🎹08:─2─戦争ノ抛棄ニ関スル条約(パリ条約、ブリアン=ケロッグ規約)は自己申告の自衛戦争を認めていた。1928年~No.31 

中高生からの平和憲法Q&A

中高生からの平和憲法Q&A

  • 作者:高田健,舘正彦
  • 発売日: 2011/08/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 戦争ノ抛棄ニ関スル条約(パリ条約、ブリアン=ケロッグ規約)
 昭和4(1929)年7月25日 条約第1号
 昭和4(1929)年7月24日 発効
 (昭和4年 外務省告示第64号)
 (現代語訳)
 ドイツ国大統領、アメリカ合衆国大統領、ベルギー国皇帝陛下、フランス共和国大統領グレートブリテンアイルランド及びグレートブリテン海外領土皇帝インド皇帝陛下、イタリア国皇帝陛下、日本国皇帝陛下、ポーランド共和国大統領、チェコスロヴァキア共和国大統領は、人類の福祉を増進すべきその厳粛な責務を深く感銘し、その人民の間に現存する平和及び友好の関係を永久にする為、国家の政策の手段としての戦争を率直に放棄すべき時期が到来した事を確信し、その相互関係における一切の変更は、平和的手段によってのみ求めるべきである事、又平和的で秩序ある手続きの結果であるべき事、及び今後戦争に訴えて国家の利益を増進しようとする署名国は、本条約の供与する利益を拒否されるべきものである事を確信し、その範例に促され、世界の他の一切の国がこの人道的努力に参加し、かつ、本条約の実施後速やかに加入する事によって、その人民が本条約の規定する恩沢に浴し、これによって国家の政策の手段としての戦争の共同放棄に世界の文明諸国を結合することを希望し、此処に条約を締結する事にし、この為に、左のようにその全権委員を任命した。
 ドイツ国大統領
 外務大臣 ドクトル グスタフ ストレーゼマン
 アメリカ合衆国大統領
 国務長官 フランク B ケロッグ
 ベルギー国皇帝陛下
 外務大臣国務大臣 ポール イーマンス
 フランス共和国大統領
 外務大臣 アリスティード ブリアン
 グレートブリテンアイルランド及びグレートブリテン海外領土皇帝インド皇帝陛下
グレートブリテン及び北部アイルランド並に国際連盟の個々の連盟国でない英帝国の一切の部分
 ランカスター公領尚書外務大臣代理 ロード クッシェンダン
 カナダ
 総理大臣兼外務大臣 ウイリアム ライオン マッケンジー キング
 オーストラリア連邦
 連邦内閣員 アレグザンダー ジョン マックラックラン
 ニュージーランド
 グレートブリテン駐在ニュージーランド高級委員 サー クリストファー ジェームス パール
 南アフリカ連邦
 グレートブリテン駐在南アフリカ連邦高級委員 ヤコブス ステファヌス スミット
 アイルランド自由国
 内閣議長 ウイリアム トーマス コスグレーヴ
 インド
 ランカスター公領尚書外務大臣代理 ロード クッシェンダン
 イタリア皇帝陛下
 フランス国駐剳イタリア国特命全権大使 伯爵 ガエタノ マンゾニ
 日本国皇帝陛下
 枢密顧問官 伯爵 内田康哉
 ポーランド共和国大統領
 外務大臣 アー ザレスキー
 チェコスロヴァキア共和国大統領
 外務大臣 ドクトル エドゥアルド ベネシュ
 よって、各全権委員は、互いにその全権委任状を示し、これが良好妥当あること認めた後、左の諸条を協定した。
 第一条
 締約国は、国際紛争解決の為、戦争に訴えない事とし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄する事を、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。
 第二条
 締約国は、相互間に起こる一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因がどのようなものであっても、平和的手段以外にその処理又は解決を求めない事を約束する。
 第三条
 1 本条約は、前文に掲げられた締約国により、各自の憲法上の用件に従って批准され、かつ、各国の批准書が全てワシントンおいてに寄託せられた後、直ちに締約国間に実施される。
 2 本条約は、前項の定めにより実施されるときは、世界の他の一切の国の加入の為、必要な間開き置かれる。一国の加入を証明する各文書はワシントンに寄託され、本条約は、右の寄託の時より直ちに当該加入国と本条約の他の当事国との間に実施される。
 3 アメリカ合衆国政府は、前文に掲げられた各国政府、及び実施後本条約に加入する各国政府に対し、本条約及び一切の批准書又は加入書の認証謄本を交付する義務を有する。 アメリカ合衆国政府は、各批准書又は加入書が同国政府に寄託されたときは、直ちに右の諸国政府に電報によって通告する義務を有する。
 右の証拠として、各全権委員は、フランス語及び英語によって作成され、両本文共に同等の効力を有する本条約に署名調印した。
 1928年8月28日、パリにおいて作成する。
(全権委員署名 省略)
 宣言
(昭和4年6月27日)
 帝国政府は、1928年2月27日パリにおいて署名される、戦争抛棄に関する条約第一条中の「其の各自の人民の名に於いて」という字句は、帝国憲法の条文により、日本国に限り適用されないものと了解する事を宣言する。
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 戦争放棄を定めた第九条の日本国憲法の原型とされる、国際条約。
 戦争放棄の精神は、日本国憲法だけではなく、スペイン1931年憲法第六条、フィリピン1935年憲法第二条三項、そして国連憲章第二条にも受け継がれた。
 戦争放棄を謳った憲法は、珍しい憲法ではなかったし、ノーベル賞平和賞候補に取り上げられるほどの事でもなかった。
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 自衛戦争を認めた付帯条項。

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 中国共産党は中国人の市民や学生を裏で焚き付けて暴徒化として、日系企業や日本人居留民を襲わせていた。
 中国の混乱と内戦は、中国共産党が仕掛けていた。
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 1927年3月24日 第一回南京事件。日本人虐殺事件。
 4月3日 漢口事件。日本人暴行事件。
 中国人暴徒による日本人居留民暴行事件が頻発した。
 4月6日 フランスのアリスティド・ブルアン外相は、アメリカに対し2国間の不戦条約締結を呼びかけた。
 アメリカのフランク・ケロッグ国務長官は、米仏の2国間に限った条約ではなく、日英独伊を加えた6大強国による多辺的国際条約にする事を提案した。
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 1928年2月 普通選挙による総選挙で、政友会は1議席の差で民政党を凌いで第一党となった。
 中国では、国民選挙が行われていなかった。
 6月 蒋介石は、不平等条約破棄を宣言し、軍国日本に対して日清戦争以降の1896年と1904年の条約の無効を通告し、日本が所有する中国権益を没収しようとした。
 中国の政治的安定や経済再建を目的として締結されたワシントン条約を廃棄した。
 6月4日 張作霖爆殺事件。
 6月23日 ケロッグ国務長官は、国内の保守派の猛反対を受けて付帯条項を日本を含む関係各国に送達した。
 「各国は如何なる場合においても、条約規定とは関係なく、自国の領域を攻撃または侵入から防衛する自由を有し、かつ自国のみが、事態が自衛のため戦争に訴える事を必要とするか否かにつき決定する権限を有する」
 侵略戦争は認められないが、自衛戦争は認められていた。
 自衛戦争である事を認めるのは戦争を行う国であって、攻められる国ではないし、第三国や国際機関でもなかった。
 自衛戦争は、自国内に侵略してきた敵軍に対してのみではなく、敵国内に取り残され敵国人によって生命の危険にさらされている自国民を救う事も含まれる。
 そして。経済制裁である資産凍結や禁輸措置は侵略行為とし、経済制裁に対する自衛戦争は正当であると認めた。
 だが、軍国日本には認められなかった。
 8月27日 各国全権は、パリで集まり協議して不戦条約に署名した。
 田中義一首相兼外相は、国際協調から、同条約原案をそのまま受け入れて承認した。
 昭和天皇も、世界平和への貢献になるとして、明治憲法天皇の大権事項に従って裁可した。
 9月15日 野党の民政党は、田中内閣打倒の為に不戦条約批准を政局に使って異議を申し立てた。
 9月16日 朝日新聞は、民政党緊急総務会において不戦条約に反対する中村啓次郎総務の主張を掲載した。
 「『人民の名において』国家意思を宣言せるが如き民主的基調の条約をそのまま批准せんとするが如きは絶対我憲法上許すべからざる事である。我等はかくの如き国體の基礎を危うくし天皇の大権を乱さんとする田中内閣の責任を糾弾し我国體及び憲法を擁護せねばならぬ」
 9月17日 田中義一首相は、小川平吉鉄道相と協議して、条文の「人民」は国體に違反しないとして取り合わず静観する事で意見一致した。
 外務省でも、森恪政務次官以下幹部会を開き、ケロッグ国務長官から7月16日に「人の名に於いて」の字句は「人民の為に」と同意義であるとの回答を得ているとして、反対派の難癖を取り合わないという方針を再確認した。
 9月18日 民政党総裁浜口雄幸は、同条約批准に猛反対した。
 「人民主権国と天皇主権の我が国と同様の観念の下に条約を締結することは絶対に許せない……政府、与党は外交問題を政争の具に供するというが、世間はそんな言い掛かりに惑はさるべきものはない」
 条約や勅令の審査権を持つ憲法の番人を自負する枢密院も、「人民の名に於いて」という表現が国體に反して違憲であるとして、批准に反対した。
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 1929年 田中義一首相と外務省は、枢密院の批准反対派への妥協案として、日本の国際的信用を傷付けない範囲で、アメリカに「『其の各自の人民の名に於て』なる字句は帝国憲法の条章なきものと了解する」との留保的宣言を行う事の了承を得る交渉を始めた。
 1月14日 法律学界では、政局として騒がれている不戦条約違憲論に関して、条約原文は問題ないとの大勢が占めていた。
 外務省が訳した「その各自の人民の名に於いて」の「people」は人民というより「普通には君主に対して用いられ用語」であると解釈した。
 だが、「High Contracting Parties」を慣例に従って「締約国」と訳した事を批判した。
 過去の外交史で、外国語の条約文や契約文章が日本語訳されると、その解釈で問題となる事が時折発生していた。
 そして野党勢力は、翻訳文を曲解して政府を打倒する政局に利用した。
 日本議会史とは、国家・国民の為というより、国家・国民を無視した、野党が与党の揚げ足を取り政情を混乱させる政局史である。
 美濃部達吉(東大法学部憲法担当教授)帝国大学新聞「英語の『ピープルス』はこれに反して国家を構成する総ての人々を包括する語で、君主も皇族も一般人民もいやしくも国家を構成する者であれば、その一切を包括してこれを『ピープルス』というのである。……もしこれを日本語に訳すとすれば、『人民』というよりも『国家』という方がむしろ原義に近い」
 「その文言自身には毫も国という意味を含まず、単に締約当事者という意味であって……不戦条約の場合の如く……『ピープルス』の名において何々を宣言することを明記して居る場合に、これを『締約国』と訳すのは不当であって……『締約者は各その国家の名において』と訳すのが正当である。即ちそれは各締約国の皇帝および大統領がその各自の国家、言い換えれば国家を構成する現在及び将来の総ての人々を代表してこれを宣言する旨を明示しているのである」
 もし、発展途上国のように英語若しくは西洋語をグローバル語として公用語に受け入れ、無理してローカル語の民族固有言語に翻訳しなければこうした誤解は生じない。
 国内を完全なグローバル化で統一して、西洋語の条文を、西洋語で読み、西洋語で理解し、西洋語で公布し実行すれば、何ら問題も起きない。
 問題は、日本語への翻訳であった。
 4月 フランスは、条約を批准して、残るは日本だけとなった。
 アメリカは、日本が批准しないと条約が発効しない為に「日本の特別な国内事情」を考慮して、日本の提案を受け入れた。
 4月16日 民政党総務会は、日本の批准問題をアメリカに泣きつく為体に不満が続出し、党見解を全会一致で決めた。
 4月17日 朝日新聞は、民政党の見解を報道した。
 「政府はさきに態々全権を送り調印をした今日その所信をもってすれば原案のまま批准するが当然でもし調印の不当を知って留保するとすればまづ枢府に諮詢した後米国政府その他に交るが順当である。しかるに政府は徒らに他国の鼻息をうかがひその結果によって事を進めようとしているがもし米国政府その他が反対すれば如何にせんとするか」
 6月 原締約国で未批准は日本だけとなり、その間に新規加入国が増えて日本は国際的に苦しい立場に置かれていた。
 民政党は、政権を政友会から奪う為に、田中首相の留保的宣言を条件に付けて解決案とするという妥協策に依然として反対していた。
 日本全権代表として条約をまとめて署名した枢密顧問官・内田康哉(外相経験者)も、条約文を都合よく解釈し、政治的妥協で後付として留保的宣言が加えられた事に反対した。
 6月17日 朝日新聞「日本一国が批准寄託できないためにこの画期的条約が実施せられないので世界51ヶ国がひたすらに日本の批准を待つているというのが現状である」
 枢密院は、条約批准に関する第一回精査委員会を開いた。帝国憲法起草に関わった伊東巳代治が、委員長を務めた。 
 田中義一首相と外相省は、「人民の名に於いて」という字句を含む条約本文は、「国論を統一して帝国の立場を中外に宣明する付帯して」に過ぎず、憲法違反に当たらないとい事で押し切る事に決めた。
 反対派は、政府側を激しく追及した。
 伊東委員長は、このまま条約批准ができないと日本は国際的に孤立する恐れがあるとして、反対派を抑えて政府案を承認するべく調整に入った。
 6月18日 伊東委員長は、枢密顧問官のみで第二回精査委員会を開き、「人民の名に於いて」は憲法違反にあたるが、憲法違反に対して留保的宣言が正式留保であるとの解釈の下で、政府提案通りの条約案を全会一致で承認した。
 外務省は、「政府側で如何なる解釈を下しても、政府が正式に留保なりと認めなければこれは国内の問題であり……批准寄託に際し留保の手段をとる必要なし」との見解を表明した。
 6月20日 民政党総務会は、枢密院が条約案を曖昧解釈で承認したが、同時に憲法違反である事も認めている点を突いて、田中内閣倒閣へと追い込む事を決めた。
 枢密顧問官・内田康哉も、反対を表明して譲らなかった。
 6月21日 朝日新聞は、民政党総務会幹事長の俵孫一の談話を報道した。
 「第56議会においては議員の質問に対し『人民の名において』なる字句は『国家のために』と訳すべきものであると答弁したが枢府に対してはその主張に屈して『人民の名において』と解釈することに決し議会における言明を裏切った、その政治的責任はすこぶる重大である」
 6月25日 田中義一首相兼外相は、内田康哉宅を訪れ、明日、昭和天皇隣席で開かれる枢密院本会議で条約案に賛成してくれるように懇願した。
 内田は、自分の信念で行動するとして拒否した。
 6月26日 昭和天皇は、国際協調、アメリカとの摩擦を極力避ける為に条約案を政府提案通りに可決する事を望んでいた。
 内田康哉は、枢密院本会議で、正論を持って条約批准に反対する演説を行った。
 「本条約案は……何等国體の本義に反する事なく憲法の条章をみだるものに非ざる事を確信し……政府も又自分と同様の見解をとったもので原案のまま御批准を奏請すべきものであるに拘わらず政府は宣言書を付して留保付御批准を奏請するとは何の意味があるか……
 我枢密院においては右『人民の名において』なる字句は憲法違反なり、憲法抵触なるが如き見解をもって本宣言を承認せんとするは自分の絶対に同意し能わざるところである……
 無留保調印をなして置きながら今日におよんで宣言を付し留保付批准を見るにおいては国際上重大なる結果を引起し信を中外に失墜するに至る事を考えなければならぬ」
 決議の結果、内田、科学者・桜井錠二、元海相・八代六郎の三名が反対したが、賛成多数で政府案が可決された。
 内田康哉は、自己の信念という筋を通す為に、全権として条約をまとめ調印した本人でりながら政府案に反対し事を理由として、枢密院議長・倉富勇三郎に辞表を提出した。
 6月27日 朝日新聞「内田伯(伯爵)が引責辞職したのに、内田伯に訓示を与えた首相兼外相が何等の責任がないとして内田伯を見殺しにするなどは常識からいうも妥当でないからとの点に関して世論は一せいに、しかも猛烈に政府を攻撃するととなろう」
 国外的には、不戦条約批准を成立させて信用を保てた。
 国内的には、批准を政局とした民政党など野党陣営は、憲法違反を犯してまで強引に国際協調路線を推し進めた田中義一首相の責任を問い、田中内閣倒閣運動を盛り上げた。
 7月1日 田中義一首相は、満州事件解決の不手際で昭和天皇を煩わせた事を理由にして辞職した。
 陸軍省は、爆殺事件の首謀者と認めた河本大作大佐らを停職にするなどの行政処分を行った。
 軍部の暴走が始まった。
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 済南虐殺事件。
 通州虐殺事件。
 昭和天皇暗殺失敗テロ。
 第二回南京事件
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 軍国日本は、被害国家として、中国共産党及びファシスト中国(中国国民党)に対し正当防衛の自衛戦争を宣言し発動した。
 東京裁判は、日本の自衛戦争戦時国際法違反であり、時効なき戦争犯罪との判決を下した。


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憲法で平和を考える (平和と戦争の絵本 6)

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平和憲法の理論

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