🎹29:─2─南京陥落前のファシスト中国による漢奸(かんかん、ハンジェン)狩りと親日派知日派大虐殺。〜No.178No.179No.180 * 

漢奸裁判史 新版――1946-1948

漢奸裁判史 新版――1946-1948


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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   
 漢奸(かんかん、ハンジェン)とは、親日派知日派市民の事である。
 漢奸狩りとは、反日派市民による親日派市民の殺戮の事である。
 ファシスト中国(中国国民党)が支配する上海や南京や漢口などの都市では、平和ではなく虐殺が繰り返されていた。
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 中国では、親日派知日派は生きてはいけない。
 日本と中国には、古代から、深い信義ある友好関係は存在しなかった。
 中国にあるのは反日派だけである。
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 中国の歴史とは、中国人が中国人を大量虐殺する悲惨な歴史である。
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 ポスター
 「漢奸を働いた者は、許すことなく殺してしまえ!」
 「漢奸を検挙しろ 法令は守らなくてよい 騒乱を起こせ」
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 南京では、多い日には1日数千人が親日派知日派=漢奸として処刑されていた。
 日本軍は、南京市内での漢奸狩りの最中に総攻撃を開始した。
 戦争とは関係ない虐殺は、すでに中国人によって始まっていた。
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 数十万人の中国人を虐殺したのは、中国人なのか、日本軍あのか、犯人は分からない。
 殺したのが、中国人が何十万人で、日本軍が何十万人なのかも、分からない。
 確かに、中国人の数十万人の死体がそこにあった。
 国内の暴動・騒乱にともなう惨殺や強姦などの残虐行為や強奪や放火などの不法行為は、日本では起きないが、中国では条件反射的に例外なく発生していた。
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 日本人は、よほどの理由がない限り日本人を殺さない。
 中国人は、家畜を屠殺するように、いとも簡単に、嬉々として中国人を惨殺する。
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 ウィキペディア
 漢奸とは、漢民族の裏切者・背叛者のことを表す。転じて、現代中国社会においては中華民族の中で進んで異民族や外国の侵略者の手先となる者を指している。日中戦争の際には、漢奸狩りが実行され、多数が虐殺された。
 「漢奸」という言葉の誕生
 中国において売国奴を指す言葉だが、字義通り受け止めれば、「漢民族を裏切った奸物」と言う事になる。漢奸と呼ばれる有名人には秦檜、呂文煥、石敬瑭、呉三桂汪兆銘などがいるが、中国の歴史の中で「漢奸」という言葉が生れ、現在の意味となったのは清の時代においてである。清朝では支配の中心であった満州族を除く民族が漢として意識されるようになった。これが漢という言葉で明確に民族を括ることの始まりである。最初は漢と満州族は対立する概念であったが帝国主義列強の影響が増した19世紀から満州族も漢に含まれるようになる。初めて漢奸という言葉が使われたのは7世紀であり、対立していた南方の部族と通じる漢に使われた。この時、支配の中心にいた満州族とは区別されていた漢の中の存在であり、今日の意味とは異なっていた。
 日中戦争における「漢奸」
 日中戦争中及び戦争終結後には日本への協力の有無に関わらず、日本について「よく知っている」だけの中国人でも「漢奸」として直ちに処刑されたり、裁判にかけられた。また、日本に協力する者であれば漢民族でなくても「漢奸」と呼称した。この基準に照らせば、最も日本を研究し日本を一番知っていた蒋介石や対日戦略を立てていた何応欽、楊杰、熊斌など、中国側の中枢人物も「漢奸」に該当するという指摘もある。
 日中戦争中の「漢奸狩り」
国民政府側の指導者である蒋介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦のGPU による殺戮政治の如き」「漢奸狩り」を開始した。
 国民政府は徴発に反抗する者、軍への労働奉仕に徴集されることを恐れて逃走する者、日本に長期間移住した者などは、スパイ、漢奸と見なし白昼の公開処刑の場において銃殺したが、その被害者は日中の全面戦争となってから二週間で数千名に達し、国民政府が対民衆に用いたテロの効果を意図した新聞紙上における漢奸の処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらしていた。また、中国軍兵士の掠奪に異議を唱えた嘉定県長郭某が中国兵の略奪に不満の意を漏らした廉で売国奴の名を冠せられて火焙りの刑に処せられた、との報道があった。1937年9月の広東空襲に対しては誰かが赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、そのスパイを執拗に追及するという理解に苦しむことも行われ、一週間で百人以上のスパイが処刑された。
 晒し首を入れる箱
 上海南市にある老西門の広場では第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は 4,000 名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。処刑された者の首は格子のついた箱に入れられ電柱にぶらさげて晒しものにされた。上海南陶では 1人の目撃者によって確認されただけでも100名以上が斬首刑によって処刑された。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。
 南京における「漢奸狩り」
 日中戦争初期に日本で発行された『画報躍進之日本』の中で、陥落前の南京における「漢奸狩り」が報告されているほか、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』、『ニューヨーク・タイムズ』も「漢奸狩り」について報道をおこなっている。
 戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日80人にも及び、その後は数が減ったものの1937年(昭和12年)11月までに約2,000名に達し、多くは日本留学生であった(当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている)。『画報躍進之日本』では「これは何らかの意図をもって特定の者にどさくさを利用して漢奸というレッテルを付けて葬るという中国一流の愚劣さから出ていた」との見方を示し、さらに「南京で颯爽と歩く若者は全部共産党系であり、彼らによってスパイ狩りが行われるため要人たちは姿を隠して滅多に表に出ることがなかった」と報告している。南京では軍事情報の日本側への伝達、日本の航空機に対する信号発信や国民政府が日本の軍艦の運航を妨げるために揚子江封鎖を行うとした決定を漏洩したことを理由とするにとどまらず、親日派をはじめ、日本人と交際していた中国人や少しでも日本のことを知るように話したり、「日本軍は強い」などと言うことを根拠として直ちにスパイと断定され処刑された。外国人も例えば日本の書籍や日本人の写っている写真を持っているだけでスパイの嫌疑を受け拘引されたことから、南京を脱出する外国人も出ていた。
 南京攻略戦直前(1937年(昭和12年)12月初め)の南京城内では毎日、漢奸狩りで捕えられ銃殺される者は数知れず、電柱や街角に鮮血を帯びた晒し首が目につかない場所はなかった。 南京攻略戦後には、日本軍に好意を持つものは漢奸として処分されることを示したポスターが南京市内いたるところで確認された。」
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