👹12:─2─山上容疑者が安倍元首相を狙った「本当の意味」が、テロリズム分析から見えてきた。~No.49No.50No.51 

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 2022年8月28日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「山上容疑者が安倍元首相を狙った「本当の意味」が、テロリズム分析から見えてきた なぜ教会関係者ではなかったのか?
真鍋 厚
 なぜ「安倍元首相」だったのか?
 安倍晋三元首相を暗殺した山上徹也容疑者の動機をきっかけにして、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と自民党の癒着をめぐる報道が過熱しています。100人を超える国会議員が統一教会関連のイベントへの出席や祝電など、様々なレベルで関わっていたことが明らかになり、マスコミの報道量に応じて世間の風当たりも日に日に強まってきました。
 事件当初、思想的な背景がある「政治テロ」ではないかとの憶測が飛び交っていましたが、供述内容などから統一教会に母親が多額の献金を行ったことにより、家庭を破壊されてしまった男の復讐劇といったストーリーに回収されつつあります。
 仮にそうだとしても、大きな疑問が残ります。
 なぜ統一協会との癒着が指摘されている数ある国会議員の中でも、安倍元首相でなければならなかったのかということです。
 © 現代ビジネス Photo by gettyimages
 山上容疑者は、去年安倍元首相が統一教会の関連団体に送ったビデオメッセージを見たことを動機に挙げています。そのビデオでは「(統一教会のトップである)韓鶴子総裁をはじめ皆様に敬意を表します」と明言していたからです。
 しかし、被害を受けた側が加害した側に仕返しをするという復讐の図式で考えると、安倍氏は、その知名度ゆえに広告塔(というか内輪向けの権威付け)として教団に大いに利用された面はあるものの、山上容疑者の家庭を崩壊させた張本人ではありません。母親を巨額の献金へと直接導いたとされる教団の関係者に矛先が向くのが自然かと思えます。
 けれども、そうではなかった点が非常に重要であり、だからこそ通常の犯罪とは異なる見方が必要なのです。
 そもそも「テロリズム」とは
 私は拙著『テロリスト・ワールド』(現代書館)などで古今東西テロリズムについて論述し、動機の社会的・心理的背景について探求してきましたが、山上容疑者の動機の解明には、今回の事件が法的・学術的にテロリズムに当てはまるかどうかよりも、テロリズムの手法や枠組みを分析の道具として用いることが有用だと考えています。
 まず、テロリズムとは、定義上「政治的な立場や宗教的な信仰など、イデオロギーが対立する集団に恐怖を与えるために行使される暴力全般」を指します。そのため、メディアへの拡散やその余波をあらかじめ計算した上で、攻撃対象や使用武器の選定などを入念に計画し、犯罪行為を実行することが多いのが特徴です。なぜなら、犯罪行為がただの犯罪行為として処理されずに、センセーショナルな出来事として認知され、大々的に報道されなければ意味がないからです。
 © 現代ビジネス Photo by iStock
 この視点を踏まえると、今回の事件は、語弊がある言い方にはなりますが、犯罪行為がもたらした効果から見て、想像以上に“成功”しています。なぜなら、事件以前はマスコミが熱心に報じなかった統一教会霊感商法の被害や、自民党との癒着が始まった歴史的経緯、個別の政治家の関与についての詳細が次々と取り上げられるようになったからです。その火の手は、追及に及び腰なNHKの報道姿勢にまで及んでいます。これは安倍元首相が殺害されたインパクトに完全に比例しています。
 ここで注目すべきは、山上容疑者がジャーナリストに送った手紙で「安倍は本来の敵ではない」「現実世界で最も影響力のある統一教会シンパの一人に過ぎません」と記し、供述でも「政治信条に対する恨みではない」などと話していることです。
 これらの文書や発言から、殺害の対象をその個人の知名度、影響力によって決定したことがうかがえます。加えて、参議院選挙の応援演説というメディア関係者が集まる公衆の面前での犯行であることも見逃せません。
 「宣伝」を目的とした狙撃だった可能性
 テロリズム研究に関する論文で、政治学者のブライエン・ハレットが、「テロリストを政治目的のために暴力を発揮する者と見なすのではなく、劇場型犯罪に関与している犯罪者であると見なすことの方がより事実・現実に近い」と述べ、「テロリストは犯罪の隠蔽を試みるのではなく、最大の宣伝効果をねらって犯罪を起こそうとする」(*1)と主張していることが補助線になります。
 犯罪を仕掛ける側からすれば、「怨恨によるただの殺人」として片付けられてしまうことは計画の失敗を意味し、「社会的に重大な事件」として取り扱ってもらえることが成功を意味するというわけです。要するに、計画の成否はマスメディアをジャック(乗っ取ること)できるかどうかにかかっているのです。
 このように、山上容疑者の目的から逆算すると、母親と直接関係がある教団関係者だけを襲撃した場合、単に宗教絡みのトラブルとして矮小化される可能性が高く、社会問題としての重大性を訴える「宣伝効果」は相対的に低くなると評価できます。
 マスメディアをジャックするほどの衝撃性をもたらし、統一教会による被害と政治家の取り込みを深刻に受け止めてもらうためには、統一教会と関わりがある政治家のうち「最も影響力のある」人物を、カメラや聴衆の前で殺害することが「最大の宣伝効果」としてどうしても必要だったのです。これが「敵ではない」「恨みではない」という言葉の真意であると考えられます。
 例えば、事件前日に奈良市内の統一教会関連施設が入っているビルに、山上容疑者が手製の銃を“試し打ち”していたことが後に判明しましたが、犯行直前に計画そのものが頓挫しかねないリスクの高い行為に走った背景には、統一教会と暗殺事件を結び付けるための物的証拠をあえて残す意図があったことが想像されます。なぜなら、供述通りに銃撃の弾痕が見付かれば、教団に対する恨みという動機は筋が通りますし、報道する側もそれらの情報を重要視するからです。
 山上容疑者は、恐らく統一教会と癒着のある政権与党(自民党)が政治の力で「宣伝効果」を減殺するどころか、「自分の言動」を抹殺することを相当懸念していたのではないでしょうか。統一教会とグルであるならばそれも可能だ、と。そのように推測してみると、ジャーナリストへの手紙や、Twitter上での統一教会を敵視する発言も含めて、多方面に動機を裏付ける証拠を意識的に残したのだといえます。
 不正を放置した国家に対する怒り
 もう一つの興味深いポイントは、山上容疑者がジャーナリストのブログに書き込んだ「我、一命を賭して全ての統一教会に関わる者の解放者とならん」という言葉です。
 ここには暴力主義によって社会的な腐敗を一掃できるとする「救世主的テロリスト」の類型が見出されます。
 前出のハレットは、「救世主的テロリスト」を突き動かすのは「世界が非常に腐敗しているのでそれを救済するにはそれを破壊しなければならないという黙示録的信念である」と述べています(*2)。山上容疑者は、Twitterの投稿で教団に対する怒りだけでなく、政府に対する憤りも表明していました。
 以下のつぶやきからは、問題のある教団を野放しにしていることに象徴される不正の容認、弱者を見捨てる国家や政治家などの為政者への絶望が滲み出ています。
 いっそ全て消えて無くなるべき。必要なものを自分達でゼロから作り出す建国の思想と過程が絶対的に欠けてるんだよこの国は。(2021年7月5日)
 この国の政府が人民の幸福の為に存在した事は有史以来一度もない。明治においては列強に劣らない強国になるため、戦後においてはより強者だったアメリカの制度に順応するため。より強い者に従うために作られた政府がより弱者である人民の為に働く事を自ら理解することは無い。(2021年7月5日)
 さらに、とりわけ破壊による救済願望が現れていたのは、「テロも戦争も詐欺も酷くなる一方かもしれない」と前置きし、「麻原的なものはいずれ復活すると思う。それがこのどうにもならない世界を精算するなら、間違ってはいないのかもしれない」(2022年6月23日)と記したツイートです。
 ここは非合法的な手段による解決もやむなしという諦念のようなものを感じさせます。麻原とは、地下鉄への毒ガス散布などのテロ事件を起こしたオウム真理教創始者麻原彰晃のことです。
 昭和のテロリズムとの共通点
 山上容疑者が夢見た破壊による救済は、今をさかのぼること90年前に要人暗殺によって社会変革を企てた「血盟団事件」(1932)の思想を髣髴(ほうふつ)とさせます。
 世界恐慌の影響から昭和恐慌に突入した昭和初期の日本で起こった連続テロ事件であり、日蓮宗僧侶であった井上日召の下に世を憂う血気盛んな若者たちが結集し、元大蔵大臣で貴族院議員の井上準之助と三井合名会社理事長の團琢磨を相次いで射殺しました。当時、農村は疲弊し、財閥による富の独占、政界の汚職や疑獄事件に対する民衆の不満は限界に達していました。
 © 現代ビジネス 「血盟団事件」の首謀者だった日蓮宗僧侶の井上日召ウィキメディアコモンズより)
 事件の首謀者である井上日召が唱えた「一殺多生」は、要人一人を殺害することによって、多くの国民が救われるという思想でした。元は大乗仏教経典にあった四字熟語ですが、日召は、それを政治家の暗殺を正当化するスローガンに変えたのです。彼は、事件の公判において(暗殺が)「国家国民の幸福のためにする仏行なり」とまで言い切っています。
 片や、国家国民という民族主義的なスケールに比べてかなり小さくはなりますが、特定の人物を殺すことで多くの人々を救おうとする点において、山上容疑者の「我、一命を賭して全ての統一教会に関わる者の解放者とならん」は、「一殺多生」と極めて似た響きがあります。
 日召の思想に共鳴した若者たちは、社会の腐敗を正すために自ら進んで変革の「捨て石」となることを強く願っていた節がありました。「自分の利害にのみ狂奔して愛の扉を閉じ、農民が野垂死しても知らぬ顔をしている」(*3)とは、支配階級を痛烈に批判した日召の言葉ですが、農民を「統一教会の被害者」に置き換えても不思議と違和感はありません。
 今回の事件は、(カルト教団の被害を助長している)「政治の腐敗を正すために……」という論理の貫徹から、自己犠牲によってその他大勢を救済するというインスピレーションが時代を超えて噴出したようにも見えます。
 「令和の助命嘆願」の意味
 血盟団事件は、公判が開始されると、世論の同情もあって全国から約30万人の助命嘆願書が提出されたといいます。山上容疑者についても、現在オンライン署名サイト「Change.org」で「山上徹也容疑者の減刑を求める署名」が募集され、すでに7000人以上の賛同を得ており、このような後日談も含めて妙に一致する点が多いところも非常に気になります。そこには、山上容疑者の悲惨な境遇だけでなく、非合法な解決手段に至らざるを得なかったことに対する同情もうかがえます。
 自分の利益を侵害された人が、法の適正な手続きに則った国家(警察など)による救助が期待できない場合に、自力でその回復を図ることを「自力救済(自救行為ともいう)」と言いますが、山上容疑者は、統一教会による被害をこの自力救済の感覚で回復しようと試みたといえるかもしれません。
 もちろん、回復の仕方に恐るべき飛躍があることはすでに述べた通りですが、不幸な身の上を呪いながら、「政府は役に立たない」という思いを次第に強くし、自分でなんとかしなければならないという自己責任的な強迫へと突き進んでいった可能性があります。
 その結果、自分の家族のみならず「統一教会に関わる者」全体にまで救済の範囲を拡大することになり、そのためにテロリズム的な劇場型犯罪による情報拡散を通じた心理戦を展開するに至ったと考えられるのです。
 事件後、模倣犯を危惧する声が識者などから出ましたが、模倣犯などよりもむしろ自力救済しかないと思い詰める人々が増えていると思われる日本の現状にこそ事の重大性があります。社会経済状況が悪化する中で、誰の助けも得られず、行政には絶望しか感じない――このような負のスパイラルに陥ることを避けるにはどうすれば良いのか? 既存政治への不信が蔓延するこの国の行く末が問われていると言っても過言ではありません。
 【参考文献】
 (*1~2)ファザーリ・M・モハダム/アンソニー・J・マーセラ編『テロリズムを理解する 社会心理学からのアプローチ』(釘原直樹監訳、ナカニシヤ出版)
 (*3)満田巌『昭和風雲録』(新紀元社
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