🎵27:─1─日露戦争は本当に勝利したといえるのか。~No.63No.64 

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 日露戦争の原因は、江戸時代後期のロシアの日本侵略であった。
 軍国日本にとって日露戦争は、積極的自衛戦争であって侵略戦争ではなく、合法的正当防衛であって戦争犯罪ではなかった。
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 2023年4月27日 MicrosoftStartニュース AERA dot.「世界中に衝撃を与えた「日露戦争」は本当に勝利したといえるのか――賠償金ゼロ、人命度外視の代償
 「皇国の興廃この一戦にあり」。日本海海戦で戦闘を開始する旗艦「三笠」
 © AERA dot. 提供
 戦争の勝ち負けはそれほど単純なものではない。戦争は国家が目的を掲げて行うものだ。だから戦争の目的が完遂されていなければ、「戦闘には勝ったけれども戦争に負けた」と呼べる状態がありうる。戦争に勝った結果、軍国主義化が進むこともあれば、戦争に負けたことで平和が長く続くなど「逆転の状態」があり得る。ノンフィクション作家・保坂正康さんが、新たな視点で見た戦争の勝ち負けとは。今回は「日露戦争」について。(朝日新書『歴史の定説を破る――あの戦争は「勝ち」だった』から一部抜粋)
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アメリカに「敗戦」を救われた
 日露戦争は明治37(1904)年に始まって翌38年、アメリカを間に入れて和睦という形で終結する。日露講和条約ポーツマス条約)が結ばれ、ロシアが満州や朝鮮から撤兵し、遼東半島の租借権や東清鉄道(旅順│長春南満州支線)を日本に譲渡し、樺太の南部を日本に割譲することになった。日本を勝者とする内容に西洋列強だけでなく、世界中が驚いた。それは日清戦争をはるかに凌ぐ衝撃だった。
 とりわけ西洋列強の植民地になっている国々を目覚めさせた。「極東の小国があの軍事大国に勝った。アジアがほとんど西洋列強の植民地になっている中で、宗主国の一つを倒した。俺たちにもできるんじゃないか」と。つまり、日露戦争及びポーツマス条約は、西洋列強に対する独立運動や抵抗運動を強く後押しした。
 日露戦争の歴史を見る時、多くの人たちはこうした点を強調して日本の勝利を称賛する。私も全く称賛しないわけではない。けれども、日本は本当にロシアに勝ったと言えるのか。たとえば、ポーツマス条約にしても日本は全く賠償金を取れなかった。先に述べたように、日本にとって戦争の最大の目的は賠償金の獲得だった。その目的を達成できなかった以上、むしろ敗北ではないのか。
 さて、改めて終結のプロセスを点検してみよう。
 戦争末期、日本は戦闘を優位に進めていたものの、国力をほとんど使い果たして青息吐息だった。ロシアも世相混沌として君主制が崩壊の動きを示していた。それを見ていたアメリカが日本側からの求めもあって間に入り、和睦を結んだほうがいいと停戦を勧め、講和条約を結ばせるように誘導していく。そこで日露の講和交渉が始まる。
 アメリカは米海軍の施設があるポーツマスに日露両国の代表を呼び、講和交渉の席に着かせる。この段階では日本のほうが軍事的には勝っていた。ただしその勝ちは、いわば映写機のフィルムをある時点で止めたから勝ちとスクリーンに映っているだけだ。
 戦争がもっと長引いて、ロシア国内が一致団結し、戦闘力をフルに発揮して日本と対抗したら、ロシアの国力が弱まっていたとはいえ、日本はかなわなかったはずだ。
 つまり、日露戦争は日本が勝ったとされているが、じつはアメリカが日本を助けてくれた戦争だった。日本もロシアも疲弊していたが、とりわけ日本は講和交渉の数カ月前からいわば限界点に達しながら戦っていた。日本は、日露戦争を痛み分けの形で終わらせようとしたアメリカに救われた。
 日露戦争はロシア国内でロマノフ王朝の独裁に対する反感が高まり、革命勢力がかなり浸透してきて、ロシアの国力が疲弊している時に起こった。崩壊寸前の清王朝と戦った日清戦争と、状況は似ている。それでも西洋列強は原価計算を考えてロシアに直接手を出さなかった。これも日清戦争と似ている。
 また、なぜアメリカは日本を助けたのか。一言で言えば、アジア進出の足掛かりにするためだ。先に述べた「新しい形の帝国主義」を実行したに過ぎないし、三国干渉の亜流に見える。
 このように終結のプロセスを簡単に見直すだけでも、日露戦争は「本当は負けていた」と言えるのだ。
■妥当性なき二百三高地の犠牲
 開戦前夜の日英同盟にしろ終戦時のアメリカの仲介にしろ、日露戦争にも日清戦争と同じく、西洋列強の帝国主義の残酷さ、計算高さ、強い国家エゴを見ることができる。日本はそれに利用されながら、その一つと戦い、世界中の植民地にいわば勇気を与えた。
 しかし日本も結局、先進帝国主義国と同じように、残酷な国家エゴ丸出しの道を歩むことになる。
 戦闘のプロセスも点検しておこう。戦場の勝利で有名なのは、地上戦では乃木希典(まれすけ)が率いた二百三高地の奪取(旅順攻囲戦)。海上戦では東郷平八郎が率いた連合艦隊日本海海戦だろう。
 しかし、日本軍の作戦行動が戦術上正しかったから勝てたとは言えない。特に二百三高地をめぐる争奪戦は、日本兵たちの実際の戦い方があまりに尋常ではなかったから勝てただけだった。
 日本軍は旅順攻囲戦で約6万人もの死傷者を出し、二百三高地の奪取だけで約5000人の兵隊が死んでいった。当時でさえ、その犠牲の多さに乃木の指揮官としての能力が問われたほどだ。
 二百三高地での日本軍の戦術は妥当性を持っていたのか。私は中国に行ってその山の上に立ったことがある。よく日本兵はここに上がって来たなと、ぞっとした。上から姿が丸見えで、返り討ちに遭うに決まっている。それでも突撃を繰り返して死んでいった。そんな戦術に妥当性はないし、犠牲になった日本兵の姿は悲惨そのものだ。
 二百三高地の戦闘に限らず、日本軍は「とにかく勝てばいい、兵隊の命なんか知ったことか」としか見えない戦術を平気で用いる。海上戦でも、特定の艦船に集中砲火させた直後に反撃する囮(おとり)作戦を決行したりした。
 ロシア軍にとって、日本軍が人命を度外視して攻めてくることは想定外だった。つまり、無謀な作戦がロシア軍の士気を低下させた。それが日露戦争で日本軍が戦闘に勝てた大きな理由の一つだった。これを「裏読み」すると、軍事的に勝つためには、そんな常識外れの戦術を用いて相手を驚かせるしかなかったということだ。
 ある局面の戦闘に勝つためには何をやってもいいのか。今日のウクライナ戦争にも通じる大事な問いであり、歴史的視点から戦争の勝ち負けを考えるうえで重要なポイントである。
 ◎保阪正康(ほさか・まさやす)
 1939年、北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部社会学科卒業。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。延べ4千人に及ぶ関係者の肉声を記録してきた。2004年、第52回菊池寛賞受賞。『昭和陸軍の研究』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞受賞)『昭和史の急所』『陰謀の日本近現代史』『歴史の予兆を読む』(共著)など著書多数。
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