🎵33:34:─1─アメリカの日本排斥運動と日米紳士協定。日本への威圧としての白い艦隊。1907年~No.83No.84No.85No.86 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 内田良平の中国人観(『支那観』)。
 1,拝金主義から、何事も金銭しだい。
 2,人間不信から、平気で嘘を付き、騙す。
 3,自己中心主義から、恩を恩と思わず、恩を仇で返しても罪悪感はない。
 4,自分の都合がいいように、事実を平然と改変し、ありもしない事を捏造する。
 5,遵法精神がない為に、自分の都合次第で約束を破る。
 1.個人主義から、他人の利益よりも自分の利益を優先する。
 7,人知社会として、縁故やコネが幅をきかせる。
 8,職権を乱用し、賄賂や横流しで私腹を肥やす。
 9,常に敵の団結を破壊するべく内部分裂を誘う陰謀を仕掛け、美女と金による豪勢な接待で内通者を作る。
 その他。
 内田良平黒龍会は、右翼の頭山満宮崎滔天らと共に孫文の中国革命を支援した。
 後に。孫文は、支援してくれた日本の右翼の期待を裏切った。 
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 1907年 日露戦争後。ロシア帝国は、アジアで獲得した利権をアメリカの攻勢から守る為に、日本の同盟国であるイギリスと英露協商を結んだ。 
 イギリスも、ドイツ帝国の急速な経済発展と軍事力強化に警戒し、対ドイツ包囲網を完成する為に露仏協商に参加するべくロシア帝国との協商に同意した。
 イギリスとロシア帝国は、アフガンからイランにかけての勢力圏を確定し、チベットを緩衝地帯と定めて軍隊を撤退させた。
 両国は、地元民への配慮を一切せず植民地とした。
 その中には、清国の属国として朝貢していた国もあったが、戦争を避ける為に切り捨てた。
 小国は、国力はもちろん軍事力も脆弱であった為に、大国の支配下に組み込まれた。
 小国が生き残る為には、軍国主義諸政策を採用して軍国化するしかなかった。
 だが。大国の植民地にならず軍国化に成功したのは、天皇制度国家日本のみであった。
 アメリカのSF小説作家ロイ・ノートンは、日米戦争を題材とした近未来戦争小説『消えた艦隊』を、アソシエイティッド・ガンデー・マガジン誌に連載した。
 これ以降、日米戦争を題材としたSF小説が出版され始めた。
 アメリカで金融恐慌が起き、多くの銀行が倒産した。
 ハーグ陸戦法規(陸上戦闘に関する法と慣習)は、軍服を着用ずあるいは軍服を脱ぎ捨てて一般人に紛れ込んでいる敵兵(便衣隊)や、指揮官のいない戦闘集団の戦闘員を戦争捕虜とは認めず、発見しだい裁判抜きで処刑する事を認めた。
 戦時国際法上で是認された戦争では、民間人に紛れてテロやゲリラやスパイを行う者は正規兵とはせず、単なる犯罪者として現場の指揮官の裁量で処分する事を合法とした。
 軍服を着ているか、民間服でも軍隊記章ををつけてる者は、戦時捕虜として人道的に扱う事が義務付けられた。
 戦争のルールでは、民間人に化けている敵兵を裁判なく処刑する事を認められている。
 戦略として、戦争の勝利が最優先された。
 後年。連合軍は、ユダヤ人をホロコーストから救出する事よりも、ナチス・ドイツに対する戦争の勝利を優先した。
 この便衣隊を大量に採用したのが、抗日中国軍であった。
 国際軍事法廷は、日本軍が大量に処刑した便衣隊の中に民間人が含まれていたとして、処刑を行った日本人将兵を有罪として処刑した。
 それが、南京事件である。
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 日米紳士協定。 サンフランシスコで大規模な日系市民反対集会が開かれ、一部の市民が暴徒化して日本人商店を襲撃した。
 日本政府は、アメリカとの関係悪化を恐れて、在日アメリカ大使と「紳士協定」を結んで、アメリカ本土向け移民への旅券発給を停止した。
 日本は、自国の権利を守る為に相手国に迷惑をかけるより、相手国に迷惑をかけない為に自国民に犠牲を強いた。
 何時の時代でも、日本の外交は、争いを避ける事を優先する協調方針のもとで国益を後退させていた。
 だが。アメリカの日本移民排斥団体は、ハワイや中南米経由で本土に入国しているとして猛反対していた。
 アメリカ各地で、地元民と日本人移民とのトラブルが急増していた。
 日本は、アメリカへの移民を自主規制し、日本に留学している者・再渡米を希望する者と両親・20歳以下の子供を除く者の労働移民への旅券発給を停止する事を約束した。
 ハースト系新聞は、日本人を排斥する為に日本人脅威論を煽った。
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 協商の年。世界は、イギリスを中心とした連合国と、ドイツ帝国を中心とした同盟国の二つに分かれつつあった。
 日本海軍は、帝国国防方針でアメリカを仮想敵国として、陸軍と熾烈な予算獲得競争を始めた。
 官僚化した昭和の軍人は、お役所仕事として予算を民政より優先的に獲得していた手前、41年に至ると破滅すると分かっていても戦えないとは言えなくなった。
 崩壊する事が分かっていても、此までの年次計画文書に縛られて身動きできなくなるというのが、前例主義で融通性なき日本人官僚の限界である。
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 過激な排日労働運動家らは、カリフォルニアの「黄金の西海岸の子供達」(NSGW)を乗っ取り、会員の中から排日運動に共鳴する政治家や判事を多く輩出した。
 カレイ・マックウィリアムス「アメリカの国際連盟加入反対の理屈も同じように日本問題をうまく使っている。日本は連盟の場で必ず人種は平等であると主張する。アメリカがメンバーになったら、やり込められるという恐怖咸を利用した。
 ハワイを州に格上げするかどうかの案件でも、格上げに反対した。ハワイの東洋人人口が多すぎて危険だという理由だ。反東洋人運動の歴史のなかで、ユージン・シュミッツやエイブ・ルーフの名前はNSGWの幹部として語られる。しかし彼らの汚職で有罪判決
受け入れた腐敗政治家であった事実は隠されるのがつねだった」(『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省 1944』P.46・47)
 ウォレス・アーウィンは、反日的な週刊誌アイルランド系コーリアズ誌に『日本人学童からの手紙』を発表した。この作品によって、礼儀も分別もない劣悪にして邪悪なおぞましい「ジャップ像」が固定化されたと言われている。
 ニューヨークで。知日派アメリカ人は、日本との関係を改善する為に「日本協会」を設立し、排日運動に対抗して日本文化などを知らせる民間レベルでの草の根運動を開始した。
 カリフォルニア州議会は、日本人を対象として、移民制限法と日本人土地所有禁止令を可決した。
 同様の日本人移民排斥運動が、全米各州に拡大した。
 カナダ・ブリティッシュ・コロンビア支部は、大量のシナ人や日本人が低賃金労働者として移住してくる事に危機感を抱き、反日団体としてアジア人排斥同盟を結成した。
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 セオドア・ルーズベルトは、日本包囲網としてハワイ、ミッドウェー、グアム、フィリピンに防衛陣地を築き、日本撃退としてレインボウ作戦の立案を命じた。
 アメリカの太平洋戦略とは、中国への海上交通路確保と中国市場への参入の為の日本封じ込め戦略であった。
 それは、陰険な陰謀ではなく純然たる国家戦略であった。
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 清国は、日本との「満鉄併行線禁止条項」を無視して、イギリスのボーリング社との間で新法線建設計画の協議を始めた。
 日本政府は協定違反であると再三再四抗議したが、清国側は無視して協議を進めた。
 イギリスは、同盟国日本の利益を侵害するとして、ボーリング社に圧力をかけて中止させた。
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 満州を南北にし、北半分をロシアの権益を求め、南半分を清国に返還し、関東州と長春以南の鉄道及びその付属地を日本の権益とした。
 日本政府と軍部は、ロシア帝国を日本より遠い地に封じ込め、江戸末期の文化露寇事件以来のロシア帝国の脅威を和らげてた事に安堵した。
 1907年 日本は、新たな帝国国防方針を決定した。陸軍は依然としてロシアを、海軍はハワイを併合したアメリカを、それぞれ仮想敵国とした。
 山県有朋ら中国と戦った軍人は、日本の真の脅威は中国で、将来、中国が国力を付け巨大な軍事力を持った暁には日本が手に入れた満州権益を奪いに来ると考えていた。
 その意味で、西洋の白人から東洋を守るというアジア主義が国民の間に浸透する事を憂慮し、清国や朝鮮の近代化に積極的に協力している伊藤博文ら文官の友好外交を苦々しく見ていた。
 中国人の偽らざる実像を知る軍人官僚は中国脅威論をとり、中国人の残忍性を見ず好人物という虚像に幻惑された文官官僚は中国に脅威を抱かなかった。
 結果として、伊藤博文ら文官官僚の中国友好政策は失敗し、日本に日中戦争と太平洋戦争をもたらして数百万人を死に追いやった。
 戦争をもたらすのは、戦場に立って死ぬかも知れない現実主義の軍人ではなく、安全地帯にいて死ぬ事のない理想主義の政治家や文官が圧倒的に多い。
 伊藤博文は、日韓併合に反対したが朝鮮人テロリストに暗殺され、中国の近代化に協力すべく助言していたが中国人から感謝されるどころか極悪人とされた。
 石射猪太郎(日中戦争時)「犬だと思っていた支那がウルフになった」
 現実主義者は日中の友好関係を信用していなかったが、理想主義者は警戒心がない為に中国との関係改善を求めた。
 日本の安全保障の為には、日中友好関係を懐疑的に考え、日本の国益を最優先にして中国に配慮しない事であった。
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 1月 連邦最高裁判所は、隔離される施設が白人施設と同等の設備を有していれば、合衆国憲法が禁止している人種隔離にあたらないとの判決を下していた。
 南部諸州選出議員は、人種隔離は憲法違反ではないとの判決を受けて、サンフランシスコ市教育委員会の決定を支持した。
 西海岸の日本人移民排斥運動は、南部諸州の黒人問題と連動し、アメリカの根深く深刻な人種差別問題であった。
 ミシシッピ州下院議員「私は、カリフォルニア州が学校で人種を混合させないと決めた事に大いに同情する。我が国は、白人国家であるべくだとのカリフォルニア州の考えを支持する」
 カリフォルニア州議会は、数多くの日本人移民排斥条例を上程して審議していた。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、ジレット知事に、シュミッツ市長等との話し合いが終わるまで審議を一時棚下にする様に要請した。 
 1月15日 日本興業銀行総裁は添田壽一は、ハリマンに、桂・ハリマン協定破棄を伝えた。
 1月17日 ホワイト・ハウスは、カリフォルニア州裁判所に対して日本人児童隔離政策を差し止める二つの訴訟を行った。
 カリフォルニア州裁判所は、サンフランシスコ市教育委員会への訴訟を受理しなかった。
 前判例主義から、白人の権利を守る為ならば人種隔離政策は合憲であるという連邦最高裁判所判例を基にして、日本人学童隔離は合法であるとの判断を下した。
 だが。南部諸州選出の民主党議員達は、黒人隔離政策を維持する為にサンフランシスコの日本人学童隔離政策を擁護し、日本人排斥法案を成立させるべく支持を拡大しつつあった。
 「私は、カリフォルニア州の人種を混ざり合わせないという方針を断固支持する。この国は、白人種で同質化した国民で形成されるべきだ。というカリフォルニアの考えに賛成だ」
 人種差別主義者は、日本人は異質であり同化不能な人種であると訴えてた。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、来年の大統領選挙に立候補する予定であった為に、日本人学童問題で日本側に寄りすぎて支持を下げる事を警戒した。
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 2月 セオドア・ルーズベルト大統領は、シュミット市長と教育委員会幹部をホワイト・ハウスに呼んで直接会談を行い、サンフランシスコの日本人隔離問題を解決しようとした。
 国民世論は、シュミッツ市長を支持していた。
 報道機関は、会談が決裂すれば日本との戦争になると報じた。
 フランスは、国際的威信を取り戻す為に、非公式で両国の調整を申し出た。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、カリフォルニア州知事ギレット海軍准将に反日政策実施の延期を要請した。
 下院議員リッチモンド・ホブソン海軍大差「カリフォルニアの日本人は、兵士であると考えなくてはいけない。しっかりと編成された軍隊なのである」
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 3月11日 サンフランシスコの日本領事上野季三郎は、東京の子爵林薫外相に、州議会に提出されている反日法案の数々と、それを止めようとしているセオドア・ルーズベルト大統領の努力と、妥協案として日本人移民の自主規制を求めるていると報告した。
 日本政府は、日本人排斥運動に不快感を示しながらも、アメリカとの戦争を避ける為に移民自主規制を受け入れる事を決定した。
 3月17日 シュミッツ市長は、セオドア・ルーズベルト大統領の日本政府にアメリカへの移民を自主規制させるという提案を受け入れた。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、来年に大統領選挙を控えていた為に、国内の人種差別主義者の大票田を意識して、日本人移民のアメリカ本土上陸を禁止する大統領令を発した。
 サンフランシスコ市教育委員会は、日本人児童隔離政策の実施を延期した。
 だが。カリフォルニア州の民意が、眼の前から日本人移民を消す事であり、その手始めが日本人児童の隔離であっただけに、シュミッツ市長等を裏切り者と激しく非難した。
 その落胆から、サンフランシスコ市における日本人移民への暴動が再開された。
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 5月 ヨーロッパでは、カリフォルニアの日本人移民排斥運動で、日本とアメリカが戦争するのではないかとの噂が飛び交っていた。
 大量の日本人移民が、メキシコ経由でテキサスに不法入国しているとの噂が広がった。
 5月5日 日米仲裁裁判所条約の調印。
 5月20日・21日 サンフランシスコで。白人労働者による日本人移民への排斥運動が起き、一部が暴徒化して日本人経営のレストランが襲撃された。
 日本は、アメリカに強く抗議した。
 サンフランシスコ市警察は、治安回復には消極的で、白人暴徒を逮捕しなかった。
 日本世論は激高して、過激な日本報道機関はアメリカへの制裁としての戦争を訴えた。
 アメリカ世論も、日本との戦争は不可避との考えに傾き始めた。
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 6月 ハーグ密使事件。大韓国帝国の高宗は、日本の不当行為を国際世論に訴えるべく密使をハーグの万国平和会議に送った。
 欧米列強は、正々堂々と戦って権利を勝ち取るのではなく、コソコソと逃げ隠れしながら姑息な手段を労して権利を手にしようとする韓国を軽蔑して、自主独立国家にあるまじき卑劣な行為として見捨てた。
 力が正義な時代に於いて、負けるかも知れない絶望的戦争を戦って勝利した軍国日本を称賛したが、戦争を避けた平和的な韓国は嫌悪された。
 サンフランシスコ市警察委員会は、市内各地に急増した日本料理店約30店の酒類販売免許を認可しないと発表した。
 日本政府は、アメリカ世論の反日感情を刺激しない為に沈黙し抗議しなかった。
 サンフランシスコの排日勢力は、日本の後退とみて、ワシントンに対してさらに強力な日本人移民排斥政策を求めた。
 6月27日 セオドア・ルーズベルトは、メトカーブ海軍長官とジョージ・マイヤー郵政長官らと戦略会議を開き、大西洋艦隊を日本に派遣して軍事圧力をかける事を決めた。 日本海軍に備える建艦予算案を渋る議会に圧力をかけて可決させ、パナマ運河の完成を急ぐ必要があるとした。
 アメリカの報道機関も、西海岸の白人の権利を守る為に、日本との戦争を求めた。
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 7月 セオドア・ルーズベルト大統領は、対日戦を求める過激な対日世論の沈静化に憂慮した。
 ヘンリー・ホワイトへの私信「カリフォルニアの日本人排斥は由々しき問題である。事態が改善する兆しが一向にない」
 ヘンリー・ロッジへの私信「日本との戦争を避ける事が出来たとしても、メディアの責任は免れ得ない。日本にも我が国にも、この問題を戦争で決着すべしと叫ぶ軍国主義の馬鹿野郎が同じ程度に跋扈している」
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 8月 セオドア・ルーズベルト大統領は、タフト陸軍長官に、日本を含むアジア外交に於いてフィリピンはアメリカのアキレス腱になると伝えた。
 そして、太平洋有事に備えてパナマ運河の早期完成を求めた。
 イギリスは、ドイツ帝国と、バルカン半島から中東にかけての支配権を争う為に、ロシア帝国と協商を結んだ。
 アメリカは、カリブ海と周辺諸地域の支配を確立するべく力を集中し、満州と朝鮮に関心を示すゆとりがなかった。
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 9月7日 カナダの国際貿易港バンクーバーにあるダウンタウンで、アジア人移民反対の大暴動が起きた。
 白人暴徒は、「カナダは白人の国」「カナダを黄色い人種から守れ」を掲げて、チャイナ・タウンやリトル・トーキョーを襲撃した。
 中国人は、白人社会で長く生活してきただけに、抵抗せずに逃げ出した。
 日本人は、日露戦争で勝った自信から、白人の人種差別的横暴に抵抗して立ち向かった。
 白人暴徒は、抵抗する日本人への怒りを増大させて、日本人街を徹底して破壊した。
 瞬く間に、日本人移民への暴動がカナダ全土で起きた。
 ワシントン州アベルディーン。白人労働者は、ヒンズー教徒移民によって職場が奪われるとして暴動を起こしていた。
 アメリカとカナダ各地で、職場を巡る白人労働者とアジア人移民と間で暴動事件が多発していた。
 宗教的白人至上主義者による人種差別で、アメリカとカナダの太平洋沿岸に移り住んだ異教徒日本人移民は安心して生活できずにいた。
 日本政府は、半国策的移住政策を行っていた為に、海外に移住した同胞が人種が違うと言うだけで迫害を受けている事に激しく抗議した。
 同胞思いの日本人も、日本人移民者が移住先で文化の違いから其の国の法を破って厳罰を受ける事には同情しても支援はしなかったが、理に叶わない白人の不当な差別に対しては憤慨した。
 日本には、「郷に入っては郷に従え」を心情としていたが、移住した同胞を自己責任として見捨てる事が出来なかった。
 アメリカ人は、自己責任からグランドキャニオンに転落防止の柵を設けないが、日本人であれば安全第一として何らかの柵を設けた。
 アメリカは、身の安全は自己責任で自己努力とされ、個の権利を守る為に銃の所持はやむを得ず、正当防衛の範囲とされている。
 アメリカ社会は、銃社会として、個人が銃を持つ事が認められている。
 日本には、個の完全な自由として、銃や刀剣などの武器所持は認められていない。
 白人優位思想の南部民主党は、南北戦争での敗北で政治的打撃を蒙り、日本人排斥運動勢力を回復の好機としてカリフォルニア州の白人労働組合を支援した。
 中国人労働者は、仮想敵国の日本人労働者を目の敵として白人労働組合との対決を避けた。
 南部諸州も、奴隷制度を放棄してもアフリカ系アメリカ人の隔離政策を取っていた為に、排日運動を続ける太平洋沿岸諸州を支援した。
 東部の白人エリートであるWASPは、黄色人種の日本人がロシア帝国に勝利した事で白人の世界支配が崩壊するとの危機感と、非白人移民が急増して少数派に転落するとの恐怖心から、連邦議会に対して排日法案成立の成立を求めた。
 日本人移民達は、自分で出来る事は我慢しても自力で解決しようとしたが、それ以上の事は日本人会を組織して集団で対応した。さらに困難な事は、日本大使館に泣きついた。
 日本政府は、アメリカ国内での排日法案成立要望運動に不快を表明し抗議した。
 アメリカは、日本人が、黒人や中国人の様に自己の人権を放棄して人種差別を受け入れず、人格を捨て奴隷の如く従わない事に苛立っていた。
 欧州各国は、アメリカに於ける日本人排斥暴動が多発した為に、今にも日本とアメリカが戦争を起こすのではないかと危惧した。
 9月29日 ニューヨーク・タイムズ紙は、スクープとして、日本軍のフィリピン侵略計画を報じた。
 ニューヨーク・トリビューン紙やニューヨーク・サン紙なども、日米戦争を煽る記事を掲載し、国民に愛国心を訴えた。
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 10月 日米戦争近しと報道によって金融危機が発生し、ニューヨーク・ウオール街の株式市場の一般株価は低落した。
 だが、軍需産業と輸送関連の株価もみは高騰していた。 
 セオドア・ルーズベルトは、日本との緊張関係を緩和する為に、ウィリアム・タフト陸軍長官を日本に派遣し、危険な賭として日本への寄港させるというアメリカ艦隊の世界一周を計画した。
 日本政府は、アメリカとの戦争を避ける為に、アメリカ艦隊の寄港に対する善後策を協議するべく、ワシントンの青木周蔵大使を急遽帰国を命じた。
 10月14日 サンフランシスコの排日団体は、愛国心に燃える民意に押されて、大規模な排日暴動を起こした。
 市当局や警察は、日本人商店や住居への襲撃は許したが、それ以外への拡大は押さえ込んだ。
 西海岸の日本領事館は、日本人移民を白人の迫害から守る為になるべく、分散して広範囲に住まず固まって生活するように指導した。
 そして。助けてくれる外国人や支援してくれる外国人組織ない異国・アメリカで生きる以上、県人会や頼母子講など数多くの互助団体を組織して団結し、家族的に助け合って苦難を乗り越える様に求めた。
 こうした孤独の中で生きようとした行為によって、日本人は集団主義とされ、日本はアメリカを乗っ取ろうとしている陰謀を計画していると囁かれた。
 10月16日 アメリカ艦隊は、日本との突然の戦争を考慮しつつ、白い塗装をして出港した。
 エヴァンス提督「この航海が単なるお祭り騒ぎで終わるのか、戦争になるのか誰にも分からない。我々は何が起きてもいいように準備は怠っていない」
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 11月18日 第一号日米紳士協定。第四号まで。
 日本は、アメリカ国内の日本人移民排斥運動を受けて日米紳士協定を結び、反日市民感情の激化を警戒してアメリカへの移民を自主規制した。
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 12月16日 大西洋艦隊16隻は、船体を白く塗って、世界一周の親善航海に出港した。
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 1908年 池田菊苗は、うま味グルタミン酸を発見した。
 日本政府は、アメリカでの反日運動を沈静化させる為に、アメリカ本土への日本人移民を制限した。
 清国は、日本を追い込むべく、犯罪的秘密結社を利用して日本製品ボイコット運動を起こさせた。
 日本は、清国に対して、反日運動の禁止と日本人居留民の保護を要請した。
 だが、らちが明かず、反日運動や止まなかった。
 右翼の大物内田良平は、外務省の石井通商局長と連絡を取りながら、シンガポールに滞在している孫文に対して反日ボイコット運動の沈静化への協力を要請した。
 孫文は、反日バッシング運動は清国政府の策動であり、対抗する為には多額の活動資金が必要であると答えた。
 アメリカは、日本と満州問題に関する「対日不干渉誓約」を結び、満州に於ける日本の特殊的立場を承認した。
 日本は、満州開発の為にアメリカ資本の投資を期待した。
 アメリカは、満州に投資するには地域の安定が欠かせないとして、日本軍の治安活動に頼らざるえなかった。
 辰丸事件。清国政府は、日本が孫文らの革命勢力に武器支援していると疑い、広東で日本汽船の辰丸号を臨検して積荷を没収した。
 日本政府は、事実無根として強く抗議した。
 清国政府は、謝罪した。
 中国人は、面子を潰されたとして激怒して反日運動を起こし、日貨排斥(日本製品不買運動)が広がった。
 革命勢力は、近代思想を学ぶ為に多くの青年を日本に留学させた。
 日本政府は、沖縄の経済開発と住民教育を充実させる為に植民地政策を適用しようとしたが、沖縄世論の猛反対で断念した。
 沖縄が植民地政策を拒否した為に、沖縄に赴任するよりも台湾や朝鮮に赴任した方が、官吏や教師の手当が良かった。
 優秀な学生は、本土の帝大や専門学校などを卒業しても、優遇されている植民地への赴任を希望して沖縄に戻る者が少なかった。
 格差は本土と沖縄の差はもちろん沖縄と植民地との差も開いた為に、沖縄の青年達は本土への不満から無政府運動や天皇制打倒運動に走った。
 沖縄に、共産主義が蔓延する土壌が存在していた。
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 1月 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、アメリカに、極秘情報として、日本軍がメキシコで数千人規模の兵士による軍事演習を行っているという怪情報を伝えた。
 大海軍建設を急ぐドイツ帝国は、イギリスの力を弱める為に、イギリスの友好国である日本とアメリカの戦争勃発を画策していた。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、表面的にはドイツ帝国との友好関係を保ちながら、ドイツ皇帝を嫌っていた。
 カリフォルニア州議会は、相次いで排日法案を可決して、日本への敵意を剥き出しにしていた。
 アイルランド系報道機関も、排日移民法の成立を歓迎し、日本人移民を白人の土地から追い出す事を求める記事を掲載していた。
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 2月25日 青木周蔵大使は、帰国途中でサンフランシスコ市に立ち寄り日本人移民排斥運動を沈静化させる為に、日本政府はアメリカへの移民を自主規制する事を公表した。
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 3月5日 フィリピンのエル・レナシミエント紙「仮に日米両国が戦う事になれば、日本は開戦後わずか4日で我が国に上陸が可能である。日本陸軍は、時間をかける事なくフィリピンの占領を完成させる事が出来るだろう。あの旅順港にいたロシア艦隊攻撃に見せた日本の輝かしい戦果を、再びこの国で見る事が出来るかもしれない」
 日本軍の戦果が、アジアのナショナリズムに火を付けた。
 だが。アメリカとの協調を優先する日本の指導者は、アジアの民族主義者達の期待を裏切り失望させた。
 アメリカは、日本軍とフィリピン独立派の連繋を警戒し、日本の侵略からフィリピンを防衛する為にアメリカ化を急いだ。
 アメリカ化の為に、幼少期からの英語とアメリカ式生活習慣の教育が徹底して行われた。 その結果、親米反日派が急増した。
 アジア世界で、フィリピンはキリスト教徒が最も多い。
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 6月22日 赤旗事件。東京で、革命歌を歌い行進する社会主義者達と警察隊が衝突し、多数の社会主義者が検挙された。警察当局は、社会主義者を弾圧した。
 マルクス主義が世界に蔓延する事によって、階級闘争の時代に突入した。
 左右両派による虐殺と弾圧による、血生臭い、陰惨な時代である。
 6月30日 ツングースカ隕石空中爆破。ロシア・シベリア地方ツングースカ川上空。1000年に一度程度の出来事。
 100グラムほどの隕石は、年間およそ2万個。1キロ程度の隕石は、年間およそ4,000個といわれている。
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 7月7日 アメリカは、大西洋艦隊の戦艦15隻を白く塗り替えて白い艦隊を編成して太平洋に回航した。
 白い艦隊は、マゼラン海峡を通過して、サンフランシスコ港に入港した。
 セオドア・ルーズベルト大統領の思惑通り、日本人移民への恐怖で暴徒化していた白人は白い艦隊を見て安心して、反日暴動は沈静化した。
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 10月10日 白い艦隊は、世界一周の演習航海の途中で日本に表敬寄港するべくマニラ港を出港して日本・横浜港に向かった。
 フィリピンの市民は、白い艦隊を見るや、圧倒的な軍事力無力感に襲われ、独立運動への意欲を喪失して親米に靡き、アメリカ化を受け入れた。
 アメリカの目的は、日本海軍の太平洋への進出とハワイ民族派への精神的支援を抑制する事と、植民地フィリピンの独立派への日本陸軍の軍事的支援を牽制する事であった。
 10月18日 白い艦隊は、横浜港に姿を見せた。
 日本は、友好国の証としを国を挙げて熱烈に歓迎し、アメリカ海軍幹部を二週間にわたって豪勢に接待した。
 日本政府は、反米感情がなかったかの様に大歓迎した。
 日本海軍は、アメリカ海軍の真の目的を軍事圧力と判断して、戦艦三笠ら16隻を揃えてロシア艦隊を破った自信を見せ付けた。
 日本海軍は、アメリカ艦隊の目的が友好ではなく軍事的威圧にあると分析し、アメリカ艦隊が立ち去るや、アメリカを仮想敵国と定めて対米戦略の研究に取りかかった。
 戦艦7隻の日本艦隊で如何にアメリ海軍艦隊と戦うか、それは絶望的な戦略であった。
 アメリカも、対日戦の研究を本格化させた。
 日本もアメリカも、お互いに何時かは戦争をするかもしれないという思いを抱いた。
 10月25日 白い艦隊は、日本艦隊との不測事態を想定していたが、何もなく滞在期間を終えて厦門に向けて出港した。
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 11月30日 ルート国務長官と日本の高平駐米大使は、日米の太平洋及び極東アジアでの権益を相互に確認する協定を結んだ。ルート・高平協定。
 日本側はハワイ・フィリピンにおけるアメリカの権益を認め、アメリカ側は朝鮮における日本の支配を容認した。
 アメリカが、ドイツ帝国との同盟関係を破棄し、日本・イギリスの対ドイツ包囲網に参加した。
 両国は、北太平洋の勢力圏を画定した。
 アメリカは、近い将来、太平洋の覇権をめぐって日本と戦わざるを得ないと覚悟していたが、アメリカ海軍が優位となりパナマ運河が完成するまで、見せ掛けの友好で平和を維持する事に腐心していた。
 アメリカ人のホーマーリー(漢字名・荷馬李)は、単一民族国家日本と多民族国家アメリカとの戦争は不可避であると主張した。そして、多民族国家単一民族に比べて弱い面があると警鐘を鳴らし、忠誠心なき移民を増加させるべきではないと警告した。
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 1909年 アメリカは、表向き中国が鉄道敷設に必要な借款を工面する為に関係国に借款団結成を呼びかけたが、真の狙いは中国における日本の行動を制限する事であった。日本・アメリカ・イギリス・フランスの四カ国の銀行集団が参加した。
 だが。アメリカは、1913年に、日本側に有利に働いているとして4ヵ国借款団から脱退した。
 ホーマー・リーは、『無知な勇気』を出版し、白人種のみの同質性こそが国力源であり、異質な非白人種の流入は国家の安全を脅かすと主張した。
 国家への忠誠心のない外国人移民が増加する事は、国家存亡の危機に際して彼等は裏切り者となり、国家は滅亡すると訴えた。
 「日本が日露戦争に勝利する以前は、カリフォルニアの反日感情は鳴りを潜めていた。所がこの戦争後、この感情が再びハッキリと姿を現し始めた。それが労働運動家社会主義的な考えを持っ者だけの感情ではなく、カリフォルニアの一般社会にまで滲透していった事を見逃してはならない」
 リーの分析。日本人移民への、同情8%、無関心22%、敵対的30%、戦闘的40%。
 日本では、1911(明治44)年に翻訳されて『日米戦争』の題名で出版された。
 カリフォルニア州の排日団体も、反日感情を増幅させる為に利用した。
 ハースト系新聞など反日派報道機関は、アメリカに対する日本の脅威を誇張して報道し、日本バッシングを煽った。
 地方の西海岸諸州と南部諸州は、中央のワシントンに対して、日本人は劣等人種である以上は優秀な白人種を守る為にも、日本人移民に市民権を与えない事と日本人の移民を禁止する事を訴えた。
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 1月16日 セオドア・ルーズベルト大統領は、カリフォルニア州知事ジレットに対して、排日法案の廃止もしくは実施延期を強硬に求めた。
 南部諸州選出議員や人種差別意識の強い報道機関は、地方の権利を守るという大義から排日法案を支持した。
 1月30日 バークレーで、白人暴徒による反日暴動が起きた。
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 2月22日 白い艦隊は、太平洋横断作戦の予行演習を兼ねた大遠征は無事に終了して、ノーフォークに帰還した。
 日本政府は白い艦隊を平和の艦隊と好意的にとらえたが、日本海軍は真の目的を正確に認識していた。
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 3月4日 タフト、大統領に就任した。
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 10月26日 伊藤博文暗殺。
 山県有朋「語り合ひ盡(つく)しし人は先だちぬ 今より後の世をいかにせむ」
 (弱肉強食の国際社会で、日本の将来を思って激論を戦わせる相手を失ってしまった、今後は自分が全てを切り盛りするしかない)
 明治維新以降。軍隊を率いて戦場に立った首相経験者は、山県有朋以外には誰もいない。
 「ひつじのみ群がる世こそうたてけれ とらふす野辺に我ゆかまし
 (羊のようなか弱い者が世の中に溢れているのを見ると情けない 虎が伏しているような厳しい状況下でも自分は迷う事なく突き進む)
 山県有朋「自分は、一介の武弁(軍人)に過ぎない」
 山県有朋は、枢密院議長として最高権力者となったが、国民から権力の亡者として最も嫌われた。
 マキャベリ「愛されるより、恐れられるほうがはるかに安全である」
 偉大なリーダーとは、生きている時は恐れられ、死んでから尊敬される。
 生きている間に愛され尊敬を集めようとするリーダーは、仕事ができないくだらないボスにすぎない。
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 11月6日 アメリ国務長官ノックスは、イギリスに、全満州鉄道の中立化を提案した。
 アメリカは、ドル外交として、満州市場への参入を狙っていた。
 ハリマンは、南満州の錦州から北満州の愛琿までの満州縦貫鉄道建設を計画していた。
 11月25日 イギリスは、対ドイツ包囲戦略から、日本とロシア帝国との関係を壊す恐れがあるとして拒否した。
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 12月18日 アメリカは、日本に対して、満州の鉄道中立化を提案した。


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中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

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