🎹35:─3─スターリンは日本陸軍の防共回廊と中央アジアのパン・モンゴリズムを恐れた。~No.224 ㉜ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 スターリンソ連コミンテルンは、日本共産党・日本人共産主義者に対して天皇制度打倒の「32年テーゼ」を発した。
 つまり、数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた民族宗教・伝統文化である天皇を中心とする国體の破壊である。
 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
 日本人共産主義者を助け支援したのは、中国共産党と反天皇反日本派の白人で、アメリカでは民主党フランクリン・ルーズベルト共和党のヘンリー・スチムソン、キリスト教会、保守派、巨大軍需産業界らであった。
 ナチス・ドイツヒトラーや保守派、軍需産業界も反日親中派で、ドイツ国防軍は日本と戦うファシスト中国(中国国民党)を勝たせる為に優秀な軍事顧問団を派遣し強力な武器を大量に供与していた。
 イギリスやフランスも、アジアや中東の植民地や利権を守る為に対日強硬政策を強化していた。
 西洋のユダヤ系国際金融資本家らもまた、軍国日本と戦う国や地域、組織を経済支援した。
 こうして、軍国日本は世界で孤立し、絶望的戦争による破滅へと暴走していった。
 世界は、親中国派反天皇反日本派で埋め尽くされていた。
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 令和4年5月号 正論「満州国再考
 日本は大陸に再び関与せよ  揚海英
 ロシアによるウクライナ侵略が進んでいる2022年春現在、モンゴル人は1945年夏のソ連を想起せざるを得ない。8月8日、ソ連は対日宣戦布告し、11日にはソ連モンゴル人民共和国聯合軍が南下して満州国とモンゴル自治邦領内に入った。満州国西部の興安4省とモンゴル自治邦はほぼそのまま、今日の内モンゴル自治区と重なる。
 聯合軍を迎え入れた2つの国、満州国とモンゴル自治邦のモンゴル人は撤退していく日本人と異なり、歓喜に包まれていた。これで漸(ようや)く民族の統一が実現できると確信していたからだ。
 南進してきたモンゴル人民共和国ソ連軍との合同作戦を『民族の解放戦争』と位置づけていた。8月10日に行われた同国の対日宣戦布告書内で、最高指導者のチョイバルサン元帥は以下のように大義名分を強調している。
 『モンゴル人が統一国家となるため、栄えあるわが人民軍は祖国の領域を越えて、勇ましい赤軍と共に、内モンゴルと中国東北地域へと進入する。この戦いは……帝国主義支配から解放し、モンゴル民族の苦悩を永遠に一掃し、モンゴル人の言語・民族文化を尊重し、発展させ、民族伝統や宗教を保護し、国家権力や独立を強化する聖戦である』
 宣戦布告書から明らかなように、モンゴル人民共和国の指導者達は全モンゴル民族の統一と国民国家の建立を目標に掲げていた。内モンゴル西部、当時はまだモンゴル自治邦に入っていなかったアラシャーと青海モンゴルだけでなく、東トルキスタン(現新疆)のモンゴル人とカザフ人も含まれていた。実際、チョイバルサン将軍は何回も東トルキスタン北部のアルタイ山中で遊牧するカザフ人指導者のオスマン・バートルと同国西部で会見し、中華民国からの独立とモンゴル人民共和国への編入計画を進めていた。モンゴル人は当時、『祖国の土地は中国の万里の長城に至るのだ』とソ連に報告書を提出し、領土の統一を求めていた。当然、東トルキスタン北部もモンゴル高原と一体化している。匈奴の時代から、長城以北の遊牧民東トルキスタン北部を『我が右腕』だと認識していた歴史観の現れに過ぎない。
 チョイバルサン将軍の歴史観は現在もモンゴル国の歴史家たちに受け継がれている。モンゴル国から出版されたあらゆる歴史書が、その国家史観に沿って記述している。
 防共回廊とインフラ整備
 中国と日本の支配から解放された内モンゴル人は涙を流しながら、同胞の軍隊を迎えた。同胞達もまた多くの『国家建設委員会』を各地に派遣し、統一されたモンゴル国建立のノウハウを伝授していた。
 国家建設の前途も明るかった。モンゴル人民共和国ソ連の援助で社会主義的近代化が進んでいたのを日本側も戦時中に編集発刊していた雑誌『蒙古』で認めていた。内モンゴル側の2つの国家は帝国日本のインフラ整備でモンゴル人民共和国よりも先を行っていた。東部と中部には鉄道が敷かれ、都市にも洗練された医療衛生の施設が整っていた。何よりも人間の近代化、即ちモンゴル人の覚醒が実現されていた。日本が誇る世界的な歴史学者白鳥庫吉は、日本が満州国とモンゴル自治邦で創り上げた『東亜新秩序』を次のように高く評価している。
 『日本は、密林に人の道もなかった台湾を、領台50年にして美しい果樹園の如くにした。朝鮮の石ころだらけの砂原も青々とした耕地と化し、満州は匪賊の跡を絶たんとしている。蒙古の復興も漸(ようや)くその緒につき、古き民族の伝統の中に新しい生命の胎動が始まっているのである。而(しか)して蒙古の復興が、支那西北辺境より中央アジアに至る広大な地域の覚醒を促すことも古来の歴史にその因縁を求めることが出来るのである』
 白鳥は帝国日本の壮大なビジョンを描いていた。ユーラシアの長い歴史的潮流の結実として、日本がアジアに進出した、と彼は認識していた。紀元前の匈奴から13世紀のモンゴル、そして満州人の中国(シナ)征服や、中央アジアへの遷徒(せんし)と同じく、日本人も大陸に冒険する権利を当然有している。一度は世界帝国を建設しながらも没落したモンゴルは復興の夢を抱いてるが、その夢は中国や西洋列強によって奪われている。日本にはモンゴル民族の復興に積極的に関与する責務がある、と白鳥は説いている。日本は既に確固たる実績を台湾や朝鮮半島で作り上げており、モンゴル復興も必ず実現できる、と信じていた。歴史学者の学知は帝国陸軍にも浸透し、優秀な軍人達は内モンゴルから西へと、中央アジアのルートを打開するような『防共回廊』の戦略を練るほどだった。
 満州国のモンゴル人とモンゴル自治邦のモンゴル人は帝国日本の戦略に巧みに乗り、民族の復興を実現しようと奮闘していた。日本もまた『赤露』ことソ連共産主義勢力と中共との結託を防ごうとして、モンゴル人の歴史的遺産・魅力を戦略的に利用していた。栄光の歴史ほど民族の覚醒に有用な刺激剤はないのを日本は知っていたし、当のモンゴル人もまた誰よりも切実に中国という牢獄から脱出しようとしていたから、モンゴル人と日本人との戦略的目標は一致し、結合していたのである。
 スターリンからの敵視
 モンゴル人と日本人の雄大なビジョンは意外なところから危険視されていた。ソ連邦の最高指導者スターリンである。早くも1945年2月にクリミア半島の保養地ヤルタで開かれたソ連と米国、それに英国による対日戦後処理の秘密会議の席上で、モンゴルの分断が秘密裏に決定されていた。その秘密会議には当然、日本人は参加していなかったし、モンゴル人も呼ばれなかった。その為、日本人が内モンゴルから撤退した後、南北のモンゴル人は誰しも民族の統一は実現した、と信じて疑わなかった。密約はチョイバルサン元帥にも知らされていなかった。密約の内容が知られた後も、内モンゴル人は統一を訴える署名運動を展開し、集めた署名を持参してウランバートルに複数の代表団を派遣して統一を希求した。チョイバルサン元帥もソ連に対する不満を露(あら)わそうとして、スターリンの誕生日会を欠席して抗議した。
 モンゴル人の統一を阻止した『ヤルタ協定』は会場の場に当事者のモンゴル人がいなかったことで、無効である。同協定により、日本の固有りょうどである北方4島が占拠されたのも違法である。その違法にして無効の協定が交わされたクリミヤをロシアが2014年に併合したのも、歴史への復讐のように見える。東西ドイツの分断とバルト3国のソ連への併合もまた同じ協定による。この無効にして違法の協定に対し、米国は既に2005年からその無効性と反人道的な性質を認めているし、バルト3国にも謝罪していた。日本の反応があまりにも消極的であったことに、モンゴル人として失望を禁じえない。
 戦後レジームをロシアはクリミア併合とウクライナ侵略で変更している以上、日本とモンゴルが再変更を求めてもおかしくない。ついでに指摘しておくと、クリミアももともとタタール人の棲み家であった。中世まではルーシと称され、現在はロシアを自称する人々の領土ではない。
 スターリンソ連が敵視していたのは、パン・モンゴリズムである。パン・モンゴリズムとは、世界のモンゴル系の言語を話す民族の連帯と復興を目指す思想である。ユーラシア大陸への冒険を夢見た明治以降の日本もパン・モンゴリズムに注目し、1912年の清朝崩壊後に統一モンゴル政権の樹立を支持していた。そして、実際にシベリア南部のブリヤート・モンゴル人のダウリア地域で政権樹立も実現していた。
 パン・モンゴリズムはチベット仏教と連動する。モンゴル人の多くがチベット仏教徒だからである。パン・モンゴリズムはまたパン・テュルク主義に繋がって行く。テュルク系諸民族も歴史的にモンゴル系諸民族と同じアルタイ系の言葉を話し、遊牧という文明を共有して来たからだ。匈奴突厥も、モンゴルも遊牧軍事集団の総称であって、内部には多様なエスニック・グループが存在した。そこから13世紀には世界帝国のモンゴル・ウルスが誕生した。
 テュルク系とモンゴル系の一体性と親和性はスターリンに脅威に見えただろう。陸上でも日本海でもロシア軍を粉砕した新興の帝国日本がパン・モンゴリズム=パン・テュルク主義の背景にあると見るや、モンゴル人と日本人は共に危険な存在として映った。モンゴルと日本、即ち帝国日本と満州国、そしてモンゴル自治邦がソ連の脅威であるだけでなく、ユーラシアのテュルク系諸国のカザフとウズベクトルクメンアゼルバイジャンなども、いつでも反旗を翻すかもしれない、とスターリンソ連指導部は判断した。その判断から、ソ連は分割統治を有効な手段として国際秩序の制定に悪用した。いわゆる戦後体制の底辺にある暗流はここにある。日本の非武装化とモンゴルの南北分断がその典型的な事例である。
 ある地域・民族を分断させておけば、いつでも介入する口実は作れる。現にソ連軍は戦後ずっとモンゴル人民共和国に駐屯し続けたし、当時は内モンゴル自治区を併呑した中国もソ連の脅威に怯えていた。現今のウクライナ東部のルガンスクなど『ロシア人が住む』地域への自国民保護を理由とした介入もまたその一例である。
 日本も例外ではない。『アイヌはロシアの先住民だ』とプーチン大統領は数年前から唱えている。『大和に虐げられたロシア先住民の保護』を口実にロシアが日本に上陸しない保障はどこにもない。ロシアを模倣した中国が『日本に占拠されている旧朝貢琉球の解放』を目標に侵略しない保障もまたない。
 満蒙は中国の一部ではない
 パン・モンゴリズムは日本の刺激で生まれた民族自決の思想である。大清帝国がもたらした『パックス・マンチュリカ』(満州人統治下の平和)をモンゴル人もまた自分達の『隷属民(イルゲン)』シナ人と共に享受していた。しかし、19世紀後半になると、イスラーム教徒回民の反乱でモンゴル南西部のオルドスとアラシャー・ウリヤスタイなどの地は衝撃を受けた。やがてモンゴル高原東部もまたシナ人の秘密結社の金丹道の暴徒に襲われて10万人に近い犠牲者を出した。どちらも満州人とモンゴル人を駆逐して土地を奪おうというれっきとした民族革命的色彩を帯びたシナ人の暴挙により、モンゴル人は長城に近い草原を奪われた。避難民は北上し、モンゴル高原ウルガこと後のウランバートルに鎮守する活仏ジェプツンダムバ・ホトクトにまで脅威を与えた。
 『長城を北へと越え、緑の草原を黄色い砂漠に変えてしまうシナ人の追放』を活仏は求めた。活仏はペテルブルグに使者を派遣して独立への準備をしていたし、明治日本にも支持を要求した。というのも、日本とロシアが満州平野で戦った際に、南モンゴル人は日本側についていたし、近代化した日本の力を活仏以下の全モンゴル人は称賛していた。日本に学びながら、ロシアの力を借りて中国からの独立するのが、モンゴル人達の全方位外交の目的だった。南モンゴル人は日本に留学し、近代化の知識を貪欲に吸収したし、北モンゴル人はロシアとの友好を忘れなかった。
 北モンゴルの活仏ジェプツンダムバ・ホトクトは1912年から全モンゴルの大ハーンに推戴された。モンゴル人は『共戴』という年号を用いて民族の統一を目指した。『共戴』はインドとチベット、そしてモンゴル人の歴史観では人類最初の王が用いた年号である。その年号を独立国の大ハーンが踏襲した目的は近代化への再生を企図していたのである。
 新生のジェプツンダムバ・ホトクト政権は翌1913年、五路からなる解放軍を南モンゴルに派遣し、民族の統一を実現しようとした。作戦は順調に進んだ。しかし、ロシアの命令で五路軍は戦馬を止めるしかなかった。ロシアを動かしたのは日本と中国であった。日本は日露戦争の後に勢力範囲を画定していた。南モンゴルは日本の勢力範囲で、北モンゴルはロシアの勢力圏とされていた。中国はモンゴル人の国と長城を国境線としたくなかった。かくして、日本と中国の意向で五路軍の南進は止まり、民族の統一が遮断されたのである。
 日本は自国の勢力範囲と定めた南モンゴルを積極的運営した。モンゴル人もまた好意的に受け止めた。モンゴル人は当時、『日本は中国よりましだ』と認識していた。悲観的なモンゴル人でさえ、『奴隷のモンゴル人にも奴隷主を選ぶ権利がある。同じ奴隷主でも日本人の方がシナ人よりましだ』と理解していたからである。日本は名実ともに満州国とモンゴル自治邦の『奴隷主』だったのである。
 満蒙を日本の識者達は次のように位置づけた。例えば、政治家の松岡洋右の意見である。
 『満蒙に我国が牢固(ろうこ)として抜く可からざる勢力を扶植したのは、決して侵略によるものではない。……日露戦争となり、其の結果選挙区の有利なる決了によって、賠償金の一部としてロシアの満蒙に於ける権利を引継いだのである』
 このように、時の政治家は『満蒙問題は、我国の国家的生存と密接なる関係』を有している、と理解していた。
 政治家だけではない。1938年に内モンゴルを視察旅行した大宅壮一も次のように徳王政権ことモンゴル自治邦の印象を述べている。
 『支那人は昔から国家概念が乏しく、厖大な領土と4億の人口を擁しながら、ごく最近まで近代的国家を形成するに至らず。……(モンゴル人は)容貌や言語の上からいっても、かれらは支那人に比べて遥かに日本人に近い。気質も単純素朴であり、勇猛果敢である。一緒に生活してみると、実に善良そのものである。……今や蒙古も、日本の与える刺激と援助と指導のもとに、次第に目覚めつつある。日、鮮、支をめぐって近き将来に迫りつつある物凄いアジアの嵐は、恐らくこの辺りを中心に捲き起こってくるのではないかと思う』
 こうした朝野共通の歴史観、いわば日本人全体の共通した歴史観の形成に歴史家達の果たした役割は大きかった。例えば、近現代史研究家で、今も大きな影響を残している矢野仁一は『蒙古は支那と直接の関係なく、蒙古人は支那人に対して何等親しみを感じない』と読み取り、大著『近代蒙古史研究』(弘文堂、1925年)を上梓した。矢野博士の見解はモンゴル人全体の中国観・中国人観を代弁したものだったし、今も変わらない。矢野博士はまた『満州支那固有の領土ではない』と、満州帝国が成立する前から学問の見地から立証していた。
 戦後になると、大宅壮一はリベラル知識人の代表格として『善良な蒙古人』を忘れ『日中友好』推進者に変節した。松岡は『戦犯』として断罪されたし、矢野博士の著書は書庫内で埃をかぶる運命となった。知識人と政治家の声に耳を傾けていた日本国民は死んだふりをし、満蒙はどこにあるかすら忘却のふりをし続けた。
 ソ連モンゴル人民共和国聯合軍が入った時、モンゴル自治邦の最高指導者の徳王はモンゴル人に『日本人を攻撃しないよう』厳命していた。対照的なのは満州国で、『五族協和』の一員だったシナ人は日本人避難民に襲いかかった。モンゴル人は日本人の女性と子供を守り、列車が通る都市部まで送り届けた。
 しかし1980年代から少しずつ残留孤児や残留婦人の存在が知られるようになっても、日本人は満州国やモンゴル自治邦に暮らしていた『支那人に比して遥かに日本人に近い』モンゴル人の『善良』を思い起こそうとしなかった。すべては『日中友好』という邪教に改宗したからではないか。
 南モンゴル支援の意義
 少しずつ封印されていた歴史の記憶が蘇ったのは2020年夏からだろう。シナ人から中国人に自称を変えた人々は、内モンゴル自治区モンゴル語教育を廃止してシナ語に切り替える政策を強行しようとした。すでに1966年からモンゴル人を対象に大虐殺が行われた。150万人弱のモンゴル人に対し、32万人を逮捕し、2万7,900人を殺害し、12万人を負傷させた。名実共にジェノサイドとして記憶・記録されている。大虐殺の対象とされたモンゴル人に科された『罪』は『対日協力』『日本のスパイ』だった。シナ人の論理はかのスターリンの大粛清時の論法と同じだった。スターリンはパン・モンゴリズムを警戒していただろうが、シナ人は単に日本が憎かった。日本への憎しみの情念をモンゴル人に注ぎ、殺戮を展開していたのである。
 忘却の歴史から蘇生した日本の政治家たちは南モンゴルを応援しようとして『南モンゴルを支援する議員連盟』(高市早苗会長)が設立された。1945年に断絶されてから、実に76年ぶりの快挙である。自民党は元々、満州国人脈が動かす政党である(小林英夫『満州自民党新潮新書)。今後は、先行き不透明な中国の日本侵略や台湾侵攻を見据えて、大陸への積極的な関与政策を打ち立てるべきであろう。」
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内モンゴル紛争 ──危機の民族地政学 (ちくま新書)
内モンゴルを知るための60章 (エリア・スタディーズ)
墓標なき草原――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(上) (岩波現代文庫)
ジェノサイドと文化大革命 内モンゴルの民族問題
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 現代の日本は、武士の国でも庶民(百姓や町人)の国でもなく、民族の歴史・文化・伝統・宗教を持たない得体の知れない中身のない空虚な国である。
 当然、現代の日本人は武士・サムライではなく百姓や町人でもない、そして彼ら子孫でもない。
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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、その為に正しい歴史、現実に起きていた事実の歴史が理解できない。
 その傾向は、頭脳が優秀な高学歴の知的エリートや進歩的インテリに強い。
 そして彼らの多くが親中派媚中派として中国共産党の顔色を伺い中国の利益の為に嬉々と働き、モンゴル人・チベット人ウイグル人などの少数民族の人道・人権・人命に興味もなく無関心である。
 歴史が正しく理解できない現代の日本人は、反天皇反民族反日本的な左派作家が嘘と歪曲・捏造そして妄想で書き上げたニセの歴史書・悪意の歴史小説を喜び楽しんで読んでいる。
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 日本陸軍の「防共回廊」構想とは、反宗教無神論・反天皇反民族反日本の国際共産主義勢力の陰謀から天皇・国家・民族を守る遠大な積極的自衛戦略であった。
 日本を東端として、満州国南モンゴルチベットウイグル中央アジア、トルコを西端として北上してポーランド、スエーデン、フィンランドを北端として結んだ人種・民族・宗教・文化・言語による対共産主義防衛ラインである。
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 日本にとって、日本国とロシア・ソ連の間に存在する満州族モンゴル族 ウイグル族アイヌ民族同様に「共に生きる」友・友人、親友以上の「共に戦う」戦友であった。
 軍国日本が求めたの領地や植民地ではなく、軍事支援する傀儡的親日国家との防共軍事同盟である。
 が、朝鮮民族は日本を盟主とする同盟に参加する事を拒絶した。
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 東アジアにおける勢力圏は、海洋の日本、大陸の中国とロシア・ソ連の三極に分かれていた。
 モンゴル人、満州人、ウイグル人そしてフィリピン・ベトナムビルマなどの独立派民族主義者は、日本をアジアの盟主と認めて支持・庇護・支援・援助を求めた。
 朝鮮人だけが、反日・敵日・嫌日・侮日から日本と敵対し侵略しよとしていた中国やロシア=ソ連に味方していた。
 が、日本国内は必ずしも一枚岩ではなく、中国・ロシア・ソ連に味方する裏切り者・売国奴的な反天皇反民族の日本人が少なからず存在していた。
 そうした日本の実態は、現代でも一向に変わっていないどころかむしろ酷くなっている。
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 共産主義には、共通認識で団結する万国の人民は存在しても地域の伝統文化を共有する民族は存在せず、解明される科学があっても解明不可能な宗教はなかった。
 つまり共産主義にとって、文明・文化を生み出した民族と宗教は滅ぼすべき敵であった。
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 中国の民族主義共産主義は、周辺の諸国や地域に対する残虐な侵略思想であり、虐殺を正当化するイデオロギーであった。
 その被害者が、モンゴル人、チベット人ウイグル人などの少数民族である。
 歴史的事実として、中国人の残虐行為、暴挙・虐殺は山の様に腐るほどに嫌になるほどに辟易するほどに見たくも聞きたくないほどに存在する。
 それは、今も昔も変わる事がなく、「百年河清を俟(ま)つ」である。
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 昔の日本のエリートやインテリと現代日本の高学歴な知的エリートや進歩的インテリは全然違う。
 昔の日本人は「良きにつけ悪しきにつけ」何かを成すべく行動していたが、現代の日本人は「悪いことをしないためによい事もしない」。
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