🎹19:─2─中国国民党は、ナチス・ドイツと軍事支援の協定を結びファシスト陣営に参加した。1936年~No.85No.86No.87 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国共産党は、軍国日本を戦争に追い込むべく謀略を続けていた。
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 中国国民党は、ドイツ軍需産業から武器を購入するべくナチス・ドイツと軍事支援の協定を交わしてファシスト陣営に参加した。
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 反日派のナチス・ドイツが、軍国日本と戦うファシスト中国(国民党政権)を軍事支援したのはビジネスのためであった。
 他国間の戦争ほど大金を稼げる上手い儲け話はない。 
 平和な日常用品を売るより戦争の武器を売った方が、手にする利益は大きい。
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 中立国アメリカは、自国の経済不況を克服の為に、小さい日本市場を切り捨て、大きい中国市場に味方した。
 アメリカの軍需産業にとって、武器を買わない軍国日本は商売敵であり、武器を大量に買ってくれるファシスト中国(国民党政権)は応援すべき上得意様であった。
 アメリカ政府は、経済振興政策として軍需産業に巨額の公金を投じていた。  
 アメリカの対中輸出は、1936年には4,681万9,000ドルであったが、39年には5,561万4,000ドルに、40年には7,759万ドルに膨れ上がった。
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 イギリスは、植民地インドの独立と共産主義化を防ぐ為にコミンテルンとの間で秘密の約束をして、ソ連の軍事支援を受けた中国共産党の勢力か拡大を黙認した。
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 欧米列強は地理的条件から日本の様な中国脅威論は存在しない為に、日本が事実を持って中国の不当さを訴えても理解はしない。
 巨大な中国市場を確保する事は自国の経済発展には不可欠として、日本が如何なる不利益を被ろうとも気にせずファシスト中国を軍事支援していた。
 欧米列強にとって、自国民が危害を加えられない限り、日本人が中国人からどんなに被害を受けようとも気にはしなかった。
 日本の対中国封じ込め外交は、諸外国の理解を得られないし、成功はしなかった。
 世界は、日本が主張する中国脅威論には関心がなかった。
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☆世界を植民地として支配し搾取していた白人キリスト教列強諸国。
 当時、欧米列強は、地表面積の6割強を領有していた。
 イギリスは27%、ソ連は15%、フランスは9%、アメリカは6.8%、16%をオランダ、スペイン、ポルトガル、イタリア、ドイツ、ベルギー、デンマーク、ブラジルの8ヵ国が占有し、残りの26%を日本を含む60余ヵ国が分け合っていた。
 イギリスは、海軍大国として、七つの海を支配していた。
 アメリカ、日本、フランス、ドイツ、イタリアなどは、海軍力を持ち特定の海域を支配していたが、海を支配するほどではなかった。
 アフリカ地区は、西洋列強の植民地となってキリスト教化が進んでいた。
 アジア地区は、中国、日本、タイのみが植民地化もキリスト教化もされず独立を守っていたが、日本以外の地域は西洋資本の支配下に組み込まれていた。
 侵略されて植民地化されず、非白人非キリスト教国家を守り通していたのは日本を含めてそれ程多くなかった。
 日露戦争によって西洋列強による植民地戦争は終結したが、マネーによる新たな植民地戦争が起きていた。
 軍国日本の、人口は約7,000万人で世界人口の30分の一で、占有面積は地表の0.25%にすぎなかった。
 当時の国力は、人口でなく、領土の広さと金融資本であった。
 「土地と金」の富基準からすれば、軍国日本は弱小国群内の上位ランク国家に過ぎなかった。
 当時の日本人は、現代日本人とは違って苛酷な国際情勢を肌身で感じていただけに、国益を守る為に権利を主張しても夜郎自大となって西洋列強の反感を買う事を避け、大国意識で自惚れる事もなかった。
 現代日本人のように、経済大国という優越意識からアジア・アフリカ地域で人を見下すような傲慢な態度は取らなかった。
 昔の日本人は、人種差別主義者(レイシスト)ではなく、むしろ八紘一宇の精神から人種差別に反対していた。
 大和魂を持つ真の日本人は、理の通らない自己満足的な憎悪発言(ヘイトスピ−チ)を嫌い、私利私欲による掠奪目的のデモを起こさなかった。
 戦前の日本は成熟した大人の国として、相手国人の商店を襲撃して破壊せず、相手国の商品を暴力的に強奪せず、相手国の国旗を引き裂き燃やす事をせず、相手国の人間を見つけ出して殴る蹴るの暴行を加えるような事はしなかった。
 幾ら怒り狂おうとも、中国人や朝鮮人のように冷静さを失い自制心をなくし見境なく荒れ狂うような狂人的凶暴さはなかった。
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☆1936年度 世界8大国の陸軍兵力(参謀本部調べ)
 順位…国名…兵数
 1位‥中 国‥210万人。2位‥ソ 連‥160万人。3位‥フランス‥67万人。4‥ファシスト・イタリア‥65万人。5位‥イギリス‥39万人。6位‥アメリカ‥35万人。7位‥ナチス・ドイツ‥33万人。8位‥日 本‥25万人。  
 ソ連=極東軍…40万人。
 日本=関東軍…約1万人。 支那駐屯軍天津軍)…5,600人。 上海陸戦隊…2,500人。
 軍国日本は、兵力数と軍事費から見て軍事大国ではなく、民族資本と民族軍需産業で少数精鋭の中堅国家であった。
 日本は、食糧・資源・エネルギーそして金融・輸送・運輸など多くの面で他国に依存する、自給自足生活ができない国家であった。
 敵日勢力は、中国、ソ連である。
 反日勢力は、ナチス・ドイツアメリカであった。
 反日利敵勢力は、イギリス、ファシスト・イタリア、フランスであった。
 日本の友好国・支援国・同盟国は、世界中に存在していなかった。
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 日本、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、スペイン、オランダ、ベルギーの11ヵ国は、外国人が虐殺された義和団の乱を教訓として、自国の居留民を現地で保護する為に、中国人の排外暴動に備えて軍隊を駐屯させていた。
 アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどは、第一次南京事件から中国人の約束を信用せず、駐屯部隊に戦車や大砲や機関銃などの重装備を施していた。
 日本は、中国との友好を重視し、中国人暴徒との衝突を避ける為に、軽装備の少数部隊を日 本人居留民保護目的で各地に駐屯させていた。
 だが、日本軍部隊の駐屯は領土拡大目的の大陸侵略と非難された。
 日本には、「自衛権行使」や「正当防衛」という、自己弁護が認められてはいなかった。
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 日本軍は、皇軍という名誉にかけて世界一軍律が厳しく、上官の命令は天皇の命令として絶対服従であった。
 中国軍は、兵匪と嫌悪されるほどに、軍律も軍規も守らない犯罪集団とかわず、戦場では略奪、強姦、虐殺などしたい放題の残虐行為を行っていた。
 中国には、日本では考えられない様な世にも恐ろしい戦争文化があった。
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 蒋介石は、中国軍を強化する為にナチス・ドイツとハプロ条約という秘密軍事条約を結んだ。
 中国は、ナチス・ドイツの同盟国となり、ファシスト陣営の一員となった。
 蒋介石は、現時点で日本軍との戦争を回避しようとしていたが、将来においても日本と戦わないとは言っていない。
 ヒトラーが派遣したドイツ軍事顧問団の提案に従って、中国共産党を殲滅を優先し、日本軍の追い出しを後回しとしたからである。
 蒋介石の本心は、毛沢東同様に反日である。
 毛沢東は、アメリカ世論に影響力のあるエドガー・スノーを招き、自伝の執筆を依頼した。
 アメリカ世論は、中国共産党を農民政党で人民の味方と信じ、毛沢東を抗日戦争の英雄と英雄と祭り上げた。
 中国共産党は、親中国派記者のみを集めて、捏造・歪曲した情報を流した。
 共産主義勢力とキリスト教会は、謀略的情報操作術に長けていた。
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 ファシスト中国は、ドイツ軍需産業から大量の武器を輸入して、ファシスト中国軍をアジア一の最強軍隊に育てていた。
 ファシスト中国は、57.5%をナチス・ドイツ軍需産業から輸入し、二位のブルガリアは10.5%であった。
 軍国日本は、武器より生活雑貨の輸出を行い、対中国武器輸出は0.5%にすぎなかった。
 国際的武器市場は、欧米の軍需産業が独占していて、軍国日本は参入できなかった。
 つまり。軍国日本は、軍需産業の武器輸出国家ではなく、平和産業の生活雑貨輸出国家であった。
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 三田村武夫「昭和11(1936)年、『新しい政治、経済の理論を研究し、革新的な国策に貢献する』事を目的として発足した会(昭和研究会)は、近衛内閣と不可分の関係に立ち、軍部とも密接な関係を持っていわゆる革新国策の理念的裏付けをなし、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となり、日本の政治形態を一国一党の軍部独裁組織に持って行った事は周知の事実であるが、この会の組織は後述する如く、尾崎秀実を中心とした一連のコムミニストと、企画院グループのいわゆる革新官僚によって構成され、その思想の理念的裏付けは、全くマルクス主義を基底としたものであった」(『戦争と共産主義』)
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 中国では、中国の正統な統治者になる為に、「天命」を得る為に戦争を繰り広げていた。
 中国に於いては「天命」が最上位にあって、その下に思想信条や宗教が存在する。
 毛沢東共産主義を、蒋介石ファシズムを、それぞれ旗印にしたが、本質は「天命」思想による中華皇帝になろうとしただけである。
 王朝名は、毛沢東中国共産党王朝であり、蒋介石は国民党王朝であった。
 中国の歴史において民族は存在せず、王朝に従う者が民衆・人民として保護された。
 軍国日本は、中国の内戦に引き込まれ、翻弄させて滅亡した。
 スターリン「歴史というのはふざけるのが好きだ。ときには歴史の進行を追い立てる鞭として、間抜けを選ぶ」(1938年2月 国民党政府立法院長孫科との会談)
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 1936年 野坂参三らの『日本の共産主義者への手紙』
 日本軍は、徳王を軍事支援して蒙古軍政府を樹立した。
 毛沢東は、日本軍の攻勢に対抗する為に、内モンゴル人民革命党党首にモンゴル人の国家を樹立を支持する書簡を送った。
 中国共産党日本共産党は、日本農村の悲惨な状況を悪用し、単純志向の国粋主義者軍国主義者に接近して日本陸軍内への滲透工作を行っていた。
 農村出身兵士の身の上に同情した日本軍将校らは、国家社会主義天皇親政の革命を起こすべきだと密談を重ねた。
 ソ連大使館とつながりのある日本人は、人民革命を起こす為に財閥と癒着する政治家を粛清しようとする若手将校団に活動資金を渡した。
 武者小路公共駐独大使は、休暇が終わってベルリンに戻る前に、軍部首脳とナチス・ドイツとの提携について意見を交換した。
 軍部は、ソ連共産主義勢力から日本を守る為に何らかの手立ては必要ではあるが、だからといってヒトラーと慌てて手を組む必要を感じない、という意見が大勢を占めていた。
 フェラーズ『日本兵の心理』「日本では愛国心神道は不可分である。どちらが欠けたとしても、残りの一方だけで存続する事が出来ない。国家的危機に際し、日本人にとって神道は純粋な形で驚異的な力となり、愛国心は他の国よりも大きな意味を持つ。このとき西洋人の視点から、神道は狂信的な意味を持つと思い込んでしまう」
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 イギリス共産党コミンテルンは、左翼知識人団体レフト・ブック・クラブを発足させ、中国国民党中央宣伝部と協力して反日プロパガンダをおこなった。
 後に、イギリスの日刊紙「マンチェスター・ガーディアン」中国特派員H・J・ティンパーリーの南京虐殺を書いた『ホワット・ウォー・ミーンズ(戦争とは何か)』を出版した。
 中国社会科学院『近代来華外国人人名事典』「盧溝橋事件後に国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」
 国際宣伝処長曽虚白は、アメリカとロンドンにプロパガンダ事務所を開設し、日本人は血に飢えた野蛮な民族であると宣伝してくれる反日協力者に活動資金を渡した。
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 近衛内閣のシンクタンクとして昭和研究会が設立され、隠れマルクス主義者である革新的学者やジャーナリストが参加した。
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 軍国日本は、国際世論への情報戦を重視し、日本人自らの手で、日本の真意と実相を世界に報ずると同時に、世界各国の動向と実情を、我が国に伝える重要使命を担った国家代表通信社として、「同盟通信社」を設立した。
 戦前の日本人は戦争の真っ只中で生きていただけに、戦争を知らない戦後の日本人とは違って、一瞬でも注意力を緩めて油断すると、自分の命どころか国家の滅亡につながる事を肌身で感じていただけに、インテリジェンスの必要性を痛感していた。
 つまり。思わなければ口に出さなければ戦争も惨事も起きないと確信して危機感を持たない現代日本人に比べて、いつかは戦争も大惨事も起きる事を歴史から学んでいた昔の日本人の方が生きる活力が強く危機対応能力も優れていた。
 後年。GHQは、日本独自の情報発信能力を壊滅し、日本の報道をユダヤ系国際情報通信社の支配下に置くべく、海外への口(情報発信)と耳(情報収集)を封じる為に国策情報通信会社であった同盟通信社を解体した。
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 1月 ドイツ人軍事顧問団団長アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将は、対日戦略意見書『中国国防基本方針』を南京国民政府に提出する。
 対日戦略として、日本は財力も貧弱で資源もない為に長期戦には耐えられない以上、直接対決を避けながら、アメリカなどの資源輸出国を味方に付けて日本を孤立させるべきである提言した。
 最も大事なのは、情報戦として、中国人民を反日運動に大動員して敵日姿勢を持ち続ける事であると。
 ドイツ軍人は、第一次世界大戦争におけるアメリカやイギリスが流した、「ドイツ軍の残虐行為」という有りもしない捏造・歪曲の謀略情報に負けたと言う思いから、同じ手口を取るように中国に勧めた。
 ドイツ軍人は、日本人を裏切り者と憎んでいた。
 蒋介石は、ドイツ軍の国家防衛案に従って長期抗日戦略を立て、日本が激怒して出兵せざるを得ない様な状況を作り出し、日本軍に占領した都市に駐留部隊を分散配置する様に強要しながら奥地に誘い込み、日本側からの和平交渉を全て拒否して日中戦争を欧米列強が参加する世界戦争へと発展させた。
 蒋介石は、ナチス・ドイツに、同盟成立の証しとしてタングステン鉱約2,000トンを手土産として使節団を送った。
 中国の訪独団は、ヒトラー総統、ブロムベルク国防大臣、シャハト経済大臣ら政府関係者とドイツ軍首脳部らと相次いで会見し、密かに対日戦への支援を要請した。
 ヒトラーは、人種差別主義者として、日本を卑劣な裏切り者と毛嫌いしていただけに喜んで軍事支援を約束した。
 ドイツ軍も、武器の強度を上げる為に必要なタングステン鉱を得る為に、対日戦に全面協力を確約した。
 軍国日本にとって、ファシストナチス・ドイツは紛れもない敵となった。
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 ヒトラーは、ソ連を封じ込める為に中国軍の強化に協力し、ファシスト中国の軍事大国化を障害となっている軍国日本の粉砕を認めた。
 蒋介石も、中国を武力統一し、アジアの覇書であった中国の栄光を取り戻す為に、日本との戦争に勝利する事を希望していた。
 ライヘナウ「もし日中戦争が勃発したら、ドイツ軍事顧問団が中国軍と戦場に赴くのは当然だ」
 ソ連は、ヒトラーの陰謀と蒋介石の野望を打ち砕く為に、日本と中国の全面戦争を起こしナチス・ドイツを引き込むべく策謀していた。
 蒋介石も、ドイツ軍が軍隊を派遣して全面支援してくれる事を期待していた。
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 1月13日 軍部は第一次北支処理要綱(華北五省分治案)を決定し、関東軍は北支開発に本腰を入れる。
 東條参謀長ら関東軍強硬派は、満州の国防を主任務とする職分から対共産戦略から華北への積極策を主張したが、それ以上の侵攻作戦は任務外として策定していなかった。
 軍部上層部は、対ソ戦略から、これ以上の中国との戦闘に同意せず、中国内陸に深入りする事にも反対であった。
 1月17日 ダグラス・マッカーサーは、マニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟し、3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。
 1月21日 広田外相は、第68回帝国議会において日中和平交渉の前提とした三原則を説明し同意を取り付けた。
 ソ連は、広田三原則に脅威を感じ、中国共産党を守るべく南京国民政府との抗日共闘協議に乗り出した。
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 2月 蒋介石は、南京に張学良と陝北共産主義勢力の掃討について打ち合わせを行う。
 中国軍は、将来の対日戦に備えて、ドイツ軍事顧問団の助言に従って新たな国防計画を実施した。
 張治中中将(隠れ中国共産党員)は、対日戦の最前線となる南京・上海防衛の京滬地区司令に任命された。
 張治中中将は、ドイツ軍事顧問団の指導を受け、上海から南京間に陣地やトーチカを鉄筋コンクリートで建設し幾重もの鉄条網を張り巡らし、ドイツの最新兵器を重層に配置して、アジア地区では最大にして最強の大要塞陣群を作り上げた。
 日本側は、停戦条約違反と強く抗議した。
 中国側は、口先では条約を遵守するといいながら、日本との如何なる約束も最初から守る気はなかった。
 中国とは、古代から、如何なる条約・協定・約束をも守らない謀略の国である。 
 スペインの総選挙で人民戦線派が勝利を収めて、議会の多数派となった。
 保守派は、スペインがマルクス主義に支配される事を恐れた。
 ソ連は、スペインを衛星国にするべく、人民戦線派を支持して軍事援助に乗り出した。
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 日本陸軍省は、『昭和11年版帝国及列強の陸軍』を発行した。
 「満州事変勃発以来の2、3年間は、『日支間に紛争に依る中央軍[国民軍]の隙に乗じて長江沿岸の要点を悉く占有すべし』との第三インター[コミンテルン]の積極政策指令を忠実に実行して到る処中央軍を悩まし、其勢力は真に侮り難きものがあった。此に於て、蒋介石は抗日より先ず剿共なる標語の下に共産全軍の中心勢力たる江西匪軍の討伐に全力を注ぐに至った。……新疆又は外蒙を経て直接ソ連邦と握手せんとする共産軍の意図は逐次実現の緒に就きつつあるを看取し得ると共に、共匪の北漸乃至東漸は延いて北支及満州に波及する所尠からざるに鑑み我が帝国としても特に関心すべき事項」
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 2月5日 アメリカは、ファシスト中国に武器輸出を急増させた。
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 2月6日 陸軍側は、極秘で進められていた防共協定交渉を、正式に外務省と海軍側に提案した。
 2月8日 イギリスは、日本軍の攻撃に備えてシンガポール駐屯軍を3倍に増強する事を発表した。
 2月12日 外務省は、合意するかどうかは別にして、防共協定を話し合うだけなら構わないとして同意した。
 東郷茂徳欧亜局長は、猛反対した。婦人は、ユダヤ系ドイツ人であった。
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 2月20日 第19回総選挙で、社会大衆党が18議席を獲得した。
 労農無産協議会の加藤勘十郎は、「反ファッショ」を掲げて全国最高得票で当選した。
 社会大衆党幹部は、戦時統制経済が資本主義の改革につながるとして日中戦争を支持し、さらなる社会変革を目指して陸軍統制派に接近した。
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 皇道派は、精神的国家主義集団として天皇制度を守る為にソ連共産主義を警戒し、祖国日本の為にアメリカや蒋介石との軋轢を避ける事を望んでいた。
 統帥派は、革新官僚や尾崎秀実と協力して、対米英を敵視した南進論と日中戦争終結の為の中国一激論を主張した。
 陸軍部内は統制派と皇道派による派閥抗争が激しさを増していたが、第3派閥として中立派の実務型軍人官僚がいた。
 軍部の圧倒的多数派は、上官の命令で動く風見鶏的な実務型軍人であった。
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 2月26日 二・二六事件。安藤輝三大尉ら皇道派将校らは、農村の貧困を救うには、今の専制君主天皇制度を廃絶して大統領による共和制度に改変する必要があると考えていた。
 昭和天皇を退位させ、北進論に理解のある秩父宮を初代大統領とし、制度が固まってからは民間人から総選挙で選ぼうとした。
 弘前にいた秩父宮は、第二師団を率いて上京しようとしたが、翌26日に東京からの命令で上京を断念した。
 陸軍内部の権力抗争は、統制派が勝利し、皇道派は中央から外された。
 統制派は、内政的に、総力戦に耐えられる様な高度国防国家に改造するべく、社会全般を戦時体制で統制しようとした。
 対外的には、欧米列強のアジア侵略に対抗する為に、ソ連とは友好関係を維持し、中国には強硬政策を採用して支配下に置くべきであると。
 憲兵隊は、軍隊が共産主義化する事を恐れて思想弾圧を行い、兵士内に潜入した共産主義者の摘発に力を入れた。
 軍隊の赤化事件は、暴力的共産主義革命を恐れた当局によって闇から闇に葬られた。
 特高は、日本国内で暗躍するソ連系、中国共産党系、国民党系の国際スパイ団の摘発に躍起となり、日本人プロレタリア活動家らを不当逮捕し、拷問的尋問で組織の全容をつかもうとしていた。この犯罪的な拷問で、幾人かが死亡した。
 同時に、皇道派に同調した精神至上主義右翼を弾圧した。
 中島莞爾「今回の亊、我れ已に10年来期せし所にして、決して唐突の挙に非ず。……吾、此の回、初め固より生を図らず、又死を必せず。……25年の間の不幸の子は、名をも捨て此の世を去ります。徹頭徹尾、貧しく弱い者の味方となり、国の真の姿をと力めて子は、国の将来を想ひつつ血の涙を呑んで死に就きます」
 近衛師団の某将校は、マルクス主義の本を読む若手将校が東京に多い事に危惧を感じていた。
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 若手将校らは、娘を売って家族の急場を凌いでいる極貧状態の農村に同情的であった。
 貧困に喘ぐ農村が、日本軍国主義の温床であった。
 靖国神社に祀られている軍国主義者の大半が、食う為に軍隊に入った農村出身兵士であった。
 徴兵されたのは次男・三男で、跡取りの長男や親の面倒を見る一人っ子は徴兵免除とされた。
 徴兵には、差別があった。
 国際世論は、窮乏する農村から発生した日本軍国主義を極悪非道の犯罪と非難し、靖国神社を好戦的神社であるとして政治家の参拝に猛反対した。
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 横須賀鎮守府司令長官の米内光政と同参謀長の井上成美は、陸戦隊4,000人を軽巡洋艦「那珂」に乗船させて東京湾で待機させた。
 海軍は、反乱に同調せず、武力鎮圧の意思を示した。
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 皇国史観の提唱者で天皇親政を主張する平泉澄は、東京在住の直宮や近衛文麿らと連絡を取り合い、青森の連隊にいた秩父宮に急ぎ上京するように電報を打った。
 昭和天皇憲法の制約下で統治する限定された立憲君主制を志向していたのに対して、秩父宮天皇親政を主張して対立していた。
 宮中側は、天皇親政を望む決起将校団が秩父宮を担いで昭和天皇に譲位を迫る事を恐れていた。
 平泉澄は、上京してくる秩父宮を途中で合流し、群馬県水上駅で1時間ほど密談して、直宮として昭和天皇に従い一体となって事態収拾に当たるように説いた。
 「天皇が下々の脅迫強要によりて御方針を変え賜う事は断じてあるべからず。もし万一さような事あらば、これ国體の根源を破り、天皇の神聖を汚すもの、強要は断じて許さるべきにあらざるなり」(『孔雀記』)
 秩父宮も、クーデターで天皇が臣下に銃口を突き付けられて国家方針を変える事は国家を危うくするとの考えから、決起将校団に心情的に近くとも同調せず、決起部隊を叛徒賊軍として鎮圧する事に同意した。
 決起将校団が目指した昭和維新の失敗は、軍上層部にいた皇道派高級将校達が保身に走った為ではなく、皇族の中に味方を作れなかった為である。
 もし、この時。秩父宮天皇親政を掲げて決起将校団を支持して昭和天皇に譲位を迫ったら、日本は分裂し内乱に発展し、遂には暴力的共産主義革命が起きたたかも知れない。
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 ニューズウィーク誌1936年3月7日号「先週、東京では狂信的な男達のせいで最悪の事態になる寸前だった。3日間にわたる血みどろで異様な筋書きのドラマに、アメリカとヨーロッパの国民は呆然とした。軍部の狂信者達の行動は、日本が好戦的な独裁国家への道を突き進む恐れを欧米の平和主義者に抱かせた」
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 2月27日 ワイマール共和国以来のドイツ保守層は、ソ連とラパロ条約(1922年)を締結し、ソ連軍と秘密軍事協定(1923年)を結んだ関係から、反ユダヤでもなければ反共産主義でもなかった。
 そして、親中国であり反日であった。
 敗戦国ドイツにとって、ソ連が唯一の友好国で有り、国家と軍隊の再建に協力してくれたのもソ連でありソ連軍であった。
 ドイツ国防省は、ドイツ軍再建の一環として、独中軍事協力計画を進めるべく中国の訪独団に警戒厳重な最新の兵器製造工場を見学させた。
 ドイツ産業界は、日本人には製品を売るが最新技術を渡す事を警戒し、日本の訪問団に工場を見せると技術が盗まれ猿まねされるとして工場見学を許さなかった。
 武者小路公共「ハンブルクの(実業家)連中は、実は日本が嫌いなんだ」
 ドイツ経済界は、日本との貿易拡大よりも中国との取引拡大に力を入れ、日本に奪われた対中国貿易を回復しようとしていた。
 ドイツの報道機関も、親中国反日を方針として、中国寄りの記事を書き、日本を厳しく批判する記事を多く掲載して反日感情を煽った。
 ヒトラーは著書『我が闘争』で、修正前の原書では、ドイツ帝国は未開文明国日本が近代文明国に発展するのに協力したにもかかわらず第一次世界大戦で恩を仇で返し、ドイツ帝国の海外財産を奪った裏切り者と激怒して、日本人は劣等民族とけなしにけなしていた。
 ナチ党は、反ユダヤと反共産主義から、外交方針を親中国から親日に変更しようとしていた。
 日本との提携を求めたのは、リッベントロップと国防軍情報課のカナリス海軍大佐であった。
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 3月頃 ソ連中国共産党は、軍事的密約を交わした。共産軍と国民党軍は抗日戦の為に共同作戦をとり、全面的対日戦争を本年12月頃に開始する。
 ソ連は、抗日戦の為に全面的な支援を与える。
 3月7日 ドイツ軍は、ラインラントに進駐した。
 3月9日 広田弘毅内閣の成立。
 東大経済学部教授河合栄治郎は、社会変革方法として暴力的共産主義革命を否定し、議会主義的手法での社会主義経済体制への移行を主張し、そして暴力で要求を通そうとするファシズムをも批判した。
 帝国大学新聞「河合栄治郎(2・26事件の批判)ファシストの何よりも非なるは、一部小数のものが暴力を行使して、国民多数の意志を蹂躙するに在る」
 3月12日 モスクワで、ソ連モンゴル人民共和国は日本軍の侵略に共同して反撃するという安全保障の為にソ・外蒙軍事協定(相互援助議定書)に調印する。
 両国軍による自衛目的の国境侵犯事件が多発するが、関東軍はシベリア出兵を教訓として消極的専守防衛に徹した。
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 4月 張学良は、極秘に延安に赴き、周恩来と会談して抗日団結で合意した。
 日本海軍は、「我が帝国海軍の能力と活動範囲は南島海域まで延長される」との声明を発表した。
 アメリカ大使館は、詳しい説明を求めた。
 長谷川海軍次官は、「それは単に日本の貿易をその方面に拡大する事を意味し、海軍が新貿易路を保護するのは自然な事だ」と返答した。
 日本海軍は、本土からミクロネシア南洋群島を結ぶ南北海路戦略を正式に採用する事を表明した。
 それは、アメリカ本土・ハワイ・グアム・フィリピン・オーストリアに至るアメリカ海軍の伝統的東西海路戦略を遮断する事を意味した。
 アメリカ海軍は、深刻な安全保障の危機であると、海軍との関係が強いルーズベルトに訴えた。
 日米海軍は、相手を仮想敵国として机上で殲滅戦略を練る段階から、撃滅するべき明らかなる敵として戦備を強化する段階に移った。
 日本の南北海路戦略とアメリカの東西海路戦略によって、日米戦争は避けられない運命となった。
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 4月1日 ファルケンハウゼン中将は、ナチス軍のラインラント進駐を警戒するイギリスやフランスを関心をそらす為に、蒋介石に対して二・二六事件で混乱している日本を攻撃すべきであると進言した。
 「ヨーロッパに第二次大戦が起こって、英米が中国の争いに介入する余裕がなくなる前に、中国から日本に戦争を仕掛けるべきである」
 反日朝鮮人テロ集団も、軍国日本の出方を注視していた。
 4月2日 有田八郎が、新たな外務大臣に就任し、防共協定について深入りしない事で賛成した。
 親米英派の重光葵外務次官(A級戦犯)は、対ソ・共産主義としてナチス・ドイツとの軽い関係での提携に賛成したが、それ以上に日本が戦争に巻き込まれない為にはアメリカやイギリスとの関係を強く求めていた。
 重光は、軍部や革新官僚に同調せず、昭和天皇と同様に避戦であった。
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 4月8日 中国は、抗日戦の為にナチス・ドイツと借款貿易条約(ハプロ条約=秘密軍事条約)を結び、ドイツ軍人を軍事顧問団として招聘し、当時世界最高の技術を持つ軍事産業のベンツやシーメンスなどの近代的工場を各地に誘致した。
 中国は、兵器改良の為にナチス・ドイツと1億マルクの借款条約を締結した。
 国防省官房長ワルターフォン・ライヘナウ中将は、貿易協定に従って、経済省幹部やクラインらと中国軍備拡大計画を練った。
 中国側は、ナチス・ドイツからの経済・軍事支援を受けるべく軍事委員会に資源委員会を設置した。
 抗日軍は、ドイツ軍隊式軍事訓練で強化されていた。
 ヒトラーナチス・ドイツ政府はドイツ経済の発展の為に対中国貿易を重視し、ドイツ軍は自国の軍事技術の優秀性を証明する為に抗日中国軍を支援した。
 シャハト経済相兼国立銀行総裁は、軍拡に必要なタングステン鉱を輸入する為に武器弾薬を輸出した。
 中国の日本人居留民の前に、抗日中国軍とナチス・ドイツのドイツ軍が立ちはだかった。
 満州の日本人入植者の後方には、中国共産党軍とソ連軍が迫っていた。
 日本軍は、大陸にいる同胞を救おうにも、国際世論の非難を受けていた。
 日本政府は、外交能力がなかった為に、幾ら説明しても理解を得る事ができず、国際社会から激しい抗議を受けていた。
 国際社会は、日本バッシングとして、日本製品のボイコットを行っていた。
 日本経済は輸出産業が基幹産業であっただけに大打撃を受け、国民生活も深刻な影響を受けた。
 4月9日 張学良は、延安で周恩来と会談した。
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 4月30日 ベルリンの武者小路公共大使は、大島武官から防共協定交渉を引き継ぎ、公式な外交ルートに乗せた。
 ナチス・ドイツは、日本との協定成立を願っていたが、その陰で中国への軍事援助を行い、ドイツ軍事顧問団の抗日戦指導を容認していた。
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 5月 毛沢東周恩来は、蒋介石に対して抗日戦の為の国共合作を呼びかけ、国民党政権を窮地に追い込み為に反日市民運動を煽って日本人に対する事件を多発させた。
 蒋介石は、現時点での日本との戦争を望まず、その前に中国共産党の殲滅を計画していた。
 5月6日 ドイツ国防省は、陸・海・空三軍総司令官に対し、軍物資調達計画に中国側の要求を盛り込んで編成する事を命じた。
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 5月12日 ドイツ国防省は、陸・海・空三軍に対し、今後の日本についての調査分析を命じた。
 報告者。日本の大陸での軍事行動は、ソ連ではなくアメリカとイギリスとの摩擦を引き起こし、アメリカとの戦争を誘引する危険が大である。ドイツが、日本と同盟を結ぶことはアメリカとの戦争に巻き込まれる恐れがある。よって、日本ではなく中国との関係を進めるべきである。
 ドイツは、第一次世界大戦の敗北で、青島の租借を含む山東半島の権益と植民地であった南洋諸島を日本に奪われ、対中貿易が日本資本によって獲られた恨みを抱いていた。
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 5月 南京政府軍事委員会副委員長・馮玉祥は、イギリスの新聞紙記者のインタビューに答えて「中国はソ連と手を握り、中国共産党と和解し、日本と戦わなければならない」
 5月16日 コミンテルンは、北京や天津など華北で日本軍の補給路を妨害するとともに日本製品のボイコット運動を起こすように指示した。
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 6月 徴兵忌避の家出が増加した為に、憲兵や警察当局は国内における共産主義の蔓延を警戒した。
 両広事件。広東と広西の各軍閥が、蒋介石に抗日を迫る為に叛旗を翻した。
 ペルー政府は、アメリカの対日強硬政策に倣って日本人移民を禁止した。他の中南米諸国も横並び的に移民禁止の反日政策を取り、南北アメリカ大陸は反日一色となった。
 ライヘナウ中将は、中国との関係強化に為に中国を訪問し、日本に対して威嚇発言を行った。
 ライヘナウ「もし、戦争が勃発したら、ドイツ軍事顧問団が中国軍と戦場に赴くのは当然だ」
 ナチス・ドイツは、親中国反日を鮮明にした。
 フランスで、人民戦線内閣成立。
 ヨーロッパでは、反ファシズムバチカンを旗印とする社会主義政党共産党が協力関係を結んで、総選挙を経て人民戦線内閣を樹立させた。
 ユダヤ系国際資本は、利益を得て大金を稼ぐ為に、巧みに両陣営に資金提供を行った。
 アメリカとイギリスは、自国産業の発展の為に黙認した。
 ウィリアム・H・スタンレイ海軍作戦部長は、ハワイのオアフ島に住む日系人の活動を監視するように命じた。
 6月12日 ベルリンの日本大使館は、ドイツ・中国との1億ライヒスマルク借款条約(4月8日)情報を得るや、ドイツ外務省に対して「中国の軍備拡張に利用される恐れがある」と抗議した。
 ドイツ外務省は、日本大使館に対して満足する回答をしなかった。
 度重なる抗議に対し、政治局長署名の「バーターによる取引で、その中には武器も含まれているが、ごく僅かである」と文書を送った。
 ナチス・ドイツの武器輸出は、中国が断トツに多い57.5%で、第二位のブルガリアは10.5%にすぎなかった。
 ドイツ産業界にとって、対米依存の強い日本よりも中国の方が重要な貿易相手国であった。
 ナチス・ドイツにとって、実利の少ない軍国日本に比べて中国は莫大の利益をもたらしていた。
 独中関係は、経済・軍事において、日本が入り込む余地がないほど親密なものであった。
 ブロンベルク防相は、蒋介石に対して、中国との協調と援助はこれまで通りに続けると断言した。
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 ナチス・ドイツは、ファシスト中国が軍国日本に勝利する為に、人材・物資など全力で支援していた。
 ドイツの保守層は、日本憎しからファシスト中国の勝利を心から願っていた。
 日本軍部は、ナチス・ドイツファシスト中国を財政及び軍事で支援している事を知っていた。


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