⛅10:─2─忠君愛国の鑑となった沖縄出身帝国軍人達。~No.29 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 昭和天皇は、話し合いによる平和を望み、日本人に犠牲を強いる戦争には不同意で、一人でも多くの命を救う為に戦争の早期停戦を望んでいた。
 そして、ヒトラーホロコーストから逃げて来た数万人のポーランドユダヤ人難民を救うという歴史的人道貢献に関与していた。
 昭和天皇の御稜威や大御心を、無視し踏みにじったのは日本人であり、叶えようとしたのが東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯達と日本陸軍であった。
 日本に増える、昭和天皇を憎悪・嫌悪する反天皇反日的日本人達。
 日本の歴史教育は、昭和天皇に対する天皇の戦争責任や戦争犯罪を厳しく問う事を止めない。
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 戦争において、現代に日本人とは違って沖縄県民は天皇と国を守る為によく戦った。
 現代日本人には、当時の日本人はもちろん沖縄県民やアイヌ人の気持ちや思いなどはとうてい理解できない。
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 戦争で死んだ沖縄出身の将兵対馬丸の学童、従軍看護婦、女学生、そして軍馬・軍用犬・軍用鳩らは、全て靖国神社の祭神として祀られている。
 反戦平和派市民団体や護憲派人権派は、その事を知りながら靖国神社を否定している。
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 松本健一昭和天皇伝説』(河出書房新社、1992年)
 「国民のすべてが(とくに戦後は)それぞれにじぶんのことを考え、じぶんの愛する人を想い、じぶんの家の永続性を祈り、じぶんの属する集団や共同体の利益を図るときでさえなお、一人でいいから、ほんとうにたった一人でいいから、国民のことを考え、想い、祈り、図ってくれる人がいてほしい。
 そのような幻の人を思い描いて、この昭和という時代のなかで、2・26事件の青年将校は『大御心にまつ』といい、戦争中の特攻隊員は『天皇陛下万歳!』と泣き苦しみながら死に、水俣病の患者は『て、ん、の、う、へ、い、か、ばんざい』と呻いたのではなかったか」
 「制度的な意味で権力から切れた戦後の昭和天皇は、……『民の心を抱きとめて、いつくしむ』ことこそが天皇政治の本質であるとおもい、つとめてそのように振る舞おうとした」
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 沖縄出身帝国軍人
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 親泊朝省(陸軍大佐)
 親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年明治36年)9月18日 - 1945年(昭和20年)9月3日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄県出身。大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官。
 略歴
 1918年 熊本陸軍地方幼年学校入学
 1921年 陸軍士官学校(37期)騎兵科入学
 1925年 陸軍士官学校騎兵科を首席で卒業
 1928年 陸軍中尉
 1934年 陸軍大尉・騎兵第25連隊中隊長
 1936年 陸軍大学校馬術教官
 1937年 参謀本部副官
 1940年 騎兵学校教官
 8月 第38師団参謀
 1942年 陸軍中佐
 1943年 陸軍士官学校教官
 1944年 大本営報道部員
 1945年 陸軍大佐。戦艦ミズーリ号で日本が降伏文書に調印をした翌日(9月3日)、妻と子二人とともに拳銃自決。
 比島決戦の歌
 フィリピン戦を目前にして国民の士気を煽る必要から、敵将ニミッツマッカーサーの名前を入れるように要望があった。しかし打ち合わせで西條八十がそれを断ると出席していた陸軍報道部の親泊中佐がその場で「いざ来いニミッツマッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」と代筆してこの曲が出来上がった。
 後にレコード会社が古関裕而の全集を発売する時、この歌のレコードと楽譜が見つからず、古関本人に尋ねたところ「もうこの歌だけは勘弁してくれ」とレコード化を拒否されたという。
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 漢那憲和(海軍少将)当時の大正皇太子、のちの昭和天皇が御搭乗された欧州御巡遊の御召艦・香取の艦長。また、日本海海戦では、音羽に搭乗し、同海戦勝利に貢献。
 漢那 憲和(かんな けんわ、1877年9月6日 - 1950年7月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員海軍兵学校27期卒。
 大正時代、当時の皇太子(昭和天皇)の欧州遊学の際、御召艦「香取」の艦長を務めた事で知られる。退役後は地元・沖縄県選出の衆議院議員となった。戦前最後の沖縄県選出議員の一人である。
 経歴
 1877年(明治10年) 漢那憲慎・オトの長男として琉球国那覇西村(現・沖縄県那覇市西)に生まれる。
 1892年(明治25年沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校、現在の沖縄県立首里高等学校)に入学。同期に伊波普猷がいた。
 1895年(明治28年)4月 連合艦隊旗艦「松島」が那覇沖に投錨した際、佐野常羽少尉と出会う。海軍へ進むきっかけとなる。
 同年11月 尋常中学校ストライキ事件が発生。首謀者の一人と目され、退学処分された。
1896年(明治29年)11月 海軍兵学校へ入校。沖縄県出身者として初。席次は123名中、4番の成績であった。
 1899年(明治32年)12月 海軍兵学校を卒業。卒業者113名中、3番の成績で、恩賜の双眼鏡が授与された。
 1900年(明治33年)7月 約6ヶ月の遠洋航海を終え横須賀に帰港。「橋立」乗組となる。その後、「金剛」「磐手」の航海長をつとめる。
 1905年(明治38年) 第三戦隊所属の巡洋艦音羽」に乗り組み日本海海戦に参加。
 1906年明治39年) 海大乙種学生を卒え、翌年、海大航海術専修学生(のちの航海学校高等科学生)を首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜される。
 その後、兵学校教官兼監事を命ぜられ、35期から38期までを教える。この生徒の中に、南雲忠一などがいた。
 1909年(明治42年) 「宗谷」「阿蘇」二艦の練習艦隊で、旗艦「宗谷」の航海長兼指導教官として参加、北太平洋を航海する。
 1910年(明治43年) 少佐に進み、海大甲種学生となる。その頃、尚泰侯爵の五女政子と結婚する(漢那33歳、政子18歳)。
 1914年(大正3年) 海軍軍令部参謀兼海軍大学校教官となり、まもなく中佐に進級。同年、第一次世界大戦が勃発。
 この頃教えた甲種学生の中には、山本五十六などがいた。
 1916年(大正5年)5月 大戦下の欧州視察を命ぜられ、約11ヶ月を費やして、ロシア、スウェーデン、イギリス、フランス、イタリア、スイス、アメリカの7ヶ国をつぶさに視察。
 大正6年(1917年)12月 「対馬」艦長に補せられる。
 大正7年(1918年) 大佐に進級し、同年12月、軍令部参謀(軍令部第四課長)に補せられる。

 1920年大正9年)10月 「香取」艦長に補せられる。
 1921年(大正10年)3月3日から9月3日まで、御召艦香取艦長として皇太子(のちの昭和天皇)の欧州遊学に同行。同年12月、「扶桑」艦長に補せられる。
 1922年(大正11年)12月 「伊勢」艦長に補せられる。
 1923年(大正12年)12月 海軍少将に昇進と同時に横須賀防備隊司令に補せられる。
 1924年大正13年)12月 軍令部出仕となる。
 1925年(大正14年)8月 待命となり、12月に予備役編入となる。
 48歳での予備役編入を聞き皇太子(昭和天皇)は「なぜ、漢那がそんなに早く予備役になるのか」と洩らしたという。
 海軍を退役後、郷党の熱烈な懇請により、政界への進出を決意。
 1928年(昭和3年) 沖縄から衆議院議員に立候補して当選、以後、当選5回、勤続10年におよんだ。5回のうち4回は最高得票であった。
 1939年(昭和14年) 平沼内閣の内務政務次官をつとめる。
 1942年(昭和17年) 選挙遊説中、妻が過労による脳卒中で倒れる(一命は取りとめたものの半身不随となる)。
 1945年(昭和20年) 衆議院議長候補に擬せられる。
 4月、米軍は沖縄本島に上陸。
 6月14日 小禄にあった海軍部隊は全滅。
 翌15日 米内海相に招かれ、6月6日付沖縄方面根拠地隊司令官大田実少将からの訣別電文を見せられる。漢那は、肩を震わせて嗚咽を堪えていたという。
 1946年(昭和21年)1月 公職追放令により失職。
 1949年(昭和24年) このころから嫌な咳をするようになり、翌年には吐血するようになった。診察をうけたところ、肺癌と診断された。
 1950年(昭和25年) 東京都にて死去。73歳。
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 当山全信(海軍中佐)
 当山 全信(とうやま ぜんしん、1910年(明治43年) - 1945年(昭和20年)1月23日)は、日本の海軍軍人。「伊48」潜水艦長として「回天」作戦中、米駆逐艦に乗艦を撃沈され戦死した。最終階級は海軍中佐。
 生涯
 沖縄県の出身である。沖縄一中を経て1931年(昭和6年)11月、海軍兵学校(59期)を123名中32番の席次で卒業。運動神経に恵まれ、柔道は三段である。当山は潜水艦専攻士官となり、潜水学校甲種を卒業して潜水艦長を歴任する。「伊169」、「伊38」潜水艦長として歴戦し、「伊48」艤装員長となる。同艦は竣工後に第六艦隊に編入となり、1945年(昭和20年)1月8日、回天特別攻撃隊金剛隊として4隻の「回天」を載せ出撃した。この作戦行動はウルシー泊地に在泊する米国艦隊を攻撃目標とするものであったが、当山は作戦計画に反対であった。同泊地に対しては、前年の11月に回天菊水隊による攻撃が行われ戦果を挙げたが、1945年(昭和20年)1月11日に攻撃を行い、さらに1月21日に攻撃を行うというもので、当山には21日の攻撃が命じられた。同じ攻撃を三度繰り返す危険を訴えたが受け入れられず、当山は出撃し、同泊地に向かった。しかし、西太平洋における米国艦隊の重要拠点の警戒は厳重であり、「伊48」は離脱することができず撃沈され、当山は戦死した。
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 長嶺亀助(陸軍少将)
 長嶺 亀助(ながみね かめすけ、1884年明治17年)5月1日 - 1975年(昭和50年)10月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。
 経歴
 沖縄県出身。農業・長嶺松助の孫として生れる。沖縄第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第24連隊付となる。歩兵第24連隊大隊副官などを経て、1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(第28期)を卒業し歩兵第24連隊中隊長に就任。
 1917年(大正6年)12月、参謀本部付勤務となり、1918年(大正7年)2月、中国出張を命ぜられ、同年9月から1920年大正9年)7月までイリに滞在し、同年12月、北京に到着した。1921年(大正10年)8月、関東軍司令部付となり、1922年(大正11年)4月、歩兵少佐に進級。1924年大正13年)3月、歩兵第6連隊大隊長に就任し、1925年(大正14年)2月、飛行第1大隊付となり、同年5月、兵科を航空兵に転じ航空兵少佐に任官。同年8月、航空兵中佐に昇進[1]。1927年(昭和2年)7月、下志津陸軍飛行学校教官に就任し、1930年(昭和5年)3月、航空兵大佐に進んだ。
 1930年12月、飛行第6連隊長に就任。1931年(昭和6年)11月、関東軍飛行隊を仰せつけられ、満州事変に出動した。1932年(昭和7年)6月、飛行第6連隊長に復帰し、1933年(昭和8年)3月、所沢陸軍飛行学校教育部長に就任。同年8月、同校幹事に転じ、1934年(昭和9年)8月、陸軍少将に進級した。1935年(昭和10年)8月、陸軍航空本廠長に就任し、1936年(昭和11年)8月に待命となり、同月、予備役に編入された。
 1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)まで特殊軽金属会社社長を務めた。
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 渡名喜守定(海軍大佐)元日本海水学会長
 渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 1993年2月1日)は、日本の海軍軍人。
 経歴
 海軍兵学校50期卒。太平洋戦争中は海軍軍令部参謀、南西方面艦隊参謀、大本営参謀兼海軍大学校教官、福山海軍航空隊司令にて階級大佐で終戦。戦後、沖縄に帰郷。
 帰郷後は沖縄銀行役員、琉球捕鯨協会会長、琉球漁業社長、琉球水難救済会会長、琉球海外移住公社理事長、沖縄観光開発事業団理事長などを歴任。 特に、観光開発事業団理事長の際には旧海軍司令部壕の修復に尽力した。
 またオランダで駐在武官として任務にあたっていた際、ヒトラーのオランダ侵略を事前にオランダ当局に警告し、当局の対応措置によって被害が軽減されたことから、オランダ政府よりオレンジナッソウ勲三等が与えられた。オランダでは同国の現役の中将大将でも勲四等しか与えられない中、当時38歳の日本の一中佐であった渡名喜への勲三等の授与は異例のことであった。
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