🎹22:─2─日本は中国に対して報復権・復讐権があった。通州大虐殺事件と暴支膺懲。侵略とは。~No.118No.119No.120 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 国際世論は、軍国日本の国益と自国民の保護を目的とした「報復権」と「自衛権」と「正当防衛」を否定し、中国人による虐殺を甘受すべきだと軍国日本に外圧を加えた。
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 名誉と体面を重んじる日本人は、泣き寝入りはしなかった。
 兵士と兵士が戦う戦争は仕方がないとしても、罪もない女性や子供をいたぶって惨殺する人間にあるまじき蛮行は絶対に許せなかった。
 ゆえに、日本人が激昂した「暴支膺懲」には正当な権利があった。
 武士は、飛んできた火の粉は大火傷をしても払う、のである。
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 日本人にとって、中国人の面子など尊重する必要のない紙クズ以下で、最優先するべきは天皇と日本国と日本人の名誉と体面・面目であった。
 他人は他人、自分は自分であった。 
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 日本人と中国人は、人間性が正反対である。
 それは、両国の歴史を比べれば一目瞭然である。 
 日本人には、中国人の様な血に酔った猟奇的な狂気はない。
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 中国人が済南や通州で日本人犠牲者に行った虐殺の数々は、日本軍が中国人に行った虐殺として世界に宣伝された。
 虐殺された日本人の犠牲者の写真が、第二回南京事件など日本軍が行った虐殺の証拠写真として各国に建設されている抗日勝利記念館や南京虐殺記念館などに展示されている。
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 2018年8月9日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 支那人は変わらない
 売笑婦の佐々木テンは昭和11年、馴染みの支那人と所帯をもって北京の少し南に移り住んだ。
 年が明けて夫が『日本語を話すな』と言った。『日本と戦争になりそうだから』という理由だった。
 少し前に張学良が蒋介石を襲う西安事件があった。
 宋美齢を連れて西安に乗り込んだ米紙特派員ウイリアム・ドナルドは『内輪揉めはやめろ。さっさと反日行動を起こせ』と米政府の意向を伝えたという。
 テンが聞いた時期に符号する。そして盧溝橋で日支の軍事衝突が起きた。
 街で会う日本人はそんな気配を察する風もなかったが朝鮮人は敏感で、支那人に媚びるように日本の悪口を言い始めたと藤岡信勝の『通州事件』にある。
 そうして7月29日未明、街外れの日本軍兵舎が支那軍に襲われ、全滅した。
 気が付いたとき日本人居留区は武装した黒服の集団に包囲されていた。蒋介石直属の学生部隊だった。
 夜が明け、彼らは日本人の家を襲い始めた。『面白いことが起きている』と夫がテンを引っ張っていく。その先で日本人の少女が裸にされていた。
 父親が飛び出して少女を庇うと黒服が父の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけた。頭は割れ、脳漿(のうしょう)が飛び散った。黒服は銃剣で何度も倒れた父親を突き刺した。
 傍らで黒服が全裸の少女の足を開かせ、一人が銃身を陰部に突き刺した。絶叫がしてテンは黒服が笑いながら少女の陰部を抉り取っているのを見た。
 支那兵は遊郭の旭軒に向かった。支那人朝鮮人がぞろぞろ歓声を上げながら後を追っていく。
 旭軒の前では女郎2人が引き出され、1人は黒服たちが輪姦していた。女は最後に銃剣で股間を貫かれて殺された。
 群衆が移動し、その先に身重の日本人女性が素裸にされて転がされていた。
 その前に木刀を手にした亭主が立ちはだかる。黒服が青龍刀で切りかかると亭主はそれを払って木刀で男の肩を打ち据えた。
 次の黒服も叩きのめしたが、相手が1ダースもいる。背後から銃剣で刺されて倒れたところを支那兵が群がって殴る蹴る。生きたまま頭の皮を剥ぎ、目玉を抉り、 腹を裂いて腸を引きずり出した。亭主は絶命した。彼らは腸を切り刻み、見物人に『日本人の腸は、焼いて食うとうまいある』と投げやった。
 彼らはその勢いで妊婦の腹を割き、赤ん坊を掴んで地面に叩きつけた。兵士たちはニタニタ笑っていた。
 日本人250人がすべて殺されたとき通州は夕日に赤く染まっていた。
 その2週間後、米独から提供さえた最新兵器で、身を固めた支那軍7万が上海の日本人租界を攻撃し、日支の戦争が始まった。
 テンはその後、支那人の夫と別れた。笑いながら人を殺して歩く支那人。それを嬉しそうに追いかける夫とやっていける気がしなかったからという。
 この大事件が岩波の広辞苑には載っていない。北京からの命令だろうが、右に倣っていた朝日新聞が先日、禁を犯して事件を戦後初めて本格報道した。
 語るのは父母と1歳の妹を殺された姉妹で、事件は『日本が支那をひどい目に遭わせた仕返し』と朝日の言う自虐史観に沿う。
 だがら『日中の未来のために憎しみは絶つ』と、ごく善人そうに結論する。
 記事には『この事件は今も右派が反中感情と憎しみをあおる材料にしている』と朝日らしい論評が付く。
 しかし同じ朝日は15年前、支那人留学生3人が福岡で8歳の幼女ら一家4人を殺したことを報じ、その手口がテン見た黒服と同じだったと仄めかしている。
 また先日は甘粛省で19歳の女性がビルから飛び降り自殺するのを『数百人の野次馬が歓声を上げたり笑ったり』と報じていた。テンの目撃した支那人とそっくりの支那人がそこにうようよしていると。
 支那は今、世界の禍(わざわい)になりつつある。下手したら日本占領だってあり得る。
 支那好きもいい。でも危ないものは危ないと知らせるのは新聞の義務だろう」
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 1937年7月 通州は、親日政権である冀東防共自治政府の首都であった。
 自治政府の首班は、日本人の妻を持つ殷汝耕であった。
 通州には、日本人居留民約400人が生活し、邦人保護目的で日本軍守備隊が駐屯していた。
 他の地域に比べて治安がよく保たれていた為に、外国の報道員やキリスト教関係者も多く住み、自由に行動していた。
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 反日派のアメリカ人宣教師や報道員達は、軍国日本を非難・糾弾するネタを、中国各地で絶えず捜していた。
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 軍国日本は、国際報道機関や反天皇反日キリスト教会の厳しい監視に晒されていた。
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 中国共産党は、日本軍とファシスト国民党軍を戦争に引きずり込むべく数多くの工作員を潜入させ、反日破壊工作を活発に行っていた。
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 日本軍守備隊は、南苑方面の作戦の参加する命を受けた為に、日本人居留民保護を冀東防共自治政府に依頼し、110人の兵を残して出動した。
 殷汝耕は、冀東保安隊に日本人居留民の保護を命じた。
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 中国共産党は、日中戦争をを始める為に、反日派の冀東保安隊幹部に武装蜂起を命じた。
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 7月29日午前3時 蜂起した冀東保安隊約1,000人は、親日派の殷汝耕を拉致し、通州市内の日本人居留民を襲撃した。
 冀東保安隊は、警戒に当たっていた日本軍守備隊に安全を保障すると嘘を吐いて武器を取り上げようとした。
 日本軍守備隊は、日本人居留民を守る為にて抵抗して30人が戦死した。
 日本人居留民を守って戦死した兵士は、靖国神社に祭神として祀られた。
 冀東保安隊と中国共産党工作員は、軍国日本を激怒して暴発させる為に日本人居留民を嬲り殺しにした。
 近所の中国人達は、昨日まで親しく付き合っていた間柄であったが一瞬にして暴徒と化して、住人が居なくなった日本人住宅や商店を襲撃して持ち出せるモノは全て持ち去った。
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 日本人が如何に中国人と友人の様に付き合っていても、中国人はその気はなかった。
 中国人は、人として心底信じあって付き合おうとする日本人とは違い、自分の一人の利益や打算のみで付き合うい、日本人を本気で理解しようとは決して思わない。
 日本人の中国への配慮や中国人への思いやりは無駄な事であり、利益のみと割り切り、人として深く付き合わない方が良い。
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 日本軍守備隊は、急報を受けて通州に帰営した時には、冀東保安部隊は遁走し、虐殺現場には目を反らしたくなる様な無惨な死体が散乱していた。
 日本政府と軍部は、現地からの報告を受け、日中戦争を避ける為に協議していただけに余りの凄惨さに愕然とした。
 血気盛んな日本軍人達は、中国への怒りから即時戦闘を意見具申した。
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 日本外務省は、好戦派をなだめる為に、強う口調で抗議の公式声明を出した。
 日本人民間人‥208人の内、死亡者114人、生存者 94人。
 日本国籍朝鮮人‥213人の内、死亡者111人、生存者102人。
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 8月4日 東京日日新聞「比類なき鬼畜行為」
 読売新聞「虐殺、掠奪、破壊、鬼畜の乱舞 無残累々たる死屍」
 読売新聞夕刊「崩れ落ちた仁丹の広告塔の下に2、3歳の子供の右手が飴玉を握ったまま落ちている。ハッとして目をそむければ、そこには母らしい婦人の全裸の惨殺したいが横たわっているではないか!……
 池畔に上げられた死体の中には鼻に針金を通されているものがある。……
 男の鼻には鈎の様に曲げられた11番線の針金が無の形相をして死んでいる……」
 日本の全ての新聞は、一斉に通州日本人居留民虐殺事件を報道した。
 日本人軍国主義者や国粋主義者達は、罪もない女子供さえ容赦なく虐殺して恥じないファシスト中国に対する激怒から、敵討ちの懲罰攻撃を強く要求した。
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 フレデリック・V・ウィリアムズ(アメリカ人ジャーナリスト)「それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして、一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣の様な中国兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男達と共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどい事には手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見した時には、ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった。……何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」
 「私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供達が住んでいたが、共産主義者によって殺された。20名はほんの子供の様な少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人の様に遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした」(『中国の戦争宣伝の内幕』)
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 東京裁判において。日本側弁護団は、通州日本人居留民虐殺事件の証拠を提出し、日本人居留民救出にあたった証人を出廷させて証言させた。
 ウェップ裁判長は、軍国日本を戦争犯罪で有罪にする為に、軍国日本の正当防衛を裏付ける証拠は全て却下し、証言は口述書として受理したが闇に封印した。
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 極東国際軍事裁判における証言(極東国際軍事裁判速記録より)
 萱嶋高 元陸軍中将の証言
 「城内は実に凄惨なもので、至るところ無残な日本居留民の死体が横たわっておりまして、殆ど全部の死体には首に縄がつけられてありました。頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は、殆ど見るに堪えませんでした。その記録は今日ありません。従つて私は私の目撃したことを主として、記憶を辿り、左に陳述します。然しそれは余りにも残酷でありましたので、私は一生忘れることの出来ない印象となつて頭に残つて居ります。旭軒とかいう飲食店を見ました。そこには40歳から17〜18歳までの女7、8人は、皆強姦され射殺されておりました。そのうち4、5名は陰部を銃剣で突刺されていました。 ……
 家の内は家具、布団、衣類等、何物もなく掠奪されていました。その他の日本人の家屋は殆ど右同様の情態でありました。錦水楼という旅館は凄惨でありました。同所は危険を感じた在通州日本人が、集まった場所でありましたものの如く、大量虐殺を受けております。女主人や女中は数珠繋ぎにされ、手足を縛られたまま強姦され遂に斬首されたという事でした。」
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 桂鎮雄陸軍少佐の証言
 「錦水楼の門に至るや、変わり果てた家の姿を見て驚くとともに、死体より発する臭気に思わず嫌な気持になりました。
 ……
 次に帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり、或いはうつぶし或いは上向いて死んでおり、ここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようでありました。私は一年前に行った事のあるカフェーにへ行きました。扉を開けて中へ入りましたが、部屋は散乱しておらず、これは何でもなかったかと思いつつ進んだ時、一つのボックスの中に素っ裸の女の死体がありました。これは縄で絞殺されておりました。カフェーの裏に日本人の家があり、そこに二人の親子が惨殺されておりました。子供は手の指を揃えて切断されておりました。南城門の近くに日本人の商店があり、そこの主人らしき者が引っ張り出されて殺された死体が路上に放置されていました。これは腹部の骨が露出し、内臓が散乱しておりました。」
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 桜井文雄 元陸軍少佐の証言
 「まず、守備隊の東門を出ますと、殆ど数軒間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっているのを目撃し、一同悲憤の極みに達しました。敵兵は見当りませんでしたので、夜半迄、専ら生存者の収容に擔りました。「日本人は居ないか」と連呼しながら各戸毎に調査してまいりますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が彼所此所の塵、埃箱の中や、壕の内、塀の蔭等から、続々這い出してきました。某飲食店内には一家ことごとく皆、首と両手を切断惨殺されているのを目撃しました。婦人という婦人は、14、5歳以上は悉く強姦されて居りまして、見るに忍びませんでした。旭軒という飲食店に入りますと、そこに居りました7、8名の女は全部裸体にされ、強姦射(刺)殺されておりまして、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂を埋めてある者、腹部を縦に断ち割ってある者等、全く見るに堪えませんでした。
東門の近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、それに八番鉄線を通し(貫通)一家6名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。池の水は血で赤く染つて居たのを目撃しました。」
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 目撃談「日本人の男性の頭の皮を剥いで目玉を抉り取り、今度は青竜刀で日本人のお腹を切り裂いた。そのお腹の中から腸を引き出し幾つかにも切って、これはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと言っている」
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 7月30日 保安隊は、急変を聞きつけた日本軍救援部隊が通州に迫るや、中国軍内に逃げ込んで姿を消した。
 日本の新聞や雑誌は、中国軍兵士の惨殺行為を詳しく報道した。
 中国側は、責任は日本軍側にあるとして非難した。
 国際世論は、中国側の主張を調査せず鵜呑みにして信用した。
 「日本人女性5名は、一晩中強姦された。翌日、裸のまま鼻や喉を針金で突き通されてつながれ、空き地に引き出され、陰部に銃剣を突き立てられ、もがき苦しみながら惨殺された」
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 中国人は、病的な人間不信と偏狂的な人種差別ゆえに、敵と決めつけた相手に対して女子供でも容赦なく惨殺した。
 日本人子供は、手足の指を全て切り落とし、顔に針金を貫き、惨殺した母親に縛り付けて殺害した。
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 フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ「古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」
 「犯され殺された者の多くは子供であった。この不幸な夥しい日本人の犠牲者達は暴行が始まって24時間以内に死んでいったのだ。中国人達は焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼等の『助けてくれ』との叫びを聞こえなくさせた。目玉をえぐり出し、自分の拷問者を見られなくした」
 「世界はこれらの非道行為を知らない。もし他の国でこういう事が起きれば、おのニュースは世界中に広まって、その恐ろしさに縮み上がるだろう。そして殺された人々の国は直ちに行動を起こすだろう。しかし、日本人は宣伝が下手である」(『中国の戦争宣伝の内幕』)
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 日本国民は、通州事件における同胞の惨たらしい虐殺を知るや、「暴支膺懲」を叫び、軍事的な制裁を求めた。
 日本国内にある諸外国の報道機関は、事実を知りながら関心を示さず、むしろ日本側に原因があると考えていた。
 現地の日本軍は、同胞に加えられた世にもおぞましい猟奇的な虐殺事件を知るや、中国軍への憎悪から復讐を希望した。
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 軍部中央は、政府の不拡大方針に従って報復攻撃を禁止した。
 政府と外務省は、昭和天皇の「平和への希望」に従って、日本人居留民が幾人犠牲になっても戦争を避ける為の和平工作を優先した。
 現地軍は、政府や軍部中央の命令を遵守していては日本人居留民の安全が守れないとして、命令を無視して独自の判断で暴走し始めた。
 これが、戦争犯罪とされた日本軍の侵略戦争である。
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 無抵抗で虐殺された日本人は、国民保護の義務を放棄した国家と軍部によって見捨てられた。
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 日本は、平和を切望し、「復讐・報復の連鎖」を断ち切る為に、身を守る為の武器を一切持たない自国民を中国人暴徒・殺人者・犯罪者の群れの中に見捨てた。
 日本人は、国家から平和の為に棄民とされたのである。
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 後の東京裁判は、日本が正当防衛を主張する第一次南京事件や済南事件や通州事件といった中国側の虐殺事件を却下し、日本軍の人道に対する犯罪とされた第二次南京事件のみを採用した。
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 現代の左翼・左派のマルクス主義者やキリスト教徒も、事件のあらましを全て知った上で、日本が受けた虐殺事件は侵略された中国人民の怒りであるとして正当化した。そして、歴史の闇の葬ろうとしている。
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 中国の戦争では、伝統的に三光作戦のような集団的虐殺が常識となっていた。
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 日本の情報機関は、「局地的解決を避け、日中の全面的衝突に導かねばならない」という、コミンテルン中国共産党への指令書を入手した。
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 国際的共産主義者は、真実を隠蔽し、事実を歪曲し、日本軍の犯罪行為を捏造して宣伝活動を活発化させ、巧みに国際世論を反日に誘導した。
 宣伝下手な日本は、有効な対応策を講じる事ができず、反日世論を傍観するだけであった。
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 日本の民族主義に燃えた新聞は、中国人による日本人への犯罪行為を包み隠さず、ありのままを全て報道していた。
 昔の日本人は、中国と戦争になろうとも、中国人に悲惨な遭っている同胞を救いたいとの一心であった。
 それが、軍国主義者日本人による中国侵略の真実の姿である。
 現代日本人は、戦争を避ける為に、同胞が半殺しの目にあっても見捨てた。
 軍国主義者日本人と平和主義者日本人とは、同胞愛や祖国愛や愛国心が異なる。
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 1938年 ハロルド・ティンパーリは、中国国民党の顧問として1万ドルと宣伝部工作として月額1,000ドルの報酬を得ていた。
 ティンパーリは、ブラック・プロパガンダとして「南京太虐殺」を世界に広める為に、アメリカ人宣教師ベイツ(中国国民党顧問)と共同で提供された偽情報をもとにして『戦争とは何か──中国における日本軍の恐怖』(漢訳『外人目撃中の日本軍横暴』)を出版した。
 日本軍は「4万人近くの非武装の人間」を殺害した。   
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 ウィキペディア
 通州事件とは、日中戦争支那事変・北支事変)の初期の1937年(昭和12年)7月29日に中国陥落区の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、20人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われた。通州虐殺事件とも呼ばれる。
 通州は北平(現:北京市)の東約30kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市で、日本が政治的目的のため北支五省で行った華北分離工作の結果、殷汝耕が南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた。

 日本人居留民への暴虐行為
 ※注意:遺体の画像があります。画像をご覧になりたい方は右端の「表示」をクリックして下さい。
 冀東政府保安隊ら中国人の軍隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった。居留民は約380人で、その大部は惨殺された。
 7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17−8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった。
 第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した。
 また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた。鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた。14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた。
 虐殺者の逃亡
 事件の翌日(7月30日)、日本軍が通州に向かっている知らせを聞いた主犯の中国人学生たちと保安隊員は即座に逃亡を開始した。日本軍到着時にはすでに保安隊員と学生の姿はなかった。
 なお、この事件の主犯であった張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している
 日本軍の反撃
 事件後、日本軍奈良部隊は7月30日午前10時40分頃、北平(北京)西北地区で逃走中の冀東政府保安隊約300人を攻撃した。
 8月2日午前10時頃、日本軍飛行隊は、通州より東方約8キロメートルの燕郊鎮に集結していた冀東政府保安隊および29軍敗残兵約200人を爆撃した。

 その他の日本人生存者の証言
 吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された新道せつ子は、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという。
 当時中国人男性の妻であった大分県出身の日本人女性の目撃証言もあり、それを聞き書きした調寛雅が自著で発表している。それによれば主犯は保安隊員と中国人学生であり、かれらは胎児を妊婦の腹から引きずり出す、その父親を数人がかりで殺して腸を引きずり出し、切り刻んで妻(妊婦)の顔に投げつけたという。これらは通州市民の面前でおこなわれた虐殺であったが、市民はそれに対し無反応であり、虐殺後の日本人をみても同情の念を示すのではなく、身につけていたものを剥ぎ取るばかりであったという。
 九死に一生を得た日本人女性の発言「日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います」。
 
 当時の報道・論説
 新聞各紙
 天津の支那駐屯軍司令部は、監督していた保安隊の反乱を不名誉として、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に新聞報道を制限するよう要請したが、松村は、事件は北京近くで発生し、すでに北京租界から全世界へ報道されているので無駄と応じた。

 東京日日新聞(後の毎日新聞通州事件の記事
国内では通州事件は一斉に報じられ、むごたらしい行為の詳細が日本国民に知られると、「暴虐支那を懲らしめろ」という強い国内世論が巻き起こった。
 東京日日新聞は1937年7月30日付号外で「通州で邦人避難民三百名殆ど虐殺さる/半島邦人二百名も気遣はる」と報じた。また7月31日付号外で「通州の事態 憂慮消えず」「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐極まる暴行」との見出しで報道し、8月9日の大山事件発生まで通州事件を報道した。

 東京朝日新聞 通州事件の記事
 東京朝日新聞は1937年8月2日付号外で「掠奪!銃殺!通州兵変の戦慄/麻縄で邦人数珠繋ぎ/百鬼血に狂ふ銃殺傷」、8月3日夕刊では「ああ何といふ暴虐酸鼻、我が光輝ある大和民族史上いまだ曽てこれほどの侮辱を与へられたることがあるだらうか。悪虐支那兵の獣の如き暴虐は到底最後迄聴くに堪へぬ......恨みの七月二十九日を忘れるな」、8月8日付号外で「痛恨断腸の血 衂られた通州」「惨!痛恨の通州暴虐の跡」と報じた。

 読売新聞1937年8月1日号外(天津発)は「叛乱は計画的」と報じた。

 アメリカ人記者
 当時中国を取材していたアメリカ人ジャーナリストフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズは1938年11月にBehind the News in Chinaを刊行し以下のように報道している。
 「日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男性、女性、子供たちは野獣のような支那兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。
??Frederick Wiliams、Behind the News in China, New York: Nelson Hughes Company,1938.[要ページ番号]

 山川均と巴金の応酬
 社会主義者の山川均は、雑誌『改造』1937年9月号「特集: 日支事変と現下の日本」に「北支事変の感想」の一本として「支那軍の鬼畜性」という文章を寄稿し、「通州事件の惨状は、往年の尼港事件以上だといわれている。」「新聞は<鬼畜に均しい>という言葉を用いているが、鬼畜以上という方が当たっている。同じ鬼畜でも、いま時の文化的な鬼畜なら、これほどまでの残忍性は現わさないだろうから。」「こういう鬼畜に均しい、残虐行為こそが、支那側の新聞では、支那軍のXXXして報道され、国民感情の昂揚に役立っているのである」、「通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植え付け、抗日感情を煽った結果であるといわれている」「支那の抗日読本にも、日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。しかし、人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で煽動すると、鼻の孔に針金を通させることになる」「支那国民政府のそういう危険な政策が、通州事件の直接の原因であり、同時に北支事変の究極の原因だと認められているのだから。」と、事件の残虐性と中国の抗日政策を批判した。
 これを読んだ中国の作家巴金は、9月19日に「山川均先生に」(初出不明)を書き、「混戦のさなかには、一人一人の生命が傷つき失われることはすべて一瞬の出来事です。細かいことまで気を遣ってはいられなくなって、復仇の思いがかれらの心を捉えてしまったのでしょう。」「抑圧されていた民衆が立ち上がって征服者に抵抗する時には、少数の罪もない者たちが巻き添えをくって災難に遇うことも、また避けがたいことです。」「このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり、特務工作をしたりしていた人たちなのです。」「通州事件を生みだした直接の原因は、それこそ、あなたの国の軍閥の暴行なのであって、抗日運動もまた、あなたの国の政府が長年のあいだつづけて来た中国の土地に対する侵略行為によってうながされたものなのです。」と反論した。

 中国共産党の工作説
 アメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント ウィリアムズの著書 Behind the news in China (Nelson Hughes, 1938) によれば、事件の背後には中国共産党の工作があった。
 加藤久米四郎は『戦線を訪ねて国民に愬ふ』(1937年、東京朝野新聞出版)において、中国共産党北京大学・南海大学の学生などが主導して「日本人を殺せ」とやったのであり、また通州だけでなく、天津と北京でも同じように学生や国民政府工作機関藍衣社、便衣兵が軍人ではない、日本人の民間人をピストルなどで殺害したと述べた。
 盧溝橋事件で日本軍と衝突した第29軍の枢要な地位には複数の中国共産党員が就いていた。また、中国共産党は冀東防共自治政府と保安隊にも抗日分子を浸透させて日本人襲撃計画を立てていた。事件を実行した保安隊幹部の張慶餘と張硯田は第29軍と密通しており武装蜂起の機会を窺っていた。このことから、通州事件中国共産党の謀略によるテロであった可能性が高いとされている。
 張慶余の回想録などによれば、冀東保安隊張硯田の部隊にも中国共産党支部が結成されていた。
 松田純清によれば、通州事件中国共産党編纂『現代史文献』では全く取り上げられていない。

 日本軍にも責任があるか
 事件の原因が日本側にもあるか、中国側にのみあるかは意見が分かれる。たとえば今井清一が『日本史大事典』で「この事件については日本軍の責任が大きいが、日本ではこの事件を中国への敵愾心をあおりたてるように利用した」と書かれている。
 このような記述に対して、中村粲は、民間の日本人市民を大量虐殺する責任を日本軍にする日本悪玉論は、張慶余の証言など中国側新資料が出てきて以降は、過去のもので、中国でさえも通用しないといっている。また中村は、済南事件や通州事件での日本人虐殺事件がなかったらならば、南京事件南京大虐殺)はいかなる形でも起こらなかっただろうと述べている。
 松田純清も事件の責任を日本に求めることに対して「このような史実の歪曲は断じて許されるべきではない」と批判を行っている。なお松田は当時の日中の緊張関係の根源には日本の華北分離工作があったともいっている。
 これらの意見に対して秦郁彦は「当時の日本の新聞も大々的に宣伝したものだが、実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となっておこした反乱によるもので、いわば飼犬に手を噛まれたようなもの。さすがの日本軍も、殷汝耕政府主席の費任は問えなかった。」と述べ、後に張慶余の証言等の新資料が出た事については、「張慶餘は、回想記のなかで久しく以前から抗日を決意し、冀察幹部と通謀して反乱の機会を狙っていたと主張するが、二十七日早朝の戦闘で傳営と共に戦う機会を見送っている点からみても、説得力は乏しい。むしろ保身に徹するか、勝ち馬に乗ろうとして形勢を観望していたと思われる。」「通州で反乱にぶつかり九死に一生を得た同盟の安藤記者も、二十八日夕方に冀東政府内で同主旨のラジオ放送を聞いているから、張慶餘らはこのデマに踊って反乱に踏み切ったのかも知れない。誤爆萱島連隊の移動は、それを促進する材料となったのであろう。」と述べた。
 江口圭一は「事件が中国で、それも日本のさらなる中国侵略の拠点とされた通州で発生したという単純な事実である。中国軍が日本へ侵攻し、たとえば九州で引きおこした日本人虐殺事件ではないのである。異なる次元・地平に属するものを(南京事件との)相殺のためにもち出すことはできない。」「中国側にとってもある意味で「魔の通州」と呼ぶべき事情が存在していたことである。通州は冀東政権の本拠地であり、華北併呑の舌端であるとともに、アヘン・麻薬の密造・密輸による「中国毒化」の大拠点であった。」と述べると共に、通州の麻薬汚染に関する山内三郎や林語堂の証言と、信夫清三郎の麻薬汚染報復説を引用した。
 大杉一雄は「山川均も短文の回答を寄せており、そのタイトルが「支那人の鬼畜性」となっていたため、戦後問題にされたが、その真意は「むやみに国民感情を排外主義の方向に煽動し刺激することの危険」を警告したものといえる。これに対し現在、通州事件を「南京大虐殺」と対抗させてとりあげる向きがあるが、両者はその規模も性格もまったく違うことを認識すべきである。」と述べた。
 中国側では張慶餘の新資料の発見以前も以後も「通州起義」や「通州反正」と呼び、「日本の傀儡政府の下から起ち上がって、日本の侵略軍と戦うために中国軍に参加した」と言った肯定的な評価が成されている。また中国側の認識によれば、殺害された居留民についても非武装の民間人ではなく武装した民兵だったとされ、不法行為は存在せず、むしろ有りもしない残虐行為を捏造され日本軍による更なる中国侵略の口実にされたとされている。

 その他
 2015年、中国がユネスコ記憶遺産に申請していた南京大虐殺資料が正式に登録された。これを受けて新しい歴史教科書をつくる会は、通州事件資料の2017年登録を目指し申請する旨を発表した。2016年5月、民間団体「通州事件アーカイブズ設立基金」が、中華人民共和国によるチベット弾圧の資料と併せて申請をおこなったが、2017年10月に却下された。


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 欧米列強は、中国人群衆による日本人に対する蛮行、虐殺行為を知った上で、利益の為に日本軍と戦う抗日勢力(ファシスト中国や中国共産党)を隠れて支援していた。。
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 中国の歴史で、平和な時代はわずかで、大半が国内外で戦争を続けていた。
 中国の戦争で、数十万人が虐殺されるのは普通の事で、最悪な戦争では数百万人から数千万人が虐殺される。
 中国人(漢族)は、地獄の様な戦乱の中で生きていた為に、生き抜く為には手段を選ばない。
 中国人と付き合うのであればその事を知っておくべきだったが、菅原道真徳川家康らはその事を古典漢書から読み取っていたが、大正期以降の日本人にはその事が理解できなかった。
 中国人と言っても、漢族と台湾人・満州人・モンゴル人・チベット人ウイグル人その他の少数民族とは違う。
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 日本人と中国人・朝鮮人は、同じアジア人と言っても全くの別人である。
 日本人は、性善説として人を安易に信用し、相手に配慮・忖度して、相手のためになるようの行動する事を心がける。
 中国人・朝鮮人は、性悪説として人を信用しないし、規則やルールや法律を無視し、隙あらば相手を騙し奪い殺そうとする。
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 日本人が戦争犯罪として中国人・朝鮮人などのアジア人に行ったとされる残虐行為は、中国人・朝鮮人が日本人に行った事である。
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 日本軍の中には、悪い日本人兵士もいたが良い日本人もいた。
 悪事を働いた悪い日本人兵士はごく少数で、残りの大半の日本人兵士はむしろ良い事をした。
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 日本軍は、世界的な人道的貢献を幾つも行った。
 日本軍の人道的貢献とは、戦時中にもかかわらず戦闘を中止して、黄河堤防決壊で漂流している数十万人を救助し、漢口無差別爆撃から数百万人を救出し、河南省大飢饉で1,000万人の飢餓民を救護し、各戦場で取り残された戦争孤児は保護して善良な中国人に養育を依頼した、などなどである。
 日本軍にとって殺し合うべきは武器を取って戦う敵兵(女性兵や子供兵も含む)であって、武器を持たない一般市民は殺さず助けて回った。
 ただし、一般市民に化けて暗躍するスパイ・テロリスト・ゲリラ・レジスタンス・便衣隊などは容赦しなかった。
 つまりは、軍隊の鉄則として「助ける者は助け、殺す相手は殺す」である。
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 中国人・朝鮮人は助けがいのない、人間である。
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 中国人や朝鮮人は、良い事をする人間よりも悪い事をする人間の方が圧倒的に多い。
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 ファシスト中国(中国国民党)や中国共産党は、世界的な人道的貢献をした事がない。
 特に、中国共産党には平和や人道に対して自慢できる所はない。
 中国共産党ほど、残忍でおぞましい相手はいない。
 共産主義者は、女性や子供を洗脳して革命戦士として積極的に使っていた。
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 人間が発明した宗教とイデオロギーほど人を殺人マシーンに変える恐ろしい装置はない。
 日本では、狂信的オウム真理教と偏狂的共産主義(盲目的マルクス主義)である。
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 だが、世界は、中国や韓国・朝鮮の虚偽の言い分を熱心に聞いて厳しい反日発言を繰り返すが、日本の事実と証拠に基づいた証言を無視している。
 そして、日本人・日本軍の中国人・中国軍に対する当然の権利である報復権・復讐権を完全否定している。
 日本は、昔も今も、そしてこの先も孤独である。
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 中世キリスト教会は、日本人を奴隷として売買する事を黙認していた。
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 此れは。国の名誉と民族の栄誉さらには天皇の尊厳を、反日的な他国から仕掛けられた歴史戦から守る為の論戦である。
 勝つ為には、起きた歴史的事実を間違いなく明らかにするのが鉄則であるが、相手に対する礼節や尊厳を維持しながら、分析や解釈は自由である。
 分別なき非難中傷や悪意をもって貶める様な言説は、絶対に避けるべきである。
 起きた事件は、被害の大きさや犠牲者の数は異なるにせよ紛れもなき事実である。
 解釈や分析は、個々それぞれに違っていて当たり前である。
 全く同一の解釈や分析は、あり得ない。
 第二回南京事件はあったし、通州事件もあった。
 時間的にいって、第二回南京事件よりも通州事件の方が先である。
 発生時の状況は、第二回南京事件は激戦後の大混乱時に起きたが、通州事件は戦場から遠く離れたわりかし治安が保たれた平時に起きた。
 後は、どう分析し解釈するかである。
 国際問題となったのは、通州事件ではなく、第二回南京事件である。
 軍国日本は、被害者ではなく、加害者の立場に立たされている。
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 侵略国とは戦争に負けた国の事であり、侵略とは敗戦国が行った武力行使の事である。
 ゆえに。日本は、侵略戦争を行った戦争犯罪国家であり、戦闘で倒した敵国兵及び不幸に戦闘に巻き込んで殺害した一般市民の死は犯罪とされた。
 侵略国家の侵略は、一切の弁明が許されていない。
 侵略戦争に於いて、如何なる理由も問答無用で却下されている。
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 戦争犯罪国家日本は、中国大陸における如何なる言い訳も認められてはいない。
 どんな証拠や証言も、歴史的価値はないとされている。
 日本は悪であり、日本人は有罪である、と。
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 中国共産党に唆された、ファシスト中国による日本人居留民猟奇的虐殺事件。
 中国共産党を軍事支援したのは、ソ連であった。
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 日本軍部は、日本の軍隊として、国外で同胞を敵から守る為に戦い、敵は全て殺した。
 軍国日本には、助かる術も、逃れる術もなかった。
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