🕍17:─1─エセ保守とリベラル左派による政治主導の多様化を阻む太古の伝統的血筋文化。~No.33No.34No.35 

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 日本民族は数万年前の縄文時代から多様性と共生社会を生きていたが、現代の日本人が理想社会として目指している多様性と共生社会とは異質なモノである。
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 日本民族は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住み着いている「日本土人」である。
 日本姻族の伝統的血筋文化は、数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた民族固有の文化であり、血筋文化は民族宗教で実体は自然崇拝と神話物語である。
 日本民族は、多種多様な人種・民族が日本列島に流れ着き、乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族であり、純血種の単一民族ではない。 
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 2024年8月23日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「政治主導の多様化はできなくて当然…?日本人が知らないその「残念すぎる理由」
 小笠原 泰(明治大学国際日本学部教授
 政治主導の多様化はできなくて当然…?日本人が知らないその「残念すぎる理由」
世界的に多様性(ダイバーシティ)が叫ばれている昨今。日本はなぜ世界から取り残されているのか…。グローバル社会で生き残れる「最新」の日本人=「日本人3.0」になる方法がまとめられた小笠原泰氏の新刊『日本人3.0』より、日本人なら思わず納得してしまう「残念なすぎる理由」をご紹介します。
 日本は「変わりたい?」「変わりたくない?」
 政府は多様化と言っていますが、本当に多様化したいのでしょうか。同質化が前提の組織の観点からすると、組織効率を下げる多様化は歓迎されません。国家も同じで、多様化すると合意形成が難しくなり、組織効率は悪くなります。
 多様化が進むと、社会は当然分断されます。そして、多様化が相当程度進むと、みんながマイノリティ意識をもつので、分断も解消していくことになります。
 論理的には、多様化の行きつく先は、全員がマイノリティとなり、多様化という概念もなくなるはずです。しかし、人間は群れる生き物なので、全員が「マイノリティで大丈夫」とはならないでしょう。
 余談ですが、日本に限っていえば、これまで相当な同調圧力の中にいて、それがウザいと言っていたわけですが、いざ、その同調圧力が急速に弱まると、突如不安になって、もとに戻ろうとする動きが出てくると思います。
 ですので、多様化を社会のサブ・グループ化とすると、社会の中で少数派のグループが社会的に多数派と同等の権利を得ていないケースが多く、多様化の過程で少数派の権利の問題が絡んでいきます。多様化は政治と切り離せなくなり、社会は多様化の過程で既得権を守る多数派と新たな権利を要求する少数派に分断されていくことになると思います。それがいまの欧米社会です。
 しかし欧米の政府は、ポリコレ(反対が難しい正論)への配慮もありますが、多様化しないかぎり豊かさを担保する付加価値の創出ができないので、多様化は「致し方ない」としているのが現状です。
 同質化をしてきたことで、価値提供の飽和状態にある先進国社会で新たな価値を生み出すには異質な観点が必要なので、多様化は必須だというわけです。
 同性婚は社会が“変わってしまう”
 さて、いまの日本ですが、保守派を慮るとの話もありますが、時の岸田首相が、同性婚の話程度で、「社会が変わってしまう」と言うくらい社会の変化には否定的だと思います。
 この発言を野党に追及されると、岸田首相は、「ネガティブか、ポジティブかは別として、変わってしまうという、この結果をもたらすから、議論を深めることが大事だという形で、そういう表現をすることはあり得る」と答弁しています。
 しかし、一般的な国語理解では、「変わってしまう」は否定表現です。彼の言う趣旨なら「社会が変わる」
 でよく、一般的にマイナスの価値観を含む「変わってしまう」を使う必要はないかなと。
 なんと答弁しようとも、「社会が変わってしまう」という表現を自然に使うのですから、「社会が変わること」を本心としては明らかに否定的に捉えているわけです。
 岸田首相の本意は「多様化」ではなく、単に「旧態依然の家族制度の維持」という文脈での発言かもしれません。いずれにしても同性婚の先についての展望についての言及はないので、結果として日本は「本心では多様化に反対で、変わりたくない、変えてはいけないと、変化に抗う国家・政府」といえます。
 「一億総何々」という政治家の決まり文句を見ても、国家は、日本社会が本質的に同質であることを指向しています。
 社会を変えたくなければ多様化しないのは“当然”
 そもそも、昔から日本は基本的に変わりたくないのかもしれませんね。
 少し歴史の話になりますが、変化を忌避する傾向は昔からあると思います。江戸時代の話ですが、1721年に八代将軍であった徳川吉宗は「新規御法度」を発しました。
 そのお触書きには、次のように書かれています。
「一、 呉服物、諸道具、書物はいうに及ばず、諸商売物、菓子類も新規に巧出することを、今後堅く禁ずる。もしやむをえない仔細のある者は役所へ訴え出て、許しを受け巧出すること」
「一、 諸商物のうち、古来通りですむ物を、近年色を変えたり、数奇に作り出す類の物は、おって吟味し禁止を命ずるので心得おくこと」
 つまり、衣服、道具、本、はたまたお菓子に至るまで新しいものを作り、売ることを禁じたわけです。この前後、同様のご法度はたびたび出されていたので、効果は疑いますが、為政者が、社会の安定(当時は、農業基盤の米本位経済制度)のために、新奇性(変化)を抑え込んだわけです。ゆえに江戸時代260年の太平があったのでしょう。
 多くの国民が、社会的安定(つながり)と安全のもとに、険しい山も危険な谷もない「いつも通りの、ごく当たり前のふつうの暮らし」を強く望むのであれば、変化は避けるに越したことはないのです。しかしながら、この意識が社会のエートス(当たり前)になると、その社会は変わらないということです。
 政治家の多様化は口先だけ?
 さて、日本が外圧に屈することは、日本の歴史を見れば明白なので、説明するまでもないでしょう。
 政治家も含めて国民が変化を受け入れる印籠は、外圧(進駐軍)なのです。ニッサンに来たカルロス・ゴーン氏は進駐軍の典型です。また竜頭蛇尾となった「LGBT法案」も広島でのG7開催を控えた外圧というか、岸田首相のG7ホストとしてのメンツのためでしかなかったですからね。
 このような戦後の日本政治のおきまりパターンの中で政府は、バランスという名のもとに、アクセルとブレーキを同時に踏む矛盾する政策を行っています。
安倍元首相は多様化といいながら道徳強化を唱え、多様性を説きながら同質的な中間層の強化を目指し、格差是正といいつつ孫への生前贈与(相続税の趣旨に反しますが)を推進し、高齢者中心の社会を良しとしながらイノベーションを重視していました。
 挙げ始めると切りがないですが、要は、政治家が口で何を言っても、日本社会は大きくは変わらないということです。
 もっとも「政治家の多様化は口先だけ」というのは言いすぎかもしれません。要は「政治家は、社会の安定性を最優先し、変化を遅らせ、ときどき多様化というスパイスを振りかけ、国民に刺激を与えることを仕事にしている」と形容できるでしょう。
 政府主導の多様化には期待できない
 最後に、政治を国民国家という観点から見てみましょう。国には「国家をまとめるため」「国家という存在に意味を持たせるため」の物語が必要です。ですから政治家は物語を作るために、歴史を重宝します。ゆえに都合の良いことしか歴史教育では教えません。必要であれば、捏造すらします。
 しかし、多様化が進むと、国民国家という、国家に国民の意識を収斂させる物語を書くのが難しくなります。それでも、無理に物語を書こうとすると、社会は分断に向かいます。それがいまの先進国の状態ではないでしょうか。
 日本社会は、欧米諸国ほどの分断は表面的にはありませんが、超高齢社会において世代間の意識ギャップが広がるなかで、国家に国民の意識を収斂させる物語を書くことは、急速に困難になってきていると思います。
 加えて、共同富裕は難しく、残念ながら経済の伸びしろもほぼなく、超少子超高齢社会化の中、共同貧困に向かっているといえます。
 このような国家を信用したり、強く必要としたりするのは、いかがなものでしょうか?
 そもそも、国家に国民の意識を収斂させようとしながら、多様性を追求するのは、自己矛盾です。
 ここまで読んでご理解いただけたと思いますが、政府主導で多様化に向かうことは、国家や政治家の存在否定につながりかねません。したがって、政治家が国家のパワーの減衰を積極的に肯定しないかぎり、論理的に不可能ではないでしょうか。
 大きな政府しか考えられない日本の場合、政府主導で多様化に向かうことが望み薄であることは明白なので、「政府に期待をしても、私はグローバル社会で生き残れる「最新」の日本人=『日本人3.0』にはなれない」と肝に銘じるべきです。
 ここの要諦は、『日本人3.0』になろうとするならば、「国に期待するな」、ましてや「日本政府に期待をするな」です。
 【続きはこちら】最大の敵は「安心教」⁉グローバル社会で生き残るために捨てるべきたった1つのこと
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 2019年1月20日 東洋経済ONLINE「日本人が「悪い伝統」も残したがる残念な理由
 ルールを変えたい人ほど日本では生きづらい
 藤井 青銅 : 作家・放送作家
 伝統とは守るべきものなのか、壊していくものなのか(写真:Cybister/PIXTA
 なぜ日本人は「伝統」や「前例」を守りたがるのか? その理由を作家の藤井青銅さんは「伝統マウンティングにある」と考えます。近著『「日本の伝統」という幻想』で、「国技大相撲」「着物警察」「京都マジック」「先祖代々之墓」など「伝統の衣をまとったビジネス」の分析から導き出した「伝統マウンティング」の構図。戦前から日本に蔓延する「伝統マウンティング」の正体とはいったい何かを解説・総括します。
 マウンティング……優位個体が劣位個体に対して行なう馬乗り行動。多くの哺乳類は交尾の際、雄が雌に対しこの姿勢をとり、ニホンザルでは雄同士の間でも順位確認のため行なう(日本国語大辞典
 もともとは動物学や格闘技でよく使われていた言葉だろうが、最近は日常でも使う。「マウンティング女子」という言い方は、少し流行した。女性が女性に対して、ルックスや家柄・家族、恋人・配偶者、学歴・職歴、経済力などを上からの立場で自慢しつつ、「あたしのほうがあなたより上よ(=あなたは私より下位の存在よ)」と序列をハッキリさせることだ。
 「伝統マウンティング」は逆ピラミッド
 「マウンティング」という言葉から、山型のピラミッド構造を連想する人は多いだろう。ピラミッド組織の上位者が、下位者に対して序列を確認・強要する行為だと思われがちだ。
 だが、今年1月14日に紹介した「着物警察」など、古くから続く伝統を遵守させようとする「伝統マウンティング」においては、この限りではない。その構図を表すと、次のようになる。
 逆ピラミッドだ。この「先人」のところに「先輩」を入れてもいいし、「上司」を入れてもいい。この場合あなた(読者)は、受け手と考えてほしい。専門家や先輩、師匠、上司などの「伝承者」から、「これが伝統です」「日本人ならこうすべきなんです」と伝えられたとき、「ちょっと不合理な気もするけど、そういうものなのか?」「いまどき、それに意味ある?」と思っても反論しづらいのは、相手の背後にこの大きな逆ピラミッドがあるからだ。
 一見、1対1で対応しているように見えて、実は相手はこんなに大きな後ろ盾を持っていたのだ。伝統の歴史が古ければ古いほど疑問を挟みにくくなるのは、「先人」の階層がどんどん増えて広がり、逆ピラミッドがもっと大きくなるからだ。この「先人」を「ご先祖」に入れ替えたケースが、お墓・葬儀だ。なにせ相手はすべてこの世にいない。「この人(伝承者)はそう言っていますが、本当にそうですか?」と確認することができないのだ。ずるい。
 だが、これはあなた(読者)が受け手だからだ。もし伝承者だったら、どうだろう? 例えば、学校の運動部の部活。新入りはたいてい、先輩のしごきにあう。「グラウンド100周だ!」「腕立て伏せ300回!」など、体力的に無茶なことを言っているケースも多い。合理的に考えると、あまり意味のなさそうなものもある。
 体育会系に蔓延する「伝統マウンティング」
 下級生は先輩に逆らえないので、しかたなくやる。体力作りが半分、あと半分は精神論や根性論であることはわかる。だから、それが全部できなくてもいいということもわかる。できないことが織り込み済みの課題なのだ。
 いやむしろ、できてしまってはいけない。「言われたことが全部できなかった」という事実で、新入りは先輩より劣った存在だという関係性を構築したいのだ。つまりこれは、マウンティングだ。
 やらされながら、新入りたちは、「俺たちが上級生になったら、こんな意味のないことはやめような」なんて言いあう。しかしいざ自分が上級生になると、たいてい後輩に、「これがウチの部の伝統だ!」と、それをやらせているのだ。体育会系の部活あるあるだ。今度は、あなた(読者)が 伝承者の位置にいる。
 意味がないと思っていても、理不尽だとわかっていても、「これが伝統だ」と言えば下級生を従わせることができる。なにしろ自分の背後には先輩逆ピラミッドが控えているのだ。たまに能力の高い新入りがいることもあるが、これなら怖くない。
 こういう構造は部活だけでなく、企業でもある。スパルタ式の新人研修などがそうだ。「社風」という名の「会社の伝統」をまとっていても、その実は「伝統マウンティング」だ。組織ではない師弟関係でもある。一見、師匠―弟子の1対1の関係に見えて、実は師匠は背後に大師匠の逆ピラミッドを背負っているのだ。この伝統が好きである、大切である、必要である、盲信している人の「伝統マウンティング」は、時にうっとうしいが、まあ、ほほ笑ましくはある。
 一方で、この伝統は別に好きでも嫌いでもないが、これを持ち出せば言うことをきかせることができるから、という人の「伝統マウンティング」もあるのだ。こっちにはほほ笑ましい要素はなく、たんにうっとうしいだけだ。
 こうなると、「伝統」はツールであるにすぎない。「伝統」維持のための「マウンティング」ではなく、「マウンティング」維持のための「伝統」。いわば、方便としての伝統だ。確かに、そういう利用例もある。なにか大きな構図を構築・維持するための便利ツールとして伝統を使っているのだから、いわば”伝統機関説”だ(どうか、国会で排撃されませんように)。
 どんなジャンルでも、「伝統を大切に思い、それを周囲に伝える人」は次の4つのパターンに分けられる。横軸に、その人の「伝統への入れ込み具合」を取った。右に行くほど「好き、大切に思っている、伝えたい」の度合いが強い。左は「さほど好きでもない」と書いてはいるが、もちろん「嫌い」というわけではない。周囲が思うほど、強いこだわりはないということだ。
 縦軸は、自由度。下に行くほど「伝統に従え、変えてはいけない」と強制の圧力が強くなる。上に行くほど、「そうではあるけど、判断はあなたの自由だ」ということ。
 A:この伝統が好きで、とても大切だと思っている。なくしたくない、次の世代に伝えたい。あなたにも好きになってもらいたい。……けれど、あなたがどう判断するかは自由だ、というタイプ。
 B:この伝統が好きで、とても大切だと思っている。なくしたくない、次の世代に伝えたい。あなたにも好きになってもらいたい。……だから、あなたもこの伝統に従うべきだ、というタイプ。
 C:この伝統が好きで、とても大切だと思っている。なくしたくない、次の世代に伝えたい、と表向きは表明しているが、本心はそれほどでもない。……けれど、あなたもこの伝統に従うべきだ、というタイプ。
 D:この伝統が好きで、とても大切だと思っている。なくしたくない、次の世代に伝えたい、と表向きは表明しているが、本心はそれほどでもない。……だから、あなたがどう判断するかは自由だ、というタイプ。
 Aは、純粋な伝統好き。その道のプロとか通と呼ばれる人たちだ。面白いことに、ジャンルを極めたプロほど「基本さえわかってくれれば、あとは自由でいい」という人が多い。周囲にいる関心がない人にアピールはするが、強要はしない。Dはライトユーザー。
 BとCは、伝統マウンティング派だ。Bは熱狂的で、Aと違うのは「変えてはいけない」と伝統原理主義的になり、周囲にも強制したがる。やや信心みたいになってくる。まわりにいるとやっかいで面倒な存在だが、本人は「よかれと思って」いるので悪気はない(だから、やっかいで面倒なのだが)。
 タチが悪いのがCだ。実はそれほどその伝統へのリスペクトはないが、これを持ち出せば相手は反対しづらいので、方便として伝統を持ち上げている。これが、「社会制度」などの大きな枠組みや個人の心の内面にまで関わってきて、「日本古来の伝統を変えるな」「日本人は昔からそうやってきたのだから従え」「伝統的な文化・しきたりを絶やすな、守れ」となると、やっかいとか面倒の域を越えてしまう。
 緩やかな衰弱まねく「前例踏襲」
 こんなふうに近視眼的に、あるいは自分に都合がいい面だけを見て、「伝統を変えるな、従え、絶やすな、守れ」という人たちに対し、いつの時代も「変えたほうがいいんじゃないか」という変革者は現れる。もちろん、それに抵抗する人たちがいる。もうこの世にいない先人たちは何も言わないが、変革者のすぐ上位にいる先輩たちが、待ったをかけるのだ。「俺の目の黒いうちは変えさせん」というアレだ。
 その気持ちは、まあわかる。自分たちが信じ、守ってきたナニカが否定されたように感じ、それは自分という人間を否定されたようにも思うのだろう。場合によっては、自分たちの地位が脅かされることになるかもしれない。
 そこで、背負った先人たちの逆ピラミッドを使い、いかに変えてはいけないかを力説し、変えることによる危険性を訴え、圧力をかける。言い方は悪いが、既得権益と権威の維持と保護だ。
 日本の組織(とくに官僚機構)はこれが多い。前例踏襲で、変わらないことが第一の目標。「なにもしないことのためにはなんでもする」という、なんだか不思議な労力をいとわない。これは一見、現状維持だが、言い方を変えれば、ゆるやかな衰弱だ。ひょっとしたら、これこそが日本の伝統なのかもしれないが。ところが、抵抗勢力はそこだけでなく、意外なところからも現れるのだ。
 さっき、「伝統を大切に思い、それを周囲に伝える人」の4パターンで、Bの人たちについて、「変えてはいけない」と伝統原理主義的になり、周囲にも強制したがる、やや信心みたいになってくる、と書いた。Dのライトユーザーに対し、ヘビーユーザーだ。その伝統を愛するいちばんの応援団といえる。実はこのBの人たちが、変革に難色を示すのだ。
 これは伝統文化、伝統芸能の分野だとわかりやすい。もっとも熱心なファンほど、自分たちが応援するモノやヒトの変化を嫌がる。変わってほしくない、ずっといまのままがいい。
 われわれは、いま目の前にある伝統に価値を感じているのだから……と。ライトユーザーを「ファン」、ヘビーユーザーを「信奉者」と分けると、こうなる。
 伝統を変えようとする人は、それを受け継ぐべき次世代に抵抗されるという、まさかの事態に遭遇するのだ。当然のことながら、信奉者は「よかれと思って」やっているので悪気はない。着物警察も、これにあたる。
 伝統を信奉するあまり、変わることで生き延びようとする伝統にブレーキをかけ、かえって衰弱の手伝いをしてしまうことがある。いわゆる「ひいきの引き倒し」という状態だ。これは、多くの伝統ジャンルでおきる。
 伝統が変わるとき
 かくして伝統は、上と下からの「変えてはいけない」圧力に挟まれて、身動きがとれなくなってしまうのだ。上下からのピラミッドによる伝統サンドイッチだ。
 だがそれでも、伝統は時代に合わせ少しずつ変わっていく。100年も経てばけっこう大きく変わっていることもある。なぜ変われたのだろうか?
 その理由は社会が大きく変化するとき、マウンティングで圧力をかけてくる上位の人たちが入れ替わるからだ。近代では、「明治維新」と「敗戦」がその最も大きな区切りであることは、誰でもわかる。大きくは国の権力者の交代だが、これに合わせて大小さまざまなジャンルでも、それまで主流だった人々がほかの人々と入れ替わる。このとき、上からの圧力がなくなり、伝統は変更される。あるいは、新たに創られる。
 その2つほど大きくなくても、世の中の風向きが変わる時期というのはある。たとえばバブル景気の頃と、その後の停滞した失われた30年間とでは、世の中の価値観が違う。
 「ショック・ドクトリン」というのは、戦争や災害、テロなどの大惨事で人々があぜんとしているのに便乗して世の中を変えようという動きのこと。「惨事便乗型資本主義」と訳されるので、狭義では経済のことだが、それだけではない。私たちは、近いところで、2011年の東日本大震災以降、世間の風潮が変わったのを覚えている。こういった大小さまざまな時代の変化ポイントで、上からの「変えてはいけない圧力」が減る、あるいは消えるときがあるのだ。
 なるほど、上からの圧力の変化はそれでわかった。では、下からはどうなのだ? 熱心な信奉者たちはずっと変わらないのではないか? いや実は、これがコロッと変わるのだ。
 変わり身が早い日本人
 何かを熱心に支持し、信奉する人たちは、世の中の流れが変わると、手のひらを返しだし熱心さは変わらない。ただその方向が変わるだけ。「鬼畜米英」から「アメリカ一辺倒」に変わった早さは、誰もが指摘するところだろう。さまざまなジャンルでも、それは同様だ。
 『「日本の伝統」という幻想』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
 実はこれは、「変えるな!」でも「変われ!」でも同じなのだ。「存続させろ!」でも「廃止しろ!」でも同じ。「○○はすばらしい!」でも「○○なんてダメ!」でも同じ。○○のところに明治維新、民営化、グローバリズムアメリカ、日本などを入れてみればわかる。結局は、「上からの圧力がきている」という安心感というか、お墨付きを担保に、「下からの圧力」が呼応している。だから、世の中が変わると、潮が引くようにスーッと消えてしまうのだ。
 変わり身が早いというか、節操がないというか……。これが日本人の伝統なのだろう。どこかほかの国、いやほかの星の生物みたいな立場でそれを笑っていられれば気が楽なのだが、この性向は現在まで地続きになっている。そして、私の中にも続いて流れている。
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 藤井 青銅 作家・放送作家
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 日本民族は、血の繋がった祖先から命・魂(霊魂)、身体、心、志、気持ち、気概を受け継いで産まれ生きてきた尊い人であって、全知全能の唯一絶対神が自分に似せた姿に土塊・塵・ゴミをこねて形を整え命・魂を吹き込み祝福した貴い土人形ではなかった。
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 日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事で日本民族の事ではない。
 帰化人は日本民族の一員とされたが、渡来人は日本人と呼ばれても日本民族から排除された。
 何故なら、帰化人は利他として天皇に忠誠を誓い日本国の為に働いたからであり、渡来人は自利として天皇への忠誠を拒否し日本国に叛き自分の為のみに働いたからでる。
 昔の歴史は帰化人の神話・物語であったが、現代の歴史は渡来人の話である。
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 日本民族は自分の父母・祖父母・曾祖父母・祖先を、「家の神様」として神棚に祀り、「家の仏」として仏壇に納めた。
 家の神様や家の仏様は、必ずしも血縁者だけではなく血の繋がりのない赤の他人の他家からの養子も入っている。
 日本の世襲とは、そういう意味である。
 日本民族の宗教とは、自分につながる祖先を祖先神・氏神様として祀る人神崇拝宗教つまりローカルな家・家族・一族限定宗教であって、天地創造絶対神の福音を信じる信仰宗教・啓示宗教・奇跡宗教・救済宗教といった人種・民族といった枠組みを超えたグローバルは普遍宗教ではない。
 その象徴が、最高神である女性神天照大神を祀る天皇家・皇室である。
 日本の宗教では、仏教が伝来するまでは人が死んで行く死後の世界はなかった。
 天上界の高天原も地下界の黄泉国も、死ぬ事がない天孫系(天皇系)の天つ神が住む世界であり、死んでしまう八百万の神である国つ神が行ける世界ではないし、ましてや人が死んでいく世界でもなかった。
 死んでしまう国つ神や人は、死んだら神域である鎮守の森・ご神体とされる高い山・大岩・巨木・海の向こうに宿り、家の近く・家族の近くにある地元の氏神神社に鎮座した。
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 祖先霊・祖先神・氏神の人神信仰は、命と魂、血と身体、遺伝子とDNAを受け継ぐ事である。
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 人は、二人の両親から産まれてくる。
 日本民族の祖先な数は?
 日本人の命が尊いわけ。 
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 祖先神・氏神の人神信仰とは、純血の血縁ではなく、混血の地縁である。
 一人の日本人には、二人の両親がいた。二人の親には、四人の祖父母がいた。四人の祖父母には、八人の曾父母がいた。
 14世代前では、8,192人。
 23世代前には、419万4,304人。
 25世代前では、1,677万人。
 27世代前では、1億3,422万人。
 だいたい約700年前の鎌倉時代で、当時の日本の総人口は700万人から1,000万人。 
 30世代前には、5億3,687万912人。
 40世代前には、5,497億5,581万3,888人。
 50世代前には、562兆9,499億5,342万1,312人。
 100世代前の、祖先の人数は?
 指数関数的な増加。
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 祖先のうち一人でも欠ければ、今の命は存在しない。
 今の命が断たれれば、この後の命は存在しない。
 それが、命の重みである。
 そして、日本の家である。
 昔の日本人は、「命の継続性」という家の枠で、自分と家族の幸せの為に命を守りながら努力して生きていた。
 ゆえに、「命の絆」が断ち切られる「死」を穢れとして恐れた。
 この世は、生きるに値する。
 命は、等しく尊い
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 日本民族の宗教とは、亡き家族の魂を仏として弔って拝み、祖先の霊魂を祖先神・氏神の人神として祀り崇拝する事で、そこにあるのは「畏れと加護の慎み」であって「奇跡と恩寵の信仰」ではない。
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 祖先神・氏神の人神崇拝とは、永遠の命、生命の連続、命の継続として、祖先から子孫への絆であった。
 日本民族は、家族・自分の欲得としての短期的願望と家・子孫の理想としての長期的願望を持っていた。
 日本民族は、多神教崇拝宗教の信徒であって一神教信仰宗教の信者ではない。
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 日本民族の言霊信仰とは、民族中心神話に基ずく自然崇拝であり、宗教的精神的な自然への畏怖つまり畏れと敬い事である。
 それは、数千年前の弥生時代古墳時代から断絶する事なく繰り返されてきた正統世襲男系父系天皇による一子相伝宮中祭祀、さらには数万年前の石器時代縄文時代からの日本民族が受け継いだ自然の精霊と生命の永遠に対する崇拝宗教につながっている。
 日本民族伝統宗教とは、精霊崇拝宗教、八百万神の神話宗教、祖先祭祀宗教であって、信仰宗教、啓示宗教ではない。
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 小林武彦(東京大学定量生命科学研究所教授)「いま、私たちが存在するのは、過去に夥しい死に支えられているから。生き物にとって死とは、進化を実現させるためにある。変化と選択を繰り返して進化し、生き残った末裔が私たちなのです。自分も生まれてきた以上は生を謳歌し、命を次の世代につなぐためにも〝利他的に〟死んでいかなければならないのです」
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 靖国神社の心・志・精神は、戦前の軍国日本にはあったが、戦後の平和国家日本にはない。
 が、1980年頃まではあったが、1990年以降から消え始め、2020年以降には消滅した。
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 諫山創「人はいずれ死ぬ。ならば人生には意味がないのか?死んだ仲間もそうなのか?あの兵士たちも、無意味だったのか?いや違う‼あの兵士に意味を与えるのは我々だ‼あの勇敢な死者を‼哀れな死者を‼想うことができるのは生者である我々だ‼我々はここで死に、次の生者に意味を託す‼」(『進撃の巨人』)
 同じ自殺行為といっても、カミカゼ特攻とイスラムテロリストの自爆テロとは根本的に意味が違う。
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 映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
 他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
 他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
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 西行法師「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(伊勢神宮参拝して)
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 イザベラ・バード「わたしは死んだ過去の時代の霊魂が私の背後に近づいてくる、と感じた」(伊勢神宮参宮して)
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 H・P・ラヴクラフト「人類の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である」
 人類は、恐怖に打ち勝つ為と真理を究める為に宗教を編み出した。
 最強の恐怖とは「死」であり、究極の真理とは「生」である。
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 マンガ「アシュラ」 原作 ジュージ秋山
 私は お前に教えられた。
 それは
 命喰らわずして生きられぬ人の性(さが)である。
 海に生まれた命を奪い
 野山に育つ命を奪い
 人は生きて行く。
 罪を背負い
 それでも与えられた命の限りを生きようとあがく。
 だからこそ 
 この世は美しい。
   ・   ・   ・   
 石原慎太郎「(靖国神社参拝について)根本を云えば、民族としての〝垂直の情念〟をどう認識するかということなんだ。国の礎として斃(たお)れた死者の存在を抜きにいて今生きている我々の価値観だけで国家民族の命運を決めていいのか。その慮(おもんばか)りと畏怖が今の日本人にはない。
 〝死者の不在〟ということを強く感じるね。今の日本には死者の居場所がない。それぞれの家庭を見ても仏壇なり、神棚なり、壁に掛けた写真でもいい、死者たち、亡くなった両親や祖父母、曾祖父さんや曾祖母さんの占める場所があるかね。核家族が当たり前になって家の中で身内の死を見取ることもない。死は病院の中にしか存在せず、家の中には生者しかいない」
 「靖国参拝は政治じゃないんだよ。参拝は殊更(ことさら)なことじゃないし、褒められる事でもない。ただある少年の日に米軍機を追撃して私を守ってくれた、芋畑で仰ぎ見た戦闘機のパイロットがそこにいるかもしれず、確かなことは女房の親父や多くの親戚が私にとってあそこにいるといことなんだ」
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