🎶04:─1─第一次世界大戦。中国に裏切られた日本外交の対華二十一箇条要求。日中盟約。1914年~No.6 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人は、中国人を信じ、中国人の為に配慮を重ねたが、その全てが裏切られた。 
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 世界史の常識で、戦争に負けた国家元首は、退位するか、他国に亡命するか、最悪の場合は処刑された。
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 1914年 ドイツ帝国は、人種差別から、アフリカ植民地ナミビア先住民族を虐殺した。
 ドイツ人による、ヘレロ・ナマクア虐殺。
 人類史に於いて、虐殺事件が起きていない国や地域がない所はなく、起こしていない民族もない。
 人類の歴史とは、戦争と虐殺の歴史である。
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 日本人は、心を開いて話せば分かり合えると信仰の様に信じ、自分が不利であっても一度した約束や契約は命を賭けても守った。
 だが、中国人や朝鮮人は幾ら誠意を持って話し合っても分かり合える事はないし、約束や契約は守らないず、自分に有利にある様に嘘も付くし裏切りも当然の権利として実行する。
 嘘を付き人を騙し他人のモノを奪う事は罪でも恥ではなく、それがバレる事が罪であり恥であった。
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 袁世凱は、世襲の大総統となって独裁体制を完成させるや、反体制派の革命派を弾圧する為に新聞条例や出版法を発布した。
 国外から資本投資を増やす為に、儒教価値観回帰を避け、西洋価値観を受け入れる為に近代化政策を推進した。
 袁世凱の軍事力による独裁体制で、多党乱立による国家の分裂と内戦の激化は回避された。
 袁世凱は、日本よりもアメリカからの投資を拡大するべくアメリカ人法律顧問グッドナーを重用して助言を聞いた。   
 モンゴル族チベット族は、静かな侵略として居住地を拡大してくる漢族入植者に危機感を募らせ、密かに中国からの独立を目指していた。
 中国の伝統的侵略策は、欲しい土地に多くの中国人を移住させ、地元民に対して多数派となった所で主権を奪い、戦わずして中国領土とした。
 だが。多くのモンゴル人やチベット人は、袁世凱が清国皇帝の権威を残し、清国の継承を表明した事で中国に留まるる事を選んでいた。
 この中国への淡い期待感が裏目に出て、民族消滅の危機につながり、多くの同胞が中国人移住者によって迫害され、そして虐殺された。
 中国の広大な領土は、こうして獲得した。
 中国内の少数民族は、こうして中国国内に取り残され、中国人への同化政策で消滅しようとしている。
 古代日本も、日本人の中国化で、民族消滅の危機に絶えず晒されていた。
 アメリカの連邦教会評議会は、日本国内での布教活動を有利に行うた為、日本協会と提携して、日本人移民問題についての特別委員会を設置した。
 排日派報道機関は、日本を擁護する者を親日派として攻撃し、議会に対して更なる排日法案の成立を要求した。
 民意は、国論を二分させる日本の存在に対する疑惑と恐れを抱き、日本人移民の排斥に賛同した。
 4月 アメリカ軍は、ヴェラクルスを占領した。
 ウィルソン大統領は、理想主義を掲げながら実態は帝国主義で、中米諸国への軍事介入を繰り返し、軍隊を派遣した。
 アメリカ軍は、内戦が激化しているメキシコ国内のアメリカ人に対して、自衛目的で民兵を組織する様に武器を与えた。
 6月28日 サラエボ事件
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 7月 第一次世界大戦勃発。
 日本は、イギリスとの同盟に従ってドイツ帝国に宣戦布告して参戦した。
 ドイツ帝国は、日本の近代化に貢献したとの自負から、日本人を裏切り者と憎んだ。
 日本人への敵意は、人種差別主義者のヒトラーにも受け継がれた。
 袁世凱は、ドイツ帝国に奪われていた山東半島などの利権を回復する好機ではあったが、アメリカの出方を見る為に参戦宣言を控えた。
 イギリスは、日英同盟から日本の参戦を希望し、その為に日本の南満州における勢力圏を承認した。
 アメリカのユダヤ人組織は、ユダヤ人弾圧を続けるロシア帝国と戦っているドイツ帝国を支援する為に、日本の参戦を阻止するべく政府と議会でのロビー活動を始めた。
 日本政府は、対米協調路線から戦争不参加の方針をとった。
 8月 アメリカは、欧州戦争に中立を宣言した。
 ウッドロー・ウィルソン大統領は、幻想的理想主義とキリスト教的情熱から絶対的価値観から世界を善悪の二元論でとらえ、アメリカやイギリスを「自由を求める道徳の国」とし、ドイツ帝国は「抑圧を好む卑しい国」と二分した。そして、宗教的人種差別主義から、異教徒にして非白人の日本を後者に加えた。
 ウィルソンが唱えた「新しい自由」を目指す14箇条は、白人優先の理想であって非白人は含まれていない。
 「民族自決」は、オーストリア帝国ロシア帝国支配下にある白人を対象にしたもので、白人国家植民地下の非白人など念頭にはなかった。
 その真意が理解できなかったのが、中国人と朝鮮人であった。
 さらに。ウィルソンは、非白人が白人の様に振る舞う事を嫌い、日本が世界で然るべき地位を得て発言力を付ける事に嫌悪した。
 ユダヤ系国際資本は、中国市場に進出する為に、日本難しのウィルソン大統領を利用した。
 イギリス政府は、日本の参戦問題で分裂していた。
 外務省と植民地省は、オーストリアニュージーランドなどの意向を受けて反対していた。
 陸軍省海軍省は、中国近海で船舶攻撃を行っているドイツ仮装巡洋艦及びドイツ潜水艦の捜査撃滅と香港・威海衛の防御支援の為に、賛成していた。
 日本参戦支持の急先鋒は、海軍大臣チャーチルであった。
 イギリス帝国防衛委員会(CID)は、ドイツ帝国との戦争には自治領政府及び植民地の支援が必要であるとして、日本軍の行動範囲を限定して参戦させる事を決定した。
 オーストラリアやニュージーランドは、日本が南太平洋に進出してくる事を国家安全保障の面から危機感を抱き、日本の参戦には猛反対した。
 日本海軍艦艇は、オーストラリア及びニュージーランドのアンザック部隊を乗せた輸送船をドイツ潜水艦から守って、ヨーロッパ戦線に送り届けた。
 アメリカは、フィリピン・中国への中央太平洋航路とオーストラリア・シンガポールへの南太平洋航路を支配する為に日本の海軍力が邪魔であった。
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 ドイツ国防軍は、西方戦線戦略計画として、戦争勃発直後にベルギーを通過してフランス北東部へと侵入し、その後南方へと方向転換して首都パリごとフランス軍を片翼包囲するという「シュリーフェン・プラン」を立案していた。
 「シュリーフェン・プラン」は、東部戦線でロシア軍が動員を完了する前に西部戦線の英仏軍を撃破するというものであった。 
 フランス軍は、対ドイツ戦戦略として、戦争開始と同時にアルザス=ロレーヌを奪取するという「17」と称される侵攻計画を作成していた。
 如何なる国も、国防の常識として戦争を想定した作戦を立案し、軍備を強化していた。
 正常な国家とは、平和の為の外交交渉をすると同時に戦争の為の準備をするももであった。
 戦争準備を怠って外交交渉のみを行うのは、常識知らずと軽蔑された。
 ベルギー王国は、永世中立国であったが、イギリスとフランスと対ドイツ同盟を結んでいた。
 ベルギーの社会主義政党が政権を取り、国際情勢を無視して軍事軽視の政策を進めて、国防力を弱体化させていた。
 ベルギー軍参謀本部も、攻撃的な発言をして虚勢を張っていたが、現役兵は4万8,000人で予備役は約10万人で、装備は時代遅れの旧式で近代戦には向いていなかった。
 ベルギー国民は、国王の意地で無謀な戦争を強いられ、甚大な被害を被った。
 8月2日 ドイツ帝国は、ベルギー王国に対して通過を要求し、認めなければた攻撃するとの最後通牒を発した。
 「ベルギーには宣戦布告しない代わりに通行権を与えよ。しかも、国土に侵入した際は全て賠償する」
 フランスは、永世中立国ベルギーとの国境は攻撃される事はないと信じていた為に、強固な防衛陣地を築かず、強力な防衛軍を配置していなかった。
 国王アルベール1世は、軍事大国ドイツ帝国と戦って勝てない事は分かりきっていたが、中立自体に価値を置き、どの他国の侵犯に対しても徹底的に抗戦するつもりだった。自主独立国家としての名誉の為に戦う事を決断した。
 「結果はどうであろうと、拒絶する。我々の義務は国土を守りぬくことだ。この点で間違えてはいけない」
 ドイツ軍は、幸先良くルクセンブルクを抵抗を受けずに占領した。
 8月4日 ドイツ軍約10万人は、近代的装備でベルギーに侵攻した。
 8月5日 ベルギー軍は、リエージュ要塞の周囲に複数の堡塁が構築し、国内の鉄道網を破壊してドイツ軍の迅速な進撃を阻んだ。
 ドイツ軍は、ベルギーを通過してフランスに攻め込もうとしたが、リエージュ要塞でベルギー軍の頑強な抵抗にあって快進撃が止められてしまった。
 ベルギー軍狙撃兵で被害を出したドイツ軍は、見せしめに付近の村で虐殺行為を行った。
 8月15日 パナマ運河開通。運河防衛の為に、太平洋に向かって大砲を据え付けた。
 それが、日本に向けられている事は明らかであった。
 8月16日 ドイツ軍参謀次長エーリッヒ・ルーデンドルフは、シュリーフェン・プランに狂いを生じされるわけには行かず、独断専行でリエージュを陥落させ、遅れを2日にとどめる事に成功した。
 ベルギー軍は、アントウェルペンおよびナミュールへと後退した。
 フランスに、ベルギーから大量の難民が流れ込んだ。
 ドイツ軍は、進撃を優先してアントウェルペンを回避し、ナミュールを23日に陥落した。
 ドイツ軍は、ベルギーとに侵攻し、ベルギー首都ブリュッセルなどの諸都市を抵抗らしい抵抗を受けずに占領した。
 アルベール1世は、国王の意地として、国境の町フェルヌ郊外で敗残兵を集めて最後の抵抗を試みた。
 日本では、小国ベルギーの大国ドイツ帝国に対する絶望的な祖国防衛戦が報じられた。
 「強い者による弱い者イジメ」を嫌う日本人は、ドイツ帝国の大軍と勇敢に戦っているベルギー国民を支援する為にキャンペーン運動を行い、集まった義援金と共に日用品や医薬品をベルギーに送った。
 大阪朝日新聞社は、ベルギーへの義援金を集めて届けた。
 8月23日 日本は、日英同盟に従って、ドイツ帝国に対して宣戦布告してた。
 日本陸軍航空部隊は、ドイツ帝国の青島租界・膠州湾内を遊弋していたドイツ軍艦に対して、世界戦史上初めての空爆を行った。
 8月後半 ドイツ軍は、ベルギーを通過してフランス北部に到達した
 ベルギー王国は、敗北してドイツ軍に占領された。
 ベルギー国王アルベール1世は、フランスのル・アーブルに亡命した。
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 世界史の常識において、戦争に負けた国家元首は、退位するか、他国に亡命するか、最悪の場合は処刑された。
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 常識ある一人前の大人は、自分の権利と自由を守る為に祖国防衛として、勝てないと分かっていても命を犠牲にして戦争を行うものである。
 命のみを大事にする人間は、人としての尊厳はもちろん自分の権利や自由も捨てて戦争をしない。
 武器を取って戦わない者には、如何なる権利も自由も存在しない。
 永世中立国にせよ中立国にせよ、平和宣言をしても、非武装宣言をしても、そんなものは知恵の回らない子供の幻想社会の戯言で、大人の現実社会では何の意味もなかった。
 中立宣言、反戦平和宣言、非武装宣言などで安全が守られると語る大人を信用するのは身の破滅であるから、死にたくなければ、そうした大人を詐欺師かペテン師と見なして信用せず近寄らない方が身の為である。
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 日本に亡命していた孫文は、日本から軍事支援を受けるべく日中盟約を結んだ。
 1,兵器は全て日本と同式とする。
 2,中国軍と政府は外国人を招聘する場合は日本人を優先させる。
 3,港湾、鉄道、沿岸航路のため外国資本を要したり、合弁を行ったりする場合は、まず日本と協議する。
 後の、対華二十一箇条の要求の原案となった。
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 語学力の弱い日本は、英語の堪能な中国人外交官の反日プロパガンダに負けて、世界を敵に回す羽目に陥った。
 明治期のサムライ日本人に比べて、外国留学が盛んとなった大正期のエリート官僚の語学能力は低下し、外交交渉能力も稚拙となっていた。
 政治家や官僚の語学や交渉の能力は、昭和初期、戦後日本、そして平成と、年月と共に無能に近いほどひどくなっている。
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 1915年 中華民国は、漢族による正統政府として満州族の清国とは別の政府である以上、侵略者である清国と結んだ如何なる約束も条約も協定も全て無効であるとした。
 日本は、中国は一つという認識から、政権が代わっても国家と国家が取り交わした国際条約は継続されるとの立場から、清国と結んだ諸条約による権利を再承認する様に求めた。
 それが、二十一箇条の要求である。
 歴史的に見て。国際常識は、中華民国側にあり、日本側にはなかった。
 軍国日本は、多くの犠牲者を出して獲得した南満州鉄道と関東州に、貧困で苦しむ国民に一層の我慢を強いてまで巨額の投資を行って開発を続けていた。
 日本は、合法的に獲得した権益である以上、国際法に従って保証されるものと確信し、欧米並みに契約を結ぼうとした。
 中国は、日本とは違って、政府を消滅させて新たな政府を樹立してきた。
 日本外務省は、中国との二国間交渉で外交を進め、国際法による当然の権利要求であるとして交渉内容を公表しなかった。
 中国政府は、自国に有利な条件を引き出すべく、外圧に弱い日本を窮地に追い込む為に交渉内容を欧米列強に極秘に通報した。
 日本は、相互理解による信頼感で道義的に粛々と話し合いを進めていると信じていた所に、中国の裏切り的背信行為に不快感を抱いた。
 中国人は、自分に利益をもたらす約束や条約や協定は相手にごり押しするが、自分に都合の悪い件は平気で反故にして相手に損害をもたらす。
 さらに。契約相手が自分の前任者であればその契約は無効とし、自分に有利な条項での新たな契約を強要した。
 そして、便宜を図る見返りとして賄賂を要求した。
 それが、信義なき儒教価値観による中国の面子である。
 中国の面子には、信義も道義も存在しないし、絶えず不正に走りやすい腐敗体質を持っていた。
 ソースティン・ヴェブレン「日本が西洋文明を吸収すれば、其れと並行して『伝統的な日本精神』の崩壊が起きる。崩壊にどの程度の時間がかかるのだろうか。伝統的な日本精神の存在が好戦的な国家にとっては友好な財産として残っている。しかし必ずこの様な精神の崩壊が起こる。現時点では、西洋文明によって物質的に大きな進歩を遂げたものの、日本精神の喪失は多方面にわたって明らかになっている。それでもまだ西洋の新知識と科学のもたらす恩恵が失ったものを上回っている。しばらくの間は得るものがプラスとなる時代が続くだろう」
 「『伝統的日本精神』が消えてしまっては、日本は弱体化する。その前に、日本は最初の一撃に打って出る可能性がある。それは今の世代が成熟する頃かも知れない。日本帝国政府は、全ての資源を投入する全面戦争を企てるだろう」
 「日本の人々が西洋の科学や技術を身に付ければ、古い日本精神は消えていくはずである。日本の伝統の中の温和な部分は幾つか残るだろうが、帝国の政治運営に役立ちそうな精神はほとんど消滅していくだろう。日本人の戦いを好む精神は『スペイン人の勇気』と呼ばれるものに似ている。この精神は今後とも、皇帝の政治とその死後の名声を維持する事や、贅沢はしないという国家の指導者に使われる事もあるだろうが、一般の日本人はこの精神を次第に失って行くはずである。現代の産業化された社会では封建的な観念は捨てざるを得ない」
「日本の孤立主義は、情報伝達システムが内外の情報を伝える様になっただけで終焉を迎えた。外敵に対する激しい憎悪もなくなった。公教育や近代的な労働習慣の導入で、日本的伝統が立脚してきたオカルト的な考え方、例えば皇帝は神とつながっているといった考え方は時代遅れになる。日本の神道に基づいたこうした信念は、キリスト教徒のオカルト的な信仰よりも崩壊するのが早いのではないか」
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 東久世敏伯爵の妻玉子は、家庭教師の森田潔と密通していた事が発覚して離縁させられた。
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 3月 民間外交として。右翼の日本人民間人と孫文は、日本軍は革命軍に武器弾薬を提供し、中国は満州を日本に与えるという、密約を結んだ。世にいう、「中日盟約」である。
 長城以北の荒涼とした大地は中国ではなく、満州は異民族である満州族の土地で中国人の土地ではないとした。
 日本に亡命中の孫文は、日本を革命拠点と利用して活動していた。
 日本政府は、中国との友好関係を維持する為に、孫文とその支持者を監視した。
 石井菊次郎は、日本はロンドン宣言に参加して連合国側に味方するべきであると力説した。
 日本が連合軍に参加しアメリカの味方になった為に、アメリカ国内での排日運動は下火となった。
 カリフォルニア州議会は、幾つかの排日法案を成立させようとしたが、世論の支持を得られずに断念した。
 3月16日 アメリカは、日本の対華要求に覚書手交。
 5月 ルシタニア号事件。ドイツ海軍は、商船ルシタニア号が国際法を無視して武器弾薬を輸送している情報を得るや、発見しだい撃沈すると宣言した。
 世界第三位の経済大国であるアメリカは、国際法の中立規定を無視して、連合国・同盟国両陣営に戦争を煽る様に武器弾薬を売り込んでいた。
 アメリカは、ドイツ海軍の攻撃はないとして、一般人乗船客を乗せて出港させた。
 ドイツ海軍潜水艦は、ルシタニア号を撃沈した。
 アメリカ政府は、非武装の商船ルシタニア号を撃沈し、一般人を殺害したとしてドイツ帝国を激しく抗議した。
 イギリスとフランスは、戦費が足りなくて窮地に立たされた為に、アメリカから戦争に必要な多額の資金を得ていた。
 ウィルソン大統領は、アメリカを国を挙げて「死の商人」と化した。
 ドイツ帝国は、日本とアメリカの関係を悪化させる為のプロパガンダを開始した。
 「アメリカの敵は、ドイツではなく日本である」というパンフレット30万部を、アメリカ全土にばらまいた。
 5月6日 アメリカは、イギリス・フランス・ロシア帝国の連合国に対日干渉を提案したが、拒否された。
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 5月7日 ドイツ帝国は、ハイチの混乱に干渉し、カリブ海諸国への影響力を強めようとしていた。
 アメリカは、カリブ海を裏庭として確保する為に、債務返済と居留民保護を口実に海兵隊をハイチに派遣した。
 シャルルマーニュ・ペラルト将軍は軍隊を率いて抵抗したが敗れ、数十万人のハイチ人はキューバドミニカ共和国に亡命した。
 9日に、アメリカは軍事占領して保護国化し、34年まで軍政を続け、反米派を弾圧した。
 合衆国を手本とした自由と民主主義の憲法を導入し、権力と産業を首都に集中させ、地方を農村地帯として農園を拡大した。
 都市住民と農園経営者は特権階級として、アメリカに協力する事で豊かになった。
 地方の中小規模農家や都市労働者は、貧困化して反アメリカ派組織を形成していった。
 マルクス主義は都市部のインテリの間に広がり、共産主義革命を目指した。
 反米勢力を封じ込める為に、親米勢力の軍隊を組織して訓練を行った。
 ハイチの対外財政は、47年までアメリカが管理して、冨を吸い上げた。
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 中華民国は、日本の希望条項第五号を撤回させて、対華二十一箇条の要求を受諾した。
 中国の面子として、円満に契約を結んだとしては中国社会では都合が悪い為に、日本に受諾する条件として最後通牒を要求した。
 日本外務省は、中国の面子を立てる為に「お人好し」にも、わざと強硬な声明を発表した。
 こうして、軍国日本は中国の謀略にはまり、滅亡への道を辿る事となった。
 孫文は、日本の支援を受けながら、対華二十一箇条の要求を受諾した事で袁世凱を激しく非難し、中国国内の革命派に日本に屈服した売国奴袁世凱打倒する様に檄を飛ばした。
 お人好しの日本人は、豹変する孫文ら中国人に当惑し、支援を続けたものか困惑した。
 中国国内では。極一部の日本で教育を受けた文化人が反対したが、大半の人民は無関心で調印拒否運動を起こさなかった。
 国民党は、指導者を失って弱体化した為に、孫文を再び党首に迎えた。
 中国人は、自分の権利を拡大し利益を誘導する事を正義とし、相手の権利と利益を尊重する気は毛頭なかった。
 日本の政府も軍部も、言動をころころと変節させ政治信条に一貫性がない孫文の存在を疎ましく感じ始めた。
 右翼は、大アジア主義から、幾度も裏切られながらも孫文を信じて支援した。そして、宋財閥の経済支援を受けさせる為に宋慶齢との結婚を進めた。
 欧米列強は、希望条項である第五号を取り下げた日本の要求は、国際法に照らして正当であるとして干渉しなかった。
 袁世凱は、アメリカ人顧問の意見に従って帝政を復活させて、皇帝に即位した。
 だが、李鴻章時代からの同僚的漢族将軍達は猛反対した。
 やむなく、袁世凱は帝位を断念した。
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 ラルフ・タウンゼント「これは交渉に当たった日本の外交官から直に聞いた話であるが、内容が公になるずっと前に、中国代表団は内容に満足し、調印に同意していた様である。ところが、中国側はこう持ち出してきた。『内容はこれで結構だが「要求」と言う事にしてくれませんか。そうした方が見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたいのだが』と。これを受けて日本側は『その方が良いのならそういたしましょう』といって、高圧的な態度に出る振りをした。それで中国は不承不承、署名するという風にしたのである。裏でかなりの金が動いたのであろう。中国との交渉事は金次第とみてきたからである。
 ところが今回は計算違いだった。『日本に脅迫されてやむなく調印した』という体裁にしたのは、中国の国内の中国人に納得してもらう為であった。ところが、アメリカがこれに噛み付いた。『哀れな中国に、過酷な要求を突き付けるとは許せん』とばかりに、同情が沸き上がった。……
 極東問題に詳しいジャーナリストのブロクソン・リー氏は親日派の雑誌で『当時、外国人の記者にはこの辺の裏事情は知られていた』と述べている。
 中国人の役人の体質、陰謀、ひた隠しに隠す性格からして『さもありなん』と在ベテラン米英官界は考えているのである」(『暗黒大陸中国の真実』)
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 5月9日 袁世凱は、日本の横暴によってやむを得ず受諾したと宣言した。
 孫文は、袁世凱政権を追い詰める為に弱腰外交を酷評し、反日運動を煽った。
 玄洋社黒龍会など右翼団体は、西洋列強の帝国主義政策の丸出しではなかとして対華二十一箇条の要求に猛反対した。
 孫文は、国内での支持母体を持たない根無し草であった為に、外国からの全面支援で国民革命を完成させようとして諸外国を遊説していた。
 だが、孫文を支援する国は表れなかった。
 孫文は、日本からの全面支援を期待していただけに、日本が袁世凱を支援する事を裏切り行為と激怒した。
 6月 インド独立派のラシュ・ビハリ・ボースは、独立闘争の為の武器を手に入れるべく、偽名を使って日本に上陸した。
 アジア主義の右翼は、白人植民地支配からのアジア独立を掲げて、R・B・ボースらを支援した。
 9月28日 ハースト系ニューヨーク・アメリカン紙は、日米戦争の危機を知らしめる為に、日本バッシングのキャンペーンを始める。
 「日本のアメリカ本土攻撃征服計画。日本の軍国主義者によって明かされる」
 さに、映画会社と協力して人種差別的反日映画を製作して、全売各地で放映して反日感情を煽った。
 ウィルソン大統領は、あまりにも作為的な内容で両国関係を損ねる恐れがあるとして、苦情の手紙を送った。
 「この映画は、明らかにアメリカ人の間に日本への敵意を煽るという目的をもって制作されたもので、上映されるべきではない」
 10月 イギリス植民地当局は、シンガポールでインド独立派活動家を逮捕し拷問に掛けて、R・B・ボースが日本に潜伏している事を突き止めた。
 イギリスは、日英同盟に基づき、日本に対してR・B・ボースの逮捕引き渡しか上海もしくは香港への追放を要請した。
 日本政府は、決断が付かず交渉は難航した。
 イギリスは、日本の国内事情を配慮して、インド独立運動に関わらない限り日本国内に留まることを認め、日本官憲により厳しい監視を求めた。
 11月27日 上野精養軒で開催された在日インド人の集会に、R・B・ボースが出席してインド独立を訴える反英集会となった。
 日本は、イギリスとの約束にしたがってR・B・ボースに国外退去を命じた。
 反植民地派は、イギリスに媚びる日本のアジアに対する裏切り行為を非難した。




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