🎶17:─2─日米戦争の原因の一つが、増える日本人移民に対するアメリカ国民の人種差別であった。排日移民法。~No.38No.39 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本国・日本民族日本人は、山野、森林に囲まれ、太陽の光に照らされた、清らかな湧き水で自然に生まれた透明度のある小さな湖・沼ににている。
 時折、強い風が吹くと小さな波が岸辺を洗うが、水が溢れて山野・森林の奥まで溢れる洪水を起こす事はなかった
 その静寂の中で穏やかに静なっていた小さな湖・沼に、外から、誰かが悪意を持って石や物を投げ込まない限り大きな波は立ち荒れる事はなかった。 
 日本民族は、100年を1日、1000年を1日としてひっそりと生きていた。
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 アメリカには、アフリカ人、ユダヤ人そして日本人に対する偏見・差別が根強く存在する。
 それは、中南米諸国の人々に対する軽蔑・蔑視以上である。
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 戦前の軍国日本は、アメリカなど白人キリスト教徒が突き付けてきた理不尽な人種偏見・人種差別に対して一人・一カ国で孤独に戦っていた。
 アメリカなど西洋諸国は、日本との戦争を人種偏見・人種差別問題にしない為にファシスト中国・中国共産党を味方に加え、日本軍と戦う抗日中国軍に全面支援を続けた。
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 昔の日本外交は政治家・官僚・軍人に広い視野での見識があってしっかりしていたが、現代の日本の外交は政治家・官僚に見識が乏しい為に真面ではない。
 それは、日本人全体に言える事でもある。
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 カリフォルニア州・サンフランシスコ市は、南部諸州同様に人種差別が根強く、全米でも反日意識が強く、排日運動の震源地であっり最も激しい州である。
 歪な反日排日感情は、現代でも是正される事なく続いている。
 如何に同盟国と言っても、日本への憎悪は消える事がない。
 その証拠が、韓国系中国系アメリカ人等による反日活動としての従軍慰安婦像設置と第二回南京事件記念館建設が止まらない。
 それは、戦時中に日系アメメリカ人達が愛国心・忠誠心で二世部隊を編成し、夥しい戦死者を出しながらアメリカの為に貢献したにも関わるかかわず、である。
 アメリカとは、そうした国である。
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 アメリカなど各国で反日運動を陰で煽っているのが、中国共産党・中国軍である。
 その手の平で、嬉しそうに踊っているのが反日派敵日派の韓国や北朝鮮である。
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 日米関係の悪化の原因は、アメリカ国民による日本人移民への人種差別であった。
 アメリカ世論・民意は、日本人移民の排除を切望した。
 アメリカ人は、潔癖症的に、日本人移民を増殖する害虫・病原菌のように嫌悪していた。
 日本人移民問題が、知らず知らずのうちに両国の戦争に発展した。
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 反日、排日は、最初は宗教的白人至上主義による国民の感情的人種差別であったが、後には政治家が選挙で当選する為の有効な政治手段となった。
 反日、排日が政治的に利用されている実情は、現代においても同じ事である。
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 アメリカの反日・排日は、自由と民主主義で国民世論となった。
 反日・排日運動は、アメリカ市民の自主的運動であった。
 それだけ、アメリカ市民は増える日本人移民を嫌っていたのである。
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 外交は国内政治の延長線である。
 アメリカの日本封じ込め外交である、1921年11月〜22年2月のワシントン軍縮会議も1930年のロンドン軍縮会議も、アメリカ国内の日本人移民排斥運動の影響を強く受けていた。
 そして、アメリカ国民は、日米戦争である太平洋戦争に反対しなかったし、日系アメリカ人達を武装された強制収容所へ暴力的に収容して隔離する事を全面的に支持していた。
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 当時のアメリカ人が日本人移民に抱いた不安・恐怖・脅威は、現代の日本人が外国人移民(主に中国人移民)1,000万人以上受け入れに抱く不安・恐怖・脅威と似ている。
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 1904〜05(明治37〜38)年 日露戦争
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 岩田温 『人種差別から読み解く大東亜戦争』 彩図社
 「第一章 大東亜戦争と人種差別
 ……
 第四章 奴隷貿易と無縁ではなかった日本
 ……
 第五章 『植民地にされる』とはどういうことか
 ……
 第六章 日本が求めた欧米列強と対等の地位
 『独立自尊』という国是
 ……激しい人種差別が当然のこととして是認され、植民地支配、収奪が当たり前の時代、開国を迫られた日本人が第一に考えていたのは日本国の独立を守るということでした。植民地にされてはならないという強烈な愛国心こそが、近代日本の原動力に他ならなかったのです。関税自主権が認められず、列強の治外法権を容認するという不平等条約を締結した日本は、何としても植民地となることなく、西洋列強と対等な国を作り上げていかねばならぬと必死だったのです。
 明治維新による近代日本の建設とは、封建体制のような江戸時代のシステムを抜本的に改め、着物、髷、帯刀という様々な日本文化を捨て去る大改革でした。それは、昨日までの自分たちの在り方をほとんど否定するような行為に他ならなかったのです。しかし、様々な困難を経ながらも日本は近代国家を作り上げます。何とか独立国として生き延びなくてはならぬという情熱こそが近代国家成立の原点でした。
 現在では否定的に捉えられることの多い大日本帝国憲法や、国会の開設にしても、素晴らしい偉業であったことを忘れてはなりません。根本的な我が国のあり方を壊すことなく、ヨーロッパの流儀を受け入れ、西洋列強と対等な先進国として振る舞うために、我々の先祖の血の滲むような努力をした結果、大日本帝国憲法の制定であり、国会の開設だったのです。日本は大東亜戦争で敗れるまで、憲法を停止することなく、国家を運営してきました。『統帥権』の問題等、大日本帝国憲法に様々な瑕疵(かし)があったのは事実です。しかしながら、日本人が憲法を停止することなく、近代国家のルールに則って国家を運営してきたことは誇るべきことだといえます。
 日清戦争日露戦争といった国難に象徴される重大な危機を何度もくぐり抜け、辛くも独立を保ってきたのが近代日本の歩みです。繰り返しになりますが、近代日本において最も重要だったのは、日本が植民地にされてしまわないことであり、西洋列強と対等な立場の国家として活躍することでした。『独立自尊』こそが日本の国是だったのです。
 さて、『独立自尊』を旨とする日本人の誇りを大いに傷付けた問題が『人種差別』の問題でした。日本人は劣等人種であるという偏見に基づいたアメリカにおける様々な排日運動は、日本人の誇りを大いに傷つけました。本章では、排日移民法をはじめとするアメリカにおける日本人差別の問題を取り扱うことにします。
 戦前には多くの日本人が移民としてアメリカに渡ることを選択しましたが、この日本人移民がアメリカにおいて凄まじい差別を受けることになったのです。
 アメリカにおける日本人差別が表面化するのは、1900年3月、サンフランシスコ市長が日本人及び中国人の居住地区の隔離を発表したことにまで遡ります。市内に発生した腺ペストという伝染病の拡大を抑えるとの名目でしたが、日本人や中国人がこの伝染病の発生に責任があったわけではありません。
 不当に扱われたことに怒った日本人は、アメリカ日本協会を結成し、市長に対して猛烈に抗議をしています。
 こうした日本人の動きに呼応し、サンフランシスコでは大規模な反日本人の集会が開かれることになります。日本人移民に反対する主張とは、『同化を拒む』、『低賃金を厭(いと)わず、アメリカ人労働者の生活水準を下げる』、『アメリカ人の受け入れられない生活水準を甘受する』、『民主主義を理解できない』の4点が主要なものでした。こうした反日本人移民の動きを恐れた日本政府は、日本人移民を制限することを決定したのです。
 こうした日本人移民に対する反感が、行政の場で具現化したのが、日本人学童隔離事件です。1906年10月11日、サンフランシスコの教育委員会は、市内の全ての公立学校から日本人学童を隔離して東洋人学校へ強制的に通学させる決議を採択します。市内におよそ2万5,000人の学童が存在しましたが、その中で日本人学童はたった93名しか存在しておらず、具体的な問題が起こるはずもありませんでした。こうした教育委員会の決議に対して、日本人は人種差別の匂いを嗅ぎ取り、断固抗議します。
 ところで、1906年とは、サンフランシスコに大地震が起こった年でもありまあす。4月18日にマグニチュード8クラスの大地震がサンフランシスコを襲ったのです。地震後の大火災も含めて、多くの人々が亡くなりました。こうした災害に対し、日本から多額の義捐金が届けられます。その額は当時の金額で50万円以上にのぼります。この額は、他の全ての国々から集まった義捐金の合計より多く、いかに日本人がサンフランシスコの大災害に心を痛め、被災したアメリカ人に同情していたのかがわかります。こうした日本人の善意を裏切る形で進んだのが日本人学童に対する強制隔離という措置だったのです。
 外交問題に発展
 日本総領は、こうした事態を深刻に受け止め、強制隔離が決定された翌日、口頭、書面で以て教育委員会に抗議し、決議の撤回を求めました。しかし、教育委員会が決議を撤回する意思はないことを明らかにしたために、総領事はカリフォルニア州知事に抗議書簡を送ります。しかし、州知事の対応も決議の撤回を拒絶する内容であったため、事態は新たな展開を迎えます。
 日本人差別の問題が総領事の手に余る問題であり、重大な問題であると考えた林董外相は、青木周蔵駐米大使に対し国務省に抗議するように訓示します。ここから、サンフランシスコにおける学童隔離問題は日米の外交問題にまで発展することになったのです。
 当時のセオドア・ルーズヴェルト大統領は日米関係を重視していました。何故なら、アメリカはアジアにおいて軍事的に極めて弱い立場に立っていたからです。アメリカは米西戦争の勝利によってフィリピンを領有していましたが、フィリピンは日本海軍の攻撃で簡単に陥落してしまうほど脆弱な状態におかれていました。日露戦争に勝利した日本海軍の存在をアメリカは怖れていたのです。
 したがって、ルーズヴェルトは、日米関係を悪化させることを怖れ、事態の鎮静化に向けて動き出します。
 様々な妥協案が提示されたのですが、最終的にまとまったのが、日米紳士協定の成立でした。アメリカが日本人移民を一方的に排斥することをしないとうい条件のもと、日本はアメリカ本土への移民を制限すると約束したのです。なお、この紳士協定で『アメリカ本土』とされているのは、ハワイ等のアメリカ本土以外に対する移民に関しては、紳士協定の対象外とするためです。日本が自発的に移民を制限するという形にこだわったのは、日本のみが差別的に扱われてはならないという日本の名誉を重んじてのものでした。結果的に日本からアメリカへの移民が減少することは構わないとしても、日本の名誉を汚されてはならないと考えたのです。『面子外交』『体面外交』等とも揶揄されることもあるようですが、『独立自尊』を何よりも優先してきた近代日本らしい外交だったといってよいでしょう。
 こした日米双方の歩み寄りの結果、日米紳士協定が成立し、サンフランシスコでは教育委員会は日本人学童に対する強制隔離決議を撤回することになります。
 ここで無事、日米間の移民問題が解決したように思われますが、実際には、この移民問題が解決することはありませんでした。日本人に対する人種偏見は根強く、カリフォルニアにおける日本人移民排斥運動は収束することがなかったのです。
 なぜ日本人が排斥されたのか
 日本人に対する偏見とはいったいどのようなものだったのでしょうか。この事件より、時が下がって1935年。得体のしれない『百人委員会』なる反日組織が機関紙『アメリカン・ディフェンダー』で次のような主張をしています。時期に若干の違いはありますが、人種偏見とは何かを考える際に大いに参考になります。
 『日本人農家は野菜に砒素(ひそ)をかけている』
 『彼らは人糞を肥料にしていて、その結果、赤痢菌が撒き散らされている』
 『彼らはペルーで軍事訓練を行っている』
 『日本人移民が棲みつく場所は彼らによって汚される。彼らはらい病患者の傷から流れ出る汚れた沁みのようにカリフォルニアを汚染する』
 『日本人移民は灰皿から溢れ出そうな煙草の吸殻と同じだ。反吐が出るような悪臭を放ち、空気を汚す』
 『不幸にもこうした日本人を目にしてしまった者は、気持ちが悪くなり、あわてて身を清めたいと思ってしまうほどだ』
 およそ無根拠な妄想に基づくもので、いちいち反論するのも馬鹿らしいような内容です。しかし、人種偏見の恐ろしいところは、こうしたまったく無根拠で、冷静になって考えてみればバカバカしいデマが、さも『事実』であるかのように思われてしまうとこりです。差別されている人間が事実で以て反論しようとも、はじめから全くの『異質の他者』として認識されてしまえば、異なる点そのものが気に入らないということになりのですから、説得は成功せず、次々とデマの類いが生まれてくることになります。
 こうした人種偏見い基づいて、日本人を排斥するためにカリフォルニア州議会に提出されたのが、1909年の排日土地法案です。日米紳士協定が成立した直後に、次なる排日の炎が燃え上がったのです。この土地法案は、5年以内に帰化しない外国人の土地所有を全面的に禁止する内容のものでした。『5年以内に帰化しない外国人』の土地所有を禁止しているので、必ずしも『排日』とはいえないのではないかと思われるかもしれませんが、これは、あくまで日本人移民を念頭に置いた法案だったのです。
 後に詳しく検討しますが、当時、日本人移民にはアメリカ国籍が付与されることがありませんでした。従って、日本を離れ、何十年間アメリカに居住していても、アメリカ国籍が付与されることはなかったのです。
 さて、排日を目的とした土地法案が提出されたのは先に見た通りですが、こうした法案に激怒したのがルーズヴェルトです。日米関係を重視していたルーズベルトは、おうした法案の提出が、日米紳士協定によって正常化した日米関係を悪化させることを恐れていたのです。従って、共和党の代表であるルーズベルトの強い意向、大統領の意向に誠実に応えようとしたカリフォルニア州ジレット知事の采配により、カリフォルニア州議会の採択で否決されることになります。
 しかし、こうした大統領の高度な政治低判断にも関わらず、カリフォルニアにおいて排日の炎が鎮火することはありませんでした。排日の業火は、ますます激しく燃え盛ることになるのです。
 『カリフォルニアを白く保とう!』という露骨な人種差別的スローガンを掲げた民主党がカリフォルニア上院で勝利を収め、さらにルーズヴェルトの方針に協力的で、排日運動に関して消極的だった共和党ジレット知事が知事選で敗れます。この段階で、カリフォルニア州における排日運動推進派と反対派の形勢が逆転するようになります。極めておぞましい話ですが、排日運動は偏見に囚われた多くの人々の熱狂的な支持を得ることが出来ました。それゆえ、政治家にとって排日法案とは、選挙の際に集票が見込める旨味のある政策だったのです。
 さて、ここで日米紳士協定の欠陥について触れておかねばなりません。サンフランシスコ学童隔離事件を機に日米紳士協定が成立したことは先に述べたとおりです。この日米紳士協定の後、アメリカは日本人移民の数が減少することを望んでいましたし、日本もそうした事態を受け入れたはずでした。しかし、紳士協定の成立後も日本人移民は増え続けていたのです。
 それは、日本人移民が日本に住む妻や子供を呼び寄せることが認められていたためです。もちろん、この紳士協定では、既に妻帯していた人々の家族がアメリカに移住することを想定していたのでしょう。しかし、実際には、『写真見合い』としてアメリカに移民する女性の割合が非常に多かったのです。
 『写真見合い』といっても実感がわかないでしょうから、こkで簡単に説明しておきます。多くの独身の日本人移民の男性は、日本人女性と結婚することを望んでいました。しかし、当然のことながら、アメリカに在住している独身の日本人女性の数は少数でした。日本人女性が移民として渡ってくるのを待つのも一つの方法でありました。しかし、そもそも日米紳士協定によって移民する日本人の数が制限されていましたから、ただ日本人女性を待ち続けることは、現実的ではありません。そこで流行したのが『写真見合い』です。写真で選ばれた日本人女性が、実際には結婚していない日本人移民のもとへ花嫁として日本から呼び寄せられるという仕組みです。『写真見合い』は、日本人女性と結婚したいと思っている日本人移民の男性、アメリカに移民したいと考えている日本在住の女性の双方にとって納得いく方法でした。しかも、こうした『写真見合い』は、日米紳士協定で禁止されておらず、合法的な行為でもありました。こうして、多くの『写真花嫁』がアメリカに移民することになったのです。
 『排日土地法』が再度上程される
 さて、日本人移民の多くが若く、写真花嫁の多くも若かったので、多くの子供たちが出産され、その結果、日本人の人口は増え続けていったのです。
 日本人が紳士協定を破ることはありませんでした。しかし、紳士協定によって、日本人移民を制限できると考えた人種偏見に囚われたカリフォルニア州の住民は、日本人人口が増え続ける事態に我慢がならなかったのです。
 日本人移民の集住に対しても疑いの目を向けられました。アメリ社会への同化を拒絶する人々が集団を為して住んでいると思われたのです。日本人移民は遵法精神を持ち、アメリカ人のライフ・スタイルに合わせよと努力はしてきました。衣類、家具、宗教的な慣習をアメリカの白人風に合わせていこうと努力をし続けたのです。しかし、彼らは完全に日本人であることを捨て去ることは出来ませんでした。彼らは肌の色までは白人風に合わせることが出来なかったのです。肌の色を以て人間の価値をはかるような野蛮に対し、日本人移民は対抗出来ませんでした。当時は、肌の色を以て人間の価値をはかる野蛮が横行していたのです。我々は、当時、黒人に対する差別が自明視されていたことを思い起こす必要があるでしょう。アメリカの黒人がいわれなき差別から解放されるためには、1960年のキング牧師率いる公民権運動を待たねばならなかったのです。肌の色が黒かった黒人が差別され続けたように、肌の色が黄褐色であった日本人も差別され続けたのです。黒人であれ、日本人であれ、いくら同化の努力を続けたにせよ、肌の色による差別は根深かったのです。
 1913年、再度排日を目的とした土地法案がカリフォルニア州議会に提出されます。日米関係に支障が生じることを恐れたウィルソン大統領以下、政府首脳は様々な策を講じてカリフォルニア州議会の法案議決の阻止を図りますが、結局排日土地法案が成立してしまうのです。これによって、帰化資格のない日本人の土地所有は制限されることになります。具体的には、帰化資格のない日本人の農地の借用は認められましたが、農地の所有は禁じられてしまったのです。
 しかし、この排日土地法案には抜け穴がありました。そもそも農地を3年にわたって借用することが可能でしたから、広大な農地を借用しながら農業活動に従事することは可能でした。また、アメリカ国籍の『出生地主義』を利用する抜け穴もありました。
 ここで簡単に国籍に関する『出生地主義』について触れておきます。
 アメリカに移住した日本人に対し、帰化資格が与えられていなかったことは、先に触れた通りです。しかし、日本人の血が一滴でも入っていればアメリカ国籍を取得できなかったというわけではありません。アメリカの国籍は先程触れた『出生地主義』に立って決定されます。国籍に関する『出生地主義』とは、ある子供がその国で生まれた瞬間に国籍が付与されるという方法で、両親の血統を重んずる『血統主義』と対立する国籍付与方法です。それゆえに、日本人移民としてアメリカに移り住んだ日本人移民にはアメリカ国籍は与えられませんが、その子供たちは、生まれた段階でアメリカ国籍を持っていることになります。すなわち、両親は『アメリカ国民』になることはできませんでしたが、日本人移民の両親を持つ子供たちは、生まれときから『アメリカ国民』であったのです。したがって、アメリカに移民してきた日本人移民が土地を所有することはできませんでしたが、自分の息子や娘の名義にすれば、土地を所有することが可能でした。農業に従事している人間が日本人であろうとも、その土地は紛れもなく『アメリカ国民』の所有地だったのです。他にも会社を立ち上げ、会社の株の51パーセントを所有し、実質的に農地を所有することも可能でした。日本人移民たちは違法行為に手を染めることはありませんでしたが、何とか法の網目をかいくぐって農業を継続したのです。こう考えると、1913年の排日土地法案は、いわば、『ザル法』に等しい法律でした。しかし、名目上においても、『日本人の土地所有を禁じた』という一事が、排日勢力にとっての悲願の成就に他ならなかったのです。
 抜け穴が残っていた排日土地法の施行以降、実質的に日本人移民の所有する土地面積が減少することはありませんでした。逆に、日本人移民の耕作する農地は増加し続けました。こうした日本人のやり方に対し、人種偏見に囚われたカリフォルニア州民が、苦々しく思っていたのはいうまでもありません。とりわけ白人農家は、日本人の耕作地が増え続けることに強い不満を抱いていました。
 『排日』を掲げなければ選挙に勝てないに
 州民の間で『反日』、『排日』の機運が高まっていたことを政治家は見逃しませんでした。自らの政治的野心のために『反日』、『排日』を利用しようとする政治家が続出したのです。
 サンフランシスコ市長を務めたこともある民主党上院議員のフィーランは、1920年に来る選挙において再選する事を熱烈に望んでいました。しかし、民主党に対する支持は広がらず、情勢は極めて厳しいものでした。フィーランは、形勢を逆転するために排日運動を利用したのです。『カリフォルニアを白く保とう!』という露骨な排日スローガンを掲げ、日本人移民に対する嫌がらせ運動の先頭に立ったのです。彼は日本人移民が太平洋沿岸の占拠を狙っていると妄想し、日本人は『ずる賢く、危険』だと訴えたのです。
 民主党議員が『排日』運動に突き進んだのを受けて、共和党の政治家も『排日』運動を開始します。全ての『排日』勢力が民主党を支持してしまうという事態を恐れたからです。当時のカリフォルニアでは、政治家は『排日』の旗を掲げていなければ選挙で当選できなかったのです。それほどまでに、カリフォルニア州民の間で人種偏見は根強かったのです。
 下院議員の座を狙っていた共和党上院議員のインマン、同じく共和党員で次期州知事の座を狙っていた会計官のチェンバースが『排日』運動を大々的に展開します。彼らは『カリフォルニア州排日協会』を結成し、紳士協定の破棄や日本人移民の子供に国籍を与えぬよう憲法を改正することなどを目指しました。
 こうして民主党共和党の両党が排日運動に加担することになったのです。彼らは、抜け穴の多かった排日土地法案に満足しなかった州民の期待に応えるべく、更に過激な過酷な排日土地法の成立に邁進することになります。従来の排日土地法の抜け穴を全て塞ごうとしたのです。農地の所有を禁止するだけでなく、借地権も認めず、日本人が半分以上の株を持っている会社による所有も禁止するように法律を改正し、日本人の農業を禁止しようと企んだのです。
 しかし、ここで思わぬ横やりが入ります。スティーブンズ知事が排日土地法案に反対したのです。スティーブンズはインマンやフィーランに対して懐疑的で、彼らの『手柄』を作るような真似はしたくなかったのです。すなあち、スティーブンズは、自らの良識や常識から、第二次排日土地法の成立に反対したというよりも、個人的な政治的動機から、法案に反対していたのです。
 また、当時ヨーロッパではパリ講和会議が開催されてろり、そうした折に排日法案が成立することは、国際関係上好ましいことではありませんでした。そこで、当時国務長官を務めていたランシングは、排日法案を成立させないよう、スティーブンズに圧力をかけていたのです。
 州知事が排日法案に対して、非協力的な態度を貫いたために、過酷な排日土地法案が成立することはないように思われました。しかし、カリフォルニア州には、住民による『直接投票』によって法案が成立するという方法がありました。排日勢力は、この『直接投票』によって排日土地法案を成立させることを目指したのです。カリフォルニアの州憲法では、住民投票によって成立した法案を政治家が覆すことは出来ませんでした。
 1920年11月2日、住民投票が行われた結果、668,483票対222,086票という大差で排日土地法案は可決されてしまうのです。当時のカリフォルニア住民たちが、いかに排日運動に熱心であったのかが理解できます。
 カリフォルニア州で過酷な排日土地法案が成立したのは以上の通りですが、このカリフォルニア州の排日運動は、アメリカ全土にまで拡大することになります。
 『排日移民法』の成立
 ここからは、『排日移民法』の成立について考えたいと思います。
 1922年11月13日、『帰化資格のない者』に関する連邦最高裁の判決が下ります。この判決は、この後の排日移民法の問題を考える際に極めて重要な判決ですし、先程までその過程を眺めた排日土地法を考える上で重要な判決です。
 この判決は、『タカオ・オザワ』という日本人に対して下された判決です。オザワはカリフォルニア・バークレー高校を卒業し、カリフォルニア大学バークレー校で3年学びました。自分自身はもはや日本人ではないと考えており、アメリカ人になりたいと望んだオザワは、アメリカの市民権を要求します。市民権を求めたオザワに対して、最高裁は拒絶する判決を下します。拒絶の理由は、『自由な白人』ならざる日本人のオザワは、アメリカ市民権を持つことが出来ないというものでした。すなわち、日本人とは、どれほどアメリカに居住しようとも、永久に市民権を持てない人種であると断定する最高裁判決が下ったのです。
 こうした日本人を差別する判決に対し、日本国内では憤激の声があがります。しかし、こうした日本人の憤激を尻目に、せらなる日本人差別が法制化されることになるのです。
 それが排日移民法の制定です。
 日米紳士協定等により、日本からアメリカへの移民は年間250名程度と極めて少数でした。しかし、愚かしい人種偏見に凝り固まり、排日運動に血道をあげる勢力にとって、日本人排斥の法制化は、至上命題だったのです。
 『アメリ在郷軍人会』『カリフォルニア州労働連合』『カリフォルニア州農業連合』『輝かしき西部の息子たち』の4つの組織からなる『カリフォルニア州合同移民委員会』は、排日移民法の制定を求める急先鋒で、盛んに排日の機運を高める運動を展開し、議会におけるロビー活動を展開しました。
 移民帰化委員会は、『帰化資格のない移民』の入国を禁じ、日本国民の移民を一切認めない法案の成立を促す報告書を提出します。
 提出された報告書には次のように記載されています。
 『同化しない人種の端的な例が東洋人移民であり、彼らはアメリカの社会、政治、経済にとって脅威となりかねない存在である。そのため、現行の移民法によってすでに排斥されいる東洋人移民だけではなく、日本人移民の完全な排斥も必要である』
 そもそも、肌の色の違う日本人はアメリカ社会に同化することが出来ない。そして、彼らは放置しておけば必ずやアメリカに対する脅威となる、これがアメリカ人の認識だったのです。
 日米紳士協定を遵守してきた日本は、国務省に対し、『考慮』を求め、必死に動き回りましたが、結局徒労に終わります。紆余曲折を経た結果、『帰化資格のない移民』が全面的に禁じられることが決定します。表面的には『帰化資格のない移民』とされていますが、該当するのが日本人しかいない以上、まさしく日本人を排斥することを目的とした法律が制定されたのです。以後、日本人移民は全面的に禁止されます。なお、このときに成立した1924年移民法は、トルーマン大統領が1952年に排日条項を撤廃する日まで継続し続けることになりかす。
 排日移民法は、カリフォルニア州など、アメリカのごく一部の州で決定した法律ではありません。アメリカ全体の法律です。従って、極少数の良識派がいたことは事実ですが、多くのアメリカ人が日本人の排斥を望み、そうした政策を支持したといって間違いありません。
 それは根本的には、肌の色が異なるという人種の問題に帰着する人種差別の問題だったのです。
 日本人が感じた恥辱と怒り
 こうしたアメリカの人種差別に対して、日本国民は憤激します。
 『読売新聞』は、排日移民法の成立を『有色人種への挑戦』と位置づけ、『時事通信』では『日本国民に対する最大の冒涜にして損傷』だと見做しています。また『東京朝日新聞』では、排日移民法の成立を、『三国干渉にも劣らぬ新困難』であると報道しています。言うまでもなく、『三国干渉』とは日清戦争の直後、ロシア、フランス、ドイツの三国の干渉により、日本が戦勝によって得た遼東半島を放棄させられた国辱です。当時、国民は『臥薪嘗胆』を合言葉に、雪辱を誓ったのです。
 排日移民法の制定により、日本国民の多くが憤激したのです。
 アジア主義を唱えていた国粋主義者内田良平は、排日移民法の成立に対して次のように述べています。
 『人種差別待遇と我国民に対する大侮辱は、日本帝国に生を受くる者の到底忍ぶ難き処である』
 排日移民法の成立に憤りを覚えたのは、国粋主義者ばかりではありません。ハーバード大学で法学を学び、セオドア・ルーズベルトと個人的に親しかった知米派の金子堅太郎は次のように落胆しています。
 『40年にわたり日本とアメリカの友好のために尽くしてきた自分の生涯の希望がうちこわされ、もっとも冷酷な裏切りを味わった』
 最も衝撃的だったのは、アメリカの排日移民法の成立に抗議し、諌死(かんし)した日本人がいたことです。自決した日本人の名前は未だにわからないままですが、決意を綴った文章が遺されています。少し長いのですが、重要なことが書かれているので引用します。
 『予が死を以て排日条項の削除を求めるものは貴国が常に人道上の立場より平和を愛好唱道せられ平和の指導者として世界に重きを思わしめつつある貴国が率先して排日法案の如き人道を無視した決議を両院通過して法律となるが如きは実に意外の感に耐えざるなり。
 人類生存上憤怒する場合種々あるも恥辱を与えられたる憤怒は耐え難きものなり恥しめられるべき事情ありて恥しめられる大いに侮い忍ばざるべきからず故えなくして恥しめらる憤怒せざらんと慾するも耐え難きなり』(『東京朝日新聞』1924年6月1日付)
 『平和』を愛すると公言しているアメリカが、排日移民法のような人種差別法案を両院で可決したことを詰っているのですが、この法案が出来たことによる具体的な被害について触れられていないことが重要だと思います。彼が怒っているのは、日本人を差別する法案が可決されたこと自体なのです。排日移民法の成立によって日本、そして日本人は『故なくして恥(はずか)しめら』れ、日本人は大いに『憤怒』しているという内容です。
 こうした憤りの念を京都帝国大学教授の末広重雄も指摘しています。
 『もっとも之(排日移民法)に依って直接に我国の蒙る不利はさして大なるものでないとしても、日本国民の顔に「劣等国民」「望ましからぬ国民」の烙印を押すものであるから、一等国民として実に忍ぶべからざる侮辱である。国民の名誉の問題としては、極めて重大なる意義を有するものと云わねばならぬ』(「正義人道に背く米国両院の態度」『大阪朝日新聞』1924年4月25日ー28日付)
 末広の主張は明快です。直接日本が被る不利益以上に、日本、日本人が公然と侮辱されたことが許せないというのです。名を知られることもなく諌死を遂げた一国民にせよ、末広にせよ、彼らが憤っているのは、こうした人種差別によって経済的な不利益を被るからではありません。我が国を侮辱されてはならぬという強い『独立自尊』の精神が、彼らをして憤らせているのです。
 日本人の誇り、自尊心が傲慢で偏狭なアメリカの人種差別法案を許すことが出来なかったといってよいでしょう。この憤りにつては後にもう少し考察を深くすることにします。
 第七章 人種差別撤廃の理念を世界に問う日本
 人種差別撤廃条項
 『肌の色が違う』という全く理不尽な理由だけで人種差別が横行していたのが世界史でした。肌の色が違うだけで同等な人間として扱わず、奴隷のように扱われたり、時には虐殺された場合もありました。
 こうした理不尽な人種差別をなくそうと問題提起した国がありあす。我々の祖国日本です。
 1919年、パリでは巨大な国際会議が開催されていました。」
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 武士道的教育を受けていた戦前の日本人は、天皇の名誉、国家の体面、民族の誇りを守る為ならば武器を取って戦い、戦いの内で死んでも本望と覚悟していた。
 それが、日本精神、大和魂、大和心、気概、志であった。
 名誉・体面・誇りを傷付けられたのが自分ではなく、アメリカに住む日本人移民であっても自分の事のように憤慨し、激怒し、その理不尽な非を訴えた。
 そして、アメリカにその非を改めさせる為ならば、「アメリカとの戦争も辞さず」と政府に圧力をかけた。
 政府と軍部は、アメリカとの戦争は勝てない事を知っていただけに、激昂した国民の対米悪感情を満州開発に逸らそうとした。
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 戦前の日本は、現代の日本とは正反対に、外圧には屈する事なく戦争も厭わず激しく抵抗し、問題を事なかれ主義で先送りせず、逃げも隠れもせず正面から生真面目に受けて立ち、国際法や世界ルールに則って是々非々で正々堂々と、勇気を奮って弱腰・逃げ腰にならず、断固として話し合いで解決しようとした。
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 軍国日本も苦境を見透かして暗躍したのが、ソ連コミンテルン中国共産党らの共産主義者と中国で布教活動を行っているアメリカのキリスト教会であった。
 そして、昭和天皇と皇族を殺害しようとしたキリスト教朝鮮人テロリストである。
 朝鮮人の間にキリスト教が広がっていった。
 アメリカのキリスト教会は、バチカンとは違って反天皇反日的であった。
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 軍国日本にとって不安材料が、反日感情が根強い朝鮮人民の動向であった。
 不安である為が、兵隊不足を補うべく志願制で厳しい審査をして兵士に採用した、労働不足を補う為に賃金や労働時間に配慮して募集し軍属や労働者・炭鉱夫などにした。
 つまり、戦死して靖国神社に祀られるのは一等国民・優秀民族の日本人であるが、二等国民・劣等民族の朝鮮人は名誉の戦死を遂げるに値しない、と。
 朝鮮人(約3,000万人)が、日本国内や日本軍の後方で反日暴動や独立闘争を起こせば軍国日本は内部から崩壊し滅亡した。
 朝鮮独立派の一部は、万歳事件敗退後、カリフォルニア州などに亡命し、キリスト教に改宗して、アメリカで活動を続けた。
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 昔の日本人はハッキリとした武士であり百姓であったが、現代の日本人は武士でも百姓でもない「得体の知れない存在」である。
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 戦時中、何故、日系アメメリカ人達が暴力的に強制収容所に収容されたがドイツ系イタリア系アメリカ人が収容所に入れられなかったのか、それは同じ白人でありキリスト教徒だったからである。
 つまり、アメリカ人にとって、ドイツ人やイタリア人は友人というより身内であったが、日本人は馴染みがない赤の他人であった、という事である。
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 昔の日本人は、何時の時代でも、如何なる場所においても、如何なる事情であろうとも、人として当たり前の権利を持った普通の人間として認め、そして遇する事を求めた。
 世界は、日本の要求を拒絶した。
 日本民族日本人は、西洋列強によって世界の孤児にさせられながらも、天皇を中心に団結し、民族集団で孤独に世界に対峙し、自己努力と自力救済で着実に世界的地位を築き、生き残る為の居場所を確保していった。
 それが、明治維新による日本の近代化であった。
 それは、強力な軍隊を持って外国からの侵略から天皇・日本国・日本民族を守る事が主目的であった。
 アメリカの属国のように従う事を、不満もなく甘受している現代日本人とは違うのである。
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 日本は、アメリカ人に日本人を理解してもらう為に、桜を送ったり、人形を交換したり、アメリカ各地で日本を紹介する催しを繰り返していたが、全てが無駄で、徒労に終わった。
 アメリカ人は、中国に関心を持ち中国人と友人になりたいと思っていたが、日本や日本人などは知りたいとも友人になりたいとも思っていなかった。
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 少子化高齢による人口激減を食い止める為に外国人移民受け入れを決断した日本は、将来、アメリカで起きたと同じような日本人移民とアメリカ国民との対立が起きる可能性が大である。
 そうした歴史的事実を知りながらも、外国人を移民として受け入れなければ日本国民の人口が維持できない所まで日本は追い込まれようとしている。
 それが、外国人移民1,000万人以上の受け入れ計画である。
 日本に大量移民する可能性があるのは中国である。
 中国共産党系中国軍系中国資本は、静かにそして着実に、日本国内で土地や建物、企業や工場を爆買いしている。
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 日本は、食料・物資・エネルギー(石油・天然ガス・ウランその他)をアメリカの支配地及び影響下地域から輸入し、情報・金融・通信・各種サービスをアメリカに依存し、交通・運輸・運搬をアメリカ軍が治安を維持している海域・領域を使って行っている。
 中国共産党・中国軍は、日本の生命線であるシーレーンに対して深刻な脅威であった。
 日本が、自由と民主主義のアメリカへの依存を止めて、一党独裁の恐怖政治を行う中国共産党を頼る事はありえない。
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 明治維新による近代化とは、ロシアの侵略から日本を守り、日本を植民地にさせない、日本人を奴隷にさせないという決意のもと、軍国主義国家を建設して軍備を強化する事であった。
 日本の大陸侵出は、日本を侵略しようとするロシアに協力する中国・朝鮮の策謀を軍事力で粉砕し、ロシア軍を海外で撃破殲滅する事でった。
 日本の近代化とは、世界的強大国ロシアとの戦争に勝利する軍事力を持つ事であった。
 つまり、自衛戦争に勝つ強力な軍隊を作る事であった。
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 ロシアの日本侵略という危機意識は、江戸時代後期の北方領土蝦夷地(北海度)紛争に端を発している。
 最も敏感に反応したて軍備増強を主張したのが、大名であれば水戸斉彬、島津斉彬で下級武士であれば吉田松陰橋本左内西郷隆盛らであった。
 ロシアとの戦争を避けようとした井伊直弼ら幕府は、戦争辞さずの軍備増強派を安政の大獄で弾圧した。
 だが、尊皇派・勤皇派の下級武士・庶民によって天皇幽閉体制である江戸幕府は崩壊した。
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 日本に対する存立の脅威は、北の大陸(ロシア)であり、その手先となった西の大陸(中国)と目の前の半島(朝鮮)であった。
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 日本国民・日本民族日本人は、個人が豊かになる事よりも国が軍隊を持つ事に賛成し、貧しい事に辛抱して軍隊建設に協力した。
 軍国日本・軍事国家日本は、日本国民・日本民族日本人の総意であった。
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 中世キリスト教会は、原始キリスト教原理主義で暴走していた。
 異端者への宗教裁判。異端審問。魔女狩り。異教徒への聖戦。十字軍遠征。
 中世キリスト教会は、日本人を奴隷として売買する事を「神の御意志」として容認した。
 白人キリスト教徒にとってすれば、非白人非キリスト教徒の日本人は、アフリカ人やインカ人、マヤ人と同じ人間以下の家畜・獣でしかなかった。
 それが、世界を支配している宗教的白人至上主義である。
 人類は、人種差別の頸木(くび)から逃れられない。
 豊かで満ち足りている時は自由・平等・博愛が社会に安定と平穏をもたらすが、生活が貧しく苦しくなると人種差別が表れ、人種憎悪が暴動を発生させて社会を不安定にする。
 貧富の格差が広がると人種差別も顕在化して社会を混乱させる。
 中世キリスト教会は、現代のキリスト教徒は違う。
 ただし、アメリカ国内の一部のキリスト教会は中世キリスト教会に近い教会が存在する。
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 当時の日本人は、現代日本人のように差別され馬鹿にされ侮辱され軽蔑されても争う事を避けてヘラヘラと媚びる諂うように笑いながら「自分が悪かった」と謝り「不快にさせて申し訳なかった」として慰謝料を払うような、無様な事はしなかった。
 決して問題を先送りにするなど卑屈な事なかれ主義に逃げ込まず、相手の非を明らかにして訴え、断固として寝入りはしなかった。
 つまり、「惨めに生きるくらいなら、戦って潔く死ぬ」という戦争の覚悟があった。
 それは、勝ち負けを度外視した不退転の決意でった。
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 現代日本人が、自分は武士だ、武士の子孫だ、自分には武士道がある、士道がある、日本精神がある、日本の心がある、志がある、などと「ほざく」資格はない。
 1980年代を境にした以降の現代日本人は、特にそうである。
 現代日本から、武士・サムライは絶滅し、武士道・士道は消滅している。
 特に、リベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派はそうだと言える。
 勇ましい日本民族日本人は急速に数を減らし、代わって、心醜い悍ましい日本国民日本人=日本国籍日本人が急増している。
 その証拠が、天皇制度(国體)維持と靖国神社護国神社等の参拝である。
 それは、ヘイトスピーチをがなり立てる右翼・右派・ネットウヨも同じ事であるが、むしろこちらの方が最悪で武士・武士道の欠片が一切ない。
 何故なら、彼らが暴動・内紛そして内戦・戦争の主要な原因となるからである。
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 現代日本人は、経済的に不利益を被ったり金儲けがし辛くなった事に最大の関心があるのであって、天皇・国家・民族の名誉が侮辱された体面を踏みにじられた事には関心が極めて少ない。
 戦後教育は、平和教育として「日本人の誇り」や「自尊心」を捨てる事を徹底的の子供達に教えた。
 つまり、日本人から日本民族性を破壊消滅させる事であった。
 日本人の誇りや自尊心は、戦争を引き起こす元凶であり、悪であると。
 日本民族性を復活させる動きを、歴史修正主義言論弾圧してる。
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 最も陰険だったのが、マルクス主義とくに共産主義であった。
 それが、ソ連コミンテルン中国共産党である。
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 日本国民が、軍部・軍国主義者に騙されて戦争に賛成し、一銭五厘赤紙一枚で強制的に戦場に送られて死亡した、とは真っ赤な嘘である。
 昭和天皇・政府は、できれば破滅的なアメリカとの戦争を避ける為に、外交交渉を粘り強く続けていた。
 軍部も、戦えば勝てない事を知っていた為に、外交交渉の成功を心の中で望みながら、軍人の本分として開戦準備を続けた。
 だが、そうした消極的、弱腰、逃げ腰に激怒して即開戦を強く望んだのは日本国民であった。
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 「日本国民は、軍部・軍国主義者に騙されて戦争に狩り出された」という偽情報を語る輩は、善人の仮面をかぶった陰険な悪党である。
 それを信じる日本人は、思考力と判断力がない子供以下の日本人で、例えれば「飼い犬」である。
 「お前はバカ犬」と笑顔で言われているのに、そのどす黒い悪意を感じられず、頭をなでられている事に尻尾を振って喜び、与えられた餌を満足げに食べている忠実な忠犬である。
 日本国と日本人を薄ら笑いを浮かべて馬鹿にし軽蔑している張本人こそ、中国共産党である。
 中国共産党は、頭を下げ、腰を低くし訪れ、卑屈な笑いを浮かべおべっかを並べて握手を求める日本人に、かならざわざとらしく「日本人は騙された被害者である」と言って微笑む。
 それに感動して涙を流す、忠犬の様な日本人が増えている。
 それに便乗しているのが、韓国・北朝鮮そしてロシアである。
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 朝鮮の悲劇は、自国の事は自主的に自分で決まるのではなく、大陸の強大国に任せて決めて貰おうという依存性の強さにあった。
 その依存した大国が、日本の敵である中国やロシアであった。
 朝鮮は、中国やロシアの忠実な走狗となって日本に敵対した。
 それ故に、キリスト教朝鮮人テロリストは昭和天皇や皇族を殺そうと付け狙っていた。
 朝鮮の悲劇は、日本が発揮した困難に立ち向かう前向きな意識や何もない中から一つずつ自らの手で築き上げるという建設的な機運がなかった事である。
 つまり、自分の事、自国の事を自分で考えて決められなかった事である。
 日本民族日本人が最も嫌った、教えてもらう、指導してもらう、導いてもらう、という「さもしい根性」しか朝鮮にはなかった。
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 混血の雑種民族日本には、絶対的二元論ではなく相対的三元論を信じていた為に、多種多様を好み、よって人種・民族に対する差別思想はなかった。
 ゆえに、日本の歴史上、西洋・中東・中華などの大陸世界とは違って宗教的血縁的奴隷制度はなかった。

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