🎹07:─4─海の八甲田山「美保関沖事件」。駆逐艦「蕨」沈没で119人死亡。昭和2(1927)年。~No.26No.27 ④ 

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 2021年1月27日 産経新聞「「「海の八甲田山」沈没軍艦を確認 語り継ぐべき昭和
 水深約100メートルの日本海で水中ドローンが捉えた駆逐艦「蕨」の船体(九州大学浅海底フロンティア研究センター、World scan Project提供)
 旧日本海軍連合艦隊が昭和2(1927)年に行った夜間無灯火演習で多重衝突事故に遭い、沈没した駆逐艦「蕨(わらび)」の船体が昨年夏、鳥取県赤碕沖=島根半島・美保関(みほのせき)沖=の水深約100メートルの日本海で93年ぶりに確認された。119人が犠牲になったこの事故は「美保関沖事件」ともいわれ、過酷な訓練過程で発生したことなどから、明治35年に陸軍将兵199人が犠牲となった八甲田山雪中行軍遭難事故になぞらえて「海の八甲田山」とも呼ばれる。船体発見を受け、同事件慰霊の会は船体の近くに「水中記念碑」(慰霊碑)を設置する構想を進めている。」から94年 沈没駆逐艦の後部も発見
 海の八甲田山-。昭和2(1927)年、松江市の美保関沖で行われた旧日本海軍連合艦隊の無灯火演習は過酷な気象条件の下、119人が死亡する惨事となった。旧陸軍の遭難事故になぞらえ、そう呼ばれる海難事故で沈没・大破した駆逐艦2隻の船体とみられる残骸が今夏、水深185メートルの日本海で確認された。この現場から約10キロ離れた海域では昨年も船体の一部が確認されており、事故を語り継いでいる民間団体は2つの海域に慰霊碑を投入する計画を打ち出した。事故から94年、世代をつないで念願してきた慰霊がようやく実現する。
 船体画像ぴったり一つに
 「マルチビーム(音響測深)データで捉えた画像を重ね合わせると、この通り、船体が一つになる」
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 6月4日 産経新聞「沈没した駆逐艦「蕨」の後部、有力情報基に近く捜索
 水深約100メートルの日本海で、水中ドローンが捉えた駆逐艦「蕨」の船体前部=令和2年9月(九州大浅海底フロンティア研究センター、World scan Project提供)
 昭和2(1927)年に美保関沖(松江市)の日本海で起きた、119人が死亡した旧日本海軍連合艦隊の多重衝突事故「美保関沖事件」で、巡洋艦に衝突され沈没した駆逐艦「蕨(わらび)」の船体後部の沈没地点に関する有力な情報を、同事件慰霊の会(松下薫会長)が入手し近く現地調査を行うことが3日、同会への取材でわかった。蕨は衝突を受け真っ二つになって沈没。船体前部は昨年9月、93年ぶりに確認されている。
 同会は船体前部の確認を受けて、沈没海域に水中慰霊碑を設置(海中投下)する計画を打ち出しており、船体後部の現地調査とともに慰霊碑投下に向けた事前調査を行う。
 船体後部が沈んでいる可能性がある水域は、昨年船体前部が見つかった地点(美保関の地蔵崎から北東約33キロ)から北北西に約10キロ離れた水深約180メートルの海域。平成18年に行われた調査で漁船のソナーにより何らかの水中構造物の存在が探知されていた。場所の特定ができていなかったが、当時現場に赴いた船が判明し位置を聞き取った。
 計画では10、11の両日を調査予定日とし、天候状況などを見極めていずれかの日に昨年の船体確認にも立ち会った島根大3年の大原圭太郎さん(23)=鳥取県米子市=ら会員2人を含む6人が現地に赴く。
 同会によると、今月末から7月中旬にかけて、昨年船体前部を水中ドローンで確認した、九州大浅海底フロンティア研究センターが船体後部の調査を予定しており、今回の調査結果はその参考資料になるという。大原さんは「座標が示す海域は事件当時、海軍が蕨の沈没地点として資料に記している場所に近い」と話し、船体確認に期待を募らせている。」
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 8月16日08:00 産経新聞「「海の八甲田山」から94年 沈没駆逐艦の後部も発見
 松田 則章 有料会員記事
 駆逐艦「蕨」。美保関沖事件で真っ二つになり沈没した(資料提供:大和ミュージアム
 海の八甲田山-。昭和2(1927)年、松江市の美保関沖で行われた旧日本海軍連合艦隊の無灯火演習は過酷な気象条件の下、119人が死亡する惨事となった。旧陸軍の遭難事故になぞらえ、そう呼ばれる海難事故で沈没・大破した駆逐艦2隻の船体とみられる残骸が今夏、水深185メートルの日本海で確認された。この現場から約10キロ離れた海域では昨年も船体の一部が確認されており、事故を語り継いでいる民間団体は2つの海域に慰霊碑を投入する計画を打ち出した。事故から94年、世代をつないで念願してきた慰霊がようやく実現する。
 船体画像ぴったり一つに
 「マルチビーム(音響測深)データで捉えた画像を重ね合わせると、この通り、船体が一つになる」・・・」
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 8月16日12時22分 NHK NEWS WEB 島根 NEWS WEB「松江市沖で船の残骸発見 90年以上前の事故で沈没の駆逐艦
 90年以上前、松江市の沖合で旧日本海軍の軍艦どうしが衝突した事故の現場付近の海底で、船の残骸が見つかりました。
 この事故を調査しているグループでは、船体に備え付けられた大砲の形状などから、駆逐艦の一部である可能性が高いとしています。
 この事故は昭和2年8月24日、松江市美保関町沖の日本海で、旧日本海軍連合艦隊の軍艦4隻が訓練中に衝突して119人が亡くなったもので、「美保関事件」と呼ばれています。
 事故について調べている地元住民や九州大学などのグループは、先月、現場付近で調査を行い、深さおよそ180メートルの海底で船の残骸を発見しました。
 水中カメラの映像には船上に備え付けられた大砲が捉えられていて、グループでは台座の形状や船体の大きさなどから、駆逐艦「蕨」の後ろ側の部分である可能性が高いとしています。
 この事件をめぐっては、去年9月にも今回発見した場所から南東およそ10キロの地点で、「蕨」の前側の部分とみられる残骸が見つかっています。
 グループの中心メンバーで島根大学の学生の大原圭太郎さんは「当時の状況を知る手がかりになる。戦前に何があったか調べることは、戦争に至る過程を理解する上でも役立つと思う」と話しています。」
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 東郷平八郎は、アメリカとキリスト教宣教師の子供らの毒牙にかかって滅亡させられたハワイ王国の悲劇を目の当たりにした為に、天皇制度国家日本をアメリカとキリスト教勢力の陰謀から守るべく、日本海軍をアメリカ海軍との海戦で勝利できる艦隊にするべく育てていた。
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 昔の日本人は、現代の日本人とは違って戦争が身近にあった為に、国民=臣民の義務として赤紙召集令状)が来れば戦場に赴き天皇と国家、民族と家族を守る為に戦って死ぬ事を覚悟し、今この時・この瞬間を真剣に、怠りなく、精一杯、後悔しないように生きていた。
 生死に対する意気込みにおいて、現代の日本人と昔の日本人とでは別人のように違う日本人であった。
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 8月13日 YAHOO!JAPANニュース 山陰放送「23歳の若者が挑む「美保関事件」 戦争の記憶伝えたい…海底に沈む駆逐艦「蕨」
 今から94年前、島根県松江市の美保関沖で旧日本海軍艦艇が多重衝突を起こし、119人が死亡する未曽有の大事件が起きました。「美保関事件」です。
 この事件の調査に挑んだのは23歳の若者。初めて海底185メートルに眠る沈没船の撮影に成功しました。
 日本海の底を目指し、深く深く進んでいく水中ドローン。
 およそ100メートルの海底に眠っていたのは、朽ち果て、魚たちの住処となった船の残骸。昭和の初めに沈没した駆逐艦「蕨」です。
 日本が戦争へと突き進む中、無謀な訓練が引き起こした事件。その調査に挑む大きなプロジェクトの中心にいるのが大原圭太郎さん。23歳の若者です。
 大原さんは島根大学の3年生。美保関沖事件慰霊の会の一員として事件の研究を続けてきました。
 大原圭太郎さん
 「県内の別の戦争を調べていたときに、美保関沖事件慰霊の会の方々と出会って、地元の歴史を残していこうと、次の世代に伝えていこうという活動を知って、自分が何か協力することができないかと思ったのがきっかけです」
 事件が起きたのは1927年8月24日の夜。無灯火で行われた夜間演習のなか、駆逐艦「蕨」に巡洋艦「神通」が衝突したのです。
 真っ二つになった「蕨」は沈没。また、巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」も衝突を起こし「葦」は船体後部が大破しました。「蕨」と「葦」の乗組員119人が死亡する未曽有の大事件となったのです。
 事件の背景には、その5年前に締結されたワシントン海軍軍縮条約がありました。アメリカ、イギリス、日本の主力戦艦の保有比率が5:5:3と定められ、戦艦を減らされた日本海軍は、削減の対象になっていない小型軍艦の機動力で巻き返そうとしていました。夜、明かりを消し、敵に密かに近づいて攻撃するという無謀な演習プランが大惨事を引き起こしたのです。
 美保関事件は、軍事上の秘密から詳しい事故の状況や原因などを知ることは困難で、謎に包まれたまま話題にのぼることもなくなり、事件があったことさえ忘れ去られようとしていました。
 「蕨」の船体前部は去年9月に発見されましたが、真っ二つになった後ろ半分はまだ見つかっていませんでした。
 大原さんが目指すのは「蕨」の船体後部の発見。大原さんの力になろうと、九州大学浅海底フロンティアセンターやワールドスキャンプロジェクトのメンバーなど海中探査の精鋭たちが集結しました。大原さんの熱意に惚れ、調査で使う船や船長を無償で提供する人も現れました。
 JOY MARINE 大原章さん
 「やっぱり彼の純粋さじゃないでしょうかね。大人たちから見て、これだけ純粋に物事に興味を持ってエネルギーを注ぐっていう彼の姿。これは人を惹きつけますよ」
 7月22日、水中調査に向けて船が出航しました。
 「蕨」の船体後部が沈んでいるとみられる場所は、島根県松江市沖およそ37キロ。
前の半分が見つかった場所から10キロも離れていますが、大原さんが地元の漁師などから情報を集め、位置を特定。マルチビーム調査でも仮説を裏付ける結果が出ました。
 調査に協力した九州大学浅海底フロンティアセンター 菅浩伸 教授
 「蕨の船体後方部と同じく、沈んだ葦の船体後方部だとみています。そのうち、こちら側が蕨の船体後部の可能性が高い。その船尾に船をつけて水中ドローンを潜行させようと考えています」
 「蕨」が眠っているとみられるのは、深さ185メートルの海底。水中ドローンを海中に沈めます。
 「50メートル!・・・100メートルいきました!」水深100メートルを超えると、地上の光はもう届きません。
 「海底についた・・・船ですね!」画面に映るのは沈没船のように見えます。
かなりボロボロになっているのが分かりますが、これは「蕨」なのでしょうか…
 その日の夜、調査の検討会が開かれました。水中ドローンで撮影された映像を確認すると、沈没船のようなものには多くの漁網が絡まり、かなり劣化が進んでいました。筒のような構造物が確認できますが、これは「砲塔」でしょうか。
 大原圭太郎さん
 「昨年度、鳥取市のアサヒコンサルタント様に撮っていただいたマルチビームのデータと今回のマルチビームのデータ2つを合わせると、蕨の全長と全く同じ長さになり、両者の幅も形状も同じで、かなり自然な船の形になります」
 船体の衝突箇所の形状や、砲塔の位置、砲台の形状などからも「蕨」だと断定されました。
 調査に協力した水中考古学者 山舩晃太郎さん
 「広島の原爆ドーム、これがあるのとないのでは大きな違いがあります。そこに実際に事件のものがあったというのを、次の世代に伝えなければいけない。私たちは100年後に向けてやっているので、100年後これを残すことができれば」
 今も海底には多くの兵士が眠っています。
 大原圭太郎さん
 「この地域にとっては美保関事件というのが、時代が変わっても伝えていきたいものなんじゃないかと思っていて、若い人が何か興味を持って行動すれば、新しくできることが結構あるんじゃないかと思っています。今回の調査をきっかけにして、発展的に次につながればと思っています」
 大原さんも参加する美保関沖事件慰霊の会では、海底の「蕨」の船体付近に慰霊碑を沈めることを目指しています。」
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 ウィキペディア
 美保関事件(みほのせきじけん)とは、1927年(昭和2年)8月24日に大日本帝国海軍で夜間演習中に起こった艦艇の多重衝突事故である。美保関沖事件、美保ヶ関事件ともいう。
 概要
 日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約(大正10年11月締結)の結果として保有主力艦艇の総排水量を制限された。連合艦隊司令長官加藤寛治大将は東郷平八郎元帥から激励された「訓練に制限無し」を掛け声として、1926年(大正15年)11月以来、猛訓練と個艦優秀主義によって戦力の劣勢を補おうとした。
 翌1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖での徹夜の夜間無灯火演習中に川内型軽巡洋艦2番艦「神通」(第五戦隊3番艦。神通艦長水城圭次大佐)と駆逐艦「蕨」(第一水雷戦隊、第27駆逐隊。蕨駆逐艦長五十嵐恵少佐)が衝突事故を起こし、「神通」は艦首を喪失して大破、「蕨」は沈没した。 このとき「神通」を避けようとした後続の川内型3番艦「那珂」(第五戦隊4番艦。那珂艦長三戸基介大佐)も駆逐艦「葦」(第一水雷戦隊、第27駆逐隊。葦駆逐艦長須賀彦次郎少佐)に衝突、両艦も大破した。一連の経緯により、事故発生時の神通艦長水城圭次大佐は自決した。
 これを美保関事件と称する。
 処分
 海軍省法務局は業務上過失・艦船覆没・業務上過失致死罪で、事故発生時の神通艦長水城圭次海軍大佐を起訴、横須賀鎮守府軍法会議(判士長立野徳治郎海軍少将)が審問したが、水城大佐は判決前日の12月26日に自宅で自決。告別式は12月28日に水交社で行われた。この時、伏見宮博恭王(当時、軍事参事官)は鈴木貫太郎軍令部総長岡田啓介海軍大臣の反対(御付武官の差遣が妥当との意見)を押し切り、通常礼装で告別式に赴いて拝礼、遺族を感激させた。 海軍省は特旨により水城の海軍少将進級を計画したが、遺族が辞退したために日の目を見なかった。ただし、海軍有志の手により水城の慰霊碑が建立されている。 なお水城自決の一報をアメリカ滞在中に聴いた山本五十六大佐は、三和義勇補佐官が「死んでも仕方がない」と発言したことに対し、「死をもって責に任ずるということは我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ人の長としてもお勤めができる」と厳しく叱責した。
 最大の責任者とみなされていた水城大佐が自決したことで、事件当時第27駆逐隊司令の倉田弘保中佐が責任を追及されることになった。1928年(昭和3年)3月13日、倉田は謹慎60日処分を言い渡されたが、発令直前に取り消しとなり、大佐進級後に除隊した。
 過重な訓練を課した加藤寛治連合艦隊司令長官や高橋三吉連合艦隊参謀長は責任を問われなかった。また批難や抗議に対し高橋三吉参謀長が「訓練を緩めましょうか」と進言すると、加藤長官は「いくら世間から攻撃非難あるも構はん、やれやれ。年度の始めに訓示した通りの決意に変りはない。米国には勝たねばならぬのだ」と答え、引き続き猛訓練を行う決意を示したという。
 1935年(昭和10年)頃、海軍部内に「加藤寛治を元帥にしよう」という署名活動があった(当時の連合艦隊司令長官は高橋三吉大将)。第二艦隊司令長官米内光政中将は麾下の重巡洋艦摩耶艦長だった小沢治三郎大佐を招き、署名活動についての意見を聞く。小沢(摩耶艦長)は「軍人が署名活動なんてとんでもない」「加藤大将は美保ヶ関事件の責任者であり、あの時責任を取らねばならぬ人物だった」と返答している。同年末、加藤は現役を引退して予備役となった。
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