🎵16:─2─明治13年~明治17年の北海道十勝地方の蝗害。~No.32No.33No.34 ③ 

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 2020年8月5日 msnニュース  NEWSポストセブン「世界で農作物食い荒らすバッタ、日本でも過去に大発生してた
 © NEWSポストセブン 提供 世界で農作物を食い荒らしているバッタ(写真/GettyImages)
 今年2月、東アフリカで突如、サバクトビバッタが大発生。その大群は農作物を食い荒らしながら移動し、アフリカ北東部から中東、パキスタン、6月末にはインドの首都ニューデリー近郊にまで飛来。
 彼らは、毎日自分と同じ体重のエサ(約2g)を食べるため、1平方キロメートルの小さい群れでも、1日で約3万5000人分もの食料を消費すると推定されている。そのため国際連合食糧農業機関(FAO)は、スーダンエチオピアなど、アフリカ東部の6か国で、約2500万人が食糧危機に直面していると報告した。
 全長5cm前後と巨大なこのバッタは、移動距離が長く、飛ぶ速度も速いため、急激に被害が拡大しており、すでにインドまで来ている。隣接する中国は警戒を強めているというが、FAOの情報によると、7月15日現在、いまだ侵入したという情報はない。
 というのも、寒さに弱いサバクトビバッタが標高の高いヒマラヤ山脈を越せないからとの説が有力だ。いますぐ日本を襲来する心配はなさそうだが、安心してはいられない。日本には日本のバッタによる蝗害(バッタの大発生に伴う大規模な農作物などの被害)の可能性があるからだ。
 日本にサバクトビバッタは生息していないが、過去にトノサマバッタなどが何度も蝗害を発生させている。
 「19世紀以降では、北海道や南西諸島などで蝗害が発生しています。というのも、バッタは開拓などでできた広大な草原と気温30℃前後の好天を好むからです」(あつぎ郷土博物館学芸員・槐真史さん・以下同)
 バッタは背の高い草木を好まず、人間のひざ丈くらいの草が生えた草原を好む。そのため、北海道の開拓地や、空港建設のための広大な原っぱなどはバッタにとって居心地がよく、大量発生の原因になるという。
 では、蝗害はどう終息してきたのか。
 「人間が駆除した例もありますが、長雨などの天候の変化も影響しています。バッタは硬い地面に卵を産みますが、雨で地面が緩むと卵は産めず、仮に産めても卵は水中につかって孵化しづらくなるため、雨は大敵なんです」
 また、関西国際空港のように、大量のバッタにカビが寄生し、終息した例もある。長雨が降らず好天が続き、さらに空港や大型施設新設などのための原野開拓が進めば、今後日本でバッタが再び大発生する可能性は否めない。
 また、地球温暖化が進み、サバクトビバッタヒマラヤ山脈を越えられるようになったら…。想定外の出来事が続くいま、決してあり得ないとは言い切れない。
 「普段はおとなしいのに、大発生すると農作物に壊滅的なダメージを与えるのがバッタの怖さ。ガーデニングをする個人宅にもオンブバッタが出て“プチ蝗害”が出た例もあります」
 自宅の庭でも要注意!?

 日本におけるバッタ大発生の歴史
 1880~1884年…北海道十勝地方でトノサマバッタが大発生し、農作物に甚大な損害を与えた。明治政府は多くの国家予算を費やして駆除。
 1938年…北海道の芽室町では推定3800万匹のハネナガフキバッタが発生して農作物に被害が出た。地元が防除に奔走し鎮静化。
 1980年…北海道河東郡鹿追町の河原にハネナガフキバッタが大発生し、周辺の農地が荒らされた。自衛隊も派遣され、焼き打ちや薬剤散布により約7億匹を駆除。
 1971~1974年・1986年…宮古島などの南西諸島でトノサマバッタが大発生。1986年には鹿児島県の馬毛島で大発生。駆除するも手に負えず、その後カビの一種の菌がバッタに寄生し、終息した。2013年の夏にも少雨傾向で宮古島来間島でヒゲマダライナゴというバッタが大発生し、サトウキビ畑の葉を食い荒らす被害が報じられた。
 2007年…6月、オープン前の関西国際空港の二期島でトノサマバッタが大発生。駆除も試みたが、最終的には、エントモフソラというカビがバッタに寄生して、感染が拡大して終息した。
 ※女性セブン2020年8月13日号」
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 ウィキペディア
 蝗害(こうがい、英: Locust plague)は、トノサマバッタなど相変異を起こす一部のバッタ類の大量発生による災害のこと。

 日本
 日本のイナゴ
 手稲山口バッタ塚
 日本の古文献でも蝗害について報告されているが、そのほとんどがいわゆる飛蝗(バッタ科)によるものではなく、イナゴ(イナゴ科)の他ウンカ、メイチュウなどによるものと考えられている。狭く平原の少ない日本の土地では、バッタ科(トノサマバッタ等)が数世代にわたって集団生活をする条件が整いにくいため、限られた地域でしか発生していない。また、エントモフトラ属(ハエカビ属・ハエカビ目)のカビを始めとした天敵の存在も、結果として蝗害を抑えていると考えられている。

 トノサマバッタによる蝗害
 古文献から、関東平野などでトノサマバッタによる蝗害が発生したことが推察されている。
 近代では、明治初期に北海道で蝗害が発生したことが知られている。1875年(明治8年)9月27日、道東の太平洋沿岸を台風が直撃し、未曾有の大洪水を引き起こした。十勝川利別川が合流するあたりでは膨大な樹木が流失した結果、広い範囲で沖積層が露出し、ここにヨシやススキなどイネ科の植物が生い茂る草原が出現した。さらに、その後の数年間好天が続いたため、トノサマバッタの大繁殖に適した環境が整った。
 1879年(明治12年)からトノサマバッタ発生の兆し[37]はあったが、本格的な大発生となったのは1880年明治13年)8月のことである。このときは、発生したバッタの大群は日高山脈を越え、胆振国勇払郡を襲った。蝗害はさらに札幌を経て空知地方や後志地方へ至り、また別の群れは虻田へ達した。陸軍はバッタの群れに大砲を撃ちこむなどして駆除に務めたが、入植者の家屋の障子紙まで食い尽くし、各地で壊滅的な被害をもたらした。翌1881年明治14年)にも再び大発生し、この年は渡島国軍川までバッタが進出した。当時の記録では、駆除のため捕獲した数だけで360億匹を超えたという。しかし、まだ入植が始まっていなかった十勝国では耕地が少なく、目立った被害は出なかった。
 蝗害が津軽海峡を渡って本州へ波及することを懸念した中央政府トノサマバッタの発生源の調査を命じた。14名の係官が派遣され、蝗害の被災地を辿ってバッタの群れがどこからやってきたのか現地調査を行った結果、冒頭に述べた十勝川流域の広大な草原に至った。これが日本で三番目に広い十勝平野の「発見」である。この報告を耳にした晩成社は十勝平野への入植を決め、これが十勝内陸への初めての本格的な入植となった。
 蝗害はその後も続き、1883年(明治16年)には道南の日本海側まで達した。晩成社でもバッタの繁殖地の調査を行い、十勝川上流の然別で大繁殖地を発見している。開拓使ではアイヌも動員して繁殖地の駆除を行い、1884年明治17年)には延べ3万人のアイヌが動員された。それでも蝗害は止まらず、北海道では翌年の予算に180億匹のバッタ幼虫の駆除費用を計上するはめになった。しかし、1884年明治17年)9月の長雨によって多くのバッタが繁殖に失敗して死滅し、蝗害はようやく終息した。しかし、以降も昭和の初めまで断続的に観察された。
 北海道の開拓地では、被災地への金銭的な補助の意味合いも兼ね、バッタの卵を買い取る制度があった。札幌市手稲区手稲山口バッタ塚は、住民から買い集めたバッタの卵を砂地に埋めたところに建てられたものであるが、十勝地方にもバッタ塚が残されており、根絶を願った当時の住民の状況を今に伝えている。
 1971年(昭和46年) - 1974年(昭和49年)、沖縄県大東諸島でもトノサマバッタ群生相による蝗害が発生している。また、1986年(昭和61年) - 1987年(昭和62年)には鹿児島県の馬毛島でも3,000万匹のトノサマバッタが発生している。
 21世紀には、2007年(平成19年)、オープン直前の関西国際空港2期空港島でトノサマバッタが大量発生し、蝗害発生の条件となる群生相と見られる個体も見つかっている。環境農林水産研究所・食の安全研究部防除グループによると、6月9日には3,884万匹のトノサマバッタが確認された。大発生の原因は、天敵のいない孤立した島のためと考えられている。関西国際空港側は、薬剤散布で防除(駆除)し、100万匹を割ったところで防除を打ち切った。最終的に、エントモフトラ属のカビ感染により、トノサマバッタの大発生は終息した。
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