撃隊について述べる。

 連合軍による評価
 神風特別攻撃隊が編成されるまでの日本軍航空部隊は質、量ともに連合軍に圧倒されており、その評価も非常に低いものとなっていた。アメリカ軍公式の評価では「1944年夏までには日本軍は何処においてもアメリカ空軍に太刀打ちできないということが、日本空軍司令官らにも明らかになっていた。彼等の損失は壊滅的であったが、その成し遂げた成果は取るに足らないものであった。」と酷評されていたが、特攻により連合軍艦隊が大損害を被ると、その評価は一転し、戦争の先行きに大きな不安を抱くようになった。その与えた衝撃の大きさからか、特攻に対しては、軍の公式報告や記録や、軍高官から最前線の将兵からアメリカ合衆国大統領に至るまで多くの評価がなされており、それを列挙する。
 「(ウィンストン・チャーチルイギリス首相に対して)カミカゼが連合軍艦隊に与えている死傷者を懸念し、戦争の早期終結への期待が低下している。
   — フランクリン・ルーズベルト大統領」
 「日本人によって開発された唯一の、もっとも効果的な航空兵器は特攻機で、戦争末期の数か月間に、日本陸海軍の航空隊が連合軍艦艇に対して広範囲で使用した。
   — 米国戦略爆撃調査団」
 「アメリカにとって、カミカゼによって被った実際の損失は深刻あり、深刻な懸念を引き起こした。カミカゼに対抗するため、B-29の2,000回の出撃が、日本の都市や産業への戦略爆撃から九州の神風飛行場への攻撃に転用された。日本軍がより強力で集中的なカミカゼ攻撃を維持できていれば、アメリカ軍は撤退するか、戦略計画の修正を余儀なくされたかも知れない。
   — 米国戦略爆撃調査団」
 「(特攻開始によって)日本軍はアメリカ海軍がこれまでに遭遇したもっとも新しく、かつもっとも恐るべき問題を提起した。この捕捉し難い接近と自殺攻撃は、ジャップの狂信的精神のみならず、それよりはるかに危険なことには、(アメリカ海軍の)防空戦術やレーダーによる複雑な航空管制について完全に理解しているパイロットが(特攻に)志願していることだ。カミカゼに対するもっとも有効な対策は、日本軍がパイロット切れになることである。
   — アメリカ海軍諜報部」
 「特攻機がレーダーピケット艦を1隻ずつ狙い撃ちにしており、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、アメリカが投入可能な駆逐艦および護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある。
   — フォレスト・シャーマンアメリカ海軍作戦部長」
 「沖縄作戦は攻撃側にとってまことに高価なものであった。我が海軍が被った損害は、戦争中のどの海戦より遥かに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9,000名が死傷または行方不明になった。艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機の攻撃によって生じたものである。
   — チェスター・ニミッツ元帥」
 「(レイテ沖海戦で)神風特別攻撃隊が初めて本格的に姿を現した。この驚くべき出現は連合軍の海軍司令官たちをかなりの不安に陥れ、連合軍艦隊の艦艇が至るところで撃破された。空母群はこの非常に危険なカミカゼ攻撃に対抗するため、戦闘機を空母自体の防衛にまわさなければならず、そのためレイテの地上部隊の掩護には手が回らなくなっていた。
   — ダグラス・マッカーサー元帥」
 「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる。それは、安全な高度から効果のない爆撃を繰り返しているアメリカ陸軍の重爆撃機隊のやり方とはまったく対照的である。 私は長期的に見て、陸軍のゆっくりとした組織的な攻撃法をとるやり方の方が、実際に人命の犠牲を少なくなることになるかどうか、疑問に思っている。それは、同じ数の損害を長期間にわたって出すに過ぎないのである。特攻機がわが艦隊に対して絶えず攻撃を加えてくるものとすれば、長期になればなるほど海軍の損害は非常に増大する。しかし、私は陸軍が海軍の艦艇や人員の損耗について考慮しているとは思えない。
   — レイモンド・スプルーアンス提督」
 「(艦上戦闘機の増強を)緊急に要請します。特攻は、もし対抗しなければ、こちらの空母と貴官(ニミッツ)の将来の作戦にとって由々しき脅威であります。対抗するにはさらに多くの戦闘機が必要であり、定数を増やす以外に、さらなる戦闘機は見つかりません。
   — ウィリアム・ハルゼー提督」
 「我が艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。私には、あんなことはやれなかっただろう。
   — マルカム・ハーバード・マックガン大尉(護衛空母「サンガモン」所属の戦闘機パイロット)」
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