🎺31:─1──第二の真珠湾攻撃。日本海軍のオーストラリア・ダーウィン爆撃は失敗した。~No.149No.150No.151 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本海軍は、アメリカ軍とイギリス軍の暗号解読、軍事用レーダー(八木アンテナ使用)そして最先端軍事科学技術によって敗北した。
   ・   ・   ・   
 イギリス軍は、日本海軍機動部隊によるオーストラリア・ダーウィン奇襲攻撃を暗号解読で察知し、史上最強の日本海攻撃機部隊を迎え討っても勝てない事を自覚し、真珠湾の悲劇を避けるべく、ダーウィン港の軍艦と周辺飛行場の軍用機を安全地帯へ避難させ、同時に都市住民や非戦闘員を退避させた。
 日本海軍機動部隊は、オーストラリア・ダーウィン攻撃やセイロンのコロンボ空襲は空振りに終わりイギリス東洋艦隊の撃滅に失敗した。
   ・   ・   ・   
 日本軍によるオーストラリア・ダーウィン爆撃と米豪南太平洋輸送路破壊。
   ・   ・   ・   
 2021年3月号 WiLL「空振りだったオーストラリア
 ダーウィン攻撃
 真珠湾攻撃とは別の、知られざる空襲爆撃
 有馬哲夫
 第二の真珠湾攻撃
 毎年2月19日になると、オーストラリアのメディアは一斉にダーウィン(オーストラリア北西部の港湾都市)爆撃について報じる。日本のメディアが8月6日に広島への原爆投下を報じるのと似ている。ただし、後に詳述するように、被害の規模と犠牲者の数はまったく違っている。
 日本人のほとんどはダーウィン爆撃も、日本軍がオーストラリア本土をおよそ100回も爆撃していたということも知らない。戦争といえば、日本の都市がアメリカ軍によって、執拗に爆撃されたことばかり聞かされているので、逆に連合国の一つであるオーストラリアの本土を、繰り返し爆撃していたと聞かされると驚く。
 そこで、オーストラリアで『第二の真珠湾攻撃』と呼ばれるダーウィン爆撃とはどんなものだったのか、その後になにが起こったのか、オーストラリア人はそれをどう受け止めているのかを明らかにしよう。
 真珠湾攻撃のおよそ2ヵ月後の1942年2月19日、午前8時45分、南雲忠一中将率いる第1航空艦隊の空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍から発進した水平爆撃機81機、急降下爆撃機71機、戦闘機36機計188機の第一波の攻撃部隊が9時58分にダーウィン港とその周辺に到達し、攻撃を開始した。
 オーストラリア政府の被害報告書『……1942』(オーストラリア国立公文書館所蔵、ウィキペディアの記述と多少違いがある)によれば、これによって、アメリカ海軍の駆逐艦ピアリー、哨戒艇マヴィなどの軍艦、メイグス、ネプチューン、バロッサ、ポート・マー、ジーランディア、マウナロアなどの旅客船・商船、ブリティッシュ・モータリストなどのタンカーなどが次々と大破、沈没し、港湾施設および石油タンクが破壊された。
 攻撃隊はダーウィン・オーストラリア空軍基地にも集中攻撃を行い、オーストラリア空軍所属のハドソン爆撃機6機地上大破、1機地上損壊、ウィラウェイ航空機1機地上損壊、アメリカ空軍所属P40戦闘機8機撃墜、2機地上損壊、B24爆撃機1機地上損壊、P40戦闘機1機撃墜という戦果をあげた。
 そのほか市街地でも政府庁舎、郵便局、警察署。警察官宿舎などを爆撃によって灰燼(かいじん)に帰した。被害報告書は『急降下爆撃の精度がきわめて高かった』としている。
 午前11時55分から始まった第二波の攻撃は、セレベス島ケンダリー基地とアンボン島のアンボン基地から発進した27機の96式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機27機計54機の基地航空部隊によるもので、第一波攻撃の仕上げとして、ダーウィン港湾設備、ダーウィン空軍基地の滑走路、水道タンク、送油管などを徹底的に破壊し、鉄道にも大きな被害を与えた。
 これに、第一級の攻撃隊がダーウィンに向かう途中で撃墜したカナリア飛行艇ダーウィンからの帰投途中で撃沈した商船ドン・イシドロ、フローレンス・ディを加えなければならない。死者は第一波、第二波合計で243人だった。
 空振りの作戦
 この作戦で出撃した4隻の空母は真珠湾攻撃にも参加していた。そして、艦隊の指揮官は真珠湾攻撃でも指揮をとった南雲であり、第一波の攻撃隊の指揮官も淵田美津雄だった。オーストラリアで『第二の真珠湾攻撃』と呼ばれるゆえんである。
 たしかに、空母4隻、重巡洋艦軽巡洋艦各1隻、駆逐艦7隻、潜水艦3隻、航空機242機が参加したこのダーウィン爆撃は、真珠湾攻撃以降で最大級の作戦だった。
 日本軍の基地航空部隊がイギリス東洋艦隊の巡洋艦レパルスと戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈したマレー沖海戦でさえ、数次にわたる攻撃に延べ96式陸上攻撃機56機、一式陸上攻撃機26機が参加しただけだったのだから、そういっていいだろう。
 だが、戦果という点から見ると、めぼしいものは巡洋艦1隻ほどで、あとは貨客船や商船、タンカーなど一般船舶だ。港湾施設、石油施設、通信局、鉄道施設を破壊し、軍港と空軍基地をしばらくの間、無力化したのはよしとしても、あまりさえない。
 真珠湾攻撃では、戦艦アリゾナオクラホマウェストバージニア、カリフォルニア、ネヴァダ計5隻撃沈、戦艦テネシー、メリーランド、ペンシルベニア巡洋艦ローリー、ヘレナ、ホノルル、駆逐艦ショー、ダウンズ、カッシン、ドビン計10隻大破または損傷、その他の艦船3隻撃沈ないし大破、航空機188機破壊、戦死・行方不明2,300人超の赫々(かくかく)たる戦果をあげただだけに、物足りない。ある意味『空振り』だった。これはなぜなのだろう。
 連合国軍、つまりアメリカ軍、イギリス軍、オーストラリア軍、オランダ軍は、すでに日本陸軍と海軍の暗号電報を解読していた。本誌2020年1月号にも書いたが、実はレパルスとプリンス・オブ・ウェールズが日本軍の基地航空隊に攻撃されたときも、イギリス軍は日本軍の暗号電報を解読し、数時間前に両艦に警告していた。
 この暗号解読に携わったFECB(イギリス合同通信局)にいたのが『真珠湾の裏切り』(文藝春秋)で、日本海軍の暗号(JN・25)を解読し、真珠湾攻撃を察知したと主張しているエリック・ネイヴだ。このネイヴの本属はSIB(オーストラリア軍特殊情報局)だった。したがって、オーストラリア軍も、英豪と共同作戦を行っているアメリカ軍とオランダ軍も、暗号解読による情報を共有していたと見るべきだろう。
 解読されていた暗号
 では、暗号電報が解読されていて、連合国軍の艦船は爆撃を事前に知っていて避難していたのだろうか。もちろんそれもあっただろうが、暗号解読以前に、真珠湾が攻撃され、レパルスとプリンス・オブ・ウェールズが撃沈されたあとなので、ダーウィン爆撃は想定内だった。その証拠に、かなり前から、学童、老人、一般女性は避難していた。
 1月24日にオランダ領のアンボンが蒼龍の空母部隊によって爆撃されたからは、ダーウィン爆撃は時間の問題だと見られていた。
 したがって、むしろ問われなければならないのは、むしろ空母4隻からなる大艦隊に加え、ケンダリーとアンボンの基地航空部隊まで動員して、実質的に『もぬけのから』のダーウィンを攻撃したのかということだ。それは偵察ミスによるものだった。
 アンボン制圧のあと、日本軍はここから2月10日に偵察機を飛ばし、ダーウィンの航空写真などを撮って情報収集した。その分析によれば、ダーウィン港には空母1隻、巡洋艦5隻、商船20隻が停泊し、空軍基地には航空機30機が駐機しているとのことだった。だから、前述のような大部隊を繰り出したのだ。
 実際は、空母は1隻もおらず、、巡洋艦も2隻だった。日本軍の偵察機は商船やタンカー、旅客船と空母や巡洋艦を見間違えたのだろう。その2隻いたアメリカ海軍の巡洋艦ヒューストンと駆逐艦ピアリーも、日本軍による攻撃の前にダーウィン港を出航していた。ところが、ピアリーだけがなぜか途中で引き返してきて、ダーウィン港で撃沈された。もっとこまめに偵察を行っていれば、このような『空振り』はなかったろう。オーストラリアでは『第二の真珠湾攻撃』といわれながらも、日本側ではほとんど記憶されてこなかったのはこのような理由によるのだる。
 このあと、2月27日のスラバヤ沖海戦において重巡洋艦羽黒、那智および軽巡洋艦各2隻、駆逐艦14隻からなる日本海軍の第三艦隊が、オランダ海軍の軽巡洋艦デ・ロイテルとジャワ、駆逐艦コルテノールイギリス海軍駆逐艦エレクトラを撃沈している。ダーウィン港から逃れたヒューストンも3月1日のバタビア沖海戦で、オーストラリア海軍の巡洋艦パースと共に日本海軍南遣船隊の重巡洋艦三隈、最上によって仕留められている。暗号が解読されていたにもかかわず、この時期の日本と連合国の艦隊戦は日本側の連戦連勝だった。日本軍はダーウィンであげられんなかった戦果を艦隊戦による圧勝によって達成し、しばらくの間この海域の制海権を握ることに成功した。
 この状況が変わるのは、同年6月5日のミッドウェー海戦のあとである。この海戦にも、ダーウィン爆撃のときと同じく赤城、加賀、蒼龍、飛龍が出撃し、指揮官も南雲で淵田も参加していた。そして、やはり、暗号解読によって攻撃を察知され、索敵ミスによって、今度は大敗北を喫した。
 ある種の試練
 ところで、オーストラリア人はこのダーウィン爆撃のこと、およそ100回に及ぶオーストラリア本土爆撃のことをどう思っているのだろうか。最近中国との関係悪化から、日本に接近する姿勢が顕著なだけに気になるところだ。それを知るのに絶好の映画がある。そのタイトルもまさしく『オーストラリア』(2008年/バズ・ラーマン監督)という。
 ニコール・キッドマンヒュー・ジャックマンが共演した作品で、オーストラリアとはどんな国で、オーストラリア人とはどういう人々かがわかる。この映画のクライマックスがダーウィン爆撃になっている。欧米映画では日本軍は邪悪で残虐で、観客の憎悪の対象となるのが常だが、この作品では必ずしもそうではない。キッドマン扮するイギリス人農場主から農場と牛を奪おうとする敵役の別のオーストラリア人大農場主に観客の怒りと憎しみが集中し、ダーウィン爆撃は、むしろ主人公とその恋人がその試練を乗り越えることによって固く結びつくきっかけになっている。
 私は1年ほどシドニーで暮らしたが、オーストラリア人はダーウィン爆撃、および先の戦争の受け止め方も、概ねこの女主人公とおなじであるように思う。つまり、同胞がこの攻撃によって亡くなったが、それはオーストラリア人としての意識と結束を高めるある種の試練のようなものだったということだ。
 少なくとも、アメリカ人のように、卑怯なだまし討ちだとは感じていないように思う。また、中国人のように大虐殺だとかというとらえ方もしていないようだ。
 実際、日本軍の攻撃は、宣戦布告後で、だまし討ちではなく、虐殺もなく、被害も死傷者も真珠湾攻撃に較(くら)べればからり少なかった。日本軍の捕虜となったオーストラリア人、およびその親戚と知人は、今でも虐待に対する怒りと恨みを口にするが、それ以外の人は、だいたい映画の女主人公と同じように、ダーウィン爆撃、そして日本との戦争を受け止めていると感じた。
 オーストラリアのメディアはダーウィン爆撃を報じるが、最近は、戦争の記憶を蘇らせるものではるが、日本に対する憎しみを掻(か)き立てるものではないように思う。
 クライヴ・ハミルトンのベストセラー『目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画』(飛鳥新社)を読んでもわかるように、近年、オーストラリアは中国による『静かな侵略』(土地、インフラ、商業施設、議員、閣僚の買収)を受けている。日本国内においても、尖閣諸島よりもはるかに深刻な『静かな侵略』が進行している。
 このため、私の知る限り、オーストラリア人は日本人に対して最近極めて強いシンパシーを感じている。日本とオーストラリアは、手を携えて、未来のために過去を乗り越えていかなければならない。」
   ・   ・   ・   
 2017年5月号 正論「ダーウィンの海に眠る祖父たちよ
 日豪の絆を結んだ英霊顕彰  伊藤理恵
 前の大戦で、豪ポート・ダーウィンは、ラバウル方面に対する後方基地として存在価値が非常に大きく、連合軍による(元)蘭印(インドネシア)などへの攻撃に使用される可能性が高かった。ポート・ダーウィン閉鎖をめざし、1942年初頭より旧日本海軍の潜水艦による艦艇や給油艦などへの攻撃が始まり、2月19日より旧日本陸海軍の戦闘機、爆撃機による攻撃が始まった。その後、旧日本海軍は1943年11月12日まで計77回(豪退役軍人の歴史研究家トム・ルイス氏調べによる。日本側の記録では64回、豪側の記録では200回以上とされている)、ポート・ダーウィン周辺の軍事施設・軍用兵器類だけでなく、港湾、民間管理の飛行場、鉄道、燃料タンクなどの戦時の補給線であるインフラストラクチャーなどを空爆した。豪側では軍属だけでなく、非軍属の労働者らも多数被害に遭った。とくに1942年2月19日に行われた最初の空爆は最大規模で、旧日本海軍航空母艦4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)から爆撃機54機、戦闘機188機が発進し、真珠湾攻撃時を上回る数の爆弾を投下するなどして、豪艦艇のみならず米海軍の駆逐艦など計11隻を撃沈・破壊。豪側では、一般市民を含む243名が死亡。400名近くが負傷する被害がでた。
 一方、日本側も、約2年に及ぶダーウィン攻撃で、62機が撃墜され、186名の搭乗員が命を落とした。ルイス氏によれば、そのほとんどがダーウィン北部の海域と森林の人知れぬ場所に眠りについているという。また、1942年1月20日には、ダーウィン近海に機雷27個を敷設した伊第124号潜水艦(以下、イ124号)がポート・ダーウィンに向かっていた米給油艦に攻撃をしかけたが、豪掃海艇デロレインに発見され、米駆逐艦エドサル、アルデンも加わった爆雷攻撃で沈没。今も艦とともに、第9潜水隊司令の遠藤敬男中佐、岸上幸一艦長を含む全乗員80名が眠っている。
 戦死した祖父のもとへ──祖母に願い
 ……」
   ・   ・   ・   
 アメリカとイギリスは、1940年頃から日本の外務省と海軍の暗号電報を解読して、日本軍が宣戦布告と同時に騙し討ち=奇襲(攻撃場所は特定できず)してくる事も、東條英機と軍国日本が戦争回避の為に和平交渉成立を望んでいる事も、昭和天皇と軍国日本がソ連参戦と原爆投下実験前に早期降伏を希望している事も、その他多くの日本情報を暗号電報解読で知っていた。
 軍国日本、日本軍は、実戦以前の情報戦で完敗していた。
 日本軍の攻撃を知っていたからこそ、アメリカ軍とイギリス軍はアジア・太平洋の軍事基地に対して軍隊の増派と基地の防衛を強化して日本軍撃退態勢を完了させていた。
 つまり、日本はアメリカ・イギリスの掌の上で踊らされ、軍国日本が夥しい犠牲者を出し敗北する事は開戦前から分かっていた事である。
 軍国日本は、暗号電報解読と国内外の連合国への情報提供者によつて多くの情報が知られているのも知らずに、勝てないと分かっている戦争を続けた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 ダーウィン空襲
 1942年2月19日、オーストラリア史上で最大規模の他国勢力による攻撃が行われた。後にダーウィン空襲 (英語: The Bombing of Darwin)、別名ダーウィンの戦い (英語: The Battle of Darwin)として知られる。同日、計242機の日本軍機が2回に分けてダーウィン湾の市街地、艦船そして市街地付近に建設された2つの飛行場を攻撃した。攻撃は第二次世界大戦中に日本軍のティモール、ジャワ島侵攻を阻止しようとする連合国軍がダーウィンの飛行場を基地とするのを妨害する目的で行われた。
 ダーウィンは攻撃の規模に比べると防備が軽く、日本軍はほとんど損害を被らずに連合国に重大な被害を与えた。ダーウィンの都市部も空襲により被害を受け、非戦闘員の死者も多数出た。攻撃の直後に、ダーウィンの非軍属市民の半分以上が完全に街を離れた[5]。この時に日本軍が行った2回の空襲は、1942年から43年にかけて100回以上日本がオーストラリア軍に対して行った空襲のうち、一番早く、かつ大規模に行われたものであった。
  ・  ・  
 日本のオーストラリア空襲は、第二次世界大戦中の1942年2月から翌1943年11月までの期間にわたり、連合国の一国であるオーストラリア本土、地域の主要空域、周辺諸島、沿岸輸送ラインの船舶に対し、大日本帝国海軍および大日本帝国陸軍の航空機により行われた一連の空襲の事を指す。
 概要
 ブリスベン市内の防空シェルター(1945年)
 オーストラリア本土は、第二次世界大戦中に日本軍機により少なくとも97回の攻撃をうけた。最初でかつ最も大規模だったのは1942年2月19日朝の空襲で、ダーウィンは242機の艦載機に攻撃され、少なくとも243人が死亡し、甚大な被害が生じ、数百人の人々が住宅を失った。ポート・ダーウィンはこのために海軍の主要基地としての機能を完全に喪失した。
 これらの攻撃に対し、王立オーストラリア空軍(RAAF)、オーストラリア陸軍、王立オーストラリア海軍、アメリカ陸軍航空軍、アメリカ海軍、英国王立空軍(RAF)、オーストラリアに逃亡したオランダ王立東インド空軍が反撃を行ったほか、ブリスベンをはじめとした都市部では防空シェルターの整備が行われた。
 また日本軍の上陸が予想されたことから、オーストラリア政府と軍により沿岸の警備や海岸線への地雷の埋設、避難訓練が行われたほか、学童疎開の実施も検討された。
 これらの攻撃により、死者は400人以上、負傷者1,000人以上が出たとされ、さらに日本軍は軍事施設や軍用兵器類だけではなく、港湾や民間管理の飛行場、鉄道や燃料タンクといった戦時の補給線であるインフラストラクチャーも攻撃目標とした。このためこれらの施設に勤務する、もしくは近隣に在住する多くの非軍属の労働者らも被害に遭った。最後の空襲は1943年11月であった。
   ・   ・   ・   
 名古屋学院大学論集 社会科学篇 第 53 巻 第 3 号 pp. 189―201
 ― 189 ―
 飯 島 滋 明
 名古屋学院大学経済学部
 〔資料〕
 Shigeaki IIJIMA
 Faculty of Economics
 Nagoya Gakuin University
 発行日 2017年1月31日
 「ダーウィン」からなにを読み解くか
 第1章:はじめに
 私はかつてから「ダーウィン」という地にも関心を持っていた。というのも,1942年2月19日,日本軍はダーウィンを空襲したが,その記憶を呼び起こす展示物などがダーウィンのいたる所に存在すると聞いたことがあるからだ。そのために反日感情が完全におさまっているわけでもなく,2007年にダーウィンで日本人が卵を投げつけられたという話も聞いたこともある。毎年2月19日にはダーウィンで空襲式典が開催されているとも聞いた。
 話は変わるが,日本国憲法では「国際協調主義」が基本原理とされている(憲法前文,98条2項)。「国際協調主義」については,かつて私は「世界平和の実現のために,日本が積極的な役割を果たすこと」とともに,「かつての日本のような独善的な態度を改め,他国のことを尊重しながら国際社会で行動すること」と紹介したことがある1)。後半の部分については,憲法前文では「いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という文言で示されている。たとえ歴史の中で悲惨な出来事があったとしても,そうした悲惨な歴史に真摯に向き合うのでなければ「自国のことのみに専念して他国を無視」することになりかねない。ひいては外国との間に真の信頼関係を築くことへの支障となる。憲法前文にある,「国際社会において名誉ある地位」を占めることもできなくなる。それでは憲法の基本原理である「国際協調主義」の実践に水を差すことになる。そこで本稿ではダーウィンの地で窺うことができる,日本とオーストラリアの歴史を直視し,そこからどのような教訓を引き出すべきなのかを考えてみたいと思う。
   ・   ・   ・