🎶26:─2─関東大震災(1923年)と排日移民法(24年)そして日米戦争(41年)。レーニン号事件。~No.58No.59 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦前の日本は、世界の善意と憎悪によって絶望的戦争へと追い詰められていった。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、日米戦争の原因を「アメリカの人種差別であった」と語った。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本は、諸外国の善意を信じ、日露戦争後余りにも一本調子で生真面目に正直に生きようとし、そして正しい事は必ず明らかになると信じたことが失敗の元であった。
 日本人は、関東大震災に対する諸外国からの大規模支援、義援金で人の善意を信じたが、その後ろに日本を破滅さようとする国際的反日勢力の悪意が隠れていた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア 
 第一次世界大戦後のパリ講和会議国際連盟委員会において、日本が主張した、「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。この提案に当時のアメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウィルソンは反対で事が重要なだけに全員一致で無ければ可決されないと言って否決した。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。
 (大正8(1910)年1月14日) 
   ・   ・   ・   
 2023年8月29日7:13 YAHOO!JAPANニュース 時事通信「米、100年前にも大規模支援 関東大震災義援金、艦艇派遣 見返り期待、移民増懸念も
 関東大震災で人命救助を行った米軍人に勲章を授与するクーリッジ大統領(左)=1924年3月(米海軍サイトより・時事)
 【ワシントン時事】未曽有の被害が出た関東大震災から今年で100年。
 当時、米国はクーリッジ大統領の呼び掛けの下、大規模な支援に乗り出した。ただ、日米両国は中国を中心としたアジアの権益を巡り緊張関係にもあった。1世紀前の「トモダチ作戦」の背景を探った。
 ニューヨーク・タイムズ紙は関東大震災発生翌日の1923年9月2日、「巨大地震と火災で東京と横浜が壊滅」と1面で報道した。クーリッジ大統領が大正天皇に送ったお見舞いの全文も掲載。赤十字社などによる街頭募金活動が米国各地に広がり、多額の義援金が寄せられた。
 香港大で関東大震災を研究しているシェンキング教授によると、米国からの義援金と救援物資の規模は総額約2000万ドル。当時の米国の国内総生産GDP)の2.4%に相当する。
 米国が迅速に支援に乗り出した背景の一つとして、この17年前に起きたサンフランシスコ地震で日本が病院船の派遣など手厚い支援を表明したことへの「返礼」という見方が一般的だ。
 一方、シェンキング教授は「震災では、ユナイテッド・ステーツ・スチール(USスチール)なども多額の寄付を出している。日本が今後、復興資材を(米企業から)購入せざるを得ない、というしたたかな計算があった」と分析する。さらに「米国人は日本を開国させたのは自分たちであり、支援の義務があると感じていた」という。
 当時の日本の様子を物語る「震災絵はがき」を研究しているデューク大のワイゼンフェルト教授は「あの時代に米国内で懸念されていた日本人移民の増加を抑止するためだった」との見方を示す。実際、西海岸に多くあった排日主義結社が「震災後に日系移民が増える」ことを恐れ、積極的に日本への人道支援を奨励していた記録もあるとされる。
 クーリッジ大統領は震災発生を受けて陸、海両軍に救援出動を発令。米海軍の記録によると、駆逐艦など20隻余が物資を輸送した。米軍は2011年の東日本大震災でも被災地支援活動「トモダチ作戦」を展開した。大きな違いは、関東大震災時には米軍が支援活動の陰で機密情報の収集を行っていると、日本の軍部側が警戒していたことだった。
 米国では関東大震災の翌年にいわゆる「排日移民法」が成立。その後、日米は1929年の世界大恐慌、31年の満州事変、37年の日中戦争などを経て開戦の道に進んだ。
   ・   ・   ・   
 百科事典マイペディア 「排日移民法」の意味・わかりやすい解説
 排日移民法【はいにちいみんほう】
 1924年制定の米国の割当移民法。1907年の日米紳士協約で日本は対米移民を自発的に制限することを約束したが,その後も米国政府はこの協約の実効について不満をのべカリフォルニアの排日運動も激化した(排日土地法)。1922年米国最高裁は日本人の帰化権を否認,1924年排日移民法を制定して日本人の移民を完全に禁止した。第2次大戦後の1965年に撤廃された。
 →関連項目移民|日系アメリカ人
 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
   ・   ・   ・   
東日本大震災アメリカからの寄付金はいくらですか?
 最新の調査結果による と、この3年間に米国民が東日本大震災の復興支援のために寄付した総額は7億3000万ドル(約730億円)に 達すると推計される。 この数字は、他の先進国で発生した自然災害に対する米国からの民間支援として過去最 高額であり、米国民による海外の災害に対する寄付としては3番目の金額である。
   ・   ・   ・   
 関東大震災の外国からの支援は?
 海外からの支援は、横浜のみに対するもの ではないが、「アメリカ、イギリス、フラン ス、中国、イタリア、ドイツ、オーストリア、 メキシコ、チリなど四十一カ国から、見舞電 報や救援物資・義捐金などが届けられ、その 額は一千百八十万円にのぼる」(「二十世紀の 全記録」)。
   ・   ・   ・   
 レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、アメリ共産党中国共産党日本共産党ディレクションした。
   ・   ・   ・   
 32年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。
   ・   ・   ・   
 1924年6月 中華民国大総統の孫文は、政治顧問であるコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンの進言にしたがって、中華民国陸軍の士官養成学校である黄埔軍官学校を広州に設立した。
 ソ連軍のブリュヘル将軍は、軍事顧問として教育指導を行った。
 日本軍部・陸軍は、ソ連の軍事支援を受ける孫文中国国民党を裏切り者として関係を断ち、満州軍閥張作霖に乗り換えた。
   ・   ・   ・   
 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
   ・   ・   ・    
 レーニン号事件/関東大震災(9)
 ことばマガジン- 朝日新聞デジタル
 昔新聞・大正時代の記事|関東大震災
 レーニン号事件/関東大震災(9)
 (2014/06/24)ソーシャルリンクをとばして、このページの本文エリアへ
 1923(大正12)年9月12日付 大阪朝日朝刊3面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
 拡大1923(大正12)年9月12日付 大阪朝日朝刊3面。画像をクリックすると大きくなります。主な直しだけ朱を書き入れています。現在の朝日新聞の表記基準で認めていない漢字の音訓や、当時は入れていなかった句点を入れる等については、原則として記入を省いています
 【当時の記事】
 浦潮よりレニン号
 日本震災被害者救援の為め露国政府で組織した救護船レニン号(三千五百噸)は木材食糧を積込み露国赤十字救護班六十名を乗船し九日午後二時浦潮を出帆した、同船は神戸に寄港し米を買入れ震災地に向ふ筈で費用百五十萬金留を計上してゐ、尚近日第二救護船としてトムスク号は食糧品を積載し日本へ向ふ筈である(浦潮特電九日発)
 (1923〈大正12〉年9月12日付 大阪朝日朝刊3面)
 【解説】
 関東大震災をふり返るシリーズ。9回目は「レーニン号事件」をとりあげます。
 まずは校閲。「露国赤十字救護班六十名を乗船し」とありますが、「六十名を乗船し」は、おかしいですよね。「六十名」につづけるならば「乗せ」でしょうか。また、いまの朝日新聞の基準では「六十」は「60」、人の数は「名」ではなく「人」にします。「60人を乗せ」などとしてもらいましょう。
 「計上してゐ」はどうでしょう。「ゐ」のあとに「る」が必要ではないでしょうか。確認を求めます。
 ◇  ◇  ◇
 関東大震災による混乱がつづくなか、日本と当時のソ連のあいだで「すったもんだ」がありました。救援のための人員と物資を送ろうとするソ連と、それを拒む日本が対立したのです。
 「関東大震災と日米外交」(波多野勝、飯森明子著)などによると、当時のソ連は震災から約1週間後、「レーニン号」を出発させます。救援隊と医薬品などの支援物資をのせていました。
 問題は、ロシア革命によって、当時の日ソ間に国交がなかったこと。日本政府が対応する前に、レーニン号が出発してしまったことです。
 出発を知った日本は、物資は受けいれるが、「言語不通」を理由に、救援隊を「一切謝絶」する方針をきめます。「ソ連の過激思想」が、流れこむことを警戒したようです。
 ◇  ◇  ◇
 日本外務省は、レーニン号が神戸に向かうと思って準備していました。しかし、船は津軽海峡を通って千葉県沖に。やむなく横浜へ入港させ、12日に日本の担当者らが船に乗り込みました。
 「救援品は労働者階級に提供する」「震災は日本における革命達成上の天の使命」
 拡大「レーニン号に退去命令」と報じる紙面=1923年9月15日付大阪朝日夕刊2面
 船にいたロシア人記者がそう話したと、日本側の担当者が報告します。物資も受けとらず、すぐにレーニン号に国外退去を求めることが、閣議で決まりました。
 レーニン号は、はじめは難色を示しましたが、折衝のすえに折れ、14日に出港。翌日の大阪朝日新聞は「救援と称して宣伝に レーニン号に退去命令」と伝えました=画像。
 レーニン号の退去から10日後、ソ連政府は日本に抗議。日本は謝意を示しつつも、レーニン号の中に、不穏なことを言う者がいたとの報告があり、やむを得ず退去させたと釈明します。そのうえで、今後、特定の条件がなければ、救援物資を受けいれると伝えました。
 レーニン号事件によって、国交正常化交渉に大きな影響がでることは避けられました。
 サハリンの大地震で日本は支援を申し出たが、ロシアのエリツィン大統領は「日本人は支援の見返りに(北方領土の)島を要求してくるかもしれない」と発言=1995年6月1日付東京本社版朝刊9面
 震災から約1年半後、日ソ基本条約を締結。二国間の国交が回復しました。
 ◇  ◇  ◇
 最後に余談を一つ。関東大震災から72年後の話です。
 95年5月、ロシアのサハリン州北部で地震が発生しました。約2千人が命を落とすなど大きな被害がでましたが、ここで再び「すったもんだ」があったのです。
 当時のエリツィン大統領が、外国からの人道支援に対して、「後になって援助したことを利用しようとする国が出てくる。日本人は(北方領土の)島を要求してくるかもしれない」と発言。
 村山富市首相は「あくまでも人道的見地からの支援で、北方領土問題との関連は全くない。誠に残念」と不快感を示します。
 ほどなく、ロシアの駐日大使から、エリツィン大統領のメッセージが伝えられました。村山首相あてで、「他国より先に来たことを高く評価する」と感謝する内容だったそうです。
 歴史は繰り返すといいます。領土や歴史認識など、問題を抱えた国同士の関係は難しいものですね。
 【現代風の記事にすると…】
 ソ連から救援船
 関東大震災の被災者支援のため、ソ連政府の救援船レーニン号(3500トン)が9日午後2時、ウラジオストクを出発した。食料や木材などの支援物資を積み、60人の救護要員を乗せている。神戸で米などの支援物資を買った後、被災地に向かう予定。ソ連政府は近く、別の救援船を送り出すという。
 (高島靖賢)
   ・   ・   ・   
 10MTV
 アメリカの排日移民法…なぜ渋沢栄一は悔し涙を流したか
 本当のことがわかる昭和史《6》人種差別を打破せんと日本人は奮い立った(3)渋沢栄一の「悔し涙」演説
 渡部昇一渡部昇一上智大学名誉教授
 情報・テキスト
 渋沢栄一
 大正13年、アメリカで排日移民法ができたとき、親米的だった学者や思想家、実業家の間にも反米感情が現われた。財界の大御所・渋沢栄一は、帝国ホテルで排日移民法成立に憤る演説をしているが、悔し涙を流しつつ語ったといわれている。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第六章・第3回。
 時間:02:31
 収録日:2015/02/02
 追加日:2015/09/14
 カテゴリー:
 歴史・民族日本史(大正~現代)
 ≪全文≫
 いまの日本人がわからなくなっているのは、このアメリカによる日本からの移民禁止に対して、当時の日本人が抱いた悔しさだろう。
 大正13年(1924)にアメリカで、いわゆる排日移民法として知られる新移民法ができたとき、アメリカ大使館の隣の井上子爵邸で切腹する人さえいたのである。元来は親米的だった学者や思想家、実業家の間にも、反米感情が現われた。
 日本の近代資本主義の発展に貢献した財界の大御所である渋沢栄一でさえ、大正13年4月17日に帝国ホテルで開催された汎太平洋倶楽部の例会で、アメリカでの排日移民法成立に憤る演説をしている。悔し涙を流しつつ語ったといわれる演説である。対日移民法ができるまでの流れや、当時の雰囲気がとてもわかりやすい演説なので、ずいぶん長くなるが主要部分を抜粋したい(読みやすさに配慮して、文字遣いや表記を適宜変更し、読点や改行などを施している)。
 〈私は少年の頃よりいささか漢籍を修めていたために、おのずから内を尊び外を卑しむの風になずみ、その極み、当時の攘夷論者の中に加わって、皇室を尊崇し、外国を排斥するの説を主張したのであります。しかし、ただ論じただけでありますから、大いなる効果はなかったけれども、これは全然間違ったこととは申されないのであります。
 しかして、その頃の攘夷論者は何を目的として外国を非難したかというと──一昨年までわが同盟国であったイギリスのことを申すのは心苦しいことでありますが、彼の支那の道光年中にイギリスと支那との間にいわゆる阿片戦争が起こった。その事柄の詳細は知りえませんけれども、イギリスのほうが無理であったと思います。つまりイギリスから支那人民の害となる阿片を売り込んで、その結果戦争となって、結局支那は土地を割譲して和を講じたのであります。
 この阿片戦争のことを知った当時のわが有志家は、これは日本のために大変だ、アメリカもイギリスと同じことをやるのではないかと思うて、痛切に攘夷論を唱えたのであります。
 然るに、その後私は家を出て京都に上り浪人となり、それから一橋家の家来となってだんだん境遇が変わるとともに、外国を知るべき機会を得まして、明治維新の前年にはフランスに渡航したが、その頃から攘夷論の夢が醒めました。ことに爾後のアメリカとの国交を観察すると、同国は正義により、人道を重んずる国であるということを、種々の事実について知りえたので、ぜひ一度行って詳しい事情を知りたいと思いました。
 要するに十数年の歳月と時勢の進運とが、私をして当初の謬見を革めしめ、明治元年の冬、フランスから帰朝しました頃には、多少ヨーロッパの実状を知り、昔日の攘夷主義は全然いかぬと考定しました。
 ヨーロッパさえ左様であるから、アメリカに対しては殊に慚愧の念深くして、往時悪むべしと思ったと反対に、懐かしいという感情が加わり、自分の国以外には第一に親しむべき国と思っておりました。
 ことにアメリカが修交以来、わが国に対して正義によって交わりを厚くしてくれたことは色々あるが、まず条約の改正、または治外法権の撤廃その他、すべてについて親切に処置してくれました。その後、経済上の関係、すなわち貿易の有り様はことに順調にして、アメリカに向かっては輸出も多くあり、またアメリカの産物を購買することも少なくない。ゆえに経済上、政治上、だんだんと親密の度の進みゆくのを見て、私は昔日の謬見をいっそう深く恥じたのであります。
 然るに、世の中は好いことばかりはないもので、ようやく国交も増進し、貿易の関係も良好にして、ことに日本から行った移民もカリフォルニア州、その他太平洋沿岸の各州において、アメリカの人々にも喜ばれ、広い荒野を開墾したのは、いわゆる天の配剤よろしきを得ていると喜びつつあったのも束の間で、そこに端なくも大いに憂うべき問題が起こりました。それは明治三十九年から翌四十年頃に、カリフォルニア州にいる日本人に対してカリフォルニア州の人々が排斥運動を起こし、まず学童を差別待遇しようとし、その後、明治の末期にわたって漸く排日運動を進めてきたのであります。
 実に私は意外の感に打たれたのである。なぜに白人は外国人を嫌うのか。東洋人だから嫌うのか、日本人だから嫌うのかと思うと、再び昔時の感想を思い起こさざるをえないのでありました。
 その頃、わが外務大臣は小村(寿太郎)侯爵でありまして、日米国交上、種々の折衝から、茲に紳士協約というものができたと記憶します。私は政治上のことに詳しくないから、心覚えを述べるまでであります。間違ったらお許しを願います。
 紳士協約ができた後、わが外務大臣は、アメリカに対しては樽俎の折衝(宴会とともに行なわれるような折衝)ばかりではいかぬ、国民同士で交際を厚くしなければいかぬということをとく...
   ・   ・   ・   
 8月29日11:54 YAHOO!JAPANニュース FNNプライムオンライン「「生き地獄だ」10時間の映像と生存者の手記から浮かび上がる“真実” 関東大震災から100年
 関東大震災から9月1日で100年を迎えるのを前に、FNNは震災直後のおよそ10時間に及ぶ記録映像と数多くの写真を入手した。
 【画像17枚】炎上した浅草や警視庁、津波に襲われた鎌倉…FNNが入手した関東大震災の記録映像などを画像で見る
 劇場が建ち並ぶ浅草「六区」が焼き尽くされ、12階建てのシンボルタワー「凌雲閣」が崩れ落ちている。
 また、両国国技館や官公庁の近代的なビルも焼失する様子が、映像から確認できる。
 さらに、100人が海水浴をしていたという鎌倉市由比ガ浜には9メートルの津波が襲いかかり、壊滅的な被害が出た。
 激しい揺れにより、鎌倉の大仏は30センチも動いていた。
 中でも甚大な被害を出したのは東京の4割を焼き尽くしたという火災だ。
 取材により、当時の市民の貴重な手記を見つけることができた。
 「列車が来ない…振り返ると空は真っ赤に」
 震災当時、有楽町の外資系企業に勤め、横浜の自宅に帰ろうとしていた大関鬼子郎さんは、東京が火に包まれる様子をこう綴っている。
 「有楽町駅から横浜桜木町行きの省線(列車)を待ったが来ない。そのうち平野屋の裏の方で火事が起こり、散々広がって警視庁、総監官舎、帝劇(帝国劇場)と燃え移った」「しばらくするうち、多摩川の丸子の橋を渡ったが、…振り返り見れば帝都の空は真っ赤である」
 震災による犠牲者およそ10万5000人のうち、9割が火事による焼死と言われている。
 そして、焼死者のおよそ4割がいたという場所が、東京・墨田区の「本所被服廠(ひふくしょう)跡」と呼ばれた、東京ドームより一回り大きい広大な空き地だ。
 ここに避難していた人の大半が火に巻かれて命を落としたのだ。
 震災後、この場所に立てられた東京都慰霊堂
 学芸員によると、この時空き地で起きたのは「高熱の竜巻、火災旋風とも呼ばれている」という。
 併設の施設には震災の火災で焼かれてぐにゃりと木に垂れかかった鉄板も展示されている。
 FNNは、この火災旋風に襲われながら生き延びた人物の貴重な手記を、初めて撮影することができた。
 生存者が遺した「火災旋風」の“地獄”
 “火災旋風”から生き延びた男性の手記:「ゴゥーーと言うようなちょっと言葉にならぬ不気味な音に振り返ってみると…巨大な悪魔が大マントを両手で広げてかぶせるように迫ってくる。」
 「ハッと思ったら身体が宙に浮かび上がった。2メートルか3メートルくらい上がったと思うが…北方と思われる方にはまだ空中に舞い上がっている人や荷台が見えました」
 「建築足場や、焼トタンが飛んでくるようになった。トタン板は蝶が舞うように飛び交い、一人の頭をそぐようにしてまた次の人の頭へと、その人の頭が小皿のような形で切れて落ちる…生き地獄だ」
 専門家によると震災による広域の火災や、火災旋風と呼ばれる現象は、現代に首都直下地震が起きた場合にも起きる可能性があるという。
 「被災地」とされた多くのフェイク写真
 また、関東大震災の際に、被災地として紹介された写真の中に、背景を書き換えたり、合成したフェイク写真が多数含まれていたことも、取材によりわかった。
 災害にはつきものとされるこうしたフェイク画像や、デマ情報は、時に混乱や誤った避難行動を助長し、二次災害を引き起こすおそれがある。
 当時こうした写真は、新聞や公的刊行物にも掲載されていたという。
 なぜこのようなフェイク画像が作られ、大量に出回ったのか。
 写真を発見した元共同通信の沼田清さんは、その原因の一つにつとして「新聞社みたいに大きなところが震災の被害を受けてすぐに動き出せなかった」と指摘する。
 関東大震災により東京の新聞社17社のうち14社が倒壊し、すぐには発行できない中で、被災状況を知るすべとして飛ぶように売れたのが、こうした写真だったというのだ。
 このようなフェイク画像や流言は、ネット空間と親和性があり、現代社会で震災が起きればより深刻な問題になる恐れがあると専門家は指摘している。
 社会部
   ・   ・   ・   
 2022/09/01
 日本初の歴史戦国ポータルサイト
 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
 HOME >日本史 >明治・大正・昭和 >
 明治・大正・昭和
 関東壊滅の大震災 そのとき最も支援してくれた国はアメリカだった
 大正十二年(1923年)9月1日は、関東大震災の原因となった「大正関東地震関東大地震)」が起きた日です。
 細かくて申し訳ありませんが「震災」という言葉は、地震そのものではなく「地震によって引き起こされた災害」を指しますね。
 この地震で最も大きな被害を出したのは火災であり、エリアによっては12日間も燃え続けたと言います。
 関東在住の方は、夏休み明けの二学期初日は、関東大震災の教訓を学校で毎年聞かされてきたでしょう。
 関東大震災の復興
 関東大震災の復興で政争とか何してんの?後藤新平の帝都復興物語
 続きを見る
 今回はこの震災に関する別の点を見ていきたいと思います。
 「海外からの支援」です。
 京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋および神田方面の惨状/Wikipediaより引用
 お好きな項目に飛べる目次 [とじる]
 一次大戦と二次大戦の合間に起きたので……
 同盟失効直後の英国も莫大な支援
 震災の後に戦争のやるせなさ
 一次大戦と二次大戦の合間に起きたので……
 東日本大震災のときと同様に、関東大震災のときも支援してくれた国がたくさんありました。
 カギとなるのは、この震災(1923年)が第一次世界大戦(1914-1918)と第二次世界大戦(1939-1945)の間に起きたということ。
 つまり、戦後の状況とは全く違った世界情勢だったのです。
 そのため、このとき最も多くの支援をしてくれた国は意外にもアメリカでした。
 18年後には敵同士となった両国が関東大震災の時にはいち早く、なおかつ官民合わせて巨額の支援をしてくれていたというのは何とも皮肉なものです。
 これは当時のアメリカにとって、日本が「第一次世界大戦の連合国」だったからでした。
 街頭で日本への援助を募るアメリカ人の写真なども残されています。
 アメリカの日本人会や、彼らと交流のあった黒人たちからも義捐金や支援物資が送られていたようです。
 シカゴで行われた募金の様子/Wikipediaより引用
 ちなみに、アメリカ国内も実はドタバタの最中でした。
 このちょうど一ヶ月前にウォレン・ハーディング大統領が食中毒で亡くなってしまい、副大統領だったカルヴィン・クーリッジが引継ぎを終えたばかり。
 その中でも、フィリピンに寄航中のアメリカ海軍に支援物資を運ばせるなど、迅速な対応をしてくれたのです。
 同盟失効直後の英国も莫大な支援
 意外?なところでは、ベルギーも大きな支援をしてくれています。
 実は、第一次大戦中に日本がベルギーを支援したことがあったので、その恩返しにというわけです。
 トルコやエルトゥールル号の話もそうですが、胸アツですよね。多くの死者が出ていなければ喜ばしいですが、自然災害ばかりは仕方がありません。
 エルトゥールル号遭難事件~親日国トルコと日本をつなぐ友情の架け橋
 続きを見る
 明治時代からベルギーの公使・大使は日本にかなり好意的な人物が多かったようなので、その辺も関係したかもしれませんね。
 震災の半月ほど前に日英同盟が失効したイギリスも、莫大な支援をしてくれています。
 カナダやニュージーランド、オーストラリアといった現在の英連邦の国々とともに、それぞれの特産品やよく産出される物資を送ってくれました。
 この辺のことは「外国義捐金品一覧表」という資料を見るとさらによくわかります。
 関東大震災の際、支援を行ってくれた国の一覧と目録を合わせたもので、アメリカ、南米諸国、中華民国、イギリスとその植民地、フランスと(以下同文)、オーストリア、イタリア、スイス、スウェーデン、ドイツが記載。
 この目録、各国のお国柄が見えるような気がしてなかなか興味深いです。
 大破した浅草の凌雲閣。関東大震災を象徴する建物の一つですね/Wikipediaより引用
 震災の後に戦争のやるせなさ
 カナダからは木材がたくさん送られていたりとか。
 フランスやオーストリアは医療器具・薬品が多いとか。
 イギリスが何故かポートワイン(酒精強化ワインの一種)を送ってきていたりとか。ポートワインってポルトガル産で、英国へ大量輸出していたからかもしれません。
 中華民国からはお米がたくさん送られています。
 高野豆腐やタマネギ、コーンビーフ缶といったおかずになりそうなものや、雨傘なども来ていたようです。
 さすが近所のよしみというか、食の傾向がわかってるというか。
 ここに挙げた以外にも、支援をしてくれた国はたくさんあります。
 それを考えると余計に、この後の世界情勢の悪化が惜しまれるというか何というか……。事情が変わったからといえばそれまでの話なのですけれども。
 震災時に援助をしてくれた人の多くが存命中だったろうと思われる時期に、あのような大きな戦争が起きてしまったというのはやるせないとしかいいようがありません。
 自然災害は予測できないにしても、戦争は絶対に回避せねばなりませんね。
   ・   ・   ・   
 8月29日7:43 YAHOO!JAPANニュース 沖縄タイムス「殺害、暴行、街頭で尋問… 沖縄出身者に差別の暴力 関東大震災100年 被害証言でたどる
 関東大震災直後の警備状況=1923年9月、東京・牛込付近
 関東大震災から9月1日で100年。日本人は当時、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などというデマを流し、朝鮮人を虐殺した。中国人、地方出身の日本人、そして沖縄人も差別の被害に遭った。沖縄人は少なくとも1人が自警団に殺されたほか、けがをさせられたり、街頭で尋問されたりした。書籍に残された証言から、沖縄人の震災体験をたどる。(編集委員・阿部岳)
 【写真】関東大震災を体験した沖縄人の証言を収める書籍
 はっきりと分かっている虐殺被害は千葉県で起きた検見川(けみがわ)事件。自警団が朝鮮人と間違えた「沖縄県人の儀間次助」(氏名は報道によって異なる)ら3人を殺害し、遺体を川に捨てた、と東京日日新聞が伝える。
 警察官も被害に遭った。「那覇壺屋生まれで東京府下亀戸署勤務の城間巡査」が「偽巡査」と疑われ重傷を負ったと、沖縄朝日新聞が報じた。これらの記事は島袋和幸が編んだ私家版の資料集「関東大震災 千葉県〈検見川事件〉」にまとめられている。
 東京で暮らしていた沖縄歴史研究者の比嘉春潮は手記「沖縄の歳月」に詳細を残している。自警団が夜、自宅を訪れ、「朝鮮人だろう」「ことばが少し違うぞ」と追及される。「僕は沖縄の者だから君たちの東京弁とはちがうはずじゃないか」と反論するも納得しない。押し問答が続き、自警団の一人は「ええ、面倒くさい。やっちまえ」と怒鳴った。一緒に警察署に行き、何とか助かった。
 別行動だったおいの春汀は「朝鮮人だ」と叫ぶ自警団にこん棒で殴られ、血だらけになった。春潮はほかにも、「長浜という首里の青年」が行方不明で、「殺されたとしか考えられない」と指摘する。教育者の豊川善曄(ぜんよう)は自警団に疑われ、君が代を歌うよう強制された。新聞に行方不明者「鮮人安里亀」が「アンリキ」というルビ付きで載っていたのは、「あさとかめ」ではないか、とも推定している。
 社会運動家の大里康永は著書「自由への歩み」で、町内の自警団に加わったことを記している。ところが非番で新宿に買い物に行った時、別の自警団に「その持ち物は何か」と、問答無用で風呂敷をひったくられた。中から転がり落ちたのはパンと果物だった。
 阿波根喜代は震災当時、東京の製紙工場で働いていた(その後阿波根昌鴻と結婚)。「言葉があまり流暢(りゅうちょう)ではなかったので、朝鮮人と間違われては大変だといって外に出ないように閉じ込められました」と、「伊江島の戦中・戦後体験記録」で証言している。
 実際に知人の朝鮮人が多数殺された。「どうしてデマだけでこんなに人を殺してしまうのだろうか、日本人は本当に野蛮だと思いました」と述懐する。
 「なはをんな一代記」を書いた金城芳子も、女性3人連れで歩いていた時、うち1人が持っていた紅型の風呂敷を自警団に見とがめられた。「私は朝鮮人や中国人と親しく付き合っていたから、デマは信じなかった」と、元沖縄タイムス記者の国吉真永の著書「沖縄・ヤマト人物往来録」の中で語っている。(敬称略)
   ・   ・   ・