🎺49:─1─駐日スイス公使と日米極秘終戦工作。スイスは日本の利益保護国である。1945年~No.233No.234No.235 @ 

終戦史 なぜ決断できなかったのか

終戦史 なぜ決断できなかったのか

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 東條英機内閣。1941年10月18日組閣、1944年7月18日総辞職。
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 昭和天皇と日本は、破滅的戦争を止めるべく、徹底抗戦派に知られないように極秘で動いていた。
 が、アメリカは戦争継続の為に、昭和天皇と日本からの降伏申請を拒絶した。
 アメリカの陸軍航空部隊と海軍機動部隊は、日本本土への無差別爆撃を続けていた。
 マンハッタン計画は、日本が無条件降伏する前に二発の原爆投下実験を終了させるべく急いでいた。
 ホワイト・ハウスとアメリカ軍の首脳部は、対ロシア政治戦略からソ連が参戦する前に原爆投下実験を完了する事を最終決定していた。
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 1945年4月 スペインは、日本軍が行ったマニラ市街戦でスペイン資産に多大な被害を受け事に対して、多額の賠償金を求めたが拒絶された。
 スペイン指導部は、戦況が数軸国側に不利なことから連合軍に寝返ることにした。
 4月9日 東郷茂徳外務大臣に就任して、昭和天皇が希望する講和を叶えるべく極秘の停戦交渉が始まった。 
 4月12日 スペインは、軍国日本と国交断絶とともに日本の利益保護国も放棄し、対日戦に参加する為に連合国に加わった。
 軍国日本は、スペインが利益保護国の任を放棄した事で、中立の第3国を通じたアメリカと降伏交渉ができなくなった。
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 7月10日頃 スイスにおいて。日本の陸軍、海軍、外務省、民間の横浜正金銀行国際決済銀行ペール・ヤコブセンらは相互の連携もなく、アメリカ戦略情報局(OSS)スイス支局長アレン・ダレスとの極秘終戦交渉が個別で始まっていた。
 スイス政府は、国内に在住の日本人達が停戦交渉の為に活動を活発化させているという報告を受け、官憲に対して監視を強化するように命じた。
 その事は、ワシントンのスイス公使代理マックス・グラスリにも伝えた。
 7月14日 スイスは、軍国日本からの、敵国アメリカとの外交交渉の窓口となる利益保護国要請を受諾した。
 同時に、イギリス、カナダ、オーストラリアの利益保護国にもなっていた。
 軍国日本は、オランダに対してはスウェーデンを利益保護国に選んだ。
 7月13日 ダレスは、軍国日本がヤコブセンを通じて停戦の意思を伝えてきた事を、ワシントンの国務長官代理ジョセフ・グルーに報告した。
 7月14日・15日 ダレスとヤコブソンの極秘会談。駐スイス公使加瀬は、7月21日付け東郷外相に極秘電報で報告した。
 軍国日本が降伏にあたり絶対譲れない条件が、昭和天皇の命、天皇の地位、皇室の存続といった「国體護持」であった。
 軍国日本、日本民族日本人は、何としても日本天皇だけは護ろうとした。
 7月17日 グラスリ公使代理は、グルーを訪れて、軍国日本からアメリカとの交渉の窓口になる利益保護国になる要請を受け受諾した事を報告した。
 軍国日本とアメリカとの間の戦争終結交渉ルートが正式に開通した。 
 グルーは、国務省に対してスイスを経由して軍国日本との停戦交渉が可能になった事を報告した。
 「今朝スイス公使代理グラスリが訪ねてきて、この春にスペインアメリカにおける利益保護国の座から退いて以来、日本はスイスにその役割を引き受けるよう要請していたと話した。スイス政府は当初はこれを引き受ける事に難色を示した。それは第1に、日本及び日本の占領地域でスイス人が情け容赦なく殺害され、略奪されたあらであり、第2にはアメリカ人の日本人に対する憎悪がドイツ人をも上回るものである事がスイス政府にこの感謝されざる仕事を引き受ける事を難しくしていたからだ。しかしなあら、熟慮の末、スイス政府は、アメリカ政府が同意するならば、これが日本政府をして日本にいるさまざまなスイスの代理人たちにスイスの利益だけでなくアメリカの利益を守る為により大きな便宜を与えさせる事になるという観点から、引き受ける事を決意した」
 アメリカの知日派による極秘の停戦交渉が、スイスを仲立ちとして極秘に始まった。
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 国際的な国家間での戦争集結の際には、戦時国際法に従い中立の第三国が利益保護国として正式の外交ルートで仲介しなければ敗戦国は降伏できない。
 如何なる国といえども、中立国が敵対国との仲介となる利益保護国になる事を認めれば、利益保護国が仲介する停戦交渉を無視する事は国際的には大きなマイナスとなり、大国の驕りとして国際社会から非難を浴び、国際外交上の信用を失墜させる恐れがあった。
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 8月15日午前7時40分(日本時間午後2時40分) スイスの加瀬は、正式回答である「バーンズ条件」を受理した。
 軍国日本は、アメリカ側の停戦に関する正式回答を受けない前に「終戦詔勅」を放送し、全ての軍隊に戦闘中止を命じた。
 8月16日午後6時10分 加瀬は、スイス政治省を訪れ、降伏するにあたって希望する条件を記した連合国4ヵ国宛の「帝国政府希望開陳の件」という極秘の要望書を手渡した。
 午後6時50分 スイス政治省は、ワシントンのグラスリ公使代理に、軍国日本が「連合国4ヵ国に対する希望」と題した極秘電報で送った。
 ワシントン時間16日午後2時 グラスリ公使代理は、国務省に「連合国4ヵ国宛の要望書」を手渡し、スイスは利益保護国の任を全うした。
 アメリカは、軍国日本の降伏が無条件であるとする為に、「国體護持」以外は拒絶した。
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 9月2日 東京湾での、ミズーリ号での連合国と軍国日本との正式な終戦協定が調印された。
 9月5日 ソ連軍は、北方領土を不法武力占領して戦闘行為を停止した。
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 2015年8月16日 産経ニュース「スイス公使の謎の電報、米英方針確認? 終戦決断、根拠の一つか
 旧スイス公使館だった深山荘。第二次世界大戦末期、この深山荘を舞台にスイスが仲介役となり、和平交渉が行われた可能性がある=長野県軽井沢町(岡部伸撮影)
 「軽井沢爆撃するな」=国体護持の見方
 長野県軽井沢町疎開していたカミーユ・ゴルジェ公使をはじめ、スイスの外交当局が2カ月弱の間に19通も「イミュニテ カルイザワ」(軽井沢を爆撃しないでほしい)という謎の電報を交換したことが15日、明らかになった。中立国スイスが仲介役として米英から国体護持(天皇制維持)ができることを聞き出して日本側に伝え、昭和天皇が確信をもって終戦決断の根拠の一つとした可能性もある。(編集委員 岡部伸)
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 戦時中、軽井沢町の「深山荘」に疎開したスイス公使館は外交団の中心で、連合国と交戦状態にあった日本はスイスを通じて交渉。スイスは日本で米英豪などの利益代表を務める一方、こうした国々では日本の利益代表を務めた。開戦で双方の国に取り残された民間人の交換交渉や捕虜の問題も話し合った。
 ゴルジェ公使が最初に「イミュニテ カルイザワ」との電報を本国に送ったのは昭和20年6月8日。5月8日にドイツが崩壊して1カ月が経過し、御前会議で本土決戦の方針が確認された一方、6月9日には木戸幸一内相が「時局収拾対策試案」(ソ連仲介工作)を報告してひそかに戦争終結に向けた動きが出ていた。日本側の戦争終結の条件は国体護持だった。
 7月20日の米英からの最終回答は「英国外務省は、日本への爆撃は、アメリカ当局がもっとも関心のあるところであり、それが故に、かれらはコンタクトした」。「軽井沢を爆撃しないでほしい」という要請に対する回答としては、「ほとんど何も意味をなさない」との指摘が出ている。
 しかしスイス政府はこの最終回答に対し、「光栄です」「喜んで」「このような内容をお教えいただきありがとうございました」と好意的に反応しており、スイス側が最終回答を通じて米英から国体護持に関するメッセージを受け取った可能性が指摘されている。
 この直後の26日にポツダム宣言が出され、30日に「イミュニテ カルイザワ」と書かれた最後の電報がベルンからワシントンの公館に送られている。
 今年刊行された「昭和天皇実録」には、「自ら戦争終結を決意した」「国体については(連合国も)認めていると解釈する」と記されており、昭和天皇が国体護持を確信して戦争を終わらせたことは明らかだ。
 昭和天皇天皇制維持の確信を抱いた根拠はこれまでいくつか指摘されている。例えば、ドイツ降伏後の5月8日から8月4日まで14回にわたり、米国のザカリアス大佐が「主権は維持される」などと、天皇制存続を認める可能性があることを短波放送で伝えたことはその一つとされる。
 軽井沢町の藤巻進町長は「終戦軽井沢町とスイス公使館が果たした役割が解明されることを期待したい」と話している。
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 スイス当局の符号
 昭和史に詳しい作家、半藤一利氏「『イミュニテ カルイザワ』はスイス当局の符号だったのだろう。『国体(皇室)をつぶすな』の意で使用していたと解釈すれば、ゴルジェ公使を通じて中立国スイスが米英に『国体護持』の可能性を打診し、和平交渉を行っていたことになり、興味深い。スイス本国からゴルジェ公使を通じて米国の皇室保持の方針が東郷茂徳外相らに伝わっていたならば、ザカリアス放送などとともに天皇阿南惟幾陸相に『確証がある』と語り、終戦を聖断した根拠の一つとなった可能性がある」
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 【プロフィル】カミーユ・ゴルジェ 1893年生まれ。第二次世界大戦中、駐日スイス公使を務めた。1924年から27年まで日本の外務省に法律顧問として赴任。日本に魅了され、13年後の40年に希望して公使として再び日本に着任した。41年に日米戦争が始まると、スイスが中立を維持したため終戦まで赴任を続けた。終戦後はスイスに帰国し、78年に亡くなった。」
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 産経ニュース「「軽井沢爆撃するな」大戦末期 軽井沢から米英に電報 「国体護持」スイス仲介か
 「immunite Karuizawa」と記されたベルンのスイス外務省からワシントンのスイス公使館宛ての電報(スイス連邦公文書館所蔵、一部画像加工しています)
 第二次世界大戦末期に長野県軽井沢町の「深山荘」に疎開していたスイスのカミーユ・ゴルジェ公使をはじめ、スイスの外交当局がフランス語で「イミュニテ カルイザワ」(軽井沢を爆撃しないでほしい)と記載した電報を、本国の外務省や米英のスイス公館に約2カ月間で19通送っていたことが15日、軽井沢町筑波大学の調査で明らかになった。「イミュニテ カルイザワ」が「国体護持(天皇制維持)」の符号であるとの見方も浮上、スイスが仲介役となって米英の意向を探る和平交渉が行われた可能性もある。
 軽井沢町筑波大学スイス連邦公文書館で戦時下の交換電報を調べたところ、昭和20年6月8日から7月30日の間、ゴルジェ公使らが本国の外務省や、外務省を通じて米英のスイス公館に打電した27通のうち19通に「イミュニテ カルイザワ」などの記述があった。
 ゴルジェ公使は本国の外務省に送った6月8日の最初の電報で、「そろそろ『イミュニテ カルイザワ』を働きかけるべきです。(天皇制維持を主張した)米国の国務長官代理、ジョセフ・グルー前駐日大使もよくご存じだ」などと打った。これに対し7月7日、ゴルジェ公使は「ゴルジェ氏の提案は、すでに外務省に報告しているが、結果としてまだ、正確な確証は得られていない」とするロンドンの回答などを受け取った。
 ゴルジェ公使は7月6日にも再び電報を打ち、20日に「英国外務省は、日本への爆撃は、アメリカ当局がもっとも関心のあるところであり、それが故に、かれらはコンタクトした」とする回答を受け取っている。
 東京などへの空襲は、都市部を標的としたもので町村は原則対象外だった。このため、ゴルジェ公使が6月8日に「軽井沢を爆撃しないでほしい」と要請するのは唐突との見方が浮上。スイス側が軽井沢を爆撃対象から外す要請について、在外公館を総動員し複数回にわたり念入りに米英の意向を確認したのも不自然だ。
 東郷茂徳外相と軽井沢で会談していたことを記したゴルジェ公使の日記も発見されており、「イミュニテ カルイザワ」は「爆撃対象から外す」ではなく、国体護持を意味する符号で、ゴルジェ公使が日本を終戦に導く目的で米英に意向を確認した可能性がある。
 軽井沢町筑波大学は22日午後2時から同町中央公民館大講堂で「深山荘の謎を解く」と題して公開シンポジウムを開催。ゴルジェ日記を発掘したフライブルク大学のクロード・ハウザー教授らが講演する。(編集委員 岡部伸)」

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「聖断」の終戦史 (NHK出版新書)

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