🎵10:─2─樺太・千島交換条約は日露戦争で日本に勝利をもたらした。明治8(1875)年~No.21 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川幕府とロシアによる樺太国境画定交渉は不調に終り、樺太はこれまで通り混在地とされた(日露間樺太島仮規則)。ロシアは大量の移民を樺太に送り込み、日本人、ロシア人、アイヌ人の三者間の摩擦が増えて不穏な情勢になった。
 明治新政府は、ロシア人暴力事件として深刻に受けと受け止め、ロシアとの紛争から戦争に発展させない為に平和的交渉を始めた。
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 明治新政府が、旧幕臣榎本武揚らが作った蝦夷共和国を武力で鎮圧したのは正しかった。
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 明治6(1873)年 征韓論政変(明治6年政変)。
 明治維新とは、超大国ロシアの軍事的日本侵略から神国日本・現人神天皇日本民族を守る為に近代的軍国主義国家への選択であった。
 大久保利通岩倉具視らは、征韓論で朝鮮との戦争が勃発すれば、ロシアと清国(中国)が漁夫の利を得る為に朝鮮に味方して介入する事を警戒した。
 明治新政府には、朝鮮・清国(中国)・ロシアの三国を敵にして日本を守る軍事力はなかった。
 明治天皇は、内治優先派の西郷派遣延期論を採用して好戦的対朝鮮強硬派の即時派遣論を退けた。
 明治7(1874)年 台湾出兵。清国は、日本に「台湾は化外の地(けがいのち)」と答え、日本との戦争を避ける為に日本の台湾出兵に対して軍事行動を起こさない事をほのめかした。
 明治12(1879)年 琉球処分沖縄県設置。清国は、琉球の親清国派(親中国派)の援軍要請を無視して見殺しにした。
 琉球王国は、朝鮮王国とは違って清国を宗主国とは認めず、従属国・保護国に甘んじてはいなかった。
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 ロシアは、アラスカ・北米植民地開発を断念しアジア侵出に本腰を入れる為に、太平洋航路・北極海航路としての千島列島の価値はなくなりウラジオストック軍港を防御する為に樺太戦略的価値が高まった。
 日本の対ロシア戦略から、ロシア艦隊をカムチャッカ半島ー千島列島から太平洋に出さず日本海に封じ込める事ができ、後の日露戦争日本海海戦の勝利の一因と言えた。
 日露戦争の鍵を握っていたのは、朝鮮とアイヌであった。
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 日本はロシアとの戦争を避ける為に、自分の事は自分で決めるとする自己責任・自己決定から、日本ロシアの何れに帰属するかは樺太アイヌ人(エンチゥ)に丸投げして見捨てた。
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 2016年11月25日 YAHOO!JAPANニュース「北方領土 屈辱の交渉史(2)
 樺太千島交換条約を主導したのは「太陽の沈まない国」だった…
 明治8(1875)年3月8日、ロシアの首都サンクトペテルブルク(当時)。駐露特命全権公使を拝命した榎本武揚(たけあき)は露外務省アジア局長のピョートル・スツレモーホフと向き合った。
 榎本「千島全島を譲るべきだ」
 スツレモーホフ「それは大島たる幌筵(パラムシル)島までも望むのか?」
 榎本「幌筵島のみならずカムチャツカまで連なる島々をすべて譲っていただきたい」
 スツレモーホフとの協議は延々と続いたが、榎本は粘りに粘り、ついに樺太を放棄する代わりに、カムチャツカ半島まで延びる千島列島全島の譲渡を勝ち取った。榎本がロシア側全権のアレクサンドル・ゴルチャコフと樺太千島交換条約の調印を交わしたのは5月7日だった。
 旧幕府海軍の指揮官だった榎本は、箱館戦争五稜郭の戦い)で敗北し、投獄されたが、その命を救ったのは、オランダ留学中に手に入れた「海の国際法と外交」の写本2巻だった。
 明治政府は発足したばかりで外交や国際条約は門外漢ばかり。榎本が所蔵する写本の存在を知った黒田清隆が、知人の福沢諭吉に翻訳を頼むと、福沢は一読してこう言った。
 「この万国公法は海軍にとって非常に重要だ。これを訳すことができるのは講義を直接聴いた榎本以外にない。榎本に頼めないようでは邦家のため残念だ…」
 黒田は榎本の助命嘆願に駆け回り、榎本は明治政府の要人としてその後活躍する。ロシアとの領土交渉はその大きな成果の一つだ。
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 北海道の北東洋上に浮かぶ択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島からなる北方領土(計5千平方キロ)は、ただの一度も外国の領土になったことはない。その先にはカムチャツカ半島まで占守(しゅむしゅ)島を最北端に千島列島が延びる。オホーツク海と太平洋を隔てる地政学上の要衝だといえるが、なぜ明治政府が樺太と千島を交換しようと考えたのか。
 安政2(1855)年2月、江戸幕府はロシアと日魯(ろ)(露)通好条約を締結。国境を択捉島と得撫(うるっぷ)島の間に引き、樺太を「日露両国民の混住の地」と決めた。
 ところが、ロシアは明治2(1869)年に樺太を「流刑地」に一方的に指定した。以後、樺太へのロシア人の流入が急増し、暴行や窃盗が頻発、殺人事件も起きた。樺太の日本人居留地を守るため国境線策定は喫緊の課題だったのだ。
 そこで白羽の矢が立ったのが、北海道開拓使を務めていた榎本だった。北海道事情に詳しく国際法にも強い。榎本は渋ったが、黒田は太政官中央政府)に人事案を提起して榎本を無理やり帰京させ、天皇臨席による閣議で駐露全権特命公使(海軍中将)に任命してしまった。
 榎本は明治7(1874)年3月10日に横浜港を出帆し、スエズ運河経由でイタリアに上陸。サンクトペテルブルクに到着したのは6月10日だった。
 樺太を全て領有したいロシア。日本も樺太放棄に異存はない。合致点は見えていたにもかかわらず、交渉は難航した。
 ロシア側は、樺太で起きた殺人事件の処分など細々とした懸案を次々と取り上げて引き延ばしを図り、本交渉が始まったのは11月14日だった。その後、日本側の交渉方針がぶれたこともあり、交渉は難航し、日露両国では「弱腰外交」という批判が渦巻いた。
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 ロシアから見ると、広大な樺太を捨て、碁石が並んだような千島列島を欲しがる日本の姿は奇異に映ったかもしれない。
 確かに当時の明治政府は脆弱(ぜいじゃく)で、樺太を統治する財政的・軍事的な余裕はなかった。だが、それ以上に英国の入れ知恵が大きい。
 「日本の国力では樺太開発は無理だ。防衛もできない。千島列島ならば周囲が海なので防衛しやすい」「樺太をこのまま放置すれば、むしろロシアの南下は北海道に及ぶ」「ロシアが侵攻してきても千島列島ならば英海軍が援軍に送ることができる」-。
 英国は、明治政府の要人にこのようなアドバイスを送り続けた。その元締は駐日英公使のハリー・パークス。「維新の三傑」といわれる大久保利通にも直接働きかけたとみられる。
 当時の英国は「太陽の沈まない国」と称される世界一の海軍国家だ。海洋戦略に長けた英国は、ロシア海軍が将来太平洋に進出することを懸念し、千島列島を日本に領有させることでオホーツク海に封じ込めようと考えたのだ。
 ロシアは幕末の万延元(1860)年、北京条約で中国から沿海州を奪い、ウラジオストクを軍港にした。翌文久元(1861)年には露軍艦ポサドニック号が対馬浅茅湾に侵入し、島の中心部を占拠。艦長のニコライ・ビリリョフは幕府に「対馬の租借」「兵営施設建設」「食料」「遊女」を要求した。
 結局、英国の仲裁を受け、ポサドニック号は退去したが、英国はこの頃からロシアの太平洋進出に神経をとがらせるようになる。千島列島と日本列島による露海軍の封じ込めは英国の国家戦略だったのだ。
 ロシア側で千島列島の重要性に気づいたのは、旧ソ連の独裁者であるヨシフ・スターリンだった。
 ロシアは千島列島だけでなく、日露戦争後のポーツマス条約で南樺太までも日本に割譲していた。露海軍が北太平洋に進出しようとしても、この海域を通過する露艦艇は全て監視され、標的とされてしまう。米国に対抗する海軍国家建設をもくろんでいたスターリンにとって千島列島と南樺太の割譲は絶対に譲れぬ「戦利品」だったのだ。
 樺太千島交換条約から70年後の昭和20(1945)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻したソ連軍は一向に戦闘をやめず、領土拡張を続けた。占守島への侵攻は8月18日、北方領土を占領したのは日本が米艦ミズーリ号で降伏文書を調印した9月2日以降だった。
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 2016年11月30日 YAHOO!JAPANニュース THE PAGE「なぜ樺太放棄した? 面積だけでは測れない「樺太千島交換条約」の真意
 終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。12月15日にはプーチン大統領が来日し、山口県長門市で首脳会談が行われます。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、平和条約や領土交渉の進展はあるのでしょうか。
 あらためて、日ロ間にはどのような領土をめぐるやりとりがあったのか。歴史を振り返ります。
 日魯通好条約の20年後に行われた領土交換
 樺太を放棄し、全千島列島の領有権を得た「樺太千島交換条約」(内閣府北方対策本部ホームページ参考)
 日ロ間で初めて法的に国境を決めた1855(安政元)年、「日魯通好条約(日露和親条約)」では、樺太を両国民混住の地とし、千島列島の択捉島と得撫(ウルップ)島の間に国境線を定め、択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領と決めました。
 しかし、その20年後の1875(明治8)年、樺太はロシア領、代わりにウルップ島以南を含む全千島列島を日本領とする「樺太千島交換条約」を日ロ間で交わします。なぜ、このような領土の交換があったのでしょうか。
 両国民混住の樺太 たびたび日ロの紛争の種に
 樺太千島交換条約には全権公使として榎本武揚の名が記されている
 日魯通好条約の後、樺太松前藩領から江戸幕府の直轄地に。その後、明治政府の成立に伴い、1869(明治2)年には太政官直属の開拓使所管となります。一方、両国民混住の地と決めたロシアは、クリミア戦争終結後、樺太開発に乗り出し、たびたび両国間の紛争が起こるようになりました。
 事態を受け、両国間で樺太の国境線を決めることは重要な問題でした。新政府には、樺太全島もしくは半分で境界線を引き、南半分を日本のものとするという意見と、遠隔地である樺太を放棄し、北海道開拓に注力する、という2つの意見がありましたが結局、樺太放棄論が優勢になりました。
 国際法に長けていた全権公使・榎本武揚
 樺太千島交換条約には千島列島の島としてウルップ島以北の18島名のみ書かれている
 交渉は1874(明治7)年から、ロシアのサンクトペテルブルクで行われました。日本から派遣された旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。榎本は新政府と旧幕府側の最後の戦いとなった箱館戦争五稜郭の戦い)で破れ、投獄されますが、オランダ留学中から肌身離さず海洋法に関する「海律全書(海上国際条規)」を持つなど国際法に通じていたことから、助命され、明治政府の一員となりました。交渉時は日本初の海軍中将、駐ロ特命全権公使に任命され、約1年近い交渉の末に、ロシア外務大臣ゴルチャコフとの「樺太千島交換条約」締結にこぎつけます。
 地政学上重要だった千島列島の領有
 新政府にとり、財政力でも防衛力でも広大な樺太を統括する力がなかったとはいえ、面積的に見れば7万6400平方キロメートルある樺太を放棄し、総面積1万数千平方キロメートルしかない千島列島との交換は割に合わないようにみえます。
 しかし、ロシアの海洋進出を警戒していた英国政府のアドバイスもあり、地政学上、オホーツク海と太平洋を分ける千島列島は海洋戦略上、重要な地点という認識を、明治政府が持っていたとみられます。また千島列島は南北に約1200キロの長さがあり、水産業にとっては大きな意味を持ちました。
 また、「樺太千島交換条約」の文面をみると、日本に譲渡されるウルップ島以北の18島の名称はありますが、択捉・国後・色丹・歯舞の北方四島は含まれていません。既に先の「日魯通好条約」で択捉島以南が日本領であるということが両国間で明確に認識されていたようです。
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彩の国埼玉
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 北方領土の歴史
 日本人による北方の開拓の歴史
 正保御国絵図千島列島には、もともと、アイヌと呼ばれる人々が住んでいました。
江戸時代、北海道唯一の藩として隆盛を誇った松前藩の「新羅之記録」によれば、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(北海道根室地方)のアイヌの人々が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み込み、松前へ来て交易を営んでいたと記録されています。千島へのロシアの進出に危機感をもった幕府は、北方の島々の経営に本格的に取り組むこととし、1785年(天明5年)及び1791年(寛政3年)に最上徳内らを調査に派遣。最上らは、国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査し、さらに得撫島に上陸して同島以北の諸島の情勢も察知しました。
 ロシアの南下の動きに対して、幕府は、国防上の必要から、千島・樺太を含む蝦夷地を幕府直轄地として統治することとし、1798年(寛政10年)4月、180余名の大規模巡察隊を蝦夷地に派遣しました。このとき、支配勘定近藤重蔵の班は、最上徳内らと国後、択捉を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた国土標柱を建て、この年の暮に江戸に帰任しました。
 翌1799年(寛政11年)から1800年(寛政12年)にかけて、近藤重蔵高田屋嘉兵衛らとともに再び国後島択捉島に渡り、本土の行政のしくみをとりいれた郷村制をしいたり、漁場を開いたり、島々への航路を開いたりしました。
 高田屋嘉兵衛が自分の持ち船「辰悦丸(しんえつまる)」に乗り、国後島択捉島の間の航路を開き、択捉島に17か所の漁場を開いたのもこの頃です。
また、幕府は、択捉島以南の島々に番所を設け、外国人の侵入を防ぐために役人を常駐させました。1801年(享和元年)からは、南部藩津軽藩の兵、各100余名が守備に当たりました。
 国境の画定
 ロシアと日本の争い
 ロシアの南下政策が強められる一方で、幕府の警備が進められ、両国の間にはこの地方をめぐって争いや事件が起きるようになりました。
1804年(文化元年)、日本との通商を求めて、ロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが、幕府とラクスマンとの約束を頼りに長崎に来航しました。しかし幕府がこれを拒否すると、レザノフは部下に命じて樺太択捉島等で日本人に暴行を加えたり、日本船を襲って火を放ったりしました。
 これらの行為に対して、幕府は守備の立て直しを図り、ロシア船が近づいたら打ち払うことを命じました。1811年(文化8年)、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが樺太西海岸を探査し、さらに千島列島を測量して国後島の泊に上陸した際、南部藩の守備兵に捕らえられ、松前に護送、拘禁されました。
 ゴローニンを取り戻すために、副艦長リコルドは努力を続けましたが、交渉は難航しました。そのため、リコルドは報復として、折から国後島付近を航行中の日本船を襲い、幕府御雇船頭高田屋嘉兵衛を捕らえました。
 捕らえられた高田屋嘉兵衛は、なんとか日ロ両国の紛争を解決して和議を図ろうと努め、その奔走とあっせんによって、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換釈放がなされました。
この事件をきっかけとして、両国は国境を決めるための話し合いを始めることとなりました。
 日本国魯西亜国通好条約の調印
 1853年(嘉永6年)、ロシア皇帝ニコライ1世はプチャーチン提督に訓令を出し長崎に派遣し、幕府に対し通商を求めるとともに、樺太と千島の国境の画定を申し入れました。プチャーチン提督はその年の11月下旬まで長崎に滞在しましたが、交渉はまとまらず、翌1854年嘉永7年)に再び来航して交渉が行われましたが、それでも交渉はまとまりませんでした。
 1855年安政元年)2月、交渉の場を下田(静岡県)に移して交渉を続けた結果、ついに2月7日に「日本国魯西亜国通好条約」が調印され、日ロ間の国境が画定しました。
この条約によって、両国の国境は択捉島と得撫島の間に引かれ、択捉島から南の島々は日本の領土、得撫島から北の島々はロシアの領土と決まりました。
 しかし、樺太については、両国とも互いに主張をゆずらなかったため、従来どおり両国民の雑居地として、国境を決めないままとなりました。
 千島樺太交換条約の締結
 明治政府が誕生して新しい時代を迎えた1869年(明治2年)、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島色丹島国後島択捉島は郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日本人との間に紛争が絶えませんでした。ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
 このような現状を打破するため、明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚特命全権大使としてロシアに派遣し、翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ外務大臣との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。
 日露講和条約ポーツマス講和条約)の調印
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 刀剣・日本刀の専門サイト 刀剣ワールド 日本史/合戦・武将・戦国史を知る Web日本史辞典 樺太・千島交換条約
 明治時代の重要用語
 「樺太・千島交換条約」(からふと・ちしまこうかんじょうやく)とは、1875年(明治8年)に、ロシア帝国との間で結ばれた条約です。1855年安政2年)の「日露和親条約」では、両国の国境を、択捉島(えとろふとう)・得撫島(うるっぷとう)の間に引き、樺太島(からふととう)については、両国民の雑居の地とすると定め、国境の決まりを設けていませんでした。しかし、樺太・千島交換条約により、樺太島に関するいっさいの権利をロシア帝国へ譲渡。代わりに千島列島(ちしまれっとう)を、日本が領有することが決まったのです。この日本・ロシア帝国との国境問題は、その後も様々な変遷があり、現在も「北方領土問題」(ほっぽうりょうどもんだい)として揺れています。
 目次
 樺太・千島交換条約の背景
 樺太・千島交換条約の概要
 樺太・千島交換条約のその後
 樺太・千島交換条約の背景
 松前藩による「北方四島」の統治
 日本が、北方四島国後島[くなしりとう]・択捉島色丹島[しこたんとう]・歯舞群島[はぼまいぐんとう])の存在を発見し、調査を開始したのは、ロシアよりも早く1635年(寛永12年)のこと。当時、蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた北海道に置かれた松前藩(まつまえはん)は、現在の北海道全島及び千島列島・樺太島を含む蝦夷地方の調査を行いました。
 1644年(正保元年)に江戸幕府が作成した日本地図「正保御国絵図」(しょうほおくにえず)には、「くなしり」・「えとろふ」・「うるふ」などの地名がはっきりと記載されています。そして、多くの日本人がこの地域に渡航松前藩は、17世紀初頭から北方四島の統治を徐々に確立していきました。
 一方、ロシア帝国が千島列島の探検を開始したのは、18世紀初頭以降。すでに松前藩が、択捉島、及び択捉島以南の島々に番所を置いて北方四島を統治し、外国の侵入を防ぐことを行っていたので、ロシア帝国択捉島の北にある得撫島を、自国領土の南限と認識していました。
 その後、ロシア帝国が再々この方面に進出し、地域住民との間に衝突がたびたび起こるようになると、江戸幕府は自ら北方の島々の統治へ本格的に取り組む姿勢を見せます。まず、1785年(天明5年)及び1791年(寛政3年)に「最上徳内」(もがみとくない)らを調査に派遣。
 この最上徳内は、江戸時代末期に長崎郊外に「鳴滝塾」(なるたきじゅく)を開き、日本人に最新医学を教えた「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」が最も信頼し、敬愛した日本人とされます。「間宮林蔵」(まみやりんぞう)、「近藤重蔵」(こんどうじゅうぞう)と並び、日本の北方探検に大きな役割を果たした人物です。
 特に最上徳内による蝦夷地や樺太の地図は、非常に精度の高い測量法や、豊かな天文学の知識に裏打ちされた物でした。シーボルトは、最上徳内が作成した地図を見て感嘆したと伝わります。最上徳内は、国後島から択捉島に渡り、ロシア帝国の南下状況について細部までしっかりと調査。さらに得撫島に上陸すると、得撫島より北の千島列島における現況の他、近い将来の変化に関しても推察して、江戸幕府に報告しました。
 江戸幕府は、1798年(寛政10年)には、「大日本恵登呂府」(だいにほんえとろふ)という標柱を択捉島に立て、日本の領土であることを示します。
 日露和親条約
 1855年安政2年)、伊豆国下田(いずのくにしもだ:現在の静岡県下田市)において「日露和親条約」が締結。この条約で、初めて日本とロシア帝国の国境が定められました。
 千島列島の境界は、どちら側が先に発見したかをもとに、択捉島と得撫島の間とすることを確認。つまり、日本の領土は択捉島から南、ロシア帝国の領土は得撫島から北の島々として正式に定めたのです。
 また、樺太島は引き続き、両国民の混住の地として定められました。この条約に対し日本とロシアは、平和的・友好的な形で合意しています。
 明治時代初期の日本の外交課題
 このような流れのなか、明治時代に入った日本は当初、大きく3つの外交問題を抱えていました。「欧米列強との不平等条約の改正」、「近隣外交の構築」、そして「国境の画定」です。このうち、国境の画定において最大の交渉相手が、安全保障上でも最大の脅威であったロシア帝国でした。
 樺太・千島交換条約の概要
 千島列島全域が日本領に
 樺太・千島交換条約による国境
 1875年(明治8年)に、「樺太・千島交換条約」が日本とロシア帝国の間で結ばれます。
 明治政府は、樺太島の統治にも乗り出していましたが、財政的に難があり、またロシア帝国が積極的に南下政策により、樺太島へ多くの人を移住させる行動に出ていたため、日本は樺太島を放棄し、北海道開拓に主力を注ぐべきだという意見が強まっていたのです。
 この樺太島放棄の発案者は、開拓使(かいたくし:北海道開拓の管轄を担う省庁)次官の「黒田清隆」(くろだきよたか)でした。両国民が混住する雑居の地という樺太島のあいまいな形は、両国民の間での紛争事件を発生させる要因にもなっており、この点でも何らかの解決策が求められていたのです。
 ロシア帝国との交渉にあたったのは、中露(ちゅうろ:清[17~20世紀初頭の中国王朝]・ロシア帝国)公使(こうし:大使に相当)を務めていた「榎本武揚」(えのもとたけあき)。榎本武明は、特命全権公使としてロシア帝国サンクトペテルブルクに赴き、「樺太・千島交換条約」にサインします。日本は、樺太島の権利いっさいを放棄する代わりに、それまでロシア領であった得撫島から北の島々も含め、千島列島全域を日本の領土にするということで合意したのです。
 実は、この樺太・千島交換条約には、日本に譲渡される千島列島の島名ひとつひとつが挙げられていますが、列挙されているのは、得撫島以北の18の島々であり、そこに、択捉島国後島色丹島歯舞群島北方四島の名は記載されていません。
 この事実が、日本は現在、千島列島とは明確に区別された北方四島が日本以外の領土になったことは一度もなく、日本固有の領土であることを示していると主張しています。
 樺太・千島交換条約のその後
 ポーツマス講和条約
 ポーツマス条約による国境
 1904年(明治37年)2月~1905年(明治38年)9月にかけて起こった「日露戦争」(にちろせんそう:日本とロシアとの戦争)が終わり、戦後処理として、1905年(明治38年)に日本・ロシア帝国の間で「ポーツマス講和条約」が結ばれます。
 このポーツマス講和条約では、日本は、樺太(サハリン)の北緯50度以南をロシアから割譲されることになりました。
 これにより、1905~1945年(明治38年~昭和20年)までは、北緯50度線を境に、樺太島の南半分を「樺太」として日本が、北半分を「サハリン」としてロシア帝国、及びソビエト連邦が領有することになったのです。
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 ウィキペディア
 樺太・千島交換条約は、1875年(明治8年)5月7日に日本とロシア帝国との間で1854年の日露通好条約で雑居・共有としていた樺太(サハリン)で頻発していた日露両国人の紛争を無くすために国境を確定させた条約。樺太に対する日本の領有権と当時のロシア領千島列島(北千島列島)とを交換した内容であり、サンクトペテルブルクで署名され、同年8月22日に東京にて批准され締約された。
 千島・樺太交換条約や、サハリンクリル交換条約、クリルサハリン交換条約、署名した場所からとってサンクトペテルブルク条約(英: Treaty of Saint Petersburg、露: Санкт-Петербургский договор 1875 года)と呼ぶ場合もある。
 概要
 日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島と得撫島との間に定められたが、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地とされた。
 1856年(安政2年)にクリミア戦争終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、得撫島から温禰古丹島(オネコタン島)までの千島列島と交換に、樺太をロシア領とすることを建言した。徳川幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、慶応2年(1867年)、石川利政と小出秀実をペテルブルクに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太はこれまで通りとされた(日露間樺太島仮規則)。これにより幕府とロシアは競うように樺太に大量の移民を送り込みはじめたので、現地は日本人、ロシア人、アイヌ人の三者間の摩擦が増えて不穏な情勢になった。
 日露間樺太島仮規則では、樺太に国境を定めることができなかったため、明治に入っても、日露両国の紛争が頻発した。こうした事態に対して、日本政府内では、樺太全島の領有ないし樺太島を南北に区分し、両国民の住み分けを求める副島種臣外務卿の意見と、「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」とする樺太放棄論を掲げる黒田清隆開拓次官の2つの意見が存在していた。その後、副島が征韓論で下野することなどにより、黒田らの樺太放棄論が明治政府内部で優勢となった。
 樺太と千島列島の領有交換
 明治7年(1874年)3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚サンクトペテルブルクに赴いた。榎本とピョートル・ストレモウホフ)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められ、その結果、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結した。
 アイヌ民族の処遇・国籍
 一方で、北海道や樺太および千島列島における先住民であったアイヌのうち樺太及び千島列島に居住していたアイヌは、この条約によって3年以内に自身の国籍について日本国籍かロシア国籍かを選ぶことを強要された。さらに国籍と居住国が異なる場合、居住国を退去して国籍と一致する国の領土へ移住することを余儀なくされた。
 この条約の附録の第四条には、次のように記載されている。
 {樺太島及クリル島に在る土人は現に住する所の地に永住し且其儘現領主の臣民たるの権なし故に若し其自己の政府の臣民足らんことを欲すれば其居住の地を去り其領主に属する土地に赴くべし。又其儘在来し地に永住を願はば其の籍を改むべし。各政府は土人去就決心の為め此条約附録を右土人に達する日より三カ年の猶予を与へ置くべし。…}
 これにより、南樺太および千島列島に住んでいたアイヌの運命が、当人たちの意図を無視して一方的に決定された。いずれの選択肢も大きな犠牲をともなうものであった。
 一例として、ロシアとの結び付きが強かった千島列島北部に住んでいたアイヌは、従来の生活基盤を重視してロシア国籍を選ぶとすると、現在住んでいる土地(千島列島すなわち日本領)を捨ててロシア領へ移住しなければならなかった。逆に彼らが日本国籍を選ぶならば故郷を捨てずに済むものの、ロシア領との往来は困難となるため、これまでのロシア方面との交易といった生活様式を根本的に変えなければならなかった。
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