⛅15:─1─沖縄・東京五輪の聖火リレー。1964年9月。~No.44No.45No.46 

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 沖縄は、親天皇親日反中国であったが、反天皇反日中国共産党に変貌した。
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 2021年5月15日 MicrosoftNews 沖縄タイムス社「沖縄タイムス
「こんな光景初めて」沖縄で自由のシンボルだった日の丸 事件が加速させた“復帰”願望
 [復帰50年へ]
 米施政権下だった1964年9月、沖縄であった東京五輪聖火リレー。当時禁じられた日の丸が沿道にはためいた。米軍は特別に掲揚を黙認したが、その旗を米兵が各地で毀損(きそん)。激しい抗議が起きる事態に発展し、日本復帰を求める機運につながった。復帰から49年。日の丸は沖縄の人々の目にどう映るのか-。
 © Okinawa Times 那覇市内の聖火台に掲揚される米国旗、五輪旗、日本国旗=1964年9月7日(県公文書館提供)
 © Okinawa Times 聖火リレーを見るため沿道に集まった人々=1964年9月9日、那覇市内(県公文書館提供)
■本土との一体感
 沖縄本島で今月1~2日にあった聖火リレーは静かだった。新型コロナウイルス感染対策で無観客。対照的に、前回は沿道に大勢の住民が集まった。興奮と熱気に包まれ、本土との一体感に浸る住民もいた。
 その象徴が日の丸だった。当時高校生で、走者を務めた元県議の新里米吉さん(74)は、沿道の光景をよく覚えている。両脇にいた観衆は数列に重なり、子どもは学校で作るなどした日の丸を必死に振っていた。
 「終戦してから、外でみんなで日の丸を振るなんてことはなかった。この日は、大人も子どももうれしそうに小旗を振っていた。こんな光景は初めてだった」
 嘉手納基地の近くを走った福地良夫さん(73)は、日の丸を見て沖縄は日本の一部だったんだと再確認したという。「ただの聖火リレーではなかった。その後の日本復帰につながる重要な意味があった」
■米軍が黙認した理由
 45年に沖縄を占領すると、米軍は日の丸の掲揚を禁止した。サンフランシスコ講和条約の発効後(52年)は、政治的意味を持たない会合などは許され、61年には法定の祝祭日のみ公共施設での掲揚も認められるようになったが、日の丸への規制は残った。
 沖縄では教職員会を中心に「日の丸を掲げよう運動」が起きていた。米軍は反米的な動きとして警戒したが、休日ではない聖火リレーでの掲揚には反対しなかった。
 米統治の最高責任者のワトソン高等弁務官は「申請はなかったが、祝賀行事なので黙認した」としたが、当時の状況を調べる県公文書館の豊見山和美さん(58)は、直前までキャラウェイ高等弁務官による圧政が続き、住民に反感が広がっていたことに着眼する。
 「米軍の圧政への反発が強まり、復帰運動にも拍車を掛けていた。親米だった沖縄の保守を分裂させないためにも、住民との融和を優先させなければならなかったのではないか」
■毀損された日の丸
 聖火リレーが始まると、米兵による日の丸の毀損(きそん)が相次いだ。
 当時の本紙によると、聖火リレー初日だった9月7日夕、コザ市(現沖縄市)のセンター通りで米兵3人が街灯柱の日の丸を引きずり下ろして破るなどし、コザ署員に現行犯逮捕された。酒に酔っていたという。県祖国復帰協議会(復帰協)の資料によると、9日までに各地で日の丸23枚が毀損や盗難などの被害に遭った。
 相次ぐ事件を受け、ワトソン高等弁務官は謝意を表明したが、「心ない青年のいたずら」と認識。外務省も抗議しない方針を示し、事態の早期収拾を図った。しかし、復帰協や沖縄教職員会は「国家への侮辱」などとして抗議している。
 教職員会で会長秘書などを務めた石川元平さん(83)は、米兵による毀損事件がその後の復帰運動の高まりに影響したという。「日の丸は占領下で住民が得た自由のシンボルだった。それが毀損され、日本への復帰を思う気持ちを強めた人は多かったはずだ」
■日米協力の手段に
 1960年代後半に入ると、米国は施政権返還の検討を本格化。元県公文書館長の宮城悦二郎氏の論文によると、米駐日大使は66年の国務長官宛ての電文で「日の丸掲揚を米側がかたくなに拒否することは、本土や沖縄の野党を有利にするだけだ」と進言した。
 水面下で施政権返還の話が進む中、宮城氏は「当初、米側にとって施政権侵害のシンボルに映っていた日の丸は、日米協力体制づくりの手段とみられるようになった」と分析する。
■復帰にどう影響?
 日の丸が揺れた聖火リレーや米兵による毀損事件は、72年の日本復帰にどう影響しているのか。
 県公文書館の豊見山和美さん(58)は、日の丸は沖縄にいた人たちの日本への「心象」だったとみる。戦争を思い出し、嫌悪感を覚えた人がいた一方、沿道で国旗を振り、毀損に反発した動きからは日本への愛着も垣間見える。米兵には血みどろになった沖縄戦を連想させ、毀損事件が起きたとも推測する。
 「掲揚を求め、毀損に反発する動きは復帰へのターニングポイントとまでは言えないが、一連の動きがなければ、復帰が遅くなっていた可能性はある」
 沖縄の近代思想史に詳しい比屋根照夫・琉球大名誉教授は、復帰への決定的な要因ではないとしつつも「米軍への抵抗意識が高まり、五輪や聖火リレーと併せて、祖国復帰に向けた熱気を呼び起こした部分はある」と言う。
 しかし、復帰後沖縄には基地が残り、米軍による事件・事故は後を絶たない。聖火リレー時にあれほど希求した日の丸を、石川さんは今、喜んで見られない。「街で日の丸を掲げる所はほとんどない。当時、沖縄の人が日の丸に感じた希望や憧憬(しょうけい)は消えてしまった」(社会部・山中由睦)」
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