🎹23:─2─日本軍と中国共産党が共謀した阿片密売。阿片王・里見甫。~No.131No.132No.133 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 戦勝国の犯罪は、東京裁判において全てが免責されている。
 中国共産党戦争犯罪国家日本に対するアヘン・ヒロポン謀略は、歴史の表舞台から抹消された。
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 戦前・戦中の日本軍の対中阿片政策は戦争犯罪とされたが、戦後の中国共産党の対日阿片謀略は正当防衛と見なしている。
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 共産主義諸国が所有する核兵器は正しい核兵器同様に、中国共産党が密売したアヘンは正しいアヘンとされた。
 軍国日本が、傀儡政権の財源とし日本軍の謀略費として稼いだアヘンは悪いアヘンとされた。
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 中国共産党政府は拒否権を持った国連の常任理事国であり、日本は敵国条項で監視対象になっている。
 戦前の中国共産党は、現代の北朝鮮同様にアヘンを生産し輸出する事で活動資金を稼いでいた。
 戦争中の日本軍部と中国共産党は、アヘンの密売という一点で裏取引していた。
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 中国共産党日本共産党は、日本で天皇制度を廃絶し全宗教を消滅させるという共産主義大義を実現させる事で意見の一致をみていた。
 在日朝鮮人朝鮮総連は、中国共産党の対日アヘン・ヒロポン暴力を全面的に協力していた。
 中国共産党日本共産党在日朝鮮人朝鮮総連は、日本人をアヘン・ヒロポンで廃人にし洗脳して共産主義者に改造しようとした。
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 中国共産党を擁護する反天皇反日的日本人によるマスコミでの日本攻撃や日本批判が絶えない。
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日中アヘン戦争 (岩波新書)

日中アヘン戦争 (岩波新書)

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 2016年8月6日号 週刊現代「わが道をゆく 魚住昭
 『満州』と岸を支えたもの
 ……京大人文科学研究所の山室信一教授……の労作『キメラ──満州国の肖像 増補版』を読んだ。……中国東北部の大地に忽然と現れて消えた幻の国の本質に迫った傑作だった。
 本の中には最近、私が追いかけている『昭和の妖怪』岸信介も登場する。とくに興味深かったのは、増補版で新たに加筆された『補章』の記述だった。
 山室教授は、満州国政府で岸の忠実な部下だった古海忠之(前回登場したアヘン取引の責任者である)の言葉を引きながら、こう述べている。
 〈総務庁次長を務めた古海忠之は、『満州国というのは、関東軍の機密費作りの巨大な装置だった』とみていますが、満州国のみならず、陸軍がアジア各地で広汎な活動ができたのも、満州国が吸い上げる資金をつぎ込めたからだといわれています。基本的な資金源はアヘンでした〉
 山室教授によると、アヘンは満州国の財政を支えただけではなく、機密費の主な資金源になった。そのため満州や蒙古各地でケシを栽培されたほか、ペルシャなどから密輸した大量のアヘンを満州国に流し込んだという。
 それが莫大な利益を生み、軍の謀略資金になった。関東大震災(1923年)直後、無政府主義者大杉栄ら3人を殺したとされる元憲兵大尉・甘粕正彦が、満州で『影の皇帝』といわれるほどの権勢をふるったのもそうした裏金があったからだと指摘して教授はこう語る。
 〈甘粕はまた中国人労働者を満州に雇い入れる斡旋事業においても、裏金をつくり出していました。岸信介にしても一介の官僚でありながら、甘粕の特務工作に対してその当時の額面で1,000万円(卸売物価の上昇率からみて現在の80億〜90億円にも相当します)を手渡したりしています〉
 ただし、甘粕はこの資金を着服したりせず、満州国から華北や満疆(もうきょう)へ日本が侵攻していくための特務工作に使用したといわれている。だから〈満州国はそうした『第二の満州国』造り工作の策源地であり、資金源であったということになります〉と教授は解説する。
 なるほど、そう考えると、関東軍が陸軍中央の統制を無視して暴走を繰り返した理由も分かってくる。彼らは満州でアヘンという打ち出の小づちを手に入れた。だから中央の顔色をうかがう必要がなかったのだ。
 それにしても、岸から甘粕に渡されたという1,000万円は眉に唾をつけたくなるほどの巨額のカネである。ホントだろうか。
 山室教授が根拠にしているのは、戦後になってからの古海の証言だ。その全容は『新版 昭和の妖怪 岸信介』(岩見隆夫著・朝日ソノラマ刊)に収録されているのでご紹介しておく。
 古海によると、岸が満州国政府の高官だった1930(昭和5)年代後半、岸と甘粕を中心に古海らを加えて約10人が会を作っていた。会の名はなかったが、そこでアジア政策をどうするか、日本での情宣活動はどうあるべきかが話し合われた。
 会は単なる懇談に止まらず、具体的な行動もとった。日本内地の新聞の乗っ取りを企てたり、甘粕による排英工作(=英国勢力をアジアから駆逐する謀略工作)を支援したりした。その意味では会というより一派と呼んだほうがふさわしいかった。 
 古海が言う。
 〈甘粕という人はたくさんのカネを持っていたが、使う方もバカ大きくて、そういう意味では、ケタ外れのスケールをもっていましたね。大量の工作資金を必要とするのに、甘粕は決して自分で資金づくりをしない。そのため、随分私どもも甘粕のために資金作りをしたものです〉
 当初、甘粕には満州国総務庁の機密費を支出していた。ところが、1937(昭和12)年に大蔵省出身の星野直樹が総務長官になって『機密費の流用はまかりならん』ということになり、甘粕は資金の調達に困ってしまった。そのため甘粕から頼まれた古海が岸に取り次いだ。
 『甘粕が困っている。1,000万円必要だといっている』
 古海が言うと、岸が答えた。
 『何か担保はないか』
 『鉱山の採掘権を持っている』
 『そうか。採掘権さえあれば大丈夫だ。それくらいはたいしたことではない。いままで一度も鮎川から搾(しぼ)ったことがないから、あの男から取ってきてやる』
 岸はあっさり資金調達を引き受けた。鮎川とは新興財閥・日産コンツェルンの総帥・鮎川義介(岸の縁戚)のことだ。日産は1937年末、岸らの誘致で本社を満州の新京(現・長春)に移し、社名を満州重工業開発に変更した。古海が言う。
 〈岸さんは鮎川に甘粕の採掘権を1,000万円で売りつけたわけです。甘粕は満州建国の功労で関東軍からあちこちの鉱山の採掘権をもらっていたのです。その後、鮎川は岸さんの斡旋で甘粕にカネを出し続けていました〉
 額が事実かどうかはともかく岸は膨大なカネを自由に動かしたようだ。『岸信介─権勢の政治家─』(岩波新書)の著者・原彬久東京国際大学名誉教授は〈岸は同僚官吏はもとより、民間人、それもいわゆる満州浪人、無頼漢に至るまで彼のそばに来るものには惜しげもなくカネを与えたというわれる〉と記している。
 私が気になるのは、岸の豊富な資金がアヘンの密売によって作られたものだったのかだ。その謎に迫るのは、上海の『阿片王』里見甫の証言に耳を傾けなければならない」
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 8月13日号 週刊現代「わき道をゆく 魚住昭の誌上デモ
 『大部分ハ東京二送ラレタ』
 千葉県市川市の江戸川沿いにある里見公園は、戦国時代に里見一族が北条氏と戦って敗れた古戦場として知られている。
 土曜の午後、その里見公園の隣にある総寧寺を訪ねた。上海の『阿片王』といわれた里見甫(はじめ)の墓があると聞いたからだ。
 人気のない境内の奥の墓地に入って探したら、すぐ見つかった。こぢんまりした墓石に『里見家之霊位』と刻まれ、側面には『岸信介書』とあった。
 たしかに岸の字だ。少し丸みを帯びていて優しげで、しかも繊細である。岸がその政治人生でしばしば見せる、激しさや冷酷さは少しも感じさせない。
 『字は体を表す』と『書は人なり』かというけれど、岸にはその格言は当てはまらない。彼はつねに千変万化する。善人なのか、悪人なのか。鵺(ぬえ)のようで捉えどこがない。
 一方の里見はどうだったのだろう。彼は戦後の1965(昭和40)年、69歳で亡くなった。われらが先達(せんだつ)、草柳大蔵は『実録・満鉄調査部』(朝日新聞社刊)で里見をこう描いている。
 〈五尺五寸ほどの痩せた男である。頭の頂天が尖っていることのほかは、何の変哲もない風貌をしている。むしろ柔和である。路傍の地蔵尊や野際の石小法師の前をとおるときは、必ず足を停めて掌をあわせる。物静かな語り口であり、周囲の人が「どうして生きているのか」と訝(いぶか)るほど食事を摂らない〉
 さすが草柳である。里見の人間像が眼前に浮かぶ。里見はアヘンで中国に途方もない害毒を垂れ流したが、彼自身は私利私欲とは縁遠い、恬淡(てんたん)とした男だったらしい。
 草柳によれば、里見は上海・虹口(ホンキュー)の乍浦路(ジャープールー)に面したピアス・アパート3階に住んでいた。6畳と3畳の二間しかない家で、祕書はおかず、『おちかさん』という身の回りの世話をする女性が通いで来ていた。
 乗用車はビュイックの中古車で、しばしば藍衣社(らんいしゃ=蒋介石直属の秘密結社)の狙撃の的になったが、運の強い男で、かすり傷ひとつ負わなかったそうだ。
 総寧寺の里見の墓石のわきには友人の筆になる小さな墓碑が建っていた。そこに刻まれた語句が里見の生の核心を見事に捉えているような気がした。
 凡俗に堕(お)ちて 凡俗を超え
 名利を追って 名利を絶つ
 流れに従って 波を揚げ
 其の逝(ゆ)く処をしらず
 里見と岸の間にはいったいどんな交流があったのだろう。岸は戦後になって『岸信介の回想』(矢次一夫・伊藤隆との鼎談・文藝春秋社刊)でアヘンについてこう語っている。
 〈満州国ではアヘンの吸飲は厳重に禁止したけれど、陰で吸っているのはいたでしょう。……いずれにせよ満州ではアヘンを禁止し、生産もされないし、吸飲もさせなかった〉
 読者はすでにおわかりと思うが、この発言は著しく事実に反する。満州国は表面上はアヘン根絶を目標に掲げたが、熱河地方ではアヘンの栽培を奨励した。それでも足りない分は華北などから輸入し、アヘンの専売で莫大な利益をあげていた。
 岸がつづけて語る。
 〈しかしアヘンを扱ったものとして里見という男のことは知っています。ただ私が満州にいた頃は里見は上海で相当アヘンの問題にタッチしていて、金も手に入れたのでしょうが満州には来ていないから私は知らない。里見を知ったのは帰国後で、満映にいた茂木久平の紹介です。里見が死んで墓碑に字を書いたことがあるだけれど、これも茂木に頼まれたからですね〉
 茂木久平とは、満州の『夜の帝王』甘粕正彦が理事長をつとめる満州映画協会の東京支社長だった男である。どうやら岸は、里見とはそんなに深い関係ではなかったと言っていたらしい。
 たしかに岸と里見の直接的な交流を示すデータはほとんどない。唯一、佐野眞一さんの『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社刊)に、戦後、里見の秘書役をつとめた男の証言が出てくる。
 岸は満州から帰国後の1942(昭和17)年、翼賛選挙に立候補して当選した。秘書役によれば、このとき里見は、岸に200万円(現在の16億円相当)を提供した。『鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない』という。
 しかし、これは残念がらまた聞きである。真偽の判断はつかない。それよりも東京裁判に提出された里見の宣誓口述書を読んだほうが、戦時中の岸と里見の関係のバックグランドを知る手掛かりになりそうだ。
 〈私即(すなわ)ち李鳴く(リメイ=里見の中国名)事里見甫は良心にかけて次のことが真実である事を誓ひます。
 1937年9月又は10月私は新聞記者として上海に参りました。私はそれ以前天津に居ったのです。
 1938年1月又は2月に楠本実隆中佐が私に特務部(=支那派遣軍参謀部の一部)のために大量の阿片を売って呉れるかどうか尋ねました。彼は此の阿片がペルシャから来る途中にあると云ひました〉
 里見はこの後、ペルシャ産アヘンで得た利益は約2,000万ドル(現在の日本円で数兆円相当)に上ること、その利益は特務部(後に廃止)がある間は特務部に、それがなくなってからは興亜院(占領地の政務・開発にあたる日本の機関)に支払われたこと、1939年の末ごろには蒙古産アヘンも販売し、その大部分は中華航空機で運ばれてきたことなどを語っている。
 問題は興亜院などに送られた金がその後、どこに行ったのかだ。里見は知っていたはずだが口をつぐんでいる。私はいろんな文献にあたるうち、『阿片吸引禁止処理経過事情』という文書に突き当たった。宣誓口述書と同じく東京裁判の検察側証拠として提出されたものだ。
 そこには〈売上金ノ大部分ハ東条内閣ノ補助資金、及議員ヘノ補助金二割当テラレル為東京二送ラレタ〉という衝撃的な記述があった」
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 東京裁判で。検察側が、軍国日本の人道に反する重罪犯罪を証明する為に提出した、南京・汪兆銘政権の幹部であった梅思平の供述書。
 梅思平「中国に於ける阿片取引は二つの理由によって、日本政府の系統的政策であった。第一に、内蒙古占領に続いて日本人により立てられる傀儡組織であったところの蒙疆(もうきょう)自治政府は、罌粟(けし)の栽培を習慣としている内蒙古で阿片を購(あがな)ふ事に依(よ)って財政的不足を解決せんと努力した」
 「他方では上海並びに中国の都市に於(おい)て売られた阿片の売上金の大部分は東条内閣の補助資金、及び議員への補助金に割り当てられる為東京に送られた。それは公然の秘密であり、そして幾らかの本国内の日本人もこの東条内閣の名うての政策に反対していた事は周知の事であった」
 (1943年12月 学生や市民達は、抗日運動の一環として、南京、上海、杭州その他の都市にあった親日的秘密結社が運営する阿片を売る店や阿片窟を襲撃し打ち壊し、日本の阿片政策への反発を強めた。)
 「しかし日本の軍隊は敢(あ)へて之に干渉しなかった。結果として、日本政府は、南京政府が、〝阿片の利益は蒙疆自治政府の主なる財源である〟といふ事実を考慮する条件の下に於いては、もし中国が戦前の阿片禁止法案を回復する事を望むならば、中国を助けるといふ意思を表示して経済顧問を南京政府へ派した。」
 (日本政府と日本軍部は、傀儡政権である蒙疆自治政府が別の財源で財政健全化ができるのなら、汪兆銘・南京政権が治安回復の為にアヘンを厳しく取り締まる事に反対しないし、日中戦争を有利にする為の戦略として阿片撲滅の支援を認めた)
 「3つの事実らしい理由が発見された。
 第一に、東条内閣は秘密の目的又は政治的目的に阿片の利益を利用した事について、日本国内外の国民に依って攻撃された。
 第二に、日本政府は中国国民に嫌悪を減少させんとした。
 第三の最も重要なる事実は、当時の日本は中国の物資統制によって阿片取引の10倍の収入を得ていた」



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阿片王―満州の夜と霧 (新潮文庫)

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失敗の中国近代史 [阿片戦争から南京事件まで]

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