🎶23:─1─ 原敬暗殺事件、犯人の動機はじつは「失恋」だった。大正10(1921)年。~No.52No.53 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2023年9月3日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「原敬暗殺事件、犯人の動機はじつは「失恋」だった…日本の元祖「劇場型犯罪」の意外な内幕
 東京駅丸の内南改札付近、原敬暗殺事件現場/完全版 朝日クロニクル20世紀 第2巻
 1921年、現役の首相である原敬が、山手線大塚駅の職員中岡艮一に東京駅で暗殺された。中岡には右翼とのつながりがあったのではとみる向きもあるが、暗殺の真因は実は中岡の失恋であった。『近代日本暗殺史』の著書もある帝京大学文学部教授・筒井清忠氏が、元祖「劇場型犯罪」とも言える同事件の顛末を明らかにする。
 【写真】安倍元総理銃撃事件から1年……「陰謀論」の拡大が止まらない理由があった
 恋愛の断念と「成就」のための暗殺
 中岡艮一、三省堂「画報日本近代の歴史8」より。
 大正10年(1921年)に東京駅で原敬首相を暗殺した中岡艮一(こんいち)には土佐出身の右翼青年のようなイメージがある。裁判の判決もそのように読めるようになっており、その後この点を深く究明したものがないのでこれにはやむを得ない点もあるだろう。しかし、事件後あまり間を置かずに出た『東京日日新聞』のスクープ連載のタイトルに見たようにその実像は「恋の艮一」であった。
 中岡の日記を最初に読んだ東京日日新聞記者、もしくは事件を担当した山崎佐(たすく)予審判事が最初に気がついたように、この暗殺事件に至るまでの艮一の経緯を見るとき、その大きな動因は、懸賞脚本に当選して恋愛感情を抱いていた縫子との結婚生活を確保するという、人生最大の理想の破綻から来る絶望感と、暗殺による「名声」獲得であったように思われる。縫子は中岡が住み込みで働いた印刷会社三秀舎の社長島連太郎の、弟の娘である律子の妹であった。艮一は縫子の気を引こうと、映画脚本の懸賞に応募したのだが、落選してしまったのである。
 懸賞脚本の落選が翌日の暗殺用短刀の購入とその日の上野駅での決行(未遂)にストレートに結びついており、これほど明白な根拠はない。縫子との恋が実るか、そのための懸賞脚本入選が実現していればこの暗殺事件は起こらなかったであろう。
 落選してから、原暗殺に至るまでについて、予審判事山崎佐の手記「原敬暗殺事件と判事」(江尻進編纂・発行『思い出に綴られる山崎佐の生涯』、1968年所収)には下記のように綴られている。
 「娘が偉い人物だと感服することをやれば、娘の心も必ず自分に向くだろうと考えて、第二回目の応募をしたが、これも落選したので、最早世の中には望みがないような気持となった。自分は、時事問題が好きであるので、日頃から新聞も社会面より政治面に興味を持って読んでいたが、毎日の新聞に原内閣の秕政が盛んに攻撃されているので、大いに同感し、いつも自分を可愛がってくれる橋本助役が『口さきばかりで憤慨しても駄目だからやめろ』といったので、自分はそれに反抗する気持になって『口さきばかりではない、その中やっつけるつもりだ』といった。すると助役は『本当にやるものはだまってやる。そんなことをいう奴に、何ができるか』と冷笑されたので『よし本当にやって見せるぞ』と暗殺を決心するようになった、と機微な心理の過程につき細々と語った」(151頁)
 艮一が暗殺に至る経緯の中で、父から教えられた天下国家的・憂国志士的な傾向が表面的とはいえあったことは事実である。新聞などのマスメディアによる「腐敗・汚職・独裁政治家原敬」打倒のイメージが、そこに大きく覆いかぶさってきていた。「通り」がいいので裁判の判決もそれだけになっている。
 しかし、艮一にとってそれは講談本や伊藤痴遊の『明治裏面史』愛読に見られるような普通の一般国民と同じレヴェルのものであった。武者小路実篤・『白樺』など文芸作品に親しんでいたインテリ的視点があったためそうした傾向を恥じる面があったことは、山崎判事との会話にそれらを「批評的」に読んでいると述べていたことから明白である。
艮一に大きな影響を与えたメディア
 艮一には、富豪・安田善次郎を暗殺した朝日平吾に見られたような、普通選挙運動などの活動をしたり社会主義国家主義など政治についての書籍を読んだりした形跡はない。安田善次郎暗殺に出かける前の朝日の机上には協調会刊の社会主義に関する書物があったが、艮一の協調会とのつながりは映画懸賞脚本への応募であり、そこでの落選が事件との決定的つながりなのであった。
 艮一の心理を覆っていたのは、縫子の歓心を買い、認められて結婚に至りたいということ(及びその代償としての周辺女性との恋愛)であり、武者小路実篤的な「人間愛」的な小説・脚本の執筆であり、暗殺事件の直前でも二回行った浅草の映画館での西洋映画鑑賞であった。
 懸賞脚本への応募の真因である縫子との結婚願望のさらにその奥に自らの置かれた境遇から来る「憂鬱」があったことは事実だが、(繰り返すが)それを政治的・社会的言論活動・集会参加など多くの政治青年が行ったやり方によって解決しようとする意識は希薄だった。
 また、周囲が比較的裕福な中、艮一だけが父の病死のため、印刷所員・鉄道雇員として働かねばならず収入が月40円と相対的に貧しかったことも事実だが、頻繁な映画鑑賞に見られるように親戚の経済的支援があり絶対的窮迫状態に置かれているわけではなかった。しかし、人間は置かれている立場を周囲と比較して自己の評価を決めるのであって、周囲が比較的裕福な中、置かれた立場から一挙に脱出したいという願望はとくに強かったものと思われる。
 元来内面的な方向に向かっていた面もあり、入牢中の読書が仏教や神道など宗教的方向に向かい、出獄後には結局、回教徒(ムスリム)になっていることはその一つの証左となろう。
 しかし、印刷所というマスメディアの一端に勤めていたことから来る文芸志向と映画愛好によりマスメディアの圧倒的影響力にさらされていたことは、明白であろう。とくに当時最新の流行文芸思潮『新しき村』『白樺』の影響は大きかったものと思われる。
 『白樺』が、学習院在学中の武者公路実篤・志賀直哉らにより乃木希典院長の明治的武士道精神の教育に反発して始められた運動であることは著名である。志賀は、乃木の殉死を「『馬鹿な奴だ』という気が、丁度下女かなにかが無考えに何かした時感ずる心持と同じような感じ方で感じられた」(『志賀直哉全集』第12巻、岩波書店、1999年、212頁)とし、彼らはロダンゴーギャンを志向した。そうした深層の個人主義人道主義・生命主義は元来、表層の天下国家的な暗殺などとは相容れないものなので、共有していたことに無理があるのだが、とにかく前者が拒絶されれば一時的に観念の中のみに押し込められ、その反動として後者(暗殺行為)が復讐的に急速に浮上し肥大化するということが起こりうる。しかし、どこまで行っても本体は前者である。
 裁「原首相を仆(たお)せば縫子と一緒になれぬと云う事を考えたか。」
被「先方は如何なる考えを持って居様とも、自分は自己一身を亡して迄も縫子を恋愛して居れば可い、其心が先方に通じなくても別に差支えがない。自分が真に縫子を愛して居れば同棲すると同棲しないとに拘わらず、夫れで満足であるのです。」(中略)
裁「原首相を仆す考えが無ければ縫子と一緒に為る考えで居たか。」
被「左様です。両立せぬから一方を断念しました。」((前坂俊之監修『犯罪研究資料叢書3 殺人法廷ケースブック(三)』皓星社、1996年〈石渡安躬『断獄実録第三輯』松華堂、1933年の復刊〉、167~168頁)。
 これを縫子が知ることを前提に艮一が話していることは言うまでもないから、なお求愛は続いているとも言えよう。
日本における劇場型犯罪の嚆矢
 大正期を代表する恋愛事件、白蓮事件が公になったのが、1921年10月21日、原暗殺の少し前であった。北九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん・歌人)が出奔し、社会運動家宮崎龍介と駆け落ちしたのである。白蓮から夫への絶縁状が新聞に公開され、さらに夫・伝右衛門からの反論も掲載された。マスメディアはスクープ合戦を繰り広げ、大衆の関心を引きつけていた。言うまでもなく、“封建的・経済的抑圧に対する恋愛・自由の勝利”が謳われたのである。
 一方、恋愛至上主義を説いて一世を風靡した、厨川白村(くりやがわはくそん)の『近代の恋愛観』は1921年9月から10月にかけて東西朝日新聞に連載され、翌22年3月に書籍として刊行されている。原暗殺の時点が連載終了の頃であった。
個人主義恋愛至上主義を説く厨川の主張が、大きくは『白樺』派と軌を一にするものであることは言うまでもないだろう。
 こうした一連の地点に艮一も立っていたのである。文学・映画愛好家の艮一の場合、ほとんど、恋か暗殺かに悩む恋愛小説や映画の主人公に自分を擬していたと言ってもよいかもしれない。
 その意味では、この事件は日本における劇場型犯罪の嚆矢であったと言ってもよいであろう。一見右翼的に見えるが、内実は、やはり大正期らしい、個人の内面的虚脱感に発し、マスメディアに大きく影響を受け、またそれに載ることを予期した、典型的劇場型暗殺事件であった。
 筒井 清忠(帝京大学文学部日本文化学科教授・文学部長)
   ・   ・   ・