🎵21:─4─新説・日清戦争で日本は“負けた”と考えるべき理由。〜No.50No.51No.52 ④ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日清戦争は江戸時代後期のロシアの日本侵略が原因で、避けられない戦争であった。
   ・   ・   ・   
 2023年4月26日 MicrosoftStartニュース AERA dot.「新説・日清戦争で日本は“負けた”と考えるべき理由――国家予算の4倍もの賠償金が日本にもたらした弊害
 戦争の勝ち負けはそれほど単純なものではない。戦争は国家が目的を掲げて行うものだ。だから戦争の目的が完遂されていなければ、「戦闘には勝ったけれども戦争に負けた」と呼べる状態がありうる。戦争に勝った結果、軍国主義化が進むこともあれば、戦争に負けたことで平和が長く続くなど「逆転の状態」があり得る。ノンフィクション作家・保坂正康さんが、新たな視点で見た戦争の勝ち負けとは。今回は「日清戦争」について。(朝日新書『歴史の定説を破る――あの戦争は「勝ち」だった』から一部抜粋、再編集)
 日清戦争豊島沖海戦の写真木版。朝日新聞の付録発行物より=明治27(1894)年
 © AERA dot. 提供
 *  *  *
■戦争を点検する三つのポイント
 19世紀終わりの西洋列強にとって戦争は、経済的に自分たちの国を豊かにするための一つの手段になっていた。つまり、戦争には原価計算が不可欠で、経済的利益がきちんと整理されていない戦争はしない。そういう知恵を備えていた。
 過去のある戦争について評価する場合には、どうして戦争になったのか、どういう戦いをしたのか、どのように戦争が収まったのかという三つのポイントを点検する必要がある。
 この三つを見ると日清戦争は、その後の日露戦争満州事変、日中戦争、太平洋戦争と比べて最も「うまくいった」ケースであった。日清戦争は模範的な帝国主義戦争と言われるほどだった。日清戦争が失敗していたら、日露戦争もどうなったかわからない。
 日清戦争は日本にとって戦争の格好の先例になった。つまり、日清戦争の戦争観が日本の戦争観になった。しかし、それが日本の失敗に繋がっているのではないか。同時代を含め、今日まで続く歴史の中に日清戦争を置き直すと、そういう論点が見えてくる。
 さて、日清戦争の始まりのプロセス、戦闘のプロセス、終結のプロセスを改めて点検すると、一言で言えば、日本は非常にラッキーだったことがわかる。
 日清戦争は、朝鮮に対してどちらが支配権を確立するかの争いだった。
 当時の朝鮮は、清国を宗主国とする属国のような王朝(李氏朝鮮)だった。ただし、朝鮮の中には反清・独立の政治勢力があり、「清国と手を切れ」と言っていた日本と手を結ぼうとした。経済的困窮や排外主義、近代化要求から王朝・政府を打倒しようとする内乱も頻発していた。
 朝鮮の農民・庶民による東学党の乱(1894~1895年)が激化すると、朝鮮政府は清国に援軍を求めた。この清国軍の派兵に対して、日本は邦人保護を理由に朝鮮に軍隊を派遣する。これには朝鮮の独立を支援する面もあった。
 朝鮮政府は、自国の中で清国軍と日本軍がにらみ合う状況を解消しようと、反乱勢力と話をつけて事態を沈静化させ、日清両軍に撤兵を求めた。朝鮮政府は、清国がいわば宗主国である以上、日本が撤兵したあとに清国が撤兵する形にしたかった。しかし、清国は撤兵する気がなかったし、日本は清国から独立した朝鮮と新たな関係を作っていこうと考えていた。
 日本も清国も朝鮮の内政に干渉し続けようとした。だから清国は「日本が撤兵しろ」、日本は「清国が撤兵しろ」と両者が譲らない。この撤兵をめぐる争いが戦争に発展した。
■開戦理由、建前と本音
 日清戦争の始め方はどうだったか。当時の日本には二つの開戦理由があった。邦人保護は単なる建前に過ぎない。
 理由の一つは、朝鮮は清国と手を切って独立・近代化すべきだ、それを日本が助けるために戦うというもの。清国はもちろん、朝鮮の支配権力はこれを徹底的に拒否していたが、日本には、朝鮮の中に理解する人たちが出るようなきちんとした言い方で主張し、朝鮮の独立・近代化派を支援する政治勢力もあった。
 もう一つは、山縣有朋が言う「利益線を確保する」形で朝鮮を押さえるために戦うというもの。これは明治初期の「征韓論」を引きずっている。征韓論は朝鮮の外交的非礼をきっかけに高まるが、その背景には、武士階級が崩壊していく中で、士族に何か仕事をさせなければいけない、カネをやらなければいけない事情があった。西南戦争後の明治11年には「竹橋騒動」もあった。薩長の下級武士で作られた近衛砲兵隊が、せっかく西郷軍と戦って勝ったのに何の見返りもないと暴動を起こして、約360人が処罰された。明治政府は財政的に豊かではなく、兵隊に満足なカネを配ることができない。だから謀略を使ってでも戦争を起こし、朝鮮を支配してカネを稼ごうとする。
 日本は結局、二つ目の利益線の確保という理由によって日清戦争を始めた。
 日清戦争の頃の清国は、イギリスと戦ったアヘン戦争(1840~1842年)と、イギリス・フランス連合軍と戦ったアロー戦争(1856~1860年)を経て、上海や天津にイギリスやフランスの租界地があるなど、局部的に西洋列強の植民地支配を受けていた。
 また、国内では王朝打倒の革命を志す孫文たちによる不穏な動きが広がっていた。つまり、清国の国力は著しく弱まっていた。日本は、清国がもう朝鮮を支配できないと見て朝鮮に入っていったのだ。
■軍隊が賠償金獲得のための事業体になった
 三つ目のポイント、日清戦争の終わり方はどうだったか。
 戦闘において清国軍を圧倒し、ソウルを押さえて平壌にまで達した。清国がもう戦争はやめようと言い出す。そこで首相の伊藤博文が下関に清国の欽差大臣(全権大使)の李鴻章を呼び付けて、停戦交渉に入る。
 結局、日清講和条約下関条約)が結ばれた。日本は約2億3200万円(国家予算の約3倍)もの戦費を使ったが、戦勝国として、大きな三つの戦果を獲得する。
 一つ目は賠償金2億両テール(約3億1100万円)。当時の日本の国家予算の約4倍にあたる大金だ。
 二つ目は遼東半島、台湾、澎湖諸島という清国領土の割譲。
 三つ目は朝鮮の独立。これは、撤退する清国に代わって日本が朝鮮に入ることを意味していた。
 その後、ロシアが主導する三国干渉で遼東半島を返還(見返りとして賠償金3000万両を追加)したとはいえ、近代日本は最初の対外戦争において大きな国益を獲得したことに間違いはない。しかし日本はこの勝ちによって、結果的に戦争に対して「悪い癖」がついた。
 戦争に勝てば賠償金を取れる、領土を取れる。つまり、戦争は国家に大きな利益をもたらす事業だと考えるようになった。
 事業だから会社経営と同じような発想になる。物を生産する会社だったら、資本を投下して製品を売って利益を得る。利益を拡大するためにさらに資本を集め、利益も再投資して生産設備などをどんどん作っていく。事業に成功すれば際限なく利益が拡大するからだ。
 戦争もこれと同じ。日本は国を豊かにするために資本を軍事に投下するようになった。利益として一番わかりやすいのは賠償金だ。つまり日清戦争に勝ったことによって、日本は軍隊を賠償金獲得のための事業体と考える癖がついてしまった。
 上司が部下に「契約を取るまで帰って来るな」と言い、時間営業を続けるセールスマン集団と同じように、軍指導者は勝つまで戦争を続けようとした。だから適当なところで停戦することができなくなる。挙げ句の果てが太平洋戦争の無条件降伏。これが日本に軍事哲学がないと私が考える大きな理由だ。
 ◎保阪正康(ほさか・まさやす)
 1939年、北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部社会学科卒業。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。延べ4千人に及ぶ関係者の肉声を記録してきた。2004年、第52回菊池寛賞受賞。『昭和陸軍の研究』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞受賞)『昭和史の急所』『陰謀の日本近現代史』『歴史の予兆を読む』(共著)など著書多数。
   ・   ・   ・