🎺43:─2・B─日本海軍による成功した最後の北号作戦。昭和20年2月10日から20日。~No.200 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本海軍には敗北して全滅したが、幾つも戦史に残る作戦を成功させていた。
 1980年代までの昭和日本は無邪気なほどに素直に喜んでいたが、1990年以降の平成・令和の日本は軍国主義を讃美し美化する元になるとして否定され歴史の闇に葬られた。
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 戦前の日本の思考や発想は硬直化していたが、現代日本よりはましであり、科学技術を酷使しながら破壊的イノベーションも革新的リノベーションを現代日本よりも多く起こしていた。
 その代表例が、ゲテモノ軍艦とも言うべき航空戦艦や航空潜水艦である。
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 2024年6月28日 MicrosoftStartニュース 乗りものニュース 「米軍「あれにはやられた」 大戦末期の旧日本海軍がとった「奇跡の作戦」とは “強運艦オールスターズ”集結
 月刊PANZER編集
 「完部隊」の意味するところとは
 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年にもなると、旧日本軍は制空権、制海権のほとんどを失い、シーレーンはほとんど壊滅していました。しかし、無双状態だったはずのアメリカ海軍潜水艦隊司令官ファイフ大将をして「苦い経験であり、私には言い訳がない」と述懐させ、アメリカ海軍第7艦隊参謀にも「あれはすっかりやられた」と言わしめた旧日本海軍の作戦がありました。それは北号作戦で「奇跡の作戦」といわれます。 
 【航路図】「奇跡の作戦」はどのようなルート?
 完部隊の旗艦となった航空戦艦「日向」。航空戦艦とは便宜上の呼称で正式な艦籍は戦艦(画像:Public domain, via Wikimedia Commons)。
 © 乗りものニュース 提供
 北号作戦とは、シンガポールなどの産油地から日本本土まで、遊兵化していた残存戦艦を用いて少しでも資源を運ぼうと企図されたもの。本土防衛のため、艦艇を集める意味合いもありました。
 参加部隊は航空戦艦「日向」(旗艦)、航空戦艦「伊勢」、軽巡洋艦「大淀」、駆逐艦「霞」「初霜」「朝霜」の6隻で編成されました。「日向」「伊勢」「大淀」はいずれも航空機を運用できるスペースがありましたが、肝心の航空戦力はすでに枯渇し、そのスペースには揮発性の高い航空機用ガソリンのドラム缶が詰め込まれました。この3艦は“強運艦”とされていましたが浮かぶ火薬庫状態であり、正に神にも祈りたくなる状態でした。
 この部隊を指揮する松田千秋少将は部隊名称を「完部隊」と呼称します。任務完遂の完から取ったとされますが、作戦会議で「伊勢」副長の小滝大佐が「『完』ですか。これで『完了』であってもらいたいものですな」と発言し、松田少将は「本当はそういう意味もある……」と、生還を期せないような無茶な作戦は今回で終わりにしたいという意味深な応えをしたという逸話もあります。
 奇跡は偶然ではなかった
 完部隊は長期の悪天候が予報されているタイミングを見計らい、1945年2月10日にシンガポールを出港。省エネの速力16ノット(約29km/h)で広島県の呉を目指しました。
 日本のシーレーンは連合軍の監視下にあり、完部隊もすぐにイギリス潜水艦「タンタラス」に捕捉されます。11日に攻撃を仕掛けますが、日本軍機に撃退されました。以降12日からアメリカ海軍潜水艦が次々に接触を試みますが攻撃位置に付けず、わずかなチャンスで実施された魚雷攻撃もかわされました。
 13日と14日にはアメリカ陸軍航空隊のB-24、B-25爆撃機が来襲しますが、2回とも悪天候に阻まれました。また13日にはアメリカ海軍潜水艦3隻が相次いで雷撃するもすべて回避され、「伊勢」は向かってくる魚雷を高角砲で撃破するという芸当も見せています。
 航空戦艦「伊勢」。後部主砲塔2基を撤去して、22機を搭載できる飛行甲板を設置したが、その能力は生かされなかった(画像:アメリカ海軍)。
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 連合軍が完部隊に差し向けた潜水艦は計26隻、航空機は計88機に及びましたが、フィリピン北西部のリンガエン湾にいたアメリカ海軍の戦艦4隻は沖縄侵攻支援準備のため出動せず、最後の攻撃となったのは16日午前5時の潜水艦「USSラッシャー」による6発の雷撃でしたが、完部隊はこれも回避したのでした。
 こうして完部隊は2月20日、損害を受けずに呉へ入港したのです。全滅も覚悟していた海軍は文字通り狂喜乱舞しました。
 アメリカ潜水艦隊司令長官のファイフ大将は「奇跡」の原因が完部隊の速度が速かったこと、日本海軍の艦艇が潜水艦のレーダー探知機を装備していたこと、そして悪天候が奏功したと分析しています。また運も味方したようですが、強運艦といわれるフネには共通して艦内に「よい空気感」があり、乗組員の技量、士気から艦内整理・整頓・清掃・清潔の「4S」までが良好で、奇跡は偶然ではないともいわれています。
 強運艦は終戦を迎えられたのか
 しかしこの「奇跡の作戦」の具体的成果といえば航空機用ガソリン1916t、ゴム3690t、錫2690t、タングステン308tなど6隻で合計8700tあまりの物資を運搬できたことであり、これは中型貨物船1隻分相当でしかありませんでした。
 石油輸入量の経緯を見ると、1945年第1四半期に日本へ到着した石油の総量は前年後半の量を上回って、一時的に輸入量増加に転じています。これは完部隊のような戦闘艦による輸送の効果があったといえますが、絶対量は圧倒的に不足し、戦争経済に与えた影響は微々たるものでした。ただし完部隊によって油田開発技術員ら1150名が帰国できたことは特筆されます。
 これら物資は4月に戦艦「大和」も参加した沖縄方面への航空作戦「天一号作戦」にも使われます。しかし再び奇跡が起こることはありませんでした。
 「日向」と「伊勢」は燃料不足でもう動くことはできず、呉で対空浮砲台となります。1945年7月24日から28日にかけアメリカ海軍が呉を攻撃すると、格好の標的となった両艦は大破着底。「大淀」も大破転覆しました。
 軽巡「大淀」。水上偵察機6機を搭載できる潜水戦隊旗艦として建造されたが、竣工時にはその能力を生かす機会は無くなっていた(画像:Public domain, via Wikimedia Commons)。
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 3隻の駆逐艦はというと、「朝霜」と「霞」は4月6日、天一号作戦で「大和」と運命を共にし、「初霜」は終戦2週間前の7月30日に舞鶴近郊で機雷に接触して沈没しています。いずれも戦争を生き延びることはかなわず、「完部隊」の「完」の意味を噛みしめたくなります。
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 ピクシブ百科事典
 北号作戦 ほくごうさくせん
 太平洋戦争末期、航空戦艦2隻ほかを用いて行われた物資輸送作戦。
 太平洋戦争末期、フィリピンを舞台としたレイテ沖海戦に敗北したことにより、日本は南シナ海制海権を失い、資源地帯の東南アジアと日本本土は切り離された。その状況下であっても物資を本土に運ぶため立案された、(商船に比べれば)高速重防御な軍艦を用いた強行輸送作戦が北号作戦(ほくごうさくせん)である。
 この作戦の目玉が、航空戦艦となり物資積載に都合のいい格納庫を備えた伊勢型である。本来そこに積まれるはずの航空機は、レイテ沖海戦の前から陸上に送られて空っぽであった。
 1945年2月10日、作戦が発動され、日向(旗艦)、伊勢、軽巡洋艦大淀、駆逐艦朝霜、霞、初霜の6隻(日向・伊勢・大淀はエンガノ岬沖海戦の小沢部隊の生き残り。任務を完遂するという意味を込めて完部隊と命名)は、現在地のシンガポールから積めるだけの物資を積み、日本本土への帰還を目指して出港した。途中何度か空襲や潜水艦の攻撃に合うも、スコールに逃げ込んだり主砲で撃退したりするなどの臨機応変な対応が功を奏し、1隻の脱落もなく2月20日に呉に到着する。海軍上層部では「半分戻れば上出来」と予想していたが、「完部隊、一隻の脱落もなく無傷で日本本土に到着」の報せを聞き狂喜乱舞したと伝えられる。この様に味方に被害が全く無かった事から、キスカ島撤退作戦同様に奇跡の作戦と呼ばれる。そしてこれは日本海軍最後の作戦成功となった。
 この作戦はアメリカ軍の意表を突いた形となり、完部隊の指揮官である松田千秋少将が戦後にアメリカの参謀に尋ねたところ「いや、あれはすっかりやられた」という答えが返ってきたという。
 米軍は完部隊の出撃自体は把握していたが出撃の意図がわからず、戦艦2隻でフィリピンに侵攻するものと考えて迎撃体制を敷いていたのだ。しかも虎の子の機動部隊は硫黄島攻略戦のために出払っており、フィリピン近隣の水上部隊をかき集めて迎え撃つつもりであった。ところが完部隊がフィリピンの鼻先をそのまま通過していったものだから、米軍としては完全にしてやられた格好となったのである。
 完部隊が持ち帰った燃料は南方から運ばれた最後の燃料となり、(呉で防空砲台となる事に決まった)伊勢と日向が自艦用に搭載していた燃料は戦艦大和に移された。大和と第二水雷戦隊はこの燃料を携え、最後の戦いである坊ノ岬沖海戦に臨む事になる。
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 ウィキペディア
 北号作戦(ほくごうさくせん)は、太平洋戦争末期、フィリピンの戦いで敗れた大日本帝国海軍が、東南アジアに取り残されていた残存艦艇を日本本土に脱出させた輸送作戦である。日本軍のシーレーンが崩壊する中、この作戦に参加した艦艇6隻に燃料と重要資源を搭載、輸送船やタンカーの代替とした。
 概要
 北号作戦は、1945年(昭和20年)2月10日から20日にかけて行われた日本軍の撤収、及び輸送作戦である。 制海権・制空権の喪失によりシンガポール周辺で孤立していた艦艇のうち、第四航空戦隊(日向、伊勢、大淀)と第二水雷戦隊の駆逐艦3隻(霞、朝霜、初霜)を、重要物資の輸送を兼ねて日本本土へ帰投させた。 日本海軍の歴史において成功を収めた事実上最後の作戦。 作戦名は、同時期に一般輸送船により行われていた資源強行輸送の「南号作戦」(1月25日から3月9日)に対応して連合艦隊命名したものである。また指揮官松田千秋第四航空戦隊司令官により「任務完遂」を意味する完部隊と命名されていた。
 北号作戦実施の半月前、南シナ海において本作戦と同様の航路を取ったヒ86船団は、アメリカ海軍の機動部隊に捕捉されて壊滅的損害を受けていた。極めて危険な作戦で最悪は部隊の全滅も覚悟されていたが(後述)、損害を受けずに完全な成功を収めたことで、キスカ島撤退作戦と同様に「奇跡の作戦」などと評される。
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