☂37:─1─日本の左翼と右翼は明治維新で生まれた。~No.124No.125No.126 

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 右翼は初等教育で身分の低い庶民に浸透し、左翼は高等教育で身分の高いエリートを洗脳した。
 後のリベラルは、庶民ではなくインテリに受け入れられた。
 保守層とは、庶民であった。
 日本の庶民は、イデオロギーの「人民」ではなかったし、宗教の「迷える子羊」でも「原罪を持った罪人」でもなかった。
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 2023年8月28日6:33 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「日の丸」が日本で使われるようになった「思わぬ理由」…「開国」がもたらした「日本の重大な変化」
 日本左翼の原点とは何だったのか? 
 シリーズ累計16万部を突破した『日本左翼史』の4作目となる『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向 1867ー1945』では、
 階級を生んだ松方デフレ、大逆事件の衝撃、白熱のアナ・ボル論争、弾圧と知識人の「転向」。戦前から、社会運動の源泉を探る。 ※本記事は池上彰佐藤優『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向 1867ー1945』から抜粋・編集したものです。
 【写真】日本を資本主義の国に移行させ、左翼運動を準備した、ターニングポイント
 「日本」という意識を生んだ開国
 池上彰 では、ここから「左翼史」の総ざらいを進めていきましょう。その上でまず起点をはっきりさせておかなければいけませんね。1868年の明治維新でいきなり近代化が始まったわけではないでしょうから。
 佐藤優 始まりはやはり1854(嘉永7/安政元)年でしょうね。
 池上 1854年というと、日米和親条約が結ばれた年ですか? 
 佐藤 ええ。日米和親条約の締結、そして翌1855(安政2)年の日露通好条約で、日本は長く続いた鎖国の時代に終止符を打ちました。 開国により日本が蒙った変化を数えあげ始めたらキリがありませんが、その中でも根源的に重要なことのひとつは、外国人や外国の文物を初めて目の当たりにした多くの人々の心に、「日本」という意識を生みだしたことです。
 池上 確かにそうですね。それ以前の日本人にとって国といえば、薩摩や長州、会津など「藩」のことであって、外国というのは「唐土」「天竺」「南蛮」といった言葉に表される、抽象概念に近いものでしかなかった。
 だから薩摩人や長州人、会津人という意識はあっても、それらを統合した「日本人」というアイデンティティは希薄だったでしょうし、各藩の藩主の家紋が自分たちのシンボル的に使われている一方で、日本という国家を示すシンボルマークの必要性は誰も感じてさえいなかった。
 それが初めてまともに外国と貿易をするようになって、日本の船を外国船と区別するための日本国共通の船舶旗が必要となり、薩摩藩主・島津斉彬の進言で、白い帆に朱の日の丸を日本船の総印として使用するようになった。
 佐藤 そのようにして、日本という意識が生まれないことには、左翼思想の母体である階級意識も生まれませんからね。
 池上 会津の人と薩摩の人では話し言葉に違いがありすぎて、口頭でコミュニケーションしようとしてもお互いに何を言っているのかわからないので、書き言葉、それも武家階級共通の教養だった漢文を書いて意思疎通していたくらいですからね。
 それが明治大正を通じて、学校教育で「国語」が教えられた結果、東京の山の手で暮らしていた上流階級の言葉が「標準語」として普及していったわけですが。
 佐藤 国語教育の必要性を強く訴えたのが、「標準語」という言葉の発案者ともいわれる1867(慶応3)年生まれの言語学者・上田萬年ですね。上田も東京帝国大学で学んでいた若い頃は、各地から集まってくる同級生たちと日本語では意思疎通ができず、英語でコミュニケーションを取っていたそうです。日本語の標準語が形成される上で注目されるのは、話し言葉より書き言葉が先行したことです。
 資本主義の素地としての通俗道徳
 池上 「日本人」というアイデンティティもさることながら、民衆が階級意識をもつに至るには、彼らが暮らす社会そのものに、資本主義がある程度以上発達している必要もありますよね。この資本主義も、やはり開国と同時に前資本主義的な様々なモノ・文化が流入し、貨幣の力が急激に強くなったことによって始まったと考えていいのでしょうか? 
 佐藤 そのとおりだと思います。ただ日本には、資本主義が急速に浸透していくだけの下地が既にあったと私は考えています。歴史学者の松沢裕作さん(慶應義塾大学経済学部教授)が書いた『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書)を読むと非常によくわかるのですが、明治維新が起きた時点で日本社会の商業化はすでに都市部を中心に相当に進んでおり、それに伴って、通俗道徳がかなりの程度浸透していたからです。
 池上 通俗道徳というと、要するに二宮尊徳に代表されるような、勤勉に働いて質素倹約に努め、そうして蓄えたお金を浪費せずに投資に回せば立身出世できる、経済的な成功が叶えられるという価値観ということでしょうか。
 佐藤 そうです。経済的に成功するにはとにかく努力が大事なのだという考え方ですね。
 この通俗道徳が日本に根付き始めたのは江戸や大阪などの大都市で貨幣経済が発達した江戸中期ごろのことですが、その頃はまだ基本的には商人たちの道徳でしかありませんでした。
 池上 武士階級は倹約も利殖も含めてお金のことについてあれこれ思い煩うこと自体卑しいことだという価値観を持っていたでしょうし、農民は農民で助け合いの精神があったでしょうしね。
 佐藤 究極の助け合いの世界ですよね。なにしろ村が領主に納める年貢については村全体で連帯責任を負っていましたから、誰か一人でも怠けている人がいればその分は誰かが肩代わりしないといけない制度だったわけですからね。
 地租改正が促進させた「個の自立」
 佐藤 ところがこの互助の世界が、明治政府が1873(明治6)年に地租改正を断行したことで解体されました。
 池上 明治政府が初期に行った税制の大改革ですね。江戸時代までは収穫された米の量を対象に、米で税を納めさせていたのを、明治政府は土地の収益から算定された地価の3%の金額を、土地所有者に貨幣で納めさせる方法に改めました。
 江戸時代から続いていた税制では、税収が米の収穫高に応じて変わってしまいますから、政府が計画的に予算を組むことがなかなかできません。しかし近代化を進めるために課題山積だった明治政府としては豊作・凶作に左右されずに徴税を行い、税収を安定させたい思惑があったので、どうしてもこの方式に変更したかった。
 農民からすれば凶作の年でも決まった税率を負担しなければいけない上に、3%という 税率の負担も重かった―― じっさい導入後は各地の農村で反対の声が上がって暴動が相次いだため、政府は導入4年後の1877(明治10)年には税率を2.5%に引き下げてい ます――わけですが、地租改正によって土地は所有者の私有物であることが明確化され、農民たちも連帯責任の縛りから解かれ、自分の収入にのみ責任を負えばよいということになった。
 佐藤 これで「個の自立」が起きたわけですよね。江戸時代まではいくら通俗道徳が根付いていると言ってもあくまで商人階級を主体とした価値観だったのだけど、地租改正以後は、仕事を怠けた結果税金を払えない者が同じ村にいても助ける道理がなくなった。
 池上 それまでは商人たちだけの特殊な倫理観だった通俗道徳が、日本の人口の圧倒的多数を占めていた農民へと広がり、国民的に共有されていくようになるきっかけを地租改正が作った。農民たちも助け合いではなく、自己責任の精神で成功を目指すようになった。
 佐藤 ええ。日米和親条約締結後に貨幣経済がそれまでとは違うレベルに達した結果、日本社会にすでに一定程度浸透していた通俗道徳はますます力を持つようになりました。もっとも、そもそも通俗道徳が江戸時代を通じてそれなりに根付いていなければ、日本において資本主義があれほど急速に根付くこともなかったと思います。
 この通俗道徳の存在もまた、明治期の左翼史を理解する上でのもう一本の重要な補助線になりうると思います。
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 さらに【つづき】〈日本を「資本主義の国」に移行させ、左翼運動を準備した、重大な「ターニングポイント」とは〉では、資本主義確立させた「松方デフレ」​とその影響についてくわしくみていく。
 池上彰×佐藤優
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 現代ビジネス「日本を「資本主義の国」に移行させ、左翼運動を準備した、重大な「ターニングポイント」とは
 池上彰×佐藤優
 日本左翼の原点とは何だったのか?
 シリーズ累計16万部を突破した『日本左翼史』の4作目となる『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向 1867ー1945』では、階級を生んだ松方デフレ、大逆事件の衝撃、白熱のアナ・ボル論争、弾圧と知識人の「転向」。戦前から、社会運動の源泉を探る。
 本記事では前編〈「日の丸」が日本で使われるようになった「思わぬ理由」…「開国」がもたらした「日本の重大な変化」〉につづき、資本主義確立させた「松方デフレ」​とその影響についてくわしくみていく。
 ※本記事は池上彰佐藤優『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向 1867ー1945』から抜粋・編集したものです。
 資本主義を確立させた「松方デフレ」
 佐藤優 しかし現実の社会では、個人の成功や没落というものは社会の仕組みや運不運に大きく左右されるものであって、必ずしも個人の努力・怠慢だけで決まるものではありません。
 こうした状況が日本に初めて出現したのは、私は「松方デフレ」以降のことだと思います。
 池上彰 松方デフレというと、大蔵卿・松方正義が1881(明治14)年から政策的・意図的に引き起こしたデフレーションですね。
 発足したばかりの明治政府では1877(明治10)年に勃発した西南戦争の莫大な戦費を調達するために、大隈重信が大量の不換紙幣を発行し、そのせいで戦後、とんでもないインフレを招いていました。
 大隈の後を引き継いで大蔵卿となった松方は、このままでは経済危機を招き新政府は破綻すると考え、インフレを抑えるために大隈が発行した不換紙幣を徹底的に回収し、焼却しました。これにより今度は逆に大規模なデフレが生じました。
 農村でも米などの農産物、あるいは農民にとって大事な副収入源になっていた繭、生糸などの価格が暴落し、農民たちが困窮のあまり地租を払えなくなり、最終的に農地を売却せざるを得なくなる例が多発しました。農地を手放してしまった後は高額な小作料を払って他人の土地を借りながら農業を続ける小作農に転落する者もいれば、仕事を求めて都市部に移り住み、資本家に使われる労働者になる者もいました。
 佐藤 1871(明治4)年に廃藩置県、1876(明治9)年に廃刀令などの改革が断行されて武士階級の不満はすでに溜まっていたでしょうが、とはいえ明治初期における日本の総人口の4%程度を占めていたに過ぎない士族たちの地位が揺らいだだけでは、社会構造が大きく変わったとは言えません。本当の意味で激震が走ったのは、この松方デフレによって農民たちの生活が脅かされてからのことだと思います。
 池上 そうですね。没落した自作農たちが手放した土地は、裕福な一握りの地主、あるいは高利貸しのもとに集積していきました。彼らのような地主は自分自身が働いて農作業をせずとも、小作農に土地を貸して小作料を取り立てるだけで生活できます。地租改正と松方デフレは、そうした「寄生地主」を日本全国に生み出しました。
 佐藤 彼ら寄生地主は、小作料として集めたカネを投資に回し、その利殖でさらに豊かになっていきました。
 池上 マルクスが『資本論』で解き明かした資本主義に特有の現象、まさにそのとおりのことが日本でも初めて起きたということですね。
 太宰治を苦しめた「後ろめたさ」の正体
 佐藤 そのとおりです。マルクスが資本の本源的(原始的)蓄積と呼んだ現象です。ただこれも資本主義におけるよくあるパターンではありますが、寄生地主にあまりに富が集中すると、その子供や孫の世代の中から、自分たちの境遇に疑問を持つ者も出てきます。
 彼ら自身は親が小作から搾り取った富のおかげで高等教育を受けさせてもらい、高い教養を身につけることができたのだけど、その教養あるがゆえに、額に汗して働いているわけでもない自分たちが贅沢な暮らしをしていることに違和感を覚え、やがて不平等を成り立たせている社会そのものへの反感を募らせていく。そうした反感なり自分の境遇に対する「後ろめたさ」なりから、のちに革命運動や芸術運動に向かった例は多々あったでしょう。
 考えてみれば太宰治もそうした若者のひとりですよね。
 池上 太宰の実家である津島家は、太宰の曽祖父の頃は青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)で油の行商をしていたそうですね。それが明治維新後、行商で蓄えた金を農民たちに貸すようになり、借金を返せなくなった農民から土地を巻き上げることで青森県有数の大地主にまで上り詰めた。父親の津島源右衛門は多額納税により貴族院議員も務めています。
 そうした典型的な寄生地主の家に生まれ育った太宰は、実家への反感もあって旧制弘前高等学校在学時には学友たちとともに左翼運動に加わりました。生涯で最初の自殺未遂をしたのもこの頃で、この動機にも革命運動が関係していたとの説があります。太宰自身も後年、30代半ばになってから書いた短編『苦悩の年鑑』で次のように回顧しています。
 〈プロレタリヤ独裁。
 それには、たしかに、新しい感覚があった。協調ではないのである。独裁である。相手を例外なくたたきつけるのである。金持は皆わるい。貴族は皆わるい。金の無い一賤民だけが正しい。私は武装蜂起に賛成した。ギロチンの無い革命は意味が無い。
しかし、私は賤民でなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。私は十九歳の、高等学校の生徒であった。クラスでは私ひとり、目立って華美な服装をしていた。いよいよこれは死ぬより他は無いと思った。
 私はカルモチンをたくさん嚥下したが、死ななかった。
 「死ぬには、及ばない。君は、同志だ。」と或る学友は、私を「見込みのある男」としてあちこちに引っぱり廻した。
 私は金を出す役目になった。東京の大学へ来てからも、私は金を出し、そうして、同志の宿や食事の世話を引受けさせられた。〉
 ......どうやら革命の同志たちとは東京帝国大学入学後も付き合いがあり、資本家階級出身の太宰はよい金づるになっていたようですね。
 佐藤 皮肉なことですが、寄生地主がいるからこそ革命運動も活性化し文化も生まれてくるという面は実際にありますよね。
 池上 『苦悩の年鑑』ではプロレタリア文学に対して辛辣な見方をしている太宰ですが、彼自身も旧制高校時代には当時流行していたプロレタリア文学に影響を受けた作品を書いています。プロレタリア文学については『黎明 日本左翼史』第4章で詳しく話すことにしましょう。
 松方デフレが左翼の登場を準備した
 池上 ここまでの流れを整理すると、黒船来航によって「日本」という意識が生まれたところに、地租改正により江戸時代までは曖昧だった土地の私有化の概念が明確化された。
 これにより、それまでは当たり前だった連帯責任で税を納めるという共同体的な仕組みが社会の中から失われ、個の自立が促進されて自己責任型の社会へと急速に変化した。そこから必然的に格差が生まれてきた。
 そして松方デフレによって、個人的な努力だけではもはやどうにも抗いようのない恐慌と、富の一極集中現象が到来した。それまではみんな、真面目に頑張れば世の中はどうにか渡っていけると思っていたのが、そんな常識など通用しない社会に初めてなった、ということですね。
 松方デフレによって日本各地で離農者が相次いだことも重要なポイントでしょうね。ひとつの社会で社会主義の思想・運動が広まる上では、社会の中に一定数のプロレタリアートが存在していなければならず、そのためには農村がある程度解体され、工業化されていることが前提となりますから。
 ところで、仮に松方正義がデフレを起こしていなければ、その後の日本はどうなっていたでしょうか?
 佐藤 国家破綻して早々に西欧列強の植民地になっていたかもしれませんが、近代以降の世界史にはほぼ登場することのない、小さな農業国として細々と生き延びていた可能性もそれなりにありますね。
 それ以前の地租改正も行われなければ、日本全国、どこの村でも皆が連帯責任で年貢を納める方式が続いて寄生地主が生まれることもなかったでしょう。おそらくタリバーン支配下アフガニスタンのような国になっていたのではないでしょうか。
 ところが幸か不幸か、松方がデフレ政策を行い、さらに日清戦争が起きたことで結果的にデフレを克服できてしまったことで近代的な国家としての基礎体力が備わった。そして松方デフレによって出現した時代状況に対しては、右翼的な人々だけでなく、新たに出現したプロレタリアートという階級からも必然的に異議申し立てがなされるようになった。
 ですから松方デフレとは、日本を資本主義の国に本格的に移行させると同時に、左翼運動を潜在的に準備することにもなった重要なターニングポイントであったと言えます。
 池上 いま佐藤さんが指摘した、松方デフレを克服した直接の要因が、日清戦争の開戦だったというのも忘れてはいけないポイントでしょうね。
 近年の日本もデフレの克服を課題とし、日本銀行は2013(平成25)年に就任した黒田東彦総裁のもと大規模金融緩和を続けたものの、「2%の物価上昇」にはなかなか届きませんでした。任期終盤にようやくインフレに転じましたが、これが日銀や政府の政策の成果として起きたものでなく、ロシアのウクライナ侵攻の影響で食料品や燃料の供給が滞ったからであるのは誰の目にも明らかです。
 現代の日本の場合、物価上昇のペースがあまりに急激で賃金の上昇が追いついていないので、これはこれで大いに問題があるのですが、政府や中央銀行が何年も取り組んでできなかったことを、戦争は一瞬にして実現してしまう。これはひとつの現実ではあります。
 佐藤 日清戦争で日本は約24万人の兵力を投入して、戦死者は1万3800人。これは、のちの日露戦争第二次世界大戦で受けた損害と比べるときわめて少なかった。
 一方で打ち負かした清国政府からは約2億両(テール)の賠償金を分捕ることができました。
 池上 当時の邦貨換算で約3億円。現在の価値に換算すると、だいたい7700億円くら
いではないかとも言われる大金です。
 佐藤 もっとも賃金ベースで考えると明治時代の貨幣価値ははるかに高くなります。
 〈当時の給料をもとにして考えてみましょう。明治時代は小学校の教員の初任給が1ヶ月で8〜9円だったといわれています。現在の初任給はおよそ20万円程度であることを考えると、1円は2万円もの価値があったとも考えられます。〉(三菱UFJ信託銀行HPに掲載された2023年3月4日付の記事)。
 そう考えると当時の3億円は、現在の6兆円になります。戦死者一人あたり約4億3500万円が入ってきたことになります。国家として非常にローリスク・ハイリターンな事 業だったわけで、それゆえにここで日本は、国のトップから末端の国民まで、「戦争は儲かる」のだと学習してしまいました。
 だからこの後の日本はビジネスとしての戦争にのめりこみ、より儲かる投資のために10年に一度のペースで戦争をするような奇妙な国家になってしまいました。生活に困っているのにパチンコや競馬に少ない元手をつぎ込んでしまう人がいるのと似ていますよね。
 池上 生活が苦しくなったものだから、いっそ戦争で一発大逆転を図ろうとしているうちに破産(敗戦)してしまった、ということですね。
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 7月6日 現代ビジネス「なぜ「高学歴秀才」が左翼思想に魅かれたのか…忘れ去られた「左翼」の「本来の定義」
 池上彰×佐藤優
 日本の左翼は何を達成し、なぜ失敗したのか。
 『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』は、忘れられた近現代史をたどり、時代の分岐点に求められる「左翼の思考」を問い直す。
 激動の時代を生き抜くために、今こそ「左の教養」を再検討するべき時が来たーー。
 ※本記事は、2021年6月に刊行された池上彰佐藤優『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』から抜粋・編集したものです。
 忘れ去られた「左翼」の定義
 佐藤 左翼はきわめて近代的な概念です。もともと左翼・右翼の語源は、フランス革命時の議会において、議長席から見て左側の席に急進派、右側に保守派が陣取っていた故事に由来します。この左翼、つまり急進的に世の中を変えようと考える人たちの特徴は、まず何よりも理性を重視する姿勢にあります。
 理性を重視すればこそ、人間は過不足なく情報が与えられてさえいればある一つの「正しい認識」に辿り着けると考えますし、各人間の意見の対立は解消される、そうした理性の持ち主が情報と技術を駆使すれば理想的な社会を構築することができる、と考えます。
 池上 19〜20世紀の左翼たちが革命を目指したのも、人間が理性に立脚して社会を人 工的に改造すれば、理想的な社会に限りなく近づけると信じていたからですね。
 佐藤 そうです。ですから現在一般的に流布している「平和」を重視する人々という左翼観は本来的には左翼とは関係ありません。理性をあくまでも重視し、理想の社会を目指す以上は、敵対する勢力と戦わなければいけないこともありますし、ロシア革命を指導してソ連の建国者となったレーニンは「現在の帝国主義戦争(第一次世界大戦)を内乱に転化せよ」と言っていたくらいですからね。
 また意外と見逃されている事実ですが、伝統的な左翼は基本的に人民の武装化を支持するものです。職業軍人のような社会の中の特定の層の人たちが武装するのではなく国民皆兵、つまり全人民が武装すれば、国家の横暴にも対抗しうると考えるからです。
 一方で右翼(保守派)の特徴はなにかといえば、彼らも理性を認めないわけではありません。しかし人間の理性は不完全なものだ、と考えているのです。
 人間は誤謬性から逃れられない存在なので、歴史に学ぶ謙虚な姿勢が必要です。左翼のように無闇にラディカルな改革を推し進めるのではなく、漸進的に社会を変えていこうと考えるのが本来の右翼です。
 たとえば、王や貴族、教会などの存在は、どうして必要なのかを問われて合理的な説明ができる人はいません。しかし長年のあいだこの世に存在してきた以上は、その背後には何らかの英知は働いているはずであり尊重しなければいけない、という考え方を右翼はします。これが左翼と右翼の根本的な違いです。
 池上 私も佐藤さんの左翼観に同意します。戦前から戦後にかけての長い時期に、いわゆる高学歴の秀才たちは、総じて理性に依拠する左派の考え方に魅かれていきました。
 しかし現在の左翼・右翼像と照らし合わせて、佐藤さんの説明に違和感を覚える人もいるでしょうね。時代とともに、「左翼=反戦平和」といった左翼観に変貌した印象があります。
 佐藤 そうですね。たしかに現在の日本における左翼・右翼像はいま私が言った本来の姿からはかなり遠ざかっています。
 先ほど言った、左翼とリベラルの混同もさることながら、右翼=保守派の側も、教育基本法を改正すれば立派な国民ができあがる、「愛国心」を憲法に書き込めば国民の間に愛国心が育つ、などと言い始めています。でもこうした、国民の心情・精神に人工的な改造を施そうなどという発想は、もともとは左翼の構築主義に典型的に見られたものです。本来の保守派はこのような発想はむしろ嫌うものです。
 戦後左派が一貫した「反戦平和」
 池上 そういう意味では、現在の日本では左翼と右翼に関してものすごく大きなねじれが生じていると言えますね。どうしてこのようなねじれが生じてしまったのでしょうか?
 佐藤 それに関しては社会党、つまり現在の社会民主党の前身であり、1945年の結党 から1990年代の半ばまで日本の最大野党として、日本の左翼運動で主導的な役割を果 たした政党の影響がひじょうに大きいと思います。
 社会党の基本理念である社会民主主義は資本主義体制における格差や貧困の問題を解消しようとする思想ですが、かつて社会党左派の中央執行委員を務め、社会党の運動理論を組み立てた主要理論家のひとりでもあった清水慎三が『日本の社会民主主義』で明らかにしたように、日本社会党は西欧型の社会民主主義とも違う日本型の社会民主主義を独自に作り上げてしまった面があります。
 たとえば革命の実践にあたっては、レーニンが行ったような武力革命を拒絶し、一貫して平和革命を志向しました。平和革命を単なる望ましいことではなく、必須・必然のことであるとして絶対譲らなかったのです。
 もし社会党の内部で暴力革命など主張しようものなら、「社会党を離れて他でやってくれ」という話にすぐになりました。
 池上 この、同じ革命でも暴力に訴えず平和的な手段で実現するのだという社会党のこだわりは、長く悲惨な戦争に疲れ切っていた戦後左翼の多数派の心情にぴたりと合致したのでしょうし、だからこそその後も揺るがなかったのでしょうね。また原爆を投下されたことで核兵器への忌避感が民衆レベルで広まっていた戦後の日本にあって、社会党核兵器に対して首尾一貫して反対してきたことの意味も大きかったのではないでしょうか。
 佐藤 その点も重要です。本来的に言えば、左翼は理性ある人間の手元に置かれさえすれば技術はコントロールできると考えるので、核や原発それ自体への抵抗感は持ちません。
 池上 そうなのですよね。2011年に福島第一原発の事故が起きた時も、一部の左翼セ クトは、「福島原発ブルジョア(資本家階級)である東京電力が管理していたから爆発した。プロレタリアート(労働者階級)が管理すれば事故は起きない」と言っていましたから。
 佐藤 それと同じ理由で、日本共産党も冷戦時代の1963年、米英ソの三ヵ国が部分的 核実験禁止条約に調印した際には中国共産党と歩調を合わせて反対していました。彼らの見方に従えば、社会主義国保有する核は資本主義国に対する抑止力であって「良い核」だからです。
 毛沢東などは1957年11月にソ連で開かれた社会主義陣営の各国首脳会議で、「第三次世界大戦は必然的に起こるもので、核戦争で当時の中国の人口(約6億人)が半分になっても3億人は生き残る。(西側諸国との核戦争を)恐れる必要などない」とまで言っています。
 しかしこうした姿勢に比べると、社会党のスタンスは、戦後ずっと「左翼らしくない」と言えるほどに「非核」で一貫しています。
 その度合いは若干宗教的ですらあるかもしれません。創価学会の第二代会長である戸田城聖は1957年、創価学会の当時の青年会員たちに向けて、
 〈もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきである〉〈われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります〉と言い切った「原水爆禁止宣言」を出しています。社会党も核に対してはこれに負けないくらいのタブー視をしてきました。
 池上 そうですね。日本に「原水爆禁止日本協議会原水協)」と「原水爆禁止日本国民会議原水禁)」という反核平和団体の二つの全国組織があるのも、社会党共産党の核に 対するスタンスの違いが原因です。
 1955年に結成された原水協はもともと超党派の団体で、各国の核兵器の所持や核実 験の実施に全面的に反対していました。ところが、やがて内部で核の全面廃止を求める社会党のグループと社会主義陣営に属する国の核は認めるべきだとする共産党系のグループとの間で対立が起こり、結局1965年に社会党系のグループが脱退して、原水禁を結成しました。
 佐藤 このように、平和、非武装へのこだわりを終始一貫して持ち続けたグループが、左派の勢力図の中で、長いあいだ多数派を占めていたことは、戦後の日本左翼史を特徴づける一つの重要なポイントであると思います。
 左翼の悲劇を繰り返さないために
 佐藤 ですから、日本の左翼運動史は共産党だけを軸に見ていては理解できません。日本の近代史を通じて登場した様々な左翼政党やそれに関わった人たちの行い、思想について整理する作業を誰かがやっておかなければ日本の左翼の実像が後世に正確な形で伝わらなくなってしまう。私や池上さんは、その作業を行える最後の世代だと思います。
 特に懸念されるのが、日本共産党が来年2022年に創立100年を迎えるにあたり、 日本共産党の100年史を出す可能性があることです。今の状況下で日本共産党が党史を 出せば、彼らのバイアスがかかった歴史がそのまま左翼の歴史として流通してしまうでし ょう。つまり、世間の人々が左翼と共産党が完全にイコールな存在だと誤解したまま定着してしまうおそれがあります。
 池上 それは大いに問題があるでしょうね。左翼の歴史が特定の政党による見方に収斂されてしまうのは健全ではありません。社民党がかつての社会党ほどでなくても、もう少し元気ならそういう心配もないのでしょうが
 佐藤 そうなのです。実は私が今回の対談をどうしても池上さんとしたかった理由の一つは、この社会党の位置づけについて再考したかったからなのです。
 これまでに世に出ている日本の左翼運動史の本は、社会党の位置づけについて全く不十分な分析しかできていないんですよ。おそらく今の社民党に所属している党員たちにしても、自分たちの出自に関してしっかりと理解できている人はほとんどいないはずです。ですから私や池上さんのような、社会党のことがある程度分かっている人間がいまのうちに位置づけを明確にしておかないと、誰からも理解されないままに歴史の彼方に追いやられてしまう。
 池上 佐藤さんは高校二年から大学二年まで、日本社会党を支える青年組織である社青同日本社会主義青年同盟)の同盟員であったことを明らかにしていますし、社会党については表も裏も知り尽くしています。社会党の役割を捉え直すうえではまさに適任でしょうね。
 私も、社会の矛盾を解消したいと切実に願っていた若い頃には、社会党の中心的な理論家たちが書いた論文を貪るように読んでいた時期があります。またジャーナリストになってからは、自民党に対抗しうる事実上唯一の政党であった社会党には特別の関心を払わざるを得ませんでした。
 佐藤 最も怖いのは、今のような誰も左翼のことをよく知らない状況のまま、ふたたび左翼思想が注目されるような時代が来てしまい、人々が無自覚的に時代の波に飲まれてしまう事態です。そうなったら昔の左翼たちが犯した様々な誤り、悲劇がそのまま同工異曲で繰り返されるでしょう。それは避けなければいけません。
 先ほど触れた「枝野革マル説」にしても、問題は枝野氏が左翼であるかどうかではな く、左翼のことをよく知らない"ノンポリ"であることにあります。ノンポリだから 総連の献金が意味することをよく考えることなく受けてしまうし、共産党との選挙
協力の誘いにも安易に応じてしまう。
 彼が左翼のことをある程度理解していれば、もう少し異なる対応をしたはずです。だからこそ池上さんとの対談では、明治維新自由民権運動から始まる日本左翼史を縦
覧して様々な党派・活動家・思想家たちの足跡を辿るとともに、彼らがそこに至った過程についても分析していきたいと考えています。
 ただこれを、明治維新から時系列で話していくことで完全な「歴史の話」にしてしまうよりは、少しでも読者にとって身近に感じられるところから始めたほうがいい。
 そこで第一巻となる今回の対談では、まず戦後、つまり1945年8月15日を起点に話をスタートし、戦後最初の大衆闘争である60年安保に至るまでをひとつの区切りとしたいと思います。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守、新しい保守、エセ保守がある。
 現代日本では、安倍元総理による新しい保守が増えている。
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