☂04:─7─在日本朝鮮人連盟と日本共産党は分捕った朝鮮人徴用工の未払い賃金を分け合った。〜No.21 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 韓国と一部の日本人が日本の非人道的犯罪として騒ぎ立てている徴用工問題は、既に解決した話である。
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 2022年4月28日号 週刊新潮「党史には出てこない不都合な真実
 『共産党』再建資金に『朝鮮人徴用工』に未払い賃金
 東郷一馬
 第10回 『未払い賃金』は『朝連』が回収した
 近年、韓国で訴訟が相次いだ朝鮮人徴用工の『未払い賃金』問題。日本の炭鉱や軍需産業で働いた朝鮮人たちの賃金は、どうなったのか。政府は各企業に対し、未払い賃金や貯金などを政府機関に供託するよう要請していた。だが、例外措置があったのである。
〔前号まで
 戦後まもなく設立された『在日本朝鮮人連盟』(朝連)は、日本共産党と一体化して革命運動を繰り広げた。当初、その活動資金となったのは、戦前から続く親日朝鮮人団体の資産だった。その後、朝鮮人の引揚げ事業を受託した朝連は、全国の鉄道網の切符の発券、発売を財源としていく。同時に、多くの朝鮮人たちが働く炭鉱は活動の拠点となり、そこで集められたカンパも革命運動を支えた〕
 ここに労働省労働基準局給与課が作成した『帰国朝鮮人労務者に対する未払賃金債務等に関する調査集計』(1953年7月20日)という資料がある。
 1946年、日本政府は朝鮮人労働者を雇っていた事業者に対し、終戦時の未払い賃金や債務などの供託を義務づけたが、これはその調査報告書である。

 内訳             
1,供託   80,280   10,005,537,70
2,未供託分 51,947    4,354,870,75
3,第三者に対する引渡分
       17,361   2,963,878,19
   総計  149,587  17,324,286,64
     労働省労働基準局給与課(昭和28.7.20)

 報告書の数字は何度か着き替えられているが、これは最終版と思しきもので、前の数字は件数、後の数字は金額を表している。「1」の供託分は、政府が、各地に作った供託局や司法事務局に供託されたものだが、ここで注目すべきは「3」である。「第三者」に対し、未払い賃金などが引き渡されていたのだ。
 該当箇所を見ると、各事業所が第三者に引き渡した帰国朝鮮人労務者への未払い賃金や退職積立金、退職慰労金、預金、厚生年金脱退金などが詳しく書き込まれている。
 記載された事業所は23都府県57ヵ所。炭鉱、鉱山が22ヵ所あり、他に機械工場や建設業、運送業などもある。
 そしてその引渡先の項目が並んでいるのは、ほとんどが在日本朝鮮人連盟(朝連)の各地支部なのである。引渡期限は1945年11月11日が最後だ。
 ……
 この資料は全県を網羅しておらず、内訳にもばらつきがあるため、全体を示すものではない。おそらくは、調査に応じた企業の申告に基づいて作成されたものであろう。
 『朝総連研究』(高麗大学校亜細亜問題研究所)で、朝連資金源を分析した田駿はこう書いている。
 『朝連は日本当局に対し、または日本経営主に対して帰国者に対する退職金、旅費、慰労金等の金品を要求した。(中略)その実数を知ることはできない。ただ証拠として残っているものとして、1946年3月末まで朝鮮中央労働部長名義となった各処に対する請求額は4,366万円であり、その中で受領されたものは359万円であった』
 金額はこれよりかなり少ないが、労働省の『調査集計』はまさに、田駿が書いた朝鮮人労務者の未払い賃金要求に関する国側の資料なのである。
 朝連の要求
 実は朝連が労働部長名で各企業に宛てて、未払い賃金や債権の回収を要求した文書の雛形が残っている。大阪市中之島中央公会堂で行われた朝連の第3回全国大会(1946年10月)で、韓徳銖(後の朝鮮総聯初代議長)が行った発表を、『朝鮮人強制連行の記録』の著者・朴慶植がまとめた『総務部経過報告書』の中にある。
 それは『強制労働者、使用主に対する覚書』と題され、このように始まる。
 『日本帝国主義侵略戦争の全期間中を通じて、わが朝鮮民衆に犠牲を強要する惨虐な搾取的労務雇傭条件によって奴隷的苦境に呻吟(しんぎん)した朝鮮労働者は栄光なる聯合国の勝利によって祖国再建と、侵略者日本帝国主義の壊滅によって屈辱的奴隷状態から解放され、民族的国際的人格として自由平等の権利を奪還したのである』
 戦後の朝鮮人労働者をこのように位置付けた上で、
 『貴社が使役した朝鮮労働者に関してこの新事態の観点で従来の待遇と将来の処遇方法に対して在日朝鮮人の一切の利益を代表とする本聯盟は甚大なる関心を持ってきた。元来、わが同胞労働者の過半数が素朴で無知文盲であるのを奇貨として劣悪な労働条件の強制と給与金品の不正横領によって物質的にはもちろん精神的に心身を浸蝕し、また敗戦後、窮迫した肌寒状態に対して何等誠意ある対策がないだけでなく日本政府の欺瞞的政策だがその対策指示までだと、労働者の無知を利用して責任回避を企図する非人道的暴虐行為は戦争犯罪的ミリタリズムの厳然として実例でなく何であろう。(略)本聯盟は貴社のこうした罪悪的暴挙と背徳的行為の責任を徹底的に追求し〝ポツダム〟宣言によって保障された朝鮮人の福利と権威を擁護する栄光ある権利を再確認するものである。ここに本聯盟は貴社に対して急速に別記条件に対する回答を要求すると同時に即時誠意ある履行を要求するものである。この要求条件を完全に履行し、貴社が人道的、社会的、道徳的信義を天下に表明することを確信するものである』
 その別記条件とは以下である。
 ……
 そして『附記』として、
 『死亡者、行方不明者及び既帰国者に対する支払いは在日本朝鮮人連盟中央総本部に委託し、各人の本籍地、遺家族又は本人に伝達することを一任すること』
 とある。つまりは、後は全て朝連に任せろ、ということだ。
 この雛形に基づき全国の支部の活動を繰り広げた結果、
 『件数    340件
  関係人員数 4万3,314名
  解決金額  2,687万6,844円』
 を回収したことも報告されている。これは労働者の『調査集計』とも田駿の著作とも一致しないが、当事者の記録であるから、この時点の数字としては信頼に足るものであろう。ちなみに日銀の企業物価指数で現在の金額に換算すると、約800倍の215億以上になる。
 釜石製鉄所の対応
 こうした朝連の回収作業を記す事業所側の資料がある。旧日本製鉄釜石製鉄所の業務部労務課長を務めていた林泰の回顧録である。
 朝鮮人労務者の送還を担当していた林は当時をこう振り返る。
 『戦時中に朝鮮人を徴用していて・・・その労務者と家族、この人たち800人位いたんだけど、終戦と同時に、一夜にして戦勝国民のように威張りだした。(略)その頃、所内は朝鮮人からの要望、対応に大変な騒ぎです。彼らは、朝鮮人連盟という組織を各県ごとに結成して、岩手では盛岡に県支部があって、県庁内をわがもの顔でのし歩き、食糧事情が極端に悪いとき、白米はもちろんのこと酒などの食糧をはじめ、ガソリンの特配を受けるなど、ずいぶん威張っていたんじゃないですか』(『林泰回顧談』私家版)
 そこれ朝連盛岡支部の本部長、外交部長が訪ねてきて、こう要求したのだという。
 『日本はわれわれが嫌がるのを徴用し、連行して強制労働をさせた。そのうち故国に帰ろうと逃亡した仲間がずいぶんいた筈だ。この逃亡前まで働いた分の未払い賃金があるだろう。それを調査の上、われわれに全額払って貰いたい。さらに公傷者に関することだが、指1本のケガに1,000円、腕1本1万円、死亡5万円。名前と補償金額を計算してわれわれに差し出せ』(同)
 金額は違うが、朝連の雛形に沿った要求である。そして彼らはこうも言ったという。
 『いずれ、県本部は領事館になる筈であり、われわれがそれまでこの全額を受取り、保管する』(同)
 林はこう回想する。
 『製鉄所だけでなく、こういう要求を、彼らは県内のあちこちでやり出した。もっとも小さな鉱山で対して強引な使役をしたところもあったらしい。
 外交部長というのが、立派な腕章をつけれおり、額に向こう傷があって、その上、話すときは、持って来た手錠まで眼の前に出してね、脅迫するわけですよ。凄かった。
 「日本人は・・・われわれ朝鮮人を強制労働させたんだぞ」
 このようにして、県内のあちこちで金を出させたそうで・・・ついに大橋の日鐵鉱山でも、当時の金で30万円位出したのですよ。
 だから、東北でもっとも大きな会社の釜鐵に金を出させなかったら「話にもならん」とそう思ってるわけです。
 額?たしか百何十万円か・・・を要求したね』(同)
 だが、林はそれを拒絶した。 
 『「日鐵は公傷者に対する慰労金は日本人も徴用労務者も、全部同一の規則、同一の基準で支払っている。朝鮮人なるがゆえに差別して払っていたわけではないから、そういうことはできない」
 若かったんだな、僕はそう言った。
 だが、それでも彼らはあきらめずに毎月、1、2回は団体交渉にきた』(同)
 林は県に相談するが、『役人は怯えていて頼りにならない』。
 『そこで、日鐵本社や労働省・・・いや当時はまだ内務省だったかな。いろいろ相談の上、結局、裁判所に何十万円だったか供託したんだが、これが日本での供託金第一号だった』(同)
 回収した賃金の行方
 未払い賃金をめぐっては、朝連以外の組織も目をつけ、争奪戦が行われていた。北海道の朝鮮民族統一同盟(朝連の一組織)の創立メンバーで、共産党でも活躍した金興坤が『怒りの海峡──ある在日朝鮮人の戦後史』(『季刊人間雑誌』草風館)に記している。
 帰国する同胞を擁護するという触れ込みで、『朝鮮建国準備委員会』という団体が北海道にやってきた。彼らは、金から炭鉱の使用者や朝鮮人組織、そこで働いていた朝鮮人の情報などを聞き出した上で、
 『夕張、美唄をはじめ歌志内、赤平など大小の鉱山を訪問した。が、同胞を訪ねるのではなく会社側の事務所を訪ねては、死亡者、逃避者その他の労働賃金、傷病者手当金、保証金など、さまざまな名目で取れるだけの金を会社側から取り、同時に旧協和会系幹部から多額の寄付金を集めていた』
 金は騙されたのである。その上、
 『我同盟関係者の欠点を探し集め、統一同盟はアカだのギャングだのと司令部に密告したため、安先浩委員長はじめ、強制連行で連れられてこられた家族のいない幹部8名が強制送還されてしまった。一時期に8名もの幹部を失った我統一同盟は、まったく手足をもがれたのと同様であった』(同)
 金は、一連の動きは、組織を潰すための策略だったと考えている。
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 さて、朝連は回収した未払い賃金などのお金を、帰還していった労働者に届けたのだろうか。
 朝連の集計だけでも4万3,314名もいる。しかも社会は混乱し、その後、朝鮮半島は分断されてしまうから、容易なことではない。
 当時のことを知る人々を訪ねて歩いたが、なかなか明解な回答はいただけなかった。その中で、
 『帰郷した同胞にお金を返金しようにも居所がわからなかったので朝連に留保され、一部政治活動に運用したのであろう』
 と、かつて在日本朝鮮人連盟支部共産党支部を掛け持ちしていた人物が語った。
 返還されたと考える朝連関係者も研究者もおらず、記録もない。それどころか田駿は『朝総連研究』でこうも書いているのだ。
 『帰国者の不動産を管理するという名目でその権利書を引継ぎ委任され、これを処分して朝連財政に投入した。ここには帰国者の寄付的心情も多少は含まれていたとことは見てとれるが、その額は巨額に達した』
 公安調査庁の坪井豊吉も、帰国してった同胞の財産を朝連が管理処分したことについて法務研究報告書で触れている。
 戦前から長年日本で暮らした朝鮮人は、多くの財産を日本に残したことだろう。それを管理し、資金としたのも朝連だった。そして彼らの活動と一体化していた日本共産党をも支えたのである。」
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 日本は1945年8月の敗戦を境に、数万年前の石器時代縄文時代から護り受け継いできた古き良き正しく美しい日本から悪臭漂うおぞましく醜悪で歪められた日本に激変した。
 つまり、現代の日本と昔の日本はまったく別物の日本である。
 日本の最悪な失敗とは、反天皇反日嫌日、敵日、侮日の朝鮮人や中国人の渡来人を無条件に受け入れ、信頼すべき親日・知日の朝鮮人や中国人の帰化人を切り捨てた事である。
 歴史教科書は、美化された渡来人の話で埋め尽くされ、帰化人の話は抹消されている。
 歴史的事実として、本来は、渡来人の話は罪であり、帰化人の話は功である。
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 古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
 日本にとって朝鮮は敵であり、朝鮮との間に友好関係や善隣関係などなく、疫病神として嫌い国交を拒絶していた。
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 歴史的事実として、日本が反日・敵日・侮日の朝鮮半島と親しく交わり深く付き合うと「必ず」不幸に見舞われ、悲惨な目に遭った。
 故に、「敬して遠ざけ、寄せ付けず、近付かない」が正しい付き合いであった。
 ハッキリ言えば、朝鮮人に対する偏見と蔑視、軽蔑と侮蔑である。
 何故か、それは、592年に第32代崇峻天皇が渡来人に暗殺されたからである。
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 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
 つまり、朝鮮人は日本人にとって苦楽をともに耐えて生きる隣人ではなかった。
 何故か、朝鮮人と幾ら腹蔵なく話し合っても無駄、朝鮮人には聞く耳はなく理解し合える、解り合える事はないからである。
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 徳川幕府は、オランダとは違い清国(中国)と朝鮮とは正式な国交を持たず隣国の誼として閉鎖的限定交易を行っていた、清国とは長崎奉行所が唐人屋敷で中国人商人と取引を行い、朝鮮とは対馬藩を通じて細々と行っていた。
 日本が海外から輸入して利益を得るところは、オランダは最先端として大で、中国は西洋学漢訳書として中で、朝鮮は特筆するところなく小であった。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
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 敗戦後の日本に住んでいた朝鮮人の多くが、在日本朝鮮人連盟以外に日本の共産党労働組合・部落解放団体など天皇制度打倒を目指した諸組織の構成員となっていた。
 日本共産党や部落解放団体の幹部は日本人であったが、現場で活動する・運動する・暴動を起こす一般共産主義者の大半が在日朝鮮人であった。
 歴史的事実として、天皇を殺害するのは日本人ではなく朝鮮人や中国人の渡来人である。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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