🎺02:─4─ルーズベルトは、モーゲンソー財務長官(ユダヤ人)と日本本土空爆計画を協議した。1940年10月~No.11No.12No.13No.14 @ ①

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 秋 日本政府は、内閣直属機関として総力戦研究所を設置した。
 翌41年4月1日に官民各層から有能な人材36名を集めて、第一回の入所式を行った。
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 スターク海軍作戦部長は、対ドイツ戦参戦を睨んで、イギリス海軍との共同作戦計画案を作成する為に、イギリス側から専門家を招いた。
 ルーズベルトは、経済立て直しと失業対策として対ドイツ戦参戦を画策していた。
 軍需産業は、戦争の参加を望んでいた。
 国民世論は、アメリカ第一主義から欧州戦争に介入する事に猛反対していた。
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 10月 昭和研究会が解散され、新たに大政翼賛会が設立された。偽装転向のマルクス主義者は、日本で共産主義革命を実現する為に大政翼賛運動に参加し、戦時体制強化に賛成して、冒険的拡張主義の若手将校や狂信的侵略主義の右翼・右派を焚き付けて日本を破滅的な戦争に導いた。
 河合徹「共産主義においては革命の当初の段階において大資本所有、大土地所有を否定し、これを国所有と為し、従来個人的所有の下に束縛されていた社会的生産力をこれによって開放するのでありますが、現在の日本の戦時体制はその本質においてこれに近いものがあるのであります。……左翼はあくまで労働者農民の政府樹立あるいは現在権力機関の打倒を社会主義実現の大前提としているのに対し、この国家資本主義的考え方は現在の権力の下に相当程度の社会主義を実現とするのでありまして、……これを支持し、且つこれを利用することにより、合法偽装の下に将来真の社会主義を実現する地盤を作り上げんとうるものでありまして、……かかる客観情勢下においては従来の左翼共産主義者はいたずらにファッショ化反対を叫んで弾圧されるよりも、むしろかの如き国家社会主義的政策を支持して巧みにこれを利用して合法偽装の下に出来得る限り真の社会主義的要素を盛り上げて、行く様努力すべきであり、戦術的にも得策でありまして、以上の様な相互の関係から特に最近軍部、官僚の一部進歩的分子と従来からの左翼共産主義との結付が多くなったものでありまして一種の統一戦線と見る事が出来ます。 昭和研究会はかかる関係を最も端的に反映した存在でありまして、……かかる軍部官僚その他の支配層中の革新分子と民間における革新分子ないし左翼共産主義者との接触点、融合点たる所に大なる特色があるのであります」
 10月3日 日本外務省は、軍部からの強い要請を受けて「日ソ国交調整要綱案」を作成し、ソ連との同盟締結を目指す事を明らかにした。
 第7条「日独伊三国はソ連をして世界における新秩序建設に協力せしめ。同盟が同一ベーシスにおいてソ連を加えたる四国同盟に発展することを辞さず」
 軍部は、日中戦争を長期化させているのはソ連軍のファシスト中国への軍事支援である事を知っていた。
 10月7日 海軍情報部(ONI)極東課長アーサー・マッコラムは、日本を戦争に追い込む工程表として8項目からなる挑発計画書を、ルーズベルトに提出した。
 「これらの手段により、日本に明白な戦争行為に訴えさせる事ができるだろう」
 ルーズベルトは、マッコラム提案を承認し、海軍に実行を命じた。
 マッコラムは、バプティスト派教会の宣教師の子として長崎に生まれ、日本語が堪能で、日本に詳しかった。
 プロテスタント各派の宣教師の多くは、異教徒と妥協しながら布教したカトリック教宣教師に比べて、努力の甲斐もなく日本の信者を獲得する事が出来なかった為に反天皇反日派であった。
 10月8日 アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官ジェームズ・O・リチャードソン海軍大将は、ルーズベルト大統領と日本との戦争の可能性を話し合う為にホワイト・ハウスを訪れた。
 ルーズベルトは、日本のアジア・太平洋地域での軍事行動に対する抑止として太平洋艦隊をハワイに駐留させたが、日本は遅かれ早かれ過ちを犯し我々は戦争に突入するだろうと、答えた。
 つまり、アメリカ政府は対日戦を想定して戦争政策を本格化する事を認めた。
 リチャードソンは、日本との戦争を行うのは海軍である以上、太平洋艦隊を防衛に不利なハワイからより安全な西海岸に戻すべきであると考えた。 
 10月中旬 日本外務省は、日蘭会商が暗礁に乗り上げているとして、交渉を一時停止して小林団長を日本に召還した。
 10月21日 日系アメリカ人は、カリフォルニア州エルセント市の裁判所前で、アメリカへの忠誠を誓う集会を開いた。
 西海岸に住む幾つかの日系アメリカ人団体も、議会に対してアメリカに忠誠を誓う請願書を提出し、日本軍の中国に於ける侵略戦争に対する非難を表明し、くず鉄禁輸などの経済制裁を支持した。
 10月23日 ルーズベルト「私達は他国の戦争に参加するつもりもなければ、攻撃を受けない限り、陸・海・空軍を派遣して、アメリカの領土以外の地で戦わせるつもりもありません」
 10月27日 アメリカ上院は、ルーズベルトの要請に従って武器輸出禁止の破棄を決議した。
 10月30日 ルーズベルト大統領は、3期目の大統領選挙に立候補するにあたって重要な演説を行った。
 「お母さんやお父さんに、前もにも度々言いましたが、再び保証を致します。アメリカの青年をよその国の戦場に送るような事はしません」
 非参戦公約には、「自国が不当に攻撃されたら別で、主権国家として攻撃した国に対して自衛行為として反撃する」という、国家安全保障上の自衛的武力行使という例外条項は含まれてはいなかった。
 アメリカ国民は、先の大戦で多くの若者が他国の為に犠牲になった事を悔いて、二度と他国の為に自国の若者を犠牲者にしない事を願った。
 アメリカの孤立主義とは、他国の権利や他国民の命より自分の息子を守りたいという親の思い出であった。
 我が子大事の親のエゴで、ヒトラー侵略戦争を非難しても平和と正義の為に参戦する事を望まなかったし、ユダヤ人へのホロコーストに対して義憤を感じても人道と人権を守る為の武力制裁には同意しなかった。
 一般的アメリカ人にとって、ファシズムによる惨劇は、自分に関係の無い他人事であり、海の向こうの他国の出来事に過ぎなかった。
 ルーズベルトは、三期目の大統領選挙で当選した。
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 11月 ハンガリールーマニア三国同盟に加盟した。
 イギリス空軍24機は、タラント軍港内のイタリア艦隊を攻撃した。
 海軍のシンクタンク太平洋協会は、朝日新聞の後援を得て学術講演会を開催した。
 蠟山政道東京帝国大学法学部教授は、「大東亜広域圏論」と題した講演を行った。
 「地政学的に見て、大アジア主義というものを民族解放の問題に示唆したのは、むしろモスクワであった。そのロシアの大アジア主義というものを受け取ったのが三民主義孫文である。孫文の大アジア主義というものは、大正12年、我が国の神戸において彼が演説した中に現れておるが、当時の日本は太平洋圏の英米協調に傾いていたので、大アジア主義を迎えた者は我が国ではなかったのである。当時我が国はまだまだ大アジア問題を考えるだけの思想的準備もなければ、又それだけの対外政策も持ち合わせていなかった」
 革新派は、大アジア主義を掲げるのなら、植民地支配を続けている英米ではなく、植民地支配を打倒しようとしているソ連と提携すべきである訴えていた。
 政府、官僚、軍部内に、蒋介石に肩入れする米英への不満からソ連派が増えていった。
 海軍が、三国同盟に反対したのは、米英ではなくソ連と敵対するからであった。
 スターリンは、祖国防衛意欲が強い日本軍・皇軍と正面から戦うのは不利と判断し、内部崩壊をさせる為に日本人マルクス主義者に政府、官界、軍部を内部から崩すように示唆していた。
 集団主義組織は、個人主義的組織に比べて、外敵には強かったが内部からの攻撃には弱く、内通者が出るや脆く内部から崩壊して消滅した。
 アメリカ海軍は、アジア艦隊を強化するべく潜水艦12隻をフィリピンに派遣した。
 日本海軍は、フィリピンのアメリカ海軍の行動を警戒し、対米戦を懸念して準備を始めた。
 11月5日 ルーズベルトは、「我々は外国の戦争に参加しない」ことを公約として誓って三選を果たした。
 「攻撃された場合を除き、我々の陸、海、空軍をアメリカ大陸以外の外国の土地で戦う為に送らない」
 下院は、中立法の武器輸出禁止条項の撤廃を決議した。
 アメリカは、ナチス・ドイツと戦うイギリスやフランスに武器を輸出する事が出来るようになった。
 事実上。アメリカは、軍隊を派遣しないが、武器を輸出した事で対独戦に参戦した事になる。
 11月13日 日華基本条約。近衛文麿首相は、南京の汪兆銘政権を正統政府と承認した。
 日本軍部は、極秘に日中戦争終結させるべく、一部兵力を自主的撤兵させ占領地を放棄する妥協案を検討うしていたが無駄に終わった。
 蒋介石は、ソ連との関係悪化に伴い、アメリカの支援を受ける様に成り、中国共産党への攻勢を強めた。
 蒋介石日記「近衛は、無智無能にも、汪政権を承認した事で、中日両国間に解く事のできない仇敵関係を作り出した。これは、敵国の為にもまことに残念な事であるばかりでなく、さらに東亜の為にも危機感を深めるものだ」
 「日中両国をつなぐ糸は完全に断ち切られた」
 軍部は、戦う姿勢を崩さず、戦闘をしながら戦争を終結させるべく努力を重ねていた。
 政府は、武力行使を食い止めつつ、相手に対する配慮から妥協を重ねる事で、むしろ戦争終結を困難にさせていた。
 イギリス軍航空機は、軍港ターラント爆撃してイタリア海軍に打撃を与える。
 11月中旬 タイ空軍の軍用機がメコン川流域上空に侵入するや、仏印軍軍用機は迎撃に飛び立って空中戦が始まった。
 同時に、地上戦も起きた。
 11月24日 最後の元勲・西園寺公望が死去した。
 西園寺公望は、政治的責任が天皇に及び皇室の存続を危うくさせ皇統の断絶に発展する事をさせる為に、昭和天皇に御親裁・聖断を謹み、政治的発言を控えるように諭した。
 政府に対して、たとえ天皇のお言葉や聖慮があろうとも、輔弼の責任として閣議決定してから国家の方針とするように圧力をかけた。
 元老・元勲らは、国家元首である天皇に累が及ぶ様な政治責任を回避させる為に、天皇の「無答責」を全面に押し出し、天皇の大権を封じた。
 昭和天皇は、その忠告に忠実に従い、政府・議会が協議の末に決定した案件は不満があっても拒否せず目をつぶって裁可した。
 内閣を主宰する総理は、和戦何れかを閣議決定して国民を戦地に送って命を奪う以上、決定責任と結果責任を一身に負う覚悟が必要であった。
 国家の舵取りをする総理には、「所管大臣が勝手にやった事で自分は知らなかった」と見苦しい言い訳は、任命権者として許される所業ではない。
 大臣に任命される政治家は、命を捨てる覚悟が求められた。
 そうした政治家の責任感は現代において希薄となり、劣化あるいは悪化している。
 11月28日 藤田久美子(22)は、開校したばかりの水戸陸軍航空通信学校にある井戸に、決意の身投げ自殺をした。
 「大君の 御楯となれる 益荒男の 空の勇士に この身捧げん」
 藤澤繁三陸軍中将「己が身を顧みず、至誠に生きんとする君の崇高な精神は、正に生死を超越し、大義に就かんとする我が軍人精静の精華に等しく、君がこの魂こそ真の空の守りとならん。誰か君が、純情に泣かぎるものあらんや。誰か奮起せざらん」
 「永へに 御魂残して 吉田原 荒鷲守れ 空の乙女よ」
 11月30日 ルーズベルトは、蒋介石に5,000万ドルの追加借款を行った。
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 12月 アメリカの外交関係評議会は、「戦争と平和研究」グループを発足させ、ルーズベルトに対して「日本の東南アジア進出を阻止する事は合衆国の国家利益であり、日本の行動を待つより主導権をとって行うのが最良である」と提言した。
 アメリカ産業界一部には、日本と戦争をしても、東南アジアのゴム、錫と中国のタングステンの確保を政府に求めていた。
 12月2日 アメリカ議会は、日本軍と戦っている蒋介石に1億ドルの借款を行う事を決定した。
 アメリカは、対中借款が抗日戦に流用される事を知っていた。
 親中反日派市民団体は、政府や議会に対して、軍国日本への経済制裁強化を訴えた。
 12月3日 昭和天皇「今日、ソ連は世界において最も恵まれた環境にあり、動かざる程有利となる状態なれば、従っていわゆる気位も高くなりおり、日ソの交渉には容易に希望する如き返事を与えざるべしと考えらる。何れにしても、この大戦の後には、ソと米のみが傷まずして、他の列国は皆疲労する事となるは殆ど疑ひなきところなり。されば、この両国の間に挟まれたる我国はけだし非常に苦心せざるべからざる環境に置かるるものと信ず。しかし、さりとて必ずしも悲観するを要さず。これらの両国も附近に強大なる競争国を失えば自然に気が緩みてやがて腐敗するは必至なれば、我国にしていわゆる臥薪嘗胆の10年の覚悟し、質実剛健なる気風を作興すれば、有終の美を挙ぐるは困難ならずと信ず……」(『木戸幸一日記』)
 12月8日 モーゲンソー財務長官は、ルーズベルトの昼食で、日本本土空爆計画を話した。
 「中国に長距離爆撃機を供給して、日本を爆撃するべきだと提案したところ、大統領が私に、『中国が日本を爆撃するなら、それは結構な事だ』と、語った」
 12月10日 モーゲンソー財務長官は、ハル国務長官を訪れ、ルーズベルトに話した日本本土空爆計画を打ち明けた。
 ハル「それは素晴らしい事だ。それならば、蒋介石に東京を空爆するという条件を付けて、長距離爆撃機を提供する用意があると、伝えたい」
 モーゲンソー財務長官は、同計画案を対日強硬派のスチムソン陸軍長官に伝えると約束した。
 12月14日 東京の駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーは、ルーズベルトに、「いずれ日本と正面衝突する事を避けられない」との手紙を出した。 
 ルーズベルトは、翌41年1月21日に返事を出した。「貴方の結論にまったくもって同感するところであります。……我々の自衛の戦略は、世界戦略でなければなりません。それはあらゆる方面に考慮した、我々の全体としての安全保障に寄与するあらゆる機会をとらえたものでなければなりません」
 ルーズベルトは、そう遠くない将来に於いて日本との正面衝突は避けられないと判断していた。
 アメリカ軍は、最高軍司令官の直接命令を受けていなかったが、日本との戦争に備えて準備を始めていた。
 アメリカの対日戦参戦は、ヒトラーの許可を受けたナチス・ドイツの謀略であり、日本とアジアを共産主義化しようとしたソ連中国共産党の陰謀である。
 12月17日 チャンドラ・ボースは、イギリスと戦っているナチス・ドイツの支援を得る為にインドを脱出し、モスクワ経由で翌41年4月3日にベルリンに入った。
 12月25日 ニューカナディアン紙「カナダと日本の関係が悪い事は、我々(日系二世カナダ人)のカナダに対する忠誠心が疑われている事。これは間違いない事だ。我々が祖国を愛し、その価値観に理解を示す事は自然な事ではある。しかし現今の世界情勢の中では、そうした態度を前面に出す事は、いま暮らしているこの国に反抗している事になるだろう」
 「この国では、確かに我々を差別している所がある。当然の権利が、否定されている事実もある。しかしだからといって、我々はダチョウの様に嫌いな事を見ない様にと地面に頭を突っ込んでいてはいけない。白人社会の我々に対する態度は、確かにフェアではない。しかし彼らがなぜそうした態度で臨んでくるのか、なぜ我々は嫌われているのかをハッキリと理解し、その改善に努力する事も大事な事である」
 日本人は、内向きに自省が強く、差別や偏見してくる相手が悪いのではなく自分に原因があるとして考え、反省し、謝罪の言葉を繰り返す。
 朝鮮人や中国人は、日本人とは違って、外向きで攻撃性が強く、自分には責任が一切無く、差別・偏見してくる相手に全ての原因があると決め付け、相手の迷惑も顧みず抗議と非難の声をがなり立て、場合によっては暴力も厭わなかった。
 如何に話し合ったとしても、日本人は中国人と朝鮮人とは分かり合うことが出来ない。
 12月29日 ルーズベルトは、炉端談話で、ヨーロッパへ軍隊を派遣するという噂は全て虚偽であると否定した。
 12月末 松岡外相は、蘭印総督府との石油交渉の為に新たな使節団を送る事とし、外交交渉に定評のある芳澤謙吉元外相を起用した。
 年末。企画院は、「昭和16年度春季開戦を想定せる軍部の国力判断」を発表した。
 星野総裁「かりに開戦した場合は、石油をはじめ重要物資の供給に関し、成算があるのは当初の約2年間で、以後は予断を許さず、需給の逼迫はまぬがれない」「船舶の喪失が甚大となり、輸送力が大きく減ずれば、戦争遂行能力の維持は至難である」
 戦争は、物動としての海運力で決まると述べた。


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アメリカのユダヤ人 (岩波新書)

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