🎶25:─2─関東大震災における日米海軍の救援活動。~No.55 

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 日本とアメリカ・イギリスの関係は、日本と中国・朝鮮の関係とは違う。
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 2023年8月26日 産経WEST「関東大震災100年 戒厳令下で奔走した旧日本軍の錚々たる顔ぶれ 防衛研が史料公開
 火災地域と被災民の集団地を記した「東京市付近火災地域及罹災民集団地要図」。皇居東側の広範囲での被害が確認できる(防衛研究所戦史研究センター所蔵)
 約10万5千人が犠牲となった大正12(1923)年の関東大震災当時、被災者の救援活動や被害状況を克明に記録した旧日本軍の史料を、防衛省シンクタンク防衛研究所」(東京)がカラーでデジタルアーカイブ化した。震災時に軍が尽力した詳細はあまり知られておらず、9月1日で発生から100年を迎えるのを機に一部史料をオンラインで公開。史料からは現在の自衛隊活動に通じる礎(いしずえ)が読み取れる。
 デジタルアーカイブ史料は、軍がまとめた震災当時の被災状況や警備部隊の配置図など計8点で、防衛研究所戦史研究センター史料室が7月から公開を始めた。
 陸軍は地震発生から2日後の9月3日、戒厳令に基づき関東戒厳司令部を設置。司令官の指揮の下、東京、千葉、神奈川、埼玉の各方面に警備部隊を配置した。
 「関東戒厳司令部職員表」には、司令官に陸軍大将の福田雅太郎、参謀長に後に首相となる阿部信行の名が連なる。また参謀部警備課に、石原莞爾(かんじ)とともに満州事変(昭和6年)を起こす後の陸軍大将、板垣征四郎の名もあり、重要人物が要職を担っていたことがうかがえる。
 被災状況の記録も正確に図面化されていた。旧東京市(現在の東京都心部)の面積の44%が焼失したとされ、特に皇居東側は「火災地域」として赤色で塗られ、大規模な被害が発生していたことを示す。津波の被害地域を示した別の図面では、神奈川県の鎌倉周辺の沿岸地帯で「全滅」や「殆ント(ほとんど)全滅」を赤文字で記載。横須賀海軍航空隊が撮影した航空写真もあり、広範囲にわたって津波の被害を受けていたことが確認できる。
 発生から1カ月以上が経過した10月下旬に司令部が作成した「戒厳地域内警備兵力並警察官増減一覧表」によると、警備兵の数は9月中旬のピーク時は約5万人(憲兵約940人含む)だったが、徐々に警察官と入れ替わって減少。国民感情の安定と警察機能の回復に伴い、部隊の縮小を意識的に実施していた。
 警備兵力数と警察官の人数の増減に関する「戒厳地域内警備兵力並警察官増減一覧表」。警備兵力数は、9月中旬の約5万人(憲兵含む)がピークだった(防衛研究所戦史研究センター所蔵)
 同センター史料室は「警察官による治安維持が困難となる緊急事態の中、軍は救援活動をするにあたり、かなり国民感情に配慮していたことがうかがえる」と解説。公開史料について同室の斎藤達志2等陸佐は「現在の自衛隊にも通じる部分もあるが、軍による災害救援活動はあまり知られていない。貴重な一次史料であり、研究価値は極めて高い」と話している。(清水更沙)
 関東大震災 大正12年9月1日午前11時58分に発生した相模湾北西部を震源とするマグニチュード(M)7・9の大地震。東京、神奈川など南関東一帯に被害が拡大。旧東京市(現在の東京都心部)では、面積の約44%が焼失したとされる。内閣府の報告書によると、死者は10万5385人、全壊全焼流出家屋は29万3387戸に上り、電気や水道、道路、鉄道などのライフラインも壊滅状態となった。
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 関東大震災における日米海軍の救援活動について
 ―― 日米海軍の現場指揮官の活動を中心に ――
 倉谷 昌伺
 はじめに
平成 23 年 3 月 11 日に発生した東北地方太平洋沖地震は、想像を超える津波の来襲と原子力発電所の事故を生起させ、未曾有の被害をもたらした。また、海外からは数多くの救護支援を受け、特に在日米海軍の救援は、その初動の対応及び規模において他国が及びもつかない格段のものがあった。では過去の震災等における日米海軍の活動はいかなるものであったのか?本小論においては、約 90 年前に発生した大正関東地震及びそれに伴い発生した大震災(以後、本小論においては、双方まとめて「関東大震災」と記述する。)における当時の日本海軍、特に当被災地域の担当であった横須賀鎮守府と、当時の大清帝国青島(チンタオ)を拠点としていた米海軍アジア艦隊の発災初期の約2週間における救援活動についてまとめ、振り返ってみようとするものである。
 関東大震災に関する海軍の活動については後藤新八郎の論文(1)があるが、米海軍に関する論述はない。米陸海軍、赤十字等の活動については、同様に後藤の論文(2)、波多野勝等の書籍(3)があるが、双方ともに日米海軍の現場指揮官レベルの活動状況についての詳細な記述がない。
 これから述べる関東大震災は今から約 90 年も前のことであり、当時の社会は現代社会とは大きく異なっているため、そのまま現在と比較できないかもしれない。しかしながら、予想しなかった大災害に直面した日米海軍の行動等の記録をたどり、まとめておくことは、その後に発生した兵庫県南部大地震阪神・淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震東日本大震災)等と比較する上で極めて有用な資料となるとともに、将来の海軍(海上自衛隊)のあり方につい
 1 後藤新八郎「関東大震災における軍の救護活動」『新防衛論集』第3巻第2号、1975
年、同「関東大震災における海軍の活動」『波涛』第1巻第1号・第2号、1975 年 11
月・1976 年1月。
 2 後藤新八郎「関東大震災における米国の救援活動」『古鷹』第 27 号(海軍兵学校第 75
期会)、1991 年、86-89 頁。
 3 波多野勝、飯森明子『関東大震災と日米外交』草思社、1999 年、149-152 頁。
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 て示唆を与えるものと考える
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 関東大震災100年
関東大震災に関する旧日本陸海軍の史料―
 令和5(2023)年は、関東大震災から100年の節目にあたります。
 本デジタル史料展示では、防衛研究所戦史研究センター史料室が所蔵する、関東大震災に関する日本陸海軍の史料を展示し、関東大震災の被害や軍隊の対応、復興について紹介します。
1.関東大震災の被害
 大正12年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生しました。多くの民家で昼食の支度をしていたことから、多数の火災が起こります。火災は大規模化し、多くの人命が失われました。
 関東大震災は、火災だけではなく、一部地域に津波ももたらしました。また、多くの地域で地盤の隆起や沈下が確認されています。
 【史料①】「東京市付近火災地域及罹災民集団地要図 9月5日夜までの状況」
 本史料は、火災地域と罹災民の集団地を記した図です。主として皇居東側の広範囲が火災被害に遭っていたとわかります。
 【史料②】「東京近県震害情況概見図 9月11日迄に判明したる」
 本史料は、東京近県の都市における被害状況や道路破壊地点、そして「海嘯」(=津波)の被害地域を示した図です。葉山から鎌倉までの沿岸地帯は、津波の被害を受けていたとわかります。
 【史料③】「震災写真」
 本史料は、横須賀海軍航空隊が撮影した航空写真です。
横須賀海軍航空隊は、9月9日、伊豆半島および三浦半島の沿岸と館山湾を空中から撮影しました。津波は、葉山から鎌倉までの沿岸地域だけではなく、伊東市熱海市の沿岸にもおしよせていたとわかります(赤枠部分「伊東(一) 海嘯ノ為、海岸一帯ノ人家浸ハル」「海嘯ノ為、海岸一帯浸ハレタルモ伊東ニ比シ被害少シ」)。
 【史料④】「震災地付近地形及水深変化調査図」
 本史料は、震災地付近の地形と水深に関する調査図です。房総半島や三浦半島における沿岸の地盤が隆起した一方、伊豆半島東海岸の地盤は沈下したとわかります。
2.軍隊の対応
 陸軍は、地震発生から2日後の9月3日、「関東戒厳司令部」を設置します。
 戦前の日本には、「戒厳令」という法律が存在しました。「戒厳令」は、戦時もしくは天災その他の変事に際し、軍隊によって全国あるいは一地方を警戒する権限等が定められた法律です。
 「関東戒厳司令部」は、この「戒厳令」の一部規定に基づき、設置された陸軍の臨時司令部でした。東京とその近県に所在する陸軍部隊は、関東戒厳司令官による指揮の下、治安維持や罹災民の救護活動に尽力します。
 「関東戒厳司令部」は、民心の安定と警察機能の回復に伴い、部隊を撤収し、11月15日、廃止されました。
 【史料⑤】「関東戒厳司令部職員表」
 本史料は、「関東戒厳司令部」の職員表です。司令官は、陸軍大将の福田雅太郎、参謀長は、のちに首相となる阿部信行です。参謀部警備課には、のち石原莞爾とともに満州事変を起こす、板垣征四郎の名前が確認できます。
 【史料⑥】関東戒厳地域内警備部隊配置要図
 警備部隊は、関東戒厳司令官による指揮の下、東京・千葉・神奈川・埼玉の各方面に配置されます。警備部隊の任務は、それぞれの担任管区内における治安維持と罹災民の救助活動でした。
 本史料は、9月17日現在の各警備部隊の配置図です。各警備部隊の配置は、東京と埼玉がそれぞれ北部・南部に、千葉が市川・船橋・佐倉などに、神奈川が横須賀・藤沢・小田原に分かれていたとわかります。
 【史料⑦】「戒厳地域内警備兵力並警察官増減一覧表」
 本史料は、10月下旬に「関東戒厳司令部」が作成した、警備兵力数と警察官の人数の増減に関する一覧表です。警備兵力数は、9月中旬の4万9000人を頂点に、9月下旬以降、徐々に警察官と入れ替わって減少し、10月中旬以降は警察官が治安維持の主体となったとわかります。「関東戒厳司令部」は、11月15日に廃止されました。
3.復興
 かつて築地は、海軍の施設が多数立ち並ぶ地区でした。関東大震災による火災は、築地の海軍施設群にまで及び、大部分が消失します。消失した施設の機能は、各地に移転しました。これら施設の跡地は、「東京市中央卸売市場」として活用されます。
 【史料⑧】「東京市中央卸売市場 築地本場 現存並残骸建物関係図」
 本史料は、旧海軍施設と拡張予定の「東京市中央卸売市場」との配置関係を示した図面です。「東京市中央卸売市場」(白抜きの実線部分)は、海軍施設の跡地を利用し、仮設の施設(オレンジ色)から大幅に拡張されたことがわかります。
 【史料①~⑧】の簿冊名と登録番号の一覧
・【史料①、②、⑤、⑥、⑦】
『大正12年 公文備考 火災付属 巻1』(海軍省公文備考、T12-169-3052)
・【史料③】
『大正12年 公文備考 巻158』(海軍省公文備考、T12-160-3043)
・【史料④】
『大正11年 大正15年 官房雑 綴』(①中央、その他、106)
・【史料⑧】
『昭和2年8月27日 昭和4年7月16日 震災復旧用地関係綴 2/3』(①中央、全般、198)
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 時事通信
 2023-08-28 14:32国際
 米、100年前にも大規模支援=関東大震災義援金、艦艇派遣―見返り期待、移民増懸念も
 【ワシントン時事】未曽有の被害が出た関東大震災から今年で100年。当時、米国はクーリッジ大統領の呼び掛けの下、大規模な支援に乗り出した。ただ、日米両国は中国を中心としたアジアの権益を巡り緊張関係にもあった。1世紀前の「トモダチ作戦」の背景を探った。
 ニューヨーク・タイムズ紙は関東大震災発生翌日の1923年9月2日、「巨大地震と火災で東京と横浜が壊滅」と1面で報道した。クーリッジ大統領が大正天皇に送ったお見舞いの全文も掲載。赤十字社などによる街頭募金活動が米国各地に広がり、多額の義援金が寄せられた。
 香港大で関東大震災を研究しているシェンキング教授によると、米国からの義援金と救援物資の規模は総額約2000万ドル。当時の米国の国内総生産(GDP)の2.4%に相当する。
 米国が迅速に支援に乗り出した背景の一つとして、この17年前に起きたサンフランシスコ地震で日本が病院船の派遣など手厚い支援を表明したことへの「返礼」という見方が一般的だ。
 一方、シェンキング教授は「震災では、ユナイテッド・ステーツ・スチール(USスチール)なども多額の寄付を出している。日本が今後、復興資材を(米企業から)購入せざるを得ない、というしたたかな計算があった」と分析する。さらに「米国人は日本を開国させたのは自分たちであり、支援の義務があると感じていた」という。
 当時の日本の様子を物語る「震災絵はがき」を研究しているデューク大のワイゼンフェルト教授は「あの時代に米国内で懸念されていた日本人移民の増加を抑止するためだった」との見方を示す。実際、西海岸に多くあった排日主義結社が「震災後に日系移民が増える」ことを恐れ、積極的に日本への人道支援を奨励していた記録もあるとされる。
 クーリッジ大統領は震災発生を受けて陸、海両軍に救援出動を発令。米海軍の記録によると、駆逐艦など20隻余が物資を輸送した。米軍は2011年の東日本大震災でも被災地支援活動「トモダチ作戦」を展開した。大きな違いは、関東大震災時には米軍が支援活動の陰で機密情報の収集を行っていると、日本の軍部側が警戒していたことだった。
 米国では関東大震災の翌年にいわゆる「排日移民法」が成立。その後、日米は1929年の世界大恐慌、31年の満州事変、37年の日中戦争などを経て開戦の道に進んだ。 
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 2023年9月1日 MicrosoftStartニュース 乗りものニュース「指示待ってられるか! 関東大震災の「災害派遣」一番乗りした戦艦とは 他艦も“独断専行”で急行
 3隻分の支援物資を乗せた新造戦艦
 今から100年前の1923年9月1日の正午直前、南関東を中心に大きな被害をもたらした関東大震災が発生しました。いまでこそ、大規模災害が発生すると陸上自衛隊とは別に、海上自衛隊護衛艦が支援物資を積んで海側から支援する姿が確認され、ニュースとして報じられますが、100年前はどうだったのでしょうか。
 【え…建造中の空母が横転!?】震災直後の横須賀港の航空写真ほか
 建造間もない頃の戦艦「長門」(画像:パブリックドメイン)。
 © 乗りものニュース 提供
 実は、今の海上自衛隊と同じように海軍も災害派遣を行っていました。
 地震発生当時、旧日本海軍連合艦隊は旅順(現・中国遼寧省大連市)近海の裏長山泊地で訓練中でしたが、一報が入り訓練を切り上げ東京へ急行することが決定しました。
 駆逐艦軽巡洋艦など船速の速い艦艇を先行させると共に、当時第一艦隊に所属していた戦艦「長門」「陸奥」「日向」「伊勢」の4隻は地震発生の2日後の9月4日に、九州の志布志湾に到着、ここで「長門」は、「陸奥」「日向」「伊勢」の食料品や医療品を全て積み込み、3隻に先行し、東京に直行しました。
 テレ朝news 【関東大震災100年】9mの津波も犠牲者出さず 教訓の伝承「絶対逃げる」
 正式な命令なしに品川沖まで直行!
 急行した「長門」は9月5日16時に品川沖へ到着。なお、この時点まで海軍大臣からは正式な許可が降りておらず、ある意味では独断専行行為でしたが、この到着からしばらくした19時、正式任務が付与されることとなり、災害支援活動をしていくことになります。
 「長門」は当時、建造から2年ほどしか経っていない新造戦艦でしたが、以降たびたび連合艦隊の旗艦として登場し、1945年の敗戦まで国民に親しまれていくことになります。
 また、「長門」の姉妹艦である「陸奥」は9月9日、米や麦といった補給物資を満載して横須賀に到着します。これは当時、呉鎮守府の長官だった鈴木貫太郎が9月2日に海軍大臣の許可を得ず、独断で艦艇の派遣を決定し、物資倉庫を開放して救援物資の搭載を命じため可能になったことでした。
 その後11月15日までの約2か月半にわたり、日本海軍各艦艇は品川や横須賀を拠点として罹災者の救護、救援物資の輸送にあたったほか、海軍陸戦隊などによる交通・通信機関の復旧工事などに従事しました。
 「長門」の姉妹艦である「陸奥」の建造初期の姿(画像:パブリックドメイン)。
 © 乗りものニュース 提供
 なお、長門の品川到着とほぼ同じ頃に、装甲巡洋艦「ヒューロン」を中核とした米国のアジア艦隊の一部も、救援のため外国艦隊としては一番乗りで品川に入港しています。当時の米国大統領選だったジョン・カルビン・クーリッジ・ジュニアは現地時間の9月1日の夜には関東での大地震の報を知り、ただちに対日支援を決断しました。
 通信能力が圧倒的に違うにもかかわらず2011年3月11日に発生した東日本大震災のときの支援作戦「トモダチ作戦」のような動きで支援体制を整えており、同国の情報収集能力が当時から高かったことが伺えます。
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 9月2日 MicrosoftStartニュース 東京新聞「<大震災を見た青年>(下)8~14日 メチャメチャいぶされている
 関東大震災での被災体験を生々しくつづった22歳の青年弘瀬祐二の手記。3回目は親戚を訪ねた神奈川県鎌倉市の状況や、東京を脱出し、軍艦や鉄道で家族が暮らす広島に帰るまでを紹介する。
 九月八日、弘瀬は鎌倉に住む異母姉の幸(ゆき)と静(しづ)を訪ねるため、海軍省に軍艦の乗艦許可書をもらいに行く。震災で東海道本線が不通になり、鎌倉には船で行くほかなかった。希望者が多すぎて許可書が手に入らず、翌日早朝から三時間並び、やっと手にした。
 十日朝五時に起き、弁当を持って出港地の芝浦に向かい、七時に着いた。
 「直ちにランチにて品川沖、碇泊(ていはく)中の海風?に待乗す。中?型の駆逐艦だつた。九時半出港。速力が早く気持ちが良い」
 横浜に寄港し、午後一時に横須賀に着いた。
 「カナリの被害はあるが新聞で書きたてる程でもないやうに見受けられた」
 だが逗子から車を雇い、雨の中、より震源に近い鎌倉に向かうにつれて様相が変わってくる。
 「家屋の崩壊、焼失が段(々)増して来る。鎌倉のステイシヨンの係に来たときはその光景が新聞の報道以上なのに驚いた」
 上の姉・幸の家は倒れていなかった。だが、下の姉・静の家は違った。
 「メチヤメチヤいブサれてゐる。これはとても駄目だ。誰れかやられたに相違がないと思ふと足がもう先に進まぬ」「一切無事で(略)ホツとした」「外のバラツクのまるで豚小屋のやうなところにて一同夕食をとる」
 テレ朝news 津波の犠牲者ゼロ“奇跡の避難”の記録 継承が守った命 次の世代へ
 翌十一日の帰路は、鎌倉駅から大船行きの無蓋車(むがいしゃ)に乗り込んだが、そのせいでさんざんな目に遭う。
 「最初のトンネルに入る迄(まで)は頗(すこぶ)る気持ちもよかつたが、併(しか)し一度トンネルに入るや(略)殆(ほと)んど焼殺でもされるのではないかと思はれた」
 大船でようやく屋根のある列車に乗り換え、麻布の借家に帰宅。翌十二日、広島への帰郷を目指し、再び芝浦に向かう。一時間半待って許可書を手に入れ、いったん帰宅した後、また芝浦へと向かった。
 「六時 軍艦扶桑は出帆した。(略)広き甲板も二千有余の罹災者(りさいしゃ)で一杯だ」「食糧を供給し始めた。大きな普通のお握(にぎ)りの三倍分もあらうかと思はれる程の中々一個に、若干の缶詰の肉を呉(く)れた」
 翌朝、目が覚めると静岡の清水港に着いていた。
 「(馬車の停車場まで)二三町の間は罹災者慰めのために色々なものをくれる人で一杯だ」
 東海道本線の江尻駅(今の清水駅)へ行き、名古屋、岐阜、大阪などの駅で被災者へのもてなしを受けながら、十四日午前十時、両親の待つ広島に到着した。
 弘瀬は翌年、広島で早世した。弘瀬が訪ねた鎌倉の姉・幸の孫の弘瀬忠夫さん(78)と栗原信子さん(72)によると、扇風機をつけっぱなしにして寝て体が冷えたのが原因だったという。
 手記に登場する「大二さん」の長男丸岡圭一さん(77)は今も神田神保町で、能楽書林を経営している。震災後に建て直された家は戦災でも焼け、新しい家が「大二さん」の兄で作家の丸岡明(一九〇七~六八年)らが復興した文芸誌「三田文学」の発行所となった。遠藤周作柴田錬三郎が出入りし、一時期、原民喜が暮らしたこともあった。
 文・加古陽治 
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 <大震災を見た青年>(下)8~14日 メチャメチャいぶされている
 全画面
 ギャラリーの写真 1/4©東京新聞 提供
 土産物店が並ぶ鎌倉・長谷付近の被害の様子
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 2023.09.01
 いまからちょうど100年前…「関東大震災」という未曽有の大災害で、「日本海軍」はどう動いたか
 神立 尚紀カメラマン・ノンフィクション作家
 いまからちょうど100年前の1923年(大正12年)9月1日11時58分、神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生した。
 この地震により、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、山梨県で震度6を観測したほか、北海道道南から中国・四国地方にかけての広い範囲で震度5から震度1の揺れを観測した。(当時の震度階級は震度0から震度6までの7階級だったが、家屋の倒壊状況などから、強いところでは現在の震度7相当の揺れがあったと推定されている)
 発生が昼食時間と重なったことから火災が多発。津波、土砂災害なども発生し、死者・行方不明者は10万5千人余にのぼった。「関東大震災」と呼ばれる。
 この震災についてはこれまで多くの論考が発表されているが、海軍・連合艦隊による救難活動について触れられることはあまりない。ここでは、震災にさいして当時の海軍がどのように動いたかを振り返ってみたい。
 関東大震災のとき、連合艦隊旗艦だった戦艦「長門
 大震災の前々日
 大正12(1923)年8月30日、旗艦・戦艦「長門」が率いる連合艦隊正字では聯合艦隊)は、日露戦争(1904-1905)以来、日本が租借していた遼東半島の旅順、大連の東北約100キロの黄海にある裏長山(りちょうざん)列島の泊地に入った。ここで、1週間におよぶ「年度恒例検閲」を受けるためである。検閲期間のあいだは、抜き打ちで教練を命じられ採点されたり、日時を指定した上で司令長官が来艦し、軍容や主計科の帳簿まで調べられる。各艦ともよい成績を残そうと、外舷を念入りに塗装し、甲板や真鍮の金物までも磨き上げて臨む。
 従来、連合艦隊は戦時や演習のときだけ臨時に編成されていたが、この年から常時置かれるようになっていた。連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官は竹下勇大将、第二艦隊司令長官は加藤寛治中将である。
 9月1日
 阿川弘之著『軍艦長門の生涯』(新潮社)によると、9月1日に検閲を受けることになっていた長門では、いつもより15分早く「総員起こし」の号令がかかり、朝8時からの分隊点検で検閲が始まったという。
 〈午後は戦闘教練、防火教練があり、三時過ぎようやく解散になって、みんなほっとし、釣道具を持ち出す者、前甲板で涼しい風に吹かれて話に興じている者、乗組員は誰もまだ地震のことを知らなかった。〉(『軍艦長門の生涯』より)
 この日、11時58分、神奈川県西部の北緯35度19.8分、東経139度08.1分、深さ23キロメートルを震源とするマグニチュード7.9(推定)の巨大地震が発生、関東南部から東海地方にかけての地域に甚大な被害をもたらした。この地震による死者105,385人、全潰全焼流出家屋293,387戸という。まさに未曽有の大災害だった。
 関東大震災横浜市中区の惨状
 当時、海軍大尉で最年少の連合艦隊参謀として「長門」に乗艦していた福留繁(のち中将)は、昭和46(1971)年に著した『海軍生活四十年』(時事通信社)のなかで、
 〈午後三時頃、水雷戦隊司令官の中村良三少将が艦隊司令部にやって来て電波の様子をみると、どうも東京に何か大変なことが起こったようだよ、ということであった。〉
 と述べている。当時中村良三は第二艦隊参謀長の大佐で、第二水雷戦隊司令官は飯田延太郎少将だったから、人名については半世紀近く経って福留に記憶違いがあったのだろう。しかし、海軍の船橋電信所が震災の第一報を発信したのは午後3時頃で、「大変なことが起こった」のを知った時刻やいきさつについては間違いなさそうである。
関東大震災のときの海軍の動きについては、「震災救護日報」「聯合艦隊震災救護記録」など、多くの公文書が残されていて、何日にどこの港になんという艦船が入港していたか、陸揚げした救援物資の明細や被災者輸送の人数まで詳細に知ることができる。連合艦隊の初動はこんにちの感覚から見ればずいぶん遅く、海軍次官の帰国命令を受けて裏長山に停泊中の各艦がボイラーに火を入れたのは、震災発生から27時間後の9月2日午後3時頃のことだった。通信手段の多くが壊滅し、被災の全容がつかめなかったために動くに動けなかったのだ。
 9月1日午後10時45分、千葉県の船橋電信所が発した電文には、
 〈通信装置は総て破壊のため被害状況を知るを得ざれども、聞くところによれば東京には二十余ヵ所に火災起こりいまなお盛んに燃えつつあり。宮城(皇居)にも延焼せる由、本所深川全滅とのこと。横浜も全滅の由、地震(余震)時々あり。被害後受信所を連呼すれども応答なく、無線連絡も全く途絶せしにつき兵員を派し状況取調中(船橋三番電)〉
 とある。船橋電信所から徒歩で派遣した兵員が2日未明に帰隊して、目で見た限りの状況を伝えた。
 〈家屋倒壊せし為随所より火災を起こし、深川千住方面は全焼せるもののごとく、死者山をなすと。(中略)発火せしものは宮城におよび警視庁帝劇等全焼。海軍省の応答なきを見れば同省も危うきがごとし。火災いまなお猛烈にして既に千住より品川に及び爆発頻出、紅蓮の炎本所より見ゆ(後略)(船橋五番電・2日午前5時)〉
 そんななか、2日午前になってようやく、人馬や、横須賀海軍航空隊軍鳩部で研究中だった伝書鳩を用いての連絡が少しずつつくようになり、惨状が徐々に明らかになる。
 陸軍被服廠跡地(現・墨田区の都立横網町公園)に避難し、炎に巻かれた被災者の遺体
海軍も、たとえば横須賀海軍工廠の庁舎は全壊、軍需部重油タンク焼失、石炭庫全壊、機関学校の大半や海軍病院、技術研究所、海軍大学校、軍医学校などが焼失、大佐を筆頭に軍人軍属125名が死亡、337名が負傷(9月20日時点)という大きな被害を受けていた。海軍病院では、地震発生直後、若い看護兵3名が、薬品倉庫に引火したのを見るや防火につとめ延焼を防いだものの、薬品の爆発の巻き添えになって3名とも即死したという。海軍病院の看護婦と看護兵は入院患者600数十人を無事に避難させた。
 さらにその後の様子については、<【後編】「おびただしい数の遺体」、そして「惨すぎる朝鮮人差別」…「関東大震災」のとき、救難に向かった「海軍大尉」が見た「衝撃的な光景」>にて引き続き語ります。
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 2023.09.01
 「おびただしい数の遺体」、そして「惨すぎる朝鮮人差別」…「関東大震災」のとき、救難に向かった「海軍大尉」が見た「衝撃的な光景」
神立 尚紀カメラマン・ノンフィクション作家
 いまからちょうど100年前の1923年(大正12年)9月1日11時58分、神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生した。
 この地震により、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、山梨県で震度6を観測したほか、北海道道南から中国・四国地方にかけての広い範囲で震度5から震度1の揺れを観測した。(当時の震度階級は震度0から震度6までの7階級だったが、家屋の倒壊状況などから、強いところでは現在の震度7相当の揺れがあったと推定されている)
 発生が昼食時間と重なったことから火災が多発。津波、土砂災害なども発生し、死者・行方不明者は10万5千人余にのぼった。「関東大震災」と呼ばれる。
 この震災についてはこれまで多くの論考が発表されているが、海軍・連合艦隊による救難活動について触れられることはあまりない。ここでは、震災にさいして当時の海軍がどのように動いたかを振り返ってみたい。
 【前編】いまからちょうど100年前…「関東大震災」という未曽有の大災害で、「日本海軍」はどう動いたか
 野毛山から見た震災後の横浜市
 政治的空白のなか
 震災の起きた9月1日はまた、総理大臣だった加藤友三郎が8月24日に死去し内田康哉外務大臣が臨時兼任中の、いわば政治的空白の日でもあった。組閣の大命を受けたのは、近代海軍生みの親の山本権兵衛である。山本は9月2日の午後、劫火と余震のなか、赤坂離宮親任式を挙行。海軍大臣財部彪(たからべたけし)、海軍次官岡田啓介らとともに、海軍の総力を挙げて救難にあたることを決めた。
 岡田次官はまず、裏長山にいる連合艦隊に、定期検閲中止、各地に寄港し救難物資を搭載の上、至急東京湾に回航せよとの命令を出した。
 前出の『軍艦長門の生涯』には、
 〈「艦隊がわでも、
 「こんな時こそ、海軍は国民の役に立たなくてはならん」
 という思いが、強く将兵の胸にあった。午後五時前後には、第一第二水雷戦隊の駆逐艦群、第三戦隊の巡洋艦球磨、多摩、大井、第五戦隊の巡洋艦名取、長良、鬼怒など、身軽なものから、順に錨を上げて裏長山列島をあとにした〉
 とある。「大正デモクラシー」と呼ばれるこの時代、軍隊や軍人の地位は昭和の戦前、戦中ほど高くない。プロレタリア文学の流行が始まり、海軍省や軍令部勤務の海軍士官が制服で東京の街を歩くと、「よう、軍閥」「税金盗っ人」などと声がかかったという。だからこそ余計に、「こんな時こそ」という思いが強かったのかもしれない。
 イギリス艦に見破られた日本海軍の秘密
 各艦は速力に応じてバラバラに各港に入港し、あるものは食糧を、あるものは医薬品を、またあるものは復興資材の電線や材木を搭載し、東京湾をめざした。第一戦隊の「長門」と「陸奥」は九州の内之浦湾に入港し、まずは「長門」が食糧と医薬品を満載して東京湾に向かう。
 関東大震災のとき、連合艦隊旗艦だった戦艦「長門
 大隅海峡あたりで、全速で航行する「長門」に、同じく救難に向かうイギリス海軍巡洋艦がピッタリとついてきた。福留繁は、前出の『海軍生活四十年』に、〈英国東洋艦隊旗艦の一万トン級巡洋艦プリマス〉と書いているが、ほかの記録と照合すると、おそらくこれは軽巡洋艦『ダーバン』である。当時「長門」は、表向きは最高速力23ノット(時速約42.6キロ)と公表していたが、じっさいには26ノット(時速約48キロ)出せた。全速で航行すれば公称23ノットがウソだということがばれてしまうが、公海上で他国の軍艦が随走することに文句は言えない。
 〈この日本海軍の秘密をいま英艦プリマス(ママ)によって一ぺんに見破られてしまったのである。
 しかし首都東京が全滅したというので、かけつけている長門にとっては、速力の秘密のことなどこだわっておられない、そのまま東京湾に急航をつづけ、英艦も東京湾入口までついて来た。〉(『海軍生活四十年』)
 おびただしい数の遺体
 長門伊豆半島沖に差しかかったのは9月5日の朝10時頃だった。やがて艦が浦賀水道から東京湾に入ると、行く手には一面の黒煙が立ち込めていたという。軍港の重油タンクから流出した重油に火がつき、海はまだあかあかと燃えていた。午後2時半、「長門」は横須賀に入港し、近隣に妻子のある者をここで降ろして東京・品川沖へと向かった。
 品川沖に錨をおろすと、「長門」の周囲には、おびただしい数の人の遺体や家財道具が漂流していた。遺体の収容にはあえて手をつけず、生き残った被災者のために救援物資の陸揚げを始める。
 震災後の横浜港。長良クラスの軽巡洋艦(3本煙突)が停泊しているのが見える
 福留大尉は、霞が関海軍省に打ち合わせに赴く竹下長官らに随行して上陸した。長官以下の幹部は東京に家があるため様子見に帰宅し、福留一人が夜道を歩いて「長門」に戻ったが、あちこちに抜き身の槍や刀を持った自警団がいて、なかなか通してもらえない。
 〈今の新橋駅の辺まで来ると、私が海軍の白い軍服を着て参謀肩章をつけているのに、白い服を着ているのは朝鮮人だ、といってなかなか通してくれない。しかたがないから一旦海軍省に引き返して、憲兵にそのことを話したら、二人の憲兵をつけてくれた。「憲兵隊」と書いた提灯を持って先に立ってくれたので事なきを得て艦に帰った。〉(『海軍生活40年』)
 海上から見ると、東京の夜空は火災の火に映えてあかあかと染まっていたという。
 福留はまた、震災時に流言飛語によって起きた「朝鮮人騒ぎ」についても書き記している。
 〈朝鮮人騒ぎは全くひどいもので、朝鮮人が東京に攻めてくるのだという。今どこどこにいるとか、どこの浜に何百人の一団が上陸したとか、全く根も葉もない流言蜚語(りゅうげんひご)で、どこから来たのか、どんな格好をしているのかなどさっぱりわからないで、ただ朝鮮人が攻めて来たといって脅えているのである。
 そのまた流言蜚語が伝わるのが早いこと、一瞬にして大都市東京の隅から隅まで同じ流言が流れるのである。船橋海軍無線電信所が、この流言を一々真に受けて、電波を流してだいぶん海軍を騒がしたものだから、余りにも非常識だというので所長の大森大尉は免職になった。
 迫害を受けたのは日本人ではなく、朝鮮人の方であった。長門の碇泊地付近にも時々五、六人が針金でじゅずつなぎに縛った死体が流れて来ることがあったが、みんな朝鮮人であった。恐らく東京市内外で行われた惨劇の結果、死体を河川に投棄したものが浮かんでいたのであろう。
 江戸前の蟹は特に美味だとして愛好していた私の知人は、震災から全然蟹を食べないことにしたという。それは海に流れ出た屍体を蟹が食べるにちがいないからだといった。〉(『海軍生活四十年』)
 救難の様相
 竹下司令長官は、連合艦隊司令部を「長門」から海軍省内に移し、ここで救難指揮をとることになった。連合艦隊麾下の海軍の艦艇は、日本各地から食糧や毛布、蝋燭、帆布、石炭、木材、トタン板などの救難物資を満載しては品川、横浜、横須賀に入港し、陸揚げするとまた補給に向かった。海軍兵学校を卒業した少尉候補生を乗せオーストラリア方面へ遠洋航海に向かうはずだった練習艦隊も、遠洋航海を延期して物資の輸送に駆り出された。商船も同様である。9月12日には、全被災者に配給する米2ヵ月分の揚陸ができたとの記録がある。陸上交通がほとんど途絶した状況で、物資輸送は海軍や船舶会社なしでは不可能だった。海軍は、海軍省内のほか巣鴨、広尾、芝浦、横浜、浦賀、田浦などに救護所を設け、負傷者の治療にあたった。
 海軍が砲術学校や水雷学校、横須賀海兵団などから被災地に派遣した救難隊の活躍もめざましかった。彼らのなかには自分の家が被災し、家族の安否がわからない者もいたが、自らのことを顧みず、火災や建物倒壊の危険を冒して人命を救助した。
 たとえば、海軍砲術学校に勤務する三等兵曹日高鉄男は、横須賀市内で倒壊した家屋に2名が下敷きになっていることを知ったが、隣家の土蔵が傾き、その上に倒れてきそうでほかの住民たちは誰も手を出せない。そこで日高が機敏な動きで瓦礫を取り除き、無事に2人を救助したとの記録がある。同様の人命救助でのちに「善行表彰」を受けた下士官兵は、筆者が記録で確認できただけで153名にのぼる。軍人だけではない。海軍御用商人の久保田清吉は、海軍病院横須賀市衛生課、医師会と連絡をとり、自ら名古屋まで出向いて医療衛生用品を私費で調達、東奔西走して多くの人命を救った。
 一面の焼け野原となった築地
 物資の揚陸が一段落すると、戦艦「扶桑」をはじめ、軍艦、駆逐艦による避難者輸送も行われた。避難者輸送のさい、乗組の士官たちは病人や老人に私室を明け渡し、航海中はずっと艦橋で立ちっぱなしだったという。軍艦便の行き先は清水、四日市、函館など。避難者の輸送には日本の商船や、日本に在泊していた外国船なども従事していて、商船の行き先は清水、神戸、大阪、熱田、名古屋、長崎などである。9月19日までに海軍が輸送した避難者は3万4431人におよび、これは日本海軍の歴史を通じて、戦時以外の活動としては最大のものだった。9月25日には巡洋艦「夕張」が、横浜刑務所の囚人を名古屋に移送している。
 海外からの支援
 海外からも次々と援助の手が差し伸べられた。イギリス政府は、英支那艦隊に対し、ただちに震災救難のため日本に向かうことを命じた。アメリカにいたっては、
 〈米国の震災に対する同情とその機敏なる処置とは敬服のほかなく、今回さらに大統領はアジア艦隊司令長官に必要に応じ日本近海にある船舶局商船を救護活動に使用することを許し、なお震災救護に要する一切の費用は米国これを負担する旨発令せり。〉
 と、日本海軍の公文書に記載されているほどの手厚い援助を実施した。アメリカ艦隊と商船隊は、フィリピンのマニラを拠点に、大量の資材と食糧を日本へ届けた。その目録を見ると、ミルク、塩、果物、石鹸……などが目につくが、一般の日本人にコンビーフの缶詰が普及したのも、このときの救援物資がきっかけである。中華民国は救護班を横浜に派遣し、イタリア、フランスも援助物資を運んできた。9月23日、横浜に入港したイタリア船「ロサンドラ」から、米10トン、鶏卵3000個、麦粉3トン、ビスケット1000斤の寄贈を受けたとの記録が残っている。
 震災後、九段の靖国神社には被災者の暮らすバラックが建ち並んだ
 ただ、歓迎されざる外国船もいた。9月8日にウラジオストックを出港、12日午後に横浜に入港したソビエト連邦の汽船「レーニン」(2700トン。旧名「シンビルスク」)は、医薬品や食糧の救援物資と医師6名をはじめとする救護班67名を運んできたが、〈国民扇動の目的にて多数の過激宣伝文を搭載すと判明〉(海軍無線電信情報十三より)したため、日本側は受け入れを拒否し、「レーニン」に退去を命じた。「レーニン」は日本海軍から石炭150トンと真水80トンの補給を受けた上で翌14日、巡洋艦駆逐艦の監視のもと横浜を去る。ロシア革命や内戦を経て、前年の1922年に樹立を宣言したばかりのソ連は、被災のどさくさに乗じて多量のビラを撒いて日本国民を扇動し、共産主義革命を起こさせようと目論んだのだと考えられる。当時の外交電報(ウラジオストック渡辺総領事代理より総理兼任の山本外務大臣宛て)によると、「レーニン」はまた、日本の震災孤児数百人を収容し、ウラジオストックに連れ帰ろうともしていた。
 陸軍鉄道連隊の助けを借りて、横須賀-田浦間の鉄道が復旧したのは9月13日。同じ日、横須賀市内の郵便局で、被災地以外に送信する電報の受付がはじまった。17日、郵便ポストが再開され、一般の郵便物が1日3回集配されるようになる。19日、横浜-横須賀間の鉄道が復旧、海軍はこの日をもって避難者の輸送を終了した。
 霞が関海軍省内に置かれた連合艦隊司令部は、陸上の秩序回復のめどが立ったのを受けて、9月21日、戦艦「長門」に戻った。9月5日以来、品川沖に停泊していた「長門」は22日、錨を上げ、横浜、横須賀を経て10月4日、訓練地の佐伯湾に向かう。連合艦隊の各艦も震災救助の任務を解かれ、順次、それぞれの母港や訓練地に帰ってゆく。
 ――こうして、海軍による震災支援の任務は約1ヵ月で終了した。
 震災後の東京・京橋。一部の建物は倒壊を免れている
 こんにち、関東大震災における海軍の救難活動が話題にのぼることはあまりないけれども、100年前の海軍が、いまの自衛隊災害派遣と同様に、全力を挙げて被災者を救おうとしたことは記憶されていいと思う。
 その海軍が、災害支援で大恩のあったアメリカと戦火を交えるのは、関東大震災からわずか18年後、昭和16(1941)年のこと。そして3年9カ月におよぶ戦争で、東京や横浜はふたたび焼け野原となる。
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 2023年9月1日 MicrosoftStartニュース ハフポスト日本版「朝鮮人虐殺「事実関係を把握できる記録ない」と松野官房長官が発言→誤り。防衛省も「文書保管」を認める国会答弁
 朝鮮人虐殺「事実関係を把握できる記録ない」と松野官房長官が発言→誤り。防衛省も「文書保管」を認める国会答弁
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 松野博一官房長官=2023年8月29日
 松野博一官房長官が8月30日の記者会見で、関東大震災の直後に起きた朝鮮人虐殺について「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と発言した。
 だが、これは誤りだ。
 内閣府が事務局を務める中央防災会議に設置された「災害教訓の継承に関する専門調査会」が、2009年に取りまとめた関東大震災に関する報告書の中に、朝鮮人虐殺に関する記載が存在する。
 また防衛省は、関東大震災直後に当時の内務省警保局長が全国に送付した電信文を保管していることを、6月の参議院法務委員会で認める答弁をしている。この電信文は、朝鮮人による放火などの流言を事実とみなし、取り締まりを指示する内容だった。
 松野氏の発言について、ハフポスト日本版はファクトチェックした。
 記者会見での発言は?
 まず、松野氏の発言を振り返る。
 8月30日の記者会見で、9月1日に100年を迎えた関東大震災の記録に関して、共同通信の記者が質問した。
 「当時被災地ではデマが広がり、多くの朝鮮人が軍、警察、自警団によって虐殺されたと伝えられています。政府として朝鮮人虐殺をどう受け止め、何を反省点としているのか、併せて現在の日本社会における在日コリアンを含むマイノリティに対するヘイトスピーチヘイトクライムをどう捉えているのかお尋ねします」と問うた。
 これに対して、松野氏は「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」と述べ、受け止めや反省点について回答しなかった。
 後半のヘイトスピーチヘイトクライムに関する質問に対し、松野氏は「特定の民族や国籍の人々を排斥する趣旨の不当な差別的言動、ましてそのような動機で行われる暴力や犯罪はいかなる社会においても許されないと考えています」との見解を示した。
 続く質問で、この記者は「朝鮮人虐殺の事実そのものを否定する言説が出回っている」ことを踏まえ、政府が事実関係の調査や実態を明らかにする考えはあるかと尋ねた。
 松野氏は「先ほども申し上げましたとおり、政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」と、同じ見解を繰り返した。
 「殺傷事件の中心は朝鮮人への迫害」専門調査会の報告書
 会見での記者の質問の趣旨は、「政府として朝鮮人虐殺をどう受け止め、何を反省点としているのか」ということだ。これを踏まえると、松野氏の発言は「朝鮮人虐殺の事実関係を把握できる記録が政府内に見当たらない」という意味になるが、それは誤りだ。
 少なくとも、内閣府が事務局を務める中央防災会議に設置された「災害教訓の継承に関する専門調査会」は、2009年3月に取りまとめた関東大震災に関する報告書(1923 関東大震災 第2編)の中で、震災直後の殺傷事件で中心をなしたのは朝鮮人への迫害であり、流言がそのきっかけになった、と明記している。
 <関東大震災時には横浜などで略奪事件が生じたほか、朝鮮人武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた。(中略)(9月)3日までは軍隊や警察も流言に巻き込まれ、また増幅した>(概要・第4章)
 <既に見てきたように、関東大震災時には、官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。加害者の形態は官憲によるものから官憲が保護している被害者を官憲の抵抗を排除して民間人が殺害したものまで多様である>(第4章2節)
 <自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある>(同)
 報告書の206ページには、「官庁記録による殺傷事件被害死者数」の表も掲載されている。当時の司法省の報告書に掲載された起訴事件の被害者数は、朝鮮人233人、日本人58人、中国人は3人。「警察・民間人共同」の加害者による朝鮮人の犠牲者数は約215人と記されている。(このうち約200人は中国人だったとの説もあるとの注釈もある)
 朝鮮人虐殺「事実関係を把握できる記録ない」と松野官房長官が発言→誤り。防衛省も「文書保管」を認める国会答弁
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 「官庁記録による殺傷事件被害死者数」
 さらに報告書は、警視庁編『大正大震火災誌』を出典とし、当時確認された流言の事例を列挙している。
 同誌「第5章 治安保持」には、流言の拡散を背景に「(民衆が)朝鮮人に対して猛烈な迫害を加え、勢いが過激になり、ついに殺傷した」ことが記録されている。「朝鮮人が井戸に毒薬を投入した」、「朝鮮人が放火や略奪をし、婦女に暴行した」など、警察が覚知した流言も記載されている。
 内閣府の防災情報のホームページによると、「災害教訓の継承に関する専門調査会」は、過去の大災害について、被災状況や政府の対応などの情報を収集し、被災経験の継承や防災意識の向上などを目的に2003年、内閣府を事務局とする中央防災会議で設置が決まった。
 中央防災会議は、内閣総理大臣をはじめとする全閣僚や公共機関の代表、学識経験者で構成する。
 内務省の電信文、防衛省が保管
 関東大震災直後の朝鮮人虐殺に関する公文書の存在を、防衛省も認めている。
 2023年6月の参議院法務委員会では、社民党福島瑞穂議員が、関東大震災の後に当時の内務省警保局長から全国の地方長官宛てに送付された電信文(1923年9月3日付)を示した上で、防衛省が保管しているか否かを問うた。
 電信文は、朝鮮人による放火や爆弾所持といった流言を内務省が事実とみなし、取り締まりを全国に求める内容だった。
 防衛省の安藤敦史・防衛政策局次長は福島議員の質問に対し、この文書を同省の防衛研究所戦史研究センターで保管していることを認めた。
 一方で、この電信文が流言の拡散や民衆による朝鮮人虐殺につながったのではとの福島議員の指摘に対し、警察庁の楠芳伸・官房長は「警察庁におきまして調査した限りでは、ご指摘のような事実関係を確認することのできる記録が見当たらない状況」だとして、回答を拒んだ。
 このように、少なくとも一般に公開されている内閣府の調査会の報告書にも、大震災後の殺傷事件では「虐殺という表現が妥当する例」が多く、朝鮮人の犠牲者が最も多かったことが記されている。
 さらに、関東大震災後の朝鮮人虐殺に関する公文書は存在し、政府も保管していることを認めている。
 よって、「政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」とする松野氏の記者会見での発言は誤りだ。
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