☂40:─1─マルクス主義と反宗教主義。共産主義は宗教を弾圧する。~No.133No.134No.135 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 共産主義者は人民暴力革命成功の為ならば、詭弁を弄し、嘘をつく。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 2010年7月15日 しんぶん赤旗マルクスが言った「宗教はアヘン」とは?
 〈問い〉マルクスが言った「宗教はアヘン」とは、どんな意味で、なぜ今も話題になるのですか?
 〈答え〉マルクスは、25歳の時の論文「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書いたことがあります。
 この文脈からも明らかなように、アヘンを単純に毒薬という意味で使っているのではありません。アヘンは乱用すれば有害ですが、アヘンの成分から作られるモルヒネは、鎮痛剤として使われています。
 アヘンという言葉には、宗教に対するマルクスの批判もこめられています。宗教は民衆にあきらめとなぐさめを説き、現実の不幸を改革するために立ち上がるのを妨げている、という意味です。ここには、当時のヨーロッパで宗教が果たしていた歴史的な事情が反映しています。キリスト教は、国王権力と支えあう関係になって、専制支配のもとで苦悩する民衆に忍従を説いていました。マルクスはそうした宗教の役割を批判したのです。
 マルクスがアヘンという言葉を使った背景には、当時のヨーロッパでアヘンが話題となっていたという事情もあります。イギリスが植民地インドで製造したアヘンを中国(清)に密輸し、アヘン戦争が起こった時代でした。
 反動勢力は、「宗教はアヘン」というマルクスの言葉をわい曲して、科学的社会主義を攻撃しました。それが今も影響しているといえます。しかし、マルクスが宗教を侮蔑(ぶべつ)していないことは、宗教によって不幸に抗議している、と述べていることからも明らかです。
 科学的社会主義は、反宗教の立場ではなく、宗教が実際に果たした役割を分析し、宗教がになった民衆への奉仕の意義を重視して、世界観の違いをこえた宗教者との共同をはかってきました。
 日本共産党は、日本の宗教には、一部に反社会的、反民主主義的動向がみられるものの、宗教界の多くの人びとが社会進歩に積極的役割を果たしていると考えています。日本共産党の綱領は「信教の自由を擁護し、政教分離の原則の徹底をはかる」と明記し、この方針をつらぬいて、宗教者との対話と共同を発展させています。
 (2010・7・15)
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 ウィキペディア
 反宗教主義(英: Antireligion)とは、宗教に反対する思想のことである。ヨーロッパではフランス革命を機に政治の実際の政策に登場するようになり、マルクスがそれを評価したことで、その後の社会主義にも反映されていった。
 ただし無神論に基づく棄教運動もあれば、理神論に基づく古い宗教の改革運動もあり、内容は一概には言えない。
 マルクス主義と反宗教主義
 一部のマルクス主義者は宗教に対して否定的な立場をとることがある。実際、ロシア革命以降、ソ連アルバニア中華人民共和国などの共産主義国家において、政策として宗教が弾圧され、聖職者が殺害されたり教会が破壊された。
 日本共産党は宗教界への浸透を意図しており、宗教界においては注意が必要である。
 科学の立場からの反宗教主義
 宗教的世界観は科学的事実としばしば衝突してきた。近現代においても、宗教的世界観に基づく創造論インテリジェント・デザイン論が公教育の場で教えられるべきであるという主張がアメリカ合衆国でなされ、それに反対する人々と論争になっている。動物行動学者のリチャード・ドーキンスは、そのような主張に真向から反対し、宗教そのものに対しても有害でしかないとする立場をとっている。 ただし、すべての科学者が反宗教的であるというわけではなく、スティーヴン・ジェイ・グールドを始めとする科学者たちは、科学の領域を宗教が犯さない限りは問題としない立場(NOMA, Non-Overlapping Magisteria, 非重複教導権の原理)をとっている。
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 2024年3月10日 現代ビジネス「なぜマルクスは宗教を「民衆のアヘン」と批判したか
 21世紀の今も色褪せぬ思想の本質
 佐藤 優作家
 なぜ宗教は「民衆のアヘン」なのか?
 ソ連が崩壊してから25年になるが、共産主義理論の創始者であるマルクスの名前は今でも有名だ。もっとも主著『資本論』をはじめ、マルクスの著書は知られていても、実際に読んだ人は少ない。
 マルクスが宗教を「民衆のアヘン」と批判したことは何となく知られているが、それがどの著作であるかということを知っている人はほとんどいない。
 21世紀になって、共産主義の影響はほとんど無くなったが、イスラム原理主義アメリカのキリスト教右派は無視できない影響力を持っている。日本では、既成宗教、新興宗教がともに影響力を低下させている。他方、自己啓発セミナーやマルチ商法のような擬似宗教が影響力をますます拡大している。
 おかしな宗教や擬似宗教に引っかかると人生が滅茶苦茶になる。宗教のリスクを知るために25歳の若きマルクスが「民衆のアヘン」と書いた『ヘーゲル法哲学批判』について、検討してみよう。
 マルクスは、
 〈反宗教的批判の根本は、人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない、ということである。
 たしかに宗教は、人間が人間らしい生き方をまだしていないか、もうできなくなっている場合の、自己意識であり自己感情である。けれども人間というものは、けっしてこの世界の外にうずくまっている抽象的存在ではない。
 人間、それはつまり人間の世界のことであり、国家であり社会のことである。この国家、この社会が、宗教という倒錯した世界意識をうみだすのは、この国家、この社会が倒錯した世界であるためである〉
 と指摘する。
 人間が宗教を作るのであるという至極当たり前のことをマルクスは指摘している。その上でマルクスは、宗教が人生の問題を解決する際に参照する百科辞典のようなものだという考えを示す。
 〈宗教は、この世界の一般理論であり、それの百科辞典的な綱要であり、その論理学が通俗的な形をとったものであり、それの精神主義的な名誉問題であり、それの興奮であり、それの道徳的是認であり、それのおごそかな補足であり、それの慰めと弁解の一般根拠でもある。
 宗教が人間の本質を空想的に実現したものであるのは、人間の本質が真の現実性を持っていないからである。だから宗教にたいする闘争は、間接的には、宗教を精神的香科としてもちいているこの世界にたいする闘争である〉
 もっともこの百科辞典は、通俗版なので、宗教によって人間は世の中の問題を何となくわかってしまったような気になるが、「真の現実性を持っていない」と批判する。
 現代に引き寄せて言うならば、日銀の金融政策や、安倍首相の北方領土戦略をテレビのワイドショーによって理解するようなものだ。
 21世紀の今も価値は変わらない
 宗教には人間に即効性のある幻想的な解答を与える危険性があると考える。
 〈宗教上の不幸は、一つには実際の不幸のあらわれであり、一つには実際の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやんでいる者のため息であり、また心のない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。それは、民衆のアヘンである〉。
 宗教や自己啓発セミナーやマルチ商法のような擬似宗教に阿片のような作用があることは間違いないと思う。
 それではどうすれば、人間は宗教を脱構築することができるのであろうか。
 マルクスは、
 〈幻想のなかで民衆の幸福をあたえる宗教を廃棄することは、現実のうちに民衆の幸福を要求することである。自分の状態についての幻想をすてろと要求することは、幻想を必要とするような状態をすてろと要求することである。だから宗教の批判は、いずれは、宗教を後光にいただく苦しいこの世の批判にならずにはいられないものである〉
 と指摘する。
 宗教は幻影に過ぎないのだから、この幻影を作り出している社会を批判しなくてはならないとマルクスは考えている。
 マルクスは、プロテスタンティズムカトリックの神から人間に力点をシフトしたと考える。プロテスタンティズムの創設者の一人であるマルティン・ルターは、聖書をドイツ語に翻訳し、すべての信徒が神父(僧侶)と同様の知識を持つならば神父はいらなくなると考えた。従って、プロテスタントには聖職者という概念はない。牧師は聖なる人ではなく、一般信者と同じ人間だ。
 マルクスは、
 〈ルターはたしかに帰依からの屈従を克服したが、それは確信からの屈従をかわりにもってきたからであった。かれは権威への信仰を打破したが、それは信仰の権威を挽回したからであった。彼は僧侶を俗人らしくしたが、それは俗人を僧侶らしくしたからであった。彼は外形的な宗教心から人間を解放したが、それは宗教心を人間に内在的にしたからであった。彼はからだを鎖から解放したが、それは心を鎖につないだからであった。
 けれども、プロテスタンティズムは課題の真の解決ではなかったにしても、課題の真の提出であった〉
 と指摘する。
 キリスト教から神秘的要素を除去しようとするプロテスタンティズムによって近代社会が抱える問題が提示されたと考える。
 そして、
 〈ただ一つ実際上可能なドイツの解放は、人間が人間の最高存在であると言明するような理論の立場にたってする解放である。(中略)この解放の頭脳は哲学であり、この解放の心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアート止揚することなしには現実化されえず、プロレタリアートは哲学を現実化することなしには止揚されえない〉
 とマルクスは結論づける。
 プロレタリアート(賃金労働者)に対するマルクスの思い入れにはついていけないが、宗教や擬似宗教で物事を真剣に考えるのを停止してしまうリスクを指摘した点で、21世紀の今日もこの論文の価値は減じていない。
 『週刊現代』2016年11月26日号より
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