🎶03:─2─日本人による天皇暗殺計画と幸徳秋水。天皇を守る大逆罪と不敬罪。~No.5 ① * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 天皇と皇族の、命を守る大逆罪、名誉を守る不敬罪
 天皇と皇族、皇室と天皇制度を内外の敵から命を捨てても守ってきたのは、日本民族帰化人だけであった。
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 明治日本は日露戦争でロシアに辛勝したと言っても、江戸時代後期から続いていたロシアの軍事侵略を撃破して日本に平和をもたらしたわけではなかった。
 日本にはまだ、キリスト教の宗教侵略とアメリカの軍事侵略という二つの脅威が存在していた。
 そして、日本に、最も恐ろしい共産主義によるイデオロギー侵略が迫っていた。
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 日本にとって、ロシアと中国・朝鮮は戦争をしても撃退すべき敵であった。
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 2011年1月25日 しんぶん赤旗幸徳秋水の志引き継ぐ
 大逆事件刑死100年 墓前祭
 高知・四万十市
 (写真)追悼の言葉をおくる田中実行委員長=24日、高知県四万十市
  幸徳秋水(1871~1911)が「大逆事件」の首謀者として処刑されて100年にあたる24日、出身地の高知県四万十市で、「幸徳秋水刑死100周年記念事業実行委員会」が主催し、墓前祭が行われ、大勢の市民らが参列しました。
 四万十市は、田中全市長を実行委員長に官民12団体が実行委員会をつくり、秋水の偉業を伝える啓発事業やシンポジウムなどを、今年1年間を通じて行っています。
 田中実行委員長は「秋水先生は日露戦争にも勇気をもって非戦論を唱え、非戦・平和、自由平等の思想の広がりを恐れた明治政府によってつくられた大逆事件の犠牲になりました。先生の志を引き継ぎ自由・平等・博愛の世界実現に取り組んでいきます」と追悼のあいさつをしました。
 遺族や市民、大逆事件の研究者らとともに、日本共産党を代表して岡本かずや党幡多地区副委員長が献花しました。
 日本共産党志位和夫委員長がメッセージ(別項)を寄せました。
 自由民権記念館友の会の窪田充治会長(79)は「100年前に戦争の本質を見抜き非戦論を唱えた秋水の思想は現代にも生きるものです」と話していました。
 志位委員長がメッセージ
 幸徳秋水大逆事件で刑死して百年を迎えるにあたり、墓前祭へのごあいさつを申し上げます。
 幸徳秋水は、日本における社会進歩の運動のさきがけの一人でもあります。師である中江兆民の自由民権論を継承・発展させ社会主義へすすみ、『廿世紀之怪物帝国主義』『社会主義神髄』などの啓蒙(けいもう)書を著し、マルクスエンゲルスの『共産党宣言』を初めて翻訳し、紹介に貢献しました。
 また、日露戦争時に、幸徳秋水堺利彦らと「平民新聞」を創刊し、日本とロシアの人民はともにこの戦争に反対し両国の専制政府とたたかおうと、反戦闘争の先頭に立って「非戦」の論陣を張ったことは、わが国の近代史に特筆すべきことでした。
 反戦平和が世界の大きな潮流となっている今日、幸徳秋水反戦の活動は、歴史のなかで新たな輝きをまし、私たちの反戦平和のたたかいを力強く励ますものとなっています。
 2011年1月24日
 日本共産党幹部会
 委員長 志位和夫
 大逆事件 1910年、明治天皇の暗殺を計画したとして全国数百人の社会主義者無政府主義者が検挙されました。11年に幸徳秋水ら12人が死刑、12人が無期懲役、2人が有期刑にされた弾圧事件。」
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 大逆事件死刑執行100年の慰霊祭に当たっての会長談話
 1910年(明治43年)、明治天皇の殺害を計画したとして幸徳秋水ら26名が刑法73条の皇室危害罪=大逆罪(昭和22年に廃止)で大審院に起訴された。大審院は審理を非公開とし、証人申請をすべて却下した上、わずか1か月ほどの審理で、1911年(明治44年)1月18日、そのうち2名について単に爆発物取締罰則違反罪にとどまるとして有期懲役刑の言渡しをしたほか、幸徳秋水ら24名について大逆罪に問擬し、死刑判決を言い渡した。死刑判決を受けた24名のうち12名は翌19日特赦により無期懲役刑となったが、幸徳秋水を含む残り12名については、死刑判決からわずか6日後の1月24日に11名、翌25日に1名の死刑の執行が行われた。いわゆる大逆事件である。本年は死刑執行から100年に当たる。
 幸徳秋水らが逮捕、起訴された1910年(明治43年)は、同年8月に日本が韓国を併合するなど絶対主義的天皇制の下帝国主義的政策が推し進められ、他方において、社会主義者無政府主義者など政府に批判的な思想を持つ人物への大弾圧が行われた。そのような政治情勢下で発生した大逆事件は、戦後、多数の関係資料が発見され、社会主義者無政府主義者、その同調者、さらには自由・平等・博愛といった人権思想を根絶するために当時の政府が主導して捏造した事件であるといわれている。戦後、大逆事件の真実を明らかにし、被告人となった人たちの名誉を回復する運動が粘り強く続けられた。
 死刑執行から50年の1961年(昭和36年)1月18日、無期懲役刑に減刑された被告人と、刑死した被告人の遺族が再審請求を行い(棄却)、1990年代には死刑判決を受けた3人の僧侶の復権と名誉回復がそれぞれの宗門で行われ、2000年(平成12年)12月には幸徳秋水の出生地である高知県中村市(現在、四万十市)が幸徳秋水を顕彰する決議を採択、2001年(平成13年)9月には犠牲者6人を出した和歌山県新宮市が名誉回復と顕彰を宣言する決議を採択した。
 また、当連合会は、1964年(昭和39年)7月、東京監獄・市ヶ谷刑務所刑場跡慰霊塔を建立し、大逆事件で12名の死刑執行がなされたことへの慰霊を込め、毎年9月、当連合会と地元町内会の共催で慰霊祭を開催してきた。
 政府による思想・言論弾圧は、思想及び良心の自由、表現(言論)の自由を著しく侵害する行為であることはもちろん、民主主義を抹殺する行為である。しかも、裁判においては、上記のとおり、異常な審理により実質的な適正手続保障なしに、死刑判決を言い渡して死刑執行がなされたことは、司法の自殺行為にも等しい。大罪人の汚名を着せられ、冤罪により処刑されてしまった犠牲者の無念を思うと、悲しみとともに強い怒りが込み上げてくる。
 当連合会は、大逆事件を振り返り、その重い歴史的教訓をしっかり胸に刻むとともに、戦後日本国憲法により制定された思想及び良心の自由、表現(言論)の自由が民主主義社会の根本を支える極めて重要な基本的人権であることを改めて確認し、反戦ビラ配布に対する刑事弾圧や「日の丸」・「君が代」強制や、これに対する刑事処罰など、思想及び良心の自由や表現(言論)の自由を制約しようとする社会の動きや司法権を含む国家権力の行使を十分監視し続け、今後ともこれらの基本的人権を擁護するために全力で取り組む所存である。また、政府に対し、思想・言論弾圧の被害者である大逆事件の犠牲者の名誉回復の措置が早急に講じられるよう求めるものである。
 2011年(平成23年)9月7日
 日本弁護士連合会
 会長 宇都宮 健児
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 2015年12月11日号 週刊金曜日「論争 改革者かテロリストか『大逆事件』が今に問いかけるもの 藤原英信
 水上勉に『古河力作の生涯』という作品がある。明治末期の1910・11年に『大逆事件』とよばれる天皇暗殺計画があったが、古河はこれに連座して死刑に処せられたのだった。若狭出身の水上は山ひとつ隔てた同郷の若き『主義者』に深い哀情の情を寄せその出自から国家によってわずか28年の生涯をとざされるまでの足跡を丹念に追っている。
 水上によると、まじめで有能な園芸技術者として人生の出発をした古河力作は、仕事を通じてさまざまな階層の人々を知るうち、世の不平等や諸矛盾にめざめ、やがて幸徳秋水社会主義者接触をもつようになったという。しかし古河自身は決して事件の中心的存在ではなく、同志間の微妙な人間関係の中でいつのまにか首謀者の一人に祭り上げられた、というのが実相であるようだ。
 当時の官憲はこの事件を口実に全国の社会主義者を根絶やしにすべく、粗雑きわまる捜査と不十分な証拠をもとに大量検挙を行ない、最終的に12人の死刑者を出したことは史実にある通りである。
 本書を通読して感じたことの第一に、世にいわゆる『テロリスト』なる人間と、社会の改革者とは紙一重の差であることだ。否、実質は同一であって成功すれば改革者となり、失敗に終われば『テロリスト』と烙印されるのではなかろうか。現に、日本近代化の功労者として名を残す薩長の志士らの行動(外国公使館焼き討ちや尊皇の名目により無抵抗な国学者を暗殺)など、テロリズム以外のなにものでもない。行為そのものは否定されるべきことだが、思想・信条の善悪を判断することが不可能である限り、歴史の審判に委ねるほかないであろう。
 第二に、天皇制の問題である。大逆事件の首魁とされた幸徳秋水と古河を含む同志たちは、当時の日本社会の諸矛盾や民衆の不幸の根本に天皇があるとした。幸徳らは、社会変革のこころざしが思い窮(きわ)まって天皇制に真っ向から立ち向かったのである。日清・日露戦争から日中戦争そして太平洋戦争まで、近現代史に果たした歴代天皇の立場を冷静にとらえるならば、近代国家としての不自由さ、後進性は明らかであろう。
 古河らの時代から約34年後の『東京裁判』で、戦争指導者は米国の政治的意図があったとはいえ、天皇に訴追が及ぶことを、身を捨てて防いだのだった。また、当時の日本人の9割以上も天皇制存続を望んでいたという。天皇という一人の人間に殉じた軍国指導者らと、それ以前に多くの不幸な民衆に殉じた古河らと、どちらが真の近代人であったか。
 一世紀以上も昔に古河力作たちが命をかけて問いかけたものは何だったのだろう。新年の宮中参賀の群集や、宮中園遊会に毎年嬉々として参会している各界著名人らをみていると、私たちは本当に近代化したのだろうか、という思いにとらわれる」
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 2022年5月4日 MicrosoftNews NEWSポストセブン「【逆説の日本史】「でっち上げ」で極刑に処せられた究極のアナキスト幸徳秋水
 © NEWSポストセブン 提供 作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)
 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立III」、「国際連盟への道 その6」をお届けする(第1339回)。
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 これまで述べたように、明治天皇儒教的名君をめざし、ひたすら徳を積むことをめざしていた。その天皇が「朕が不徳の致すところ」と生涯の汚点と考えたかもしれない大事件が、その治世の晩年に起こった。いわゆる大逆事件である。
 〈たいぎゃく-じけん【大逆事件
 明治43年(1910)多数の社会主義者無政府主義者明治天皇の暗殺計画容疑で検挙された事件。大逆罪の名のもとに24名に死刑が宣告され、翌年1月、幸徳秋水ら12名が処刑された。幸徳事件。〉
 (『デジタル大辞泉小学館刊)
 大逆とは天皇に謀反を起こすことで、「天皇が神の子孫」と決定して以来、日本人にとって絶対に許すべからざる最大の罪であった。すでに述べたように、後に天武天皇となった大海人皇子壬申の乱で倒した敵は大友「皇子」では無く、即位した天皇弘文天皇)と考えられるのだが、『日本書紀』には大海人皇子が戦った敵はあくまで「皇子」で天皇では無い、と書かれてある。しかし、それを編纂したのは他ならぬ天武天皇の息子の舎人親王だから、ここはデタラメが書いてあると考えるのが合理的である。逆に言えば、そう書かざるを得ないほど大逆は日本人にとって重い罪だということだ。
 明治になって日本が近代国家になると、大日本帝国刑法で大逆罪が設けられ法律上の罪にもなった。最初は刑法第一一六条に「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」と定められた。三后とは太皇太后、皇太后、皇后、つまり二代前の天皇の「皇后」までその範囲に含まれるということだ。逆に上皇が対象とされていないのは、この時代天皇は終身在位するからである。大日本帝国憲法皇室典範の時代には上皇は存在しない。
 条文を見ていただければわかるが、天皇を暗殺するどころかケガを負わせたり、あるいは未遂であっても死刑に処するという、他に類例を見ない厳しい罰則規定がある。しかも、大日本帝国憲法下においても現在の最高裁判所にあたる大審院は存在し三審制もあったのだが、この罪については大審院で一回だけ、しかも非公開で審理を行なうという即断即決の形になっていた。
 もちろん、これでは冤罪を生みやすいと批判されても仕方が無いほど異例の規定であったのだが、これを社会主義者弾圧に用いようとした首相桂太郎にとっては、じつに好都合であった。こう言えばおわかりだと思うが、この大逆事件で逮捕された二十四名、死刑に処された十二名のうち四名以外は無実であった。とくに、事件の代名詞にもなっている幸徳秋水も暗殺計画は知っていたが参加はしなかったので、まったくの無実であった。ところが、証人喚問もしないスピード審理のデタラメ裁判で死刑に処されてしまったのである。
 たしかに、このなかに明治天皇を殺そうとしたメンバーもいた。幸徳秋水の「パートナー」であった管野スガがそのリーダーだったのだが、ここで二人の経歴を紹介しておこう。
 〈こうとく-しゅうすい【幸徳秋水
 [1871~1911]社会主義者。高知の生まれ。名は伝次郎。中江兆民の門下。明治34年(1901)社会民主党を結成、即日禁止される。日露戦争に反対し、堺利彦と「平民新聞」を創刊。のち、渡米。帰国後アナーキズムを主張。大逆事件で検挙、主犯として死刑になった。著「廿世紀之怪物帝国主義」「社会主義神髄」など。〉
 (『デジタル大辞泉小学館刊)
 〈管野スガ かんのすが 1881-1911(明治14-44)
 明治の社会主義者。筆名須賀子、号は幽月。大阪生れ。鉱山師であった父の事業の失敗やみずからの離婚の不幸をへて《大阪新報》の記者となり、大阪婦人矯風会の林歌子の知遇をえて上京した。社会主義思想に近づき1904年平民社堺利彦を訪ね、やがて紀州田辺の《牟婁新報》に入り、ここで荒畑寒村と結婚。08年赤旗事件で投獄されたのち幸徳秋水と恋愛同棲し、アナーキズムに共鳴、09年《自由思想》の発行に協力するが、発禁となる。天皇制政府のきびしい弾圧の下で直接行動に傾き、宮下太吉らと天皇暗殺を謀ったが、10年発覚し、翌年幸徳らとともに刑死(大逆事件)。獄中手記《死出の道艸》がある。〉
 (『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者井手文子)
 天皇暗殺を立案し実行の準備をしたのは、管野スガ、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の四人だけだったようだ。宮下太吉は、山梨県甲府市出身で機械工として働いていたが、同じく大逆事件で死刑になった僧侶内山愚童の著書『無政府共産』を読んで、天皇崇拝など愚かなことでこの制度を一刻も早く潰し民衆主体の国家を作るべきだと考えるようになった。主犯は管野スガでは無く、宮下のほうだという見解もある。暗殺の手段として爆弾投擲を考案したのも宮下で、工学的知識を活かし試作品の爆弾を製造し実験までしたという。計画が当局に察知されたきっかけは、この実験だった。ただし、この「爆弾」はおもちゃのようなもので殺傷能力は無かったという見解もある。
 新村忠雄は、長野県の豪農の息子で早くから無神論者だった。幸徳秋水のもとで宮下と会い、意気投合し計画に加わった。ただし、当初の狙いは天皇では無く皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)だったという説もある。古河力作は、当初はメンバーに入っておらず爆弾の投擲者を決める段階で加わったとされており、冤罪だったという説がある。
 とにかく、大逆事件なるものの実態はまさに管野、宮下、新村の三名を主体とした暗殺未遂事件にすぎなかったのだが、管野と同棲しその思想に影響を与えたとは言え計画には加わらなかった幸徳秋水、彼らの思想に影響を与えただけの内山愚童が共犯として処刑されただけで無く、幸徳の無政府主義に共感し交流があっただけのキリスト教徒大石誠之助や、大石と親しく地元の和歌山県新宮市社会主義運動をやっていただけの成石平四郎、爆弾の製造法を聞かれただけの奥宮健之、社会主義運動家ではあったが暗殺未遂事件とは関わりない松尾卯一太と新美卯一郎らも死刑に処せられてしまった。つまり、桂内閣は実行犯四名の事件を死刑判決者だけでも二十四名に拡大し、死刑判決を受けた二十四名のうち半数の十二名は減刑したものの、十二名は判決六日後(菅野スガだけは七日後)に処刑してしまったのである。
 この裁判は一審だけで、審理は公開されなかった。つまり国民はなにも知らされず、桂内閣の意を受けた検察官が無実の人間を大量に極刑に追いやったという、まさにやりたい放題のとんでもない事件であったのだ。言葉を換えて言えば、桂内閣いや首相桂太郎は権力側がもっとも冤罪をでっち上げやすい大逆罪を巧みに利用して社会主義勢力の大弾圧を図ったということだ。これが、異例の出世を遂げ公爵にまでなった「ニコポン」桂太郎のもう一つの顔である。
 昭和になって、朱子学導入以来の「天皇の絶対化」の歴史を著書『現人神の創作者たち』で鋭く追究した評論家にして在野の歴史家山本七平は、大石誠之助の縁戚であった。しかも両親とも大石と同じ和歌山県新宮市の出身で、幸徳秋水ときわめて親しかった内村鑑三の直弟子のキリスト教徒であった。山本は『現人神の創作者たち』を書いた理由を、同書の「あとがき」で「私が三代目のキリスト教徒として、戦前・戦後と、もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかったという単純な事実に基づく」と述べている。
 レーニンより早かった帝国主義分析
 では、桂はなぜそこまでして社会主義者を弾圧しようとしたのか?
 一言で言えば、それは日露戦争に勝つためであり、勝って欧米列強の仲間入りをするためであった。帝国主義への参入と言ってもいい。いまでは忘れられていると言ってもいいが、その路線にもっとも徹底的にしかも論理的に反対したのが幸徳秋水であった。
 秋水は究極のアナキストつまりアナーキズムの信奉者である。アナーキズムとは、「《「アナキズム」とも》一切の政治的、社会的権力を否定して、個人の完全な自由と独立を望む考え方。プルードンバクーニンなどがその代表的な思想家。無政府主義。アナ」(『デジタル大辞泉』)である。
 では、ピエール・ジョセフ・プルードンとは何者かと言えば、「[1809~1865]フランスの社会主義者。民主的な経済制度や相互連帯に基づく自由で平等な社会の実現を主張。経済的自由主義共産主義・国家を否定した。著『財産とは何か』『貧困の哲学』など」(前掲同書)であり、ミカエル・アレクサンドロビッチ・バクーニンは、「[1814~1876]ロシアの革命家。無政府主義者1840年代、ヨーロッパ各地の革命に参加したが捕らえられ、シベリアに流刑。1861年、脱走して日本・アメリカを経て、ロンドンに亡命。第一インターナショナルに参加したが、マルクスと対立して除名された。著『国家制度とアナーキー』『神と国家』など」(前掲同書)である。
 注意すべきは、バクーニンカール・マルクスと対立しているということである。これは当然で、共産主義も労働者の政府という国家は否定しない。だからこそプルードン共産主義に反対だったのである。『無政府共産』という著作もあるがゆえに、日本人のなかには混同している向きもあるが、かつてのソビエト連邦あるいは現在の中華人民共和国のように「プロレタリア独裁」を基本原理に政府の存立を認めるという点で、両者はまったく違うものなのである。
 アナキストは国家を否定するのだから、その国家が強大化し他国を植民地化する帝国主義は認められないし、その手段としての戦争も絶対に拒否することになる。一切の権威を認めないという点で、アナキスト共産主義者には無神論者という共通点が生まれるのだが、反戦という共通目的があればアナキストキリスト教徒とも共闘できる。アナキスト幸徳秋水キリスト者内村鑑三の深い交わりはそこから生まれた。
 そもそも明治を代表する文人ジャーナリストの一人、黒岩涙香(周六)によって創刊された新聞『萬朝報』が二人の出会いの場であった。「簡単、明瞭 、痛快」という黒岩の編集方針に賛同した内村、幸徳、それにのちに共産主義に転じた堺利彦とともに、彼らは花形記者として活躍した。ところが、日露戦争が避けられなくなると最初は反戦論を唱えていた黒岩主筆が世論の動向に抗しきれず開戦論に転じたため、内村は単独で、幸徳・堺は連名で「われわれは社会主義の見地から戦争を貴族、軍人等の私闘であり大多数の国民の犠牲によって成り立つものと紙上で伝えてきたが、社の方針の転換によって沈黙せざるを得なくなった。
 しかし、このまま沈黙するのは志士の社会に対する責任に欠けることになるので、やむを得ず退社する」という「退社の辞」を叩きつけた。そして幸徳・堺は新たに『平民新聞』を創刊した。この新聞では、徹底的に日露戦争開戦反対の論陣を張った。挙国一致で日露戦争という国難を乗り越えようとしている桂から見れば、それは国家に対する裏切り行為と見えただろう。
 幸徳は、世界思想の潮流のなかで自分の立ち位置がよく見えていた。その証拠に、『萬朝報』在社中の一九〇一年(明治34)に三十歳の若さで最初の著作『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行している。もっともその序文で幸徳は、これは著作というより著述、つまりオリジナルでは無く先人の思想を紹介するものだと述べているが、これは謙遜というものだろう。この著作は、世界レベルで見てもきわめて早い帝国主義の優秀な分析だという評価がある。実際、あまりにも有名なロシアのレーニンの『帝国主義論』(原題『資本主義の最高段階としての帝国主義』)が書かれたのは一九一七年(大正6)で、幸徳のほうが十六年も早い。
 ところで、桂―タフト協定を覚えておられるだろうか? 日露戦争真っ最中の一九〇五年(明治38)七月、日本の桂太郎首相と米国大統領特使ウィリアム・タフト陸軍長官との間で合意した秘密協定だ。その内容は、日本はフィリピン独立運動に対する支援を一切やめる代わりに、アメリカは大韓帝国に対する日本の優先権を認めるというもので、アメリカのフィリピン併合、そして日本の韓国併合への道を開いたものである。いわば帝国主義の仲間同士が縄張りを決めたということで、日本の帝国主義路線参入を決定的にした秘密協定だが、こうしたアメリカのフィリピンに対する態度に対し真っ向から異を唱えたのも幸徳なのである。
 (第1340回につづく)
 ※週刊ポスト2022年5月6・13日号」
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々でそれ以前の人々ではない。
 部落民は、江戸時代から明治中期、明治後期から昭和前期、敗戦後、その時代・時期で由来・出自が全然違う。 
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 精選版 日本国語大辞典「大逆罪」の解説
 【大逆罪】
 〘名〙 (「たいぎゃくざい」とも)
① 主君や親を殺すような、人の道にそむいた悪逆の行為。
 ※今昔(1120頃か)三「我が君、何に思してかかる大逆罪をば造り給ぞ」
旧刑法第七三条に規定された天皇・皇后・皇太子・皇太孫・皇太后太皇太后に対して危害を加え、または加えようとすることによって成立した罪。死刑に処せられることになっていたが、昭和二二年(一九四七)の刑法改正により廃止。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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 百科事典マイペディア「大逆罪」の解説
 大逆罪【たいぎゃくざい】
 天皇太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太孫に対し危害を加え,または加えようとする罪で,法定刑は死刑のみ。刑法第73条に規定されていたが,日本国憲法の施行によって削除。本罪を適用されたものとしては大逆事件虎ノ門事件などが有名。
 →関連項目大津事件金子文子桜田門事件|朴烈事件
 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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 大逆罪とは、かつて日本で天皇、皇后、皇太子などに危害を加えることをその内容とした犯罪類型。明治15年(1882年)に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の明治41年(1908年)に施行された現行刑法73条が規定していた。日本国憲法施行後の昭和22年(1947年)に後者が削除されたことにより失効した。
 統治権立法権・行政権・司法権)を総攬する天皇を国家の根幹と位置づけた旧憲法下では、天皇やその近親に対して危害を加える行為は国家そのものに対する反逆とみなしたことから、大逆罪を最も重大な罪の一つとしていた。
 適用例
 大逆罪が適用された判例は4件ある。既遂はなく、未遂が2件、予備・陰謀が2件で、予備・陰謀事件の中には無実の者も含まれていたと今日では考えられている。特に最初の大逆罪適用例であり、かつ最も有名な幸徳事件では、26名の被告人のうち実際に陰謀を計画したのは数名に過ぎなかったにもかかわらず、このうち24名(26人全員とする資料もある)に大逆罪が適用されて死刑判決が下された。翌日になって明治天皇の「仁慈」により12名が無期懲役減刑されたが、幸徳秋水、管野スガら12名の死刑は判決から実に1週間以内に執行されるという慌ただしさであった。また無期懲役となった12名も、8年以内に2名が自殺、3名が獄死し、後年仮出獄を得たのは7名だけであった
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「不敬罪」の解説
 不敬罪 ふけいざい
 第二次世界大戦前の刑法には、その第二編「罪」のなかの第1章に「皇室ニ対スル罪」という章があり、その第74条は「天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス 神宮又ハ皇陵ニ對シ不敬ノ行為アリタル者亦(また)同シ」と規定し、第76条は「皇族ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ二月以上四年以下ノ懲役ニ處ス」と規定していた。同様の規定は旧刑法第117条および第119条にもみられた。これらが不敬罪である。不敬罪の実質は皇室に関する名誉毀損(きそん)罪の特別罪である。しかし、個人の平等を尊重する日本国憲法の趣旨により、昭和22年法律第124号により、不敬罪を含む「皇室ニ対スル罪」は削除され、現行法には不敬罪は存在しない。
 [名和鐵郎]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 ウィキペディア
 不敬罪は、国王や皇帝などの君主・王族・皇族の一族と宗教・聖地・墳墓などに対し、名誉や尊厳を害するなど、不敬とされる行為の実行により成立する犯罪。
 日本国内においては、1947年(昭和22年)の刑法改正により、天皇・皇后および皇族に対する不敬罪は廃止された。
 日本
 不敬罪の客体は、次の5種に分けられる。条文は「#刑法」を参照。
 天皇(74条1項)
 太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太孫など天皇に準ずる皇族(同条項)
 神宮(74条2項)
 皇陵(同条項)
 普通の皇族(76条)
 不敬罪の実行行為は、これらの客体に対して「不敬ノ行為」(不敬行為)を行うことである。不敬罪の法定刑は、1.〜4.の客体に対する罪は「3か月以上5年以下の懲役」とされ、5.の普通の皇族に対する罪は「2か月以上4年以下の懲役」とされた。
 不敬罪の客体のうち「ジングウ」は、伊勢神宮を指すのが通例だが、熱田神宮橿原神宮香取神宮など「神宮」と名付く神社も含まれると解された。また、同じく「皇陵」は、かつて天皇に在位した歴代の天皇の墳墓と解された。なお、現在でも礼拝所不敬罪という罪名があるが、これは単に墳墓や神社仏閣の境内、教会堂全般に対する保護のためのもので、皇室とは直接関係ない。
 不敬罪の保護法益は、客体が体現(象徴)する国家の名誉と尊厳、および客体自身の名誉と解された。そのため、不敬罪は、一般人における名誉毀損罪や侮辱罪など、名誉に対する罪の一種とされた。しかし、「不敬ノ行為」(不敬行為)は、これら一般人における名誉に対する罪の実行行為よりも広い範囲の行為を含むとされた。また、名誉毀損罪などが親告罪とされるのに対して、不敬罪非親告罪とされた。
 不敬行為とは、客体に対する軽蔑の意を表示し、その尊厳を害する一切の行為を指すとされた。客体の行為の公私の別・即位の前後・事実の有無・事実の摘示の有無に関係なく、これら全てについて一切の行為、上は実際の名誉毀損・侮辱行為から下は神性(現人神であること)に疑問を持つなどまでである。また、その行為は、第三者から認識し得ることを要するものの、公然・非公然の別を問わないため、日記の記述を不敬行為とした判例もあり、適用範囲はきわめて広かった[26]。要求される敬意を不可抗力で払えない場合でも不敬行為とされた。
 もっとも、歴代の天皇に対する不敬行為は、それが同時に現在の天皇に対する不敬行為にあたる場合を除き、不敬罪は適用されず、ただ死者に対する名誉毀損罪(230条2項)の適用の有無のみが問題とされた(注:死者に対する名誉毀損罪は、「虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ」(現代語化改正前の法文は「誣罔ニ出ツルニ非サレハ」)、処罰されない)。
 現行法律下では告訴権者が「天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣」であるときに内閣総理大臣が代わって名誉毀損罪や侮辱罪の告訴を行うことができるのみで、適用される法律自体は一般国民に対するそれと変わらない(刑法232条2項・同条1項、同章)。
 沿革
 日本では不敬罪は、1880年明治13年)に公布された旧刑法明治13年太政官布告第36号)において明文化された。この規定は、1907年(明治40年)に公布された現行刑法(明治40年法律第45号)に引き継がれた。
 その後、1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布された際に出された大赦令により、不敬罪(74条、76条)について恩赦の対象とされ、同条を含む法第2編第1章(「皇室ニ對スル罪」、73条から76条まで)は、1947年(昭和22年)10月26日に削除された。
 不敬罪で起訴された最後の事件は、1946年(昭和21年)5月1日の飯米獲得人民大会における『プラカード事件』であるが、前記の大赦令の公布により免訴となった。この刑法第2編第1章には、不敬罪のほか、天皇・皇族などに対して危害を加える行為(未遂を含む)を加重処罰する罪(73条、75条)も定められていた。危害罪も含めた「皇室ニ對スル罪」全体を『不敬罪』と呼ぶこともある。
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 日本の歴史には3種類あって、1,日本民族の民話・伝承・寓話・宗教によるローカルな神話物語、2,アフリカを源流とする人類進化・文明発展史、3,記録が残る人間英雄伝説である。
 ローカルな神話物語とは、古事記日本書紀を正統根拠とする日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話、つまり女性神天照大神最高神とする天皇神話である。
 それが、皇国史観であった。
 グローバルな人類文明史には、科学的経験的正当性はあっても宗教的合理的正統性はない。
 神話物語・人類文明史・人間英雄伝説の3つを均等に持つのは、民族としては日本民族琉球民族アイヌ民族だけで、国家としては日本国だけで、その歴史に正当性を裏書きしているのが正統な天皇の神格である。
 その意味で、日本は特殊で特別であるが、日本国と日本人が優れているとは無関係である。
 天皇は正史で日本を武力統一して日本建国宣言の詔を発していない為に、日本には建国年と建国記念日は存在しない。
 現代日本建国記念日は、天皇神話物語であって人類文明史・人間英雄伝説ではない。
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 デュルケーム「(宗教の役割の一つは)共同体を維持する装置」(『宗教生活の原初形態』)
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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
 八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
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 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展・進化・進歩、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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 神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
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 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
 つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
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 数千年前の弥生時代古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
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 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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