🎵13:─1─対米戦略。明治14年、日本・ハワイ安全保障条約。~No.26No.27 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の神国日本・愛国心主義・尊皇攘夷運動・軍国主義化は、1792年の寛政日露交渉から始まったのであって、1840年のイギリスによる阿片戦争ではないし、ましてや1853年のアメリカ・ペリー黒船艦隊来日でもない。
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 何故、日本海軍と東郷平八郎が大国アメリカを主敵としたのか。
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 2021年12月9日号 週刊新潮「夏裘冬扇  片山杜秀
 日本・ハワイ安全保障条約の幻
 明治14(1881)年3月4日。横浜港にハワイの国王、カラカウアがやってきた。近代日本が初めて迎える国家元首である。もてなし役には、英国に留学し、英語に堪能な東伏見宮嘉彰親王が任じられた。ハワイ王一行は横浜の伊勢山の御用邸で一泊。翌日、鉄道で新橋停車場へ。ただちに皇居で明治天皇と会談した。日本の天皇が外国の王と対面したのは有史以来、このときが初めてかもしれない。
 カラカウアは何をしに来たのか。物見遊山ではない。交渉事があった。ハワイへの移民を日本の国策としてもらないか。明治天皇はそれを諒とした。
 そのとき外務卿の井上馨が提案した。王はすぐに日本を去るというが、折角の機会だ。滞在を延ばしてもらい、日比谷の練兵場で観兵式を挙行しよう。カラカウアと井上の間に密約ができていたと思われる。
 観兵式は来日5日目の8日に行われた。この日は雪も降る寒さ。ハワイの人には辛い。でも、カラカウアは、東洋の国にも近代的な軍隊が存在することを目の当たりにして感動したらしい。内に秘めたる大外交構想を首脳会談によって是非とも実現したい。そう決意を固めたようである。
 3月11日。カラカウアは皇居を再訪した。天皇と王。通訳は英国留学経験のある井上。3人だけの秘密会談である。カラカウアは本心を打ち明ける。わがハワイは米国に侵食されつつある。西洋人の齎(もたら)した疫病のせいでハワイ人は激減。米国からの移民が闊歩し、砂糖栽培で儲け、政治にも介入。この調子では早晩、植民地にされる。いまだ独立を保つ東洋の国々も、ハワイと同じ運命を辿るのではないか。
 カラカウアは天皇に訴える。東洋諸国の大同盟を作ろう!盟主は日本だ。港に鉄道、帝都の威容、そしてこの、目で見た近代軍!極東の島国の文明開化は本物だった。日本を中心に東洋諸国の大同盟が足並みを揃えば、西洋諸国をはねかえせる。カラカウアはこの後、清朝の中国、タイ、ビルマペルシャ等歴訪するという。日本さえその気ならば、大同盟を説いて回るという。ハワイにとっても最後のチャンスかもしれない。日本からの移民が大勢欲しいのも、増殖する白人の移民に対抗してもらいたいからなのだ。
 同盟実現のためには、天皇に臣下の礼を取る。そこまで、カラカウアは言った。今日流に表現すれば、日布安全保障条約(※ハワイは布哇と書いた)の締結によって、米国の太平洋への野望を挫こうというのである。一所懸命に通訳していた井上にも、そういう色気が多少はあったのだろう。
 そこでカラカウアは大胆な提案を付け加えた。彼は、接待役の嘉彰親王に、甥で海軍軍人の山階宮(やましなのみや)定麿王を紹介されたという。素晴らしい青年だ。姪を嫁として差し上げたい。日布王室間の国際結婚は西洋への反撃の烽火(のろし)になる。
 明治天皇も、岩倉具視伊藤博文大隈重信も困った。大東洋同盟など絵に画いた餅。清は李氏朝鮮の帰趨を巡って日本に極めて敵対的なのだ。大陸と半島のことがわが国を飽和している。内政も落ち着かない。西南戦争からまだ4年。議会開設問題は?憲法制定は?太平洋のことまで考えられない。日本はハワイの提案を、移民の件以外はすべて斥(しりぞ)けた。カラカウアの志は実らなかった。
 ハワイが米国に併合されたのはそれから17年後。日本が日露戦争の勝利で一息つき、太平洋まで気が回るようになったとき、すでにそこはかなり米国の海だった。この12月8日で、真珠湾攻撃から80年。『遅かりし由良之助』じゃなかった、『早かりしカラカウア』の一席でございました。」
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 日露戦争の遠因は、江戸時代後期の寛政日露交渉(1792年)・文化露寇事件(1807年)対馬軍事占領事件(1854年)であった。
 日米戦争(太平洋戦争)の遠因は、明治14年のハワイ国王カラカウアによる日本訪問である。
 東郷平八郎は、アメリカによるハワイ侵略、ハワイ王国滅亡、ハワイ併合を目の当たりにした為に、アメリカ懐疑派=反条約派艦隊派)としてロンドン軍縮会議に猛反対した。
 つまり、弱小国日本にとってロシアとの陸上戦(日露戦争、1904~05年)とアメリカとの海上戦(太平洋戦争、1941~45年)を避ける事はできない以上、両超大国に勝利する為に強力な陸軍と海軍を造るべく、国力の総力あげて軍国主義政策を推し進めるしか選択肢はなかった。
 それが、日本の近代化の本質であった。
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 万延元(1860)年 徳川政府が派遣した遣米使節団を乗せたアメリカ海軍軍艦ポウハタン号が往路、その護衛船だった咸臨丸は帰路にハワイに立ち寄り、石炭と水の補給を受けた。その際にカメハメハ4世は、日本からの移民を正式に要請した。
 明治元(1868)年 元年者といわれる150名の労働移民がイギリス船籍サイオト号に乗り、ハワイへと到着した。農業未経験の職人や失職した武士が多かった為に、農園仕事が合わず、40名が日本に帰国した。
 3年間の就労を無事終え、残っていた110名のうち帰国した人数が11名、ハワイに残った人数が40名強、賃金の高いアメリカ本土へ移っていった人数が約半数となってしまった。
 その後、ハワイ王国は、日本からのハワイが増えなかった為に、アメリカ移民に対抗するべくポルトガル、ドイツ、ノルウェーなどからの移民を増やした。
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 ウィキペディア
 デイヴィッド・カラカウア(David Kalākaua、1836年11月16日 - 1891年1月20日)は、ハワイ王国の第7代国王である。正式名は David La‘amea Kamanakapu‘u Mahinulani Nalaiaehuokalani Lumialani Kalākaua で、名字の発音は「カラーカウア」に近い。1874年2月12日からサンフランシスコで亡くなるまで国王の座にあった。また、史上初めて日本を訪れた外国の国家元首でもある。
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ハワイ王国滅亡。
2018-08-05
🗽22」─1─太平洋赤道以北のポリネシア人は渡り鳥に導かれて北上してハワイを発見しカナカ人となる。人・鳥・イルカにおける睡眠の違い。~No.85No.86No.87・ @ 
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2018-08-06
🗽23」─1─宣教師の子弟は、ハワイを白人キリスト教徒の島にするべく、ハワイ王家を改宗させ、ハワイ民族の宗教と文化と伝統を破壊した。1819年~No.88・ @ 
2021-06-27
🗽23」─2─独仏戦争(普仏戦争)と日本の中立宣言。1870年~1870年。~No.89No.90 
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2018-08-09
🗽23」─3─カラカウア国王は、ハワイ王国アメリカの侵略から守る為に日本皇室との姻戚関係と日本国家との同盟を希望した。1871年~No.91No.92No.93・ @ 
2018-08-11
🗽23」─4─カラカウア国王は、誠意と信義を重んじ死んでも約束を守る日本人移民とハワイ人を融合させて祖国を守ろうとした。1882年年~No.94No.95No.96・ @ 
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2018-08-12
🗽24」─1─即位したリリウオカーニ女王は、表向き親米路線を取りながら、裏でイギリスに救援を要請し、そして日本人移民に期待した。1891年~No.97No.98No.99・ @ 
2018-08-15
🗽24」─2─巡洋艦「浪速」艦長東郷平八郎大佐は、ハワイ王家を支援するべくアメリカ系宣教師の子弟ら王制廃止派に抗議した。1893年~No.100No.101No.102・ @ 
2018-08-20
🗽24」─3─日本海軍は、ハワイを日本防衛の要と認識し、明治天皇の裁可を得て抗議目的で軍艦を急派した。1895年~No.103No.104No.105・ @ 
2018-08-21
🗽25」─1─米西戦争アメリカは、外交交渉でハワイ共和国を併合し、軍事力でフィリピンを植民地として40万人を大虐殺した。1898年~No.106No.107No.108・ @ 
2018-08-24
🗽26」─1─アメリカ合衆国は、ハワイ人の王家と民族を消滅させる為に、白人やフィリピン人を移民としてハワイへ送り込んだ。1899年~No.109No.110No.111・ @ 
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2020-04-22
🗽27」─1─1899年12月のハワイ黒死病事件と南アフリカアパルトヘイト。~No.112No.113No.114・ ⑪ 
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2018-08-25
🗽28」29」─1─対日黄禍論。義和団事件で、虐殺を行ったドイツ軍と救済した日本軍。西海岸諸州の日本人移民排斥運動。南部諸州の人種差別。1900年~No.115No.116No.117 @ ⑫ 
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 ALOHA PROGRAM
 ハワイ州観光局認定店 ニュース
 カラカウア
 明治14年、ハワイ王国第七番目の王が、初の現職外国元首として来日しました。
・米国との互恵条約締結に成功したカラカウア王でしたが、在位していた後半は、王国の経済を担う砂糖産業を中心とした親米派の圧力を受け、王権すら制限を加えられる立場へと追いやられていきました。
・カラカウア王の明治天皇への謁見は、日本からの移民の願いに留まらず、姪のカイウラ二王女と皇室の山階宮との結婚の申し出や、太平洋とアジアの王国の連邦を創ろうとの構想と提案にもおよびましたが、それらは天皇より丁重にお断りを受ける結果となりました。
 「カラカウア」と聞くと、ワイキキの通りの名を思い浮かべる方も居られるでしょう。ハワイ王国七代目の王の名で、カラカウア大通りとクヒオ通りの分岐点に王の銅像が建っています。六代目の王、ルナリロが後継者を指名せずに亡くなったため、議会で選挙が行なわれ、カラカウアはエマ王妃に大差で勝利し、1874年2月に王になりました。
 カラカウアは、米国との互恵条約締結を成功させ、砂糖産業で国家の隆盛を成し遂げた王ですが、在任中に九ヶ月と九日間にもわたる長期の世界一周旅行をしたことでも知られています。イオラニ宮殿を現在の石造りの建物に建替えていた1881年(明治14年)、私的な旅ではありましたが、後に八代目の女王となる妹のリリウオカラニに国政を委ね、移民の調査を目的として自国を後にし、サンフランシスコで客船を乗り継ぎ、3月はじめに最初の寄港地の横浜に到着します。東洋初の訪問国となった日本での滞在は、王にとって大変意義深いものになりました。現職外国元首の初来日として丁重に迎えられ、横浜港では、二十一発の礼砲と、ご自身が作詞したハワイ王国の国歌「ハワイ ポノイ」の演奏で歓迎を受け、その後、明治天皇にも謁見しハワイへの日本人移民受入れを申し出て、1885年に始まる官約移民のきっかけを創りました。
 王は、訪日後にアジアからインド、エジプトを経て欧州各国を歴訪した後、ニューヨークで発明家エジソンにも会っています。当時の先端技術である録音機にハワイ語で国民へのメッセージを収録し、自国へ持ち帰りました。蝋で作られた円筒形の録音盤は現在でもビショップ博物館に大切に保管されています。
 カラカウア王のメッセージの録音版(ビショップ博物館所有)
 話は世界一周の旅の途中に戻りますが、離日後、一行は天津、上海、香港、バンコクを経由し、当時英国の植民地であったシンガポールに立寄り、滞在中に島の対岸ジョホールの領主から宮殿に招かれました。そこでお互いの母国語に類似した単語を見付け合い、驚嘆したと云うエピソードが残っています。
 現在の歴史言語学者は、マレー語系の言語とポリネシア語が共に「オーストロネシア語族」に含まれる同系の言語であることを突き止めていますが、十九世紀に初めてアジアを訪れたカラカウアにとっては驚くべき事柄であったと思われます。因みに、太平洋に広く広がるポリネシアの島々では数字の「五」を「リマ」と云いますが、現在のマレーシアやインドネシア、フィリピンでも同じです。ハワイ語で「火」は「アヒ」、マレー系の言葉では「アピ」と云います。
 カラカウア王 (写真提供:ビショップ博物館)
 さて、カラカウア王の時代のハワイ王国は、砂糖産業により益々繁栄をしていきます。しかし同時に西欧人が多くを占める経済界の力も強まり、1887年、その圧力の下でカラカウアは王権を制限する改正憲法に署名を強いられます。王の権力を内閣に分散させられてしまったのです。その後、米国への併合を求める親米派の動きが強くなり、王権を維持するのが難しくなっている最中の1890年11月、王国議会閉会の日に王の様態が急に悪くなり、米国で静養することになりました。米国の賓客として米国海軍の軍艦チャールストン号でサンフランシスコに到着しますが、翌年1891年1月20日に客死。遺体はチャールストン号で1月29日にホノルルに到着し、翌日30日には妹のリリウオカラニが宣誓をして、第8代目の女王になりました。リリウオカラニ自身は、兄の葬儀が終わってから就任すべきと考えていたようですが、周囲の状況はそれを許しませんでした。
 カラカウアは、妹のリリウオカラニと共に大の音楽家でもあり、作詞作曲した多くの曲を残しています。現在のイオラニ宮殿を建て、メリーモナーク(陽気な王様)とも呼ばれて親しまれた王でしたが、大国の経済の影響に翻弄された時代の王でもありました。
 関連コンテンツ
 ⇒イオラニ宮殿
 ⇒リリウオカラニ
 ⇒カピオラニ王妃
 ⇒もっとも古いフラノ記憶~カラカウアのフラ復活
 担当講師 浅沼 正和
 Masakazu Asanuma
 【インタビュー動画あり】
 ハワイ在住通算27年目を迎える。2001年からビショップ博物館で日本語ドーセントのボランティアを始め、2003年に同博物館の会員組織を代表する Bishop Museum Association Council のメンバーに選出され、現在に至る。他に、ハワイ日米協会理事やハワイ日本文化センターのBoard of Governor 等を務め、日布間の文化交流活動に従事している。海外の訪問国と地域の数は95箇所に及ぶ。
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 キャノングローバル戦略研究所
 ホーム 日本と旧ハワイ王国の関係
 メディア掲載  外交・安全保障  2020.02.20
 日本と旧ハワイ王国の関係
 産経新聞【宮家邦彦のWorld Watch】(2020年2月13日)に掲載
 World Watch】(2020年2月13日)に掲載
 宮家 邦彦
 研究主幹
 先週ワシントンでは弾劾裁判でトランプ大統領が無罪評決を受け、下院議長が一般教書演説を破り捨てた。日本では新型コロナウイルス感染でクルーズ船約3,700人の検査が始まった。ところが筆者、昨夜はハワイのワイキキでフラダンスショーを堪能した。今週は世界の出来事をしばし忘れよう。この数年間ゆっくり休んだ記憶のない筆者には、こんな休暇もたまには良いだろう。
 ハワイの観光客といえば、多くは東アジアからと信じていた。実際、ホノルルのショッピング街を歩けば、聞こえてくるのは日本語、中国語、韓国語ばかり。だが、ハワイ訪問者の多くはアメリカ本土からの観光客だという。
 州政府の公式発表によると、2018年のハワイ州訪問者数は約1千万人、その64%は米国人だ。驚いたことに日本人は150万人程度で、韓国人は僅か23万人、中国人も12万人ちょっと。
 彼らは国籍こそ異なるが、恐らく一つの共通点がある。それは18世紀末、このハワイに独立王国があり、約100年後その王国が米国の工作員や市民により崩壊させられたことなど知る由もないということだ。ショーの後、ハワイの歴史を必死で勉強し直した。
 以下は太平洋におけるハワイの地政学的重要性と戦略的価値に関する筆者の見立てである。
● 幻に終わった合邦提案
 18世紀末建国したハワイ王国は西洋諸国からの干渉に悩まされていた。1881年、カラカウア国王は訪日し、明治天皇に拝謁、後に日本と移民条約を締結した。国王はカイウラニ王女と山階(やましな)宮定麿王(後の東伏見宮依仁(よりひと)親王)の縁組や日本・ハワイの連邦樹立などの大胆な提案を行う。しかし、日本が米国からの反発を恐れたため、国王の合邦提案は幻に終わった。
● 王国転覆を実行した米
 1893年ハワイ王国在住の米国人を中心とする集団がクーデターを敢行、海兵隊員も投入され王国は崩壊、翌年にはハワイ共和国が成立する。だが、反乱集団の最終目的は米国によるハワイ併合であり、多くの流血事件を経て、98年、ついに米国はハワイを併合する。昨夜のショーではフラダンスは国王と女王を偲ぶものと説明されたが、米国によるハワイ併合への言及はなかった。
● 「ハワイ先住民」の悲劇
 当地の州議会は現在、州知事に対し、ハワイ先住民、ハワイ州アメリカ合衆国の和解を審議する委員会の設置を求める決議案を審議中だ。
 「ハワイ主権運動」は先住民の主権と自治を尊重し、ハワイ王国の米国への主権移譲は違法だとも主張するが、米国の名誉のために言えば、米連邦議会は1993年、ハワイ王国の崩壊には「米国の工作員と市民の能動的関与」があり、ハワイ先住民は「自らの主権を直接放棄していない」ことを確認する共同決議を採択している。ハワイ先住民問題はアメリカ先住民(インディアン)問題と同様、未解決の機微な問題なのだ。
● もし日ハワイ連邦が...
 歴史に「もし」は禁物だといわれるが、仮に連邦化が実現したら、太平洋をめぐる日米間の戦争はもっと早く始まっていただろう。当時、米国は米西戦争でフィリピンを獲得する直前だった。その意味でも、当時の日本政府の判断は正しかったといえるだろう。
 今ハワイは平和だが、ここに買い物に来るアジアの若者の大半は1941年の真珠湾攻撃を知らないだろう。それどころか、ワイキキは今や日本の街となった。ペンは剣よりも強しというが、マネーはペンよりもさらに強そうだ。
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 WEB歴史街道
 日本とハワイ王国、幻と消えた対米同盟
 2019年07月19日 公開
 中西輝政京都大学名誉教授)
 カメハメハ大王
 ハワイ王国を統治した君主の旧公邸イオラニ宮殿カメハメハ大王
 昭和、平成を経て、令和を迎えた日本。時代の節目とともに歴史に関する記憶が薄れてしまい、先の戦争について「日本が愚かな戦いを行なった」という認識しか残らないとすれば、大きな不幸である。
 三国同盟、日米開戦、ミッドウェー海戦キスカ島撤退、終戦の聖断占守島の戦い、東京裁判……いまこそ思い込みや通説の誤りを排して歴史を振り返り「太平洋戦争の新常識」を探るべく、豪華執筆者による論考を掲載した新書『太平洋戦争の新常識』が発売となった。本稿では同書よりその一部を抜粋し紹介する。
 ※本稿は、『太平洋戦争の新常識』(歴史街道編集部編、PHP新書)掲載、中西輝政《日米両国は五十年間、戦端を開かなかった》より、一部を抜粋編集したものです。
 19世紀後半から「潜在的ライバル」だった日本とアメリ
 古今東西の歴史を振り返ったとき、「戦争の起きる可能性が特に高い」と思われる〝構図〞がいくつかあります。
 最近では、ハーバード大学教授のグレアム・アリソンの著書『運命づけられた戦争』(邦訳の書名は『米中戦争前夜』、ダイヤモンド社、2017年。同書は現在、対立関係にあるアメリカと中国が、いずれ戦争に至るのかどうかを論じたものです)の中で取り上げられた、「ツキディデスの罠」という見方が注目されました。「ツキディデスの罠」とは、古代ギリシャの歴史家ツキディデスの名にちなんだ表現で、「従来の覇権国に挑戦する有力な新興国が出てくると、時間が経つほど追い上げられる覇権国が不利になる。だから早いうちに、戦争によって挑戦する新興国を叩き潰そうとする」というものです。
 紀元前5世紀のペロポネソス戦争から近代まで、「覇権国vs.挑戦する新興国」の対決というパターンにあてはまる世界史上の15の事例をピックアップしたアリソン教授は、そのうちの12のケースで結局は戦争になったと指摘しています。
 確かに、そうしたメカニズムはあると思います。しかし、1941~1945年(昭和16~20年)にかけて起こった日米戦争は、現代の日本人はえてして、そう捉えがちですが、「新興国の日本が覇権国アメリカに挑戦した」という構図では決してありません。
 では、両者はどういう関係だったのか。19世紀から20世紀にかけて、日米両国はどちらも、「グローバル覇権国である大英帝国パックス・ブリタニカ)への挑戦者」であり、日露戦争後に顕著になる日米の対立や争いはアジアと太平洋の地域覇権をめぐるものだった、と位置づけられます。
 日本は、1868年(明治元年)に始まる明治維新から近代国家の歩みを始め、急速に国力を伸ばしていきました。一方のアメリカも、1865年(慶応元年)に終わった南北戦争後に、本格的な海外進出へと動き出します。そして、1880年明治13年)頃から、両国はほとんど同時に、それぞれ将来の目標として、東西から「アジア・太平洋の覇権」という山の頂上を目指して登り始めていたのでした。この時点で、すでに日本とアメリカは「潜在的ライバル」だったといっていいでしょう。それを劇的に物語るのは、「ハワイ王国の滅亡」です。
 19世紀の終わり頃、ハワイを代表する名曲、あの「アロハ・オエ」をつくったリリウオカラニ女王が、ハワイを統治していました。その時代に日本とアメリカは、それぞれ同時にハワイでの存在感を増していたのです。
 とりわけアメリカの野心に脅威を感じたハワイ王国は、独立を守るため、日本の皇族との婚姻を通じて日=ハワイ間の同盟関係を結ぼうとしたのですが、当時の日本はまだアメリカと正面切って争う力はなく、明治天皇と日本政府は対米譲歩を選択し、「日本とハワイ王国の対米同盟」という構想は立ち消えになりました。
 その後、1893年明治26年)に、ハワイにいるアメリカ人が武力クーデターを起こし、一方的に王政廃止を宣言して、ハワイ王国は滅ぼされます。
 このとき、ハワイの日本人居留民を保護するという名目で、日本海軍の軍艦「浪速」が急遽、ハワイに向かいました。
 ホノルルに入港した「浪速」は、艦長の東郷平八郎が〝礼砲〞と称して、アメリカの軍艦に向けて大砲を撃ちます。これは「ハワイ王国を救うために、日本が武力介入する姿勢をほのめかした」と、アメリカ系白人の目には映りました。
 もちろん、日本にアメリカと砲火を交じえる力はありません。しかし、そうすることで東郷平八郎アメリカ系白人の横暴に対し、「一矢を報いた」わけです。
 日米戦争は1941年の真珠湾攻撃で始まりますが、それに先立つこと約50年、このような日米両国の「確執」を象徴する事件が、まさにそのハワイで起こっていたのです。
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 現代の日本人は、時代劇や時代小説が好きだが歴史が嫌いな為に、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、地政学や戦争学・平和学さえも理解できない。
 それは、学校の歴史教育を見れば明らかである。
 高学歴の知的インテリや進歩的インテリは、学校教育で高得点をとるほどの秀才揃いであった。
 日本人愚民化の洗脳教育を行ったのが、戦後民主主義教育である。
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 江戸時代後期・幕末・明治維新・明治時代の日本人は、戦後の現代日本人とは違って、冷酷・冷血・非情なアジアの情勢や世界の動向を正しく理解し、情報が少ない中でもほぼ正しい決断をし、迷いながらも勇気を出して行動していた。
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 日本の戦争は、神功皇后による三韓征伐の古代から太平洋戦争の昭和前期までのすべてが積極的自衛戦争であった。
 つまり、合法的な正当防衛であった。
 が、明治天皇昭和天皇も、人類史的な偉業として幾つも平和貢献や人道貢献を行っていた。
 つまり、日本は反省すべき点があったとしても、人として恥じる所は何もなかった。
 が、現代日本歴史教育は、天皇の平和貢献・人道貢献や日本国の合法的な正当防衛・積極的自衛戦争を完全否定し、未来永劫、日本民族が生存する限り決して許される事のない戦争犯罪という、日本人極悪非道の凶悪重犯罪人史観=自虐史観東京裁判史観を子供達に教え洗脳している。
 現代日本を支配している史観の本性とは、中華儒教身分史観、神聖キリスト教福音史観、マルクス主義階級史観・共産主義革命史観の複合・混合である。
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 明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
 伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
 佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
 つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の近世的継続的変革か倒幕派の近代的破壊的イノベーションかの選択戦争であった。
 何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、継続的変革には未来はなく滅亡し、破壊的イノベーションのみが未来で生き残る。
 それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
 日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義共産主義イデオロギー侵略が原因であった。
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 江戸時代後期に下級武士や庶民(百姓や町人)の間で起きた、夷狄であるロシアの軍事侵略と邪教であるキリスト教の宗教侵略から神国日本と現人神・天皇を守ろうとした攘夷運動は正しかった。
 明治維新による、民族主義の近代的天皇制度国家と軍国主義の軍国日本という国家戦略は正しかった。
 その根拠は、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易にあった。
 バチカンローマ教皇カトリック教会は、異教徒日本人を奴隷として売買する事を「神の御名」によって裁可した。
 日本民族は、古代から中国の奴隷、朝鮮の奴隷、中世のキリスト教の奴隷、近代のロシアの奴隷、アメリカの奴隷、マルクス主義共産主義の奴隷にならない為に、孤立無援の中、多勢に対する無勢を承知で、勝てなくとも負けない為に、天皇を中心として一丸となり玉砕や特攻を繰り返しながら戦っていた。
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