🕍2:─6・D─アルバイトもできないトルコ国籍クルド人の中学生。~No.7 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 善良な一般人クルド人と悪人のテロリストクルド人イスラム過激派クルド人イスラム原理主義クルド人は、別人である。
   ・   ・   ・   
 2024年3月8日 MicrosoftStartニュース 47NEWS「アルバイトもできないトルコ国籍クルド人の中学生 3歳で来日、定住を認められず仮放免 【あなたの隣に住む「難民」③】
 2023年10月1日、埼玉県内で撮影 自宅で「クルド人には自分の国がない」と話すファリドさん(仮名)=埼玉県内
 © 47NEWS
 埼玉県に住むトルコ国籍のシルバンさん(仮名)は中学1年生。サッカー好きで、将来は「プロの選手になりたい」と笑う。
 だが、非正規滞在で、出入国在留管理庁の施設への収容を一時的に解かれた「仮放免」の状態だ。住民票はなく、アルバイトもできず、県外に出かけるには入管の許可が必要になる。
 父で40代のファリドさん(仮名)は嘆く。「日本に計14年間も住んで、建設の仕事に就いて税金も払ってきた。悪いことは何もしていないのに」
 ファリドさんは少数民族クルド人。「国家なき最大の民族」といわれるクルド人は、トルコやシリア、イラク、イランにまたがる地域に推計約3千万人が暮らす。日本にも、埼玉県を中心に3千人程度いる。(共同通信編集委員=原真)
 トルコ東部で生まれ育ったファリドさんは、独立闘争を続けるクルド労働者党(PKK)に関わっていると疑われ、何度も逮捕された。2001年、1人で日本に逃れ、難民申請したものの、棄却される。入管に収容され、やむなく帰国したイスタンブールの空港で、警官に取り囲まれた。
 PKKとの関係を追及されて、釈放後も取り調べが続く。13年に再び来日し、妻と子ども6人と共に難民申請した。しかし、異議も退けられ、22年3月に全員が在留資格を失った。現在は2回目の難民申請中だ。
 アルバイトもできないトルコ国籍クルド人の中学生 3歳で来日、定住を認められず仮放免 【あなたの隣に住む「難民」③】
 © 47NEWS
 ▽子ども在特の対象外に
 23年8月、当時の斎藤健法相が、在留資格のない子どもの人権に配慮し、家族ともども在留特別許可(在特)を出すと発表した。日本初のアムネスティ非正規滞在者の一斉正規化)である。
 ただし、対象となるのは、日本で出生し、学校教育を受けている約140人に限られる。ファリドさん一家は末っ子のシルバンさんも3歳で来日したため、該当しない。
 シルバンさんは言う。「不公平だよ。僕はトルコで生まれたけど、向こうのことは何も覚えていない。トルコに帰らされたら、いじめに遭うと思う」
 トルコ国籍クルド人は、欧米諸国では難民認定される例が多い。一方、日本では、裁判で国に勝訴した1人が23年に認定されただけだ。
 在日クルド人を支援する大橋毅弁護士は指摘する。「トルコは北大西洋条約機構NATO)加盟国で、『テロとの戦い』で日本と協力関係にある。防衛、治安政策が難民審査に影響してしまっている」
 難民と認定されず、帰国を求められても、母国が危険だと考える人は、難民申請を繰り返す。入管難民法により、申請中の強制送還は禁じられてきたが、入管庁は、日本にとどまりたい外国人が難民でないのに難民申請するなど、同法の規定を乱用していると法改正を提案。23年6月に改正入管難民法が成立し、申請を3回以上重ねた場合は送還可能になった。
 「トルコに帰れば、家族みんな捕まって、殺されるかもしれない」。そう言って、ファリドさんは目を伏せた。
   ・   ・   ・   

 外国人移民といっても、日本を愛し愛国心を持ち忠誠を誓う帰化人と、日本を嫌い愛国心を持たず忠誠を拒否する渡来人とでは違う。 
   ・   ・   ・   
 日本政府と国会は、多様性社会を目指すとして外国人移民(主に中国人移民)を受けいてる事を決断し、民族性を薄める方向へと舵を切った。
 つまり、外国人移民に日本国籍を与え日本人にすれば人口減少は解決する。
 それは、国の借金の解決法でも同じである。
 簡単で、子供でも分かる話である。
   ・   ・   ・   
 日本は、日本に移住してくる外国人移民に対して「愛国心や忠誠心」を求めず、国際手配されていない犯罪者やテロリストを無条件で受け入れている。
   ・   ・   ・  
 人口激減する日本は移民国家として、人口回復の手段に一つとして「労働者を補う為」という詭弁を使って外国人移民のを受け入れ、日本人は好きな仕事をする為に嫌われる仕事を移民に押し付け始めている。
 日本人の右翼・右派・ネットウハなど人種差別主義者は、移民を下等民・劣等民と見下して差別・意地悪・イジメを当然の権利としている。
 日本人に悪い日本人と良い日本人がいるように、外国人移民にも良い人間もいれば悪い人間もいる。
 右翼・右派など人種差別主義者は、良い外国人移民を悪い外国人移民へと追いやる。
 その構図は、帰国した中国残留孤児家族を偏見を持って差別して、二世や三世を半グレ組織「怒羅権」・チャイナドラゴンへと走らせた。
 日本人が他人に優しい、はウソである。
 人口激減する日本では、外国人も移民や労働者がいないと生きていけない。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、日本人とは日本列島に住む人間の事で、必ずしも日本民族とは限らない。
   ・   ・   ・   
 平安時代の人口は、約500万人。
 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
  ・  ・  
 遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
   ・   ・   ・   
 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
   ・   ・   ・   

🏁19¦─5─半グレ組織「怒羅権」を生み出したのは日本人の外人差別が原因であった。〜No.136 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 中国共産党員は敵であるが、一般中国人は友人である。 
   ・   ・   ・   
 2024年3月14日11:00 YAHOO!JAPANニュース FRIDAY「半グレ組織「怒羅権」誕生の知られざる真実…「散々殴られ、つるし上げ」中国残留孤児の想像絶する悲劇
 日本への帰国願望を訴える中国残留孤児の人々。’80年代に撮影
 日本にある外国人犯罪組織として有名なのが、「怒羅権」だろう。
 もともとは太平洋戦争が終結した後、中国に置き去りにされた残留孤児の2世が結成した組織だ。残留孤児1世たちが戦後40年ほどして日本に帰国した時、当時小学生くらいだったその子どもたちは日本人から激しい差別を受け、日本社会に溶け込めなかった。そんな者たちの一部が、不良となって作り上げたのだ。
 【後編】「怒羅権」結成の知られざる秘話…メンバーが体験した壮絶な現実
 私自身、怒羅権の創設者やその関係者に会って話を聞いたことがあるし、一部の人たちは自らメディアに出て話をしている。だが、彼らが自分たちの親である残留孤児1世について言及することはほとんどない。
 社会からこぼれた高齢者を描くルポ『無縁老人』(石井光太潮出版社)から1世たちの歩みを紹介したい。
 すべてのはじまりは、太平洋戦争終結の直前の1945年8月9日だった。
 日本は戦前の1932年に中国の東北部に「満州国」を建国し、実質的に支配下に置いていた。日本政府は国内の人々に満洲国への〝移住〟を促したため、終戦の直前には、民間人だけで百数十万人が暮らしていた。
 だが、8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破り、満州へ侵攻をはじめる。これによって満州国で暮らしていた日本人は、ほとんど着の身着のままで逃避を余儀なくされた。
◆「寒さでバタバタと人が死んで……」
 ソ連軍や一部の中国人は、このような日本人に容赦なく襲い掛かった。略奪、暴行、殺害、それに飢餓によって命を落とした日本人も多かった。
 本書に登場する残留孤児の男性(終戦時7歳)がいる。母親が彼を含む3人の子どもを連れて逃げたのだが、途中でソ連軍に捕まり、収容所へ送られた。父親は兵隊にとられていて不在だった。
 彼は当時のことをこう話す。
 「収容所は『難民営』って呼ばれていました。秋には氷点下、冬にはマイナス30度に達しました。それなのに布団すらろくにもらえないんです。食べ物といったら、コーリャンやトウキビで作ったおかゆぐらい。量もほんのわずかなので、毎日飢えや病気、それに寒さでバタバタと人が死んでいきました。
 難民営に来てしばらくして、3歳だった弟が病気にかかりました。医者もいなければ、薬ももらえません。看病していたお母さんも栄養失調で倒れてしまいました。7歳だった僕はどうしていいかわかりませんでした。そして手をこまねいているうちに、2人とも死んでしまったのです。朝起きたら冷たくなっていたのです」
 遺体は、収容所にいた日本人の大人によって埋められたそうだ。
 彼は幼い妹と2人きりになり、自分もすぐに死ぬだろうと覚悟を決めた。子どもだけで生き延びるにはあまりに過酷な状況だった。
 だが、奇跡が起こる。収容所の近くに暮らす中国人夫婦がやってきて、彼を引き取ったのだ(妹は別の中国人が連れて行った)。こうして彼は残留孤児として中国で生きていくことになる。
 残留孤児の多くは、このような形で中国人家庭に引き取られた者たちだ。中には、親が連れて帰れないと考えて中国人夫婦に預けたり、親と生き別れになった子どもが中国人夫婦に拾われたりしたこともあった。形は違えど、彼らはそのようにして中国に取り残され、暮らしていくことになったのだ。
 残留孤児1世にとって、中国での生活は簡単なものではなかった。
 0歳~3歳くらいまでに引き取られれば、彼らは中国語や文化を自然と身につけ、学校へ上がる年齢の頃には中国人同然に育つ。
 だが、小学生くらいの年齢の子たちはすでに日本文化が身についているので、中国語も文化も勉強として学ぶ必要があり、残留孤児として生きていかなければならなかった。そのため、彼らの中には中国人から罵られ、危害を加えられた者も少なくなかった。
◆「大人は笑って眺めているだけ」
 ある残留孤児の女性(終戦時9歳)は次のように話す。
 「最初は中国語がしゃべれなかったことから、日本人だということが明るみに出て、学校や地元で激しいいじめに遭いました。同級生や先輩たちが口をそろえて『小日本鬼子!』と罵倒し、石を投げたり、泥を投げたりしてきたのです。今でも思い出すと涙が溢れてきます。
 日本人の大人が周りにいて守ってくれるわけではないし、学校の先生だって地域の大人だって笑って眺めているだけでした。いい気味だくらいにしか思っていなかったのでしょう。私は反抗することもできず、我慢しつづけるしかありませんでした」
 戦時中、日本軍は中国人に数々の暴力行為を行ったが、彼らの怒りは取り残された孤児たちに向かったのである。
 残留孤児たちは、暗く悲しい子ども時代を経て大人になっていった。そして中国の学校を卒業すると、地元で仕事を見つけ、社会に溶け込んでいく。そこで異性と出会い、結婚して家庭を持つ者も多かった。
 そのような時期に当たる1966年に、中国ではじまったのが「文化大革命」だった。表向きは政治運動だったが、実際は権力者や富裕層に対する迫害だった。文化大革命は、ようやく中国社会に根を下ろした残留孤児たちの生活も一変させる。
 本書に登場する男性はこう話す。
 「僕は中国人の女性と結婚し、人民公社に勤務していました。そしたらいきなり見知らぬ男たちが押しかけてきて、お前は日本人だろ、とか、ソ連のラジオを聴いていると言いがかりをつけられたのです。彼らは私を批判大会に引っ張っていきました。そこには大勢の人々が集まっていて、私は散々殴りつけられ、罵倒されました。つるし上げです。
 ここでも私は何かの誤解だと言いましたが、みんな興奮して聞こうとしません。彼らは私に『現行反革命』と書かれた帽子を被らせ、町で引き回しにしました。家にも人々が押し入ってきて、家具をメチャクチャにして、幼い子どもたちを『反革命家族』とか『日本の畜生』と罵った。そういう時代だったんです」
 1972年、そんな残留孤児たちに朗報が舞い込む。日中国交正常化が決まったことで両国の間で協議が行われ、残留孤児(残留邦人)の帰国受入援護事業が開始されることになったのである。中国から、日本に帰るための扉がようやく開いたのだ。
 だが、これが残留孤児たちの第二の悲劇につながっていく。それについては【後編:「怒羅権」結成の秘話…メンバーが経験した壮絶な現実】で詳しく述べたい。
 取材・文:石井光太
 ’77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『絶対貧困』『遺体』『「鬼畜」の家』『43回の殺意』『本当の貧困の話をしよう』『格差と分断の社会地図』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』などがある。
 FRIDAYデジタル
 【関連記事】
 【後編】「怒羅権」結成の知られざる秘話…中国残留孤児2世のメンバーが体験した壮絶な現実
   ・   ・   ・   
 3月14日17:03 YAHOO!JAPANニュース 集英社オンライン「SNSでの社会的弱者バッシングが横行する4つの理由…「自分よりダメな人を叩けば“溜飲”が下がりますか?」
 『なぜか人生がうまくいく「優しい人」の科学』#2
 なぜSNSには社会的弱者バッシングがはびこるのか
 “優しい人”について精神科医の視点から説いた新刊『なぜか人生がうまくいく「優しい人」の科学』。社会的弱者バッシングなどが横行するようなギスギスした社会ではどう生き抜けばいいのか?
 【画像】ネット上に氾濫する過激な批判
 書籍より一部抜粋、再編集してお届けする。
 自分の心の中にある「歪み」 の存在を知る
 現在の日本は、長引く不況や経済格差の拡大などによって、社会全体がギスギスしている状態にあります。
 「自分が生活するだけで手一杯」という人が増えたことで、 周囲の人たちに気を配るだけの精神的な余裕がどんどん失われているように感じます。
 私が最も関心を寄せているのは、不景気が長く続いたことによって、格差社会の「歪み(ひずみ)」が急速に広がっていることです。
 その象徴といえるのが、「生活保護バッシング」や「精神障害者差別」など、いわゆる社会的弱者に対する「理由なき攻撃」です。
 大地震や集中豪雨の被害者には深く同情できる人たちが、生活保護を受けている人や、精神障害がある人には、厳しい批判の目を向けているのです。
 こうした現象の背景には、無記名、無責任に自分の意見を発信できるSNSの普及が大きく関係していますが、精神科医としては、「なぜ、人はこんな行動をしてしまうのか?」という心の問題に注目しています。
 優しい人であるためには、自分の心の中にある「歪み」の存在を認識して、それを修正する必要があります。
 「社会的弱者バッシング」が横行する四つの理由
 インターネット上には、生活保護バッシングや精神障害者差別など、社会的弱者に対する過激な批判が氾濫しています。
 本来であれば、社会的弱者は、地域社会全体で優しく庇護すべき対象です。温かい目で見守ることはあっても、目に余るような罵詈雑言を浴びせるような相手ではないはずです。
 なぜ、こんな現象が横行しているのでしょうか? その背景には、次のような四つの理由をあげることができます。
 【理由①】自分よりダメな人を叩いて「溜飲」を下げている
 一番の理由は、自分よりダメだなと思う人を見つけて、それを罵倒することで「憂さ晴らし」をしているのです。
 「自分の方がマシだな」と感じることで、ささやかな優越感を持つことができれば、その瞬間だけでも、自分の置かれた苦しい状況を忘れることができます。
 生活保護バッシングには、国から生活費を支給されることに対する嫉妬も多分に含まれています。
 「アイツより自分の方がマシだな」という発想をしていると、 人との比較でしか自分
のことが考えられなくなり、つねに自分より下の人を探し続けることになります。
延々とバッシングが繰り返される原因は、そこにあります。
 人との比較で溜飲を下げる行為は、自分を「みじめ」にするだけです。
 みじめな思いをしているから、自分のバッシングが余計に過激化している……ということに、早く気づく必要があります。
 【理由②】弱者に対する「想像力」が欠けている
 名前も顔も知らない社会的弱者を、平気で叩けるというのは、相手に対する想像力が決定的に欠けていることも大きな原因です。
 「能力的に劣っているからだろう」と自分勝手に結論づけて、 社会的弱者が抱える事情までは考えが及んでいないのです。
 社会的弱者には、それぞれ異なった事情があります。
 病気やケガで仕事が続けられず、仕方なく生活保護を受けている人もいれば、貯蓄がないために生活が破綻してしまった高齢者もいます。
 それを一括りにして、「どうぜダメなヤツなんだろう」と決めつけて一斉にバッシングするのは、相手に対する想像力が欠如している証拠です。
 「自分こそ正論」という考えが他者を傷つける
 【理由③】すべてが「他人事」で「自業自得」と考えている
 15年ほど前に、日本中で「自己責任論」なるものが流行したことがありますが、その考え方は、今でも日本人の心の中に根強く残っています。
 心の病が原因で生活保護を受けている人は、「自業自得」であり、 「自分はそんなことにはならない」と勝手に思い込んで、すべてを「他人事」と考えている人が多いように思います。
 仕事が忙しくて体調を壊したり、上司のパワハラによって心の病を患うことは、誰にでも起こる可能性があります。
 何の根拠もなく、 「自分だけは平気」とか、 「自分だけは特別」と考えているから、見ず知らずの社会的弱者を、上から目線で叩くことができるのです。
 【理由④】自分の意見こそが「正論」だと思っている
 SNS上で他人を誹謗中傷している人の多くは、自分の考え方こそが「正論」であり、「世間のバカな連中は、なぜこんなことが理解できないのだろう?」という思いから、容赦のないコメントを投稿しています。
 自分の意見だけが正しいと思い込み、世の中には多種多様な考え方があり、人の生き方は千差万別……ということが理解できていないのです。
 最近では、SNSでコメントを投稿する際に、「この意見は誹謗中傷にあたるため、名誉毀損の可能性があります」という警告が表示される機能が普及しています。
 その警告を見て、初めて自分の意見が正論ではなく、単なる誹謗中傷だと気づく人が増えているといいます。
 人との比較で自分を考えたり、自分より下の人を見つけて溜飲を下げる行為は、自分のマインドをマイナスに向かわせます。
 こうした発想を続けていても、自分の生活が豊かになることも、人生が楽しくなる
こともありません。
 相手が得をして、自分が損をしたら負け……という考え方を、心理学では「勝ち負け思考」といいますが、勝ち負けや損得勘定で物ごとを判断していると、次第に自分を見失うことになります。
 こうした考え方や発想は、一刻も早く改めることが大切です。
 文/和田秀樹 画像/shutterstock

                  • -

 和田秀樹(わだ ひでき)
 精神科医
 1960年大阪府生まれ。東京大学医学部卒。精神科医東京大学医学部附属病院精神神経科助手、浴風会病院精神科、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェローを経て、立命館大学生命科学部特任教授、和田秀樹こころと体のクリニック院長。老年精神科医として、30年以上にわたり高齢者医療の現場に携わっている。『80歳の壁』など著書多数。

                  • -

   ・   ・   ・   

🎵10:─2─樺太・千島交換条約は日露戦争で日本に勝利をもたらした。明治8(1875)年~No.21 

  ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川幕府とロシアによる樺太国境画定交渉は不調に終り、樺太はこれまで通り混在地とされた(日露間樺太島仮規則)。ロシアは大量の移民を樺太に送り込み、日本人、ロシア人、アイヌ人の三者間の摩擦が増えて不穏な情勢になった。
 明治新政府は、ロシア人暴力事件として深刻に受けと受け止め、ロシアとの紛争から戦争に発展させない為に平和的交渉を始めた。
   ・   ・   ・   
 明治新政府が、旧幕臣榎本武揚らが作った蝦夷共和国を武力で鎮圧したのは正しかった。
   ・   ・   ・   
 明治6(1873)年 征韓論政変(明治6年政変)。
 明治維新とは、超大国ロシアの軍事的日本侵略から神国日本・現人神天皇日本民族を守る為に近代的軍国主義国家への選択であった。
 大久保利通岩倉具視らは、征韓論で朝鮮との戦争が勃発すれば、ロシアと清国(中国)が漁夫の利を得る為に朝鮮に味方して介入する事を警戒した。
 明治新政府には、朝鮮・清国(中国)・ロシアの三国を敵にして日本を守る軍事力はなかった。
 明治天皇は、内治優先派の西郷派遣延期論を採用して好戦的対朝鮮強硬派の即時派遣論を退けた。
 明治7(1874)年 台湾出兵。清国は、日本に「台湾は化外の地(けがいのち)」と答え、日本との戦争を避ける為に日本の台湾出兵に対して軍事行動を起こさない事をほのめかした。
 明治12(1879)年 琉球処分沖縄県設置。清国は、琉球の親清国派(親中国派)の援軍要請を無視して見殺しにした。
 琉球王国は、朝鮮王国とは違って清国を宗主国とは認めず、従属国・保護国に甘んじてはいなかった。
   ・   ・   ・   
 ロシアは、アラスカ・北米植民地開発を断念しアジア侵出に本腰を入れる為に、太平洋航路・北極海航路としての千島列島の価値はなくなりウラジオストック軍港を防御する為に樺太戦略的価値が高まった。
 日本の対ロシア戦略から、ロシア艦隊をカムチャッカ半島ー千島列島から太平洋に出さず日本海に封じ込める事ができ、後の日露戦争日本海海戦の勝利の一因と言えた。
 日露戦争の鍵を握っていたのは、朝鮮とアイヌであった。
   ・   ・   ・   
 日本はロシアとの戦争を避ける為に、自分の事は自分で決めるとする自己責任・自己決定から、日本ロシアの何れに帰属するかは樺太アイヌ人(エンチゥ)に丸投げして見捨てた。
   ・   ・   ・   
 2016年11月25日 YAHOO!JAPANニュース「北方領土 屈辱の交渉史(2)
 樺太千島交換条約を主導したのは「太陽の沈まない国」だった…
 明治8(1875)年3月8日、ロシアの首都サンクトペテルブルク(当時)。駐露特命全権公使を拝命した榎本武揚(たけあき)は露外務省アジア局長のピョートル・スツレモーホフと向き合った。
 榎本「千島全島を譲るべきだ」
 スツレモーホフ「それは大島たる幌筵(パラムシル)島までも望むのか?」
 榎本「幌筵島のみならずカムチャツカまで連なる島々をすべて譲っていただきたい」
 スツレモーホフとの協議は延々と続いたが、榎本は粘りに粘り、ついに樺太を放棄する代わりに、カムチャツカ半島まで延びる千島列島全島の譲渡を勝ち取った。榎本がロシア側全権のアレクサンドル・ゴルチャコフと樺太千島交換条約の調印を交わしたのは5月7日だった。
 旧幕府海軍の指揮官だった榎本は、箱館戦争五稜郭の戦い)で敗北し、投獄されたが、その命を救ったのは、オランダ留学中に手に入れた「海の国際法と外交」の写本2巻だった。
 明治政府は発足したばかりで外交や国際条約は門外漢ばかり。榎本が所蔵する写本の存在を知った黒田清隆が、知人の福沢諭吉に翻訳を頼むと、福沢は一読してこう言った。
 「この万国公法は海軍にとって非常に重要だ。これを訳すことができるのは講義を直接聴いた榎本以外にない。榎本に頼めないようでは邦家のため残念だ…」
 黒田は榎本の助命嘆願に駆け回り、榎本は明治政府の要人としてその後活躍する。ロシアとの領土交渉はその大きな成果の一つだ。
 × × ×
 北海道の北東洋上に浮かぶ択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島からなる北方領土(計5千平方キロ)は、ただの一度も外国の領土になったことはない。その先にはカムチャツカ半島まで占守(しゅむしゅ)島を最北端に千島列島が延びる。オホーツク海と太平洋を隔てる地政学上の要衝だといえるが、なぜ明治政府が樺太と千島を交換しようと考えたのか。
 安政2(1855)年2月、江戸幕府はロシアと日魯(ろ)(露)通好条約を締結。国境を択捉島と得撫(うるっぷ)島の間に引き、樺太を「日露両国民の混住の地」と決めた。
 ところが、ロシアは明治2(1869)年に樺太を「流刑地」に一方的に指定した。以後、樺太へのロシア人の流入が急増し、暴行や窃盗が頻発、殺人事件も起きた。樺太の日本人居留地を守るため国境線策定は喫緊の課題だったのだ。
 そこで白羽の矢が立ったのが、北海道開拓使を務めていた榎本だった。北海道事情に詳しく国際法にも強い。榎本は渋ったが、黒田は太政官中央政府)に人事案を提起して榎本を無理やり帰京させ、天皇臨席による閣議で駐露全権特命公使(海軍中将)に任命してしまった。
 榎本は明治7(1874)年3月10日に横浜港を出帆し、スエズ運河経由でイタリアに上陸。サンクトペテルブルクに到着したのは6月10日だった。
 樺太を全て領有したいロシア。日本も樺太放棄に異存はない。合致点は見えていたにもかかわらず、交渉は難航した。
 ロシア側は、樺太で起きた殺人事件の処分など細々とした懸案を次々と取り上げて引き延ばしを図り、本交渉が始まったのは11月14日だった。その後、日本側の交渉方針がぶれたこともあり、交渉は難航し、日露両国では「弱腰外交」という批判が渦巻いた。
 × × ×
 ロシアから見ると、広大な樺太を捨て、碁石が並んだような千島列島を欲しがる日本の姿は奇異に映ったかもしれない。
 確かに当時の明治政府は脆弱(ぜいじゃく)で、樺太を統治する財政的・軍事的な余裕はなかった。だが、それ以上に英国の入れ知恵が大きい。
 「日本の国力では樺太開発は無理だ。防衛もできない。千島列島ならば周囲が海なので防衛しやすい」「樺太をこのまま放置すれば、むしろロシアの南下は北海道に及ぶ」「ロシアが侵攻してきても千島列島ならば英海軍が援軍に送ることができる」-。
 英国は、明治政府の要人にこのようなアドバイスを送り続けた。その元締は駐日英公使のハリー・パークス。「維新の三傑」といわれる大久保利通にも直接働きかけたとみられる。
 当時の英国は「太陽の沈まない国」と称される世界一の海軍国家だ。海洋戦略に長けた英国は、ロシア海軍が将来太平洋に進出することを懸念し、千島列島を日本に領有させることでオホーツク海に封じ込めようと考えたのだ。
 ロシアは幕末の万延元(1860)年、北京条約で中国から沿海州を奪い、ウラジオストクを軍港にした。翌文久元(1861)年には露軍艦ポサドニック号が対馬浅茅湾に侵入し、島の中心部を占拠。艦長のニコライ・ビリリョフは幕府に「対馬の租借」「兵営施設建設」「食料」「遊女」を要求した。
 結局、英国の仲裁を受け、ポサドニック号は退去したが、英国はこの頃からロシアの太平洋進出に神経をとがらせるようになる。千島列島と日本列島による露海軍の封じ込めは英国の国家戦略だったのだ。
 ロシア側で千島列島の重要性に気づいたのは、旧ソ連の独裁者であるヨシフ・スターリンだった。
 ロシアは千島列島だけでなく、日露戦争後のポーツマス条約で南樺太までも日本に割譲していた。露海軍が北太平洋に進出しようとしても、この海域を通過する露艦艇は全て監視され、標的とされてしまう。米国に対抗する海軍国家建設をもくろんでいたスターリンにとって千島列島と南樺太の割譲は絶対に譲れぬ「戦利品」だったのだ。
 樺太千島交換条約から70年後の昭和20(1945)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻したソ連軍は一向に戦闘をやめず、領土拡張を続けた。占守島への侵攻は8月18日、北方領土を占領したのは日本が米艦ミズーリ号で降伏文書を調印した9月2日以降だった。
   ・   ・   ・   
 2016年11月30日 YAHOO!JAPANニュース THE PAGE「なぜ樺太放棄した? 面積だけでは測れない「樺太千島交換条約」の真意
 終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。12月15日にはプーチン大統領が来日し、山口県長門市で首脳会談が行われます。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、平和条約や領土交渉の進展はあるのでしょうか。
 あらためて、日ロ間にはどのような領土をめぐるやりとりがあったのか。歴史を振り返ります。
 日魯通好条約の20年後に行われた領土交換
 樺太を放棄し、全千島列島の領有権を得た「樺太千島交換条約」(内閣府北方対策本部ホームページ参考)
 日ロ間で初めて法的に国境を決めた1855(安政元)年、「日魯通好条約(日露和親条約)」では、樺太を両国民混住の地とし、千島列島の択捉島と得撫(ウルップ)島の間に国境線を定め、択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領と決めました。
 しかし、その20年後の1875(明治8)年、樺太はロシア領、代わりにウルップ島以南を含む全千島列島を日本領とする「樺太千島交換条約」を日ロ間で交わします。なぜ、このような領土の交換があったのでしょうか。
 両国民混住の樺太 たびたび日ロの紛争の種に
 樺太千島交換条約には全権公使として榎本武揚の名が記されている
 日魯通好条約の後、樺太松前藩領から江戸幕府の直轄地に。その後、明治政府の成立に伴い、1869(明治2)年には太政官直属の開拓使所管となります。一方、両国民混住の地と決めたロシアは、クリミア戦争終結後、樺太開発に乗り出し、たびたび両国間の紛争が起こるようになりました。
 事態を受け、両国間で樺太の国境線を決めることは重要な問題でした。新政府には、樺太全島もしくは半分で境界線を引き、南半分を日本のものとするという意見と、遠隔地である樺太を放棄し、北海道開拓に注力する、という2つの意見がありましたが結局、樺太放棄論が優勢になりました。
 国際法に長けていた全権公使・榎本武揚
 樺太千島交換条約には千島列島の島としてウルップ島以北の18島名のみ書かれている
 交渉は1874(明治7)年から、ロシアのサンクトペテルブルクで行われました。日本から派遣された旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。榎本は新政府と旧幕府側の最後の戦いとなった箱館戦争五稜郭の戦い)で破れ、投獄されますが、オランダ留学中から肌身離さず海洋法に関する「海律全書(海上国際条規)」を持つなど国際法に通じていたことから、助命され、明治政府の一員となりました。交渉時は日本初の海軍中将、駐ロ特命全権公使に任命され、約1年近い交渉の末に、ロシア外務大臣ゴルチャコフとの「樺太千島交換条約」締結にこぎつけます。
 地政学上重要だった千島列島の領有
 新政府にとり、財政力でも防衛力でも広大な樺太を統括する力がなかったとはいえ、面積的に見れば7万6400平方キロメートルある樺太を放棄し、総面積1万数千平方キロメートルしかない千島列島との交換は割に合わないようにみえます。
 しかし、ロシアの海洋進出を警戒していた英国政府のアドバイスもあり、地政学上、オホーツク海と太平洋を分ける千島列島は海洋戦略上、重要な地点という認識を、明治政府が持っていたとみられます。また千島列島は南北に約1200キロの長さがあり、水産業にとっては大きな意味を持ちました。
 また、「樺太千島交換条約」の文面をみると、日本に譲渡されるウルップ島以北の18島の名称はありますが、択捉・国後・色丹・歯舞の北方四島は含まれていません。既に先の「日魯通好条約」で択捉島以南が日本領であるということが両国間で明確に認識されていたようです。
   ・   ・   ・   
彩の国埼玉
 埼玉県庁 県庁へのアクセス〒330-9301 埼玉県さいたま市浦和区高砂三丁目15番1号 電話番号:048-824-2111(代表) 法人番号:1000020110001
 北方領土の歴史
 日本人による北方の開拓の歴史
 正保御国絵図千島列島には、もともと、アイヌと呼ばれる人々が住んでいました。
江戸時代、北海道唯一の藩として隆盛を誇った松前藩の「新羅之記録」によれば、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(北海道根室地方)のアイヌの人々が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み込み、松前へ来て交易を営んでいたと記録されています。千島へのロシアの進出に危機感をもった幕府は、北方の島々の経営に本格的に取り組むこととし、1785年(天明5年)及び1791年(寛政3年)に最上徳内らを調査に派遣。最上らは、国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査し、さらに得撫島に上陸して同島以北の諸島の情勢も察知しました。
 ロシアの南下の動きに対して、幕府は、国防上の必要から、千島・樺太を含む蝦夷地を幕府直轄地として統治することとし、1798年(寛政10年)4月、180余名の大規模巡察隊を蝦夷地に派遣しました。このとき、支配勘定近藤重蔵の班は、最上徳内らと国後、択捉を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた国土標柱を建て、この年の暮に江戸に帰任しました。
 翌1799年(寛政11年)から1800年(寛政12年)にかけて、近藤重蔵高田屋嘉兵衛らとともに再び国後島択捉島に渡り、本土の行政のしくみをとりいれた郷村制をしいたり、漁場を開いたり、島々への航路を開いたりしました。
 高田屋嘉兵衛が自分の持ち船「辰悦丸(しんえつまる)」に乗り、国後島択捉島の間の航路を開き、択捉島に17か所の漁場を開いたのもこの頃です。
また、幕府は、択捉島以南の島々に番所を設け、外国人の侵入を防ぐために役人を常駐させました。1801年(享和元年)からは、南部藩津軽藩の兵、各100余名が守備に当たりました。
 国境の画定
 ロシアと日本の争い
 ロシアの南下政策が強められる一方で、幕府の警備が進められ、両国の間にはこの地方をめぐって争いや事件が起きるようになりました。
1804年(文化元年)、日本との通商を求めて、ロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが、幕府とラクスマンとの約束を頼りに長崎に来航しました。しかし幕府がこれを拒否すると、レザノフは部下に命じて樺太択捉島等で日本人に暴行を加えたり、日本船を襲って火を放ったりしました。
 これらの行為に対して、幕府は守備の立て直しを図り、ロシア船が近づいたら打ち払うことを命じました。1811年(文化8年)、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが樺太西海岸を探査し、さらに千島列島を測量して国後島の泊に上陸した際、南部藩の守備兵に捕らえられ、松前に護送、拘禁されました。
 ゴローニンを取り戻すために、副艦長リコルドは努力を続けましたが、交渉は難航しました。そのため、リコルドは報復として、折から国後島付近を航行中の日本船を襲い、幕府御雇船頭高田屋嘉兵衛を捕らえました。
 捕らえられた高田屋嘉兵衛は、なんとか日ロ両国の紛争を解決して和議を図ろうと努め、その奔走とあっせんによって、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換釈放がなされました。
この事件をきっかけとして、両国は国境を決めるための話し合いを始めることとなりました。
 日本国魯西亜国通好条約の調印
 1853年(嘉永6年)、ロシア皇帝ニコライ1世はプチャーチン提督に訓令を出し長崎に派遣し、幕府に対し通商を求めるとともに、樺太と千島の国境の画定を申し入れました。プチャーチン提督はその年の11月下旬まで長崎に滞在しましたが、交渉はまとまらず、翌1854年嘉永7年)に再び来航して交渉が行われましたが、それでも交渉はまとまりませんでした。
 1855年安政元年)2月、交渉の場を下田(静岡県)に移して交渉を続けた結果、ついに2月7日に「日本国魯西亜国通好条約」が調印され、日ロ間の国境が画定しました。
この条約によって、両国の国境は択捉島と得撫島の間に引かれ、択捉島から南の島々は日本の領土、得撫島から北の島々はロシアの領土と決まりました。
 しかし、樺太については、両国とも互いに主張をゆずらなかったため、従来どおり両国民の雑居地として、国境を決めないままとなりました。
 千島樺太交換条約の締結
 明治政府が誕生して新しい時代を迎えた1869年(明治2年)、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島色丹島国後島択捉島は郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日本人との間に紛争が絶えませんでした。ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。
 このような現状を打破するため、明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚特命全権大使としてロシアに派遣し、翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ外務大臣との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。
 日露講和条約ポーツマス講和条約)の調印
   ・   ・   ・   
 刀剣・日本刀の専門サイト 刀剣ワールド 日本史/合戦・武将・戦国史を知る Web日本史辞典 樺太・千島交換条約
 明治時代の重要用語
 「樺太・千島交換条約」(からふと・ちしまこうかんじょうやく)とは、1875年(明治8年)に、ロシア帝国との間で結ばれた条約です。1855年安政2年)の「日露和親条約」では、両国の国境を、択捉島(えとろふとう)・得撫島(うるっぷとう)の間に引き、樺太島(からふととう)については、両国民の雑居の地とすると定め、国境の決まりを設けていませんでした。しかし、樺太・千島交換条約により、樺太島に関するいっさいの権利をロシア帝国へ譲渡。代わりに千島列島(ちしまれっとう)を、日本が領有することが決まったのです。この日本・ロシア帝国との国境問題は、その後も様々な変遷があり、現在も「北方領土問題」(ほっぽうりょうどもんだい)として揺れています。
 目次
 樺太・千島交換条約の背景
 樺太・千島交換条約の概要
 樺太・千島交換条約のその後
 樺太・千島交換条約の背景
 松前藩による「北方四島」の統治
 日本が、北方四島国後島[くなしりとう]・択捉島色丹島[しこたんとう]・歯舞群島[はぼまいぐんとう])の存在を発見し、調査を開始したのは、ロシアよりも早く1635年(寛永12年)のこと。当時、蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた北海道に置かれた松前藩(まつまえはん)は、現在の北海道全島及び千島列島・樺太島を含む蝦夷地方の調査を行いました。
 1644年(正保元年)に江戸幕府が作成した日本地図「正保御国絵図」(しょうほおくにえず)には、「くなしり」・「えとろふ」・「うるふ」などの地名がはっきりと記載されています。そして、多くの日本人がこの地域に渡航松前藩は、17世紀初頭から北方四島の統治を徐々に確立していきました。
 一方、ロシア帝国が千島列島の探検を開始したのは、18世紀初頭以降。すでに松前藩が、択捉島、及び択捉島以南の島々に番所を置いて北方四島を統治し、外国の侵入を防ぐことを行っていたので、ロシア帝国択捉島の北にある得撫島を、自国領土の南限と認識していました。
 その後、ロシア帝国が再々この方面に進出し、地域住民との間に衝突がたびたび起こるようになると、江戸幕府は自ら北方の島々の統治へ本格的に取り組む姿勢を見せます。まず、1785年(天明5年)及び1791年(寛政3年)に「最上徳内」(もがみとくない)らを調査に派遣。
 この最上徳内は、江戸時代末期に長崎郊外に「鳴滝塾」(なるたきじゅく)を開き、日本人に最新医学を教えた「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」が最も信頼し、敬愛した日本人とされます。「間宮林蔵」(まみやりんぞう)、「近藤重蔵」(こんどうじゅうぞう)と並び、日本の北方探検に大きな役割を果たした人物です。
 特に最上徳内による蝦夷地や樺太の地図は、非常に精度の高い測量法や、豊かな天文学の知識に裏打ちされた物でした。シーボルトは、最上徳内が作成した地図を見て感嘆したと伝わります。最上徳内は、国後島から択捉島に渡り、ロシア帝国の南下状況について細部までしっかりと調査。さらに得撫島に上陸すると、得撫島より北の千島列島における現況の他、近い将来の変化に関しても推察して、江戸幕府に報告しました。
 江戸幕府は、1798年(寛政10年)には、「大日本恵登呂府」(だいにほんえとろふ)という標柱を択捉島に立て、日本の領土であることを示します。
 日露和親条約
 1855年安政2年)、伊豆国下田(いずのくにしもだ:現在の静岡県下田市)において「日露和親条約」が締結。この条約で、初めて日本とロシア帝国の国境が定められました。
 千島列島の境界は、どちら側が先に発見したかをもとに、択捉島と得撫島の間とすることを確認。つまり、日本の領土は択捉島から南、ロシア帝国の領土は得撫島から北の島々として正式に定めたのです。
 また、樺太島は引き続き、両国民の混住の地として定められました。この条約に対し日本とロシアは、平和的・友好的な形で合意しています。
 明治時代初期の日本の外交課題
 このような流れのなか、明治時代に入った日本は当初、大きく3つの外交問題を抱えていました。「欧米列強との不平等条約の改正」、「近隣外交の構築」、そして「国境の画定」です。このうち、国境の画定において最大の交渉相手が、安全保障上でも最大の脅威であったロシア帝国でした。
 樺太・千島交換条約の概要
 千島列島全域が日本領に
 樺太・千島交換条約による国境
 1875年(明治8年)に、「樺太・千島交換条約」が日本とロシア帝国の間で結ばれます。
 明治政府は、樺太島の統治にも乗り出していましたが、財政的に難があり、またロシア帝国が積極的に南下政策により、樺太島へ多くの人を移住させる行動に出ていたため、日本は樺太島を放棄し、北海道開拓に主力を注ぐべきだという意見が強まっていたのです。
 この樺太島放棄の発案者は、開拓使(かいたくし:北海道開拓の管轄を担う省庁)次官の「黒田清隆」(くろだきよたか)でした。両国民が混住する雑居の地という樺太島のあいまいな形は、両国民の間での紛争事件を発生させる要因にもなっており、この点でも何らかの解決策が求められていたのです。
 ロシア帝国との交渉にあたったのは、中露(ちゅうろ:清[17~20世紀初頭の中国王朝]・ロシア帝国)公使(こうし:大使に相当)を務めていた「榎本武揚」(えのもとたけあき)。榎本武明は、特命全権公使としてロシア帝国サンクトペテルブルクに赴き、「樺太・千島交換条約」にサインします。日本は、樺太島の権利いっさいを放棄する代わりに、それまでロシア領であった得撫島から北の島々も含め、千島列島全域を日本の領土にするということで合意したのです。
 実は、この樺太・千島交換条約には、日本に譲渡される千島列島の島名ひとつひとつが挙げられていますが、列挙されているのは、得撫島以北の18の島々であり、そこに、択捉島国後島色丹島歯舞群島北方四島の名は記載されていません。
 この事実が、日本は現在、千島列島とは明確に区別された北方四島が日本以外の領土になったことは一度もなく、日本固有の領土であることを示していると主張しています。
 樺太・千島交換条約のその後
 ポーツマス講和条約
 ポーツマス条約による国境
 1904年(明治37年)2月~1905年(明治38年)9月にかけて起こった「日露戦争」(にちろせんそう:日本とロシアとの戦争)が終わり、戦後処理として、1905年(明治38年)に日本・ロシア帝国の間で「ポーツマス講和条約」が結ばれます。
 このポーツマス講和条約では、日本は、樺太(サハリン)の北緯50度以南をロシアから割譲されることになりました。
 これにより、1905~1945年(明治38年~昭和20年)までは、北緯50度線を境に、樺太島の南半分を「樺太」として日本が、北半分を「サハリン」としてロシア帝国、及びソビエト連邦が領有することになったのです。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 樺太・千島交換条約は、1875年(明治8年)5月7日に日本とロシア帝国との間で1854年の日露通好条約で雑居・共有としていた樺太(サハリン)で頻発していた日露両国人の紛争を無くすために国境を確定させた条約。樺太に対する日本の領有権と当時のロシア領千島列島(北千島列島)とを交換した内容であり、サンクトペテルブルクで署名され、同年8月22日に東京にて批准され締約された。
 千島・樺太交換条約や、サハリンクリル交換条約、クリルサハリン交換条約、署名した場所からとってサンクトペテルブルク条約(英: Treaty of Saint Petersburg、露: Санкт-Петербургский договор 1875 года)と呼ぶ場合もある。
 概要
 日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島と得撫島との間に定められたが、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地とされた。
 1856年(安政2年)にクリミア戦争終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、得撫島から温禰古丹島(オネコタン島)までの千島列島と交換に、樺太をロシア領とすることを建言した。徳川幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、慶応2年(1867年)、石川利政と小出秀実をペテルブルクに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太はこれまで通りとされた(日露間樺太島仮規則)。これにより幕府とロシアは競うように樺太に大量の移民を送り込みはじめたので、現地は日本人、ロシア人、アイヌ人の三者間の摩擦が増えて不穏な情勢になった。
 日露間樺太島仮規則では、樺太に国境を定めることができなかったため、明治に入っても、日露両国の紛争が頻発した。こうした事態に対して、日本政府内では、樺太全島の領有ないし樺太島を南北に区分し、両国民の住み分けを求める副島種臣外務卿の意見と、「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」とする樺太放棄論を掲げる黒田清隆開拓次官の2つの意見が存在していた。その後、副島が征韓論で下野することなどにより、黒田らの樺太放棄論が明治政府内部で優勢となった。
 樺太と千島列島の領有交換
 明治7年(1874年)3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚サンクトペテルブルクに赴いた。榎本とピョートル・ストレモウホフ)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められ、その結果、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結した。
 アイヌ民族の処遇・国籍
 一方で、北海道や樺太および千島列島における先住民であったアイヌのうち樺太及び千島列島に居住していたアイヌは、この条約によって3年以内に自身の国籍について日本国籍かロシア国籍かを選ぶことを強要された。さらに国籍と居住国が異なる場合、居住国を退去して国籍と一致する国の領土へ移住することを余儀なくされた。
 この条約の附録の第四条には、次のように記載されている。
 {樺太島及クリル島に在る土人は現に住する所の地に永住し且其儘現領主の臣民たるの権なし故に若し其自己の政府の臣民足らんことを欲すれば其居住の地を去り其領主に属する土地に赴くべし。又其儘在来し地に永住を願はば其の籍を改むべし。各政府は土人去就決心の為め此条約附録を右土人に達する日より三カ年の猶予を与へ置くべし。…}
 これにより、南樺太および千島列島に住んでいたアイヌの運命が、当人たちの意図を無視して一方的に決定された。いずれの選択肢も大きな犠牲をともなうものであった。
 一例として、ロシアとの結び付きが強かった千島列島北部に住んでいたアイヌは、従来の生活基盤を重視してロシア国籍を選ぶとすると、現在住んでいる土地(千島列島すなわち日本領)を捨ててロシア領へ移住しなければならなかった。逆に彼らが日本国籍を選ぶならば故郷を捨てずに済むものの、ロシア領との往来は困難となるため、これまでのロシア方面との交易といった生活様式を根本的に変えなければならなかった。
   ・   ・   ・   

🐇5:─1─コロナ禍で急加速した日本社会の老化。直面する厳しすぎる現実。~No.5 

  ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年2月1日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「コロナ禍で急加速した「日本社会の老化」…これからこの国が直面する「厳しすぎる現実」
 人口減少日本で何が起こるのか――。意外なことに、多くの人がこの問題について、本当の意味で理解していない。そして、どう変わればいいのか、明確な答えを持っていない。
 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い
 100万部突破の『未来の年表』シリーズの『未来のドリル』は、コロナ禍が加速させた日本の少子化の実態をありありと描き出している。この国の「社会の老化」はこんなにも進んでいた……。
 ※本記事は『未来のドリル』から抜粋・編集したものです。また、本書は2021
年に上梓された本であり、示されているデータは当時のものです。
 日本の弱点を突かれた
 年間出生数の推移と予測
 新型コロナウイルス感染症パンデミック(世界的な大流行)によって社会が大きく変貌したことは、誰もが知る「常識」である。だが、コロナ禍で見えた本質的な課題を分かっている日本人は、いったいどれくらいいるだろうか? 
 感染拡大に伴って、マスクやアルコール消毒、ソーシャルディスタンス(社会的距離)などが、すっかりニューノーマル(新常態)となった。テレワークが普及して在宅勤務も珍しくなくなった。外国人の姿はめっきり減り、オフィスの縮小や飲食店の廃業など、中心市街地はその姿をどんどん変えた。
 世の中は大騒ぎしているが、こうした“小さな変化”の多くは一過性で終わるだろう。感染が収束し、マスクなしで気兼ねなく外出できる日常が戻ったら、元通りとなる。
そもそも、コロナ禍をきっかけに目の前に現れた変化のほとんどは、新たに起きたことではない。「コロナ前」から日本の弱点であった。コロナ禍はそこを突き、「積年の宿題」をあぶり出したのである。それを放置すれば日本が行き着く「由々しき近未来」を予告編のように見せ、一気に時間を進めたと理解すべきなのである。
 コロナ禍が残した最大の爪痕は、少子高齢化とそれに伴う人口減少の悪化であった。いわずと知れた、わが国一番の国難だ。コロナ禍がこれに与えた影響は、“一過性の変化”とはいかない。深刻さの度合いが違い過ぎる。
 それはまず、婚姻件数の激減という形で始まった。厚生労働省の人口動態統計月報(概数)で2020年1~11月を見ると、前年同期間比で12.3%減った。婚姻件数の落ち込みは、出生数の減少に直結する。すなわち人口減少だ。出生数減少の流れは2021年に入っても続いている。人口動態統計速報で1~3月を「コロナ前」であった2020年の1~3月と比べてみると、驚くことに9.2%下落したのだ。
 こんなペースが続いていけば、2021年の年間出生数の大暴落に続き、2022年は、少子化が従来の想定より四半世紀も前倒しされる可能性が出てくる。そんなことが現実になったら、日本社会は取り返しのつかないダメージを被ることになる。
日本社会の深層にある「老化」
 もう1つ、コロナ禍があぶり出した人口減少の難題がある。
 コロナ禍においては、「ワクチン敗戦国」と言われるほど日本政府の対処能力の低さが露呈した。ワクチン以外でもデジタル化の遅れ、世界一の病床数を誇りながらの医療崩壊、ザルのような水際対策、いつまでも拡充されないPCR検査など枚挙にいとまがない。“国家としての衰え”を感じた人も多かったことだろう。
 「国民はみずからの程度に応じた政治しかもちえない」(松下幸之助)とも言うように、政府の失態は日本社会の姿を映し出しているわけだが、もう1つの難題とは、なぜ日本がここまで落ちぶれてしまったのか、その理由にある。日本社会の深層にある「老化」だ。
 「社会の老化」と呼ぼう。それは、少子高齢化の行きつく先である。質の悪い「国家の病巣」とも言うべきものだ。すべての年代の人々の思考を守勢に追い込み、“無難な道”を選ばせていく。挑戦する気力を吸い取ってしまう“邪気”だ。
 出生数の減少が直接的に日本社会を破滅へ導くとすれば、「社会の老化」は真綿で首を締めるように、内側から崩壊させる。国民の目に見えづらいぶん、「社会の老化」のほうが厄介で、影響の及ぶ範囲が広い。
 「社会の老化」が起きるのは、国民が歳を取ったからである。と言っても、単に高齢者が増えたということではなく、あらゆる場面において平均年齢が高くなっているということだ。かつてならもっと若い世代が担っていたポジションや役割に、ベテランが就いている例は少なくないだろう。どうしても“慣れ”が生じ、発想が硬直化してしまうのである。
 「社会の老化」は平時にはあまり意識されることはないが、コロナ禍のような社会全体に非常に大きなストレスがかかる局面で表面化しやすい。
 「社会の老化」はまず「高齢者の消失」として現れた。消失といっても死亡者数が増えたという話ではない(むしろ、インフルエンザによる死亡数が7割減るなどして、2020年の国内死亡数は11年ぶりに減少した)。
 感染を極度に恐れて自宅に閉じ籠もりがちとなった高齢者が少なくなかったのだ。自主的に通所介護サービスの利用を控える人も相次ぎ、1週間に1回程度の買い物以外は自宅で過ごしているといった極端なケースまで見られた。
 一度染みついた高齢者の恐怖心は、簡単には払拭されない。新型コロナウイルス感染症が収束したとしてもウイルスそのものが消えてなくなるわけではなく、高齢者の消費マインドがどこまで戻るかは分からない。現在の高齢者数は3600万人余であり、仮に消費額が平均で1割減ったならば、マーケットが360万人分縮むようなものだ。
 河合 雅司(作家・ジャーナリスト)
   ・   ・   ・   

🐇4:─1─日本が衰退した原因は「経営」を忘れたからである。「厳しい現実」~No.4 

    ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年1月17日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「なぜ日本はここまで「衰退」してしまったのか…「経営」を忘れ去った国の「厳しい現実」
 なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか? 張り紙が増えると事故も増える理由とは? 飲み残しを放置する夫は経営が下手? 
 注目の新刊『世界は経営でできている』では、東京大学史上初の経営学博士が「人生がうまくいかない理由」を、日常・人生にころがる「経営の失敗」に見ていく。
 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い
 経営ってなんだろう
 〈結論を先取りすれば、本来の経営は「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だ。
 この経営概念の下では誰もが人生を経営する当事者となる。
 幸せを求めない人間も、生まれてから死ぬまで一切他者と関わらない人間も存在しないからだ。他者から何かを奪って自分だけが幸せになることも、自分を疲弊させながら他者のために生きるのも、どちらも間違いである。「倫」理的な間違いではなく「論」理的な間違いだ。〉(『世界は経営でできている』より)
 『世界は経営でできている』では、こうした意味での「経営」が世の中に不足していることを一貫して指摘する。
 だから、人生に不条理と不合理がもたらされ続けてしまうし、個人も社会も豊かになれないというのだ。
 「あらゆるものは創造できる」という視点
 経営概念が変わらないままで、具体的にどのようなことが起こるのか。
 たとえば、「会社役員の「営業成績が平均未満の人間はクビ」発言が「決定的に間違っているワケ」」では仕事における不条理について、「塩分我慢からの「油多めラーメン」爆食い…不健康な人が陥りがちな「シンプルな間違い」」では健康における経営の失敗がもたらすことを書いている。
 ただ、現在では経営ときいて、冒頭に述べたような「価値創造という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げるさまざまな対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だという人はほとんどいなくなった。
 〈人生のさまざまな場面において、経営の欠如は、目的と手段の転倒、手段の過大化、手段による目的の阻害……など数多くの陥穽をもたらす。
 その理由は、「あらゆるものは創造できる」という視点をもたないと、単なる手段であるはずのものが希少に思えてしまい、手段に振り回されるからである。
 日本において本来の経営が急速に失われたのも、平成時代の円高とデフレによって、ただの手段のはずの金銭の価値が高まり、金銭という手段に振り回され、目的であるはずの人間の共同体をなおざりにしたからだ。
 経営を忘れた社会が発展するはずもない。その結果、不況がさらに価値有限思考を強めるという負の連鎖から抜け出せなくなってしまっていた。
 だが、令和時代は、円安とインフレという高度経済成長期型の経済に戻りつつある。「金銭よりも人材の不足が経営に危機をもたらす」という実感も広がっている。経営概念の再転換はまさに今日的課題だ。〉(『世界は経営でできている』より)
 つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。
   ・   ・   ・   

🎷116:─1─国の衰退が明らかでも日本人の「平和ボケ」は今も健在。~No.437No.438 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
2024-02-05
⏱20:ー3ー日本のエリート学生が「まるで中国政府のスポークスパーソン」~No.61 
   ・   ・   ・   
 東京大学法学部学生「憲法九条を盾に日本は『戦争をしません』といって白旗をあげればよい。そうした方が物理的な被害も少ない。国をうしなう事になるが、それでも構わない」
   ・   ・   ・  
 中国共産党は、日本に対して「孫子の兵法」を仕掛け、日本を親中派媚中派、反米派・反安保派を利用して内部から崩壊させようとしている。
   ・   ・   ・   
 日本を動かしているのは、超難関校を優秀な成績で卒業した高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達である。
 彼等が、エセ保守やリベラル左派で、メディアや教育で活動している。
   ・   ・   ・   
 左傾化した日本の大学では言論弾圧が行われ、リベラル左派学生は中国・北朝鮮・韓国に対する批判討論会を威圧で潰している。
 日本人青年の間で、反宗教無神論・反天皇反民族反日が浸透している。
   ・   ・   ・   
 問い、日本がウクライナと同じ状況になったら戦いますか、戦いませんか。
 約500人の大学生の回答、88.9%が「戦わない」と回答。
 「戦わない、なぜなら自分の命が惜しいから。もしそんな事が起きたら他国に逃げると思う。安全な場所に行こうと思う」
   ・   ・   ・    
 2024年3月17日9:00 YAHOO!JAPANニュース ABEMA クーリエ・ジャポン「国が衰退しているのは明らか─それでも日本人の「平和ボケ」はいまも健在
 観光客が戻ってきた日本 Photo: Andrew Faulk/The New York Times
 進む少子高齢化、成長しないどころか後退しはじめた経済、そして頼りにならない政府──そんな危機迫る状況にもかかわらず、なぜか日本国民は落ち着いているようだ。その“不思議”を米紙「ニューヨーク・タイムズ」が解説する。
 【画像】問題は山積みでも、それを気にしない日本人
 数十年間ほとんど成長をみなかった景気が、いまや後退段階に。減り続ける人口、昨年の出生数は過去最低。政治が硬直しているように思われるのは、事実上権力を握っているのが一党であり、どれほどスキャンダルまみれになろうと、不支持率が高まろうと、その状況に変わりがないからだ。
 でも、ご心配なく。ここは日本、悪い情報はすべて相対的なものだ。
 まあ見てみよう。日本みたいな現状ならば、社会的荒廃の兆候、たとえばゴミの散乱、路面の穴ぼこ、ピケライン(ストやデモの際に張る監視線)等々を想像するだろうが、それはまず見当たらない。安定ぶりとまとまりの良さはいまも驚くほどで、破滅が差し迫っている感じはほとんどない。
 この平穏さは、ことなかれ主義の表れである。「しょうがない」というのが、国民の口癖のようなものなのだ。
 日本人が無頓着である理由はわかりやすい。失業率は低く、電車は時間通りに運行し、春になれば桜が咲く。神社やショッピング街は旅行客であふれ、株式市場は史上最高値を更新した。いくぶんのインフレはあったが、ラーメンなら一杯7ドル(約1000円)以下で食べられるし、おかずが複数ある定食でも12ドル(約1700円)ほどだ。
 住宅事情は東京でさえも概して手頃だし、国民皆保険制度もある。犯罪件数も少ない。2022年のデータでは、銃による殺人事件は日本全国でたった4件。スマホをレストランに置いてきてしまっても、戻ればおそらくまだそこにあるだろう。
 「いまの生活状況には、かなり満足しています」
 クラシックの打楽器奏者ツジモト・チヒロ(26)はそう話す。彼は調布にある映画館から妹と一緒に出てきたところだった。日本人は「諦めてしまっていて、自分の生活が充実して健全である限りは、結構幸せ」なのだとツジモトは説明する。「日本は平和ですから」とツジモトは続ける。
 「若い世代は、『自分の国を変えなくては』とは思わないのです」
 この穏やかな凪のような感じは、国外の情勢が戦争や社会問題に苦しんでいることでより一層強まっている。
 「私はよく出張で米国やヨーロッパに行くのですが、移民や犯罪率の高さ、暴動といった問題を抱える他国に比べて、日本の社会や体制はすごく安定していると思います」
 そう語るのは化学メーカー勤務のミワ・ヒサシ(65)で、世田谷にトイレットペーパーを買いにきていた。
 とはいえ、穏やかな表面の下には数多くの問題が巣くっている。仕事熱心で同調圧力の強い文化が根づく日本は、SDSN(国連持続可能な開発ソリューション・ネットワーク)の調査によれば、先進国のなかでもっとも幸福度の低い国だというし、自殺の多さも大きな問題だ。
 ジェンダー不平等は根深くて状況はなかなか改善せず、豊かな国のなかでは一人親家庭貧困率がトップクラスである。田舎では急速に過疎化が進み、高齢化で年金や介護の負担はこれから徐々に増していくだろう。
 2025年には5人に1人が75歳以上となる予定にもかかわらず、移民の受け入れに苦労しているこの国では、労働力不足も次第に露呈するだろう。実際すでに、日本が誇る制度のいくつかに綻びが生じている。
 「郵便の到着に4、5日かかります」
 郵便サービスについてこう話すのは、慶応大学総合政策学部の白井さゆり教授だ。以前は多くの場合1日あれば確実に届いていたのだ。
 またケーブルテレビやそのほか公益サービスに何か問題があって、電話で問い合わせしたくても「もう電話による受け付けはやってない」。
 「サービスの質は、もうそれほど良くありません」
 ところが、こういう不便さにいらだちを覚えることはあっても、切迫した社会的崩壊の兆候にはつながっていない。とはいえ、第二次世界大戦後の数十年間で瞬く間に豊かな国となった日本はいま、ほとんど気づかれないほどゆっくりと衰退しつつある。
 Motoko Rich, Hisako Ueno and Kiuko Notoya
   ・   ・   ・   
 3月17日9:00 YAHOO!JAPANニュース ABEMA クーリエ・ジャポン「どうしてそんなに無頓着?
 国が衰退しているのは明らか─それでも日本人の「平和ボケ」はいまも健在
 観光客が戻ってきた日本 Photo: Andrew Faulk/The New York Times
 ニューヨーク・タイムズ(米国)ニューヨーク・タイムズ(米国)
 Text by Motoko Rich, Hisako Ueno and Kiuko Notoya
 進む少子高齢化、成長しないどころか後退しはじめた経済、そして頼りにならない政府──そんな危機迫る状況にもかかわらず、なぜか日本国民は落ち着いているようだ。その“不思議”を米紙「ニューヨーク・タイムズ」が解説する。
 数十年間ほとんど成長をみなかった景気が、いまや後退段階に。減り続ける人口、昨年の出生数は過去最低。政治が硬直しているように思われるのは、事実上権力を握っているのが一党であり、どれほどスキャンダルまみれになろうと、不支持率が高まろうと、その状況に変わりがないからだ。
 でも、ご心配なく。ここは日本、悪い情報はすべて相対的なものだ。
 まあ見てみよう。日本みたいな現状ならば、社会的荒廃の兆候、たとえばゴミの散乱、路面の穴ぼこ、ピケライン(ストやデモの際に張る監視線)等々を想像するだろうが、それはまず見当たらない。安定ぶりとまとまりの良さはいまも驚くほどで、破滅が差し迫っている感じはほとんどない。
 この平穏さは、ことなかれ主義の表れである。「しょうがない」というのが、国民の口癖のようなものなのだ。
 日本人が無頓着である理由はわかりやすい。失業率は低く、電車は時間通りに運行し、春になれば桜が咲く。神社やショッピング街は旅行客であふれ、株式市場は史上最高値を更新した。いくぶんのインフレはあったが、ラーメンなら一杯7ドル(約1000円)以下で食べられるし、おかずが複数ある定食でも12ドル(約1700円)ほどだ。
 住宅事情は東京でさえも概して手頃だし、国民皆保険制度もある。犯罪件数も少ない。2022年のデータでは、銃による殺人事件は日本全国でたった4件。スマホをレストランに置いてきてしまっても、戻ればおそらくまだそこにあるだろう。
 「いまの生活状況には、かなり満足しています」
 クラシックの打楽器奏者ツジモト・チヒロ(26)はそう話す。彼は調布にある映画館から妹と一緒に出てきたところだった。日本人は「諦めてしまっていて、自分の生活が充実して健全である限りは、結構幸せ」なのだとツジモトは説明する。「日本は平和ですから」とツジモトは続ける。
 「若い世代は、『自分の国を変えなくては』とは思わないのです」
 この穏やかな凪のような感じは、国外の情勢が戦争や社会問題に苦しんでいることでより一層強まっている。
 「私はよく出張で米国やヨーロッパに行くのですが、移民や犯罪率の高さ、暴動といった問題を抱える他国に比べて、日本の社会や体制はすごく安定していると思います」
 そう語るのは化学メーカー勤務のミワ・ヒサシ(65)で、世田谷にトイレットペーパーを買いにきていた。
 英紙「物価高のなか、日本のサラリーマンは『激安ランチ』を食べている」
 とはいえ、穏やかな表面の下には数多くの問題が巣くっている。仕事熱心で同調圧力の強い文化が根づく日本は、SDSN(国連持続可能な開発ソリューション・ネットワーク)の調査によれば、先進国のなかでもっとも幸福度の低い国だというし、自殺の多さも大きな問題だ。
 ジェンダー不平等は根深くて状況はなかなか改善せず、豊かな国のなかでは一人親家庭貧困率がトップクラスである。田舎では急速に過疎化が進み、高齢化で年金や介護の負担はこれから徐々に増していくだろう。
 日本
 出生率は下がり続けるばかり Photo: Haruka Sakaguchi/The New York Times
 2025年には5人に1人が75歳以上となる予定にもかかわらず、移民の受け入れに苦労しているこの国では、労働力不足も次第に露呈するだろう。実際すでに、日本が誇る制度のいくつかに綻びが生じている。
 「郵便の到着に4、5日かかります」
 郵便サービスについてこう話すのは、慶応大学総合政策学部の白井さゆり教授だ。以前は多くの場合1日あれば確実に届いていたのだ。
 またケーブルテレビやそのほか公益サービスに何か問題があって、電話で問い合わせしたくても「もう電話による受け付けはやってない」。
 「サービスの質は、もうそれほど良くありません」
 ところが、こういう不便さにいらだちを覚えることはあっても、切迫した社会的崩壊の兆候にはつながっていない。とはいえ、第二次世界大戦後の数十年間で瞬く間に豊かな国となった日本はいま、ほとんど気づかれないほどゆっくりと衰退しつつある。
 なぜ彼らは日本を「捨てる」のか? 海外就職を目指す若者たちの本音
 政府に不満があっても気にしない
 2023年の名目GDPがドイツに抜かれていまや世界第4位となった経済は、「上昇しては下降する」を繰り返しているものの、世界最高水準の債務残高を抱えつつ概ね切り抜けている。人口は年に約0.5%ずつ減少しているが、東京はいまも世界トップクラスで人口密度が高い都市だし、人気のドーナツをゲットするために人々は1時間も並ぶし、一流レストランなら数週間前の予約が必須だ。首相が次々と交代しようとも、彼らは所詮、置き換え可能な「現状維持の使者」にすぎない。
 「誰もが迫りくるものについてある程度はわかっていると思いますが、そのスピードがあまりにも緩慢なので、大々的な変革を唱道(しょうどう)することは大変難しいのです」
 早稲田大学政治学を教える中林美恵子教授はこう述べる。日本は大改革が必要だと考える人でさえ諦めモードだ。
 「日本人はもうちょっと賢いと思っていたけど、かつては一流と言われた日本経済もいまや二流、三流。政府ときたらたぶん、四流か五流でもないですね」というのが、横浜駅の近くを歩いていた元ホテルマンのベップ・フチ(76)の意見だった。
 「子供や孫が気の毒だし、その未来も、です」と彼は言う。「結局は民主主義ですから、政府のレベルは、市民のレベルを反映しているんです」
 日本
 いまの若者に国を変えようという意欲はない Photo: Andrew Faulk/The New York Times
 その政府だが、戦後はほぼ一貫して自由民主党が率いてきた。
 現在、同党の不支持率は非常に高く、新聞の世論調査によれば1947年以来最高だという。だが、たとえ国民が自民党に不満を持つようになっても、基本的には「自分がまあまあやっていけて、毎日の生活がそれほど悪くない限りは、あまり気にしません」と、笹川平和財団の上席研究員・渡部恒雄は言う。
 「だから自民党政治は非常に安定しているのです」
 現在の不支持率は、裏金問題への国民の怒りが反映されている。だが、日本のメディアが暴いたこのスキャンダルは秘密の部分が多すぎて、一般社会が詳細まで掘り下げるのはほぼ不可能だ。
 関連する記事が出はじめたのは2023年の晩秋のこと。自民党内部のいくつかの派閥が政治資金集めのパーティ券の売り上げに関し、報告すべき金額を記載していなかったという。数件の事例では、国会議員がその売り上げからキックバックを受けたようで、検察は3人の議員を政治資金規正法違反で立件した。
 しかし、政治家たちのとんでもない汚職を告発してきたほかの国々とは違い、日本のメディアが掘り出してきた証拠は、選挙戦での贈答品や会食といった、比較的穏当なものばかりだった。報道によれば、自著数千部を含めた書籍購入に政治資金を充当した議員がいるという。
 野党の足並みが揃わないなか、自民党は今回もまた切り抜ける可能性が高そうだ。理由はひとつ。有権者が本気で関与しないからだ。
 「自分が住んでいる街の市長が誰か知りませんし、あんまりニュースも見ません」と、打楽器奏者のツジモトは言う。
 「僕がネットで見るニュースといったら、動物園の赤ちゃん誕生のニュースなどですね」
 © 2024 The New York Times Company
   ・   ・   ・   

〖目次〗貼り付ける記事。:皇位継承と人口激減の原因はアメリカ大統領の道徳エゴであった。令和6年版。

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

2024-04-07
🎺04:─2─人種改良論者のF・ルーズベルトが日本を戦争へと追い込んだ。~No.19No.20  

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

2024-03-02
🎷64:─2─戦後レジームとは日本の人口を減らす為の人口抑制計画の事であった。~No.287 
   ・   ・   ・   
 日本の人口激減は、アメリカ・ソ連そして国連が仕組んだ罠であった。
 戦後レジームとは、日本の九条憲法と国連の敵国条項である。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 
 
 ルーズベルトが日本人の上に原爆を落とす事にこだわったのには理由があった。
   ・   ・   ・   
2024-03-10
🎺40:─3・B─1944年9月 ハイドパーク協定。原爆を「日本人に対して使う」秘密合意。~No.179No.180No.181 
   ・   ・   ・   
 (ハイドパーク覚書原文より)
 The matter should continue to be regarded as of the utmost secrecy; but when a "bomb" is finally available, it might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.
 (日本語訳)
 この問題は、極秘にし続けるべきものである。しかし「爆弾」が最終的に使用可能になったときには、おそらく、熟慮の後にだが、日本人に対して使用していいだろう。日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない。
   ・   ・   ・   
 ルーズベルトチャーチル - 確認の際によく指摘される項目
 https://www.amazon.co.jp>reviews-render>lighthouse
 ... 人の愛人を持った。真珠湾攻撃で失った3000人の若者の命など気にも留めなかった。簡単に洗脳され「ドイツ人、日本人を絶滅させ、民族浄化させる」と本気で考えた。議会 ...
    ・   ・   ・   
 裏切られた自由 - 確認の際によく指摘される項目
 https://www.amazon.co.jp>reviews-render>lighthouse
 簡単に洗脳され「ドイツ人、日本人を絶滅させ、民族浄化させる」と本気で考えた。 ... 渡辺惣樹氏は、フランクリン・デラノ・ルーズベルト( FDR)大統領の前の大統領で ...
   ・   ・    ・   
 ヒトラーは戦争を欲したか?--1939年9月1日の「開戦 ...
 http://www.asyura2.com>reki02>msg
 2013/9/1 -... させ、空白になった土地にドイツ人を入植させる。こういうものだった ... 日本人を狙った民族浄化は、かなり露骨になっているのに、何故か気付い ...
   ・   ・   ・   
 日本の人口激減は、ルーズベルトの対日強硬策を実行したGHQと敗戦利得者であるエセ保守・リベラル左派が計画的に起こした悪質な現象であった。
 戦後民主主義教育で生み出されたメディアと教育は、日本人を無能化するべく子供を洗脳した。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 ハイドパーク協定
 1944(昭和19)年9月18日
 フランクリン・ルーズベルト米大統領ウィンストン・チャーチル英首相が米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆投下と将来の核管理について申し合わせた秘密協定
 1972(昭和47)年に初めて公開された
 ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸でルーズベルトと会談した英国のロナルド・キャンベル大使がルーズベルトから「劣等アジア人種」の品種改良というとんでもない提案を受けたと本国に宛てた書簡に書き残している。
 「インド系、あるいはユーラシア系とアジア系を、さらにはヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 
 
2018-12-26
🎺54:─1・A─アメリカは、二種類の原爆投下実験と稲作地帯への枯葉剤散布を計画していた。1945年8月~No.259No.260No.261 @ 
2024-03-15
🎺54:─1・B─幻の日本に対する枯葉剤散布作戦。全国各地の国有林に埋められた化学兵器。~No.259No.260No.261 

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 
 
 減少する日本人は、日本民族であって日本国民ではない。
 外国人移民に日本国籍を与えれば、日本人は減る事なくむしろ日本人は増える。
 現代日本人は、民族主義を嫌い、日本民族への愛着はない。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 
 
人口爆発。多産少死。
2018-03-14
🍙3〗4〗─1─国際連盟は、人口爆発を続ける日本で飢饉が発生する恐れがあると警告を発した。昭和元(1926)年。~No.8No.9No.10No.11No.12No.13・ @ 
2018-03-08
🍙7〗─2─太平洋戦争の原因は昭和5年~16年までの人口爆発と食糧緊急輸入に対するアメリカの経済制裁であった。~No.23No.24No.25・ @ ③
2018-04-11
🍙21〗─4─昭和16年6月 戦争回避を目的とした幻の「ニューギニア島日本売却」提案。~No.101No.102No.103・ @
2018-04-15
🍙21〗─8─ルーズベルトは、軍国日本に戦死か、餓死か、奴隷の如く土下座するかの選択肢を突き付けた。昭和16年11月~No.112No.113No.114・ @ 
2018-05-13
🍙29〗─1─アメリカは、極東委員会の対日食糧輸出不要論に従い飢餓状態にある日本への食糧輸出禁止を回答した。・昭和21年~No.187No.188No.189・ @ 
2018-05-02
🍙33〗─2─日本の自由・民主化改革や平和憲法制定はルーズベルトの遺志であった。日本難民救済会とララ物資。~No.211・ @ 
   ・   ・   ・   
2018-12-31
🎺55:─1─日本民族は、「国體」を死守する為に一億総玉砕を誓った。~No.272No.273・ @ 
2019-01-01
🎺57:─1─アメリカ軍は、3発目の原爆は10月中旬頃と報告した。昭和天皇の「聖断」。 関東軍最後の戦い。1945年8月10日~No.277No.278No.279・ @ 
2019-01-04
🎺58:─1─涙の聖断。昭和天皇は戦争を嫌う平和主義者であり、数多くの人道貢献を行った。~No.286No.287No.288・ @ 
2019-01-05
🎺59:─1─昭和天皇の聖断が、日本人を共産主義者の虐殺から救った。1945年8月16日~No.289No.290No.291・ @ ㊳
2019-01-07
🎺64:─1─ソ連は、日本領北方領土を占領し、北海道の強奪する事を決定した。1945年8月19日~No.303No.304No.305・ @ 
2022-06-10
🎺65:─1─日本陸軍の抵抗がなければ日本は分断国家になっていた。~No.306No.307No.308 ㊶ 
2019-01-09
🎺68:─2─アメリカの国民とユダヤ人は、懲罰として、昭和天皇の極刑(死刑)と天皇制度の廃絶を望んだ。1945年9月16日~No.317No.318No.319No.320・ @
2019-01-10
🎺69:─1─GHQは日本人洗脳ラジオ放送を始める。キリスト教史観とマルクス主義史観による日本犯罪教育。1945年11月~No.321No.322No.323・ @ 
2023-09-14
🎺70:─1─GHQWGIPで日本人に戦争贖罪意識を植え付け戦犯国の汚名を刻み込んだ。~No.324 
2019-05-16
🎺74:─1─アメリカの対日政策は、昭和天皇天皇制度を利用するが皇室は消滅させる事でった。〜No.335No.336No.337・ ㊺
2019-09-27
🎺77:─1─敗戦後の日本人は、反抗も抵抗もせず占領軍・GHQに媚び諂った。〜No.344No.345No.346
2021-02-12
🎺78:─1─1945年12月、GHQによるに教員組合の結成を指令。日本教職員組合日教組)。〜No.347No.348No.349 ㊼ 
2019-01-19
🎺81:─3─日本国憲法占領政策基本法)制定。憲法の主権は、日本国民ではなく実はアメリカ政府とアメリカ企業であった。1946年7月~No.362No.363・ @ 
2019-01-23
🎺87:─1─戦勝国の特権。日本占領軍兵士による強姦・殺人・強奪などの犯罪は無罪。~No.384No.385No.386・ @ (55)
   ・   ・   ・ 
人口激減。少産多死。
 2018-05-03
🍙34〗─1─静かな有事。人口激減は、GHQが押しつけた占領政策日本国憲法産児制限優生保護法が原因であった。~No.214No.215No.216・ @ 
2018-05-06
🍙34〗─2─GHQの人口抑制策は反天皇反日ユダヤ人と日本人共産主義者の仕掛けた罠であった。~No.217No.218No.219・ @ 
2018-05-08
🍙34〗─3─ルーズベルト日本民族絶滅方針とGHQの日本人口減少政策。加藤シズエと優生保護法。サンガー。~No.220No.221No.222・ @ 
2018-05-10
🍙34〗─4─アメリカ・GHQの対日占領政策の置き土産。母体保護法優生保護法。~No.223No.224No.225・ 
2018-05-24
🍙34〗─5─人口抑制と優生保護法成立に資金を提供した米富豪クラレンス・ギャンブル。優生保護法が日本人女性を救った。~No226No.227No.228・ @ 
2021-03-13
🍙34〗─6─GHQは優生思想で日本民族を減少させる人口政策を行った。~No.229No.230No.231・ 
2021-06-13
🍙34〗─7─GHQ対日占領政策における経済民主化とは、日本経済の弱体化・無力化である。~No.232・ 
2022-06-22
🍙34〗─8─日本の少子化と人口激減はGHQと加藤シヅエが原因の人災。~No.233 
2023-04-25
🍙34〗─9─「子供は二人まで」宣言。国・政府、メディア、教育が少子化を推進した。~No.234
2018-06-24
🍙50〗─1─人口爆発で食糧危機を進化して回避する。~No.277No,278No.279・ @ 
2021-02-01
🍙51〗─1─人口減少の出生抑制は正しい選択であった。人口激減の始まり。昭和49年。~No.283・ 
   ・   ・   ・   
2024-03-06
🍘48〗ー1ー人口戦略会議「2100年に人口8000万人維持」。2023年の出生数75万人で減少加速。~No.145 

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 日本を襲う陰謀論、文化マルクス主義者(リベラル左派)の陰謀、中国共産党媚中派)の陰謀、レーニンの亡霊(レーニン崇拝者)。
   ・   ・   ・   
 ソ連コミンテルンの27年テーズ、32年テーゼ。
 日本国内に潜む、反宗教無神論・反天皇反民族反日マルクス主義エセ保守。
   ・   ・   ・   
 レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党日本共産党ディレクションした。
 スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪しようとした。
 中国共産党は、レーニンスターリンの指示に従って軍国日本を対米戦争に追い込むべく、中国在住の日本人を虐殺していた。
 当時の日本人は、戦争を嫌い争う事を避ける現代の日本人とは違い、中国人の非人道的残虐行為に激怒し、惨殺された日本人の復讐・報復を政府や軍部に求めた。
   ・   ・   ・   
 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 現代日本の人口激減は作られた人為的現象で、自然現象ではなく、明らかなエビデンス、科学的根拠が存在している。
   ・   ・   ・   
 明治の近代化によって人口爆発期に突入し、明治元(1868年)年の3,455万人が昭和20年(1945年)の7,281万人に増加した。77年間で3,826万人、1年間で約50万人と増えた。
 63年後の平成20(2008)年には総人口が1億2,808万人に達した。63年間で5,527万人、1年間で88万人と増えた。
 日本の総人口は、140年間で9,353万人増加した。1年間で約67万人。
 人口爆発は多産少死で、若者が多く老人が少ない時代である。
   ・   ・   ・   
 日本の国内食糧生産で養える人口は約6,000万人で、昭和15年には約1,000万人が潜在的飢餓民となっていたが、仏印(現ベトナム)から外米を輸入して食糧危機を回避していた。
 外米を購入するに必要だったのは、在米日本資産・米ドルであり、食糧輸送船を動かす為に石油であった。
 日本を追い詰める最善の方法が、資産凍結と石油禁輸であった。
 異常気象で凶作が発生し外米を輸入できなくなれば、飢餓は顕在化して、国内で餓死者が出る怖れがあった。
 敗戦で東南アジアから外米を輸入できなると、東京・名古屋・大阪などの消費都市部で数千人の戦災孤児が餓死していた。
   ・   ・   ・   
 人口爆発期とは、老人が少なく若者が多い時代で、未来は明るく、子供達は夢や希望を抱い生きていた。
   ・   ・   ・   
 日本政府は、人口爆発で増えた余剰人口を解消する為に貧困層を海外移住で解消しようとした。
 アメリカは、国内に日本人移民が急増した為に人種差別的日本人排斥運動を始めた。
 中国や朝鮮では、アメリカの日本人排斥運動やソ連の敵日行動に連動して抗日運動が燎原の火のように広がっていった。
 そして、日本人の共産主義者無政府主義者テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
   ・   ・   ・   
 親中国反日ルーズベルトは、日本の総人口を減らす為に軍国日本を戦争へと追い込む為に、嫌日派スチムソンの対日強硬策を採用して実行した。
 アメリカ政府は、正規兵をボランティア部隊としてファシスト中国(国民党)軍に派遣して日中戦争に参戦した。
 アメリカ軍による日本の女性や子供を生きたまま焼き殺す無差別絨毯爆撃や原爆投下実験は、科学的人口削減の為に行われた。
 ルーズベルト日本民族消滅計画は、戦争で減少した人口を回復させる為に劣等的外国人を大量に日本に移住させ人工交配で生み出され混血児を新たな日本人とする事であった。
   ・   ・   ・   
 スターリンは、天皇制度国家日本を滅ぼして新たに共産主義国家日本を建設するべく、ソ連軍と国際的人民義勇軍日中戦争に派遣して日本軍を攻撃した。
   ・   ・   ・   
 反天皇反民族反日ユダヤ系国際金融資本と欧米の軍需産業は、抗日軍を支援していた。
 戦後日本を混乱させていた左派系イデオロギー闘争は、大正時代から高学歴な政治的エリートや進歩的インテリの間に浸透していた反宗教無神論マルクス主義共産主義が原因であった。
 反天皇反民族反日的日本人達は、ソ連コミンテルンからの指示を受け、中国共産党からの協力・支援を得、国際的共産主義勢力と連携して人民革命を起こして天皇制度を廃絶し皇室を根絶やしにするべく策動していた。
 彼等にとって、数万年前からの民族的な歴史・文化・伝統・宗教・神話には興味がなくむしろ唾棄すべき「諸悪の根源」に過ぎなかった。
 彼等のイデオロギーDNAは、現代日本現代日本人の中、特に左派リベラル系の教育界とメディア業界に根強く残っていて、一部の保守系の中にも存在する。
   ・   ・   ・   
 昭和27(1957)年4月28日に日本が独立し、自由諸国の一員として国際社会に復帰する前後、国内でも荒々しい風が吹いていた。一つは日本共産党武装闘争である。暴風とすらいえるものだった。もう一つの左翼政党、日本社会党は共産思想をめぐる距離の違いから左派と右派に分裂した。共産主義は排するとした左派だったが、距離は近かった。土台にあるのはマルクス主義階級闘争なのである。左派は労働組合の全国組織、日本労働組合総合評議会(総評)と連動した。国会外での闘争も活発になる。1960年安保闘争に至る流れはこのころにできている。
 ……。
 武装闘争
 ソ連の独裁者スターリンが筆を入れ、共産党第5回全国協議会(5全協)で採択された『綱領─日本共産党の当面の要求』については、前回触れた。こう書かれていた。『日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しようと考えるのはまちがいである』(『日本共産党綱領集』昭和32年)。
 ……。
(令和4年11月号 正論「産経新聞の軌跡 昭和20年代編  河村直哉」)

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 戦後日本における人口爆発
   ・   ・   ・   
2018-07-20
🌁28〉─1─安定した年金老後は人口爆発期に作った夢のような成功モデルであった。~No.117・ @ 

   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 日本
 日本の合計特殊出生率(TFR)と出生数(1000人単位)の推移。
 第一次ベビーブーム
 日本では1947年から1949年にベビーブームが起きた。この3年間は出生数が250万人を超えており、合計すると約800万人程度の出生数となる。1949年の出生数269万6638人は戦後の統計において過去最多であり、この出生数は2019年の出生数86万5239人の約3.1倍である。なお、この期間に生まれた世代は団塊の世代と呼ばれる。
 第二次ベビーブーム
 1971年から1974年までの出生数200万人を超える時期を指すことが多く、1973年の出生数209万1983人がピークとなった。ただし、この出生数の増加は第一次ベビーブームと違い、合計特殊出生率の増加が伴われない出生数の増加である。なお、この期間に生まれた世代は団塊ジュニアと呼ばれることが多い。
 しかし、日本においては、第二次ベビーブーム以降少子化の一途をたどり、未だに2020年代に入っても第三次ベビーブームは発生していない。詳しくは「団塊ジュニア#消えた第三次ベビーブーム」や「少子化#日本」などを参照のこと。
   ・   ・   ・   
 2020年10月24日・31日号 週刊現代少子化政策で『子供は2人まで』を決議していた
 1974年7月5日付 朝日新聞産児制限で人口増に歯止めに
 日本人口会議宣言「子供は2人まで」
 国民的合意で実現を』
 1974年7月5日付 読売新聞『〝子供は2人までに〟
 年130万人増は危険 日本人口会議が宣言
 高齢者社会に備え 専門家200人を集めて 政府、今秋シンポジウム』
 1974(昭和49)年 国を挙げて『産み控え』を推奨
 74年に厚生省(当時)人口問題審議会は、『出生抑制に一層の努力を注ぐべき』と提言している。
 1976(昭和51)年 国民は『子供を作らない』ことを選択
 11月19日付 朝日新聞出生率、49年末から急減 不況で産み控え?
 50年後に静止人口 予想より500万人減』
 73年のオイルショック後の不況も響き、74年を頂点に日本の出生数は減少局面に入った。」
   ・   ・   ・   
 2024年2月27日 東京新聞「出生数は第2次ベビーブームのピークだった1973年(約209万人)以降、減少傾向に入り、16年に100万人を割った。2022年の速報値は79万9728人で初めて80万人を下回り、23年はさらに4万1097人減った。減少は8年連続。
 厚労省の国立社会保障・人口問題研究所は将来推計人口で、76万人を割るのは35年と見込んでいたが、実際は12年早まった形だ。」
   ・   ・   ・   
 大来佐武郎の人口問題審議会。
 人口爆発で歯止めがきかず人口が急増する事に危機感を抱いた日本政府は、適正人口を8,000万人と定めて人口増加を緩やかにして人口抑制策を採り始めた。
 1974(昭和49)年 国を挙げて『産み控え』を推奨。
 1976(昭和51)年 国民は『子供を作らない』ことを選択。
 その為に、メディアと教育は子供は国の宝と子供は愛の結晶という子供神話を壊し、「子供は親の人としての権利を奪う存在である」という新しい認識を広めた。
 重要な課題は、「女性は結婚して子供を産み育てる」という良妻賢母を理想とする家の呪縛からの解放、つまり女性の社会進出を推し進める事であった。
 その為には、日本は男尊女卑の「女性差別社会=ブラック社会」である事を認識させる必要があった。 
   ・   ・   ・   
 第三次ベビーブームは起きなかった。
2018-06-29
🦋6〗─3─誰が団塊ジュニアの第三次ベビーブームを潰し少子高齢化と人口激減をもたらしたのか。~N0.20・ 
2023-02-07
🦋6〗─4─経済大国日本を衰退させたのは「おじさん・シニア文化」であった。~No.21No.22No.23No.24No.25 
2024-03-07
🦋6〗─7─第3次ベビーブームはなぜ起きなかったのか。平成4年国民生活白書「少子社会」~No.24No.25 
   ・   ・   ・   
 マルクス主義者であるエセ保守とリベラル左派は、天皇信奉の日本民族を消滅させる為に暗躍していた。
 彼らの最終目的は、天皇制度の廃絶と天皇家・皇室の断絶であり、日本固有の伝統的神話物語の消滅、つまりは日本を科学万能の反宗教無神論国家に作り替える事であった。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 
 
 メディアは人口を減らす目的で、第3次ベビーブームを起こさないようにする為に独身貴族とパラサイト・シングルを煽り、今だけ・自分だけ・金だけの価値観で若者達を洗脳した。
   ・   ・   ・  
2024-03-08
🦋6〗─8─メディアは若者の新しい生き方としてパラサイト・シングルを美化した。~No.25 
2024-03-09
🦋6〗─9─メディアが称賛した独身貴族の孤独な老後。1977年。~No.26
2024-03-10
🦋6〗─10─核家族孤独死老老介護が発生しやすい原因。~No.27 

 *  *  *  *  * ・・・ 

 平成年間。政府・官僚、国会・政治家、メディア、教育・学者、企業・経営者などのエリートやインテリ達は、日本で人口激減が始まり、その結果、将来にどんな深刻な事態が起きるかを知りながら、それを食い止める方策を考えず放置してきた。
   ・   ・   ・   
2024-03-13
🚷7〉─11・I─「人口崩落」が止まらない日本。出生数75.8万人過去最少。~No.50
2024-03-14
🚷7〉─11・J─日本人がいよいよ「絶滅危惧種」になる。人口減少は2段階で進む。~No.50 
   ・   ・   ・   
 厚生労働省が発表した、2023年の出生数速報値によると75万8631人と前年に比べて5.1%も減少、8年連続でのマイナスとなり、1899年の統計開始以来、最低となった。
 対して、死亡数は159万503人と過去最多となり過去最大の人口減少を記録し、社会機能が軋み始めている。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 
 
 昭和の人口爆発期における8,000万人とは、若者が多く老人が少なかった。
 令和の人口激減期における8,000万人とは、老人が多く若者が少ない。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 
 
 エセ保守とリベラル左派の文化マルクス主義者は、メディア業界や教育界での自己満足的「権威」を維持する為に、自分の業績を書き換え自分を乗り越えようとする有能な助手や優秀な学生を学界中央から地方や閑職に追放し、自分よりレベルが低く言いなりになる腰巾着やヒラメのような助手を後継者に指名し、薫陶して育てた従順な学生達を集めて派閥を作って院政を敷いた。
 彼等は絶対的「権威」を振りかざし、自分より優れた人材を認めず育てず、悪意の●○神話を作り広め、日本を衰退し崩壊させるガラパゴス化と蛸壺化へと追い込み、バブル崩壊からの復興や回復を潰した。
 彼等とは、北朝鮮日本人拉致事件を否定し、日本を批判・非難する関東大震災朝鮮人・中国人虐殺事件、従軍慰安婦問題、歴史教育問題、靖国神社問題などを世界に広めた教育界・メディア業界・法曹界(弁護士)で活躍していた権威者である。
 1980年代後半以降の高学歴出身企業家・経営者にも言え、彼等は視野が狭く思考力・発想力・決断力などの総合力が乏しい故に改善的リノベーションに固執して経済発展をもたらす最先端の科学技術を潰し、横並びと前例主義による「出る杭は打たれる」で時代を動かすベンチャー企業や世界を驚かす破壊的イノベーションを徹底的に潰し、将来有望な若者から夢や希望を奪った。
 1980年代頃の日本は、自然に優しい再生可能エネルギーの最先端技術を持ったトップランナーであったが、2000年代に気付けば何時の間にか後進国並みの低レベルに後退していた。
 文化マルクス主義者は、バブル経済期で権威あるカリスマと呼ばれ、2010年頃から勝ち組で逃げ切り組の若者を踏み台にしている「老害」と言われるようになった。
 2020年代から深刻な問題となる、農業衰退と食糧自給率低下、老人が多く若者が少ない人口激減(日本民族消滅の危機)、外国人移民(主に中国人移民)増加、外国資本(中国資本)による国土と企業の爆買い、その他の諸原因は、この時代を動かしていた高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達の反天皇反民族反日的日本人が原因であった。
 彼等が目指したマルクス主義的人材教育とは、金太郎飴的人材を大量生産して世に送り出し、日本民族(純日本人)の古臭い根本的本質的価値観(懐の広い寛容さ)を消滅させ日本人を根無し草状態(無関心・無責任)に追い込む事であった。
 彼等の口癖が、「天皇・皇室はそれほど古い家族・一族ではない」であった。
 彼等は、人権派護憲派・反自衛隊派・反戦平和派、反米派・反安保派、反核派・反原発派、親中派媚中派として日本学術会議など権威ある機構・組織・団体の中枢を占めている。
   ・   ・   ・   
 文化マルクス主義者によって、2010年頃のノーベル受賞ラッシュは今後は望めない。
   ・   ・   ・   
 文化マルクス主義者とは、国境を低く無力化し、国家を無価値化して乗り越え、民族を無意味化して消し去るボーダーレスを目指す反宗教無神論のグローバリストであった。
 グローバリゼーションを日本に持ち込み、マイナス面を広め、負のグローバル化で神話的な公徳や民族的な家制度を潰した。
   ・   ・   ・   
 ビズクロ
 しらけ世代とは?一般的な定義や年齢・特徴・背景について解説
 最終更新日時:2023/06/14
 しらけ世代とは
 しらけ世代とは、団塊世代とバブル世代の間の世代のことを指します。現在日本の多くの組織で中枢を担っている人が多い世代です。本記事では、そんなしらけ世代について、しらけ世代の年齢から特徴まで詳しく解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
 しらけ世代とは?
 しらけ世代とは、団塊の世代とバブル世代の間にある世代のことです。管理職が多い世代でもあるため、上司がしらけ世代に当てはまる場合も多いことでしょう。
 まず、しらけ世代とは何かを理解するために、定義・年齢・由来など、基本的な部分からみていきましょう。
 しらけ世代の年齢
 しらけ世代は、1950年〜1964年生まれで2023年現在59歳〜72歳の定年前後である世代です。団塊世代に次ぐ世代であることから、ポスト団塊世代とも呼ばれています。しらけ世代が過ごした時代は、団塊世代で活発だった学生運動も沈静化を迎えた時期でした。
   ・   ・   ・   
 文化マルクス主義者は、2020年代でも日本国内で隠然たる勢力として影響力を持っている。その事実は、天皇家・皇族は税金泥棒という誹謗中傷、そして日本国の衰退、日本民族の激減、食糧自給率の低迷である。
   ・   ・   ・   
 平成20(2008)年6月12日 自民党外国人材交流推進議員連盟は、今後50年間で約1,000万人の移民受け入れを目指す提言案をまとめた。
 エセ保守派は、安価な外国人人材(労働者)を求める経済界の強い要請に従い、大量の移民を受け入れるという世界的風潮に乗り遅れない為に、民族国家を移民国家に転換する事を提言し、日本を多民族共生社会・多文化多宗教多言語社会に改造する為に日本民族を少数派におとして日本文化・日本神道・日本天皇を消滅させる事を決断した。
 多数派のエセ保守はリベラル左派同様に「移民国家論」者で、少数派の正統保守・真正保守天皇主義者は「移民反対論」者である。
   ・   ・   ・   
 令和5(2023)年6月23日 YAHOO!JAPANニュース 共同通信「中国、米抜き科学貢献度首位 研究論文、日本は5位
 自然科学研究貢献度の国別順位
 【北京共同】英科学誌ネイチャーの出版元シュプリンガー・ネイチャーは23日までに、世界の有力科学誌が2022年に掲載した論文に対する国別貢献度を分析した結果、中国が初めて米国を抜きトップになったと発表した。日本は21年と同じ5位だった。中国は国を挙げて技術向上を進めている。
   ・   ・   ・   
 6月27日 MicrosoftStartニュース SmartFLASH「国際競争力、日本は35位で過去最低「異次元の凋落」「悲しいけどこれが現実」SNSにあふれる無念の声
 © SmartFLASH
 スイスの「国際経営開発研究所(IMD)」が発表した2023年版「世界競争力ランキング」で、日本は前年より順位を1つ下げ、世界35位だった。順位は2年連続で低下し、過去最低を更新した。6月26日、共同通信が報じた。
 IMDは世界の主要な64カ国・地域を対象に、「経済実績」「政府の効率性」「ビジネスの効率性」「インフラ」の4項目で、競争力を評価している。日本は「ビジネスの効率性」を除く3項目が前年より順位を落とした。
 アジアでは世界4位のシンガポールが最高。6位の台湾、7位の香港とともに世界のトップ10に入った。中国は21位、マレーシアが27位、韓国が28位、タイが30位、インドネシアが34位となっており、日本を上回った。
 日本はランキングの発表が始まった1989年から4年間は、競争力が世界首位だった。しかし、今回はアジア太平洋地域で14カ国中11位となり、凋落ぶりが顕著になっている。
   ・   ・   ・   
 6月27日 MicrosoftStartニュース 日刊SPA!「「日本を飛び出して本当によかった」年収360万円だった43歳男性、アメリカに渡り年収2000万円に
 バブル経済が崩壊した1990年代以降、日本人の平均年収は「400万円台」から30年間ほぼ変わっていない。しかし、自身の“市場価値”を把握し、世界を相手に適正年収で働く日本人も存在する。果たして、我々日本人の値段とは――。
 ……
 取材・文/週刊SPA!編集部
 ※6月27日発売の週刊SPA!特集「日本人の値段」より
   ・   ・   ・   
 6月27日 MicrosoftStartニュース zakzak「ニュース裏表 田中秀臣 日本経済の大敵 不況を放置する「緊縮主義」のゾンビ理論 学者たちの関心は自分たちのムラ社会の話題だけ
 経済財政諮問会議の様子
 © zakzak 提供
 日本経済の大敵は緊縮主義である。緊縮主義は、景気が悪い時や、あるいは十分に経済が回復していない段階で、増税社会保障の負担などを増やす政策を行うことだ。当たり前だが、そうなると不況を深めてしまう。失業や倒産が再び増加することは明白だ。
 経済が失速すれば税収が悪化する。そうなると緊縮主義者は、「財政再建が必要だ」とまた不況の中で増税しようとするだろう。不況と増税の悪循環がいつまでも続くことになる。緊縮政策にはいいところは一切ない。
 だが緊縮主義は、日本の経済学者やエコノミストたちには大人気である。日本には少なくとも1万人以上の経済の専門家たちがいる。だが、率直にいって、日本の経済学者たちの大半は、テレビのワイドショーなどを見て「岸田さんはダメだねえ」と愚痴を言っているレベルである。彼らの念頭には日本経済や国民の生活のことはない。
   ・   ・   ・   
 6月28日 YAHOO!JAPANニュース 幻冬舎ゴールドオンライン「韓国を下回る「日本人の平均年収」…アジアで「一番年収の高い国」からも陥落、日本の没落はいつまで続くのか?
 一時期、賃上げ、賃上げとニュースを賑わせていましたが、聞こえてくるのは「なかなか給与が上がらない」の声。「日本のどこで給与が上がっているんだか」と、会社員のボヤキが止まりません。世界でみたとき、ここまで給与が上がらない国も珍しいようです。みていきましょう。
 【ランキング】世界主要国「平均年収」…世界の中の日本の順位
 主要国「平均年収」ランキング…日本は38ヵ国中21位
   ・   ・   ・   
 6月28日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「英語論文や国際共同研究で劣勢、日本の大学「世界ランク」苦戦続く…知名度向上へ動画配信も
 各国の大学を教育や研究の指標で順位付けする世界大学ランキングで、日本の苦戦が続く。政府は2013年に「今後10年でトップ100に10校以上」との目標を定めたが、主な指標である英教育誌の23年版ランキングで100位以内は東京大(39位)、京都大(68位)の2校だけ。教育のランク付けには疑問の声もあるが、学生の留学先選びや海外の大学との交流連携で参考にされており、巻き返しを図る動きもある。(新井清美)
   ・  ・   ・   
 6月29日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「仲間を平気で裏切り、国民を見下す…「木っ端集団」が乱立する立憲民主党の「正体」《共産党選挙協力して自爆》《ついに連合も分裂危機》
 選挙で自民党をコテンパンにしたのも今は昔。この国の最大野党は、空理空論を弄し、足の引っ張り合いに明け暮れるばかり。独りよがりの正義に酔うだけの政治家を、国民は「大人」とはみなさない。
 前編記事『国民に見放された弱小政党・立憲民主党のヤバすぎる末路《選挙で党名を名乗らぬことを幹事長が推奨》《参院選で大敗しても誰も責任を取らない》』より続く。
 欠けている党の道徳規範
 まず、多くの議員や党職員、民主党OBらがそろって口にするのが「立憲の政治家は、義理と人情を知らない」という愚痴である。仲間であっても平気で裏切り、陥れようとして憚らない。
 ……
 ある議員は「そうした体質が党の根幹を蝕んでいることが国民にも周知されたのが、'21年7月、党内の『性犯罪刑法改正ワーキングチーム』で不適切発言をしたとして、衆院議員の本多平直が離党・議員辞職に追い込まれた一件だ」と語る。
 「この会合では(衆院議員で元総理大臣補佐官の)寺田学さんを座長として、刑法が定める『性交同意年齢』引き上げの是非を議論していました。そこで本多さんは、『刑罰の範囲を拡げることには常に慎重であるべきだ』という文脈で『極端な話、50代の自分と14歳の女子の恋愛は罰せられるのか』とたとえ話をした。
 © 現代ビジネス
 その場では引き上げ慎重派の本多さんが積極派の寺田さんらを論破する形になったが、寺田さんは悔しかったのか、その後の本多さんとの二人きりの会話の内容をもとにして、『本多議員は小児性犯罪を許容する価値観の持ち主だ』とする報告書をまとめたのです」
 本多は大炎上して党を追われたが、その後「発言を寺田に捏造された」と反論。枝野ら一部の幹部が正規の党内手続きを経ずに処分を下そうとしたことに対しても、別の議員や支持者から「ガバナンスがおかしい」と批判が集まり、やがて党全体に延焼していった。
 ……
 「木っ端集団」の乱立
 先の議員が続ける。
 ……
 国民を見下す政治家たち
 党勢が衰えてゆく中、立憲は政党としての命綱である「有権者との意思疎通」をも軽んじるようになってしまった。以前は旧民主党系の野党に期待していたという、哲学者の東浩紀氏が指摘する。
 ……
 「週刊現代」2023年6月24日号より
   ・   ・   ・   
 6月30日 MicrosoftStartニュース 東スポWEB「大前研一文科省はおおきながん」 日本の教育方針に懸念
 大前研一
 © 東スポWEB
 経営コンサルタントで起業家の大前研一氏(80)が29日、上場企業である株式会社ビジネスブレイクスルーの会長を退くにあたり記者会見を開催した。
   ・   ・   ・   
 政権与党の自民党がエセ保守の巣窟なら、共産党・旧社会党以外の野党の弱小政党はリベラル左派の根城である。
 霞ヶ関の諸官庁中枢の中のキャリア官僚にも、エセ保守とリベラル左派が含まれている。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 エセ保守とリベラル左派は、現在の正統皇室を廃絶しようとしている。
   ・   ・   ・   
2024-03-11
💍45)─1─女性母系天皇擁立の目的は男系父系皇統の断絶である。〜No.156 
2024-03-15
💍45)─2─日本国民の75%が女系女性天皇即位に賛成している。〜No.157 

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 昔の人はなぜ寿命が短いのか?
 2022年2月10日 中央公論jp編集部「ヒトの最大寿命は115歳!? 私たち人間の「死ぬ理由」について新書大賞2位『生物はなぜ死ぬのか』著者が解き明かす
老化の始まりは徐々に“遅く”なっている
 小林武彦
 2500年前まではヒトの寿命は15歳だった
 まず、日本人の寿命の変遷を見てみましょう。
 大昔は戸籍のようなデータはないので骨や歯などからの推定ですが、旧石器〜縄文時代(2500年前以前)には、日本人の平均寿命は13〜15歳だったと考えられています。この時代は狩猟が主で、ヒトは小さな集団で暮らしていました。
 旧石器時代はマンモスなど大型の哺乳類を狩っていましたが、氷河期以降は、海産物や木の実、シカ、イノシシといった動物などを食べていました。この時代のヒトの平均寿命が他の霊長類(サル)よりも短いのは驚きです。
 環境に左右され生活が安定していなかったこと、狩猟での事故死、そして何より病気や栄養不足による乳幼児の死亡率が非常に高かったために、平均の寿命は短くなります。アクシデント的な死に方がメインでした。人口も10万〜30万人と変動が大きかったようです。
 つまり20万年ほど前にアフリカで誕生し、その後新天地を求めて世界中に広がっていった"裸のサル"であるヒトは、まだ悩める存在だったのです。
 もちろん全員が13〜15歳で死ぬわけではなく、幼少期を生き延びられたヒトは出産・子育てをして30代、40代までは生きました。
 現在よりも多産で多死のこの状態が、結果的に多様性を生み出し、のちの人類の大躍進につながった可能性もあります。ちなみに身長は、現在より10センチメートルほど小柄だったようです。
 弥生時代に入ると、日本人は稲作を始めました。これは大陸から来た技術です。稲作で収穫量を上げるには人々が協力する必要があるため、生活集団が大きくなって組織化された村(ムラ)が誕生し、指導者的な人物も現れました。
 食生活は狩猟中心の生活から定住型となり、安定はしてきましたが、やはり技術が低いため天候に収穫量が左右されることも多くあったと思われます。
 乳幼児の死亡率も多少は改善されてきました。平均寿命は20歳、人口は急激に増加して60万人とも推定されています。それから寿命はしばらく横ばいで、奈良時代以降は少しずつ延びていきました。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 
 
 日本人の平均寿命
 『寿命図鑑 生き物から宇宙まで万物の寿命をあつめた図鑑』
 やまぐちかおり (イラスト) いろは出版 (編著)より引用
 縄文時代 15 歳
 弥生時代 18 歳から 28 歳
 古墳時代 25 歳未満
 飛鳥・奈良時代 20 歳未満
 平安時代 30 歳から 40 歳
 鎌倉時代 24 歳
 室町時代 16 歳
 安土桃山時代 34、35 歳
 江戸時代 31.7 歳
 明治時代 44 歳(明治 24~31 年の平均)
 大正時代 43 歳(大正 10~14 年の平均)
 昭和時代 ※31 歳
 平成時代 83 歳
 ※昭和時代は、戦時中、31 歳まで下がったといわれて
 います。戦後、平均寿命は延び、昭和 22 年に 50 代、昭和 46 年に 70 代を超えるようになりました。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 
 
 日本民族の和食とは、コメ魚介食文化で、菜食・雑食である。草食動物。
 欧米人の洋食とは、パン酪農食文化で、肉食である。捕食動物。
   ・   ・   ・   
2018-01-04
🐟3〗─1─日本は、アメリカの「食の植民地」であるがゆえに日米同盟下での対米従属から脱する事はできない。~No.5No.6No.7・ @ 
日本農業不要論
2018-02-06
🐟13〗─1─賢い消費者と日本経済界の日本農業不要論。~No.53No.54No.55・ @
   ・   ・   ・   
食糧
2018-05-22
🍙33〗─1・A─食糧植民地化の小麦戦略。肉・パン食への大改造計画。ロックフェラー財団の報告書。日本人の本性はえげつないほどに醜い。昭和22年~昭和30年~No.208・ @ 
2023-10-29
🍙33〗─1・B─アメリカの対日食糧支配として日本の農業や酪農を潰した。~No.209No.210 
2018-05-02
🍙33〗─2─日本の自由・民主化改革や平和憲法制定はルーズベルトの遺志であった。日本難民救済会とララ物資。~No.211・ @ 
2021-08-16
🍙33〗─3─給食が作った日本のパン文化…アメリカの小麦が食生活を変えた。昭和25年。~No.212 
2021-10-17
🍙33〗─4・A─「和食にもたっぷり」日本人がいつの間にかアメリカに押しつけられた"デブ穀物"の正体。~No.213 
2022-12-26
🍙33〗─4・B─「米を食うとバカになる」という左派系洗脳の悪巧みの意図は「民族神話殺し」であった。~No.213 
 
 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 
 
 米穀機構米ネット
 公益社団法人米穀安定供給確保支援機構
 2-2 米の生産量が増えて日本の人口も増えた
 弥生時代の人口は日本全体で約60万人、この数字は縄文時代の最大人口27万人の約3倍弱です。
 古墳時代には、日本全体の人口が約540万と、弥生時代の9倍にも達します。
数も大幅に増加したのです。ちなみに、奈良時代(8世紀中頃)の人口は600~700万人で、
 奈良時代(8世紀中頃)の人口は600~700万人で、当時の米の生産量は707万石といわれていますから、1人あたり1年間に1石、約150キログラムの米を消費していたことになります。
 水田稲作における耕地拡大や収量の増加は、中世・近世を通じて伸び、江戸時代の人口資料をみると、なんと人口は縄文時代のそれと比較して、約100倍にも達しているのです。縄文時代からの稲作を中心とする歴史をひもといてみると、米を主とする食料生産が、いかに多くの人々を扶養するかを左右する重要なポイントであったかがわかります。
   ・   ・   ・   
 日本の人口。
 縄文早期は約2万人。
 縄文中期は約26万1千人。
 縄文後期は約16万人。
 縄文晩期は約7万6千人。
 *日本列島には、多種多様な人種・民族、文化・宗教・言語の人々が流れ着いていた。
 奈良時代は約550万人(公地公民で農地が急増)
 平安時代は約644万人
 鎌倉時代は757万人
 室町時代は約818万人
 戦国から江戸時代(1600年代)は約1,227万人(農地を増やして年貢米取り立てた)
 明治元(1868年)年の3,455万人。
 昭和20年(1945年)の7,281万人。
   ・   ・   ・   
 未来の日本の総人口予測。
 2010年:1億2,806万人。
 2030年:1億1,662万人。
 2048年:  9,913万人。
 2060年:  8,674万人。
 2110年:  4,286万人。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 日本の家制度とは。
   ・   ・   ・  
 人は、二人の両親から産まれてくる。
 日本民族の祖先な数は?
 日本人の命が尊いわけ。 
   ・   ・   ・   
 祖先神・氏神の人神信仰とは、純血の血縁ではなく、混血の地縁である。
 一人の日本人には、二人の両親がいた。二人の親には、四人の祖父母がいた。四人の祖父母には、八人の曾父母がいた。
 14世代前では、8,192人。
 23世代前には、419万4,304人。
 25世代前では、1,677万人。
 27世代前では、1億3,422万人。
 だいたい約700年前の鎌倉時代で、当時の日本の総人口は700万人から1,000万人。 
 30世代前には、5億3,687万912人。
 40世代前には、5,497億5,581万3,888人。
 50世代前には、562兆9,499億5,342万1,312人。
 100世代前の、祖先の人数は?
 指数関数的な増加。
   ・   ・   ・   
 祖先のうち一人でも欠ければ、今の命は存在しない。
 今の命が断たれれば、この後の命は存在しない。
 それが、命の重みである。
 そして、日本の家である。
 昔の日本人は、「命の継続性」という家の枠で、自分と家族の幸せの為に命を守りながら努力して生きていた。
 ゆえに、「命の絆」が断ち切られる「死」を穢れとして恐れた。
 この世は、生きるに値する。
 命は、等しく尊い

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 3万5000年から3万年前以後 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)=旧石器人(ヤポネシア人)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 縄文時代 1万2000年~2000年前。縄文人(日本土人)。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
 この時点では、まだ日本民族(和人)・琉球民族アイヌ民族は生まれていない。
 何れにせよ、日本民族は数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた先住民・日本土人であった。
   ・   ・   ・   
 帰化人と渡来人は違う。
 現代で言われる日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事で日本民族の事ではない。
 帰化人は日本民族の一員とされたが、渡来人は日本人と呼ばれても日本民族から排除された。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は昔の日本民族とは同一とは限らない。

  ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 日本民族文化における自然観とは、縄文時代以来、自然と人間が対立しない、自然との繋がりを大切に文化である。
 それを体現しているのが、自然物をご神体とする神社である。
   ・   ・   ・   
 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、旧石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。

 日本土人である縄文人(日本土人)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
   ・   ・   ・   
 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の旧石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
   ・   ・   ・   
 旧石器人(ヤポネシア人)は、南方系海の民であった。
 縄文人(日本土人)は、森の民であった。
   ・   ・   ・ 
 日本民族琉球民族アイヌ民族は、旧石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、旧石器人(南方東南アジア系ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(南方揚子江系渡来人)、古墳人(北方満州帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
   ・   ・   ・   
 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
 八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた超エリート層の高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にリベラル左派のマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
 現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズムジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
   ・   ・   ・   
 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話・神話物語、2,人類の文明発展・進化・進歩の物語、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海人、海女})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
   ・   ・   ・   

🎺54:─1・B─幻の日本に対する枯葉剤散布作戦。全国各地の国有林に埋められた化学兵器。~No.259No.260No.261 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 国際法は、大量破壊兵器である原子爆弾核兵器を、毒ガス兵器や細菌兵器と同様に非人道的兵器として使用禁止兵器とはしていない。
 つまり、自国防衛の為ならば何時でも使用して構わない兵器とされている。
   ・   ・   ・   
 シンポジウムベトナム戦争は終わっていない~30年後の枯れ葉剤被害と国際支援の現状~
 枯葉剤犠牲者のための支援施設
 ――「ベトナム友好村」の支援活動と交流
 阿原成光 所員・経済経営学部教授

 この枯葉剤作戦は、当初に日本への作戦として考えられていたという。中村梧郎さんの著書「戦場の枯葉剤ベトナムアメリカ・韓国―」(岩波書店)で次のように述べられている。
 「そもそも枯葉剤は、第2次世界大戦の終戦間際に日本に散布する予定で準備されていたものだった。アメリカ現代史の権威、スタンフォード大学 B. J. バーンスタイン教授によれば、1945年5月に米陸軍に提出された計画は、東京や横浜、大阪、名古屋、京都、神戸周辺の稲作地帯にチオシアン酸アンモニウムをB-29から投下し、穀物を全滅させようとする内容だった。
 (中略)対日枯葉作戦の詳細な計画の報告書が米陸軍航空隊副司令官エイカー中将に届いたのは、長崎に原爆が落とされた翌日の8月10日のことであった。このときにはもう日本の降伏が時間の問題だったために作戦は実行されることはなかった。日本はかろうじて散布を免れたのであった。」
 21世紀に引き継がれた人類が作り出した2大害毒、放射性物質枯葉剤はまさに日本を終戦に追い込むために用意されていたのであった。ベトナム枯葉剤の犠牲は、他人事ではなく、まさにわれわれの問題であった。

   ・   ・   ・   
 2022年 読売新聞オンライン「ダイオキシン含む除草剤、全国の山林46か所に埋設のまま…水源近くの例も
 15道県の計46か所の山林に、半世紀前から猛毒のダイオキシン類を含む除草剤が埋められたままになっている。当時は安全に焼却処理する技術が確立されていなかったためだ。除草剤にはベトナム戦争で、がんや先天性障害などの被害を引き起こしたとされる「枯れ葉剤」と同じ成分が含まれており、林野庁は撤去に向けて検討を始めた。(虎走亮介)
 金網に囲まれた埋設地を点検する佐賀森林管理署の職員(佐賀県吉野ヶ里町で)
 立ち入り禁止
 <立ち入り禁止 囲い内の立ち入りや土石等の採取をしないで下さい>
 佐賀県吉野ヶ里町国有林にはそう警告する看板が立ち、一帯は高さ1メートル60の金網で厳重に囲われていた。1971年12月、この場所に除草剤「2・4・5―T系」945キロが埋められた。
 2月下旬、林野庁佐賀森林管理署の職員が、車で10分ほど走った林道の先にある埋設地の点検をしていた。約1キロ離れた場所には、福岡市民の水がめの「五ヶ山ダム」がある。職員は手で金網を揺らし、約20分かけて強度を確認。侵入された形跡がないことや、周囲のササや樹木の植生に問題がないことも確かめた。
 同管理署は月2回の定期点検を続けており、白石健二署長は「これまでに異常が確認されたことはない」と語った。
 当時は農薬
 林野庁によると、各地に埋設されている除草剤は、67年頃から国有林の下草を刈るために同庁が使っていたものだ。当時は農薬に登録されていた。
 しかし、世界各地で健康被害の恐れが報告されたため、同庁は71年4月、使用中止を決定。同11月には埋設を指示する通達を出し、国が管理する全国の山林計54か所に除草剤の粒剤約25トンと乳剤約1836リットルが埋められた。
 通達では、土やセメントと混ぜてコンクリート塊にすることや、1メートル以上の土をかぶせ、水源地や民家から一定の距離をとり、1か所に埋める量は300キロ以内にすると決められた。しかし、84年に愛媛県で漏出が判明したことを受け、同庁が全国調査をしたところ、29か所で通達通りに埋設されていないことがわかった。
 一部は撤去されたが、今も20か所で通達の基準とは異なる方法のまま埋められている。現在は年2回の定期点検と、大雨や地震の後に臨時点検を実施。周辺の土壌や水質を検査しているが、ダイオキシン類の環境基準値を上回ったことはないという。
 費用1億円
 ただ、2020年7月の九州豪雨では熊本県芦北町の埋設地の約1キロ先で土砂崩れが発生。熊本地震などの災害も相次いでいることから、同庁も撤去を念頭に処理方法を調査することを決めた。
 昨年11月には、佐賀県吉野ヶ里町熊本県宇土市岐阜県下呂市高知県四万十町の4か所で撤去する際に必要な機材や、掘り起こした後の保管場所について調査。4月18日に公表した報告書では、いずれも安全に除去できるが、場所によっては1億円以上の費用がかかることが判明した。
 林野庁は、不安を抱えている各地の自治体に、今後の計画などを説明する。同庁業務課の長崎屋圭太課長は「住民の不安も理解できる。撤去を念頭に最終処理する方法を検討していきたい」としている。
 「有機塩素系」は回収
 長年埋設された農薬を実際に回収したケースもある。
 農林水産省によると、戦後、「有機塩素系農薬」と呼ばれたDDTなどの薬剤は、主に殺虫剤として使われてきた。
 しかし、有害物質が体に蓄積しやすいとして、1971年に販売が禁止され、計約4400トンが山林や農薬会社の敷地に埋設された。処理技術が進歩したため、国などは2004年度から掘り起こしを始め、計約4100トンを無害化した。
 熊本学園大の中地重晴教授(環境化学)は「ダイオキシン類を含む2・4・5―T系の危険性は、有機塩素系農薬に比べても桁違いに高い。災害で埋設した除草剤が川に流れ込み、人が摂取すれば微量でも人体に影響する可能性はある。林野庁だけでなく自治体も費用を負担して撤去を検討すべきだ」と指摘する。
   ・   ・   ・   
 2017年11月27日 日刊SPA!「ベトナム戦争後、行き場を失った“枯葉剤”が日本に埋められている――全国54か所の国有林リスト
 ―[[ニッポンの化学兵器]が危ない]―
 毒ガス弾や枯葉剤など、戦争で使われた化学兵器が今でも全国各地に埋まっているという。その現場をリポート!
 屋久島の遊歩道
 世界遺産屋久島の遊歩道にも枯葉剤埋設現場の看板が立つ
 行き場を失った枯葉剤国有林に埋められている
 「ここに薬剤(2・4・5T)が埋めてあります。定期的に植物の状態を観察していますので立ち入らないで下さい」
 石畳の遊歩道脇に「立入禁止」の看板が控えめに立っていた。
 「町議会で質問され、柵がつくられるようになりました。その前は何もない状況でした」
 屋久島町環境政策課長はこう振り返る。「2・4・5T剤」(以下、245T)とは、ベトナム戦争の対ゲリラ作戦で米軍が撒いた枯葉剤の成分となる薬剤だ。枯葉剤ベトナムの森林を死滅させただけではない。残留するダイオキシンが、ベトちゃん・ドクちゃんに代表される強い催奇性の毒性を持つことが明らかになっている。
 現場は市街地からも近い「憩いの森」として住民に親しまれている。この森の一角に約3.8tの245Tが埋められたのは’72年。10m間隔で13個の穴の底にビニールを敷いて薬剤を置き、その上にセメントを流してビニールで覆い、土に埋めたという記録がある。その後’85年に上部のみ生コンで覆ったというが、本当かどうかは誰も確かめられない。
 そういった埋設地が、全国の国有林に現在判明しているだけで54か所もある。埋められた薬剤の総計は粒剤(顆粒状の薬剤)が2万5062kg、乳剤(液体状の薬剤)が2132リットル。現在は林野庁の職員が年2回、足を運んで視認するだけだ。
 「実は、日本も米軍の枯葉作戦に中間製品の供給という形で協力していたのです。ニュージーランドやオーストラリアで加工され、最終的にベトナムに運ばれていました」と解説するのは、『真相日本の枯葉剤』(五月書房)の著者で、旧日本軍の化学兵器に詳しい原田和明氏。
 国内で生産を担ったのは、戦前毒ガス原料の中間剤を製造していた三井東圧化学(現三井化学)の大牟田工業所だ。
 「国会で枯葉剤中間製品の製造が暴露された際、内需がなかったことからベトナムでの使用が疑われた。そこで内需を無理やりひねり出すため、林野庁が一部の245Tを除草剤として散布し始めたのでしょう」と原田氏は指摘する。
 国有林に埋めたらもう誰にもわからない
 ’60年代から’70年前後までに散布された薬剤の量は、枯葉剤生産時にできる副産物の塩素酸ソーダが5280t、245Tも570tに上る。ところが’71年4月にベトナムでの枯葉剤作戦が中止されると同時に、林野庁も245Tの使用を中止。このとき不要になった薬剤が行き場を失い、全国の国有林に埋められた。
 「日本最古の上水道
 「日本最古の上水道」として知られる熊本県宇土市の轟水源上流には枯葉剤埋設地が
 林野庁職員として大分県の祖母・傾山系に配属されていた加藤久次氏(仮名)は、当時の様子を振り返る。
 「245T散布の際、講堂に職員が集められて講習会が開かれ、『地域住民から聞かれたら人体には影響がないと言え』と指示されました。『塩素系の薬剤で、原料は塩と同じだから人畜無害』と、メーカーから派遣された社員が実際に薬剤を舐めてみせたことも」
 宮崎県の民間団体がまとめた資料には、散布に従事した職員10人のうち肝臓がん、肝機能障害、肺がんで死亡した者が7人いるとの記述があるが、実態は不明だ。
 「国有林に埋めたら、もう誰にもわからない。林野庁は『犯罪の予防等』を理由に明かさないからです」と加藤氏は説明する。
 記者が林野庁の資料をもとに、埋設地とされている自治体に場所を把握しているかどうか聞いたところ、54か所中15か所だけだった。’99年以降は埋設地の調査も中止され、今もその状況はよくわからないままなのだ。
 【枯葉剤の埋設処理状況】
1.北海道夕張市
2.北海道遠軽町
3.北海道広尾町
4.北海道音更町
5.北海道清水町
6.北海道標茶町
7.北海道本別町
8.青森県中泊町
9.岩手県久慈町
10.岩手県野田村
11.岩手県雫石町
12.岩手県岩泉町
13.岩手県宮古市
14.岩手県西和賀町
15.福島県会津坂下町
16.群馬県東吾妻町
17.群馬県昭和村
18.山梨県甲府市
19.愛知県設楽町
20.愛知県豊田市
21.岐阜県下呂市
22.岐阜県下呂市
23.広島県庄原市
24.愛媛県西条市
25.愛媛県久万高原町
26.愛媛県宇和島市
27.愛媛県松野町
28.高知県四万十市
29.高知県四万十町
30.高知県いの町
31.高知県大豊町
32.高知県安芸市
33.高知県土佐清水市
34.佐賀県吉野ヶ里町
35.長崎県五島市
36.熊本県熊本市
37.熊本県宇土市
38.熊本県芦北町
39.大分県玖珠町
40.大分県別府市
41.宮崎県日之影町
42.宮崎県西都市
43.宮崎県宮崎市
44.宮崎県宮崎市
45.宮崎県小林市
46.宮崎県小林市
47.宮崎県都城市
48.宮崎県串間市
49.鹿児島県肝付町
50.鹿児島県湧水町
51.鹿児島県伊佐市
52.鹿児島県伊佐市
53.鹿児島県南九州市
54.鹿児島県屋久島町
 ― [ニッポンの化学兵器]が危ない ―
   ・   ・   ・   
 2017年12月8日 日刊SPA!「日本全国に埋まる毒ガス弾や枯葉剤はなぜ放置されたままなのか?
 ―[[ニッポンの化学兵器]が危ない]―
 「爆発赤痢事件」の慰霊碑
 1937年に九州・大牟田で起きた「爆発赤痢事件」の慰霊碑。2万5000人を超える患者を出し、712人が数日のうちに死亡した事件の原因は、毒ガス工場からの漏洩だったのではとの説も
 遺棄された化学兵器の調査と対策は容易ではない
 全国には埋まったままの毒ガス弾や枯葉剤など、戦後72年が過ぎたというのにたくさんの化学兵器が全国に残り、情報が不確かなものも多いまま放置されている。
 ※参照:「戦時中の毒ガス弾が眠る危険な土地 いまだ1000発以上が行方不明」「ベトナム戦争後、行き場を失った“枯葉剤”が日本に埋められている――全国54か所の国有林リスト」
 なぜこのような事態になっているのか? 『真相日本の枯葉剤』(五月書房)の著者で、旧日本軍の化学兵器に詳しい原田和明氏に聞いた。
 「最大の理由は、そんなおっかないものには誰も関わりたくないからです。それと、冷戦期に原爆が事実上使えない兵器となり、アメリカは大量殺戮兵器として、新たな化学兵器の開発に乗り出していきました。それが『プロジェクト112』です。
 アメリカは沖縄にも秘密裡に化学兵器を大量に持ち込んでいましたし、本土にも持ち込んでいる可能性が高い。そのためアメリカは旧日本軍の化学兵器について追及してきませんでした。このことも大きな理由だと考えています。また、掘り出しても安全に処分する方法もなかったので、放置するしかなかったのが実情です。
 遺棄化学兵器についての『全面的な調査と抜本的な対策』があればよいのですが、漏れ出しているかもしれない毒ガスの調査と対策は1件100億円単位の事業になります。特殊な分野なので国民的議論にも馴染みません。作業員も命がけで、おいそれとは着手できないのです」
 取材・文・撮影/宗 像充 足立力也 写真/原田和明 北宏一朗 神戸須磨子
 ― [ニッポンの化学兵器]が危ない ―
   ・   ・   ・   

🐇3:─1─年功序列制を廃止しない代わりに45歳定年制。~No.3 

   ・  ・   ・    
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年3月13日 YAHOO!JAPANニュース THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン)「恐ろしい…年功序列制の企業では「45歳定年」が社員にとって最も損なワケ【同志社大学教授が解説】
 時代にそぐわないともいわれる「年功序列制度」。廃止すべきか否か、度々議論を呼んでいます。本記事では、同志社大学政策学部・同大学院総合政策科学研究科教授の太田肇氏による著書『何もしないほうが得な日本 社会に広がる「消極的利己主義」の構造』(PHP研究所)から、日本の年功序列制度について解説します。
 【肩書別】大卒サラリーマンの給与推移…役職なし/係長/課長/部長<令和4年賃金構造基本統計調査>
 年功制のもとでは定年まで勤めると、貢献度と報酬の帳尻が合う
 [図表1]年功制のもとにおける貢献度と報酬
 損得勘定には、個人の属性に関係してくる。その一つが年齢である。
 特定の時点における社員の会社に対する貢献度と、会社から受け取る報酬とは必ずしも一致しない。後述するように、企業側が意図的に一致させないようにしているとも考えられる。
 単純化していえば、年功制のもとでは若いときは貢献度以下の報酬しか受け取らないかわりに、中高年になると貢献度以上の報酬を受け取る。定年まで勤めることによって、その帳尻が合う仕組みだ(図表1)。
 職務給が中心の欧米企業と比べたときの大きな違いは、二つの線の開きが大きいことと、定年まで勤めてはじめて元が取れるところにある。
 「一家の大黒柱」文化の中では、ライフステージに沿った給与形態が必要だった
 このような報酬制度は戦後、大企業を中心に日本的雇用慣行の一環として形成され、定着していった。企業がこうした制度を採用した背景には、つぎのような事情があったといわれている。
 まず、経済が拡大するなかでは若年労働力を大量に確保する必要があり、長く勤めるほど得な年功賃金制度は労働力を会社につなぎ止める効果があった。
 また、当時は個人の経験や熟練に依存する仕事が多かったため、年齢・勤続年数とともに賃金が上がる賃金制度にはある程度の経済合理性があった。
 そして当時の標準世帯では世帯主である夫(父親)が正社員として働き、専業主婦の妻や子の生活は夫(父親)の収入に依存していた。
 一般に結婚、出産、子の成長というようにライフステージが進むにつれて家計支出は増大する。したがって一家の生活を保障するためには年齢に応じて賃金も上げなければならない。つまり、年功賃金は一種の社会政策的機能を肩代わりしていたわけである。
 いうまでもなく当時といまとでは労働力需要、仕事の性質、家族の就労形態などが大きく異なる。それでも実態としては、大企業を中心に年功制の枠組みは残っている。それはやはり企業にとって社員の帰属意識を保ち、ドライな離職を防ぐメリットが捨てがたいからである。
 「45歳定年」の恐怖
 典型的な年功制の場合、貢献度と報酬の線が交差する点(図のX)はおおむね45歳くらいだといわれる。会社への貢献度の報酬に対する超過分を貯金にたとえるなら、貯金の額が最大になるのがこのあたりの年齢である。
 そうだとしたら社員にとっては、45歳くらいで辞めるのがいちばん損なわけである。2021年に、ある大企業経営者の発言がきっかけで「45歳定年」が議論を呼んだ。
 発言の趣旨はともかく、企業にとっていちばん得で、社員にとってはいちばん損な年齢で辞めさせるなんてもってのほかだ、という反発の声が上がるのは当然だろう。
恐ろしい…年功序列制の企業では「45歳定年」が社員にとって最も損なワケ【同志社大学教授が解説】
 年齢が上がるに連れて、「今の会社」を続けたくなる仕組み
 [図表2]年代別転職意向
 このような理屈からすると、これから元を取ろうという45歳くらいが、最も勤続意向が強くなるはずだ。もちろん理由はほかにもある。恵まれた給与だけでなく、せっかく獲得した役職ポストや肩書きも失いたくないだろうし、年齢とともに転職して新しい環境に馴染むのも難しくなる。
 いずれにしても年齢とともに転職が割に合わなくなり、仕事に対しても保守的になるのは自然である。リスクを冒してまで挑戦しようという意識が薄れてくるのだ。
 それはキャリアに対する意識からも見て取れる。パーソル総合研究所が2021年3月に行った調査の結果を見ると、年齢とともに転職意向が低下していく傾向がはっきりと表れている(図表2)。
  また「2022年ウェブ調査」の結果を見ると、「自ら転職や独立をしないほうが得だと思いますか?」という質問に対し、「そう思う」「どちらかといえば、そう思う」と回答した人の割合は、40代から高くなる傾向がある(図表3)。
 損得勘定から、現在の職場に留まろうとしている様子がうかがえる。
それだけではない。年功制そのものが崩壊すれば、長年会社に預けてきた「貯金」が引き出せなくなる。デフォルト(債務不履行)と同じだ。
 だからこそミドル層は管理職の削減につながる組織のフラット化やスリム化にも、日本的雇用慣行の見直しそのものにも強く反対するのである。
 さらに大きな問題は、彼らの多くが中間管理職として仕事や人事の権限を握っているところにある。部下の失敗は自分の責任であり、将来のキャリアにも影響する。
 若手の新しい提案やチャレンジに対し、何かと理由をつけて拒否したり、「待った」をかけたりする管理職がしばしばやり玉にあげられるが、単に年を取れば保守的になるという理由だけでなく、背後には自分自身の損得勘定が働いている場合が少なくない。
 「働かないオジサン」が生まれたのは、年功序列制度が原因
 デジタル社会の到来により、経験や熟練の価値が相対的に低下したいま、年功制の合理的根拠は薄らいでいる。そのなかで中高年は給与や地位に見合った貢献をしていないのではないかという認識が広がっている。
 そこへもってきて自分自身がリスクを恐れ、挑戦を避けるだけでなく、若手の頭を押さえるような行動をとると、彼らに対する風当たりはいっそう強くなる。
 「働かないオジサン」問題が取りざたされるようになったのには、こうした時代背景があると考えられる。いずれにしても「働かないオジサン」問題は大部分が制度の産物だといえよう。
 恐ろしい…年功序列制の企業では「45歳定年」が社員にとって最も損なワケ【同志社大学教授が解説】

 THE GOLD ONLINE(ゴールドオンライン)
 女性の活躍を阻む「二つの壁」
 性別もまた、損得勘定に影響を与える要因である。
 「2022年ウェブ調査」の「仕事で失敗のリスクを冒してまでチャレンジしないほうが得だと思いますか?」という質問に、「そう思う」「どちらかといえば、そう思う」と回答した人は男性の61.2%に比べ、女性は69.9%と高い。
 また「自ら転職や独立をしないほうが得だと思いますか?」という質問にも、「そう思う」「どちらかといえば、そう思う」の合計が男性は43.0%だったのに対し、女性は49.4%と高くなっている。
 女性のほうが男性に比べ、仕事上の挑戦や転職・独立をしないほうが得だと思っている理由として、つぎの二つが考えられる。
 一つは、男性と女性の仕事内容に差があり、挑戦して獲得できるかもしれない利得が女性は男性より小さいこと。あるいは制度・慣行その他のハンディにより、挑戦して成功する確率が低いこと。
 もう一つは、挑戦すること、あるいは挑戦して失敗したときの負の利得(損失)が男性より大きいことである。いずれも実際にそうかどうかは別にして、そう考えられているのだろう。
 要するに挑戦しても割に合わないと思う傾向が、女性にいっそう顕著だといえる。
 太田 肇
 同志社大学政策学部・同大学院総合政策科学研究科
 教授
   ・   ・   ・   

🐇2:─1─日本の凋落は日本人が「大事なこと」を忘れ去ったから。~No.2 

   ・  ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 2024年3月12日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「なぜ日本は「衰退」してしまったのか…
 なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか? 張り紙が増えると事故も増える理由とは? 飲み残しを放置する夫は経営が下手? 
 7万部突破のベストセラー『世界は経営でできている』では、東京大学史上初の経営学博士が「人生がうまくいかない理由」を、日常・人生にころがる「経営の失敗」に見ていく。
 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い
 ※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。
 〈本来の経営は「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だ。
 この経営概念の下では誰もが人生を経営する当事者となる。
 幸せを求めない人間も、生まれてから死ぬまで一切他者と関わらない人間も存在しないからだ。他者から何かを奪って自分だけが幸せになることも、自分を疲弊させながら他者のために生きるのも、どちらも間違いである。「倫」理的な間違いではなく「論」理的な間違いだ。〉(『世界は経営でできている』より)
 『世界は経営でできている』では、こうした意味での「経営」が世の中に不足していることを一貫して指摘する。
 だから、人生に不条理と不合理がもたらされ続けてしまうし、個人も社会も豊かになれないというのだ。
 多くの人が染まってしまった「価値有限思考」
 経営概念が変わらないままで、具体的にどのようなことが起こるのか。
 たとえば、「会社役員の「営業成績が平均未満の人間はクビ」発言が「決定的に間違っているワケ」」では仕事における不条理について、「塩分我慢からの「油多めラーメン」爆食い…不健康な人が陥りがちな「シンプルな間違い」」では健康における経営の失敗がもたらすことを書いている。
 ただ、現在では経営ときいて、冒頭に述べたような「価値創造という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げるさまざまな対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だという人はほとんどいなくなった。
 〈人生のさまざまな場面において、経営の欠如は、目的と手段の転倒、手段の過大化、手段による目的の阻害……など数多くの陥穽をもたらす。
 その理由は、「あらゆるものは創造できる」という視点をもたないと、単なる手段であるはずのものが希少に思えてしまい、手段に振り回されるからである。
 日本において本来の経営が急速に失われたのも、平成時代の円高とデフレによって、ただの手段のはずの金銭の価値が高まり、金銭という手段に振り回され、目的であるはずの人間の共同体をなおざりにしたからだ。
 経営を忘れた社会が発展するはずもない。その結果、不況がさらに価値有限思考を強めるという負の連鎖から抜け出せなくなってしまっていた。
 だが、令和時代は、円安とインフレという高度経済成長期型の経済に戻りつつある。「金銭よりも人材の不足が経営に危機をもたらす」という実感も広がっている。経営概念の再転換はまさに今日的課題だ。〉(『世界は経営でできている』より)
 私たちは、いつの間にか「有限な価値を巧妙に奪い取るための狡知をめぐらすこと」「価値有限思考」に染まってしまった。
 そうした社会・時代だからこそ、価値の奪い合いから創り合いへと大転換をしていく必要がある。
 〈立ち止まって考えてみれば、金銭、時間、歓心、名声など、人生における悲喜劇は「何かの奪い合い」から生まれることが分かる。そして奪い合いは限りある価値に対して発生する。価値がないものや限りなく創り出せるものは奪い合う必要がない。
 このとき、限りあるものを奪い合う発想は短期利益志向と部分最適志向をもたらす。なぜならば「限りあるものはもたもたしているうちになくなるかもしれない」と思うからだ。
 加えて、「回り道なんかしているうちに、それを誰かに取られてしまうかもしれない」という不安に駆られてしまうからである。〉(『世界は経営でできている』より)
 つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。
 現代新書編集部
   ・   ・   ・   

☂40:─1─マルクス主義と反宗教主義。共産主義は宗教を弾圧する。~No.133No.134No.135 

   ・  ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 共産主義者は人民暴力革命成功の為ならば、詭弁を弄し、嘘をつく。
   ・   ・   ・   
 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
   ・   ・   ・   
 2010年7月15日 しんぶん赤旗マルクスが言った「宗教はアヘン」とは?
 〈問い〉マルクスが言った「宗教はアヘン」とは、どんな意味で、なぜ今も話題になるのですか?
 〈答え〉マルクスは、25歳の時の論文「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書いたことがあります。
 この文脈からも明らかなように、アヘンを単純に毒薬という意味で使っているのではありません。アヘンは乱用すれば有害ですが、アヘンの成分から作られるモルヒネは、鎮痛剤として使われています。
 アヘンという言葉には、宗教に対するマルクスの批判もこめられています。宗教は民衆にあきらめとなぐさめを説き、現実の不幸を改革するために立ち上がるのを妨げている、という意味です。ここには、当時のヨーロッパで宗教が果たしていた歴史的な事情が反映しています。キリスト教は、国王権力と支えあう関係になって、専制支配のもとで苦悩する民衆に忍従を説いていました。マルクスはそうした宗教の役割を批判したのです。
 マルクスがアヘンという言葉を使った背景には、当時のヨーロッパでアヘンが話題となっていたという事情もあります。イギリスが植民地インドで製造したアヘンを中国(清)に密輸し、アヘン戦争が起こった時代でした。
 反動勢力は、「宗教はアヘン」というマルクスの言葉をわい曲して、科学的社会主義を攻撃しました。それが今も影響しているといえます。しかし、マルクスが宗教を侮蔑(ぶべつ)していないことは、宗教によって不幸に抗議している、と述べていることからも明らかです。
 科学的社会主義は、反宗教の立場ではなく、宗教が実際に果たした役割を分析し、宗教がになった民衆への奉仕の意義を重視して、世界観の違いをこえた宗教者との共同をはかってきました。
 日本共産党は、日本の宗教には、一部に反社会的、反民主主義的動向がみられるものの、宗教界の多くの人びとが社会進歩に積極的役割を果たしていると考えています。日本共産党の綱領は「信教の自由を擁護し、政教分離の原則の徹底をはかる」と明記し、この方針をつらぬいて、宗教者との対話と共同を発展させています。
 (2010・7・15)
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 反宗教主義(英: Antireligion)とは、宗教に反対する思想のことである。ヨーロッパではフランス革命を機に政治の実際の政策に登場するようになり、マルクスがそれを評価したことで、その後の社会主義にも反映されていった。
 ただし無神論に基づく棄教運動もあれば、理神論に基づく古い宗教の改革運動もあり、内容は一概には言えない。
 マルクス主義と反宗教主義
 一部のマルクス主義者は宗教に対して否定的な立場をとることがある。実際、ロシア革命以降、ソ連アルバニア中華人民共和国などの共産主義国家において、政策として宗教が弾圧され、聖職者が殺害されたり教会が破壊された。
 日本共産党は宗教界への浸透を意図しており、宗教界においては注意が必要である。
 科学の立場からの反宗教主義
 宗教的世界観は科学的事実としばしば衝突してきた。近現代においても、宗教的世界観に基づく創造論インテリジェント・デザイン論が公教育の場で教えられるべきであるという主張がアメリカ合衆国でなされ、それに反対する人々と論争になっている。動物行動学者のリチャード・ドーキンスは、そのような主張に真向から反対し、宗教そのものに対しても有害でしかないとする立場をとっている。 ただし、すべての科学者が反宗教的であるというわけではなく、スティーヴン・ジェイ・グールドを始めとする科学者たちは、科学の領域を宗教が犯さない限りは問題としない立場(NOMA, Non-Overlapping Magisteria, 非重複教導権の原理)をとっている。
   ・   ・   ・   
 2024年3月10日 現代ビジネス「なぜマルクスは宗教を「民衆のアヘン」と批判したか
 21世紀の今も色褪せぬ思想の本質
 佐藤 優作家
 なぜ宗教は「民衆のアヘン」なのか?
 ソ連が崩壊してから25年になるが、共産主義理論の創始者であるマルクスの名前は今でも有名だ。もっとも主著『資本論』をはじめ、マルクスの著書は知られていても、実際に読んだ人は少ない。
 マルクスが宗教を「民衆のアヘン」と批判したことは何となく知られているが、それがどの著作であるかということを知っている人はほとんどいない。
 21世紀になって、共産主義の影響はほとんど無くなったが、イスラム原理主義アメリカのキリスト教右派は無視できない影響力を持っている。日本では、既成宗教、新興宗教がともに影響力を低下させている。他方、自己啓発セミナーやマルチ商法のような擬似宗教が影響力をますます拡大している。
 おかしな宗教や擬似宗教に引っかかると人生が滅茶苦茶になる。宗教のリスクを知るために25歳の若きマルクスが「民衆のアヘン」と書いた『ヘーゲル法哲学批判』について、検討してみよう。
 マルクスは、
 〈反宗教的批判の根本は、人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない、ということである。
 たしかに宗教は、人間が人間らしい生き方をまだしていないか、もうできなくなっている場合の、自己意識であり自己感情である。けれども人間というものは、けっしてこの世界の外にうずくまっている抽象的存在ではない。
 人間、それはつまり人間の世界のことであり、国家であり社会のことである。この国家、この社会が、宗教という倒錯した世界意識をうみだすのは、この国家、この社会が倒錯した世界であるためである〉
 と指摘する。
 人間が宗教を作るのであるという至極当たり前のことをマルクスは指摘している。その上でマルクスは、宗教が人生の問題を解決する際に参照する百科辞典のようなものだという考えを示す。
 〈宗教は、この世界の一般理論であり、それの百科辞典的な綱要であり、その論理学が通俗的な形をとったものであり、それの精神主義的な名誉問題であり、それの興奮であり、それの道徳的是認であり、それのおごそかな補足であり、それの慰めと弁解の一般根拠でもある。
 宗教が人間の本質を空想的に実現したものであるのは、人間の本質が真の現実性を持っていないからである。だから宗教にたいする闘争は、間接的には、宗教を精神的香科としてもちいているこの世界にたいする闘争である〉
 もっともこの百科辞典は、通俗版なので、宗教によって人間は世の中の問題を何となくわかってしまったような気になるが、「真の現実性を持っていない」と批判する。
 現代に引き寄せて言うならば、日銀の金融政策や、安倍首相の北方領土戦略をテレビのワイドショーによって理解するようなものだ。
 21世紀の今も価値は変わらない
 宗教には人間に即効性のある幻想的な解答を与える危険性があると考える。
 〈宗教上の不幸は、一つには実際の不幸のあらわれであり、一つには実際の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやんでいる者のため息であり、また心のない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。それは、民衆のアヘンである〉。
 宗教や自己啓発セミナーやマルチ商法のような擬似宗教に阿片のような作用があることは間違いないと思う。
 それではどうすれば、人間は宗教を脱構築することができるのであろうか。
 マルクスは、
 〈幻想のなかで民衆の幸福をあたえる宗教を廃棄することは、現実のうちに民衆の幸福を要求することである。自分の状態についての幻想をすてろと要求することは、幻想を必要とするような状態をすてろと要求することである。だから宗教の批判は、いずれは、宗教を後光にいただく苦しいこの世の批判にならずにはいられないものである〉
 と指摘する。
 宗教は幻影に過ぎないのだから、この幻影を作り出している社会を批判しなくてはならないとマルクスは考えている。
 マルクスは、プロテスタンティズムカトリックの神から人間に力点をシフトしたと考える。プロテスタンティズムの創設者の一人であるマルティン・ルターは、聖書をドイツ語に翻訳し、すべての信徒が神父(僧侶)と同様の知識を持つならば神父はいらなくなると考えた。従って、プロテスタントには聖職者という概念はない。牧師は聖なる人ではなく、一般信者と同じ人間だ。
 マルクスは、
 〈ルターはたしかに帰依からの屈従を克服したが、それは確信からの屈従をかわりにもってきたからであった。かれは権威への信仰を打破したが、それは信仰の権威を挽回したからであった。彼は僧侶を俗人らしくしたが、それは俗人を僧侶らしくしたからであった。彼は外形的な宗教心から人間を解放したが、それは宗教心を人間に内在的にしたからであった。彼はからだを鎖から解放したが、それは心を鎖につないだからであった。
 けれども、プロテスタンティズムは課題の真の解決ではなかったにしても、課題の真の提出であった〉
 と指摘する。
 キリスト教から神秘的要素を除去しようとするプロテスタンティズムによって近代社会が抱える問題が提示されたと考える。
 そして、
 〈ただ一つ実際上可能なドイツの解放は、人間が人間の最高存在であると言明するような理論の立場にたってする解放である。(中略)この解放の頭脳は哲学であり、この解放の心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアート止揚することなしには現実化されえず、プロレタリアートは哲学を現実化することなしには止揚されえない〉
 とマルクスは結論づける。
 プロレタリアート(賃金労働者)に対するマルクスの思い入れにはついていけないが、宗教や擬似宗教で物事を真剣に考えるのを停止してしまうリスクを指摘した点で、21世紀の今日もこの論文の価値は減じていない。
 『週刊現代』2016年11月26日号より
   ・   ・   ・   

🎺40:─3・B─1944年9月 ハイドパーク協定。原爆を「日本人に対して使う」秘密合意。~No.179No.180No.181 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 米英首脳は、原爆投下実験が終了するまで昭和天皇と軍国日本の降伏を認めない事に暗黙に了解した。
   ・   ・   ・   
 原爆開発のマンハッタン計画は、アメリカ・イギリス・カナダの三カ国による共同開発で、ベルギーがコンゴ・ウランを提供していた国際的プロジェクトであった。
   ・   ・   ・   
 原爆投下実験とは、実戦における爆破実験であったが、隠れた目的は日本人をモルモットとする人体実験であった。
   ・   ・   ・   
 2024年3月10日 YAHOO!JAPANニュース HOME広島ホームテレビキリスト教平和団体アメリ支部が広島訪問 原爆投下について「同胞が犯した残虐な行為」と謝罪
 キリスト教系の平和団体アメリ支部メンバーが広島を訪れ、原爆投下に対して謝罪し、核廃絶に向けての声明を発表しました。
 パックス・クリスティ ローズマリーペース巡礼団共同代表
 「核兵器の完全な廃絶を目指して歩む良きパートナーとして、共に祈り、声をあげ、行動するための努力を惜しまない事を誓います。」
 パックス・クリスティは世界50カ国以上で平和活動や人権活動を行っているカトリック協会の国際団体です。
 対話集会と題し,広島県内の被爆者6団体と交流しました。
 原爆投下に対し、「同胞が犯した残虐な行為」と謝罪し、アメリカ政府から公式な謝罪がない現状を批判しました。
 今後は、共同でアメリカ政府に公式な謝罪を要求するとともに、核保有国が核兵器禁止条約に参加することを求めるということです。
   ・   ・   ・   
 2017年1月15日 産経新聞「入門・日米戦争どっちが悪い(7)
 最初から落とすつもりだった原爆 相手が日本人だから大量虐殺 
 渡辺 浩
 【入門・日米戦争どっちが悪い(7)】最初から落とすつもりだった原爆 相手が日本人だから大量虐殺 
 戦争が始まると、米国内では12万人以上の日系人が全財産を没収されて強制連行され、鉄条網が張り巡らされた収容所に入れられました(日系人強制収容)。収容所ができるまでの間、臭気が漂う厩舎に入れられた人もいました。7割が米国生まれの2世で米国籍を持っており、残り3割の1世も永住権を持ち20~40年も米国で暮らしていました。なんと、米大統領フランクリン・ルーズベルトは開戦5年前の1936年にハワイの日系人を強制収容する計画を検討していたことが明らかになっています。
 インディアン虐殺の延長
 太平洋の戦場では米兵による残虐行為が行われました。初の大西洋単独無着陸飛行に成功した米国人チャールズ・リンドバーグは開戦後、民間人技術顧問として南太平洋の前線に派遣され、そのときの米兵の振る舞いを著書『リンドバーグ第二次大戦日記』に書きました。
 「わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが南太平洋における戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う」とした上で、米兵が日本兵の遺体から金歯を盗んだり、耳や鼻、さらには頭蓋骨を「お土産」として持ち帰った事実を紹介しています。
 日本兵の遺体の一部を持ち帰る行為は広く行われていて、米国の雑誌「ライフ」の1944年5月22日号には、若い米国人女性が前線のボーイフレンドから送られてきた日本兵の頭蓋骨をうっとり見つめながら礼状を書いている写真が掲載されています。
 ジョン・ダワーという米国の反日的な歴史学者でさえ、こうした実態を紹介した上で「もしも歯や耳や頭皮がドイツやイタリアの兵士から収集され、それが英米国内に報道されたならば、騒然たる状況を引き起こしたに違いない」と指摘しています。
 ドイツ人やイタリア人は同じ白人であり、人種的蔑視の対象ではありませんでした。ナチスの政治体制とドイツ人は分けて考えられていました。しかし日本人については国全体を人間ではない野蛮な存在とみなしていたのです。
 ルーズベルトが「日本人は頭蓋骨の発達が白人より2000年遅れているから邪悪なのだ」と大真面目に信じていたという話を連載の5回目で紹介しましたが、海軍提督ウィリアム・ハルゼーは「日本人は雌猿どもと、慈悲深い皇帝によって中国から追放された極悪の罪人たちとの交尾による産物であった」という「ことわざ」を信じていました。部下に対して「下等な猿ども」をもっと殺して「猿肉」をたくさん作れと督励しました。
 「良いジャップは死んだジャップ」とも公言しました。これは米国がインディアンを虐殺していたころの軍人フィリップ・シェリダンの有名な暴言「良いインディアンとは、死んだインディアンのことだ」をもじっています。米国人は対日開戦の半世紀前の1890年までインディアンの虐殺を行っていましたから、太平洋戦線の兵士たちは父や祖父から虐殺の武勇伝を聞かされていたのです。彼らにとって太平洋の島々は「開拓」すべき「フロンティア」であり、日本人はインディアンと同様、絶滅の対象だったのです。
 黙殺させたポツダム宣言
 米国による残虐行為の最たるものが東京大空襲や広島、長崎への原爆投下など非戦闘員の大量虐殺です。
 米国は戦争が始まるとユタ州の砂漠に東京・下町の街並みを再現する日本家屋群を作り、ちゃぶ台の上にはしと茶碗まで置いて、焼夷弾の効果を確かめる実験を行いました。そうして完成したのがM69という、わが国を焼き尽くすための新型焼夷弾でした。江戸時代の大火が春に集中していたことを調べ上げ、1945(昭和20)年3月10日を東京大空襲決行の日に選びました。
 東京大空襲の約1カ月後の4月12日、わが国を戦争に追い込んだ米大統領ルーズベルトが死去し、後任に副大統領のハリー・トルーマンが就任しました。このトルーマンが8月6日に広島に、9日に長崎に原爆を投下した大統領になります。
 わが国の一部には「日本が侵略戦争を行い、ポツダム宣言を黙殺したから原爆を落とされた」という原爆容認論があります。広島の原爆死没者慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」と刻まれ、修学旅行でやってきた児童・生徒が「自分たちの祖先が悪かったから原爆を落とされたんだ」と反省しています。
 米国民の多くは「原爆投下によって終戦を早め、本土決戦で犠牲になるはずの100万人の米兵の命が救われた」という根拠のない「原爆神話」「早期終戦・人命救済説」を信じています。2007年には核不拡散問題担当特使のロバート・ジョゼフが「文字通り何百万もの日本人の命がさらに犠牲になるかもしれなかった戦争を終わらせたということに、ほとんどの歴史家は同意すると思う」と、米兵だけではなく日本人のためだったと恩着せがましく語りました。
 わが国の原爆容認論、米国の原爆正当化論は、どちらもとんでもない話です。ルーズベルト真珠湾攻撃2カ月前の1941年10月に原爆の開発を決断。翌年、原爆開発のマンハッタン計画に発展します。1944年9月、ルーズベルトと英首相ウィンストン・チャーチルは、原爆が完成したら「日本人に対して使う」という秘密の合意を行いました(ハイドパーク協定)。
 ポツダム宣言が発表されたのは1945年7月26日ですが、トルーマンはその前日の25日に「広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に特殊爆弾を投下する。追加分も準備が整い次第、前記目標に投下せよ」と2発の投下を命令していたのです。
 トルーマンはこの日の日記に「ジャップに対し、降伏し、命を無駄にしないよう警告の宣言を発するつもりだ。彼らが降伏しないことは分かっている」と書きました。ポツダム宣言とは関係なく原爆を落とすつもりだったのです。
 日記には「われわれは世界の歴史で最も恐ろしい爆弾を発見した」とした上で「ノアの箱船の後のユーフラテス渓谷時代に予言された火による破壊とは、このことかもしれない」との記述があります。これは、旧約聖書の「創世記」に登場する都市「ソドムとゴモラ」を指しているとみられます。
 ソドムとゴモラは同性愛などの退廃が神の怒りをかい、天からの激しい火によって滅ぼされたとされています。トルーマンは原爆投下を天罰と考えていたのでしょう。
 トルーマンは8月の2発に続いて、9、10、11月に3発ずつ、必要なら12月にも7発と、最大18発の原爆を投下するという軍部の計画を承認していました(1995年7月16日付ワシントン・ポストの報道)。
 現代史研究家の鳥居民氏は、ポツダム宣言はわが国が「黙殺」するように作られていたと論じました。ポツダム宣言の草案には、共同署名国としてソ連が書かれていましたが、トルーマンと原爆投下を強硬に主張する国務長官ジェームズ・バーンズはそれを削り、中国国民政府に差し替えました。わが国がソ連に和平の仲介を依頼していることを知っていたため、ソ連への期待を持ち続けさせようとたくらんだのです。
 草案には天皇の地位保全(国体護持)を認める条項もありましたが、それも削除しました。国体護持こそがわが国がこだわっていた降伏条件だったからです。
 そして、最後通告の公式文書だと思わせない形式にし、ホワイトハウス国務省からではなく宣伝機関の戦時情報局から発表しました。
 広島と長崎に原爆を落とすまでわが国を降伏させないように、ポツダム宣言はできていたのです。米国は開戦前にわが国の戦争回避の努力を知りながら時間稼ぎをして追い込みましたが、戦争が終わるときも和平意図を知りながら引き延ばして原爆を落としたのです。
 もしドイツの降伏が遅くても、原爆はドイツに対して使われることはなかったでしょう。日本人に対する人種偏見があったからこそ恐るべき人体実験が行われたのです。
 「日本人は獣として扱う」
 トルーマンは広島に原爆が投下されたとき、ポツダム会談を終えて巡洋艦オーガスタで帰国する途中でした。将校から「原爆投下成功」のメモを見せられると飛び上がって喜び、「歴史上、最も大きな出来事だ」と言いました。
 トルーマンルーズベルトに負けず劣らずの人種差別主義者でした。27歳だった1911年、後に妻になるベスに宛てた手紙にこう書きました。
 「叔父のウィルが言うには、神は砂で白人を作り、泥でニガー(黒人の蔑称)を作り、残ったものを投げたら、それが落ちて中国人になったそうです。叔父は中国人とジャップが嫌いです。私も嫌いです。たぶん人種的偏見でしょう。しかし私は、ニガーはアフリカに、黄色人種はアジアに、白人はヨーロッパと米国にいるべきだと強く信じています」
 原爆投下を受けて、全米キリスト教会連邦協議会のサミュエル・カバート事務総長はトルーマンに「多くのキリスト教徒が動揺している。それが無差別破壊だからだ」と電報を送りましたが、トルーマンはこう返信しました。「獣を相手にするとき、あなたはそれを獣として扱わなければならない。大変残念だが、それでも真実だ」
 戦後も「後悔していない」「全く心が痛まない」と繰り返し語りました。1958年のCBSの番組で、道義上の問題があるので決定は難しかったのではないかと問われると、「とんでもない。こんな調子で決めたよ」と、ボーイを呼ぶように指をパチンと鳴らしました。
 =つづく
 (地方部編集委員 渡辺浩)
>(1)片手に十字架、片手に鉄砲 侵略と虐殺繰り返した西欧白人国家
>(2)先住民追い出し太平洋に出た米国 「明白な運命」と略奪正当化
>(3)日露戦争機に対日戦を想定した米国 日本人移民排斥の動き激化
>(4)満州を狙い嫌がらせした米国 支那事変拡大の影にコミンテルン
>(5)日本を追い込んだルーズベルト 背景に人種偏見とソ連のスパイ
>(6)「真珠湾」事前に知っていたルーズベルト 現地に教えず見殺し
>(7)最初から落とすつもりだった原爆 相手が日本人だから大量虐殺
>(8)野蛮な復讐劇だった東京裁判 原爆など米ソの戦争犯罪は不問に
>(9)押し付けられた日本国憲法 GHQの社会主義者が9日間で作る
>(10)共産中国も北朝鮮も米国が作った ヤルタでスターリンに献上
   ・   ・   ・   

⏱37:ー1ー中国のSNSで拡散される対日悪質デマ。京都の門跡寺院の土地が「中国で売却」。~No.95No.96 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 中国では、反日敵日は多数派で、知日は少数派で、親日は死刑に値する反逆者である。
   ・   ・   ・   
 2024年3月7日 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞「京都の門跡寺院の土地が「中国で売却」? 悪質デマの拡散と困惑
 実相院の瀧の間に映り込む新緑のカエデ
 © 産経新聞
 京都市左京区にある門跡寺院「実相院」の土地が中国で売りに出されているという投稿が今月、交流サイト(SNS)上で拡散された。磨き上げられた床に紅葉や新緑が映る「床もみじ」「床みどり」で知られる実相院は、皇族にもゆかりのある由緒ある寺院。寺側は取材に対し「事実無根のデマ」と話し、身に覚えのないフェイクニュースの拡散に戸惑いを隠せない様子だ。
 《中国のSNSで実相院が売却されています。きちんと調査した方がよいと思います》
 今月5日、X(旧ツイッター)でこんな投稿があった。投稿には中国の商取引機能を備えたSNSの画面とみられる画像が添えられていた。寺では以前、登録有形文化財である客殿の修復のためにクラウドファンディング(CF)を実施した経緯があり、SNSでは修復資金の捻出のために売却に踏み切ったのではとの憶測も広がった。
 実相院のホームページ。サイト上でもSNSの投稿を否定している
 © 産経新聞
 寺側は5日夜、外部からの連絡で異変を覚知。投稿を受け、売却を心配する電話も複数件寄せられたという。寺側は6日、Xやホームページで「そのような事実は一切ありません」などと発表、デマの打ち消しに追われた。
 寺の担当者によると、騒動の端緒となったXの投稿は既に削除されている。担当者は取材に「情報はデマです」と改めて強調。客殿修復資金の不足は認めつつも、売却については「そんなことをするわけがない」と語気を強めた。その上で「中国で勝手なことをやっているのは頭に来るが、日本人が裏付けもせず吹聴するのも悲しい」と冷静な対応を求めた。
 事実無根の売却情報がSNS上で拡散された実相院=7日午後、京都市左京区(荻野好古撮影)
 © 産経新聞
 実相院は鎌倉時代の寛喜元(1229)年に現在の京都市北区に創建。室町時代応仁の乱を逃れるため現在の場所に移ったとされる。(荻野好古)
   ・   ・   ・   

🎺40:─3・D─太平洋戦争の敗北は日本海軍の失敗を隠す隠蔽体質が原因であった。台湾沖航空戦。~No.179No.180No.181 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人は、歴史を学び歴史を教訓としない為に、同じ失敗を何度でも繰り返す。
 その傾向が強いのが、超難関校出の高学歴なエリートやインテリ達である。
   ・   ・   ・   
 2023年12月29日 DIAMOND online「日本海軍の”幻の戦果”が教えるリーダーの役割とは?「失敗を隠し続ける」が招く大惨事
 瀧澤 中:作家・政治史研究家
 歴史失敗学
 日本海軍の”幻の戦果”が教えるリーダーの役割とは?「失敗を隠し続ける」が招く大惨事
 旧海軍司令壕の司令室 (写真はイメージです)Photo:PIXTA
 歴史には数々の「失敗」がある。この真実を読み解くことで、時を経て繰り返されるビジネス上の失敗に向き合う連載「歴史失敗学」。第1回は、昭和19年に起こった日本海軍の「ウソの報告」に端を発する出来事を取り上げる。(作家・政治史研究家 瀧澤 中)
 日本海軍始まって以来の大戦果?
 戦争では誤謬(ごびゅう)、つまり「誤り」が少ない方が勝つ、といわれる。相手のあることだから、誤謬が起きるのは仕方がない。しかし、「起こしてはいけない誤り」もある。
 昭和19(1944)年の台湾沖航空戦では、この「起こしてはいけない誤謬」が重なり、取り返しがつかない結果を招いた。大きな問題としては、第1に、大戦果が幻であったこと。第2に、戦果が誤報とわかってもそれを修正しないどころか、味方にすら真実を明かさなかったこと。
 第一の点から見ていこう。昭和19(1944)年10月。日本海軍は、劣勢を一気に挽回しようと、押し寄せるアメリカ機動部隊(航空母艦17隻、戦艦6隻など)を台湾沖で壊滅させようとした。
 5日間にわたった戦いの戦果は、とてつもないものだった。敵空母11隻撃沈、同8隻大破、戦艦2隻撃沈などなど。もし本当だとすれば真珠湾攻撃以来の、いや、日本海軍始まって以来の大戦果である。
 国民は沸き立った。国民だけではなく、陸海軍の首脳部も喜びに沸いた。うその代名詞として使われる「大本営発表」だが、この時は現場から上がってきた情報を素直に発表していたために、軍首脳ですらこれを信じたのである。
 大小艦艇合わせれば40隻以上の敵艦を撃沈もしくは撃破したという戦果は、現実にはどうであったのか。
誤報を前提に、作戦を大幅変更
8万人近い日本人兵が戦死
 なんと、実際には、ただの1隻も沈んではいなかった。わずかに巡洋艦2隻大破、空母2隻・軽巡洋艦2隻に軽微な損害。
 戦果誤認の原因は、戦果を確認できるベテランパイロットが圧倒的に少なく、攻撃を終えて帰還した者たちの自己申告が戦果となったこと。
 あるいは、大本営発表の前に軍内部で検討し、「偵察では、昨日は敵空母5隻を確認したが、今日は空母を2隻しか確認できなかった。だから今日の戦果は3隻だ」という単純計算の積算によった。
 開戦以来、ベテランパイロットの多くを失ったため訓練途上のパイロットを多用、しかも米軍の圧倒的な弾幕の中で、果たしてこれほどの戦果が出せるものか?さすがに指揮を執っていた第二航空艦隊や連合艦隊では疑問も出ていた。そこで、海軍内で検討会議が開かれた。
 結果は、「多くて敵艦4隻撃沈」となり、米機動部隊は健在だろう、という結論に至った。ここで第2の「戦果が誤報と分かっても、それを修正しないどころか、味方にすら真実を明かさなかった」という問題点について述べたい。
 誤報そのものをマイナス10点だとすれば、海軍が誤報を陸軍に伝えなかった罪は、その10倍以上罪深いことであると考える。
 なぜなら、陸軍は海軍の「大戦果」を前提にしてフィリピン作戦を大幅変更。結果、8万人近い日本陸軍将兵が圧倒的な米軍の戦力によって戦死したからである。
 台湾沖航空戦の直後、米軍がフィリピン南部レイテ島に上陸を開始。「米機動部隊は壊滅」という海軍の報告をうのみにしていた陸軍首脳部は、これで敵機の攻撃はないと考え、直ちにフィリピン南部への攻撃を命令した。
 フィリピンの第14軍方面司令官・山下奉文大将は大反対する。陸軍はそれまでフィリピン北部のルソン島で、決戦に備えた兵員や物資の集積を行い、陣地も築いていたのに、南部に移動となれば、兵員など輸送途上で攻撃を受けることは間違いない。
 そもそも、敵機動部隊は壊滅したのか?マニラ近郊にいた山下は、収まる気配のない敵機による空襲や各種情報を総合し「敵の機動部隊はかなり残っている」と予測した。
 しかし陸軍首脳、参謀本部は海軍の戦果を疑わず、「神機到来!」と、山下にレイテ攻撃を下令。山下はやむなく、準備のない南部に大規模増援を行なった。
 結果は、惨憺(さんたん)たるものであった。
 陸軍の「左巻きネジ」海軍の「右巻きネジ」 
 送り込まれた第35軍は大敗北を喫する。案の定、ルソン島からレイテ島への兵員・物資は輸送途上、敵航空機などの攻撃でやられ、中には、兵は到着したが武器弾薬や食料を失い、丸裸で前線に送り込まれた部隊もあった。彼らは航空機による援護もなく、負けるべくして負けたのである。レイテ島に無謀に上陸させられた日本陸軍9万名のうち、7万9000人余りの将兵が命を失った。
 海軍はなぜ、「敵健在」情報を陸軍に隠したのか。
 自分を守り、その場を繕いたい。その一心であったというのは少し言い過ぎかもしれない。おそらくは、「海軍」という組織を守りたかったのであろう。
 うそのような本当の話だが、当時の軍需工場では、同じ敷地の中に「陸軍用」と「海軍用」の工場が別々に建っていて、門まで別になっていた。そして、陸軍が「左巻きネジ」を作ると海軍は「右巻きネジ」にして、部品を融通し合うことはなかった。部品だけではなく、原材料も、人員も融通しない。陸海軍は予算を奪い合うライバルであって、戦局の最終盤にならなければまともな協働は見られなかった。
 そんな中で、海軍は自分の「大戦果」を「いまさら『なかった』とは言えない」ということになったのである。
 問題はさらに根深い。戦果が過大だと気付いた海軍内部の検討会議。ここに参加していた航空参謀が戦後、どんな話があったのかを尋ねられると「記憶にない」と答えている。
 なぜ「記憶にない」が根深い問題なのかと言えば、会議の中身がわからなければ、どうして海軍は修正した情報を陸軍に伝えなかったのか、という経緯がわからないからである。この反省がなければ、同じ過ちを繰り返す。
 本当に忘れたのかどうか、それは本人にしかわかるまい。しかし戦後、会議に参加した海軍の人間が一般に公表したもの(手記や著作)には、ほとんどそのことが触れられていない。(例えば連合艦隊航空参謀だった淵田美津雄ほかの著作『機動部隊』など)。
 当時、連合艦隊司令長官であった豊田副武の口述記録『最後の帝国海軍』でも、陸軍に報告しなかった件は1行も触れず、戦果については「現地報告はうのみにはしていなかった」など自己正当化までしている始末である。
 もちろん、陸軍が正しいとは言わない。淵田美津雄が主張するように、陸軍はガダルカナル戦やサイパン戦で航空兵力を出し惜しみしたことは事実である。しかし、だからといって海軍に正確な戦果の情報を渡さないという理由にはならない。結局、「いまさら言えない」ということであったのだろう。
 「みっともないこと」を反省し
 強い組織に磨き上げる
 「失敗の教科書」ともいえる昭和17(1942)年のミッドウェー海戦。ノンフィクション作家・森史朗氏の労作『ミッドウェー海戦』の中で、参謀の一人が「本日敵出撃ノ算ナシ」(きょう敵は攻撃してこない)ということを、まさに攻撃を受ける当日に参加艦艇宛てで発信したことを解明している。
 誤判断の問題は森氏の著作に譲りたい。問題はこの「本日敵出撃ノ算ナシ」発信を、参謀は戦闘詳報(報告書)に記載しなかったことである。
 これでは、反省のしようがない。なぜ戦闘詳報に記述しなかったのか、という森氏の問いに参謀は、「そんなみっともないこと、書けますかいな!」と答えている。森氏は「要するに旧海軍の名誉を守るために不都合な事実をすべて隠蔽(いんぺい)した」と記述している。
 一体、これらの原因はどこにあるのか?
 元海軍次官の沢本頼雄大将は、手記の中で「自分の職域、自分の立場に重きを置いた」「海軍を犠牲にして国家に尽くすことは、とても難しかった」と述べている。
 職域を近視眼的に優先した結果、不都合なことは報告せず、組織そのものが危機に瀕したわけである。
 近年、日本大学での薬物問題で、第三者委員会が発表した報告書(全文版)を読んで驚いたのは、「場当たり的で、責任回避、自己正当化に終始した近視眼的対応」「不都合な情報には目をつぶり、得られた情報を自分に都合よく解釈し、自己を正当化する」といった記述とともに、「A学長は当委員会によるヒアリング調査において、重要な報告について、『ほとんど記憶していない』との供述に終始した」という一節である。
 日大問題や東芝問題などでも起きたことだが、どんな小さな組織であれ、「長」を任された人間には「失敗を明らかにする」という責任がある。なぜなら、リーダーは組織の「今」を守ることはもちろん、組織の「未来」をも守る責任があるからである。
 失敗の原因を突き止めれば、無駄な失敗(同じ失敗)のない、強い組織に磨き上げることができるはずである。有能で頭の良い人ほど、失敗を公にすることは「みっともない」と感じるのかもしれない。しかし。
 「みっともないこと」を報告し、
 「みっともないこと」を皆で議論し、
 「みっともないこと」を反省し、
 二度と起こさないようにする。
 組織最大の敵、「沈黙」。これを破ることこそが、失敗を生かすことにつながるのではなかろうか。
   ・   ・   ・   

🎷115:─1─団塊の世代であるシニアよりZ世代の若い男性の方が「右傾化」している。~No.435No.436 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 多数派であるZ世代の男女は、民族思考、親米派で保守を支持しリベラル左派を嫌っている。
 少数派である超難関校出の高学歴な若者は、グローバル思考、親中国派でリベラル左派を支持し保守が嫌いである。
   ・   ・   ・   
 安倍晋三元総理に対する、支持者には若い世代が多かったが、反対派にはおじさんやおばさんの世代が多かった。 
   ・   ・   ・   
 2024年2月8日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン団塊の世代より若い男性のほうが「右傾化」 Z世代の男女間の溝が過去最大に
 若い男性が団塊の世代よりも保守的に?
 英国で実施された最近の世論調査で、Z世代の男性(16~29歳)が、団塊の世代の男性よりも高い割合で「フェミニズムが利益よりも害をもたらした」と信じている可能性を示唆する結果が出た。
 【画像】英語圏の右傾男子がハマるコンテンツって?
 そのように考える60歳以上の世代が13%だったのに対し、16~29歳の世代は16%だった。
 一般的に、若い世代のほうがフェミニズムに傾倒していると考えられていたが、同調査で「予想外」の結果がでたと英紙「ガーディアン」は報じている。
 また、この若い世代の男性の4人にひとりが「女性よりも男性であることのほうが難しい」と考えているという。
 さらに、数々の女性蔑視発言で知られる、英語圏では非常に認知度の高い男性インフルエンサーのアンドリュー・テートについて、5人にひとりが好意的であることもわかった。この傾向は、英国では「特に非白人の若い男性の間で顕著」だと、同紙は述べている。
 若い世代の一部の男性が保守的な価値観に傾倒しているのに対し、女性は一般的な認識通り、より進歩的な価値観に傾いている。つまり、Z世代の男女の価値観や政治観に大きな断裂が生まれている。
 英紙「フィナンシャル・タイムズ」によれば、たとえば18~30歳を対象とした米国の調査では、女性は男性に比べて30 パーセントポイントもリベラルである。ドイツでも同様の差があり、英国も25ポイント差だった。ポーランドでは昨年、18~21歳の男性のほぼ半数が極右政党を支持したが、同世代の若い女性ではわずか6分の1だった。
 この差は、他の上の世代よりも顕著で、「韓国、中国、チュニジアなどでも若い男性と女性の間で、過去最大の価値観の断裂が確認されている」という。
 この30歳以下の若い男女の価値観の溝は、ジェンダー観の枠にとどまらず、人種的正義や移民問題に関する立場にも影響を与えており、たとえば、「ドイツでは若い男性が積極的に右傾化しており、30代以下の世代は60歳以上の世代よりも移民に反対している」という。
男性はYouTube、女性はTikTok……
 女性の左傾化は、特に世界的に広がった7年前の#MeToo運動以降、たびたび報じられてきた。一方、男性の価値観には、女性ほどの大きな変化はなく、結果、男女間の溝はゆっくりと広がってきた。ところが、その間にZ世代の男性においては「積極的な右傾化」が生じていた。
 各紙によれば、この背景にある大きな要因のひとつは「ソーシャルメディアの影響」だ。
 スマートフォンソーシャルメディアの普及により、若い男女が別々のまったく異なるオンラインスペースで生活をする時間が長くなっていることは、この溝をさらに深めている。
 米紙「ニューヨーク・タイムズ」は、「男性はより多くの時間をYouTubeに費やし、女性はTikTokに費やしている」「(この違いは)Z世代の男女をまったく異なる価値観へと導く」と指摘している。
 価値観のギャップの増大傾向は一時的なものではなく、その後も続き、修復不可能な社会の分断に繋がる可能性があると懸念されている。
 たとえば、若い男女の価値観が断裂した際に何が起きうるかを示しているのが韓国だとフィナンシャル・タイムズは述べている。
 結婚率は急落し、急激に低下した出生率は世界最低となっている。
 若者の政治参加率は、多くの国で低い傾向があり、若者の意見が無視されることは多い。しかし、「このギャップは次世代にも波紋を残し、投票数以上の影響を与える可能性がある」と、同紙は締めくくっている。
COURRiER Japon
   ・   ・   ・