🎵28:─1─ロシアとの戦争に備えての悲劇。青森・八甲田雪中行軍遭難事件。~No.65No.66No.67 

八甲田山 特別愛蔵版 高倉健 主演 DVD2枚組

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  • 発売日: 2014/12/10
  • メディア: DVD
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本は、武力でロシアから母国を守ろうとした。
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 侵略軍の手から母国日本を守るために武器を持って戦おうとしない日本人に、彼らをとやかく言う権利はない。
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 日本陸軍は、ロシア艦隊が日本艦隊を全滅させ海岸線を支配した時を想定し、内陸に安全な輸送路確保する必要を痛感していた。
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 当時の日本は、軍事大国のロシア帝国と戦って勝てるとは思ってはいなかった。 
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 ウィキペディア
 八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が発生した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。
 雪中行軍
 日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、それに向けて準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。対ロシア戦は2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。
 雪中行軍には青森から歩兵第5連隊210名が、弘前から歩兵第31連隊37名と民間の新聞記者1名が参加した。うち青森歩兵第5連隊が遭難した。
 行軍の目的
 青森歩兵第5連隊は、冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際「青森?田代?三本木?八戸」のルートを使ったソリでの物資輸送が可能かどうかを調査することが主な目的であった。最大の難所である青森〜田代温泉間の雪中行軍演習が片道約20Km、1月23日より1泊2日の予定で計画された。行軍ルートは田代街道、現在の青森県道40号青森田代十和田線である。
 弘前歩兵第31連隊の計画は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実行してきた雪中行軍の最終決算であった。「弘前?十和田湖?三本木?田代?青森?浪岡?弘前」の総距離224Kmのルートで1月20日より11泊12日の行程であった。
 なお、両連隊は、日程を初め、お互いの雪中行軍予定を知らずに計画を立てた。ただし、弘前連隊の行軍予定については東奥日報が1月17日発行の紙面上で報道していたことから、青森側には行軍予定の重複に気付いた者がいた可能性がある。
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 朝日新聞
 八甲田雪中行軍、「七勇士」に光 遭難事件から115年
  中野浩至2017年5月22日12時09分
 「青森市の八甲田連峰で、旧陸軍青森第5連隊の将兵199人が命を落とした雪中行軍遭難事件。旧陸軍によって、別ルートで八甲田越えした弘前第31連隊の成功は封印されたが、命がけで弘前隊を道案内した7人の地元の村人は「七勇士」と呼ばれ、ひっそりたたえられてきた。遭難事件で、最後の遺体が発見されてから28日で115年。7人の功績に改めて光を当てようという動きが出ている。
 「ずっと先頭に立たされていましたが、雪をこいで進むことは100メートルも続きません」。1902(明治35)年に雪中行軍が実施されたのと同じ1月下旬、青森県十和田市の市民図書館で、紙芝居「七人の勇者」が上演された。39人(38人説もある)が参加した、弘前隊の道案内を務めた地元の若者7人の功績を描いたもので、地元の研究家らが2年ほど前に立ち上げた「八甲田山雪中行軍を語り継ぐ会」が演じる。
 弘前隊は、遭難した青森隊が出発した3日前に弘前市を発った。十和田湖を経由する反時計回りのコースをとり、区間ごとに地元住民に道案内させた。難航が予想された八甲田連峰の横断には、ふもとの十和田市から20〜30代の猟師ら7人が同行。11泊12日全224キロの行軍を一人の死者も出さずに完遂させた。
 語り継ぐ会は、事件研究の草分けで、新田次郎が小説「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」の執筆にあたって取材協力を求めた小笠原孤酒(こしゅ)の資料を整理しながら、地元で語り継がれてきた7人の功績の再評価を進める。
 蛯名隆会長(62)によると、猛吹雪のなか7人は常に先頭を歩いた。隊が露営を余儀なくされた時は、空き小屋を見つけて兵士らに暖を取らせた。中には、その後亡くなるまでの十数年間、凍傷による障害を負い続けた人もいたという。
 蛯名会長は「7人がいなければ、弘前隊も青森隊と同じ運命だったかもしれない」と話す。
 しかし、旧陸軍により遭難した…」
八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

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